20231231

日記273

文化珈琲店

2023/12/30 昨日
午前中にスタバに行って日記を書いたあと、昼に友人と集まって家でボードゲームをする。AZULで遊んでからまだ日があるうちに散歩に出かける。緑道から池尻方面にすすんでから代沢に戻り北澤天満宮に寄る。その後池ノ上に行って昔住んでいたアパートの前を通って下北沢駅前に戻る。昔住んでいた場所に三人で行くと、三人それぞれで昔のことを思い出し、自然その時の話になる。東京に来たての頃から三年目ぐらいまでは振り返ってみたときに青春の感がある。
下北沢で晩飯として買って帰ろうと思っていたピザ屋ではピザが売り切れていて、あえなく晩ごはん難民になる。仕方なく途中のセブンで冷凍食品を買って帰る。M-1グランプリの敗者復活や準々決勝を見ながら食事をして、そのあとポケモン図鑑かるたで遊ぶ。ポケモン図鑑かるたは僅差で優勝した。
ちょっとした会話で、友人が人間関係などの悩み・問題を抱えているという話をする。自分んには与えられた情報から合理的に考えようとして本人にとって言いにくい箇所や込み入った部分の事情を考えないで問題の根本原因をつかもうとしてしまう傾向がある。そもそもアドバイスや解決方法の提示を求められているわけではないというのはわかるから話を受けての感想を言うしかない。
終電ギリギリになって慌てて帰る友人に年末年始をやり過ごすためのLシステインを友情プライスで分けてあげる。もうすこし時間に余裕のあるほうの友人は駅まで送る。M-1グランプリのなかでもっとも代えが効かない存在として、司会の今田耕司のすごさを語りたかったが、今大会での今田のよくなかった部分について言及しようとした友人の意見と食い違った。優勝決定のプロセスとしての採点に影響するようなことを司会者は言うべきではないというのが向こうの主旨だったが、まず司会者の一言で審査員の採点が動くことはないというのが反論としてある。それからM-1グランプリというのはいちコンクールである前にテレビ番組だというのも考えられるべきポイントで、番組全体の成功のためにはネタ部分以外に会場の盛り上がりや審査員のコメント、ネタ終わりや敗退決定時の出場者のコメントが大事になってくる。番組を最大限盛り上げられるかどうかというのはもっとも重要なところで、その部分は司会者の立ち振舞に大きく左右される。採点の厳正さを何よりも重要視し、ネタや審査に影響しないようなやり取りをのぞむのであればアナウンサーに司会をさせればいいが、それをすると優勝者をふくめた出場者全員が損をする結果になるという判断を番組サイドはしていて、その判断は正しいと思える。たとえ中立を欠くような行き過ぎたコメントがひとつふたつあったとしても、全体としてみたときの最適解は今田のバランス感覚になるはずだ。たぶん友人の方でも今田の代えの効かなさについては理解できていると思うが、生放送ということもあって当然完璧というわけにはいかないし、たんに目についた失点について話そうとしただけなのだろう。ただ何についてもそうだが、すごいところについてはそれに慣れてしまって当然のものと考えて、目についた瑕疵を考えなしに指摘するのはあまり良い評価とはいえない。というより普通にわるい評価で、そういうのはSNS的コメントの代表格だと思う。そういうのってみっともないよなということを言いたい。(何かを批判するのが駄目という話ではない。)
ただ今田の代えは効かないと言ったのだが、駅からの帰り道に誰かいないか考えているとひとり適任が見つかった。フットボールアワーの後藤だ。もうすこし時間が経てばちょうどいいM1司会者になると思う。ちょっとだけ夜更かししてキンドルで安く売っていた鉄鍋のジャンを読んでからねむる。

2023/12/31 今日
九時半に起きる。コロナの簡易検査で陰性を確認。かるく雨が降っている影響なのか、かなり温かい大晦日だった。ヒートテックのウルトラウォームを上下に着込んできたのもあって暑いぐらい。十二時前の新幹線で京都に移動する。アマゾンプライムでスーパーマリオブラザーズの映画を見るが、面白くないので一時間ぐらいでやめてしまう。場面場面は興味引かれるのに一連の流れとして見ているうちに冗長に感じられストーリーを追いかけたいという気持ちにならなくなっていった。仕方がないので鉄鍋のジャンの続きを読む。お手本通りの展開や見せ方で料理バトル漫画の参考書のような趣がある。絵に描いたようなダークヒーローの主人公だが、途中の話であっさり敗けさせたうえ、悔し涙までこぼさせるのは印象的だった。あとはスープ対決回でのマジックマッシュルームの配合の話がぶっとんでいて面白い。あそこで一線越えているような気がするけれど、作者はあれで魚住よろしく線を引いたんだと思う。(編集は笛を吹け)
京都についたのが十四時すぎ。近鉄特急で奈良まで帰る。十五時すぎに到着。啓林堂書店が「書院」というTSUTAYAのラウンジのような業態を始めていて面白いと思った。スペースが狭いのと料金が高いのとで奈良に住んでいたとしても使わないだろうけど。シアトルズベストコーヒーで日記を書いて日が落ちるタイミングで家に変える。紅白歌合戦の司会が有吉なので今年は紅白歌合戦がたのしみだ。
昔よく行った場所に行くと、無理に思い出そうとしないでも自然と記憶の扉が開く。そのときの尻尾をしっかりつかんでいたいと思っても、またすぐ遠くへ離れていってしまう。新幹線や特急での超高速移動をしているせいなのかもしれない。それでもA列の車窓から見た景色はそれなりに印象を残すものもあった。具体的には新横浜駅のホームと近江富士。あのときの自分とはもう全然別物のようになってしまった。でもこうやって書いておけばさらに先になって読み返したときにすこしは像を結ぶものだろうか。
今年一回目の日記は「日記57」でこれが「日記273」なので、今年はよく日記を書いた一年だった。そのほかには大相撲を見始める、二作目の小説(中・長編)を書き始める、新しい職場で働き始める、Bと一緒に暮らし始める、uekaramesen_streetでインスタグラム(アカウント)を始めるということがあった。

20231230

2023年に見た映画

 2023年に見た映画(見た順・太字は映画館鑑賞)

  • アバター:ウェイ・オブ・ウォーター
  • モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル
  • イニシェリン島の精霊
  • アントマン&ワスプ:クアントマニア
  • ブルージャイアント
  • エンパイア・オブ・ライト
  • バビロン
  • エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
  • フェイブルマンズ
  • Winny
  • 別れる決心
  • シン・仮面ライダー
  • ジョーズ
  • キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
  • 郊外の鳥たち
  • わすれな草
  • AIR
  • ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME3
  • 燃ゆる女の肖像
  • TAR
  • ケイコ目を澄ませて
  • 怪物
  • 誰も知らない
  • スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
  • 君たちはどう生きるか
  • 83歳のやさしいスパイ
  • アステロイド・シティ
  • 福田村事件
  • マイ・エレメント
  • オオカミの家
  • カモンカモン
  • ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック
  • キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
  • ザ・キラー
  • ゴジラ-1.0
  • ロスト・イン・トランスレーション
  • 王国(あるいはその家について)
  • ファースト・カウ

とくに面白かった映画

  • イニシェリン島の精霊
  • ブルージャイアント
  • エンパイア・オブ・ライト
  • バビロン
  • エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
  • フェイブルマンズ
  • ジョーズ
  • キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
  • わすれな草
  • TAR
  • 怪物
  • スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
  • 君たちはどう生きるか
  • アステロイド・シティ
  • カモンカモン
  • ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック
  • ザ・キラー
  • ロスト・イン・トランスレーション
  • 王国(あるいはその家について)
  • ファースト・カウ


ベストテン(見た順)

  • イニシェリン島の精霊
  • エンパイア・オブ・ライト
  • エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
  • フェイブルマンズ
  • TAR
  • スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
  • アステロイド・シティ
  • カモンカモン
  • ザ・キラー

ベストテン

10位 ザ・キラー
映画館で見なかった映画でランクインした2本のうちの1本。映画館で見ないでも十分緊張感があって時間経過を完全に忘れさせられた。ケイト・ウィンスレットとの会話シーンがとくに面白かった。


9位 首
邦画での唯一のランクイン。もともとの北野映画との比較置いておいて時代物として面白かった。北野映画はたしかに面白いがその文脈でだけ映画を見ようとする人はつまらない映画の見方しかできていないと思う。

8位 TAR
オーケストラの指揮者を主人公に据えてケイト・ブランシェットに演じさせる時点で成功が約束されている。自分には演技の上手い下手はわからないし、とくに女性俳優の演技の巧拙はわからないのだが、TARを演じるケイト・ブランシェットはもうそういう人にしか見えなかった。映画を見終わって、なんだかすごいものを見たという感慨が襲ってくることがある。それの大部分をケイト・ブランシェットに負っていて、しかも映画の目標到達点にしているので彼女の存在感が最大限活かされる。

7位 カモンカモン
上品なヒューマンドラマだった。ホアキン・フェニックスの出過ぎにならない在り方が光る。ドラマが伝えるメッセージが完全に自分好みだったので映画館で見ていないがランクインした。

6位 エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
SF作品を読むようになってSFのこういうところがいいと自分なりに考えるようになったが、そのすべてが詰まっているような映画だった。表向きは物語のなかで発生する問題を解決しているように見せながら、解決できない問題がそのまま残るというのも示していて、そういう二重の見せ方ができるところにSF的な想像力の効用がある。


5位 イニシェリン島の精霊
テーマを絞って劇にしているところから不自然に思われる場面がないわけではないが、自分にとっては関心のあるテーマなので印象に残った。会話などの空気感にリアリティを思わせるところがあるが、リアリティに照準が合っていない。演劇的なエクスプレッションだと思う。

4位 アステロイドシティ
おとぎ話だが空想の種を植えることで現実に干渉しようという気概を感じる。現実を虚構の上位におき、すすむべき目標にしているのではなく、滲出していくアウトサイドスペースとして現実を利用しているような感触がある。この映画ではそういうのをわかりやすくしていて面白かった。

3位 エンパイア・オブ・ライト
とにかく美しいシーンの連続で、見やすく、楽しませてくれる。


2位 フェイブルマンズ
これ以上面白い映画はないのではないかと心配になったぐらい面白かった。

1位 スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース
これ以上面白い映画はない。


上に挙げた39本の映画と、見直した『インヒアレント・ヴァイス』をふくめ今年は40本の映画を見た。年々見る量が減っているが、面白い映画を見れればそれで満足なので問題ない。これ以外に面白そうな映画もとくに見当たらなかった。もしこれ以外に何かあったら教えてください。『PERFECT DAYS』は年明けに見に行く予定。

日記272

追う人待つ人出てくる人

2023/12/28 一昨日
スタバを出たあと、一回荷物を家においてから夜の散歩に出かける。吉祥寺に住んでいたときにはほぼ日課だった冬の夜の散歩は、下北沢では適当な公園の不在によりほとんど実行に移されない。これは井の頭公園の有無というより決まった散歩コースがないことのほうに原因があるような気がする。何も考えないでも足を向ける先があるというのは散歩の頻度に与える影響が大きい。自然公園でなければ散歩したくないという趣味嗜好を持っているわけではないので環七沿いを北か南に歩いて引き返すというだけの散歩コースを設定してもいいかもしれない。冬の夜の車の流れを見ながらというのは、池を見ながらというのに優るとも劣らない滋味がある。

2023/12/29 昨日
在宅バイトの年内最終出勤。ほとんどのタスクを昨日のうちに終わらせたが、残務とあたらしいタスクでなんだかんだ午前中はつぶれた。データアナリティクスの学習もちょっとだけすすめる。昼からは家でボードゲームをやる。退勤後に酒を飲みながらボードゲームの続き。ボードゲームをやっていると指向性が生まれるので確実に最低限面白いが、無意味な逍遥から生まれたり生まれなかったりする隠微なバイブスを確実に損なうことにはなるのでなんというか痛し痒しだ。ボードゲーム時間は手段や動機にはなるが目的にはならない。手段や動機に欠けるがたまに目的になり得る、たまのタイミング以外には何にもならない時間をあらかじめ組み込んでおければいいなということを思った。ただ、そういう指向が出てくるのもボードゲームの副産物だということはいえる。
AZULを三回やって三回負ける。しかしふたり対戦でのAZULの勝利方程式を掴むために必要なトライアルだったのでこの黒星はいわば先行投資だ。ウイングスパンでは最終局面近くでの相手の微妙な長考にイライラするも、99−90(AIプレイヤーは91)のスコアで勝利。ある程度の長さはあるが基本的には単純な足し算をやっていくゲームという感触がある。しかしすべての鳥に特徴があってそのどれもがかわいいのは良いことだ。
友人を駅まで送ってから家に帰る。下北沢の駅は若き浮かれピープルが折り目正しく飲んだくれをやっていて目に楽しい。駅に行ったのがちょうど二十三時台だったのでいちばん盛り上がっている時間だった。小田急の終電時間を過ぎると潮が引くようにほとんど誰もいなくなるのも含めてきっちりしている。帰りがけにOSCARで音楽イベントをやっていてよっぽど入ろうかと迷ったが、明日早く起きてスタバに行きたいし、お腹もすいたしということで寄らずに帰る。「いけ」という指示を出してくれる浅野忠信もとくに暗くなったわけではないがアカルイままで遠い過去のようになってしまった。

2023/12/30 今日
9時前に目が覚める。年末年始休暇は満足いく長さというよりむしろ不満がたまる短さしかないのが嫌だが、それでも連休には違いないので気分が良い。スタバに行って日記を書く。抹茶クリームドーナツを買ったが日記をここまで書くまで手をつけず。日記もこのとおり一段落ついたし、そろそろ空腹を覚えたので食べることにする。このあと昼からTCBの三人でボードゲームの回がある。喋ろう。
2023年に見た映画のベストテンを決める。その過程でそれぞれの映画について書いた文章をちょっと読み返すが、読む用にできていない書く用の文章という感じで、映画を見てつよい印象を受けたんだろうなということが主に伝わってきた。来年はもっと平易に書くことを心がけようと思った。あるいは書いたものを一度読み返して書き直すようにするとか。今からそれをやってもいいがある程度量があってちょっと面倒なのでできない。
そのときの感情に正直に書こうという心がけはそれなりに意味があると思うけど、それ一軸だとそのときの感情がなくなったときにうまく像を結ばない。あと肩に力が入るのもある程度はやむなしだが、意識してリラックスしようとしないとちょうどいい塩梅にならない。

