20240823

ブログ移行のお知らせ

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20240813

日記432

探訪

2024/08/9 四日前
在宅勤務。仕事後に渋谷まで出かける。渋谷キャストで盆踊り。規模の小さいお金のかかった盆踊りという感じでライト層向けだったのだが、DJでっかちゃんの巻き込む力がとくに優れていることを実感した。数々の巻き込むことに失敗した盆踊りと御同様とはなっていなかったのは彼の功績によるところが大きいと思った。ちょうど踊り終わりのタイミングで群衆のスマホから一斉に地震速報が鳴り響き、会場がどよめいた。南海トラフ地震の注意報というのも発令されているようだ。何も起こらなければいいが、というのはいつか起こる以上適切ではなく、ほとんど被害なしで乗り切れればいいがという望みになる。そのための第一歩として緊急時の決め事を決めたり、避難袋などの用意をおろそかにしないことだ。
盆踊り後に池ノ上に移動して旧居跡を見る。今は更地になっていて、友人はこんなに広かったっけ?と漏らしていたが、自分は逆にすごく狭い土地に暮らしていたんだなという気になった。
下北沢の晩杯屋で飲む。いつもどおり好き勝手なことを吹くにしても、下北沢の晩杯屋ではちょっとしっくりくるところがあってしまう。同じ啖呵を切るでも、啖呵壺に向かって啖呵を切るのではなんとなく気勢を削がれるところもあり、目に見えない気炎のサイズはだんだんしぼみ具合になってしまった。
それでもその後外で飲み直すことにしたらだんだん持ち直し、結局、平生のいい加減な論評をを公私を問わず加えあってから解散になった。

2024/08/10 一昨昨日
昼から赤羽に行って、友人の飼い猫のご機嫌を伺いに友人宅を訪う。本当にコミュニケーションとしての発声をよくする猫で、何を言っているのか言葉は明瞭ではないものの、感情の伝達には成功している。よく鳴く猫は、よく吠える犬とはちがって、会いに行く分にはリアクション多めという気がするから良いものだとこの日も思った。
近所の中華で昼飯を食おうという話になっていたが満席だったので仕方なく次善の蕎麦屋にいく。カレー南蛮蕎麦がおいしかった。
その後、久しぶりにUNOで遊び、友人の引越し先の街の話をして、夕涼みができる時間に河川敷まで散歩する。そこで江戸時代の地図が書かれた扇子を拾う。
日が落ちてからせんべろエリアで入れる店を探してみるも、いつものとおりどこも満席で入れず、いつもの文蔵で飲む。歓楽街を無駄にうろつきながらもう一本だけ飲み、赤羽駅前で解散する。

2024/08/11 一昨日
お昼を下北まで食べに行く。外に出るとわけのわからない暑さだったので錯乱して辛いものを食べたくなり、しかし辛いもの関係なくすぱじろうに入る。すぱじろうではちょっと辛そうなメニューを注文。細めのパスタで素麺風だったが、バルボアにだいぶ侵食されており自分は太麺のパスタが好みなのだと感じさせられた。その後待ち時間に少しだけ『戦争と平和』を読み進めて、本屋でニューヨークの旅行ガイドを買う。六ヶ月ぐらいチマチマやっていたGoogleのデータアナリティクスの講座を修了し、データのデータの修了資格を得た。
翌朝(と言っても午前二時だが)から海に向けて出発予定になっていたので十九時には寝る。

