20240731

日記427

go-round

2024/07/30 昨日
朝からスタバにいく。日記を書いたり『ムーンシャイン』を読んだり。仕事は途中で外出予定があったので早めに出て中目黒経由で大坂上のDCまでいく。途中もっとゆっくりするつもりが意外とそんなに時間があるわけではなかったので普通にちょっと早めに着く。
仕事が終わったあとLUUPで直帰。家の近くのポートまで一気なので歩行による体温上昇も抑えられいい感じだ。この日はいつもとはちがう経路を選んで帰った。池尻から代沢に抜けるコース。
帰宅後、いつか見ようと思っていたアフターサンを見る。しかし、これは完全に『ロリータ』の影響から、主人公と女児との関係をどうしても疑いながら見なければならず、だいぶ後半になるまでそれが続いたせいもあって映画のエスプリ部分に集中することができなかった。時機を誤った感がある。(ただ『ロリータ』の存在感がこの先完全に無くなることはないだろうから、特定のモチーフや登場人物をトリガーにして結局再生されてしまうような気もする)
娘の人生と自分の人生がトレードオフになると感じてしまうことについては、それ自体が錯誤なのではないかと、知ったような、わかったような、”悟った”ようなことをつい思ってしまうのだが、実際に主人公には「エジンバラに縛られている」という感覚はあるのだろうし、遠くへいきたいという思いにとって娘の存在はこれ以上ない重しになるのだろうから、他人の考え方や感じ方を尊重するべきところなのだろう。娘の側からは父親の事情がわからず、表面に出てくる部分から想像しないといけないという、これ自体は当たり前にどこにでもある主客の認知ギャップに忠実な作りになっているのはこの映画の冷静な部分で、だからこそ面白いと感じるところでもあるのだろうと思う。残された記憶を手がかりに想像を埋めようとし続けることでだんだん見えてくることは多分あって、娘が映像を再生している頃というのは、おそらくもっともナーバスな時期で、記憶そのもののうちからシリアスな部分を取り出してしまうのだろうから、ああいう見え方=aftersunという映画になるのだと考えられる。ただ記憶の全体をシリアスなものにせず、どうにかヘラヘラした部分を残していてほしいと思うのだが、それは過大な要求というものだろうか。「これが俺の動きだ」というその動きを見るかぎりでは、やはりそれも含めて「残りたい」という野望が見える。娘の側でそんなことは全然関係ないと言いたい時期もあれば、関係ないとも言い切れないという時期もあるのだろうと思うと、いくら過大な要求であろうと望みうると感じる以上は望むべきだ。もし「自分の人生を選択する」ということをしているのであれば、そもそも過大な要求などではなく、それは当然の要求だということになる。そして自分ではない”他人”にもそのことがわかるためには、相手にも「自分の人生を選択する」ということをやってもらうしかない。もし要求に過大さがあるとすればそれはそこにある。あくまでも自分の側からは当然なのだが、それが相手に渡ることを予期することで過大になる、ある種の要求。同じ時間を生きられないという不可避のズレ。そういうことを突き詰めていくとシリアスな雰囲気が漂い始める。そしてここに罠があって、そういったシリアスさを排除しようとすると、そこに間違いのもとがある。たとえば、娘の前で涙を流さないという取り決めは、楽しく過ごすために有用なものだからなるべく履行されるのが適当だろう。しかしそれを絶対のルールにする意味はない。シリアスさを呼び込んでいるところがあるとすればそれはむしろこの部分で、これは端的に間違いだ。ともすれば過大にもなってしまうような要求を娘に要求するにあたって、その目的に適わないという意味で間違いだ。
自分の感情面での限界を知っていて、ほろりと涙をこぼすということでは済まないということがあらかじめわかっているとすれば、その場合、やはり入口を封鎖するしかないのだろうから、間違いであるとはいえ仕方なしに選択されたものだといえるかもしれない。
それから、娘からすれば父親でも、実際にはただの三十一歳の男に過ぎず、ただの三十一歳の男だとしても、娘からすれば父親なのだから、こういうふうになるのはある程度仕方ないことなのかもしれない。だから結局、自分にできることを「これが俺の動きだ」とうそぶきながらやっていくだけのことだ。

20240730

日記426

きょう

2024/07/29 昨日
朝タリーズに行ってムーンシャインを読む。日記を書こうと思ったがあまり時間がなかったのでやったことだけパパっと書くことになった。
仕事時間中は小忙しく仕事だけをやる。週末に睡眠時間が遅くなるので月曜日はどうしても眠気が多い。昼寝をするなどして対処する。
定時退勤後、電車の中で本を読んで下北沢のベンチに座って酒を飲む。途中友人と電話で話す。帰宅後キャベツ納豆豆腐という簡易メニューで夕飯を済ませ、翌朝のためにすぐに寝てしまう。

2024/07/30 今日
変な夢の二本立てで眠りが浅かった。というか身体をこわばらせて寝ていたのがわかるほど起きたときに身体ががちがちで、夢のせいでそうなったのか、そうなったからそれに応じた夢を見たのか、因果関係のスタート地点が不明だがとにかく緊張状態の睡眠だった。
二本目の夢は同居している彼女に意地悪なことを言われる夢で、こんな夢を見て彼女に失礼だというぐらいのことを言われた。いや、思い返してみると内容はそうでもなく、ただ自分の能力の低さをなじられただけなのだが、その言い方がよくないものだった。まず彼女がそこまで評価しているとは思えない知り合いと自分とを較べてきて、その時点で「ん?」と思ったが、その人はできているのにお前は全然できていないということを言われた。悔しさを通り越して冷静に自分の欠点にフォーカスできたから結果よかったのだが、そういうとき悪意を持つ意味はないからそこだけが解せないと感じた。どうやって夢が終わったのか覚えていないが、しばらくして次の夢に移って、それから目覚ましが鳴った感じ。
一本目の夢はあまり覚えていない。何かを失くし、それが悲しくて涙が出そうになる夢だった。実際にまぶたのなかで涙が滲んだような気がする。無くなるはずないと思っていたものが無くなったことに気がついて、その脱力感に襲われていた。何が無くなったと思ったのか思い出せないというのがどうにも夢らしく、悲しいところだ。その愚かさを詰ってほしくて二本目に彼女を登場させたのかもしれない。たしかに、二本目の夢を見る前からすでに、失くしたものの記憶がなかったような気がする。そのうえ、二本目の夢と忘れてしまった三本目の夢のぶんだけ、一本目の夢は遠くへ離れていってしまった。じつはVには兄がいたとか、そんなんだったような違うような。横になっているとき足元にあるリビングのほうで何かが起こっている気配があった。