20231228

日記271

公園通り

2023/12/27 昨日
渋谷で『ファースト・カウ』を見る。冒頭から前半にかけて暗い画面が続いたこともあって少しうつらうつらしたが、そこから目が覚めていくにつれ画面の世界に引き込まれていった。劇的なことが起きないわけではないが、誇張された形では表れてこないのでともすると地味な印象にもなりかねないのだが、画面に映る人や物から時間の流れ方まで在りし日のままという感じで、当時のことを見てきたわけでもないのに当時の空気そのままだと言いたくなるような不思議な感覚に陥った。そんなふうに舞台の作り方という土台がきちんとしている映画では、そのほかに上手なセリフや見事な筋立てというのも舞台背景構築の見事さに引けを取らず、これは創作物なんだと思って安心できるということがあるのだが、ファーストカウでは物語としてのセリフや筋立ての妙を抑制することで、ある人物がある時代に生きているということの実在感を最大限汲み上げるよう努めていて、それに成功していた。この映画はウィリアム・ブレイクの「鳥は巣、蜘蛛は網、人は友情」というエピグラフから、冒頭で犬の散歩をしている女性が横並びに並んだ二体の人骨を発見するところから始まる。最初に見せられたものはそれを見る時点では単なる事実であり、それが映されるのはなぜかという謎でしかないのだが、映画が先にすすむにつれ、自然とその意味がつかめるようにできている。そういう演出は冒頭のほかにもところどころにあって、ドーナツを買うための行列に並んでいたのに割り込みにあって自分の順番の直前でラインカットにあう男の心情が、その場面のだいぶあとになってから、それ以外には何も描写されていないのにわかるような気がしたりする。心情を推測したり、先に提示された事実からその後の展開を推し測るという見る側の能力を映画の演出に組み込んでいる。しかも伏線という言われ方をするやり方とは何かが違うように感じられるやり方でそれを提示する。つまり、押し付けるのとは真逆で、それが事実として確定するというところにさえ届かせない力加減で、場合によってはじれったく思われたり、白黒つけてほしいという願望に応えないようなふわふわした手触りになっていて、どこまでいっても見る側で勝手に慮るという域を出ないように、いわば現実の事実に固着させないように固定されている。
この映画は映画らしいパーツの組み合わせでできている映画ではない。
たとえばこの映画には会話するシーンというのもない。何かの作業をしたり、森の中を移動したりするシーンに会話が付属してくるというかたちになっている。ある会話シーンにおける特定の会話が映画全体を意味づけるという設計になっていない。彼らはそのとき会話をしている彼ら自身にとって興味のあるつまらないことしか言わないし、冗談にしても、それがれっきとした冗談で、そのタイミングで言うという以上に面白い内容のものはない。彼らはすごく普通のことをやったり喋ったりしている。それがこの映画の特徴的なところだ。百年以上も前の遠い国の普通を見られるというのはそれが普通らしければ普通らしいほど異常なことだからだ。
そんなふうに迂遠な形で、いわゆる映画らしさを排除しながらすすんでいくのだが、見終わったあと全体の印象としてはこれ以上ないほど映画らしい映画だという感触がある。主にふたりの登場人物を、いわゆる「物語」ではないものを見せられていたはずなのに、ここしかないという地点できっぱり終わることによって、一瞬にして単なる生活が物語に切り替わる。その鮮やかさとエンドクレジットが映画らしさを思わせるのだ。スクリーンに映された世界に入り込む度合いと、そこから現実に引き戻されるスピードが、座ったままでする超高速移動がその体験を映画鑑賞にするといっていい。
また、この映画に直接関係あることなのか不明だが、見ている最中に自分の身体のことを考えた。自分の身体のことを考えると、やがてそれが病みつき、いつかは生命を失うということに考えが及ぶ。今はこうして普通にある身体、が、そこまで遠くない未来には形を保てずに消滅する運命にあるという事実に考えが及ぶ。昨日があって明日がある、今の自分には当然と思えることが当然でも当たり前でもなくなる、しかもそっちが確実だということに、強烈な違和感をおぼえる。これが起こっているとき、かなり最低な気分だ。事実に感覚がついていかない。いくらでも無為に過ごしていたいのに、事実上それが許されていないことに反発するしかない。無意味でもいちいち反発するのはそうすることでしか気を反らせないからだ。
映画のクライマックスで主人公とその友人は追われる立場になり、離れ離れになる。その後、ふたりが再会するようなことがあれば、そのときこそこの映画は最期を迎えることになるという気がなぜかする。だからふたりはこのまま散り散りになって再会しなければいいのにと思ってみていたが、予想通り、ふたりは再会を果たす。これはもうだめだと思う。しかし、冒頭のあの骨はこのふたりとは無関係ということでもいいではないかという気がしてくる。それらを結びつけているのはそれらを見ている自分にすぎない。ふたつの事実をつなげるのも自由だが、それらをつなげないのも同様に自由でこちらの勝手だ。
その儚い自由を握りしめて自分のなかの無理を通したいと念じているまさにその最中に映画が終わってくれた。かなり分のわるい望み薄な希望だが、それにしてもこれは映画だという見方に固執しなければじゅうぶんに逃げ道は続くという意味で、残酷なようでやさしい結末だと自分には感じられた。それは自分が自分を追い詰めないように物事を見ていたいと考える姿勢とセットになっている。現実の事実に固着させないように固定されているあり方というのがこの映画の特徴であり、自分がこの映画のことを好きな理由だ。映画を閉じることで彼らの生活を閉じているようでいて実際には閉じていないというのは無理のある映画の見方だろうか。
自分にはそうは思われない。昨日があって明日があるというのこそが当たり前で、当然いつかはそれが終わりになるというのが今の自分にはそう思われないのと同じことだ。
映画終わりに渋谷のバズストアに行く。かなり久しぶりに来たが閉店時間間際だったのでゆっくり見られず。ファミマの無糖レモンチューハイを買って歩きながら飲み、井の頭線で下北に戻る。鳥貴族に向かう途中で言うべきではないことを口走り不愉快な思いをさせてしまった。何らかの事情で心に余裕のないときによくないことを口走る傾向が自分にはある。親しき仲にも礼儀ありということをきっちり意識していなければならない。鳥貴族で飲むということはつねに楽しいものであらねばならない。
増長した感覚というのは自分にとって大切なものだから扱いに注意して伸ばし増やさなければならない。そのためにはやはり扱いに注意しなければならない。言語感覚やその語彙の少なさについては自信のあるところではあるが、現状で満足ということは言えないから自他の認識の差はおいておいてもいずれにせよ向上させていかなければならない。ならない×4。

2023/12/28 今日
在宅バイト。午前中にデータライフサイクルなどの勉強をする。いよいよSQLとかスプレッドシートとか具体的な操作に関する内容に入る。
昼すぎから降りてきたタスクの消化に入る。ボールを投げたり打ち返したりしているうちに気がつけば定時。しかしさすがにザ行なしで退勤しスタバに行く。

20231227

日記270


2023/12/26 昨日
スタバでデータアナリティクスの勉強をする。氷結無糖を飲みながら帰宅。リッツパーティーの続きをする。

2023/12/27 今日
在宅バイト。久々にゆるゆる過ごせた。ザ行なし。すた丼食べてから渋谷に出る。渋谷をすこし歩き回ってコーヒーを飲んでからヒューマントラストシネマでファースト・カウを見る。

20231226

日記269

ネクストデイ

2023/12/24 一昨日
昼から自宅に友人を招いてのホームクリスマスパーティー。午前中に代々木上原の有名ケーキ店Asteriskまで予約ケーキを取りに行ったり、リッツにのせるディルを買いに行ったりする。ボードゲームで遊んだり、監視カメラシステムで異常が発生していないか確認して異常があれば報告する怖いゲームで遊んだりする。夜からはM-1グランプリを見る。友達と一緒に見るときにはいつも採点しながら見ているのだが最初に3連単予想をしたせいで採点に願望が混ざってしまってよくない採点になった。採点するなら3連単予想をしない、3連単予想をするなら採点をしないときちんと線引をしておくべきだと学んだ。3連単予想は一位から真空ジェシカ、マユリカ、さや香で、結果的に3位だけ当たった。よく知らない勢と水物のモグライダーが軒並み低調だったので、盛り上がりに欠けるとは言わないまでも爆発はしていないように見えた。令和ロマンだけは、優勝する、爪痕を残すというよりも番組を盛り上げるために自分たちにできることをするという完全に頭一個抜けた挙動をしていて、やりたいネタをやるために決勝まですすんできたさや香とタレントとしての格の違いを見せつけていた。だけどもちろん、どちらがより面白いかというのを度外視すれば当然さや香を支持する。込みでもぎりぎりさや香を支持する。もう自分の中では「お笑い」というのはどちらがより面白いか、どちらがより笑わせるかという観点に留まっていない。もともとそういう嗜好重視の傾向はあったが、M-1グランプリはそれを明らかにさせてくれた。やっぱりエゴイストが一番だ。友人のつけた点数と彼女のつけた点数、自分のつけた点数を写真に撮っておいた。友人の採点では決勝3組は実際と同じくヤーレンズ、令和ロマン、さや香。彼女の採点では真空ジェシカ、ヤーレンズ、あとは令和ロマンとマユリカが同点。自分の採点では真空ジェシカ、ヤーレンズ、さや香とマユリカが同点。我々三名が審査員に加わっていたとしたらヤーレンズが優勝していそうな結果だ。

2023/12/25 昨日
出社日のため早起きして大崎に向かう。ばたばた働いて一瞬で退勤時間になる。30分ほどザ行発生したあとはまっすぐ退勤し、少しだけ下北スタバにいく。その後クリスマスイベントのために街をうろちょろし、九時すぎには疲れて帰宅。Bをサンタに扮装させて彼女の帰宅を待つ。仕事で彼女の帰宅時間が遅れ、スタンバイしていたBが眠ってしまう一幕があったものの一応はクリスマスになった。酒を飲まずにねむる。それは良いのだがつまらない動画を見ているうちに夜更かしになってしまい、就寝が一時すぎになる。

2023/12/26 今日
在宅バイト。降って湧いた尻拭いタスクをこなし、その報告も済んだので心の重しが取れたようで退勤後は気分が殊更よかった。近所の雑貨屋で前から目をつけていたかっこいい壁掛け時計を見に行く。まだ残っていたのでプレゼントとして購入。これからは居間にかっこいい時間が流れていくことだろう。その後スタバにきて日記を書く。

20231223

日記268

冬の行列(ラーメン店)

2023/12/22 昨日
『数の値打ち』を読み終わって、この本から得られた洞察について考えないといけないと思いつつ、すべての読書がそうであるように得たものの大きさに比例して手間がかかるのは確実なので尻込みしてしまった。内容について理解したところを書くというのはついさっき読んだものについて読むことを繰り返すみたいで気が進まない。要約やサマリーを書いてもしょうがないという気持ちがある。この場所では自分にとって意味あると思えることしかやりたくない。内容理解に難があって、同じ本を読んでこの要約を読んだ人から「ちゃんと読んだのか」という疑念を持たれるのがこわいというのもすこしあるのかもしれないと考えたが、よくよく検討してみるとそういったことはなく、本を読むときにいつもそうしているように、今回も自分なりに理解しただけのことだ。
自分には自分のものだと捉えている「文学観」がある。それは文学として読んできた個々の作品から形成されていると自分では認識しているが、同時にそう誘導されたものだということが明らかになった。自分としては自分の好きなように自分の道を歩いてきたつもりでいたいのだが、どう考えたいと思おうがあらかじめ線が引かれているというのは動かせない事実のようだ。
たとえば自分には王道志向がある。サブカルチャーという文言もメインカルチャーの下風に立つものという認識が拭い去れず、遠ざけたく思っている。だからサブカルという言葉は使わないし、自分の通ってきた文物こそ主流だという考えがほとんど無意識下にあるような状態に自らを教化し馴致してきた。だから「真実はひそかに囁かれるように囁かれるものだ」という考えには馴染みがあるし、大声というのはほとんど笑いの対象だと感じてもいる。その野蛮にみえるところに脅かされる部分もあるにはあるが、あまり深くとらわれることがないよう笑って受け流すということを無意識にやっている。自分が差別や差別構造に対して冷淡な方であるというのは以前から感じていたことではあるが、本を読むことでそれを強化しているというのは初耳だった。初耳ではあるが、読書することで偏っていった自分の考え方を点検してみると納得がいく。自分は特権的な立ち位置を求めて読書しているからだ。図書館にいったときに感じられる図書館の意味というのは、それまでに読んだ本によって積み上げられるもので、段差は実感としてそこにある。とくに印象深かった作家の本が陳列されてある一角は、それらの作品を読む前と読んだあとでは明確にその存在様式を変化させるものだ。そして、できるだけ高いところに立って、遠くまで見晴らせるようになりたいというのは自分の意図するところでもある。
段差があるというのは何かを踏むことでその分だけ位置が高くなるということだとすれば、自分が段差の分だけ高いところに上りたいと思ったとき、何を踏んでその分の見晴らしを得ているのかというのはもっと考えられていいことなのかもしれない。自分としては読みおわった本の上に立ってその分だけ見晴らしを得ているというイメージを持ちたいと考えているが、実際にはそれとは全然違うものを踏みつけにしているかもしれない。
『数の値打ち』の第五章で、大声で語られるというコンテキストについて、大声を張り上げる必要があったから大声で語られた、彼らは真実を囁いている場合ではなかったと当時の社会における被差別の構造を明かされたとき、もともとの自分にとっても馴染みのある文学的な価値観である「真実は囁かれる」というコンテキストが一気に相対化され、寄り掛かるには頼りなくなった。
そういった構造について知ってはいても、本当にわかってはいないということもあるだろうし、すべてを織り込んでいこうとする過程では、ただ一度見ただけなのに「その道はもう通った」として無視して通り過ぎようとすることも起こりうる。自分のいる場所を定位するにあたり、できるだけの正確さを期すために必要になる要素は数多い。あまりの多さにどこかしらを端折らずにはいられないだろうし、要約する過程で必要不可欠な部分を削ってしまったりもするだろう。正確さにどこまでコストを割けるかという問題もある。そう考えると技術の習得というのは問題に取り組むために必要不可欠なものだ。何の技術かといえば数をあつかいそこから洞察を得る技術だ。

2023/12/23 今日
ビルの金庫強盗に失敗したが現場からの逃走には成功する夢を見る。突入してきた警察官に中に武器を持った連中がいるから保護してほしいと訴えたら「そこのエレベータで下に降りて」と指示を残して中に入っていったので、非常階段から逃げた。とにかく現場から遠くに離れようと思ったが、最寄り駅を使うのは監視カメラシステムに引っかかってまずいと考えたので、バスで違う駅まで移動してそこから東京に帰ろうという計画を立てた。普段奈良でバスを使わないのでバス路線のことが全然わからず、ちがう駅に行けるバスがなかなか見つからない。そもそもそんな工夫をしても結局は捕まるんだろうなと暗い気持ちになった。警備員を三人も撃ってしまっているし、死刑になるんだろうと考えてお先真っ暗な嫌な気持ちだった。
九時に家を飛び出してスタバにいく。冬特有の寒さでとくに朝晩は冷え込むので五分そこらの移動だけで手指が冷たくなったが、雲ひとつない快晴で気分がよくなった。逮捕される気遣いなしで青空の下を自由に歩けるというのが何より素晴らしい。データアナリティクス講座のモジュール2を進める。日記を書く。

20231222

日記267

夜の現場ダンス

2023/12/21 昨日
スタバからの帰り道にお酒を飲んでしまう。ひとりのときには酒を飲まないという禁を破ったわけだが、今後はそういうことがないようにしようと思いながら酒を飲んだ。坂本慎太郎の歌を聞きながら歩いて帰宅。鍋の残りに白菜と冷凍豚ばらを入れて食べる。あと納豆。それ以上余計なことはせず、はやめにねむる。

2023/12/22 今日
在宅バイト。緩められる日には限界まで緩めてしまう。昼間に昼寝もできて調子が良い。タスクを微妙に来週に回して定時であがる。スタバにきて『数の値打ち』を読み終える。そういう読み方をする人は少なそうだけど、自分自身の特権的な立ち位置を確認するためにも数を使うのは良いアプローチになるのではないかということを思った。自分自身の匂いを知るために無臭室に入るみたいな。この本もきっかけのひとつになってデータサイエンスの勉強をしようという気になり、資格取得に向けてgoogleのコースに登録した。期間限定・先着で無料だったのが始める動機として大きかったが、セキュリティのコースにしてキャリアにつなげようではなく、違う分野のことを学んでキャリアを変えようという意識がはたらいたのは、年末特有の新しいことを始めたいという気分もあるが、こんなつまらない仕事ばかりやっていてもしょうがないという最近の仕事のつまらなさと先のなさの実感が大きい。バイトはバイトだから何でもいいなんて内気なことを言っていないで少しでも面白さを感じられる方へ動いていかないと、時間の無駄が大きくなっていく一方だ。データ操作の心得が自分の小説に活かせるのではないかという漠然とした期待もある。そういう期待感が実際にはいくら事実から遠かろうが、それがなければ何も始められないのも確実なので、よくわからないままとりあえず始めてみることにする。ちょうど読む本も途切れたところだし。