2024/08/12 昨日
人生で初、サーフィングにいく。彼女の職場の先輩が同学年なのだが、その人におんぶにだっこで連れて行ってもらった。海に入る前にレクチャーを受けて、ロングボードを持って海に入ったらあとは自分と海の世界という気持ちで臨んだ。
海の上でもレクチャーをしてくれて、さらに最初波に乗る感覚を掴むためにボードを押してくれたり、諸々の準備、行き帰りの車の運転、そういった現実に必要なすべてを整えておいてもらって、あとは自分と海の世界とは虫が良すぎるようだが、それでもそれをやりに行ったというのは間違いないところだと思う。ただ、体力のなさからほんの束の間部分的に達成できたにすぎないし、回していてくれた映像を見返すと、ふらふらとよろめきながら立ち上がるのがやっとという有り様で、全然経験なんかないのになぜか簡単に波に乗れる、という妄想は妄想で終わった。波を感じるということさえできればいいやという安全のために講じておいた二段構えの目標のうち現実的な目標の方は、ボードの上に腹ばいになって波を感じることで達成できた。目が水面のすぐそばにある低い体勢で、こちらに向かってくる波ごしに水平線を”見る”ということが、サーフィングという初めての体験のなかでもっとも心に浸潤するものがあるアクションだった。ボードの上に乗っかるためだけに体力を使って、疲れ切ってどれだけハアハア言っていても、そのときの景色は格別だった。ボードの上に打ち上げられた海藻のようにへたばって、つぎつぎに規則正しく向かってくる波をやりすごしている途中で見た水平線には、それをこちら側に伸ばしていくところに今たまたま”ここ”があるとも感じられ、揺られている身体が水平線の一部になったような感覚さえおぼえた。
疲れていると多くを感じたり考えたりすることができないというのもある。その中で無心に、というか放心して、水平線を見るということができたのは、水平線を見るとき特有の感覚を得るためのコースとして適切なものだったような気がする。そこに一体感があったような気がするというのは、そのときの感覚を思い出そうとしてみてそういう感じだったという記憶の中にあるリーズナブルな説明にすぎないが、帰ってきてくたくたになりながら寝る準備をして、あとは寝るだけと目を瞑ったとき、ついさっき見たように、縦になった水平線が瞼の裏に浮かんだとき、その映像はより確かな実感として残った。疲れからぐっすり眠って朝起きたときにもその映像はまだあった。そしてべつにそれでいいやという感じ方をした。それとは何なのか謎だから「べつにいいや」という感覚が一番近いかもしれない。書いていても何のことなのかわからないし、夢での感じ方に近い。
いや、思い出した。たしか寝る前に、虫や小さなカニの映像が浮かんで、気色悪さが襲ってきたのだったが、それを振り切って寝ようとする直前に、水平線の映像が嫌な映像の後に続いたのだった。それで「べつにそれでいいや」と思って寝て、起きたときにその感覚と映像が残っていたという話だと思う。

20240808

流行語につらくあたってしまう


そしていまとなっては、もうぜったいに、ぜったいに言い直しができないんだわ 

ナターリア・イリーニチナ・ロストワ

『戦争と平和』 


 

街のベンチに座って、通り過ぎていく人たちを見て、なにか面白い、目を引く光景が見られないかと、なかば乞食のようなマインドで往来を眺める習慣がある。
その日は、鶏のように言葉を交わしあう幼い女の子ふたりが目を引いた。ふたりとも母親に手を引かれるのを当然として何の疑いも知らない様子だった。お互いの母親はこれから行き先を違えるため、女の子ふたりはここでバイバイしなければならなかった。すでに二組は五メートルは離れており、その距離は、町中ということもあって、小さな子どもにとっては大声を出さないかぎり相手に自分の声が届かないと承知させられる距離だった。
手前側の女の子がバイバイと叫ぶ。出だしの「バ」こそきちんと叫び声だったのだが、町中ということもあって緊張したのか、それとも、全力の大声を出して相手にそれが届かなかったらどうしようという怯えのような予感からか、語尾(もちろん「イ」のことだ)が消え入りそうになっていた。人はたった四文字を発声するだけで、こんなにも多くのことを伝えられるものかと、それだけで感動しそうになる、とても気持ちの入った「バイバイ」だった。
しかしわるい予感は的中するもので、奥側の女の子は自分の母親との新たなやりとりに集中するあまり、女の子からの感動的な別れのメッセージを聞き逃したようだった。しばらくの沈黙。われわれはこれを一番恐れていた。しかし、奥側のペアのうちひとりはさすが大人という対応で、内部のやりとりのなかでも相手側ペアの様子に気を配れていたおかげで、手前側の小人が出したメッセージを耳の端で聞き取り、おそらく自分の子にむかって合図を出したのだろう。今度は奥側の子が、何のてらいも戸惑いもない、元気いっぱいの「バイバイ」を送った。
奥側の送信したバイバイを受信した手前側の子は両足で地面を蹴り、一瞬のあいだ宙を浮いた。そしてふたたび鶏のように繰り返されるバイバイの応酬。
あのジャンプには、なにか殻を破るとき特有の音があった。心を動かすということが実際に起こるということは、その音を聞くかぎり、自明のことだ。自分にとって意味が深いと思われる音が鳴っていること、それを感じられることが嬉しかった。欣喜雀躍とはまさにこのこと。つい座ったままの姿勢で数センチ浮き上がりそうになった。バイバーイが返ってきたときのジャンプ。あの光景のことを思い出すと、今でも飛べるような気がしてしまう。