20240729

日記425

小雨決行

2024/07/26 一昨昨日
丸の内での盆踊りでは炭坑節を踊れなかった。盆踊りにはたくさんのバリアントがあって、まだまだ知らない振り付けのパターンやその組み合わせがあることを知った。
盆踊りの興奮そのままに下北沢の飲み屋135酒場に入って飲んでから帰る。そうすると結局、ねむるのが一時過ぎになってしまった。

2024/07/27 一昨日
朝、昨日オーラリーの24AWが発売開始されていることを知る。欲しかったレザーブルゾンは秒で売り切れになったようなのだがオンラインストアではなく実店舗にはまだあるのではないかと儚い望みを持って開店時間の十二時まで過ごす。電話するも昨日時点で全てのサイズが売り切れとのこと。それはそうだろうと予期していたもののやはり残念だった。オーバーサイズのレザーブルゾンであの襟のかたちというのは他で探してもなさそうだし、皮のことは全然わからないがファブリックにこだわりを持つブランドへの信頼感もあって、はじめて手を出すレザー商品の最適解だと思っていたので気持ちだけはスタンバイしていたのだが、発売日の通知をキャッチできず、残念な結果になってしまった。まあ、ルックが良すぎたので仕方がない。この商品についてはコレクションの一枚目もそうだが、おじいさんが着ているルックで完全ノックアウトされた。
昼ご飯を食べるために出かける。あまりにもあまりにもな暑さだったので下北まで歩くのを躊躇し、電車に乗って代々木上原まで出る。駅施設内の飲食店の中からコラボという焼肉屋を選択し、焼肉定食を食べる。焼肉で腹八分目というのは従来の自分の焼肉観には合わないのだが、ランチで焼肉ということも考えるとこういうライトな考え方もありなのかもしれない。
そのまま代々木上原のカフェで過ごそうとしたのだがスタバは満席で入れず、カルディカフェはなんとなく居づらそうな気がしたので結局昼食だけで代々木上原を離れた。
その後表参道のスタバに行って『戦争と平和』を読む。アナリティクスの学習を少しすすめる。青山ブックセンターに行って『ムーンシャイン』を入手する。
大相撲は結びの一番だけ見る。隆の勝が金星で会場を盛り上げていた。勝って座布団直撃というのはなかなかできる経験ではないと思う。
夜からは吉原で開催される音楽イベントにいく。あまり大きくないスペースで観客として場に参加するとき、どこまでお客様でいてどこまで参加者でいればいいのかというバランスをとるのが難しいと感じる。しかし正確に言えば、今までゲストでかつ参加者でいれた試しなどないのだからバランスをとるのが難しいではなく、ゲストとして積極性をもって場に参加するのが難しいというのが実情だ。これは喫茶店の常連になるのが難しい問題=スタバがラクでスタバばっかり使ってしまう問題にも通じている。オープンマインドになれない人間が無理してどこかの常連になろうとするのは店の人間にも迷惑なことだろうからこの利用方法が自分に適している。ただ呼ばれていった小規模なイベントにおいて自分自身の居心地の良さを自分自身で作り上げる術はこの先にも必要なスキルにちがいないので、なんとかして構築していかなければと思う。今のところは「リラックスしている」と自分で自分に言い聞かせてじっとしているというレベル1のやり方ばっかりだ。そもそもイベントは楽しいからそれでもかまわないという考え方もある。ああいう場所ではまず間違いなくお酒を飲めるし。
この日もねむるのが遅くなってしまう。たしか一時前ごろ。

2024/07/28 昨日
一日家で過ごす。優勝決定戦までもつれこむものの、前日土を付けられた相手にしっかり勝っての、照ノ富士一〇度目の優勝を見届けたあと、表参道の盆踊り大会に出かける。善光寺の盆踊り。これまで行った盆踊りのなかでもトップクラスに楽しめる盆踊りだった。めちゃくちゃ汗をかいてかつそれが楽しいということは他にはない。
すぐに帰って寝る準備をととのえ何とか二十二時半にはねむる。

20240726

日記424

スペース・スペース

2024/07/25 昨日
仕事後にデッドプール3を見に行く。面白いんだろうと思っていたが果たして面白かった。敵味方入り乱れてのアクションシーンにはマーブル的既視感がありつつも、台詞回しやデップー的戦闘シーンについてはよくできていると思った。
それでも面白くてかつ言及すべき映画は他にある。自分にとってはこの映画という力は2のほうが大きかったように思う。それでもたった一言のセリフで観客の欲しい涙腺刺激を与えようとするラストのパーティーシーンはさすがライアン・レイノルズだと唸らされた。
デップーを虚無のなかに叩き込む映画がある。それについてはきちんと書かないといけない。リテイクという日本の映画だ。

2024/07/26 今日
朝から眠いなかタリーズに行って沖縄でのことを日記に書く。自分をよく見せようという欲を正しい方向に向けられたらもうすこし変化があるのかもしれない。しかし尻込みしたり弱気になったり、思うように思えないという部分にどうしようもなく自分の痕跡を見出してしまう。もっとシンプルに考えたら良いのに、と最近の自分はよく考えるし、中年男さながら無頓着に口に出しさえする。それは正しいことだと思うが、それでもやっぱりその方向を向いて完全に固定されるということは起こってほしくないことだ。そういう気分でメロウな雰囲気に持っていくというのは論外だとしても、そういうみっともない方向性にも可動域を保持していたい。
仕事後、丸の内盆踊りにでかける。とうとう炭坑節を踊れると思うと楽しみだ。

沖縄行(2024年7月23-24日)



