そしていまとなっては、もうぜったいに、ぜったいに言い直しができないんだわ
ナターリア・イリーニチナ・ロストワ
『戦争と平和』
街のベンチに座って、通り過ぎていく人たちを見て、なにか面白い、目を引く光景が見られないかと、なかば乞食のようなマインドで往来を眺める習慣がある。
その日は、鶏のように言葉を交わしあう幼い女の子ふたりが目を引いた。ふたりとも母親に手を引かれるのを当然として何の疑いも知らない様子だった。お互いの母親はこれから行き先を違えるため、女の子ふたりはここでバイバイしなければならなかった。すでに二組は五メートルは離れており、その距離は、町中ということもあって、小さな子どもにとっては大声を出さないかぎり相手に自分の声が届かないと承知させられる距離だった。
手前側の女の子がバイバイと叫ぶ。出だしの「バ」こそきちんと叫び声だったのだが、町中ということもあって緊張したのか、それとも、全力の大声を出して相手にそれが届かなかったらどうしようという怯えのような予感からか、語尾(もちろん「イ」のことだ)が消え入りそうになっていた。人はたった四文字を発声するだけで、こんなにも多くのことを伝えられるものかと、それだけで感動しそうになる、とても気持ちの入った「バイバイ」だった。
しかしわるい予感は的中するもので、奥側の女の子は自分の母親との新たなやりとりに集中するあまり、女の子からの感動的な別れのメッセージを聞き逃したようだった。しばらくの沈黙。われわれはこれを一番恐れていた。しかし、奥側のペアのうちひとりはさすが大人という対応で、内部のやりとりのなかでも相手側ペアの様子に気を配れていたおかげで、手前側の小人が出したメッセージを耳の端で聞き取り、おそらく自分の子にむかって合図を出したのだろう。今度は奥側の子が、何のてらいも戸惑いもない、元気いっぱいの「バイバイ」を送った。
奥側の送信したバイバイを受信した手前側の子は両足で地面を蹴り、一瞬のあいだ宙を浮いた。そしてふたたび鶏のように繰り返されるバイバイの応酬。
あのジャンプには、なにか殻を破るとき特有の音があった。心を動かすということが実際に起こるということは、その音を聞くかぎり、自明のことだ。自分にとって意味が深いと思われる音が鳴っていること、それを感じられることが嬉しかった。欣喜雀躍とはまさにこのこと。つい座ったままの姿勢で数センチ浮き上がりそうになった。バイバーイが返ってきたときのジャンプ。あの光景のことを思い出すと、今でも飛べるような気がしてしまう。
映画『リテイク』を見て思うのは、心の動きと映像の動きが連動しているということだ。
心の動きと身体の動きは連動するものだから、人の身体を映す以上、ある程度は当たり前に起こることだといえる。そしてカメラを手に持っている男にも身体があるのだから、その身体を使ってカメラを動かそうとするかぎりにおいて、映像そのものにも心の動きが表れるものだ。ここまではまだ直接的な連動だ。
さらに、撮影された映像を編集するときにもPCと身体を使うのだから、映像の流れ方にも心の動きが反映されることになる、というのはややむずかしい。編集する段になると、心の動きと身体の動きとの直接的な連動より、距離ができるからだ。
しかし、この映画を見ると、実際に心の動きとそれが連動しているように思われる。だからそれはフィクションだということができる。一応注意しておきたいのだが、このフィクションという意味は、作られたものにとって最大の賛辞となるべき意味においてのフィクションということだ。ありのままでは自然に感じられない素材を、見るものに自然に感じさせるというのは、フィクションの領域での卓越があるということを意味する。ドキュメンタリーがフィクションだというのも、そこに思惑の交差があるというのもそうだが、何よりもまず、それが編集によって見やすくなっていること・感じやすくなっていることを指す。これは言うまでもなく、見やすくさせられて、感じやすくさせられているのであって、もしその面での卓越がなければ、見る主体にとってそもそも”見えない”ということになる。すぐれた映像作品というのは、その卓越によって、それが卓越していなければ見ることができなかった事実だったということを忘れさせることができてしまうのだ。そしてそんなことよりも感動が勝つ。それはどんなときにもそうだし、つねにそうあるべきことだ。しかし、事実として、目の前に提示される事実というものは、ある種の卓越があってはじめて目の前まで運ばれてくるものであるということは疑いえない。