20231221

日記266

高架下横

2023/12/20 昨日
九時頃に帰宅。ぶり照り焼きと豆乳鍋の残りを食べながら宮崎駿のドキュメンタリー番組を見る。『君たちはどう生きるか』という作品の見方について番組がかなり誘導的に方向づけしているとともに物語のクライマックスの映像を長々と使うということを堂々とやっていて、スタジオジブリの凋落を感じた。作品の質がどうこうというのではなく、メディアとのパワーバランスにおいて成されるがままという印象を受けた。こういうストーリーでドキュメンタリー作品を見せたいという番組ディレクターの演出に安々と沿わされているように見えて、それが柳のように老獪な手段だったらいいなと思うが、どうもそうは受け取れなかった。
方向づけは過剰だったが宮崎にとって高畑勲イシューは間違いなく大きいのだろうから、それを意識できたのはやっぱり良かった。大伯父の最後のセリフのアフレコにこだわったというエピソードには迫力がある。
早めに寝るのが肝要と心得てはやめにねむる。

2023/12/21 今日
朝起きる前に夢をみる。夢というか考えが頭の中をただ通り過ぎるというもので、仕事上の気になっていることが通り過ぎていくのには閉口してしまった。そんなことになったら起きてしまったほうがましだと思うが、それで寝不足になるのも嫌だし、踏ん切りがつかないうちにすぐ起床時間になる。仕事で考えることが多いせいで、休み時間にまで仕事のことが侵食するのは許せない。
在宅バイト。しゃかりきに働かないかぎり定時では上がれないという状況が続いていてつらい。しゃかりきに働いてもザ行が発生することもあって普通にありえない。もっとお金をもらわないと割に合わないという気がしてきている。この日はしゃかりきに働いてザ行なしで済ませる。終わってすぐスタバに出かける。

20231220

映画『王国(あるいはその家について)』をみた

『王国(あるいはその家について)』というタイトルのことを考えると、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』というタイトルが思い起こされる。
どちらもやや変わった映画だという特徴があるが、とりたてて共通点があるというわけでもない。もちろん、どちらも劇映画ではあるし、俳優が画面に登場するというレベルで共通点がないわけでもない。ただ、タイトルが似ているとちょっと思っただけだ。
バードマンはワンカット撮影という変わった手法で撮影されている。自然、観客は主人公の主観に付きっきりで付き合わされる。ある人物の主観というのは、主観を持つ人にとっては自明のことであるが、その人物の内側にある。その人物の目からその人物の主観が始まっている。これは自分自身の主観を持っている人からすればわかりやすく、常識的に理解されやすい約束事だ。ただし、主観といいながら自分一人だけでそれを構築せずに、他人を巻き込んで主観を構成する場合というのも考えられる。主観というのが内と外の内にあるとするとき、その内を自分一人だけではなく、たとえば仲の良い他人と共有することもできるという感覚を持つことはめずらしいことではない。先の「主観」観とは異なるものの見方ではあるが、それでもこちらの主観についても、ある人にとっては十分常識的に理解されやすい約束事だといえる。
主観を共有するとき、自分以外の他人のことが理解できてしまうということが起こる。なんとなくで理解できてしまうということ自体、じつはかなり特異なことではあるが、そういったケースは数多い。
『異邦人』という小説がある。なぜ殺人を犯したのかを人に説明することができない主人公の話だ。『王国』の主人公の立場もそれに似ている。両者が異なるのは、『王国』のほうは自分ひとりで誰にも説明できないというのではないというところだ。彼女は相手にむけた手紙の中で言う。
「わたしの話を理解できてしまうと思います。そのことで自分を責めないでください」
『王国』は理解できないはずのことがなぜか理解できてしまうということについての映画だ。その点で『異邦人』とは真逆の話だともいえる。理解のために必要なのは、話し手の工夫や微に入り細を穿つ表現などではない。受け手にとっての時間だ。話し手と向き合う十分長い時間さえあれば、何を言っているのかについて理解できないのにもかかわらず、何を言っているのかが理解できてしまう。『王国』において声が何度も反復されるのは、その時間をゆっくり受け取るためにもっとも効果的なやり方だからだ。たとえば、差異のための反復というのは映画の時間を退屈しないで過ごすための方便にすぎない。映画を面白く見るためにそういった方便は欠かせないし、面白い映画にとってはその方便こそが本質だったりもする。俳優の身体性、演技の一回性といった表現目線からも面白い映画ではある。演技の上手い下手ということに感心がある人にとっては、何度も同じ場面が演じられるのを見て示唆に富むと感じられもするだろう。しかし、声の反復はそういった周縁の事情のためにあるのではない。受け手が理解するのに必要十分な時間を持つためにある。

王国が成るために、実在しない三歳児の犠牲が本当に必要だったのかということはもっと考えられてもいいことだ。誰かがべつの誰かを理解することは、できないとは言わないまでも困難だということ。それは常識的に理解されづらい事柄なのだろうか。王国には王様がいるというのと同じ水準で、溺死する三歳児は王国にいるべきなのか。当然いるべきだからいるのだろう。そういった仕掛けがなければ、会話をただ見るだけでは緊張感を持続できない観客への罰という側面もあるようだ。そして、王国が外部に向けてそれが王国だと証そうとした瞬間、たちまち王国ではなくなるとすれば、主人公の手紙はやはり相手に理解されないだろう。誰にも理解されないということはないにせよ、相手には理解されないはずだ。だから結局、『王国』は『異邦人』とは真逆の話のようでいて同じ話の別バージョンということになる。それは支払うべき代償だといえようが、そこに注意引かれるあまり、場所において主観を共有するということの可能性に対して、しっかりその輪郭をなぞれないとすれば、それは本末転倒だという気がすこしする。

日記265

曲がり角

2023/12/18 一昨日
映画を見に行ったらトークショーがついてきた。知らなかったとはいえ帰るのも何だったので残って話をきく。岡田利規という小説家と監督が話をしていた。帰りに映画館の前でポスターをみると翌日のトークショーゲストが濱口竜介で、知らぬことだったとはいえ一日誤ったと思った。同行の彼女ともども腹を減らしてまっすぐ下北沢に帰る。すき家で牛丼ライトを食べる。こんな健康志向の食べ物を普通にチョイスする日が来るとはなあとじつはこっそり感慨深かった。氷結無糖500を飲みながら寒さにシャキっとしながら帰宅。そのままつい話し込んでしまい夜更かしになる。映画の話はしなかったが映画の影響はありそうな話の内容だった。いや、人にどう思われるかとかセールスポイントは何かという話なのであまり関係ないか。関係ないようであると言えるかもしれないが、それを言い始めたら何にでも言えることになる。まあ何にでも言えるのがわるいというわけじゃないが。

2023/12/19 昨日
6時間ちょっとの睡眠時間しか取れずに一日不調だった。在宅バイト。ザ行を2時間以上する。もうやぶれかぶれでそのまま家から一歩も出ずに鍋を食って宇宙に行くゲームをして早めにねむる。前夜に夜更かししたのがわるい。

2023/12/20 今日
在宅バイト。相変わらず追いかけられるような仕事内容でしゃかりきにならざるを得ない。それでもよく寝たから機嫌はわるくなかった。仕事は嫌だが、風邪を引いたときのだるさに比べるとそこまでつらくはない。やっぱり体調第一なんだと思う。昨日よりも頭が働くのでできるだけ早く仕事を切り上げ、ザ行1時間程度で家を飛び出してスタバにくる。

20231218

日記264

オイリュトミー(良きリズム)

2023/12/17 昨日
10時半頃にスタバを出て、大井町を散策しながらゆっくり会場を目指す。途中で公営の貸し会議室(?)の建物「きゅりあん」に出くわし、昔、マルチ集団のボードゲーム会に参加したことを思い出す。懐かしくも残念な思い出なので、三人いればわりと心丈夫とはいえ、怪しい勧誘が始まったらどうしようと不安になる。たどりついた会場はふつうの一軒家だった。少しずつ人が集まってくるにつれ、心配は次第に杞憂へと変わっていったものの、ひと安心の領域をこえてどんどん安心していくのはどういうわけだろうと若干訝しんだが、目の前に繰り広げられているのがちょうど学生クオリティのパーティであのときの行き当たりばったり感に包まれたからだとやや遅れて理解した。円町と白梅町のあいだ、大将軍だったか、東さんの家でパーティをしたことを懐かしく思い出した。
参加者のひとりが小説を書いていると言っていてものすごく興味を惹かれてしまい、つい会話に参加したが、当然自分の書いている小説へも社交的な質問があるということにまで頭が回らず、間を埋めるために一言二言書きかけの小説について喋るということをやってしまった。喋るのであれば徹底的に喋るべきだったと後悔した。
■今書いている小説について
・賢い・知性ということについて興味がある
・IQのような定量的な指標でだけ測れるものではないと思っている
・リニアに進んでいったり、退いたりするものでもないと思っている
・かといってそういう考え方に立ってミスティックな扱いをすることにも抵抗感がありごく簡単に定量的に取扱いたいような気持ちもある
・上記のように自分の視点からは、賢いというのは反対成分を豊富に含み、丸くてよく転がる観念だというイメージがある
・そのイメージで遊びたいと考えていて、そのためには論理に近づいたり離れたりする必要を感じている
・それには小説という形式がふさわしいと考えている
■小説を書くことについて
・ひとりで何にも遠慮せずにすすめられる良さがある
・ごくふつうの社会生活においては相手に伝わるように言い分を全開にしないというごく普通の配慮を行っているが、それがすべてになると日常生活では使わないジャンプ力というような能力の死角が生まれ、ジャンプできるのにジャンプしようとしない生活が完成してしまうので、それを食い止めるようにしたいという考えが第一にある。
・いつも誰かに遠慮して自分の考えだったり感じ方を抑え込んでいるようでは楽しみが削られる
・感じていることや考えたこと、とくに感じたことを嘘だと思いたくないという気持ち
・ちょっと時間が経過すれば起こったことがすべて嘘だったかのようになくなっていくことへの抵抗

スマドリを意識して開幕ノンアルビール、4%の氷結無糖350×2で4時間(追加時間45分の外時間)の会を楽しんだ。主催の女の子とTinderでマッチして誘われたのでパーティにきたという男の人が面白かった。やわらかくてよい空気をまとっていた。Tinderでマッチした人からおすすめの本を聞き、それを読んで感想を言うという活動をしているらしい。それぐらいしか会話の取手がないと言っていたが、丸るい眼鏡をかけて髪は刈り込んでいて、話題なんかいくらでも持っていそうな雰囲気だった。この人もそうだったが自分たち以外は皆ひとりで会にきていてアグレッシブだと思った。そうやって突っ込む姿勢は見習うべきだ。
三人揃って公園での立ち話からお先に失礼し、まあまあ混んでいる電車移動で渋谷まで。PARCOのB1ギャラリーに向かうが、目当ての展示は終わっており、塊魂の展示をやっていたのでちょっとだけ見てNINTENDOストアをチラ見して下北に移動する。
下北でそれぞれオードブルを買い込んだ上、友人の彼女の到着を待って我が家に行く。晩餐をたのしんだあと、いくつかゲームをして23時すぎにお開きになる。元気よく中華料理を作るゲーム、プロポーズ文言を作成するゲーム、スーパーキャプテンリノ、あとは「いっせので」をやって遊ぶ。皆にBを紹介する。普段よりたくさんの人間に囲まれてBもテンションがあがったのかいつもよりよく喋った。

2023/12/18 今日
前日に久しぶりに人に会ったその影響からか夢を見る。地元の友人と久しぶりに会い、それなりに深刻な病状の報告を受けるという夢だった。やけに淡々と話すのが印象に残った。ある程度対人的な神経を使うと昔の知り合いや友人のことを思い出すような夢を見る。昨日知らない人に会ったから懐かしい友人に会う夢を見ているんだなと思いながらも、そこは夢なので、実際に友人に会っているような気持ちにもなった。
在宅バイト。月曜なのでさすがにゆるゆる働いていると一気に追い込まれてザ行が発生しそうになる。平穏無事な時候はふたたび俺の前に表れてくれるのだろうか……。30分のザ行で切り上げて東中野に映画を見に出かける。映画館の麓にあるカフェで日記を書く。たまごドックがおいしかった。

20231217

日記263

ブルジョワ行列

2023/12/15 一昨日
スタバのあと、金夜ということでとなりのシュマッツに初めて入る。ビアホールで一杯目にノンアルコールビールを頼むというトロフィーを獲得した。ビアホールの喧騒と他のテーブルから漂ってくるソーセージのにおい、そして金曜日の夜という事実に脳は完全に騙されてくれて、病み上がりの肝臓に負担をかけずして酔っ払うことを得る。
スベリ−1グランプリを見て思ったのは、客向けの演芸(お笑い)にはフィードバックがあるということ、客前でネタを披露する以上自己完結はできないということだった。その人個人が持つ歪みこそ、というのは俯瞰的でしかも倒錯したよくない基準だが、それでも、歪みを突き抜けていった先に到達するという観点からすると、クリーンでないものはお笑いには向いていないといえる。優勝したエンジンコータローには少なくとも彼自身の世界があり、彼はお笑い以外のことをやるべきなのは明らかだ。しかし、実際のところ、お笑い以外の何かをやっているエンジンコータローはおそらく無数にいて、その誰もが今回テレビでエンジンコータローが取り上げられたようにして誰かの目に触れる機会を得ることはまずない。彼らもスベリ−1グランプリを見ていたとしたら多分笑うんだろうが、見ている最中はともかく見終わってもずっとにっこにこというわけにはいかないはずだ。

2023/12/16 昨日
前夜に異常に夜更かしをして3時まで起きてしまっていたせいで10時頃に目が覚めたときにはまだ寝不足状態だった。朝食にホットケーキを食べて『outer wilds』で遊ぶ。宇宙への旅を体験できるゲームとしてここまでの作品が出ているのかという驚きがある。20分ごとの宇宙崩壊エンドをループするというゲームシステムも気が利いている。窒息死してループしたときには本当に苦しそうで二度とこの死に方だけはするまいと思わせるし、20分宇宙をさまよって宇宙の崩壊に立ち会うときには毎回特有の高揚感がある。ふたりでかわりばんこでプレイするのも楽しい。しかし自分が見ている側のときに気の利かない助言、もとい、ただただ野卑な無駄の多い指摘をして相手を怒らせてしまった。岡目八目という言葉を知っていてもそれを言動に反映させなけりゃ知らないのと同じだ。コーチングスキルを身につけるようにしようというレベルの話でもないので、あまり巫山戯ないようにしよう。定言命法や粗暴な言葉遣いが面白いと考えているところがあって、最初は自分にとって新鮮で面白かったそれらのやり方も、慣れるにしたがって面白くもなんともなくなったし、ただただ自分の口から出る欠点に成り果せたのでもう全然だめ。改善しないといけない。
やはり寝不足だったので昼寝をして、夕方頃から表参道に出かける。靴を見に行くも良いものが見つからず。美容院終わりの彼女と合流してHAY、表参道ヒルズを歩き回る。銀座線に乗って銀座に繰り出す。目当ての一乗寺という民家風ワインバルは満席だったので近くのイタリー亭に入る。これが瓶ビールを注いでくれる渋いウェイターがいる良いお店で当たりだった。ちょうどよく静かな店内だったのでお喋りが楽しかった。行ってみたい国ランキングの最下位を決めようとして、結果、「知らない国」ということになった。そりゃそうだ。
店を出てから腹ごなしに日比谷まで歩く。ミッドタウン日比谷のイルミネーション前のベンチに座ってちょっと涼んでから電車に乗って帰る。この時期に涼むとか何を言っているんだという感じだが、この日はほんとうに暖かく、昼間は20度を超えていたし、夜も17度ぐらいあるんじゃないかという陽気だったので、ヒートテック装備のまま出てきた人には大変だったようだ。

2023/12/17 今日
8時半過ぎに家を出て大井町にくる。スタバで日記を書く。このあと11時から謎のクリスマスパーティーに顔を出すことになっている。友人が何かのイベントで活動家に誘われたパーティーらしく、若干怪しく不安なのだが、ぎりぎり行けるラインではあるので最近のたるみ具合なども勘案して行かなきゃと思わせられる絶妙のイベントだった。知らない人もいるクリスマスイベントに行くというのは懐かしいところもある。

