go-round
2024/07/30 昨日
朝からスタバにいく。日記を書いたり『ムーンシャイン』を読んだり。仕事は途中で外出予定があったので早めに出て中目黒経由で大坂上のDCまでいく。途中もっとゆっくりするつもりが意外とそんなに時間があるわけではなかったので普通にちょっと早めに着く。
仕事が終わったあとLUUPで直帰。家の近くのポートまで一気なので歩行による体温上昇も抑えられいい感じだ。この日はいつもとはちがう経路を選んで帰った。池尻から代沢に抜けるコース。
帰宅後、いつか見ようと思っていたアフターサンを見る。しかし、これは完全に『ロリータ』の影響から、主人公と女児との関係をどうしても疑いながら見なければならず、だいぶ後半になるまでそれが続いたせいもあって映画のエスプリ部分に集中することができなかった。時機を誤った感がある。(ただ『ロリータ』の存在感がこの先完全に無くなることはないだろうから、特定のモチーフや登場人物をトリガーにして結局再生されてしまうような気もする)
娘の人生と自分の人生がトレードオフになると感じてしまうことについては、それ自体が錯誤なのではないかと、知ったような、わかったような、”悟った”ようなことをつい思ってしまうのだが、実際に主人公には「エジンバラに縛られている」という感覚はあるのだろうし、遠くへいきたいという思いにとって娘の存在はこれ以上ない重しになるのだろうから、他人の考え方や感じ方を尊重するべきところなのだろう。娘の側からは父親の事情がわからず、表面に出てくる部分から想像しないといけないという、これ自体は当たり前にどこにでもある主客の認知ギャップに忠実な作りになっているのはこの映画の冷静な部分で、だからこそ面白いと感じるところでもあるのだろうと思う。残された記憶を手がかりに想像を埋めようとし続けることでだんだん見えてくることは多分あって、娘が映像を再生している頃というのは、おそらくもっともナーバスな時期で、記憶そのもののうちからシリアスな部分を取り出してしまうのだろうから、ああいう見え方=aftersunという映画になるのだと考えられる。ただ記憶の全体をシリアスなものにせず、どうにかヘラヘラした部分を残していてほしいと思うのだが、それは過大な要求というものだろうか。「これが俺の動きだ」というその動きを見るかぎりでは、やはりそれも含めて「残りたい」という野望が見える。娘の側でそんなことは全然関係ないと言いたい時期もあれば、関係ないとも言い切れないという時期もあるのだろうと思うと、いくら過大な要求であろうと望みうると感じる以上は望むべきだ。もし「自分の人生を選択する」ということをしているのであれば、そもそも過大な要求などではなく、それは当然の要求だということになる。そして自分ではない”他人”にもそのことがわかるためには、相手にも「自分の人生を選択する」ということをやってもらうしかない。もし要求に過大さがあるとすればそれはそこにある。あくまでも自分の側からは当然なのだが、それが相手に渡ることを予期することで過大になる、ある種の要求。同じ時間を生きられないという不可避のズレ。そういうことを突き詰めていくとシリアスな雰囲気が漂い始める。そしてここに罠があって、そういったシリアスさを排除しようとすると、そこに間違いのもとがある。たとえば、娘の前で涙を流さないという取り決めは、楽しく過ごすために有用なものだからなるべく履行されるのが適当だろう。しかしそれを絶対のルールにする意味はない。シリアスさを呼び込んでいるところがあるとすればそれはむしろこの部分で、これは端的に間違いだ。ともすれば過大にもなってしまうような要求を娘に要求するにあたって、その目的に適わないという意味で間違いだ。
自分の感情面での限界を知っていて、ほろりと涙をこぼすということでは済まないということがあらかじめわかっているとすれば、その場合、やはり入口を封鎖するしかないのだろうから、間違いであるとはいえ仕方なしに選択されたものだといえるかもしれない。
それから、娘からすれば父親でも、実際にはただの三十一歳の男に過ぎず、ただの三十一歳の男だとしても、娘からすれば父親なのだから、こういうふうになるのはある程度仕方ないことなのかもしれない。だから結局、自分にできることを「これが俺の動きだ」とうそぶきながらやっていくだけのことだ。