映画『リテイク』を見て思うのは、心の動きと映像の動きが連動しているということだ。
心の動きと身体の動きは連動するものだから、人の身体を映す以上、ある程度は当たり前に起こることだといえる。そしてカメラを手に持っている男にも身体があるのだから、その身体を使ってカメラを動かそうとするかぎりにおいて、映像そのものにも心の動きが表れるものだ。ここまではまだ直接的な連動だ。
さらに、撮影された映像を編集するときにもPCと身体を使うのだから、映像の流れ方にも心の動きが反映されることになる、というのはややむずかしい。編集する段になると、心の動きと身体の動きとの直接的な連動より、距離ができるからだ。
しかし、この映画を見ると、実際に心の動きとそれが連動しているように思われる。だからそれはフィクションだということができる。一応注意しておきたいのだが、このフィクションという意味は、作られたものにとって最大の賛辞となるべき意味においてのフィクションということだ。ありのままでは自然に感じられない素材を、見るものに自然に感じさせるというのは、フィクションの領域での卓越があるということを意味する。ドキュメンタリーがフィクションだというのも、そこに思惑の交差があるというのもそうだが、何よりもまず、それが編集によって見やすくなっていること・感じやすくなっていることを指す。これは言うまでもなく、見やすくさせられて、感じやすくさせられているのであって、もしその面での卓越がなければ、見る主体にとってそもそも”見えない”ということになる。すぐれた映像作品というのは、その卓越によって、それが卓越していなければ見ることができなかった事実だったということを忘れさせることができてしまうのだ。そしてそんなことよりも感動が勝つ。それはどんなときにもそうだし、つねにそうあるべきことだ。しかし、事実として、目の前に提示される事実というものは、ある種の卓越があってはじめて目の前まで運ばれてくるものであるということは疑いえない。
事実偏重の考え方ではそもそも見えない事物があり、そのうえ見えない場面を数多く発生させ視野を減退させるというのは、事実として捉えられるべきことだ。事実を見ようとするとき、不可視になる領域というのは明らかにある。もちろんその逆もあるだろうが、事実さえ見ていれば取りこぼしはないというのは、いくつかある明確な誤りのうち、比較的陥りやすい誤りだといえる。
事実かどうかということはさておいて、心の動きを「あるもの」として捉えることは、一般にあることだ。「ある」というのはなにも事実に限定して使用される語彙ではない。
たとえば心の動きがあると感じられるのは、身体の動きと連動する何物かがあると感じられるからだ。スタートはそこだ。そこから、カメラで撮られた映像のほうにもそれがあるように感じられる。登場人物がカメラを持っているからだ。そして、段々と、そのとき目にしている映像そのものにもそれがあるように感じられてくる。心の動きが外に表れるというのは当たり前のことだが、映っている身体を通してだけ表れるのではない。そのプロセスはより外的になりうる。
しかし外側へ出ていくにつれて、心の動きと身体の動きとの直接的な連動より、距離があくことになる。
その距離は事実に近いところから願望に近いところまでの距離ということにもなるのだが、それらのあいだは同じ心の動きとして一気に移動できる。一気に移動できるが、それでも距離はある。移動するには距離が必要だ。距離がある。だからこそ願望の入り込む余地がある。
何かを現実として考えるとき、事実であろうがなかろうが”ただあるもの”を現実の俎上に乗せるとき、それらは諸々の制約を受けることを余儀なくされるわけだが、なかでも時間経過による制約は、一般にそれが不可逆とされることから、目に余るほど大だ。
やり直したい、言い直したいという願望はここを起点に発生する。やり直せないから、言い直すことがもうできないから、それが願望として生じることになるのであって、もしそれが可能であるとするなら、いたずらに願ったり望んだりしていないでただそうすればいいだけのことだ。
不可能としてあることをそれが不可能であるのにもかかわらず願望すること、それらをシンパシーの対象にしてしまうのは、正しい考え方ではない。無駄が多く非合理というよりは、そもそもその意が通る望みがない以上無駄でしかないからだ。それでも、何かしらの願望を目にするとシンパシーは生じる。決してありのままでは叶えられない望みや、現実においては諦めざるを得ない願い、それらに居場所を与えようとする試み全般には励まされる。そういった儚い願望をないものとしないためには、それらに居場所が必要になる。ここ以外にもそういった場所があるのだと感じられることは、やはり慰められることだ。
それが実現するかどうかを度外視した”チャレンジ”にしか励ますことのできない領域というのはある。その幸運な達成が、奇跡として、実際に目に触れることもある。
事実に近いところから願望に近いところまで、距離はあるものの一気に移動できる心の動きを作り出すということは、それらをつなげる通路を作り出すも同然だ。もしそれが実際につながっているとすれば、事実から願望への移動、そしてその逆も可能であるということにならないだろうか。今やそういった願望がここにはある。もちろん、そこにも一方通行や速度制限といった現実的な制約はあるのだろうし、それは必要なものだ。

