20231112

『ザ・キラー』を見た

ブログで毎日日記を書くようになって、受容した作品について個別に感想を投稿することがめっきり減った。とはいえそんなにハイペースで感想文を書いていたわけでもないので、実際にはちょっと減ったレベルの話なのだが、ペースが増えた日記との比較衡量で割合としてかなり減ったことによってめっきり減ったと感じるようになったのだと思われる。
前回感想を書いた映画が何だったかをちょっと思い出せないのだが、それから以降面白い映画がなかったというのではない。ただ、今回見た『ザ・キラー』という映画は自分の好みに合う上に、見せ物としてのクオリティも高い作品だったので、感想を書かないではいられないという状態になった。
まず、この映画を知って見ようと思ったのは先々週ぐらいでそのとき映画館に行くつもりだった。しかし、Netflixで配信されるということを知って映画館行きを取りやめた。面白いことが約束されている映画は映画館で見るようにするのが基本だということを考えると、この判断はちょっとどうだったろうと、のち友人の指摘もあって後悔しかけたのだが、家のテレビでこの映画を見た今となっては若干の後悔は残らないではないものの、ほんのすこしの強がりをするだけで「これでよかったのだ」と感じられている。それは今自分が映画に求めるものと、かつて自分が映画に求めていたものとが少しずつ乖離してきて、前者を映画の醍醐味だと捉える視点以外にも映画の魅力があるのだという当時の自分にとってはかえって当たり前だったほうの視点についても再認識することができたことにある。ようするに、画面や音響の「迫力」というのを映画および映画館から受け取られる特別な何かという考えに傾斜するあまり二の次になっていた、筋の運びや、演出・編集などによって得られる緊張感と興奮についてその効果の大きさを実感し直せたのだ。
いくら部屋を暗くしてみても、五〇型であっても、テレビ画面はテレビ画面であって、映画館にその迫力でまさるところはひとつもない。その差はとくに音響面において顕著だ。それにもかかわらず、一切の退屈を感じる暇もなく、スマートフォンだったり各種の別のことに意識が向く余地がゼロだったことで、その施設の装備によって左右されるのではない単純な映画の面白さについて実感できた。ひとりの職業暗殺者のモノローグで映画は展開されていくのだが、殺人するための準備や移動のシーンが多くをしめ、殺害あるいは暴力シーンはかなり少ない。
主人公の殺人者は何度も自分に言い聞かせるように同じお題目をとなえる。「インプロビゼーションは排除しろ。起こるであろうことを予測しろ」「感情移入するな。感情移入は弱さを生む」しきりに繰り返されるこれらの文言によって、場と、さらに重要なことに自分とをコントロール下におこうと努めていることが明らかになる。暗殺というのは誰にでも務まる仕事ではないものの、「通常の」どんな仕事もある程度はそうであるようにセルフコントロールの先にその成功がある。だから殺人者は、無駄な思考の流れに引き込まれないよう思考を停止する術としてのルーチンも持っていれば、体調を万全に整えるための食事や休息方法を徹底してもいる。一般的な報酬とは別水準にある高い報酬をもらうために必要なセルフコントロールがまずあって、その過程、その徹底をこの映画はスムーズに見せてくる。通常見られないはずのある領域のプロフェッショナルのドキュメンタリー的な側面があって、それが特異でもあるからどうしても目を引く。しかもイレギュラーな事態に陥ってしまったため、通常のスキームのなかにいないために、判断を迫られる局面がチャプターごとに現れてくる。主人公の背中を追いかける観客は、自らであればどうするだろうかと考えるための、あるいはこの主人公はどうするだろうかと考えるための時間を与えられる。その道のプロであれば、しかも成功した熟練のプロであればこうするだろうという行動を選択していく。面白いのは、ひょっとするとコンマ一秒にもみたないであろう逡巡が画面に映っているところだ。それは本来であれば映るはずのないもので、まぎれもないフィクションなのだが、この映画の見どころとして挙げられる。もしそれがゼロであれば『ノーカントリー』のアントン・シガーを描写することになる。この映画でもモノローグをカットしたバージョンを見れば、ほんの一瞬のためらいをためらいとして感じとることがうまくできず、ただただ冷酷な、対面した人に死をもたらすマシーンとして見えるはずだ。それはそれで面白い映画になるだろうが、いくらか味気ない、ノーカントリーの視点を変えた二番煎じになるのだろう。相手の死を完全に握っている場面での会話にこの映画のシリアスな面白味があり、間違ってもアクションシーンにそれがあるわけではない。むしろ派手な戦闘シーンには若干鼻白むところがないではないが、アクションがあって主人公が傷を負うという映画的な盛り上がりのためには仕方がないものだと思う。ほかにたとえば、ウェアラブルデバイスを使用している身からすれば音声で通知をする設定になっているというのも気になる。こういうのも映画的表現からくる制約なのだろうと、納得はしないまでも理解できるのでわざわざ細かいところあげつらってこの映画の失点にしようとは思わないが、ドキュメンタリー的な面白さだけから見ればマイナスにはなりえる箇所だ。
ただ、この映画がドキュメンタリー色一辺倒になっていたとすれば全体としてばこれほど面白いものになっていたかは疑問なので、バランスを考えてもこれでよかったのだろう。アマゾンで購入した物品を受け取ったあと空き段ボールをゴミ箱の上に置いたシーンは経済的であると同時に笑えるという特有のユーモアがあった。
関係ないが、最近見た粗品の動画に面白いコメント紹介のコーナがあった。コールオブデューティというFPSのシューティングゲームをやっているときに、消極的な戦略をとって戦わずして勝とうとして失敗し、無様に殺されるだけの結果に終わった粗品のゲームリザルト画面で「0キル・1デス」と表示されたとき、「普通の人生やん」というコメントがあったのを一位にしていたのだが、この映画を見ているとそれを思い出した。
極端に視野を狭めることがこの仕事の成功の秘訣のひとつだと独白していたが、そういう考え方の提示と、その過不足ない表現と妥当性が、プロの暗殺者というものを想定するという虚構のなかで自立しているのが面白い。ひとつひとつのシーンに緊張感があって、単体で見ても面白い形をしているのに、全部が寄り合わさって見えるひとつの模様が、個人の人生哲学の形として浮かび上がってみえるというのも自分の好みに合う。前者がなく後者だけがあるという映画は、好き嫌いはべつにして質が高いとは言えないが、後者の「模様」がなく前者のきれいな形があるというのはそれだけで見れる作品、質の高い作品ということになる。だが、この映画がとりわけ良く、とくに面白いというときには、当然その両者を掴んだうえでそう評さざるを得ないのではないか。

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