20240804

日記429

summered

2024/08/02 一昨日
在宅で仕事を終えた後、ちょっとバスケを見てから代々木公園に盆踊りを踊りに行く。予算的にはそれなりに規模感があるもののどうしようもなくしょぼい残念な盆踊りというのもある。都内で催行される盆踊りの数が多い分、ある程度は仕方のないことだ。ただそういうしょぼい盆踊りにも踊る側としてメリットがないかといえばそんなことはなく、スペースがあるので腕をピンと伸ばしたり、足運びを大胆に、広めのスタンスをとったり長めのストライドで輪の中を移動したりと、自由に踊れる領域が広がるという良さがある。十九時開始、十九時四十分終了というコンパクトなスケジュールだったのでさくっと踊り終えてあとは渋谷で歩き飲みをする。ミヤシタパークのベンチに座って飲むのも夜によっては十分可能(暑さがどこまでおさまっているかによる)で、渋谷の真ん中であるにもかかわらず、道行く人に急いでいる様子はなく、どちらかといえば歩いて回遊できるカフェにいるような感覚で悠然と歩いていて、そういう人たちがたくさん行ったり来たりしているのを見るのは面白い。
なぜかわからないが円山町のホテル街を歩きたいということになったのでそのあたりを巡回することにした。時間帯が早いこともあったのでそこまで賑わっているという感じもなかったが、客になる人たちはちらほらいたし、その数的なバランスもちょうどよかった。ラブホテルと聞いてよだれを垂らすとまではいかないが、ホテル街を歩いていろんな看板をぼんやり見ていると、雑然とした記憶がお祭りのような気分を味あわせてくれる。雑然としつつも無軌道というよりはむしろひとつの軌道があって、それを何度も、雑に重ね書きするようなひとつの印象の束がある。それを引き出しの中から取り出して机の上に出すような気分になった。
それからとくに休憩せずに続けて歩き回り、博多天神ラーメンを食べて帰る。

2024/08/03 昨日
平日一週間で疲れが溜まっているのか、前日そこまで夜更かししたわけでもないのにもかかわらず昼前まで寝こけてしまった。しかし、寝たら寝た分だけ調子は良くなるので、一日良い調子で過ごすことができた。こういう予定は何もないけど最高の一日がどれだけ増やせるか、増やしたうえで記憶のなかにきちんと存在させられるかというのが勝負になってくるということを思った。
正午すぎに昼ご飯調達のためにスーパーまで歩いて出かける。サマーウォーキングという新種のエクストリームスポーツをやるというコンセプトであえて真っ昼間に外出するというねらい。危険な暑さを堪能した。目的地のスーパーと帰ってくる家でそれぞれクーラーが稼働していることから最低限の安全性は担保されている。あらためてエアコンのありがたみを感じることになった。
ネットフリックスで『地面師たち』を見る。OPに山田孝之のナレーションを使うというアイデアは秀逸だ。電気グルーヴが活躍しているのも嬉しい。いわゆる警察頑張れない系のドラマだが、そういう細かいところについてブチブチ指摘したり、可笑しいシーンで爆笑したりと、わいわい喋りながら見るのにうってつけのドラマだ。最初の熊のCGのシーンをもう少し熊のシーンに近づけるようにできなかったのかとか、全部の部屋が薄暗いとか、映像にも口を出したくなる塩梅というのもちょうどいいと感じた。そのあたりやりすぎだと何も言いたくなくなるし、見たくなくなってくるので、バランスがとれていてよかった。
夕方から盆踊りに出かける。会場変更をして中野の盆踊りにする。規模感はもっとも大きいレベルで、まず中野の客動員がすごい。そして踊りスペースと観客スペースとを分けて設営しているのが工夫だと思った。踊りスペースは輪になって踊れる場所で、観客スペースはパフォーマーを見るための場所になっていて、盆踊りあるあるであるところの、決して踊らない踊ろうともしない観客が踊りの輪に近づきすぎ、踊りスペースを圧迫して結果的に踊りの邪魔をするということが起こりにくいようにする工夫がこらされていた。それでもあまりの動員に踊りスペースは手狭を通り越してぎゅうぎゅうに近くなっていたが、なんとかギリギリ踊ることはできた。前後左右に気を使いながら踊るというのは圧迫感があってストレスになりそうでいて、こと盆踊りでは、それさえも抑えつけられたエネルギーの解放につながっていくし、踊り疲れてきた最後の方では、同じ狭い場所で気を使いあった同士という感覚になっているので強固な「一体感」が生まれている。そして、人がやぐらのまわりを回転しながら作り出す渦が、台風のように成長し、同じ場所にいて同じ暑さを感じ、同じ音を聞いて同じ振り付けで踊るというただそれだけのことで生まれた一体感ごと、天にむかって突き上げるようなエネルギーに変換される。そのときの開放感というのはちょっと他にはないものだが、そこまで繋がれる(トランスできる)盆踊りは、年に一回参加できるかできないかぐらい稀で貴重なものだ。
満足感のなか、前日に引き続いてこの日は中野の街を歩き回る。友人がもと住んでいたエリアに行ったり、改修されてきれいになった公園で即席の徒競走をしたり(アキレス腱を切らずに済んだし、競争には勝った)、駅前で飲み終わったものの解散するのが名残惜しそうなグループを眺めたりして、面白味のない会話をする。しかし、自分はもうすでに(この頃になってようやく)気づいているが、会話に面白味が必要だというのは誤解だ。それよりは会話ができるということのほうが重要なことで、もっというと面白味のない会話をできるというのが大切なことだ。会話がスムーズに流れるという快さのほうに、会話の内容よりも重要な要素がある。そもそも、内容を求めたいのであれば本を読めばいいのだし、思ったことを過不足なく伝えたいということであれば文章を書けばいいだけのことだ。
セレンディピティについては、たしかに一部の会話にはそれが多く埋設されているようにも感じられることがある。しかし、それは会話だけに埋まっているものではない。それが起こるのは何も対人関係だけにかぎらないし、生活におけるありとあらゆる機会に見つけ出せるはずのものだ。それにもかかわらず幸運な機会をとくに会話に見出そうとするのは、会話というものに対する買い被りでしかない。そして、その買い被りというのは往々にして会話の快さを(とくに)相手方から多く奪う結果になる。たしかに、会話から相手のアイデアのエッセンスを吸収しようというのは、それ自体不当な考え方というわけではないし、有用なことも多かった。しかし、手を出せばいくらでも乗せてもらえるとばかり「要求するのが当然」という態度は間違っているし、つねに欲する立場で会話に臨むというのは、客を通り越して乞食のすることだ。いわゆる”有意義な会話”を望むのはかまわない。しかしそればかりを望むのは乞食のすること。いや、実際にはもっとひどい。えらそうにふんぞり返り、仏頂面で黙って手を出しながら、何も乗せられないと(もしくは乗せられたものが気に入らないと)こんなのはナンセンスだと怒り、相手に唾を吐くようなことを敢えてする乞食というものを想像してもらうといい。ただの会話にもそれをする意味をつねに求める人間というのはそういう輩だ。こわいですね。自分にはその傾向があるから気をつけないといけない……。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。