20231215

日記262

悲喜こもごも

2023/12/14 昨日
スタバからの帰りにファミマで巻きずしセットをふたつ買って帰り、家でもそもそ食べる。納豆巻きはともかく、鉄火巻の方は、これどういう食べ物? と首をひねってしまうような味だった。ファミマの生もの系のクオリティが低いことはもともと知っていたが今や底をついているのではないか。生ハムなんかはとくに何を食べているのかわからない未来食の趣があって食べたことのない人には逆に一回勧めたいレベル。川瀬名人が喋る回の鬼越トマホークチャンネルを見る。あまりの長尺に60分すぎたところで同居人は寝落ちていった。酒も飲まずに23時すぎにはねむる。

2023/12/15 今日
在宅バイト。喉の痛みも大したことなくなり、熱も下がり、やけに動きがのそのそするように感じられることもなくなったのでほぼ完全回復といっていい。ただその回復した状態で何をするかといえば勝手に溜まっていく仕事の消化なんだからやるせない。仕事について一遍どういうことをしているのか日記にでもまとめてみようかとも思うが、いざ取り掛かろうとすると気が重くてやる気にならない。せっかく嫌な労働を終えたのになぜ貴重な夜の時間にそのことを考えなければならないのだという当然の不満が噴出するし、自分はそれを抑えるすべを知らない。まあ、ここを去るときにでもまとめてみよう。誰でもできる仕事だから自分にもできているわけだが、やっていると同じことでも自分よりうまくやる人もまずくやる人もいるんだろうなというのがなんとなくわかる。ただ自分より手短にやる人はいないのではないかという気はする。いや、全然いるか。手短に済ませる人がそれだろう。自分の場合済んでいないのに無理して手短にしている。
それでもザ行一時間。終わってスタバにいく。友人からの誘いを体調のせいにして断っておきながら彼女からの飲みの誘いにOKを出したのはラインで誘われた時間帯の違いにもよる。とりあえずスタバにさえ来ればその一日のやるべきことを終えた気持ちになれるのだ。そこではじめて「飲みに行きたい」という潜在意識を解放することができる。
一日を生きると一日分言いたいことが溜まる。生きるとそれだけで澱のように言いたいことが溜まっていくから、どこかのタイミングでそれを放流しないといけない。スタバに来ていると友人相手のお喋りでそれをしている人を多く見かける。自分の場合はこの日記がある。飲み屋に行くとそこにいる客はすべてそれと同じことをしている。
澱のように言いたいことが溜まっていくというのはいかにも陳腐な言い回しだが、言いたいことというのはそれを素直に取り出すことができればべつに高尚なことではない。ただ、文章を書くうちには、陳腐な言い回しだったり、しっくりくる表現だったりという区別が生まれるものだし、その辺りについて間違いなく言いたいとつい意気込んでしまうものだから、言いたいことがだんだん高みへとズレていく。どれだけ言えたかではなく、どれだけ高くズラせたかに書き手の関心は移り、いつの間にか当初はじめたのとはべつのスポーツで汗を流している。気力・体力・自由時間を所定のやり方で消費することで、満足して今日一日を終えることができるのだ。
言いたいこと、何かを言いたい気分があってそれに沿って何か言うこと、両者に厳密な区別をつける必要はないが、自分がやりたいのは明らかに後者で、そのとき言いたいことというのがもしあったとすればむしろできるだけ遠ざけようとしている。言いたいからすぐ言うというやり方では表現できない迂遠な道筋というのが見えているからだ。その道筋に沿うためにはそこから背を向けてその周囲をぐるぐる回りながら、しかもだんだん中心から離れていくというやり方が効果的ではないかと考えている。螺旋軌道をもって逆に中心を浮かび上がらせるということをやろうとしているのだと思う。それから、観念的にはおそらくただそれだけのことをべつのやり方で表現する方法はないかと考えているところで、それにはさしあたって小説が必要なのだと思っている(だから小説を書いている)。本来であれば優先されるべくもない何かを逆に優先してみたいという思いはどうやっても去らないし、その目的(本来であれば優先されるべくもない何かが逆に優先させること)の達成を願っているわけでもないから、目的がただの目的のまま向こうへ後退していくのを追いかけていることにしている。変わりたい・変えたいという純粋な感情だけがある。変わった先の何かになりたいわけではなく、ただ変わりたい。現状に不満があるからというような明確な動機があるわけではなく、ただ変えたい。それが実際に可能であってほしいとは思っていないが、変われればいいなと思っている。
きれいな模様のことをいくら言葉で説明してみてもきれいだと思えないということはあると思う。言葉では説明できないきれいな模様があるうちはまだ小説を書く余地は残っているはずだ。小説を書くというのは模様を描くということに近く、もっとも直接的なやり方のようで厳密に迂遠なアプローチでそれに迫ることができる数少ない(自分にとっては唯一の)方法なのではないかと思う。
というようなことを水曜日のダウンタウンの「スベり-1グランプリ」を見て考えた。

20231214

日記261

帰り道

日曜から我が家で風邪が流行。私も月曜には引き始め、火曜には高熱で仕事を休む。水曜などはまだ熱が完全に引かないのにやるべき仕事のために在宅で仕事をし、仕事が終わったらすぐねむるという謎すぎる一日を過ごし、木曜になってようやく熱が引くも、喉の痛みが強くなってきて嗄れた声しか出せず、代わりに咳ばかり出そうになる。本当に毎年のように風邪を引く。二十代の頃は風邪なんか全然引かなかったので、今のこの風邪への冒されやすさには慣れない。飯の大盛りをついたのんでしまうのと似ているが、風邪の場合は毎回かかるたびに何もできない時間が多く発生してただただ切ない気持ちを味わう羽目にもなるし、実害がはるかに大きいので、もう自分は風邪を引きやすい人間なんだという自己認識でもってしかるべく予防に努めなければならない。
風邪を引いておかゆ中心の三食を三サイクルも回すと、鏡に映る顔がやつれて見えるというのは知識としてわかっていたことではあるが、今日出かける前の自分の顔はなかなか強烈だった。一日中仕事をさせられたあとだというのもあるが、若いときの細さとはちがう、やつれたと形容するのがぴったりの顔だった。若いときに頬がこけていると、そういう性質・体質なんだと思わせるところもあり、違和感というかその人がたくさん食べたり運動したりしてふっくらとしたときを想像してそこから引き算をしたような物足りなさもある。一方、年が重なって頬がこけていると、そこに違和感はない代わりに、枯れ木に水分がないのが自然に思えるようなおさまりの良さがある。それまでの自分を知っている自分じゃなかったら全然違和感を覚えない顔かたちだというのが自分にもわかるだけに、際どいところで強烈な違和感を感じる。違和感というか、鏡を見る自分自身の目から発せられる抵抗感だ。そのせいで余計に目玉ばかりがギョロつくように感じられもする。
風邪を引いているときにはつまらない動画ばかりを見て過ごした。それで自分は何もしていないことには耐えられないのだということを知った。じっとしてどこかに考えを飛ばすより、動画の切れ切れの瞬間に気を取られている方がラクだ。しんどいときには考えることが陰気になって寂しいことや不安の方に流されていくからできるだけ考えたくないというのは、無くもないが、実際より少しばかり高級なものの見方だ。実際は考えようという気がそもそも起きない。考えない状態でじっとしていようとすると、半自動的にスマホに手が伸び、いらぬアプリを開いて動画が流れるのに任せるということが起こる。考えるべきことはそれなりに多くあるはずなのに全部棚上げにしてしまえる。そしてあろうことか仕事などに手を染め、風邪のせいでただでさえ残り少なくなっている体力ゲージを消尽してしまう。もっと考えて一日を過ごすべきなのは明白なのに、とにかく考えないのはラクだから、とりあえずは風邪のせいにもできるしということで、いらんことだけをやって二日間を溶かした。
自分には頭の良いところがあって、そいつが全体を把握したりコントロールしているときには自分ながら大層心強い。だが、もともと控えめな奴だったのが最近ではよりおとなしくなっていって、全自分の中でのそいつの比率は降下の一途、存在感が縮退を続けている。こんなのは駄目だからやり直せと大声で言ってほしいと思うこともあるが、大声を出させておいて無視するんじゃないかという単純だがいかにも自分がやりそうな懸念が思い浮かぶ。
眠ってしまって夢を見るほうが起きていて面白動画を見るよりもよっぽど有意義だ。しかし寝付けない時間に何も見ないでじっとしているのはつらい。
寝ようとしてじっとしてるとき、何回か昔のことを思い出したりもした。
昔のことを思い出すのは夢を見るよりも有意義だ。ただ、夢を見るとき場合によってはそれが怖い体験になったり苦しかったりするのと同じように、昔のことを思い出すのも良いことばかりではない。そういったマイナス面も含め、思い出すこと自体良いことだというのは頭の良いやつの意見だ。そういう意見はしんどいときの自分からは支持を得にくい。
大学一回生と二回生の最初の方だけ仲良かった友人のことを思い出した。差し迫ったユーモアを感じさせる身体の小さな男で、交遊時期に比してよく思い出していてほぼレギュラーメンバーなのだが、今回は自分たちで作ったサッカーサークルに連れ出したときのことを思い出した。「テクニックとスピード!」と言いながらほとんど前に進まないドリブル(反復横跳びの要領で細かいボールタッチ)を繰り返していた。海外サッカーが好きで昼休みにサッカーをしている二〇歳の元帰宅部相当のサッカーの技術だった。(剣道部だったらしい)
今から思えばほとんど戯画化されているほど厭世的な人柄で、こんな変わったやつがいるんだと思ってぞっこんになったのだった。電車で帰宅するのがダルかったり不可能になったときにはよく彼の家に押しかけて泊まらせてもらったりした。いつも笑わされていた。
ある日完全に学校に来なくなり、それからしばらくしていっしょに入っていたサークルも大学も辞めて実家に帰ったらしい。電話をかけてそのことを聞いたがその後音信不通になった。猫背でとにかく細く骨ばっていて、無頼に憧れがあるのか飲めない酒を飲んで道端の電信柱と仲良くなったり、一旦喋る気になったら捲し立てるように喋りまくったり、やることなすことがすべて二十歳のわれわれからはいかにも天才的な振る舞いに映った。今はそうは思わないけど、当時ももしそう思っていなかったらもっと友達のようになれたかもしれない。少なくともやんやと囃し立てて一方的にスポイルする感じにはならなかったと思う。


2023/12/14 今日
在宅バイト。ザ行を一時間ほど。人からすこし詰められるようなことがあっても風邪を引いていると、だからどうしたそんなことよりこっちは体調悪いんじゃという気になって開き直れる。彼女は仕事のロケで前日深夜からロケバスに乗って静岡まで出かけていき、朝日を使った撮影風景が送られてきた。自分たち世代の男で知らない人はいないほどのビッグな芸能人と山頂風景の朝日を使ったCM撮影なので業界人感がすごい。身長が意外と一五八センチしかないらしい。
仕事後、四日ぶりに外に出てスタバにくる。すごく咳が出そうになるもすごく我慢して咳を出さないようにする。咳をしてもスタバ とか言ってる場合じゃない。

20231209

日記260

人待ち

2023/12/08 昨日
在宅バイト。わりと好調だったが気力と体力をきっちり消費した。ザ行は一時間弱で済んだが妙に疲れてしまって外に出る元気がなかったのでちょっと寝ようと思ったが、結局パワーナップを取ることもできずベッドに寝そべるだけで時間が過ぎ、スタバに行くこともなかった。せっかくの金曜日の夜を完全に無為に過ごしたわけだ。これは仕事の忙しさとか冬の寒さとかいろいろ言おうと思えば言えるが、突き詰めれば体力の無さに起因するものだ。なんとかしないといけない。と言いつつ、前日にはできたラジオ体操さえできていなかった。
家から一歩も出ないで、ダイエーで買ってきてもらった二割引のカツ丼を食べる。こんな一日でもカツ丼がおいしいのはおいしい。スコット・ピルグリムのアニメを最終話まで見る。若いスコット、年老いたスコット、もっと年老いたスコットが出てくる。自分の今の年齢に近いのは年老いたスコットなのだが、そういう見方をしようという気は起こらない。そういう見方というのは若い頃を人生の一時代を振り返るように見るような見方だ。
とはいえこのシリーズにおいても、年老いたスコットが若いスコットに対してそういう見方をしているわけではなかった。このシリーズ全体に通底する良いスタンスだ。年老いたスコットも年老いたスコットなりの「今の問題」を抱えていて、当時の自分を矯正することで遡及的に現在を改良しようとするのに充分なほど若いスコットに構い付けない。若い頃にはいろんな問題がある、年老いてもべつの問題があるってだけの話なんだけど、物語を作ろうとするときにはなぜかそんな当たり前のことが見失われることが多い。分別のある、別人のように成長した「年老いた自分」が未来にいるなんて想像すること自体が、もしそんなことをしていればだが、若い人間が引き寄せられがちな妄想ではないか。
「自分の通ってきた時代のせいにするのは間違っている。黒歴史というのは冗談で言い始められたんだと思うが、口にされるうちにギャグではなく共通言語になってしまっているように思う。あの時代の自分はおかしかった、なんていうのは間違っているうえに失礼なことだ。あの行動は間違っていたと、具体的なひとつひとつの行動について反省する手間を惜しんで「青い時代」のせいにするのは中年のみっともない感受性の鈍磨だ。誰かに迷惑をかけたりそれ以上のことをしたのは、当たり前だが「その年代の自分」なんかではなく自分だ。過去から切り離されて今の自分があるわけではない。こんなのは当然のことだが、それでも、感じることを前面に出すなら過去の自分と今の自分はものすごく切れているように感じられるというのも主観のうえでは明らかなことだ。そんなところに棹さして流されるのを危ぶむというのが分別ある大人のすることであって、やすやすと流されながら「黒歴史おつ」とか、過去の自分自身にとっても意味不明のことをつぶやいている場合ではない。若さとか若い頃を理由にして免責されようとする人間ほど年相応という言葉を使いたがる傾向があるように思われる。昔ほど感覚が鋭敏ではなくなったからその分ラクになったというのは事実なのだろうが、それをまたぞろ行動しない言い訳に使い出すなんていうのは若さのせいでも中年という年代のせいでもない。くだらないお前自身の取るに足らない問題だ」と中指を突き立てるようなスタンスの持つポジティブな側面が爽やかに描かれているアニメで面白かった。