大学生のたしか一年生のころに、友人と話していて、彼が「w」はひどいということを言い出したことがあった。「w」というのはどういう意味の言葉なのかを説明すると、笑いの頭文字をとって w としており、それを文末に付すことで、書き手がその文章を笑って言っていますよということを示すためのマークのことだ。たとえばインタビューや対談などを書き起こした文章でも(笑)というマークを文末に付すことで、話者が笑いながら話しているというニュアンスを伝えるが、テキストのやり取りをするようになった若者がそれを流用して、(笑)を使いはじめ、()が取れて、 笑 だけになったり、 わら という変換不要の二文字になったりした挙げ句、もっとも簡便な w に落ち着いたというところだ。
大学生の一年というのは、自分に自信が持てないながらも、意固地で思い込みの激しい美意識のようなものを握りしめている時期だから、自分が意識できていないところから、既存の価値や風習になっていると感じられるものを斬る現場を目の当たりにすると、主として驚きから、その刃物の使い手のことを瞠目して見つめてしまうものだ。当時の自分も、テキストのやり取りにおいて何のこだわりもなく「w」を使っていたから、それに対しておもむろに批判めいたことを口にする友人に対して、自分ごと世間の風習のような大きなものを一刀両断にされ、思わず畏敬の念めいたものを抱いてしまうことになった。
その友人とは大学卒業後は一度も会えていないのだが、それでも彼の影響によって、今も w の使用は控えている。また、そこから派生したマークに「草」というものがあるのだが、特定の効果を狙う以外にそれを使うことはない。
友人が自分に与えた影響というのは w 単体の使用をしなくなったことにとどまらない。インターネットの言語空間において浮かんでは消えていく数々の表現に対する根本的な冷淡さを自分の”美意識”の中に埋め込んだ。もちろん、見も知らない人たちがそれらの表現を使ってコミュニケーションをとっている様子を見る分には、自分とは無関係な世界の出来事として看過できるのだが、相対している知人・友人がそれらの語彙を使っていると、具体的な相手を伴う分、どうしても侮りの感情が湧いてきてしまう。しかし、それを受けていちいち「そんな侮蔑的な考え方を相手に向けてはならない」と自己対話をしていると、相手の話の内容がそれ以上入ってこないことになるので、内心での見くびりと、相手の話をきちんと追いかけることとを天秤にかけ、仕方なく、ほんの軽微な侮りを相手に抱くことを自らに許すことにしている。一応言っておくと、これは自分の処理能力の問題なので、性格がわるいなどという話ではない。
それでも気のおけない友人に対しては、それらの流行語の使用に対して、ときには眉をひそめる以上のリアクションをとってしまうこともあるし、まだほとんど会話としたことがない知人未満の人との会話において流行語の使用を認めると、たちまちのうちに、やはりある程度は、「もういいです」という気分が―さざ波のようにではあるが―寄せてくる。
しかし、流行語かどうかの判定は、まったく恣意的なものにほかならず、中には耳心地よく感じられる新生・新登場の言葉もあったりする。だから結局、自分自身にとって以外は適用されることのない”美意識”を定規にしてそれらの計測をしているにすぎないわけで、その当落によって、その単語の使用を(内心で)受け入れたり拒んだりしているだけのことだ。こうやって書いていると、やはりだんだんと明らかになってくるが、はっきり言ってそんなものはどうでもいい。
新たな友人がほしいと思っており、いわゆる”出会い”を求めているのにもかかわらず、こんな些細な部分で自分勝手な検閲をかけていては、その希望がかなえられる望みはうすい。
しかし、いかに些細な部分であろうと、それを無視することは妥協につながる。そしてこれからの時期、妥協を経て得た友人が自分にとって重要なのかという問題は残る。
たとえば、有用な友人というものに価値を置く考え方だとしか思えない言葉に「人脈づくり」がある。これなどはべつに流行語ではないのかもしれないが、嫌いな言葉だ。
言葉にはそれを使用する文脈があらかじめ規定されている部分があり、ある文脈に乗ることはそれが所属する価値観に付き従うことになる。つまり、ある言葉の使用は、それが属する価値観を支持することの表明につながっていく。だから本当のところ、それらはどうでもいいものでは全然なく、むしろ肝心要(かんじんかなめ)の部分だ。しかし、表立って批判めいたことを口にすると、どうしても角が立つから、たんに敵対することを恐れて、表明しようとしないだけの話だ。