沖縄に行ってきた。旅行ではなく出張で行ったのだが、仕事はほんの三時間ほど突っ立っているだけのことで、やったことのほとんどは移動だった。移動するのは好きだし、何だったらそれも旅の一部だと考えているので、ほとんど旅行といっても良いかもしれない。そのことは行く前からわかっていたので、面倒そうな顔を頑張って作りながら、内心では楽しみにしていた。
沖縄に行くのは中学校の修学旅行ぶりなのでかれこれ二十二年ぶりになる。当時は物心ついていたかどうかもあやしいほどだったが、少なくとも二十二年後にこんなかたちで沖縄を再訪することになるとは、ちらとも考えたこともなかった。物心ついていたかどうかは措くとしても将来のことは一切考えていなかった。二十代の終わりごろまで深く考えないままきて、三十代後半も終わりつつある今も深く考えているかどうかと訊かれたらあやしいものだ。
沖縄に行ったらもっと楽しいはずだと思っていたのだが、そういうことはなく、むしろ一人旅にそれほど積極的な楽しみを見出さない自分を発見した。それでも目的駅の途中で下車してイオンに入ってみたり、夜の国際通りを徘徊して適当な飲み屋を探したりといったいささか定型的なコースを辿るだけ辿って、自分なりに沖縄のローカルを見つけようとしていた。
海にも行った。ゆいレールというモノレールも敷設されていない本島の南端まで行ったのだが、そこの海をちらっとだけ見た。人が歩くためにあると思われる道を抜けて海岸に着くと多数のフナムシがぞろぞろと足元から逃げ出していき、こちらもたまらず、海岸からはすぐに退散した。
退散する前にはヤドカリの喧嘩も見た。それなりに大きな波の音にかき消されないほどの音量で足元からかさこそと音がするので何事かと思って見ると、わけのわからない虫が死にかけているのだと一瞬思ったが、そこで恐慌をきたし逃げ出さずに踏みとどまって見てみると、それははたして二匹のヤドカリだった。片方は立派な貝殻を背負っている。もう一方はどういう事情からかわからないが何も装備していない。丸腰のヤドカリが頑張って宿主を追い出してヤドを手に入れようとしている。宿主はあまり抵抗しようとしないので死んでいるか衰弱しているのかと思ったが、チャレンジャーほど積極的に動いていないだけで、調子がわるいわけではなさそうだった。結局、宿主が挑戦者を気怠そうに邪魔くさそうにあしらった後、向こうの方に歩いていってしまった。自分は小さいけれど真剣な喧嘩をいつのまにか夢中になって見ていたようで、彼らから目を離さないまま歩を移そうとしたとき、貝殻を踏みつけるようなバリッという乾いた音がして、貝殻を踏みつけたような感触を足裏に感じた。とたんに嫌な予感が襲ってきたが、残念ながらその予感は即的中した。さっきのヤドカリよりは小さいが、ウジャウジャ動く小さな子ヤドカリよりは大きい、中ぐらいのヤドカリが足元でぺしゃんこになっているのを見た。たくさんいる小ヤドカリではなく中ヤドカリを踏みつけたのはせっかくそこまで育った分だけもったいないことをしたという損得計算がはたらいた。まだ大人とはいえないまでも、中ヤドカリのサイズにまで大きくなるためには能力と運が必要だったはずで、それらの蓄積が水泡に帰したことをもったいないと感じたのだ。沖縄の海を見ることと中ヤドカリを踏み潰すことを天秤にかけたとき、我が天秤はおごそかに、海岸になど行かなければよかったという考えに傾いた。だからそれ以上海を見る気も失せて、フナムシは気持ち悪いし、そそくさと海岸から離れたのだった。
海岸を離れると休憩するためのベンチを設置しているあずま屋を見つけた。接近している台風の影響で天気は荒れ模様。海近辺に来る前にも何度か通り雨をやり過ごしたのだが、ここでも通り雨に降られそうになった。運良くそこにあったあずま屋のおかげで、ずぶ濡れになることは避けられて、多少水しぶきが袖を濡らすぐらいで済んだ。袖を濡らすと言っても言葉の綾だったり言語表現のたぐいではなく、実際に物理的に袖を濡らしたということだ。中学時代なら知らず、四十もついそこまで近づいている今、さすがにそこまでナイーブではない。
あずま屋一帯には沖縄らしいシーサー付きの民家がぽつぽつあって、ただの道にも猫が寝転がっていたり、そこらじゅうに猫がいた。どうやら猫が多く暮らしているエリアのようだった。民家の庭には形式的に用意しただけのような、ごく低い、おそらく膝までもないコンクリート柵があった。その庭に猫はいた。沖縄で見つけた最初の猫だ。体調がすぐれないのか動きはゆっくりだったが、呼びかけるとこっちに向かってよたよた歩いてくる人懐こいやつで、呼ぶと近づいてくるのが嬉しくて、しばらく呼び続けているとゆっくりした動きのままコンクリート柵のうえに乗っかった。昼間なのに瞳孔は完全に開いていたから、ほとんど視えないのだということに気がついた。ここの猫たちは飼われているのか野良なのかが都会よりずっと曖昧で、それでも餌などはもらっているのだろうから人間と暮らしている猫だということはいえる。視えない猫は、声に近づいてきたことから考えると、他の猫たちからよりも人間から良くされているのだろう。
あまりにも近づいてきてくれるので撫でようかとも思ったが、完全に飼い猫ではなく半野良という風貌につい気持ちが弱くなって、シャツの裾のにおいをちょっと嗅がせて挨拶するだけに留まった。衛生的にあまり良くないのではないかとも思ったからだ。周囲に蛇口もないし、しばらく手を洗うことができない状況で猫に触ることが躊躇われた。
綺麗好きというほどではないが、それなりに衛生観念は高く、こういうちょっと嫌だなと思うところを押してまで何かをするということはできない。そもそも無理に何かをする意味がある状況ではない。しかし、自分の声で呼び寄せた猫がコンクリート柵にまで上ってきてくれたのに、それに応えることができないというのはそれなりに情けない思いのすることだ。猫はかわいいだけで、こちらの思惑など無頓着かつ無関係だということはわかっている。たんに腹が減っていていつものように手渡しで餌をくれるやつが現れたと思っただけのことかもしれない。それでも猫と自分しか周囲にいないあの環境で、尻込みしたまま猫に指一本触れないということがありのまま自分を表しているとしか思えず、情けなかった。今回の沖縄行きではそれ以外とくに何事もなかった。中ヤドカリを踏み潰して、猫をコンクリート柵の上まで呼び寄せて、海を見ただけだ。タイミングよく屋根の下に隠れたから、土砂降りの通り雨が続くなかでも傘を持っていかずに全然濡れなかったが、そんなことはいちいち得意がるようなことでもない。
この先いつになったらまた沖縄を訪れることになるのか、まったく見当もつかない。