2023/12/09 今日
九時前に起きてトーストを食ったあとスタバに行く。『数の値打ち』を読んで日記を書く。家の近くで日記のWSがあるというのをツイッターで知る。日記のワークショップというのはどういうものなのだろう。日記を書くというのにもノウハウがあってそれを共有するということなのだろうか。
今自分も日記を書いているわけだが、三月頃からほとんど毎日書いていて、たぶん人生のうちでもっとも日記が続いている時期だ。だから日記を書き続けることについては今がもっとも一家言ある時期でもある。
始めるときには配置する場所が大切で、続けるにはフォーマットが大切だ。配置場所についてはインターネットで公開するか、公開しないかという二択が大きい。人に見せる用の文書ではないと自分に言い聞かせながらインターネットで公開していたり、たまにツイッターにも日記書いたよと投稿しているのは、完全に無矛盾とはいえないことだが、第三者にもアクセスできる場所に文章を置くということ自体に、自分が書くことへのちょうどいい緊張感だったり刺激をおよぼす効果があるのでそれを利用している感じだ。じつは文章を書くこと自体に他者性の刺激はあるのだけど、それだけでは弱いから公開している。文章を書くこと自体の刺激で行動できるのであればそうしたほうが良いというのが自分の意見だ。
続けるためのフォーマットについては各自の工夫をこらす部分だと思うが、自分のやってみたことのなかでもっとも良かったのはタイトルに日付を入れず、日記をナンバリングすることだ。これにより日記の数字はカウントアップしていくわけだが、それだけで前回の日記から今回確実に良くなる部分ができるということになる。日記というのは続ければ続けるほど良いものだから、必然大きい数字ほど良いでしょうというわけだ。しかもこのやり方だと、もしかなり日付が空いてしまうようなことがあっても(そんなことはざらにある)、途中の数字からまた続きを積むことができる。それによって再開するのもやりやすいし、再開についても動機づけられやすい気がする。
あとノウハウとは関係ないところだが、日記を続けられるためにもっとも大切なのは平穏無事な毎日だ。三月からの自分の生活を振り返ると、退屈なほどの繰り返しが目につく。もっと日記を書いている暇なんかないほど種々多様なよしなしごとが起こり続ければ良いのにと、とくにそれに対しての方向づけを自分にも周囲にもおこなってもいない状況で棚ぼたを狙い続けている。それでずるずる何も起こらないままほとんど毎日スタバに通い詰めてできたのがこれらの日記だ。あんまりよくないことだと思うが、それでも日記が260を数えられたことだけは、その内容などとは関係ないところでまあ良かったと思っていられる。同じように暮らしながら日記を書かなかったバージョンの自分もいたと思うし、その自分はあまり離れたところにおらず、わりに想像しやすい。そいつよりはマシだったと思える。
ただ、退屈だけが根本的に新しい行動を連れてくるきっかけになるというのも経験として知っているので、日記を書いていることによる安定について、あまり続くようだと単純なカウントアップを喜んでいるわけにもいかない。
それに、小説を書くための助走にするために書いていた日記だったが、バイトが小忙しくなって体力を持っていかれることで、助走部分だけでへたばってしまって肝心の小説まで気が向かないということがここ二ヶ月ぐらい続いている。夏期間よりも冬期間のほうが捗るはずなのにこの体たらくでは来年の完成も危ぶまれる。何か方策を考えないと……。
さいごに続けて日記を書くことの効果をひとつ。
それなりの期間続けて何かを書いていると、いつも同じことを言っているなということが出てくる。もうすこし短く期間を絞った場合でも、このときはこのことについて重点的に考えていたのだなということがわかったりする。書きながらまた同じことを書いている気がすると思うこともしばしばだ。そのぐらい曖昧な感覚で、頭を動かすというよりも指を動かすつもりでばーっと書くのが、やっぱり長く続くやり方なのではないか。そして、どんな形であれ内容であれ、続けて日記を書いていると、日記を書き続けるということがやりやすくなっていく。

20231207

日記259

五度目

2023/12/05 一昨日
九時前にスタバを出て仕事終わり下北に飲みに来ていた友人と合流し、飲みながら茶沢通りを歩いて三軒茶屋まで行く。日高屋で晩飯を食べて来た道を引き返して帰ろうとしたところ、小雨が降っているのとタウンホール行きのバスがちょうどきたのとが重なり、咄嗟にバスに乗り込んで下北沢まで戻る。ナンセンスな移動に二二〇円を支払う遊び。駅前で小雨をしのぎながら、来年に対人活動の軸になれば良いなという思いつきのアイデアを話す。酔っ払って良い気分だったのとそのサークル活動に付随する固有のノスタルジーによってまだ始まってもいねえのにテンションが高騰する。こういう場合にはたいてい現実に運ぼうとしたときに思ったよりうまくいかないと挫折を知る結果におわるのが常なので、あえてちょっとテンションを下げつつ、具体的な活動について考えるよう軸足を移していきたい。成功の条件はいろいろあるんだろうが、やはり空間的な意味での「場所」の問題が一番大きいと思う。これをうまく解決できればそれだけで軌道に乗るのではないかとさえ思えるが、あの頃のサークル活動ではあらかじめそれが用意されていたのがやっぱり大きかった。あの頃からバイタリティが減っていなければ知恵がついた今ならトントンの条件だといえるはず。バイタリティが減ってさえいなければ。

2023/12/06 昨日
在宅バイト。ゆるやかな一日だった。仕事後にBunkamuraル・シネマ・宮下で上映される『ロスト・イン・トランスレーション』を見に行く。Bunkamuraの建物というか東急の建物が潰れたのは知っていたが、Bunkamuraの施設だけは残ったんだろうとノコノコ出向いたところ、正面入口が暗くて入れないようになっていて、裏から入るのかと裏に回るも入れない。そのときになってようやくBunkamuraル・シネマ宮下の宮下の意味に気が付き、悪態を垂れながら急いで渋谷を横断して映画館に向かう。時間ぴったりに東急のほうに着いたので遅刻確実かと思われたが、長々と一五分ぐらい予告を流してくれたおかげで肝心の本編には間に合った。
しかも映画を見ていると直前に渋谷の街を横切って足早に映画館に向かう時間が効いてきたのでつくづく運が良かったと思った。映画の中の街の風景と二〇年余の時間経過をこえてリンクするように感じられた。『ロスト・イン・トランスレーション』については言いたいことが結構あって、ちょっと間をおいてから感想を書きたい。
映画館から出て、現実で現在の渋谷に戻ってくると、まるで龍宮城にいたかのようなトリップ感覚を味わえて面白かった。二〇年前から現在時に帰ってきたという気分が共有できてよかった。
よせばいいのに渋谷の街を歩きたくなったので、駅前でカレーを食べたあとセンター街のあたりまでぐるりと回った。映画は旅行者の視点で東京を眺めるのが特徴的で、東京に来たての頃のそれと似たような感覚を懐かしく感じて良いと思ったのに、缶チューハイを手に無意味に歩くこの歩き方はよくいえば対照的、わるくいえば無関係な歩き方にしかならないのだった。まあそれはそれで楽しいし、歩くのにそこまで寒くもなかったから良かったといえば良かった。あの映画を見てそれをしないという選択肢は実際なかったわけだし。
下北沢に戻ってすこしだけベンチに座って飲む。「白々しい」のようにひとつの言葉をふたつつなげて形容詞になっている言葉を順番に挙げていく遊びで対戦相手から「おどろおどろしい」というウルトラCが出て、それはもうおったまげて「お見逸れしました」と言った。

2023/12/07 今日
在宅バイト。ゆるやかな一日だったので3blue1brownの線形代数のエッセンスシリーズのこり3エピソードを一気に見終える。と、そんなことをしていたら夕方に考えないといけないことがあったのを思い出して結局一時間のザ行。久しぶりにラジオ体操もできて調子を取り戻せそうだったのに失敗だった。
終わってからすぐスタバに行って『数の値打ち』を読む。文体と反復の章を読み終える。あれも東京これも東京というフレーズが昨日映画を見てから何度となく繰り返されているので感想を書きたいと思っていたが日記を書いているうちになんとなく気持ちが落ち着いてきた。日記を書いていると細かいことに注目したり、わざわざ書くまでもないことを書けるという利点がある反面、これについて書きたいという気持ちを遠くに運んでいってしまう効果があるようだ。気がつけば小説も全然手を付けられていない。これじゃ困る。困るけどしょうがないといえばしょうがない。もっと余剰分が出るように日々の労働量を抑制する方向で考えたい。

20231205

日記258

MTB(マウンテンバイク)

2023/12/04 昨日
スタバを出て帰宅する。晩飯に作ってくれた鍋をつつく。こういうときにはかえって金麦が良いんだろうと思ったのでダイエーで買っていった。冬の鍋はあたたかくておいしい。『インヒアレント・ヴァイス』を見る。この映画は映画館でも三回ぐらい見ているし、都合十回は見たのではないか。しかし今年になって見たのはこれが初めてだった。仕事について仕事以外の時間にもつい考えてしまうような堕落した人間になってしまっていたので、薬を飲むような気持ちでこの映画を見た。ビッグ・リボウスキのデュードかこの映画のドックのどちらかを自分にとってのメンターとして設定したいと考えているのだが、九〇年代というのはあまりにも昔で自分にとってのリアルタイム性に欠けるという問題があり、ビッグ・リボウスキのほうにはそのぶん距離を感じないでもない。しかし、時代云々を言い始めたらインヒアレント・ヴァイスのほうは上映時期こそ二〇一〇年代だが、舞台は七〇年代なわけで、もう好きにしたらいいじゃないのということになって終わりだ。距離のことを言い出したらそもそも太平洋の向こうのお話なわけで。デュードにせよドックにせよ、乗り遅れ感というか引きずられ感というか、そういう状況下にあって面白おかしく生きていこうというとくにどこにむけて発散されるわけでもない気概があって、自分も何がなくても気概だけは持っていないといけないなと思い、弱っている気分を明るくさせてくれる。(弱っていないときにはそんな気概なんかどうでもいい。暑い日に熱い風呂なんかどうでもいいのと同じ)
寝しなにアベマのお笑い番組を見る。井口がどうしても泣かないという企画と、しずる村上とライス関町の喧嘩仲裁企画。喧嘩の方はたぶん誰がどうみても村上のほうがわるいというか、村上の方が分が悪いと思うので、かえって村上を応援したくなった。でもやっぱり急に怒り出す人はよくない。よく寝たほうが良い。大学生の時、自分が友人に対して急にブチギレたりしたことを思い出した。あれは良くなかったし、テスト期間か何かで寝不足が続いていた。

2023/12/05 今日
在宅バイト。向かっていく気持ちで仕事に取り組んだおかげで昨日よりマシな一日になった。しかし残念な打ち合わせで定時を一時間以上も過ぎ、無駄なザ行が発生した。すぐスタバに行って『数の値打ち』を読む。反復・冗長性・私小説・文体という(日本)文学らしい話。文学に触れたときの感覚というのは特別なものだからつい握り込もうとしてしまうが(読んで楽しんでいるときには握り込んでも問題ないというか推奨されることだと思うが)、ずっと握り込んでいたり、神棚に供えたりするのはちがうと思う。むしろすっぱり切り捨てたりしても何も残らないことにはならないから手を離すように心がけるぐらいでちょうどいい。大事なのは本と自分による協力プレイ(冒険)は続いているという意識を持って、読み終わった本を聖典化しないことだ。
あと文体分析では簡単な心理分析等を用いて書かれた文章から書き手の属性を診断できるらしく、興味がある反面ちょっと嫌な気持ちになった。何かが高いという結果になれば良いんだけど何かが極端に低いみたいな結果が出たらと思うとあらかじめ反発しておきたい気持ちになる。

20231204

日記257

走るビンテージ

2023/12/03 昨日
午後にスタバを出てダイエーで昼飯を買う。友人と駅前で合流してフェンスの前で立ち話の練習をする。最初お笑いの話ばかりしているのが可笑しかったぐらいで、声も全然出ていなかった。声を張って立ち話をしているほうが異常なのだが、フェンスの前で立ち話をするとその正常/異常がきれいに入れ替わるから面白い。
家でボードゲームをいくつかしながら、東出が相撲部屋に猪カレーを振る舞う動画を見る。大量の食材をいっぺんに料理する動画、それをぐんぐん胃の中へ収めていく動画というのは見ごたえがあるしよくわからない面白さがある。その後、ボードゲームをしながら録りためていてどうにもならなかった日曜美術館を消化していく。三本分みた。というか流した。
ボードゲーム終わりにちょっと話したが、ファッションの話をきっかけにひさしぶりに面白い話になった。たぶん誰でも自分の話をするのが一番面白いんだろうし、たとえそれが何度も聞いている相手の話でも、それなりに変化がありさえすれば何度でも楽しめる。あとは話し手の自己認識にずれがあるとそれを指摘してやりたくなるし、それは相手の背中を掻くことで、それをすることで相手だけではなく自分にとっての自分の自己認識にも触れるような感覚があるからそれが楽しいんだと思う。これは気のおけない相手でないとできない対話というか無責任カウンセリングなのでやれる相手が限られている。こんなことばかりやっていたらやばいんだろうけどたまにであれば楽しいし、たぶんそこまでわるくない、はず。
駅で彼女と合流し友人を見送って夜飯にうどんを食べに行く。ここ最近うどんと言ったら梅窓に行っている。うどんはもちろんのこと鶏天とおこわが美味く、お酒を一杯飲むことで全体的に高い満足感を得られる良い店だと思っている。注文を受けてから用意するからか、鶏天とうどんが出てくるのはそこまで早くないが、お客含め店内の雰囲気が良いのでゆっくりビールを飲んでうどんを待つ時間もわるくないと思っている。帰宅してスコット・ピルグリムと元カレ軍団のアニメを一話分みる。あまりにも月曜が憂鬱なので早めにねむるという選択をする。日曜夜からみる月曜は実際の月曜よりも獰悪な顔をしている。


2023/12/04 今日
在宅バイト。仕事が嫌だという後ろ向きな気持ちがどこからくるのかといえば、こんなことやってたくないという積極的な消極姿勢の表現によって、立場がすこしずつ削り取られていることからきていると分析の結果あきらかになった。卵が先かニワトリが先かという問題は日を経るにしたがって後景へとしりぞき、今となってはただ結果だけが負のフィードバックを返し続けることでさらなる嫌気を引き起こすスパイラルに陥っている。得点をあげることがむずかしい環境で、やれることといえば失点を喫しないよう注意することだけだが、上述の消極姿勢を四六時中びた一文発することなく過ごし続けるということは不可能である以上、降下速度をできるかぎりゆるやかにする以外に方法はない。得点を挙げようという意気を完全には失っていないと自分に言い聞かせるのも大事なことのように思われるが、それを言い訳にしてあぐらをかくというのが挙句の果てに起こりうることだという自覚はあるのでやや消極的に得点機会を伺うというのがバランスを失しないという意味でふさわしい姿勢だという気がしている。心を入れ替えるというよりは環境を入れ替えるほうが便宜だ。まずいのはこのままずるずると続けてゆるゆるとしかし確実に消耗していくことだ。運動の習慣を取り戻さないといよいよまずいのではないかと思っているが、なんだか最近とみに腰が重い。
ほぼ定時、ザ行ほぼなしでスタバにくる。『数の値打ち』の二章を読み終える。なんだか七面倒にも思われる操作の数々が何の目的で行われているかというのが明らかにされる章の終わり間際になっておもむろに元気が出てきた。どうやら、どのような切り口でも、どんな取り上げ方でも、新しく何かを明らかにしたい、それまでにない特有の光を当てたいという願望を満たすために方向づけられた行動らしい。

20231203

日記256

漫才さん

2023/12/02 昨日
十五時頃にスタバを出て、酒を飲みながら家にいく。ボードゲームをして遊ぶ。タイマン形式のTHE GAMEというゲームで、あまり面白いギミックともいえない単純なゲームだが、対戦という形式に宿る面白さで時間が過ぎるのは早かった。夜の時間には譲ってもらったリストバンドを使ってあらゆるライブハウス会場に入り込んで、どんな場所なのかを確認する。大きい音が出て天井が低い場所ということで、そこで演奏していたバンド同様それぞれの特徴と言ってとくに何もなかった。かなりの空腹を耐え忍んだ後、ステーキ松でミスジステーキ三百グラムを注文する。肉質が固いのもあるし流れている音楽からもアメリカンダイナー感が多く漂い、肉を食うフェスティバルと化した。あとから隣の隣に座ったおひとりさまの初老の男が赤ワイン二杯を注文して右手左手におき、溶岩石から一旦肉を引き上げたうえで晩餐を執り行っていて、さすが年の功でリッチを心得ていると感心させられるような食事風景を展開していた。
帰宅してM1の準々決勝の動画をいくつか見て、東出が相撲部屋にあそびにいく動画を見て、ねむる。コメント等は面白くないし自然体がこなれすぎてて一般人に見える。

2023/12/03 今日
九時前に起床。スタバに行って本を読む。『数の値打ち』、ちょっと難しい。というかここまでのところあまり内容に興味が持てない。サンプルとアーカイブの章。昼から昨日に引き続きまたボードゲームで遊ぶことになっている。戯れに漫才のネタを考えようとしてみるも、予想通り難しかった。人がどう思うかというところを意識せざるを得ないからその時点で負担が大きかった。自分のやり方とは相性がわるいなんて言ってたらだめなんだろうけど、相性がわるいものはわるい。