クールな友達といると新しい世界が見られるんだ
ジョージ・コスタンザ

『となりのサインフェルド』 


 

20240806

日記431

Lunch Line

2024/08/05 昨日
仕事は打ち合わせメイン。こなすべきタスクよりも優先度が高い打ち合わせなのだが自分にはわからないこと、わかっていても答えられないことを決めていく打ち合わせで、上空で勝手にばちばち戦っているのをぼんやり眺めているだけで終わった。こういう打ち合わせで主導的な立ち位置に立つことを考えると面倒だろうなとは思う反面、上空でやっていることを緊張して見つめるだけというよりはマシなのかもしれないと思ったりもした。しかし、わからないことがあるときに「ちょっとすいません、よくわかっていないのですが」というスキルは不可欠だ。どこのどの案件でもわからないことは絶対に出てくるのだから、あらかじめできるだけ知識を蓄えるということより、無い知識を打ち合わせで簡易に補える方法を学ぶほうが便宜だ。
そんなこんなであっという間に定時になり、疲れてしまったのですぐに帰ってご飯を食べる。友人とここのところ定例になっている通話をして近況を報告し合う。九時にはねむる。

2024/08/06 今日
前日早くねむれたおかげで早朝から目に見えて調子がいい。NY旅行のことで調べ物をする。合法とはいえ合法扱いではないものとそのまま違法とはならないものがあるということを知る。あとはトランジットのホノルル滞在をどうするか。
『戦争と平和』を読む。ピエールがカラターエフのほうを振り向かないようにしたこと、結論を頭に浮かべないようにしたことは、正しいか間違っているかはさておき、正しいことのように自分には思われる。
「もっとも困難な、そして幸福なことは、自分の苦しみの中でこの生命を愛することだ、罪なき苦しみの中で」という教えについてわかるわけではないが、「自分の苦しみ」というのは苦しみの限界ということになるのだろうか。限界が自分を規定する位置まで追い込まれたときに、無理に自分を変えて(自分にとっての自分を壊して)限界を超えようとしないことがもっとも困難だということなのだろうか。見たくないものを見ない、聞きたくないことは聞こえてくるがそれでも見たくないものは見ない、振り返らないという行動が、たとえどれだけ消極的なものに思えても、消極的に行動したくないという内心の焦りに呼応せず、自分の苦しみの中に留まること、留まろうとすることがこの呼びかけに含まれている内容なのだろうか。生きようとすることは、結論を知ろうとしないこと、能うかぎりそこから目を背け続けることなのだと思う。それは自分が考えていることと同じでもあるから、結局は牽強付会に解釈しているだけともとれる。神を信じず、信じようともしないで、ピエールの感じ方が理解できるというのはそもそも無理があることなのかもしれないが、それでもとくにカラターエフに関わる場面での彼の心の動きは理解できる。理解できるとしか言いようがない。

20240805

日記430

上から目線歩道橋

2024/08/04 昨日

ほぼ一日中家で過ごした。ネットフリックスで連続ドラマを最後まで見終える。『地面師たち』、謎の多いドラマだったが、綾野剛演じるキャラクターがどこに向けてかっこつけているのかが一番の謎だった。

昼すぎにカレーを食べに近所の商店街まで出かける。外を歩いた時間はものの7,8分だったが、その短時間でへたばりそうになった。しかし暑いだけあってビールがうまい。

10月に初めてのNY旅行をするのでそのリサーチをした。今回のリサーチではそろそろ宿を決めたいということになった。インターネットを見ているとクイーンズやブルックリンの安宿を奨められることが多い気がするが、同じ安宿でも、ちょっと値が上がったとしても、ぜひマンハッタンにしたい。結局都心に近ければ近いほどどこにでもすぐ行けて便利に決まっているんだから。