20240722

日記423

明暗(逆転)

2024/07/20 一昨日
夕立ちに阻まれて結局盆踊りには参加できず。仕方ないので家で過ごす。アナリティクスの学習をすすめた。プロジェクトXのなでしこ回を見ながらご飯を食べる。ご飯がうまく炊けていておいしかった。なすの丸焼きもピーマンとそぼろもおいしかった。自分にはない発想と能力なのですごいと思う。なでしこがとても良い回だったので一旦テレビを消して余韻に浸る。だけど少ししたらまたテレビをつけて27時間テレビを見始めてしまう。チョコプラと霜降りの感じが気になった。向上委員会はさんまさんの喉の調子がよくなさそうだったので見るのをやめてねむる。

2024/07/21 昨日
海に行くのを決めていた日。下北沢で朝食としてドーナツを食べてから鵠沼海岸に向かう。小一時間で海に行けるのはいい環境だとあらためて感じる。鵠沼海岸の地中海料理の店でポークカツレツを誂える。カツレツといえば”誂える”といいたくなる料理名ナンバーワンなのではないか。
ビーチではビーチスポーツがいくつか開催されており、水辺はサーファー講習会と海水浴場になっていた。水につかって波を感じたり、砂浜に大の字になって寝転んだりというだけで楽しい。十七時過ぎにははやめに切り上げて下北沢に戻る。もうひとつの目当てだった代田納涼祭りに参加する。キッズ多めの盆踊り大会だったが和太鼓の演奏がしっかりしていて盛り上がっていた。
ベランダで線香花火をしようという話だったが疲れたのでその気力がなく、結局NHKでアメリカ大統領選の行方についての特番を見てねむる。

20240720

日記422

狭き通路

2024/07/19 昨日
大手町に出勤。朝スタバをすると大手町勤務人がひっきりなしにやってきて皆テイクアウトでコーヒーを自オフィスに持っていくようだった。
作業立ち合いのためにケーブルピット室に入る。地下でもあり狭くて陰気なスペースだった。こういう場所に閉じ込められて助けが来ない状況には陥りたくないものだと思った。
定時過ぎに大手町をあとにする。大手町からだと代々木上原方面への電車は予想通り座ることができた。結び前の一番と結びの一番を見られる。照ノ富士は六日目も完勝で調子が良さそうだった。
下北で飲んでから帰宅する。彼女の会社でプロフィール写真を撮る日だったらしく、スタジオでプロのカメラマンに何百枚と写真を撮ってもらっていて羨ましいかぎり。なんでもヘアメイクも付いていたらしい。見せてもらったどの写真もよかった。
普段からすれば寝る時間大幅に遅くなった。

2024/07/20 今日
昼頃に電車に乗って下北スタバに行く。外は暑すぎて冗談かと思うぐらい。『ロリータ』を読む。一気に最後まで読みたいと思ったがぎりぎり集中力が続かない。かなり面白いし読ませるのだけど集中が持続しないのは明らかにこちらの問題だ。テニスをプレーするときの優雅さのくだりはイメージが浮かぶようでとくに素晴らしい描写だと思った。
今日はこの後大相撲を見てから中野まで盆踊りを踊りにいく予定。

20240719

日記421

ストリートビルダー

2024/07/18 昨日
朝スタバの前に洗濯機を回し、出勤後もある程度勤勉に働く。昼からは在宅勤務に切り替えて大相撲を見ながらアナリティクスの学習を進める。定時退勤後はセブンイレブンで最低限食事分だけ買い込み(酒を買わず)、食後には家サウナで汗を流し、録り貯めしている映像の世紀バタフライエフェクトのノルマンディー上陸作戦回を見る。巨悪に立ち向かうため決死の覚悟で戦場に向かう連合国軍兵士、というやや扇状的な語りが気になったが、作戦における兵士の死傷者数1万人ほどに対してフランス民間人の死者4万5000人という事実を提示し、当時の戦場経験者からのメッセージで締めくくるというところでバランスをとっていた。
翌朝も早いのでそれに備えて九時すぎにはねむる。

2024/07/19 今日
朝から大手町で仕事があるのでそれにあわせて大手町のスタバにくる。早起きのリズムに慣れたせいか寝覚めばっちりでこれだけ調子がいいのは久しぶりだというぐらい調子がいい。

