20240726

沖縄行(2024年7月23-24日)



沖縄に行ってきた。旅行ではなく出張で行ったのだが、仕事はほんの三時間ほど突っ立っているだけのことで、やったことのほとんどは移動だった。移動するのは好きだし、何だったらそれも旅の一部だと考えているので、ほとんど旅行といっても良いかもしれない。そのことは行く前からわかっていたので、面倒そうな顔を頑張って作りながら、内心では楽しみにしていた。
沖縄に行くのは中学校の修学旅行ぶりなのでかれこれ二十二年ぶりになる。当時は物心ついていたかどうかもあやしいほどだったが、少なくとも二十二年後にこんなかたちで沖縄を再訪することになるとは、ちらとも考えたこともなかった。物心ついていたかどうかは措くとしても将来のことは一切考えていなかった。二十代の終わりごろまで深く考えないままきて、三十代後半も終わりつつある今も深く考えているかどうかと訊かれたらあやしいものだ。
沖縄に行ったらもっと楽しいはずだと思っていたのだが、そういうことはなく、むしろ一人旅にそれほど積極的な楽しみを見出さない自分を発見した。それでも目的駅の途中で下車してイオンに入ってみたり、夜の国際通りを徘徊して適当な飲み屋を探したりといったいささか定型的なコースを辿るだけ辿って、自分なりに沖縄のローカルを見つけようとしていた。
海にも行った。ゆいレールというモノレールも敷設されていない本島の南端まで行ったのだが、そこの海をちらっとだけ見た。人が歩くためにあると思われる道を抜けて海岸に着くと多数のフナムシがぞろぞろと足元から逃げ出していき、こちらもたまらず、海岸からはすぐに退散した。
退散する前にはヤドカリの喧嘩も見た。それなりに大きな波の音にかき消されないほどの音量で足元からかさこそと音がするので何事かと思って見ると、わけのわからない虫が死にかけているのだと一瞬思ったが、そこで恐慌をきたし逃げ出さずに踏みとどまって見てみると、それははたして二匹のヤドカリだった。片方は立派な貝殻を背負っている。もう一方はどういう事情からかわからないが何も装備していない。丸腰のヤドカリが頑張って宿主を追い出してヤドを手に入れようとしている。宿主はあまり抵抗しようとしないので死んでいるか衰弱しているのかと思ったが、チャレンジャーほど積極的に動いていないだけで、調子がわるいわけではなさそうだった。結局、宿主が挑戦者を気怠そうに邪魔くさそうにあしらった後、向こうの方に歩いていってしまった。自分は小さいけれど真剣な喧嘩をいつのまにか夢中になって見ていたようで、彼らから目を離さないまま歩を移そうとしたとき、貝殻を踏みつけるようなバリッという乾いた音がして、貝殻を踏みつけたような感触を足裏に感じた。とたんに嫌な予感が襲ってきたが、残念ながらその予感は即的中した。さっきのヤドカリよりは小さいが、ウジャウジャ動く小さな子ヤドカリよりは大きい、中ぐらいのヤドカリが足元でぺしゃんこになっているのを見た。たくさんいる小ヤドカリではなく中ヤドカリを踏みつけたのはせっかくそこまで育った分だけもったいないことをしたという損得計算がはたらいた。まだ大人とはいえないまでも、中ヤドカリのサイズにまで大きくなるためには能力と運が必要だったはずで、それらの蓄積が水泡に帰したことをもったいないと感じたのだ。沖縄の海を見ることと中ヤドカリを踏み潰すことを天秤にかけたとき、我が天秤はおごそかに、海岸になど行かなければよかったという考えに傾いた。だからそれ以上海を見る気も失せて、フナムシは気持ち悪いし、そそくさと海岸から離れたのだった。
海岸を離れると休憩するためのベンチを設置しているあずま屋を見つけた。接近している台風の影響で天気は荒れ模様。海近辺に来る前にも何度か通り雨をやり過ごしたのだが、ここでも通り雨に降られそうになった。運良くそこにあったあずま屋のおかげで、ずぶ濡れになることは避けられて、多少水しぶきが袖を濡らすぐらいで済んだ。袖を濡らすと言っても言葉の綾だったり言語表現のたぐいではなく、実際に物理的に袖を濡らしたということだ。中学時代なら知らず、四十もついそこまで近づいている今、さすがにそこまでナイーブではない。
あずま屋一帯には沖縄らしいシーサー付きの民家がぽつぽつあって、ただの道にも猫が寝転がっていたり、そこらじゅうに猫がいた。どうやら猫が多く暮らしているエリアのようだった。民家の庭には形式的に用意しただけのような、ごく低い、おそらく膝までもないコンクリート柵があった。その庭に猫はいた。沖縄で見つけた最初の猫だ。体調がすぐれないのか動きはゆっくりだったが、呼びかけるとこっちに向かってよたよた歩いてくる人懐こいやつで、呼ぶと近づいてくるのが嬉しくて、しばらく呼び続けているとゆっくりした動きのままコンクリート柵のうえに乗っかった。昼間なのに瞳孔は完全に開いていたから、ほとんど視えないのだということに気がついた。ここの猫たちは飼われているのか野良なのかが都会よりずっと曖昧で、それでも餌などはもらっているのだろうから人間と暮らしている猫だということはいえる。視えない猫は、声に近づいてきたことから考えると、他の猫たちからよりも人間から良くされているのだろう。
あまりにも近づいてきてくれるので撫でようかとも思ったが、完全に飼い猫ではなく半野良という風貌につい気持ちが弱くなって、シャツの裾のにおいをちょっと嗅がせて挨拶するだけに留まった。衛生的にあまり良くないのではないかとも思ったからだ。周囲に蛇口もないし、しばらく手を洗うことができない状況で猫に触ることが躊躇われた。
綺麗好きというほどではないが、それなりに衛生観念は高く、こういうちょっと嫌だなと思うところを押してまで何かをするということはできない。そもそも無理に何かをする意味がある状況ではない。しかし、自分の声で呼び寄せた猫がコンクリート柵にまで上ってきてくれたのに、それに応えることができないというのはそれなりに情けない思いのすることだ。猫はかわいいだけで、こちらの思惑など無頓着かつ無関係だということはわかっている。たんに腹が減っていていつものように手渡しで餌をくれるやつが現れたと思っただけのことかもしれない。それでも猫と自分しか周囲にいないあの環境で、尻込みしたまま猫に指一本触れないということがありのまま自分を表しているとしか思えず、情けなかった。今回の沖縄行きではそれ以外とくに何事もなかった。中ヤドカリを踏み潰して、猫をコンクリート柵の上まで呼び寄せて、海を見ただけだ。タイミングよく屋根の下に隠れたから、土砂降りの通り雨が続くなかでも傘を持っていかずに全然濡れなかったが、そんなことはいちいち得意がるようなことでもない。
この先いつになったらまた沖縄を訪れることになるのか、まったく見当もつかない。

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