20231202

日記255

高い生活

2023/11/30 一昨日
在宅バイト。頑張って定時に終わらせられるように計算しかつしゃかりきにやる。天空橋まで音楽ライブを見に行く。「of BLUE」というかっこいいタイトルのライブで、カネコアヤノと坂本慎太郎のツーマンだったので期待していたが、一階のオールスタンディングの環境がライブハウス慣れしていない自分には過酷で、後ろの人の視野を奪っている意識もあるから直立することもできず終始変な姿勢で満員電車の中に突っ立っている感じになり、音楽を聞くとしてはかなり劣悪な環境だった。主催の団体があきらかに客を入れすぎていると思う。特別な体験という感じがなかっただけではなく、あらかじめ楽しみにしていたほどではなかった。チケットの値段に見合うほど楽しいライブでもなく、総じて残念だった。下北沢までの帰り道も長く、帰り着いたときには腹ペコだったので、餃子居酒屋ダンダダンに入って餃子を食べようとするも、スタッフの数が七人ぐらいいるのに注文した餃子が出てくるのにたっぷり二十五分かかった。バイトの人たちは楽しそうに働いているのでわるい店ではないと思うが、客からしたら最低ランクの店といって間違いなく、下北沢で二度と行かない店がひとつ増えた。
自分にもお金を払って時間を使えばそれなりの体験ができるという考えがどこかにあって、その期待が裏切られたときには必要以上に攻撃的になってしまうところがある。こういうカスタマー精神に肩までどっぷり浸かったままでいると、自分では何もやらないくせに匙を口に運んでもらっていながら順番が違うと喚き散らす豚に近づいていってしまうので、満足感は自分が行動したときに得られるものであって、お金を払えばもらえるものではないという認識を取り戻すようにしなければならない。
まあ全然そんな話ではなく、お金を払うときには前もって調べられるものは調べる、衝動的に適当な選択をしないでおくというだけの話かもしれない。かもしれないというか実際そうだ。

2023/12/01 昨日
在宅バイト。頑張って定時に終わらせられるように計算しかつしゃかりきにやる。吉祥寺まで演劇を見に行く。「ハイ・ライフ」というタイトルのロンドンの場末が舞台の演劇で、東出昌大めあてに東京公演の初日を見に行く。物を手に取ったり、とったものを置いたりする所作に所作性を感じて最初こそ落ち着かなかったものの、段々場の空気が馴染んできて最終的には作品があらわす場末感というか、ゆるやかな終末っぽいいい雰囲気になったのでたぶん演劇としてもまずまずよかったんだと思う。しかし作品の出来どうこうというより、自分だったらどんな感じに演るだろうと舞台上の男と自分とを重ねながら見るという見方をして、その見方がうまく行き過ぎて不思議な気持ちになる瞬間があってそれが面白かった。顔を知っているだけのひとりの人間が目の前にひとりの人間としていて、すごく近い距離に感じながらも同時に彼我のあいだにある遠い距離のことも考えたりして、混乱し分裂しそうになるのを今という時間で無理やりにまとめ上げてじっとそこに座っているというのを楽しめたんだと思う。東出の顔と身体の造形はやはり並外れていてそこを見ているだけでも十分な満足が得られるものと思うが、ライトが当たってかっこよく映える格好でそこにいる彼よりも、長い手足を手持ち無沙汰気味に持て余しながらあちこちうろつきまわる彼を見るのが面白く、声と笑い声が特徴的なのに加えて、舞台にいる彼の魅力を感じさせた。演技の上手い下手とか、運動神経の良さとか体力の有無というのも大事なところなのだろうが、そういうところより以前に人の魅力はあるんだというのが実感できた。
演劇を見終えてその足で闇太郎にいく。吉祥寺に住んでいたときにはコロナが全盛だったこともあり全然行けていなかったのだが、もしまだ吉祥寺に住んでいたら通いたくなる良い店だ。店主のちゃきちゃきの江戸っ子気質とグラスで飲む瓶ビールとおでんが良い味で、最近ではあまり見ないほどかなり満足いく良いお酒だった。常連になってつまらないおでん批評などして憎まれ口を叩かれるようになりたい。

2023/12/02 今日
前日に夜更かしをしたこともありちゃんと休日らしい時間まで寝た。支度をして昼飯を食いに出かける。下北沢で開催の「ニテ」というサーキットフェスを見に来ている友人と合流。キッチン水谷で豚キムチカレーを食べる。本格っぽいスパイスカレーなのに豚キムチカレーというチャレンジもしていて志の高さ(低さ? 少なくとも絶対値の高さ)を感じさせる。腹ごなしに少し街を歩き回った後、スタバに入って『数の値打ち』を読む。そのあと日記を書く。

20231129

映画『首』を見た

普段と違うことをしてみようと思ったら、スタバに入っていつものように日記を書くのではなく、映画の感想を書き始めればいい。最近の自分はアフターファイブのルーチンが確立されてきていて、スタバに行っていつものようにミルク入りのドリップコーヒーを注文し、読んでいる本を広げるか、このようにマックブックを広げて日記を書くかに相場が決まっている。
ある程度長いスパンで考えれば日記を書くのだって決まりきった行動というよりは突発的な思いつきに類するものだが、この半年はほとんど毎日ぐらいのペースで日記を書いているために、昨日・今日・明日というタイムスパンで捉えれば、これはもう立派なルーチンに属するものだったりする。
あとはこの二、三年で飲酒量がめっきり増えた、と思い返してみたが、よく考えればそんなことはなく、週に六、七日の飲酒を東京に出てきてからずっと、かれこれ七年ほど続けているのだった。途中筋肉トレーニングにハマっている時期があったからその短い半年間を除いてはほぼ上の頻度で酒を飲み続けている計算になる。
そんななかで久しぶりに二日続けて酒を飲まなかった。だからその余勢を借りて、普段の日記とはちがい映画の感想を書こうとしたわけだ。
しかし、昨日の夜にしらふでスタバから自宅に帰る道の途中で思っていたのは、読み終わった『サルトル哲学序説』の感想、できれば読書メモのようなものを書こうということだった。今朝の通勤電車のなかでもその気分は持続していて、それがために重い荷物になるのを承知で業務用の端末に重ねて自前のマックブックをリュックに入れてきたのだ。
だが慌ただしい昼間の業務を終えて、電車を乗り換え渋谷経由で下北沢につく頃には、何をしようという目的が失われ、ただただいつもと違うことをしようという気分だけが残った。だからいつもは辻井伸行のショパンの演奏が流れているノイズキャンセリング機能付きのイヤホンからはカネコアヤノの歌が流れているし、駅を出てスタバの店内まで歩くうちに、漫才の台本でも考えついてやろうかという気分にもなった。
腕まくりまでして席に座ったところまではよかったが、いつものようにマックブックを開いた頃には無謀なネタ作りも断念し、週末に見た映画の感想を書くためのタイトルを打ち込んでいた。
ただし、ここまで書かれた文章が代表するように、タイトルをそれらしいものに決めただけで、なにも映画の感想を書くことに決まったわけではない。タイトルに反してぜんぜん違うことを書いて一行だけ映画について触れて終わるのも、一切触れずにそのままこの文章を閉じるのも、すべて私の自由だ。
自由といえば、サルトルは存在について考える際に自由ということを重んじた。しかしそれは手に入れるべく目指される何かではなく、生きている以上どんな存在にも原理的についてまわるあらかじめ定められた条件のようなものであるという。自由から身をもぎはなすことができないというのはやや奇態に響く逆説表現だが、それでもサルトルの声をもうすこし長く聞こうと望むときには自ずから納得される意見だったように思う。彼は存在には自由がついてまわると言った。だから何をしようが、あるいは何をしまいが、存在は自らをとりまく環境に対してつねに責任がついてまわるということを言おうとしているのだった。少なくともその意見を聞くものに自然そう感じさせるような考え方を自由という概念に仮託しているようだった。
そしてまた、他人の中に自分という存在があるという条件を逃れ去ることはできないとも言っていた。他人などないとあえて言うことは自己欺瞞に陥るとしてそれを批難した。自己欺瞞がわるいことであるというのは、彼が明晰さに価値をおくからだ。たしかに、明晰さに価値をおくものは自己欺瞞を避けようとするだろう。だが、欺瞞には意図する欺瞞と、意図せざる欺瞞とがある。意図せざる欺瞞がさらに自己欺瞞でもあるような場合、明晰さによってそれをべつの場所に移動させることは困難であるだろう。それでもいいと決めたものに、その決定を覆させるのは困難であるだろう。おそらくサルトルはその困難を意識にのぼせたうえでいくつかの戯曲を書き上げもした。彼の哲学について書かれた本を読んだものが考えつくようなことはあらかじめ検討の俎上にあげられたにちがいない。それでも、すべてがどうでもいいと考える自由について、べつの方向へと転換させることはできなかった。ただ、その自由をもつ者をとりまく状況によって「直接的に」それを否定することしかできない。そしてもしそれで充分だと考えるとすれば、それは実践者として真っ当な考え方であることを意味すると同時に、自由について考えることの意味を失う実践的な行動を支持することでもある。それについてもっとも良い捉え方をするとすれば、考えうるかぎり一番遠い限界に到達するということだ。そんなに遠いところまで行って、ほらだからこれが限界なんだと言うことができたとして、一体それが何だというのだ。もちろん遠いところに行くということには他には換えられない価値がある。しかし、何から離れて、どの場所から遠いかということについては、所定のものに決められている必要はまったくないし、そもそも本来決まっていないはずだ。ただ実際にこの環境にあっては、この状況を見渡せば、その離れるべき場所というのはすでに完全に決まっているように見える。決まっているとしか思えなかったりする。
だから虚構のうえで、そういった条件を一秒も感じさせず、最初から最後まで連続して、決まっているとされるもの(それが美であれ善であれ)から目を背け続けているものを見れたときに、(それは往々にして最低最悪の景色だったりするのだが、)その凄惨な風景に反して、いや反してというよりは無関係に、何物にも換えられない晴れやかな気分が私を襲うのだ。そのとき、当の表現が虚構であるということにはほとんど無際限の価値がある。それは絶対にそこから離れてはならないもののように私には思える。加瀬亮が織田信長を演じるということ、そこに真正の価値がある。現実の織田信長が果たした役をはるかに超えて、質的に異なる純粋な素晴らしさがある。質的に異なるふたつのものを指して前者が後者を超えるというのは明晰とは言いがたい表現だが、明晰さ(私の言葉遣いでは「賢さ」)をこのとおり大切なものと捉えつつ、それを犠牲に供してもあえてそう言いたくなる何かがフィクションにはある。

ところで、私にもできる自由の素描は以下のとおりだ。


越えてはいけない一線
==================================================================================







*

20231128

日記254

東京バーガー

2023/11/27 昨日
根をつめて『サルトル哲学序説』を読み、二十二時前にスタバを出る。久しぶりに酒を飲まず。帰って千切りキャベツと納豆を食べる。好き放題お腹いっぱいになるまで何も考えずにご飯を食べていく秋のせいで身体が重くなってしまった。運動不足もあってまずい。最近のメンタルが不調とはいかないまでも絶好調とはならないのも、この運動不足が大きいと思われる。簡単に原因に到達できるようになって知恵がついたなと思うが、生活に運動を組み込んでいかないと、思いついたときにラジオ体操をするぐらいでは運動不足を回避できない。こういうピンチをうまく使って新しい習慣を導入するためのチャンスに変えたいが、どういうスポーツを始めるのが良いだろうか。昼間にも夜にも粗品のロケを見る。粗品が粗品自身「この人は」と思う人の話を聞いているときの表情には他では見られない良さがある。ついに話には聞いていた「河内さん」が登場して彼が芸人を志すことに決めたときのエピソードを聞いているときの粗品を見て、そのエピソードが混ぜものなしのいい話だったこともあって、涙が出そうになった。気を取り直してプライムビデオの『インビンシブル』のセカンドシーズンを見る。平べったいアニメーションに独特のテンポ感があって面白い。展開もあるし『ザ・ボーイズ』のようなドラマより本格的な人物描写にみえる。運動不足のうえ寝不足になっては思うつぼなので、スリープデイということもあって早めにねむる。そういえば帰り道に見上げた満月がとてもきれいだった。

2023/11/28 今日
在宅バイト。タスクが重なっているうちに打ち合わせで話さなければならないことがいくつかある状態になり、完璧とは程遠い発話になってしまう。べつにいいんだけどとは思うんだけどしいてそう思わないではいられない状態というのはやっぱり嫌なものだ。タスク未消化だが翌日は出社なのでそのときにやろうと思いザ行を三十分だけで切り上げる。こういうときに引きずられてずるずるとザ行を重ねてしまうのが一番よくないので、この切り替えは我ながらよくやったと思う。スタバでは『サルトル哲学序説』を根つめて読む。たぶんこの後読み終わると思う。彼の主張に「存在する以上、すべてに責任がある」というのがあった。そのとおりだと思うって耳が痛くなる。しかし本当には痛くない。ふざけているわけではないつもりだが、今さら初耳という態度をとるのも違うし、何より本当に痛くない。そういう必要があってその必要を充たしてきた結果だ。

20231127

日記253

「まだ始まっちゃいねえよ」

2023/11/25 一昨日
朝九時から散髪に行く。その後スタバに行って読書。代々木八幡の「365日」というパン屋でおしゃれなパンを買って歩きながら食べる。バスで渋谷に向かう。渋谷駅でバスから降り立つときに普段とはちがう渋谷入りにちょっと気分を良くする。ショッピングに付き合ってヒカリエ、スクランブルスクエア、ヒカリエ、スクランブルスクエアの順でエスカレータを昇降する。黒い靴を二足買っていた。その後目的の映画『首』を見る。加瀬亮の織田信長がめっちゃ良かった。黒澤明監督を意識した北野映画という感じのバイオレンス時代コメディで他の映画では味わえない満足感があった。すぐ下北に戻り、ミカンの焼き小籠包を食わせる店で晩飯とビール。帰宅してからねむるまでに時間があったので北野映画の予告編を流す。ネトフリアニメのスコット・ピルグリムと邪悪な元カレ軍団とかいうのを見る。世界観含め謎だがアメリカンな良いテンポで面白い。一話三十分弱だったのでとりあえず二話見る。

2023/11/26 昨日
朝起きてすこし読書をする。昼から新宿に出かける。十三時すぎに到着した目当てのボードゲームカフェは満席状態で寒空の下に放り出される羽目になる。ネットで検索してボードゲームカフェっぽいスペースが百人町にあるということを突き止め、新宿三丁目から歌舞伎町を抜け大久保方面に向かう。途中のバッティングセンターでとりあえず二十五球ずつバットを振る。時速百キロのボールはそこまで早く感じなかったのだが前に飛んだのが友人と自分でそれぞれ二十五分の五と二十五分の六という体たらく。金の軽いバットを振り回していたのだが途中で握力がきつくなるぐらい普段の運動不足が祟った。百人町のスペースは面白そうな店が蝟集しているビルの三階にあり、現実離れしてゲーム世界じみた雰囲気があった。三人が三人とも怖気づいて扉を開くところまではいかず。雁首揃えて退散した。なんとなく西新宿まで歩きブックファーストに行く。大型書店も売り場面積を一部ダイソーに譲り渡す必要があるようで、本屋冬の時代なのを感じた。その後新宿伊勢丹でウインドーショッピング。メンズ館もかなり賑わっていて本屋とはぜんぜん違う勢いがあった。一階にある香水の店でベチバーを探す。売り子のお姉さんがいう「質の高い香水です」というのを鼻では感じ取れなかったものの値札を見るときっちり三倍ほどの値段になっていてなるほどと思った。また歌舞伎町の方に移動して屋台風の豚骨ラーメンを食べる。その後歌舞伎町をぐるりとまわる。トー横を縦断した直後に喧嘩騒ぎが持ち上がったので、エスカレーターを上がった歌舞伎町ビルの入口からキン消しほどの人影が殴り合いをしたり、セキュリティや警察が制止するのを眺める。
十八時前になったのでボードゲームカフェに戻って相席ボードゲームをして遊ぶ。最初はカタン、人数が増えてからは七人で「お邪魔者」や何やをして、あとはふた手に分かれて何とかいう面白いゲームで遊ぶ。入る前にあっという間だとは聞いていたが本当に二十三時になるのがあっという間だった。帰りにダイエーで食料のインスタント麺やらを買い込んで帰る。それなりに楽しかったがもっと楽しい週末にできたのではないかという後悔が忍び込み、寝て起きたら月曜だという事実もあってまたまた気が塞ぐ。ねむるのも少し遅くなった。やるやらないの判断をする機会にはデフォルトで「やる」しておくぐらいじゃないと日曜の夜に満足するのは難しい。

2023/11/27 今日
在宅バイト。だらだら働いても何とかなる日だった。前日におぼえた憂鬱ほど嫌なことが起こるわけじゃないというのがはっきりするから気分的にも少しずつ持ち直していくのが月曜の特徴だ。久しぶりに定時で家を飛び出してスタバにいく。『サルトル哲学序説』を読む。
そういえば、誰かが面白いと言っている何かを面白くないというのは本意ではない。本意ではないというか、自分の感性に正直になって面白いかどうかを振り返った結果やっぱり面白くないと思ってそれを率直に面白くなかったと言うときにたまたま面白かったと口にしている人と目が合ったらざんないと思う。ざんないとは思うが、そうなる危険をあらかじめ予期して何に対しても面白いところを見つけて面白いと言うようにしようとは思わない。それはまあ当然だと思うが、自分の場合はそこからも一歩進んで面白くない場合ははっきり面白くないと言って旗幟を鮮明にしようと心がけている。面白いという意見と面白くないという意見はどんどん戦わせても平気なはずだ。それによって評価が覆るようなことがもしあれば御の字だし、そうならないでも何が面白いか(あるいは何が面白くないか)がはっきりすることで自分が(そして相手が)何を面白いと思うかという情報が得られる。誰かのレビューを見たり自分と同意見の感想を探したりするより情報の精度が高くなる気がする。精度に関しては気がするどまりだが、手触りや肌触りといった触覚にまで届くような感想が自分の中からその作品にむかって発されるようにするためにはこの方法が有効だと思われる。

20231124

日記252

とたけけけ?

