20240718

日記420

駅前の街路樹

2024/07/17 昨日
朝スタバ。眠さは眠いが行きの電車のラクさ快適さはモチベーションになる。何と言っても余裕で座れるところが良い。ここ最近はスランプと言うか、自分のやっていることのいい加減さに気づくフェーズに入っている。たとえばこの日記にしても意気込まずに書くということを心がけていて、だから続いているという側面はあるのだが、同じようなスタンスで小説を書こうとするのは全然うまくいかない。もともとこれは気晴らしのために始めたようなところがあり、気晴らしで満足している状態がそれなりに続き、そろそろと小説の方に戻ろうとしたところ筋力の衰えに気づいて驚いたというところだ。問題はそろそろと書いていた小説もこの日記と同じぐらいの気軽さで書いていたので一年弱経った今でも使えると感じられるところは全然ないということだ。
一年間何をやっていたのかと思うと気が重いが、実際制作に関することはろくすっぽ何もやっていないに等しいし、ちょっとだけあった進捗にしても、それが今の自分に気に入らないというのは嫌気の差すことではあるのだが、自分の書くものについて客観視したうえで足りないものがあると判断しているわけで、前進と言って言えないことはない。
ある程度の分量の文章を書くにあたり必要な「文章を掴んでいる能力」として、重要なもののひとつに記憶力があるが、それの衰えが顕著で困ってしまう。しかし自分の能力の衰えというのは認識しづらいもので、最近突然そうなったというのではなく同じような状況はある程度続いていたのだが、そうなっていることに全然気づかなかった。ある程度の期間続いていたといってそれがどの程度なのか、今思い出そうとしてしばらくじっとしてみるも思い出せそうな端緒すらつかめない。というより、振り返ろうとして振り向いても後ろの道が暗くてほとんど何も見えないような状態になっている。昨日のこと、一昨日のことはかろうじて思い出せるのだが十日前となると絶望的で、たった十日前なのに、まるでそんな日など最初から存在していなかったかのように感じられる。考えることではなく感じることを優先することもあれば、考えることのほうを優先することもあるが、過去のことに関して言えば考えることを優先させておかないと、そもそも気分として良かった/悪かった気がするぐらいのものでしかなくなくなってしまう。それでたくさんだという”今人間”化もひとつの方針だろうが、何かを書こうとするにあたりその方針はうまく機能しないことはたしかだ。
この日記の文章についても気分が向くままに書き進めていて、それがある程度の長さに達すると、書き始めに考えていたことからズレてくる。それはまあ当然のことなのだが、問題はズレたことに気づかないこと、ズレる前の考えを保持しておけないことにある。だいたいこういう感じのことを思っているからと気分で書いているだけのことは、読み手にとって云々という見え方の問題以前に、書き手にとっても書き散らかすという癖になってあまり良くないのかもしれない。これからはもっと意識して文章を書くという当たり前のことをやらなければならない。昔、いわゆる考えすぎて書けないという時期があったのはおそらく間違いないとは思うが、今はそうではない。今は昔とはべつの問題があるのだから昔のやり方に引きずられず、それに対処するやり方を採用していかないと駄目だ。
具体的には読書の精度を上げることだ。スピードを意識して流し読みするようになり、それはそれで大づかみに把握する分にはやり方として有用だったと思うが、じっくり腰を据えて読むということをしないと落ちていく読書能力がある。読まないと一気に下がる筋力というものがあると思うが、自分の場合は読みながらぐんぐん落ちていった。なまじ読んではいるから、落ちているという感覚がなんとなくあったとしても、心情的にそれをインサイトにしづらいし、頭の中で完結する能力についてはいくらでも甘いことを考えていられるということに本質的に安んじるタイプだから、自分の中の老教師を呼び起こして、彼にも糖分がいくように回路を作らなければならない、もとい、ならんじゃろう。うむ、そうせねばなるまいて。

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