事実偏重の考え方ではそもそも見えない事物があり、そのうえ見えない場面を数多く発生させ視野を減退させるというのは、事実として捉えられるべきことだ。事実を見ようとするとき、不可視になる領域というのは明らかにある。もちろんその逆もあるだろうが、事実さえ見ていれば取りこぼしはないというのは、いくつかある明確な誤りのうち、比較的陥りやすい誤りだといえる。
事実かどうかということはさておいて、心の動きを「あるもの」として捉えることは、一般にあることだ。「ある」というのはなにも事実に限定して使用される語彙ではない。
たとえば心の動きがあると感じられるのは、身体の動きと連動する何物かがあると感じられるからだ。スタートはそこだ。そこから、カメラで撮られた映像のほうにもそれがあるように感じられる。登場人物がカメラを持っているからだ。そして、段々と、そのとき目にしている映像そのものにもそれがあるように感じられてくる。心の動きが外に表れるというのは当たり前のことだが、映っている身体を通してだけ表れるのではない。そのプロセスはより外的になりうる。
しかし外側へ出ていくにつれて、心の動きと身体の動きとの直接的な連動より、距離があくことになる。
その距離は事実に近いところから願望に近いところまでの距離ということにもなるのだが、それらのあいだは同じ心の動きとして一気に移動できる。一気に移動できるが、それでも距離はある。移動するには距離が必要だ。距離がある。だからこそ願望の入り込む余地がある。
何かを現実として考えるとき、事実であろうがなかろうが”ただあるもの”を現実の俎上に乗せるとき、それらは諸々の制約を受けることを余儀なくされるわけだが、なかでも時間経過による制約は、一般にそれが不可逆とされることから、目に余るほど大だ。
やり直したい、言い直したいという願望はここを起点に発生する。やり直せないから、言い直すことがもうできないから、それが願望として生じることになるのであって、もしそれが可能であるとするなら、いたずらに願ったり望んだりしていないでただそうすればいいだけのことだ。
不可能としてあることをそれが不可能であるのにもかかわらず願望すること、それらをシンパシーの対象にしてしまうのは、正しい考え方ではない。無駄が多く非合理というよりは、そもそもその意が通る望みがない以上無駄でしかないからだ。それでも、何かしらの願望を目にするとシンパシーは生じる。決してありのままでは叶えられない望みや、現実においては諦めざるを得ない願い、それらに居場所を与えようとする試み全般には励まされる。そういった儚い願望をないものとしないためには、それらに居場所が必要になる。ここ以外にもそういった場所があるのだと感じられることは、やはり慰められることだ。
それが実現するかどうかを度外視した”チャレンジ”にしか励ますことのできない領域というのはある。その幸運な達成が、奇跡として、実際に目に触れることもある。
事実に近いところから願望に近いところまで、距離はあるものの一気に移動できる心の動きを作り出すということは、それらをつなげる通路を作り出すも同然だ。もしそれが実際につながっているとすれば、事実から願望への移動、そしてその逆も可能であるということにならないだろうか。今やそういった願望がここにはある。もちろん、そこにも一方通行や速度制限といった現実的な制約はあるのだろうし、それは必要なものだ。
大学生のたしか一年生のころに、友人と話していて、彼が「w」はひどいということを言い出したことがあった。「w」というのはどういう意味の言葉なのかを説明すると、笑いの頭文字をとって w としており、それを文末に付すことで、書き手がその文章を笑って言っていますよということを示すためのマークのことだ。たとえばインタビューや対談などを書き起こした文章でも(笑)というマークを文末に付すことで、話者が笑いながら話しているというニュアンスを伝えるが、テキストのやり取りをするようになった若者がそれを流用して、(笑)を使いはじめ、()が取れて、 笑 だけになったり、 わら という変換不要の二文字になったりした挙げ句、もっとも簡便な w に落ち着いたというところだ。
