交々(こもごも)
2024/08/01 昨日
朝スタバ。出社してリモートでの打ち合わせ。とくに発言の機会はなかったが特別対応ということで神経を使う。昼休みにもスタバ。円城塔『ムーンシャイン』を読み終わる。『ローラのオリジナル』が面白かった。わたしは対象を視るものとしてあるというのはそのとおりだと思った。山崎正和『世阿弥』で義満が「わしは目玉だけになって生きていたいのだ」という場面が自分にとってはずっと印象的だが、その在り方(在ろうとする仕方)に通じるところがある。『ロリータ』のハンバート・ハンバートが持っているような対象に関与したいという欲望を脱色していった先に、視るという欲望が浮き彫りになるんだろう。『ローラのオリジナル』のわたしが義満とちがうのは、視ることで生じる罪というものに意識をおいているところだ。視ることを通して何かを作り出そうとする意識といってもいいかもしれない。何かが作り出されればそれに対する責任も生じるのだろう。社会に対する責任というよりは自分が作り出したものに対して責任を持とうとするのだろうと思うし、それは理解しやすいところだ。そもそも社会に対しては視るを禁じることは簡単だったのだろうから、存在とともに問題をだんだん押し広げていくうちに、果たしてその禁止は正しいものだろうかという疑問につきあたったかたちだと思われる。いずれにせよ文章のかたちにするというところに、すでに真面目さ=読まれることを想定する心の動きがあって、そのバージョンのわたしとわたしのローラだからそっちに引き込まれていくのだろう。視るものだったわたしが視られる側のことを考えることで、不可能な越境を必ずしも良いとは言い切れないかたちで越境したものだと見られる。一方、義満の立場では視線の交換という事自体が起こり得ないため、彼にとっては越境する意味もなければその発想もない。だから制作するということが義満の手によっては行なわれえず、義満の私小説ははじめから不可能な形式だということになる。それでもそんな人物を描くことはある形式においては可能で、そういう人物を目の当たりに見ることはたしかな楽しみとしてある。
卓越した技術が、ルール遵守のもとで実行されたりされなかったりするのは当たり前のことだと思うが、技術とルールを並べて見たとき、明らかに見劣りのする古色蒼然としたルールに、新機軸で目覚ましいものだと感じられる技術のほうが従わせられているという図を読み取ってしまい、そもそもなんでそうしたいんだっけという動機の部分までさかのぼって疑問符がつく結果になることもある。もちろん技術は技術、ルールはルール、倫理は倫理と、別のものをしっかり区別して一緒くたにしないということは、それ自体が大事なルールだと思うが、技術が前提を覆しているかのようにみえるその瞬間にもルールにはしっかり縛られているように見えることに違和感がある。これはその瞬間を見るか、瞬間よりは長いスパンでの状態を見るかによって変わってくることでもあるのだろうから、結局のところ、これも形式のちがいということなのかもしれない。
ルールのピンを外す瞬間を見るか、ルールにピン留めされている状態を見るか、意識の上にルールが登場するときにはいずれかの形をとる。
ルールにピン留めされるということが起こらない長い瞬間を延々と見させられたのが『ロリータ』だった。それはハンバート・ハンバートに前提を覆すという意識などなく、むしろつねに罰則におびえていることで、その状態が前提になる結果、だんだんルールが見えなくなっていくということが起こったからだと思う。これは例外的な局面を見ることの楽しみであるはずなのだが、同時に、どう考えても”よくないこと”である。スケールは違えど、時の権力者が楽しみとしてやることが基本的にろくでもないことであるのと同じことだ。彼らを描写したものについては、今あるルールを無視するかたちでしか見ていられない。しかし、わたしのことは一旦置いておくとして、ルールを無視して好き勝手やるというのは、それらの登場人物を眺めているかぎりはごく当たり前のことのように思われる。わたしにもそういうふうに振る舞って欲しいと思い、自分勝手に振る舞うのことのほうを当然と見做しているなか、それをしませんでしたと言いた気に聞こえるのは、書き手からしたらそれはそれで当たり前のことで、テキストがいつも弁明じみるという法則に正対しただけ、誠実な態度で、真面目、ということになるのかもしれない。
文筆というのは何よりもまず文法に忠実で、文筆業はほとんど法曹の仕事だといっていい。
仕事を定時で上がって表参道のAURALEEまで出かける。先週、欲しかった服が発売即完売の憂き目に遭ったので、後出し在庫はないですかとつい恨みがましい訪問をしてしまった。それにしても、高い洋服なのに欲しさがそれを上回るという、ちょっと自分でもよく理解できない心理状態に置かれている。システムにスイッチを押されている感覚はかろうじて残っているが、それにしても容赦のない押し方で、けたたましく鳴るブザーが目と耳をふさぎ、欲しいのだから良いものにちがいないし、良いものにちがいないのであれば欲しいという考慮ゼロのループに陥っている。
気分を変えて下北沢駅前に座って氷結を飲む。何曲か音楽を聞いてから帰宅。道中キラキラしたものを見つけ拾い上げてみると、なんとチェーンのブレスレットだった。
最近の晩ごはんは千切りキャベツ、豆腐、納豆だけで構成されており、シンプルだが、シンプルゆえの満足感がある。シンプルなことをやっていると感じるとき特有の満足感だ。