20240718

日記420

駅前の街路樹

2024/07/17 昨日
朝スタバ。眠さは眠いが行きの電車のラクさ快適さはモチベーションになる。何と言っても余裕で座れるところが良い。ここ最近はスランプと言うか、自分のやっていることのいい加減さに気づくフェーズに入っている。たとえばこの日記にしても意気込まずに書くということを心がけていて、だから続いているという側面はあるのだが、同じようなスタンスで小説を書こうとするのは全然うまくいかない。もともとこれは気晴らしのために始めたようなところがあり、気晴らしで満足している状態がそれなりに続き、そろそろと小説の方に戻ろうとしたところ筋力の衰えに気づいて驚いたというところだ。問題はそろそろと書いていた小説もこの日記と同じぐらいの気軽さで書いていたので一年弱経った今でも使えると感じられるところは全然ないということだ。
一年間何をやっていたのかと思うと気が重いが、実際制作に関することはろくすっぽ何もやっていないに等しいし、ちょっとだけあった進捗にしても、それが今の自分に気に入らないというのは嫌気の差すことではあるのだが、自分の書くものについて客観視したうえで足りないものがあると判断しているわけで、前進と言って言えないことはない。
ある程度の分量の文章を書くにあたり必要な「文章を掴んでいる能力」として、重要なもののひとつに記憶力があるが、それの衰えが顕著で困ってしまう。しかし自分の能力の衰えというのは認識しづらいもので、最近突然そうなったというのではなく同じような状況はある程度続いていたのだが、そうなっていることに全然気づかなかった。ある程度の期間続いていたといってそれがどの程度なのか、今思い出そうとしてしばらくじっとしてみるも思い出せそうな端緒すらつかめない。というより、振り返ろうとして振り向いても後ろの道が暗くてほとんど何も見えないような状態になっている。昨日のこと、一昨日のことはかろうじて思い出せるのだが十日前となると絶望的で、たった十日前なのに、まるでそんな日など最初から存在していなかったかのように感じられる。考えることではなく感じることを優先することもあれば、考えることのほうを優先することもあるが、過去のことに関して言えば考えることを優先させておかないと、そもそも気分として良かった/悪かった気がするぐらいのものでしかなくなくなってしまう。それでたくさんだという”今人間”化もひとつの方針だろうが、何かを書こうとするにあたりその方針はうまく機能しないことはたしかだ。
この日記の文章についても気分が向くままに書き進めていて、それがある程度の長さに達すると、書き始めに考えていたことからズレてくる。それはまあ当然のことなのだが、問題はズレたことに気づかないこと、ズレる前の考えを保持しておけないことにある。だいたいこういう感じのことを思っているからと気分で書いているだけのことは、読み手にとって云々という見え方の問題以前に、書き手にとっても書き散らかすという癖になってあまり良くないのかもしれない。これからはもっと意識して文章を書くという当たり前のことをやらなければならない。昔、いわゆる考えすぎて書けないという時期があったのはおそらく間違いないとは思うが、今はそうではない。今は昔とはべつの問題があるのだから昔のやり方に引きずられず、それに対処するやり方を採用していかないと駄目だ。
具体的には読書の精度を上げることだ。スピードを意識して流し読みするようになり、それはそれで大づかみに把握する分にはやり方として有用だったと思うが、じっくり腰を据えて読むということをしないと落ちていく読書能力がある。読まないと一気に下がる筋力というものがあると思うが、自分の場合は読みながらぐんぐん落ちていった。なまじ読んではいるから、落ちているという感覚がなんとなくあったとしても、心情的にそれをインサイトにしづらいし、頭の中で完結する能力についてはいくらでも甘いことを考えていられるということに本質的に安んじるタイプだから、自分の中の老教師を呼び起こして、彼にも糖分がいくように回路を作らなければならない、もとい、ならんじゃろう。うむ、そうせねばなるまいて。

20240717

日記419

島々

2024/07/16 昨日
なんとか早起きしてなんとかスターバックスに行く。あまり芳しくない成果しか得られず。行けばなんとかなるというものではないのでまあ仕方ない。
定時三十分前に退勤してNTL『ザ・モーティヴ&ザ・キュー』を見にいく。芝居とシェイクスピアの面白さを実感するような演劇だった。これも仕方ないことなのかもしれないが英語で発声されるセリフの響きと翻訳日本語で発声されるセリフの響きが全然同じものにならず、前者と後者が演劇としてまったくべつの受容になってしまう。たとえば鋭利な切り口としてスパッと言い切りたいとき、英語で完璧にしっくりくる場面があるとすれば別言語では不完全な表現として立ち表れざるを得ない。芸が込んでくると微妙なかたちの違いが重要さを増してくるものだから、この差に目をつぶるのが難しくなっていく。
誰かが喋るとき他の人はそれを聞く、キューが出たらべつの人が話し始めるという演劇特有の会話について不自然だと思う感性が自分にはないのでそもそも気にならないのだが、この作品はそういった旧式の演劇を舞台に活躍する演劇人を登場人物にしている演劇だから、会話の自然さというものについて鋭敏な感性を持っている人でもそれを一時棚上げできるのではないかと思った。
あとはハムレットを演じるに足る人物(バートン)がハムレットを演じているのも面白かった。バートンを演じている役者は、演劇舞台に挑戦する人気映画俳優が演じるハムレットを演じるわけで、この華の持たされ方はなかなかのものだったとはずだが、立派に務めていてすごいと思った。それにくらべるとギールグッド役のほうはつねに同じ方向を向いていて切り替えがない分単純だといえる。しかしハムレットを演出する演出家としての説得力を持たせるのは並大抵のことではない。稽古場の演出を演じるというのは動ける範囲が少ないのに自由に動けと命令されるようなものでやってられないことだろう。
良いシーンはいくつもあったが、「最初と最後だけ譲ってあいだを全部取れ」という演出が役者に送るアドバイスではなく、役者が役者にするアドバイスが最後のメッセージになっていたのもよかった。
”自分の演じるハムレット”を演じるために、「セリフの言い方について指示を出すな」というのはまっとうな意見だと思うし、アドバイスを求めながらも自分で自分のハムレットを作り上げようとしているバートンは、つねに好感が持てる役者だった。周囲の役者たちもバートンに協調するのではなく、どちらかといえば反発したり、彼の意図を理解せず邪魔になったり、『ハムレット』のような構図のなかに彼を置いたのもよかった。
この演劇はアンチクライマックスとして作られたものではないと思うが、結果的にアンチクライマックスになっている。クライマックスに有名なセリフを配置して、観客を満足させようとしつつ、実際に重要なシーンは中頃に置いている。ポローニアスを刺し殺すシーンの稽古での、バートンが自分の解釈で演出のギールグッドを説得する場面がそれだ。過去に見た演劇についてのバートンの話は「事実とは異なる」といって恥を浴びせてきたギールグッドに対して、それはそうかもしれないと自分の恥となるミスを認めながら重要な部分は譲らないシーンで、バートンは彼のハムレットについて「彼はジェントルマンなんだ」という。だからポローニアスを殺すつもりはなかったと続く、合理性に欠く主張なのだが、その合理性の欠如こそがバートンの達成になっている。
それというのも演劇というのは合理性のなかにあるものではないからだ。これは当然のことだが、忘れられやすいことでもある。ギールグッドはバートンの話を事実誤認だと指摘することで彼の意図を挫こうとした。これだけでもそのやり口からして間違っていると指摘することができるが、さらに間違っているのは、バートンの話は舞台の上で行われたことについての話であり、それに対して「事実はこうだ」と言って攻撃しようとしたところだ。一方が彼の解釈を提示してきたときに、もう一方が事実を述べるというのでは話にならない。それはあなたの感想ですよねという現実世界において有効とみなされる言いくるめは、こと演劇の舞台上では役に立たない。それはただの事実ですよねというような相手に解釈を表現させるための言い方が有効なものなのかはわからないが、演劇において重要なのはどう思ったかということにすぎないのだ。だから演劇には価値があるのだといえる。事実がどうであるかということから免責されてしか考えられない事柄というのはあるし、人間の思考力の限界からすべてを考えに入れるということが不可能である以上、事実とは無関係の砂場を構築する必要はつねにある。その砂場で、それはお団子ではなく土塊だと事実を指摘するのは、端的にいって誤りである。
おそらくギールグッドはそれを承知の上で、稽古場の権力闘争での主導権を握るためにあえて無理な攻撃をしているのだと思われる。実際、バートンの主張に対してはじめは異を唱えるものの、最終的には彼のハムレットはそうなのかもしれないと同調している。このシーン以外も、ふたりはつねにハムレットをめぐる対立のなかにある。最終的にそれらは合意ともみえる大団円を迎えることになるが、面白いのは合意そのものではなくそれに至ろうとする対決のほうだ。この対立ないし対決は、お互いが相手の妥協をその基本軸に据えており、それがそのまま見応えにつながっている。一方が選ばれるとき、他方は選ばれないという当然の事実を隠蔽するかたちでこの作品は幕を閉じる。それも演劇には可能な形式であり、有効な手段であるといえる。