大学生の一年というのは、自分に自信が持てないながらも、意固地で思い込みの激しい美意識のようなものを握りしめている時期だから、自分が意識できていないところから、既存の価値や風習になっていると感じられるものを斬る現場を目の当たりにすると、主として驚きから、その刃物の使い手のことを瞠目して見つめてしまうものだ。当時の自分も、テキストのやり取りにおいて何のこだわりもなく「w」を使っていたから、それに対しておもむろに批判めいたことを口にする友人に対して、自分ごと世間の風習のような大きなものを一刀両断にされ、思わず畏敬の念めいたものを抱いてしまうことになった。
その友人とは大学卒業後は一度も会えていないのだが、それでも彼の影響によって、今も w の使用は控えている。また、そこから派生したマークに「草」というものがあるのだが、特定の効果を狙う以外にそれを使うことはない。
友人が自分に与えた影響というのは w 単体の使用をしなくなったことにとどまらない。インターネットの言語空間において浮かんでは消えていく数々の表現に対する根本的な冷淡さを自分の”美意識”の中に埋め込んだ。もちろん、見も知らない人たちがそれらの表現を使ってコミュニケーションをとっている様子を見る分には、自分とは無関係な世界の出来事として看過できるのだが、相対している知人・友人がそれらの語彙を使っていると、具体的な相手を伴う分、どうしても侮りの感情が湧いてきてしまう。しかし、それを受けていちいち「そんな侮蔑的な考え方を相手に向けてはならない」と自己対話をしていると、相手の話の内容がそれ以上入ってこないことになるので、内心での見くびりと、相手の話をきちんと追いかけることとを天秤にかけ、仕方なく、ほんの軽微な侮りを相手に抱くことを自らに許すことにしている。一応言っておくと、これは自分の処理能力の問題なので、性格がわるいなどという話ではない。
それでも気のおけない友人に対しては、それらの流行語の使用に対して、ときには眉をひそめる以上のリアクションをとってしまうこともあるし、まだほとんど会話としたことがない知人未満の人との会話において流行語の使用を認めると、たちまちのうちに、やはりある程度は、「もういいです」という気分が―さざ波のようにではあるが―寄せてくる。
しかし、流行語かどうかの判定は、まったく恣意的なものにほかならず、中には耳心地よく感じられる新生・新登場の言葉もあったりする。だから結局、自分自身にとって以外は適用されることのない”美意識”を定規にしてそれらの計測をしているにすぎないわけで、その当落によって、その単語の使用を(内心で)受け入れたり拒んだりしているだけのことだ。こうやって書いていると、やはりだんだんと明らかになってくるが、はっきり言ってそんなものはどうでもいい。
新たな友人がほしいと思っており、いわゆる”出会い”を求めているのにもかかわらず、こんな些細な部分で自分勝手な検閲をかけていては、その希望がかなえられる望みはうすい。
しかし、いかに些細な部分であろうと、それを無視することは妥協につながる。そしてこれからの時期、妥協を経て得た友人が自分にとって重要なのかという問題は残る。
たとえば、有用な友人というものに価値を置く考え方だとしか思えない言葉に「人脈づくり」がある。これなどはべつに流行語ではないのかもしれないが、嫌いな言葉だ。
言葉にはそれを使用する文脈があらかじめ規定されている部分があり、ある文脈に乗ることはそれが所属する価値観に付き従うことになる。つまり、ある言葉の使用は、それが属する価値観を支持することの表明につながっていく。だから本当のところ、それらはどうでもいいものでは全然なく、むしろ肝心要(かんじんかなめ)の部分だ。しかし、表立って批判めいたことを口にすると、どうしても角が立つから、たんに敵対することを恐れて、表明しようとしないだけの話だ。
クールな友達といると新しい世界が見られるんだジョージ・コスタンザ
『となりのサインフェルド』