行ったことがないのにそのイメージがあるというのは、それだけいろんなフィクションで見て知っていることがたくさんあるのだろうと思ってニューヨークが舞台の作品を列挙してみようとするも、思ったほど多くならなかった。『グレート・ギャツビー』と『ムーンパレス』は鉄板ですぐ思い浮かぶ。あと好きな映画では『脳内ニューヨーク』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』、『スパイダーマン:スパイダーバース』あたり。そこからはもう絞り出さないとでない。

最近読んだ小説では『ブリーディング・エッジ』が20数年前のニューヨークを舞台にしているので読み返してみたら、すぐに「アムステルダム・アベニュー」と「コロンブス・アベニュー」という地名(最初に読んだときにはすっ飛ばしていた)にぶつかることができた。ニューヨーク小説として読み返すことにしようと思う。

20240804

日記429

summered

2024/08/02 一昨日
在宅で仕事を終えた後、ちょっとバスケを見てから代々木公園に盆踊りを踊りに行く。予算的にはそれなりに規模感があるもののどうしようもなくしょぼい残念な盆踊りというのもある。都内で催行される盆踊りの数が多い分、ある程度は仕方のないことだ。ただそういうしょぼい盆踊りにも踊る側としてメリットがないかといえばそんなことはなく、スペースがあるので腕をピンと伸ばしたり、足運びを大胆に、広めのスタンスをとったり長めのストライドで輪の中を移動したりと、自由に踊れる領域が広がるという良さがある。十九時開始、十九時四十分終了というコンパクトなスケジュールだったのでさくっと踊り終えてあとは渋谷で歩き飲みをする。ミヤシタパークのベンチに座って飲むのも夜によっては十分可能(暑さがどこまでおさまっているかによる)で、渋谷の真ん中であるにもかかわらず、道行く人に急いでいる様子はなく、どちらかといえば歩いて回遊できるカフェにいるような感覚で悠然と歩いていて、そういう人たちがたくさん行ったり来たりしているのを見るのは面白い。
なぜかわからないが円山町のホテル街を歩きたいということになったのでそのあたりを巡回することにした。時間帯が早いこともあったのでそこまで賑わっているという感じもなかったが、客になる人たちはちらほらいたし、その数的なバランスもちょうどよかった。ラブホテルと聞いてよだれを垂らすとまではいかないが、ホテル街を歩いていろんな看板をぼんやり見ていると、雑然とした記憶がお祭りのような気分を味あわせてくれる。雑然としつつも無軌道というよりはむしろひとつの軌道があって、それを何度も、雑に重ね書きするようなひとつの印象の束がある。それを引き出しの中から取り出して机の上に出すような気分になった。
それからとくに休憩せずに続けて歩き回り、博多天神ラーメンを食べて帰る。

