20240717

日記419

島々

2024/07/16 昨日
なんとか早起きしてなんとかスターバックスに行く。あまり芳しくない成果しか得られず。行けばなんとかなるというものではないのでまあ仕方ない。
定時三十分前に退勤してNTL『ザ・モーティヴ&ザ・キュー』を見にいく。芝居とシェイクスピアの面白さを実感するような演劇だった。これも仕方ないことなのかもしれないが英語で発声されるセリフの響きと翻訳日本語で発声されるセリフの響きが全然同じものにならず、前者と後者が演劇としてまったくべつの受容になってしまう。たとえば鋭利な切り口としてスパッと言い切りたいとき、英語で完璧にしっくりくる場面があるとすれば別言語では不完全な表現として立ち表れざるを得ない。芸が込んでくると微妙なかたちの違いが重要さを増してくるものだから、この差に目をつぶるのが難しくなっていく。
誰かが喋るとき他の人はそれを聞く、キューが出たらべつの人が話し始めるという演劇特有の会話について不自然だと思う感性が自分にはないのでそもそも気にならないのだが、この作品はそういった旧式の演劇を舞台に活躍する演劇人を登場人物にしている演劇だから、会話の自然さというものについて鋭敏な感性を持っている人でもそれを一時棚上げできるのではないかと思った。
あとはハムレットを演じるに足る人物(バートン)がハムレットを演じているのも面白かった。バートンを演じている役者は、演劇舞台に挑戦する人気映画俳優が演じるハムレットを演じるわけで、この華の持たされ方はなかなかのものだったとはずだが、立派に務めていてすごいと思った。それにくらべるとギールグッド役のほうはつねに同じ方向を向いていて切り替えがない分単純だといえる。しかしハムレットを演出する演出家としての説得力を持たせるのは並大抵のことではない。稽古場の演出を演じるというのは動ける範囲が少ないのに自由に動けと命令されるようなものでやってられないことだろう。
良いシーンはいくつもあったが、「最初と最後だけ譲ってあいだを全部取れ」という演出が役者に送るアドバイスではなく、役者が役者にするアドバイスが最後のメッセージになっていたのもよかった。
”自分の演じるハムレット”を演じるために、「セリフの言い方について指示を出すな」というのはまっとうな意見だと思うし、アドバイスを求めながらも自分で自分のハムレットを作り上げようとしているバートンは、つねに好感が持てる役者だった。周囲の役者たちもバートンに協調するのではなく、どちらかといえば反発したり、彼の意図を理解せず邪魔になったり、『ハムレット』のような構図のなかに彼を置いたのもよかった。
この演劇はアンチクライマックスとして作られたものではないと思うが、結果的にアンチクライマックスになっている。クライマックスに有名なセリフを配置して、観客を満足させようとしつつ、実際に重要なシーンは中頃に置いている。ポローニアスを刺し殺すシーンの稽古での、バートンが自分の解釈で演出のギールグッドを説得する場面がそれだ。過去に見た演劇についてのバートンの話は「事実とは異なる」といって恥を浴びせてきたギールグッドに対して、それはそうかもしれないと自分の恥となるミスを認めながら重要な部分は譲らないシーンで、バートンは彼のハムレットについて「彼はジェントルマンなんだ」という。だからポローニアスを殺すつもりはなかったと続く、合理性に欠く主張なのだが、その合理性の欠如こそがバートンの達成になっている。
それというのも演劇というのは合理性のなかにあるものではないからだ。これは当然のことだが、忘れられやすいことでもある。ギールグッドはバートンの話を事実誤認だと指摘することで彼の意図を挫こうとした。これだけでもそのやり口からして間違っていると指摘することができるが、さらに間違っているのは、バートンの話は舞台の上で行われたことについての話であり、それに対して「事実はこうだ」と言って攻撃しようとしたところだ。一方が彼の解釈を提示してきたときに、もう一方が事実を述べるというのでは話にならない。それはあなたの感想ですよねという現実世界において有効とみなされる言いくるめは、こと演劇の舞台上では役に立たない。それはただの事実ですよねというような相手に解釈を表現させるための言い方が有効なものなのかはわからないが、演劇において重要なのはどう思ったかということにすぎないのだ。だから演劇には価値があるのだといえる。事実がどうであるかということから免責されてしか考えられない事柄というのはあるし、人間の思考力の限界からすべてを考えに入れるということが不可能である以上、事実とは無関係の砂場を構築する必要はつねにある。その砂場で、それはお団子ではなく土塊だと事実を指摘するのは、端的にいって誤りである。
おそらくギールグッドはそれを承知の上で、稽古場の権力闘争での主導権を握るためにあえて無理な攻撃をしているのだと思われる。実際、バートンの主張に対してはじめは異を唱えるものの、最終的には彼のハムレットはそうなのかもしれないと同調している。このシーン以外も、ふたりはつねにハムレットをめぐる対立のなかにある。最終的にそれらは合意ともみえる大団円を迎えることになるが、面白いのは合意そのものではなくそれに至ろうとする対決のほうだ。この対立ないし対決は、お互いが相手の妥協をその基本軸に据えており、それがそのまま見応えにつながっている。一方が選ばれるとき、他方は選ばれないという当然の事実を隠蔽するかたちでこの作品は幕を閉じる。それも演劇には可能な形式であり、有効な手段であるといえる。

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