20240716

日記418

雨宿

2024/07/13 一昨昨日
午前中にスタバに行く。昼食にバビシャーでチーズナンを食べてからすこし家でゆっくりして、代々木公園まで盆踊りに出かける。MC含め商業臭のするイベントではあったが盆踊りそのものには満足した。これまで渋谷系の野宮真貴を男性だと勘違いしていたということに気づいた。盆踊りのあと渋谷を巡回してから帰る。締めのラーメンはキャッシュの持ち合わせがなく断念。ダイエットにもなるのでよかったということにする。

2024/07/14 一昨日
やはり午前中にスタバに行く。昼頃集合して自宅でボードゲームをして遊ぶ。彼女と友人の三人でテキサスホールデム、クラスクをやって遊び、もうひとりが合流してからは散歩、カタン、ワードウルフ、アズール、神経衰弱で遊ぶ。夜二十三時過ぎまでのフルコースだった。
散歩の途中で氷結を飲もうとしたところ、こちらの不注意から不快な思いをさせる一幕があった。ただしこちらが飲んでいるのは氷結無糖だったので不買運動の対象にはならないということをあとから確認した。その商品を売っている企業の商品すべてを買い控えるという主張なのであればそれでも駄目なわけだが、そういったボイコットについてどこまで付き合うようにするかというのはこちらが決めることだ。たとえば自分の場合、スターバックスが悪だと言われても、そうですかではこれから行きませんとはならない。
あと散歩から引き上げて家に帰ろうとする途中で柄本佑と安藤サクラを見た。柄本はイメージよりも背が高くシュッとしていて安藤は思っていたより小柄だった。一瞬のすれ違いでなおかつ驚いてしまったのでオーラを感じたというような曖昧な印象しか持てなかったが、思い返してみても、とくに柄本佑は何事にも動揺しなさそうで胆力を感じさせる、悠揚とした歩き方をしていたような気がする。安藤サクラのほうはそれよりも自然で、オフモードという感じに見えた。
ゲームはだいたい1位か2位になって調子が良かった。ただ神経衰弱で本当に驚くほどさっきめくったカードが思い出せず、神経が衰弱しているのを感じた。昔神経衰弱をやっているときにはカードが何かをとくに覚えていようと意識することもなく覚えていて、造作なく連続で裏返していたものだが、それからすると悲惨な状態に陥っているということが自覚された。アルコールを採っていたこと、おしゃべりしながら遊んでいたこと、普段寝る時間からすると夜遅い時間帯だったこと、これらすべてを条件に含めても、壊滅的な記憶力のなさだった。感覚的には、表になっているカードを裏返してべつの場所に目を向けた瞬間、絵柄と数字が見えなくなるという感じだった。

2024/07/15 昨日
午前中スタバに行かず。十二時に散髪を予約したのでそれにあわせて出かける。その後、芝公園で台湾屋台フェスがある、関家具にみたいソファがあるというので浜松町まで出かける。原宿で染髪トリートメントをしていた同居人と渋谷駅山手線車内合流。浜松町駅からLUUPでプリンスホテルまで乗りつける。
台湾屋台フェスは五百円の入場料を取るというところから嫌な予感がしていたが、実際オペレーションが回っておらず、イベント主催団体をチェックしておいて今後そのイベントには行かないようにしようと考えたレベルだった。屋台の行列と行列の消化速度の遅さ、売り切れ商品があるのに売切れ表示をせず長時間行列に並ばせた挙げ句売り切れですと通知するなど、杜撰な管理というしかない。スタッフも暑い中ひっきりなしに料理を提供していて大変だったと思う。明らかにスタッフの数が足りておらず、それが行列の消化速度にも出ていた。
関家具はさすがに家具屋本社だけあってディスプレイの洗練や居心地のよさなどレベルが高かった。
屋台で食べ損ねた豆乳スープ(と台湾まぜそばと豆花)を台湾カフェで食べたあと、大門から大江戸線で新宿に移動する。南口の広場で大相撲を見たあと、眠気がマックスとのことだったのでそのまま帰る。三ヶ月後に控えたNY旅行の準備として、NYについてすこしだけ学んでからねむる。

