20240701

日記410

嘘の龍虎町(現実界)

2024/06/29 一昨日
オールナイト企画に参加したおかげでサタデーモーニングは消し飛び、午後になってもだらだら過ごしたり寝たりない分を補ったりしているうちにあっという間に夜になった。夜と言っても十八時なんて甘いもんじゃない。なんと二十一時になったのだった。それでもさすがに一日フルで休んだだけあり、気力体力ともに充実していたのでメスカルを飲みに出かける。万珍酒店という店で角打ち。角打ちなのにもかかわらずローソファが設置されていてゆったりリラックスできるチルな空間だった。その後三茶に行くつもりが店を出て歩く方向を間違える。淡島通りに出たので結局池ノ上に向かって歩く。そこから東北沢をなめて下北に戻る。氷結とナッツを持って夜の散歩になった。今年最後の春になるのかもしれないがめちゃくちゃ過ごしやすい夜だった。十二時前に帰ってきて、春雨スープを飲んでから一時過ぎにねむる。

2024/06/30 昨日
TCB三人で十一時に新宿集合。新宿で買ったアイスコーヒーを卸したての白いFFⅥTシャツにこぼす愚を犯す。歌舞伎町タワーのほうを巡回してから山手線に乗り込み、行きがかり上五反田で降りることになる。目星をつけた乗客が降りた駅で降りるという山手線ルーレット企画。暑くて不快だが歩くのが不可能というほどではない気候。歩いて武蔵小山に向かう。武蔵小山に来たことはあったがアーケード商店街に来たのは始めてだった。龍の演し物をやっていて頭役のおじさんだけがノリノリで楽しそうなのが印象に残った。一番長いアーケード商店街だとかいう話だったがこの日は都合一往復半した。TCBが集まるといつも歩きづめに歩くことになる。林試の森公園をぐるっと回ったり、ジェラートを食べたりしたあと飲み屋に入る。この日は二軒飲み屋に入った。晩杯屋本店仮店舗と炙りま専科。とくに後者では目覚ましい活躍があった。サイコロを振ってハイボールが安くなる企画で、三人が二回ずつサイコロを転がして、偶数一回、ゾロ目一回という出来すぎた結果になった。サイコロを転がした順に、無料、半額、半額、半額、無料、無料。それなりに食べて三〇九〇円という破格の成績だった。一人当たりではない。三人合わせて三〇九〇円。
そこから戸越銀座商店街まで歩き、武蔵小山駅前まで引き返す。最後駅前ベンチに座って強い風に吹かれながら駄弁っているのは良い時間だった。残念に思いながらも翌日出勤なので一抜けする。二十二時に下北沢につく。同居人とミカン前で待ち合わせて一緒に帰る。風に吹かれて歩いて帰る。

2024/07/01 今日
ポツポツ雨だったので傘をもたず家を出る賭けに出た。天気予報を見て判断したのでギャンブル性はうすかったが、家から駅まで以外には降られなかったので天気予報を信じて結果よかった。
これから二ヶ月間レシートを受け取る生活が始まる。生活のデータを揃えることに喜びをおぼえるほうなので性に合っていると思う反面、突飛な行動をしないから傍から見て面白みに欠けるだろうとも思う。あまりわざとらしい出費はしないようにしようとは思うものの、かました出費をかましたいという思いもある。一日目ということで予定していた映画の日の映画鑑賞だったが『ルックバック』がなぜか一律料金とか言って一七〇〇円固定でせっかくの映画の日を無効にしてきたので腹が立ち、見に行くのを止めにする。そもそもそんなに見に行きたいと思っていない映画を見て無為に時間を潰すのを止めるべきだ。
定時で上がってスタバに行く。日記を書く。『ロリータ』を読む。ハンバートハンバートがロリータの母親と結婚した。ロリータに接近するという目的のためにはもっとも合理的な手段だ。しかしそれではあまりにも、という感覚はある。それでも、目的が手段を正当化するということではないけれど、それを九〇度回転させて、何をどうやっても目的が正当化される見込みはない以上、手段が正当化される意味がないと判断するのは理にかなっているように思われる。ルールを守る意味ごと消滅するから、すべてが可能になるというのは恐ろしいことだが、そういった自棄というのは本来そこらじゅういたるところで起こってもおかしくないはずのことだと思う。しかし実際にはそういう滅茶苦茶なことが全然起きないわけで、何がどうなっているのか、まったくわけがわからない。いわゆる文学的想像力というものが文学の世界の内側で想像力として留まっていることのプラスの影響(極端なマイナスが実在しないということ)ははかりしれないものがある。将来のことは確定していないという夢想が、文学的想像力を瓶詰めにしている当のもので、しかも両者は同じものにも受け取られる余地があるというのは、身も蓋もないようななし崩し的なトンネルが地下に通っていて、どうしても爆発するはずのガスがそれそのものは危険だが全体として見れば安全に寄与するかたちで外に漏れ出ているようなものだと思う。しかし、運悪くその場に当たる個人は致命的な影響を受けることになるのだろう。それでも自分の不運を背負っておとなしく死んでいくというのは一体どういう気持ちのすることなのだろう。
『戦争と平和』を読む。老公爵が亡くなる。マリヤは老公爵の最期を看取り、彼から優しい言葉をかけられる。それまで継続的に虐げられ、絶対の支配下に置かれていた境遇を最期の一言で帳消しにするというのは不可能なことであるはずなのだが、そういうことが奇跡的に可能になることもひょっとすると実際にある、少なくともそういう見立てができるように書かれていた。ただし最期の老公爵に救いがあるというようには書かれていない。自業自得だとは思えないほど苦しんで最期を迎えたと読めた。そういうとき、チホンがみせた実際的な聞き耳を立てる能力、死へと近づく人間の立てる「か細い声」を聞き分ける能力というのは、いつも必要なものではないが、それでもここぞという時にはもっとも必要な能力だと思った。最期の場面はどうしても決定的にならざるを得ない。そこで何が聞こえるかというのは最も「試される」場面だと言ってもいい。そこで試されるのは発信する口ではなく受信する耳だ。
アルパートゥイチとドローンの対決場面が面白かった。支配者のヒエラルキーの上部と下部で接している人物同士の対話だが、どちらもそれまでに自分の立場を築いてきただけあって如才ない。漫画『ヒストリエ』の一話分に相当する緊張感のあるやりとりだった。しかも会話だけで実際に血が出るようなシーンではないので、文字情報だけのほうがより迫力が出るのではないかと思う。
ヒストリエの十二巻はやっぱり面白かった。ついに主要人物が死に、そのことで「放たれた矢」になるエウメネス。クライマックスの戦闘場面ではいびつな時間感覚を味わえる。一瞬の出来事をスローモーションにするというのは映像でやる分にはありきたりだが、漫画のコマでそれが表現されると、読んでいる側の感情の動きと速度がシンクロすることもあって奇妙な感覚になる。時間を動かすのが自分の心の動きだから、目で見たときの動く錯覚よりも、心の芯を捉えたアニメーションになる。登場人物が被らなければならない「痛さ」について、絵から伝わるのが信じられないほど伝わってくる。

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