2024/08/03 昨日
平日一週間で疲れが溜まっているのか、前日そこまで夜更かししたわけでもないのにもかかわらず昼前まで寝こけてしまった。しかし、寝たら寝た分だけ調子は良くなるので、一日良い調子で過ごすことができた。こういう予定は何もないけど最高の一日がどれだけ増やせるか、増やしたうえで記憶のなかにきちんと存在させられるかというのが勝負になってくるということを思った。
正午すぎに昼ご飯調達のためにスーパーまで歩いて出かける。サマーウォーキングという新種のエクストリームスポーツをやるというコンセプトであえて真っ昼間に外出するというねらい。危険な暑さを堪能した。目的地のスーパーと帰ってくる家でそれぞれクーラーが稼働していることから最低限の安全性は担保されている。あらためてエアコンのありがたみを感じることになった。
ネットフリックスで『地面師たち』を見る。OPに山田孝之のナレーションを使うというアイデアは秀逸だ。電気グルーヴが活躍しているのも嬉しい。いわゆる警察頑張れない系のドラマだが、そういう細かいところについてブチブチ指摘したり、可笑しいシーンで爆笑したりと、わいわい喋りながら見るのにうってつけのドラマだ。最初の熊のCGのシーンをもう少し熊のシーンに近づけるようにできなかったのかとか、全部の部屋が薄暗いとか、映像にも口を出したくなる塩梅というのもちょうどいいと感じた。そのあたりやりすぎだと何も言いたくなくなるし、見たくなくなってくるので、バランスがとれていてよかった。
夕方から盆踊りに出かける。会場変更をして中野の盆踊りにする。規模感はもっとも大きいレベルで、まず中野の客動員がすごい。そして踊りスペースと観客スペースとを分けて設営しているのが工夫だと思った。踊りスペースは輪になって踊れる場所で、観客スペースはパフォーマーを見るための場所になっていて、盆踊りあるあるであるところの、決して踊らない踊ろうともしない観客が踊りの輪に近づきすぎ、踊りスペースを圧迫して結果的に踊りの邪魔をするということが起こりにくいようにする工夫がこらされていた。それでもあまりの動員に踊りスペースは手狭を通り越してぎゅうぎゅうに近くなっていたが、なんとかギリギリ踊ることはできた。前後左右に気を使いながら踊るというのは圧迫感があってストレスになりそうでいて、こと盆踊りでは、それさえも抑えつけられたエネルギーの解放につながっていくし、踊り疲れてきた最後の方では、同じ狭い場所で気を使いあった同士という感覚になっているので強固な「一体感」が生まれている。そして、人がやぐらのまわりを回転しながら作り出す渦が、台風のように成長し、同じ場所にいて同じ暑さを感じ、同じ音を聞いて同じ振り付けで踊るというただそれだけのことで生まれた一体感ごと、天にむかって突き上げるようなエネルギーに変換される。そのときの開放感というのはちょっと他にはないものだが、そこまで繋がれる(トランスできる)盆踊りは、年に一回参加できるかできないかぐらい稀で貴重なものだ。
満足感のなか、前日に引き続いてこの日は中野の街を歩き回る。友人がもと住んでいたエリアに行ったり、改修されてきれいになった公園で即席の徒競走をしたり(アキレス腱を切らずに済んだし、競争には勝った)、駅前で飲み終わったものの解散するのが名残惜しそうなグループを眺めたりして、面白味のない会話をする。しかし、自分はもうすでに(この頃になってようやく)気づいているが、会話に面白味が必要だというのは誤解だ。それよりは会話ができるということのほうが重要なことで、もっというと面白味のない会話をできるというのが大切なことだ。会話がスムーズに流れるという快さのほうに、会話の内容よりも重要な要素がある。そもそも、内容を求めたいのであれば本を読めばいいのだし、思ったことを過不足なく伝えたいということであれば文章を書けばいいだけのことだ。
セレンディピティについては、たしかに一部の会話にはそれが多く埋設されているようにも感じられることがある。しかし、それは会話だけに埋まっているものではない。それが起こるのは何も対人関係だけにかぎらないし、生活におけるありとあらゆる機会に見つけ出せるはずのものだ。それにもかかわらず幸運な機会をとくに会話に見出そうとするのは、会話というものに対する買い被りでしかない。そして、その買い被りというのは往々にして会話の快さを(とくに)相手方から多く奪う結果になる。たしかに、会話から相手のアイデアのエッセンスを吸収しようというのは、それ自体不当な考え方というわけではないし、有用なことも多かった。しかし、手を出せばいくらでも乗せてもらえるとばかり「要求するのが当然」という態度は間違っているし、つねに欲する立場で会話に臨むというのは、客を通り越して乞食のすることだ。いわゆる”有意義な会話”を望むのはかまわない。しかしそればかりを望むのは乞食のすること。いや、実際にはもっとひどい。えらそうにふんぞり返り、仏頂面で黙って手を出しながら、何も乗せられないと(もしくは乗せられたものが気に入らないと)こんなのはナンセンスだと怒り、相手に唾を吐くようなことを敢えてする乞食というものを想像してもらうといい。ただの会話にもそれをする意味をつねに求める人間というのはそういう輩だ。こわいですね。自分にはその傾向があるから気をつけないといけない……。

20240802

日記428

交々(こもごも)