20240712

日記417

渋谷ヒカリエ

2024/07/11 昨日
午前在宅勤務だった。朝始業前にセブンのコーヒーを買いに行き、朝スタバ代わりにする。
午前中は止まっていたアナリティクスの学習を再開することにして、内容を忘れていたために再テスト再テストになりながらも5章を終わらせる。
昼から仕事のために出社。チームメンバーや関係者とコミュニケーションをとる。
帰り道に最近新規オープンしたという渋谷アクシュに立ち寄る。建物内の動線が面白いし、渋谷のなかでも外れの方に位置しているので知ってる人だけが使えるといういい感じのスペースになりそうで期待できると思った。帰宅してキャベツ豆腐納豆というわびしい食事をとる。
映像の世紀バタフライエフェクト東京裁判回を見る。被告人のなかで広田弘毅がとくに印象的だった。法廷では最後まで沈黙を貫き、最後の退廷場面で息子に視線をやってから娘二人のほうを確認してから目礼するところでは映像の雄弁さとでもいうようなものがほとばしり出ていた。二人をしっかり確認してから目礼するまでの一連の動きと”間”が覚悟の深さを感じさせる。
早起きするという習慣のためであれば夕食の消費を抑え酒も飲まないということが自然にできて都合がいい。二十一時には寝る準備を済ませていたのだが、いらない動画を見たせいでねむるのが二十二時すぎになる。

2024/07/12 今日
五時半起床。虎ノ門スタバに行く。前々日に書いた文章を直したり補足したりする。朝のこの時間には進捗と手応えがあり、これから期待できる。このペースを守って生活したい。日記を書く時間も少なくなったのであわててこれを書いてこれから出社。よくわからないレクチャーが朝から設定されているが、この金曜日を終わらせれば三連休だ。
レクチャーしてくれたのは定年後再雇用のおじさんだった。電話の声から若々しさを感じていた通り、おじいさんではなくおじさんという風情で、楽しそうに働いている組だった。当然話は合わないのだけど自分がどういう人間かというシグナリングをきちんと発しておられるので扱いやすさがあってそれはよかった。持ち手がどこにあるかわかりやすいマグカップのようなもので、道具としての有用さを感じさせる。まあ仕事なんてそのぐらいの有用さで事足りるものだからエンジニア系のサラリーマンとして立派なモデルケースなんだと思う。話が長くなってお昼時間に食い込んだのには閉口したが食い込んだ分はこっちで勝手に引き伸ばすだけだから問題あるようでいて実際には問題なし。
急ぎの仕事、急ぎではないがやっておいたほうが週明け楽になる仕事をいくつかこなして定時で退勤。ある程度勝手がわかっていれば仕事そのものは簡単なお使いみたいな内容だから、やり甲斐なんていうと心許ないものの、タスク消化ゲームの趣きがあってそれなりに楽しさは感じられる。慣れていくに従ってもっと頭を使わなくてもよくなるのだろうし、負担が少ないという意味ではちょうどいい仕事だ。
下北のスタバにきて日記の続きを書いたり『戦争と平和』を読む。人民裁判。民衆の暴動。既視感がある。

20240710

日記416

時代がくる、時代がいく

2024/07/09 昨日
早起き初日。あまり何も調べずに移動していったら7時半頃に虎ノ門HBTのスタバについた。ここの環境はわるくなかったが7時オープンなので朝がっつりという要件を満たさない。
それでも朝に活動することはどう考えても良いものだ。3,4年前の九段下出勤時代にも早起きして早めに通勤電車を終わらせて勤務地近くのスタバで過ごす習慣を身に着けていた。コロナのごたごた(おもに在宅勤務)でその習慣もすっかり廃れてしまっていたのだが、毎日出勤するようになった今こそ早寝早起き習慣復活のときだ。
慣れない睡眠リズムだったせいか昼過ぎの研修中に眠気が襲ってきた。ちょっとだけうつらうつらしたが、仕事のリモート研修なんてうつらうつらしながら聞くぐらいでちょうどいい。
30分間だけ残業になったがその後はまっすぐ帰る。キムチ入りカップ麺と千切りキャベツというつましい夕食を食べてすぐに寝る準備をしてねむってしまう。

2024/07/10 今日
昨日とは変わってすこしだけ調べてから朝スタバにくる。虎ノ門駅前のスタバが6時半オープンという気概を見せているのでそこに6時45分ごろに入る。思っていた以上に人がいるが、考えてみればこの辺で働く人が朝活をしようとすれば一帯でもっとも早くオープンするスタバに集まるというのは当然のことだし、それを思えばむしろ満席ではないのが不思議なぐらいだ。とはいえほとんど満席に近いが。
「小説の主人公は日記を書かない」というテーマですこしだけ文章を書いた。いわゆる「語り手をどうするか」問題。
『戦争と平和』を読んでいるがここ二日で読むペースが上がっている。佳境というのもあるかもしれないが、実感としてあるのは、実際に戦闘場面になるとある程度流して読んでしまう自分の性質のせいだ。発散する部分だけでなく収束する部分を書いているのはすごいと思うが、やはり自分としては発散する部分のほうに興味がある。

20240708

日記415

炎天

2024/07/07 昨日
久しぶりにミスタードーナツに入った。その後下北沢の古着屋をいくつか回ってから新宿に行く。「over the moon」と書かれたキャップを購入。わけのわからない言葉だと思っていたら英語で大喜びしている状態を表わす表現なのだという。そうなんだと思うがそれでもわけがわからないことには変わりがない。肉を食べたくなったので高円寺の肉一に予約の電話を入れたが満席とのことで肉焼きを断念。代わりに蒸籠で豚肉を蒸してもらうことにする。同居人に料理してもらっているあいだに前日考案した家サウナを楽しむ。室温の高さとミストシャワーを使った本格的な低温サウナ。ケンドリック・ラマーの音楽をかけて踊りながら楽しんだ。風呂上がり、PSBとともに頂いた蒸し野菜と蒸し豚はとてもおいしかった。二十三時半すぎにねむる。

2024/07/08 今日
トイレが溢れる嫌な夢を見て目が覚める。その前にももうすこしまともな旅行の夢を見たはずなのだがトイレがなんとか流れたのと同時に忘却の排水溝へと流れていってしまった。
仕事は忙しいがゆっくりする時間を短時間だが持てた。もしかすると再来週出張になるかもしれない。定時で上がってスタバに行く。友人と電話で話す。いろいろ話をしたが最終的によくわからない話(1円拾ったの意味について)をして終わった。