2023/11/22 一昨日
在宅バイト。その後、職場の懇親会なるものに参加する。普段常駐先の人とのコミュニケーションしかないので、自社の人間と懇親するチャンスなのだけど、きっちり棒に振る。最初の入りで相手がどういう態度でいようが関係なく自己紹介する姿勢を打ち出さなかったことが過ちの元だった。
どうせうまくいかないだろうと保険を用意していたのでダメージは物理論理の両方で最小限に抑えられた。とくに最後の挨拶が終わる間際に出口方向ににじり寄ることでクロークに愚かな行列ができる前に自分の荷物をとって一抜けできたことが自分のなかではかなり大きな勝利だった。一体何をしに行ったんだ……。ビンゴは当然のように負けるし。
下北沢を歩きながら座り込みながらまた歩きながら飲むお酒はやっぱりよかった。友人と喋るときには本当に何も考えていない。というより考えていることがすぐ口をついて出る。これがいわゆるお喋りでというやつでお喋りの中でも純度の高いものなのだろう。とくに遠慮会釈もしない。レベルを合わせるということはやっているがこれは残念ながら不可避だ。お互いに。

2023/11/23 昨日
笹塚の漫画喫茶に行く日にした。目当てはドラゴンボールを読むこと。『ダーウィン事変』という漫画が完結しているという生成AIによるガセ情報を掴まされたおかげでダーウィン事変を読み始め、最新刊の六巻で見事「つづく」の憂き目を見る。ドラゴンボールは一巻二巻の密度がものすごく、読んでいてなんだか疲れてしまった。天下一武道会あたりからペースを掴んできたがレッドリボン軍のうんたらかんたらで悄気そうになったから読み飛ばしてピッコロ大魔王登場あたりまで読む。対戦相手が死ぬということが起き始めて、なにやら剣呑な雰囲気だ。ちょっと目を離した隙にクリリンが殺されているのは衝撃だった。あとランチさんがきれいすぎる。金髪モードのランチさんの目元が最高だとおもう絵が何枚もあった。それから『東京ヒゴロ』完結巻の三巻を読む。締め付けられるような思いを喚起するのが本当に上手でこの日も胸を締め付けられた。「この15くんがいいの」。またSUNNYを読まないと。
途中中抜けして入ったラーメン屋せいやでイキって大盛りのつけ麺を注文したせいで若干具合悪くなるも閉店時間の二十三時まで居座る。こうなるのがわかっていても大盛りを頼んでしまうのは何なんだろう。かさぶたを剥がしたら血が出るとわかっているのに剥がしてしまう性質に似ていると思う。こういうとき俺はふつうに愚かなのだ。
この日の朝に見つけた言い回しがある。「バタバタしているべたべたな豚をビンタしてボッた」。どこで使うわけにもいかないナンセンスな言葉の連なりだが、そういう思いつきを貼り付けておくのに日記はとても適している。それ以外に貼り付けておく場所なんてないからだ。

2023/11/24 今日
在宅バイト。面倒な調整を経て締切を伸ばしてもらったのに、あとから入ってきて締切すぎてるからといってスケジュール延伸してくださいと言われ、調整したのを全部無駄にされるということが起きた。もっと早く言ってくれたら面倒な調整やスケジュールに追われる感覚を味あわずに済んだのに。指揮系統が柔軟になれないとせっかくの苦労も徒花になってしまうということを知った。最終的にべつにどうでもいいと思うから食い下がるということはしなかったが、つい不満な調子が声に出てしまったかもしれない。引き下がるのなら不満を言う意味もないのだからあっさり引き下がれば良い。関係機関と自分が考えているよりも広く、ほとんど全方向への調整といえるぐらいの調整をしていないとこういうことになるのだと勉強になった。くだらない勉強だ。
その対応によってザ行まで発生。しかも二時間。やるべき仕事を減らすのが優秀なエンジニアだと聞いているのだが、やるべき仕事をしっかり増やしていくのはどう形容できる何なのだろうか。
スタバに出てくる。サルトル哲学序説を読む。日記を書く。
日中の無意味な営みに気を取られてしまい今朝見てしっかり覚えている夢のことを書かないでしまうところだった。自転車に乗っている夢を見るときにはいつも通っていた大学と高校を混ぜたような駐輪場が出てくる。この日もそういう駐輪場に駐めていた自転車を探していたのだが、駐めていたと記憶している場所に自分の自転車だけない。こっちだったかと移動してみるもそこにもなく、やっぱりこっちかと元の場所に戻ってもやっぱりない。いややっぱりあっちかとさっきの場所に戻ってない。もう一度こっちに戻ってやっぱりないというのを自分でもおかしいと思うほど非合理に繰り返した。昔通った場所だから道を知っているのだが少し記憶が遠くなっていてやや自信がなく、確信をもって歩けないことも、何度も同じ場所を行ったり来たりしてしまう理由になっていた。そのくせ起きるときにはもう少しで自転車が見つかったのにという気がして目が覚めてしまうのが惜しく感じられた。ああ惜しいと思うからこの夢を覚えているという結果につながったんだと思う。結局自転車は見つからなかったが、このことをもって探している自転車は在ったということにならないか。いやなる。
金曜日ということなのでこのあと飲みに行く。小説は一週間以上書いていない。

20231121

日記251

通過

2023/11/20 昨日
スタバからの帰宅途中にも酒を飲まず。文鳥の音読をBに聞かせる配信をしたあと、睡眠負債の解消をもくろんで早めにねむる。

2023/11/21 今日
在宅バイト。よくねむった影響で調子はわるくない。洗濯機を二回回してたまった洗濯物の処理をすすめる。仕事にかける時間の読みちがいをしたのがこの日のハイライトだった。余裕ぶっこいていた昼過ぎまでとはうって変わって夕方ぐらいから焦り始める。結局九時までのザ行になり、スタバにもいけず一日を棒に振ってしまった。だらだらとあるもので晩飯を食べながらテレビを見ていると画面が急に切り替わって避難を呼びかける放送になった。避難対象が沖縄になっていたが、その発表を信じられず部屋着のまま最寄りの地下である駅に避難する。落ち着いて考えれば放送の避難誘導を信じながら対象を信じないというのは整合性がとれない。
ただ駅に向かうあいだにも言い訳は考えていて、これは避難訓練だと考えようというもの。十分で飛来する可能性がある飛来物にたいして、家でどうしようと考える時間が三分、歩いて駅に向かうのが四分、合計十分以内で目的地の地下に到達できたので我ながらよくできたと評価できる。
そのまま帰宅すればいいところだがこの日は何もできなかったこともあるしせっかくなので、仕事終わりの彼女を迎えに表参道まで電車で出かける。電車内で日記も書く。

20231120

日記250

夢で見た三角形

書きたいことがたくさんある感じがある。溜まっている分を全然出せなかったらどうしようと思う。溜まっていると言っても三日分だが、日記はすっ飛ばして書こうと思えばいくらでもすっ飛ばせるから、本当は書きたいと思っていたこと、いろいろ経巡りながらこれは日記に書こうと思ってたことのほとんどを抜かしてしまうのではないかという心配がある。たとえばKITTEの吹き抜けが三角形になっていてその見た目の特別感が面白いと昨日(2023/11/19)KITTEに行って思ったのだが、それがなんとなく今になっても残っているのとちがい、そのときには面白いと思っていながら忘れてしまった側の出来事や感想もあるはずだ。できるだけそれらを拾うようにしながら週末分の日記を書いていきたい。

2023/11/18 一昨日
演劇祭の忘年会があるということで朝からなんとなくそわそわしてしまう。本当はもっと本を読んだりして過ごしたかったのだが思ったより全然読めなかった。せっかくの休日ではあるので、昼飯にうまいカレーを食べに出る。三蔵TOKYOのペトラカレー。黒くてうまい。彼女が頼んだタリンカレー。こちらは赤くてうまい。全然違うカレーだがどちらもカレーとしか言いようがなく、赤と黒のこのコントラストはもし絶好のタイミングがあれば味わってみてほしい。
ただこれは日記に書くべきことではないと俺の一部は主張しているのだが、カレー専用容器に入っているカレーを皿の上の白飯に注ぎ入れるとき(このカレーショップでは一口目のスプーンを口に入れるときと並んでもっとも特別な良い時間だ)、魔に憑かれたように一気にすべてのカレーを注ぎ込みたいと思ってなのか、白い皿から黒いカレーソースが溢れ溢れるという事態を招いてしまった。最近、とくに食事に関連する行動をとるときに頭の注意力を司る部分が麻痺してまったく考えなしのようなことをしてしまうことに気がついた。何かで頭がいっぱいですぐキャパオーバーになってしまう人がするような、傍目からは信じられないようなミスをしてしまうわけだが、俺にはわかるさらに恐ろしいことには、毎日よく寝て悩みらしい悩みもないのにもかかわらずそうなってしまうのだった。この行動とそれが招いた皿から溢れ溢れる黒いカレーの映像はそれだけの衝撃を自分と、となりにいて一部始終を見ていた彼女に与えた。彼女が「めっちゃイライラする」という取っ手も何もない述懐(?)(少なくとも目の前の自分には向けられていなかった。それだけに迫力があった)を冷然と言い放ったのにも面食らった。二重の衝撃を立て続けに受けたせいで、おもに前半、カレーの味がほとんどしなかった。赤いタリンカレーを一口もらって「トマト」のイメージが一旦すべてを塗りつぶすまでは。
ふた駅近く歩いて目当てのカレーを食べにいき、腹ごなしの散歩がてら街の反対方面にある雑貨屋まで行ってアンティークを見た。一四時にでかけて一六時に帰ってきた。これ以上に下北沢の住人らしい休日の過ごし方はない。帰宅後彼女が友人から教えてもらったというSWITCHのゲームをやり始める。予定の忘年会会場にオンタイムで出かける。
飲み会は久しぶりだがやはり楽しい。もっと頑張れるやろと大学来の友人たちから言われるたびにうるせえお前が言うなだとか、俺は俺で盛り上げに貢献してんのじゃとか軽口を返すのだが、やっぱりいざとなるとそういう威勢は最高に楽しい盛り上がりの夢とともにしぼんでいってしまう。ただ会が開けたあと、道を歩きながらおごってもらったビールを飲む時間があって、それがとてもよかった。いつまでも歩けると思った。だけどさすがに迷惑かもなと思った時点で終わりになった。残念だ。話が盛り上がるとか会がうまく回るとかそれ以前の問題で、どうしても酔っ払いそのものになれず、酔っぱらいのイデアに近づけないことが俺の一番の問題なんだと思う。しかし茶沢通り横の変な帰り道、帰るまでのすべての瞬間が楽しかった。冬前の夜の空気。首の冷え対策としてちゃんとマフラーを持っていった功績は大きい。

2023/11/19 昨日
途中一回レッドアイを挟みながら結構な杯数のビールを飲んだのにもかかわらずほぼ二日酔いにならなかった。ただねむる時間が遅くなったことでどうしても睡眠不足だけは避けられなかった。元気よくリビングから話しかけてくるBに起こされて朝の時間ができたのを幸いとして出かけることにする。起きたときにポケモンスリープやってなかった…!とショックを受けたがよくよく確認してみるとちゃんと起動させた状態で寝ていた。すでに入眠ルーティンとして完成していて無意識の域に達しているようだ。
空気が澄んでいて富士見橋から富士山がくっきり見えた。世田谷代田経由で歩いてBole and coffeeに行く。新代田からすこし入った羽根木エリアにこんなにもおしゃれな通りがあるなんてという驚きがあった。タイムマスカルポーネとスパイスかぼちゃのアイスクリームを食べてコーヒーを飲む。ふた口分けてもらった焼き立てスコーンもとても美味しかった。おしゃれな外席で良い朝食時間(一二時)になった。新代田環七にあるLUUPに飛び乗って目的地の溜池山王まで移動する。LUUPを運転するのに一番いい道は他にあったかもしれないが、とにもかくにも地図を見ずに移動できたのは東京七年目の面目が立つというもの。
はしごでパイコウ担々麺とシュウマイを食べる。味が美味しいのもあるが、店の仕組みがちゃんとしていて最大の回転数を誇っているのが客側からもわかって、これはすごい店だと思いテンションが上がった。
日比谷の映画館まで歩く。途中でデモの集まりが日比谷公園からデモ行進を開始するところにでくわす。野次馬の中でも馬としての純度がもっとも高い「通りすがり」として、通り過ぎるほんのすこしのあいだだけ同じ場所の空気を吸った。大量の警察官が投入されていたが、去年だったらほぼ全員マスク姿だったろうが今年はたぶん全員マスクをしておらず、なんだか新鮮な見た目だなと思った。
ゴジラマイナスワンは主要な舞台のひとつが銀座ということもあり、日比谷TOHOで見るのにうってつけだと思った以外にはとくにおもしろいところもなく、気持ちが乗らないだけに退屈な映画体験だった。自分はIMAXレーザーの信奉者だがIMAXレーザーにもおのずから限界があるということを思い知った。天気の子は新宿バルト9で見てこの場所で見るのにうってつけだと思ったし、そのときも今回もとくに狙ったわけじゃないから偶然の符合に気をよくできるところがあった。ゴジラの感想というか愚痴を、日比谷と東京をつなぐおしゃれな石畳のベンチに座って缶チューハイ、缶ビールを飲みながら喋れたのがハイライトになった。一瞬だけビルの合間からのぞいた半欠けの月も。
ツリーの点灯式らしき集まりに吸い寄せられるまま建物内に入り、建物内を横切って次の目的地のKITTEにいく。LUUPを早い徒歩だと考えると、下北沢から東京駅まで一日がかりで歩いたことになる。帰りの電車ですごく疲れていて、最近の体力のなさに危機感を覚えていたのだが、移動距離を考えると疲れるのもある程度は仕方ないように思える。
東京駅でおあつらえ向きのご飯屋を見つけられず、結局下北沢まで戻って松屋で遅めの晩飯を食べて帰る。翌日の仕事が憂鬱でたまらず帰り道にもかなり消耗させられたが、もっと刹那的に振る舞って、翌日の仕事などないかのように元気よく機嫌よくしていないと、せっかくの夜がもったいないと思うべきだ。月曜を乗り越えた今になって思う。もっとはやくねむればいいのに、ベッドに入ってからだらだらしてゼロ時を迎えてしまい、翌朝の寝不足状態が確定する。