2024/08/01 昨日
朝スタバ。出社してリモートでの打ち合わせ。とくに発言の機会はなかったが特別対応ということで神経を使う。昼休みにもスタバ。円城塔『ムーンシャイン』を読み終わる。『ローラのオリジナル』が面白かった。わたしは対象を視るものとしてあるというのはそのとおりだと思った。山崎正和『世阿弥』で義満が「わしは目玉だけになって生きていたいのだ」という場面が自分にとってはずっと印象的だが、その在り方(在ろうとする仕方)に通じるところがある。『ロリータ』のハンバート・ハンバートが持っているような対象に関与したいという欲望を脱色していった先に、視るという欲望が浮き彫りになるんだろう。『ローラのオリジナル』のわたしが義満とちがうのは、視ることで生じる罪というものに意識をおいているところだ。視ることを通して何かを作り出そうとする意識といってもいいかもしれない。何かが作り出されればそれに対する責任も生じるのだろう。社会に対する責任というよりは自分が作り出したものに対して責任を持とうとするのだろうと思うし、それは理解しやすいところだ。そもそも社会に対しては視るを禁じることは簡単だったのだろうから、存在とともに問題をだんだん押し広げていくうちに、果たしてその禁止は正しいものだろうかという疑問につきあたったかたちだと思われる。いずれにせよ文章のかたちにするというところに、すでに真面目さ=読まれることを想定する心の動きがあって、そのバージョンのわたしとわたしのローラだからそっちに引き込まれていくのだろう。視るものだったわたしが視られる側のことを考えることで、不可能な越境を必ずしも良いとは言い切れないかたちで越境したものだと見られる。一方、義満の立場では視線の交換という事自体が起こり得ないため、彼にとっては越境する意味もなければその発想もない。だから制作するということが義満の手によっては行なわれえず、義満の私小説ははじめから不可能な形式だということになる。それでもそんな人物を描くことはある形式においては可能で、そういう人物を目の当たりに見ることはたしかな楽しみとしてある。
卓越した技術が、ルール遵守のもとで実行されたりされなかったりするのは当たり前のことだと思うが、技術とルールを並べて見たとき、明らかに見劣りのする古色蒼然としたルールに、新機軸で目覚ましいものだと感じられる技術のほうが従わせられているという図を読み取ってしまい、そもそもなんでそうしたいんだっけという動機の部分までさかのぼって疑問符がつく結果になることもある。もちろん技術は技術、ルールはルール、倫理は倫理と、別のものをしっかり区別して一緒くたにしないということは、それ自体が大事なルールだと思うが、技術が前提を覆しているかのようにみえるその瞬間にもルールにはしっかり縛られているように見えることに違和感がある。これはその瞬間を見るか、瞬間よりは長いスパンでの状態を見るかによって変わってくることでもあるのだろうから、結局のところ、これも形式のちがいということなのかもしれない。
ルールのピンを外す瞬間を見るか、ルールにピン留めされている状態を見るか、意識の上にルールが登場するときにはいずれかの形をとる。
ルールにピン留めされるということが起こらない長い瞬間を延々と見させられたのが『ロリータ』だった。それはハンバート・ハンバートに前提を覆すという意識などなく、むしろつねに罰則におびえていることで、その状態が前提になる結果、だんだんルールが見えなくなっていくということが起こったからだと思う。これは例外的な局面を見ることの楽しみであるはずなのだが、同時に、どう考えても”よくないこと”である。スケールは違えど、時の権力者が楽しみとしてやることが基本的にろくでもないことであるのと同じことだ。彼らを描写したものについては、今あるルールを無視するかたちでしか見ていられない。しかし、わたしのことは一旦置いておくとして、ルールを無視して好き勝手やるというのは、それらの登場人物を眺めているかぎりはごく当たり前のことのように思われる。わたしにもそういうふうに振る舞って欲しいと思い、自分勝手に振る舞うのことのほうを当然と見做しているなか、それをしませんでしたと言いた気に聞こえるのは、書き手からしたらそれはそれで当たり前のことで、テキストがいつも弁明じみるという法則に正対しただけ、誠実な態度で、真面目、ということになるのかもしれない。
文筆というのは何よりもまず文法に忠実で、文筆業はほとんど法曹の仕事だといっていい。

仕事を定時で上がって表参道のAURALEEまで出かける。先週、欲しかった服が発売即完売の憂き目に遭ったので、後出し在庫はないですかとつい恨みがましい訪問をしてしまった。それにしても、高い洋服なのに欲しさがそれを上回るという、ちょっと自分でもよく理解できない心理状態に置かれている。システムにスイッチを押されている感覚はかろうじて残っているが、それにしても容赦のない押し方で、けたたましく鳴るブザーが目と耳をふさぎ、欲しいのだから良いものにちがいないし、良いものにちがいないのであれば欲しいという考慮ゼロのループに陥っている。
気分を変えて下北沢駅前に座って氷結を飲む。何曲か音楽を聞いてから帰宅。道中キラキラしたものを見つけ拾い上げてみると、なんとチェーンのブレスレットだった。
最近の晩ごはんは千切りキャベツ、豆腐、納豆だけで構成されており、シンプルだが、シンプルゆえの満足感がある。シンプルなことをやっていると感じるとき特有の満足感だ。

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