2023/11/20 今日
出社日。七時起きで八時前には出発。大変な一日が始まるというのではないし、彼女は自分より遅く寝ているのに早く出かけているからそれとの比較でも全然大したことはないのだが、とにかく月曜の朝を迎えるのが憂鬱だ。出勤途中の道できれいな朝日、散歩する犬、元気いっぱいの小学生などを見ているうちに自然と元気が出てくる。会社についてからはやるべきことがあるのでひたすらそれを消化しているうちに定時になる。今日やるべきことが終わらなかったので明日へ持ち越しすることに決めて帰る。
帰りの電車が遅延のため満員電車になる。一五分も無いぐらいの時間だが、通路にいても隣の乗客と肩が触れ合うぐらいのぎゅうぎゅうの満員電車は嫌なものだ。
エキウエのスタバが満員だったので、吉野家でハヤシライスを食べたあとでクラシックのほうにくる。日記を書いているうちにあっという間に二十時すぎになってしまった。結局書いているうちにどんどん書き進めるモードになって、そのモードのときに取りこぼすあれやこれやをそのままに日記を書き終わってしまった。言ってみてもしょうがないので読書をすることにする。本を読んでいると何かが思い浮かんだり思い出したりすることは普通によくあることだし。

20231117

日記249

スカイとツリー

2023/11/16 昨日
初めてのディズニーシーに行った。新宿まで出てから中央線で東京まで。駅ナカの売店で朝食を買ってから京葉線ホームで朝食を食べる。快速で舞浜まで。舞浜からはディズニーリゾートライという電車に乗ってシー前まで。入場時に楽隊が演奏していてテンションが急上昇。ダンスしながら中に入る。途中スペインから来たファミリーの家族写真の撮影をしてあげる。カチューシャのショップに人が大量にいるところでテンションの上昇は終了。上がった分だけ降下に転じる。ふたり揃って何の情報も仕入れずにいったせいで何もしないうちに余計な待ち時間がどんどん膨らんでいった。最初はセンター・オブ・ジ・アースに並ぶ。八五分待ちだったので進撃の巨人FINALの後編を見て過ごす。しかしここでは以降の動きのシミュレーションをしたりプライオリティパスの確認、ステージの確認などをするべきだった。このあとパーク内をうろちょろすることになるが、A地点からB地点に歩いて向かうためにどれだけの時間を要するかの確認をしていればのちに起こる残念な事態を防ぐことができた。ディズニーについてとくに好きでもない人と好きか嫌いかでいえばもちろん好きだけどそこまで前のめりでもない人が一緒にディズニーで遊ぶとなると、のんべんだらりとした時間を過ごすことになる。後者が着ぐるみに対するトラウマをもっていてテンションが急上昇するどころか嫌々触れ合うということになると、一体何のためにディズニーまで来たのかという疑問が発生した。建物のクオリティは高かったと思うが感銘を受けるということはとくになく、アトラクションAからアトラクションBへと移動するための道としての認識しかないようだった。フォトスポットで写真を撮るということにも関心がないとなると、アトラクション目当てで来たということにしかならない。アトラクションの待ち時間でもう一生分の行列に並んだわけだが、大人が乗って面白いというようなものでもなく、体験の価値をこれ以上は下げられないという思いから「楽しかったね、よかったね」を繰り返すマシーンと化した。終わってみれば最初のセンター・オブ・ジ・アースがピークだった。タワー・オブ・テラーも落下のたび「うわー!うわー!」を連呼するぐらいには恐かったわけだが、冷静に考えてひとり一五〇〇円を払うようなアトラクションでもない。結論としてディズニーシーは日常で何か目立った楽しいことを持たない人たちが行列に並んでそうでもないアトラクションに乗って感動するというのが主題になっているテーマパークだ。ディズニーランドではパレードもあればミッキーが現れたりもして「アトラクション」という偽の目的地がない分、純度の高いディズニー体験ができるという意味ですぐれている。一二〇分間列に並んで乗ったソアリンはそれなりに楽しかった。IMAXレーザーで映画を見るという体験の大体二四分の一倍の面白さだ。タートルトークだけは行きそびれたが最後にインディージョーンズに乗るための移動の最中にタートルトーク体験者による実演をしてくれたのでディズニーシーの目ぼしいアトラクションのすべてを堪能したことになった。インディージョーンズには最後ということで五〇分並んだのだが、あれに五〇分並ぶというのはいくらなんでも、時間が無限にあるという想定をしていないかぎりありえないことで、「永遠の若さを得られる秘宝」が本当に見つかるのかもしれないと疑った。ジェットコースター好きにとってはそうでもないと説明がつかないほどショボい内容だった。
ソアリンに並んでいるときに水上ステージが始まってそれを塀のなかから聞くことに、最後の花火はインディージョーンズの敷地の中の植栽越しに木漏れ日のようにして見ることになったのもポイントが高かった。ビッグバンドビートが抽選に当たった人しか見られないようになっているのも意味がわからない。自由席への行列には三回並びそこねてステージをひとつたりとも見られなかった。
さすがにもう二度と行かないと確定したのはソアリンに並んでいるときだったが、二度と見ない景色だと思うとなんとなく惜しい気がして写真を撮りまくったりした。時間いっぱいまでシー内部にいた。夜の時間におさえた照明で全体的に暗くしているのは面白いと思った。
しかし結局、新宿渋谷でぶらぶらするほうが百倍面白い。行く場所を選べばアホみたいに行列に並ばないでもいいし。ただふたりで一緒に行きたい場所ではあったので、そこに行くことができてよかった。正直ちょっとだけマシーンと化している感じだが。

2023/11/17 今日
はじめて行くのに道を知っているような気がするところにいてバスに乗る夢を見た。バスに乗って向かっているのは、政治の会合だった。褒められることを何かしてそこに凱旋のように向かうのだが、褒められることを当然と思っていないような顔をしようと道すがら考えていた。道を曲がったときに突然旧友に出遭う。気を引き締めているモードだったので相手の感動をいなすような態度をとってしまい、若干の自己嫌悪におちいった。そのほかにももりだくさんの夢だったのだがほとんど思い出せない。
在宅バイト。やらないといけないことに追いかけられ、何やってんだかという思いでものすごく憂鬱になってしまう。夕方になってやらないといけないことを消化してしまったのと、金曜の夜が近づいていることでだんだん元気になってくる。ザ行は一時間半発生。最低なのだが強いて最低最悪と考えないようにすることで余計なストレスを回避して粛々と雑務をこなす。どんなタスクが降ってきてどれほど締切がタイトでも、どうせ全部雑務だ。
終わり次第スタバにきて『数の値打ち』を読み始める。図書館にも置いておらず、大学の図書館にもなかったので四四〇〇円にやや尻込みしながらも購入した本。お金についての吝嗇はどんな対象についても自動で生じるのだが、一個は例外を持っていないとただのコイン集め人間になるので放出する対象をあらかじめ絞った上で決めておくことにしている。一応その対象が本だ。バイトでの消耗があってサルトル哲学序説も読みたいがちょっと無理そうだ。バイト用の頭脳消費をこちらまで持ち越さないようにパーティションを切りたい。

20231115

日記248

夜端

2023/11/14 昨日
スタバですこしだけ小説が進む。帰宅後録画していたテレビを見る。月曜から夜ふかしあまり面白くないので途中でやめる。ご飯は鶏のスパイス胸肉(三割引)。三〇分単位での寝不足気味が溜まっている感じがしたので早めにベッドに入ってねむる。

2023/11/15 今日
在宅バイト。タスクをばんばんやるというよりは溜まっていたのを消化して、勉強会なるものに参加する。ザ行なし。仕事途中にも読み進めたおかげで胎界主の二部を読み終わる。心が晴れやかになるラストに心洗われる感じがした。オーラスのきれいな絵のたたみかけはすごい。実感として運ばれるのがわかる。それしかないという結末なのに自由を感じる。
以前、胎界主を読んだときにも不安定になったような気がするが、今回胎界主をあらためて読む二、三週間ぐらいのあいだにも気持ちが不安定になった。こう言うとメンタル不調に結び付けられそうだが、むしろメンタル的には好調といっていいぐらいで(毎夜八時間ちかく睡眠をとっているおかげもある)、頭が働く状態だからこそ、ある問題についてネジが噛み合った状態で正面に近い角度で考えるからこそ、想像力のリソースが不必要なほどそこに振り向けられることになる。そこというのは死のあとに広がっている無限のくらやみのことだ。せっかくこんなにも光を感じられるのに、それがいつまでも続かないということに耐えられない。最初に戻って同じことを繰り返すでも何でもいいから光が消えることのないようにしてほしい。胎界主では死に瀕したキャラクターがガタッガタッと震えることがよくあり、大体の場合すぐに悲惨な死を迎えることになるが、彼らがおそれているのは死に方の悲惨さ(だけ)ではなく、死ぬことの悲惨さなのだと思うし、それを見て震えているのだということがわかるから、それがいずれ自分にも訪れる具体的なイベントとして感じられるうえ、その先については一切わからないというくらやみを連れてくるから、もともと持っていた恐怖心が長々と揺り動かされ続けることになる。ただ、手足がばらばらになったりトマトのように押しつぶされて死ぬことの恐怖やそれに伴う具体的な痛みで、死の恐怖を麻痺させることはできると思う。それは最悪を越えていく最悪だ。質が違うものなので、両者を比較してそれよりはマシと思うこともできない。死を考えるにあたっては畳の上で死ねるからマシだということには一切ならない。
死に向き合うということに取り組んだ作家はそれなりにいる。昔は彼らのことを考えるのがちょっとした気休めになっていた。今は昔に比べて死について考える能力が減ったから気休めの必要性が目減りしている。今はむしろぼーっと弛緩した状態から意識を復活させる呼び水になっている。やがてもうすこしすると煩わしささえ感じるようになるかもしれない。たとえばカミュについて「若い」なんて言ってみたり。今はカミュのことを若いとは思わないが赤いというイメージはある。……それは幻想水滸伝2の影響だ。

20231114

日記247

ドアイズオープン

2023/11/13 昨日
スタバの前にケーキを買っておいて、スタバのあとにワインを買いに行く。アマンディーヌというケーキと白のスパークリングワイン。ダイエーで売ってるものでそんなにすごいものでもないんだけど、普段買うものに比べれば少し良い値なのは間違いないので、こういうときには名前を覚えておくようにしたいと思ってレシートをもらったんだけどそのレシートをどっかやってしまった。帰ったらポークソテーとりんごの果物ソースのご馳走が待っていた。
差し向かいでご飯を食べるといかにも食事しているという感じがある。同じダイニングを使っていても昼間の飯は我ながら自分から自分への給餌という印象がある。自分でもそう思うんだから傍から見ると立派な餌やり風景だろう。餌をあげる側になっても餌をもらう側になってもべつにかまわない。
気まぐれでオーストリアのチャート上位の曲をかける。どれだけオーストリアでチャート上位だろうと、ここに到達するまでの距離とわれわれの曲そのものへの無関心によって「名もなき歌」にされた音楽たち。何曲聞いたかも不確かだが時間から予想するとだいたい五、六曲だろうか。だっせえクラブミュージックみたいなのもあった。良い気分だったし礼儀だと思ってちょっとだけ踊っておいた。
進撃の巨人の最終章前編を見る。胎界主を読んでいるタイミングだとスケールの「ちょうどよさ」を感じてテンションが上がりきらない。最終決戦まで生き残るだけあってなのか、登場人物が皆とても考えていて考えたことを良いタイミングで口にしているのはすごいと思う。漫画で気にならないこともアニメの時間の流れになると気になるというだけのことかもしれない。PLUTOもそうだった。最近だと呪術廻戦が例外で、あれは漫画作品であると同時にアニメのコンテのようなところがあるのでアニメを見ていると原作再現どうこうというより、作品としての完成形になっている感がある。
進撃の巨人は何も考えてない枠がサシャの死とともに終わってしまったのがどうにも悔やまれる。子供サイズの人間もしっかり考えることができているから、何かを考えているように見えないキャラクターがすべてモブに見えるという問題がある。単に好みの問題でべつに作品の問題ではないかもしれないが。
思考実験的な要素のある劇作品だ。何らかの形でという但し書きが付いてあったとしても「現実を反映した作品ではない」ということは強調しておきたい。名作とされる文学作品でも同じで、だからといって評価が下がるということはないが、受容の力が弱いと「リアルだ、あれが現実だ」と口にすることもあるかもしれないのでそれに対して釘をさしておきたい気持ちがある。妖精が出てきたり、お化けが出てきたりする作品がリアルな現実を写しとったものではないというぐらいの意味だが、とにかくあれは現実ではない。
ねむる前にも胎界主を読んでようやく生体金庫にさしかかる。基本的に何回読んでも面白いし読めば読むほど味のする漫画だが、『生体金庫』だけは記憶を消して読みたい。

2023/11/14 今日
在宅バイト。最近の憂鬱の正体は今日の打ち合わせだったのか、一日が終わる頃には塞ぎの虫もかなり落ち着いた。胎界主を読みなおしていることによる効果だと言いたいぐらい、もし本当にそうだとしたら自分で言っていて馬鹿らしいぐらいの理由だが、実際に憂鬱が相当程度やわらいだのは事実で動かしようがない。
胎界主への文句ではないが、胎界主と胎界ブツとの区別がはっきりしていてスイッチできないところがどうかと思う。レイスや悪魔連中は確定胎界ブツでかわいそうだ。入れ替わり戦ぐらいやってあげてもいいのにと思う。しかしそれを提案したところで向こうから却下してくるから結局ナンセンスというか、だから確定しているのだろう。確定してからの時間がスケール違いなほど長く存在が確立しているというのも不利に働くのだと思う。存在を確立できなかったものはただただ静かに退場していっただけだろうから適者生存というかなんというか。
ロボットはどれだけ進歩しても人間にはならないというのを真だとすると、人間になるのをゴールにするというのが不合理で、ロボットと人間をひとまとめにしたくくりを作ってそのなかでより高次の存在になる方法を探求するのが合理的だ。それは人間がただ人間であるということに満足せず、より良い者になろうとするときに一部重なる道だろう。人間にとって「並走者あり」という状況が、いつまで続くのかわからないながら生じ始めているのだと思う。こういう道を行こうと思ったときに虚構は役に立つ。『Against the Way』はその道を立てたうえで反対方向を目指す試みだ。アニマルへ。退行だ何だと言われても関係ない。もっとアニマルへと言うところに眼目がある。「もっと」という積極性、積み上げる意思がひとつポイントになるという予感がある。
『有吉弘行の脱法TV』という番組を見る。有吉は上岡龍太郎を尊敬していると公言するだけのことはある立派なテレビタレントだ。ちゃんと発言力を充分に増やしてからおもむろにギリギリ可能な発言をしているし、テレビツイッターインスタグラムとメディアを正しく玩具にしている。
ザ行を三〇分で切り上げてスタバにくる。『サルトル哲学序説』を読む。読んでいると理解しようとして読むのでつい「うんうんそうだな」などと言ってしまったりするのだが、概ねその通りだと思ってしまうのだが、一部飛躍を感じた箇所があった。
八〇ページ
密室に胡坐しつつ、能うかぎり己れを外界から遮断し、能うかぎり純粋な己れを識ろうとすること――近代精神の幾多のエリートたちがそこに一途な情熱をかたむけたあの凄惨な自己追求は、所詮は無益な試みにすぎなかったのだ。
これはわかる。
むしろ密室の外、物や他者あるいは社会への積極的なはたらきかけのなかに、真の自己は現前するものなので、ここに、存在論的なものはつねに存在的なものに相即してのみ存在し得る所以もあるわけである。
はてな。すくなくとも前段から自動的に導き出されるものではない。
自己への追求をはなれて即他者へというのは納得できないというか、簡単にそれをしてもそれこそ無益な試みというか、きっかけになった行動の延長線上で思考しているにすぎないと思われる。
しかし、即自存在や対自存在のくだりは面白い。簡単に「他者へ」と言って解決を外に求める発想より、自というものにこだわるところにその方向に突き進もうとすることで「他者へ」を実践するような、その実践が浮かび上がってくるのを期待したいような心性があるのを感じて親近感が湧く。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。