20240706

日記414

花屋の店先に並んだいろんな花

2024/07/05 昨日
暑さに対する涼しさという観点では出社した先のオフィスは天国のようなものだ。そこへ向かう道すがらがやや苦しいのと、そこにいる目的が仕事をすることというのが疵だが、それさえ忘れてしまえれば苦でもなくむしろラクだといえる。そして仕事が忙しいとそういった不都合を忘れさせる効果がある。オフィスは活気に溢れていて皆心なしか晴れ晴れとした表情をしているようにみえる。自分はそうは見えまいと、機嫌悪くないように見せる社交場の礼儀の奥に若干の苦しげな表情を忍ばせようとするのだが、これはこれでやや芝居じみたカタチだなと思う。まあ、そもそも自分のことなど誰も見ていないのだが。
昼休みにケンドリック・ラマーの『Not Like Us』のMVが上がっていたので見る。とにかくかっこいい。かっこいいということをいくら言っても言い足りない気にさせられる。ケンドリック・ラマーと思われる人物の伏し目がちの表情はとくにセクシーだし、映像がこの上なく詩的で、音楽と一体となりながらもそれとは独立して盛り上げてくる感じがある。俯瞰して要約するとTheyとUsを分けて自分方に付かせようとする全体の動きでしかないのだが、それにもかかわらず心酔させようとしてくる力がすごい。映像が意味ありげであることを否定せずむしろ意味ありげであることを突き詰めていて、詩として構築されていく様子には感動をおぼえる。快い映像と快い編集のリズム。それらをすべてありのままに目撃できるという事実に高揚する。囲い込まれたいというみっともない欲望と向き合わざるを得ない。しかし、だからこそ、ここから抜け出してやるという思いを意識できるし、引力の強さから自然と、自分の中にある反発する力に目を向けることができる。簡単に言うとかっこよすぎてムッとするということが起こった。具体的にはあの伏し目がちの表情、番号を無視した独自のステップ。見せつけられた。
定時退勤。ポーカーで遊ぶことを思い立って目黒のエムホールデムにいく。ここではいまだ負け知らず。ゲームセンターのメダルゲーム感覚の人が多いので、このレベルのリングゲームでは負けないやり方をすれば負けない。調子に乗らなければ。ただ遊びに行っておきながら調子に乗らないように自制しておもちゃのチップの枚数を増やして何が楽しいのかという考え方は見えている。ディーラーの技やチップの感触を楽しみにいくのがアミューズメントカジノの醍醐味だからそれらを意識して楽しむことにしている。
下北のニカイノサカバという初めての居酒屋にいく。料理はどれも悪くなさそうだった。この日はスタバに行かず。そのためろくすっぽ本を読まなかった。通退勤でkindleを開いたぐらい。

2024/07/06 今日
九時頃に起きる。海に行くか行かないかという話が流れて飲みに行くことになる。ヒストリエの十巻を読んで海づいていたのに残念だ。ひとりでも海に行ったろうかなと思ったが結局スタバに行くことにした。日記を書いたり本を読んだり。
その後一旦帰宅する。あえてクーラーをつけずにサウナのような環境をつくって汗をかいてから冷水のシャワーを浴びる。サウナ中にはケンドリック・ラマーのMVを見返す。これがなかなか整って良かった。その後クーラーを付けてうたた寝をしているとものすごい夕立ちになって目が覚める。豪雨の影響で飲みも中止になる。中止決定後、雨はきれいに上がって、スタバに出かける頃には、金盥をひっくり返しまくった壮大な打ち水のあと、という感じで涼しくなっていた。スタバでロリータを読む。ようやくロリータの声が聞こえるようになってきたところで第二章に突入。読む前と読んだあとの印象が全然変わってしまう文章ということを野田秀樹が正三角関係のフライヤーに書きつけていたが、ナボコフの『ロリータ』はまさにそれが起こる小説で、それを起こすための小説だとさえ言えそうだ。まだ第一章を読み終わっただけなのだが。

20240704

日記413

文殊超えもわけない

2024/07/03 昨日
スタバを出たあとベンチに座って氷結を飲む。夜も二十一時を回ると暑さが去って、動いていなければ汗をかかないで済む。ベートーベン(バレンボイム)の悲愴を聞きながら道行く人を見る。駅前広場はちょうどよい広さで行き交う人たちの方向が揃わない環境になるので流れとして見ていても楽しい。おしゃれな人は無論多い。
同居人が下北沢に帰着したので一緒に歩いて帰宅。全然飲んでない(本人談)のに顔面蒼白で具合わるそうだった。帰宅してから仕事の話を聞く。「それは言い訳」を連呼してあまり良い聞き手ではなかったと思うが明らかに言い訳じみた言い分が多かったので仕方ない。
翌日はAM在宅勤務のためゆっくり寝られることに期待してねむるのが十二時半ごろになる。

2024/07/04 今日
AM在宅勤務。先輩芸人見取り図盛山の飲み会、盛山会に参加する夢を見る。なんでかわからないが遅れていって、なんでかわからないが盛山の対面に座らさせられたのだが、ずーっと繊細な一面をなすりつけてきて鬱陶しかった。パーマ当てたてなのかロン毛のうねうねがいつもより激しかったがその鬱陶しさが気にならないほど、「俺だってなあ!」から始まる愚痴が面倒だった。もうええねん!と指摘したら本人はちょっと嬉しそうにしていたが取り巻きのひとりがすごい睨んできておそろしく、トイレに行けなくなった。
十二時前に自宅を出て虎ノ門に出社。五分弱の徒歩時間で危険を感じるほどの猛暑が始まっていた。仕事の捗りはやっぱり職場のほうが良い。捗ってばかりいてもしょうがないので一応途中で抜けて本屋にいく時間を作る。定時で上がって下北スタバに行く。道中『戦争と平和』を読む。
寝不足というわけではないが昼寝できていないからすこし眠い。
向かいの席の男の子がヘッドホンを付けたまま突っ伏して寝ている。限界なのはわかるけどスタバに来たからにはやるかそうでなければ帰るかしろよ。と思っていたらすぐ起きた。パワーナップで効率上げようとしていたのかもしれない。やるじゃん。
家に帰ってからKindleでヒストリエの1〜3巻を読む。読み返すたびに「こんなに面白かったっけ」と驚くのだが今回も驚いてしまった。

20240703

日記412

出発

2024/07/02 昨日
スタバを出たあと、FF6のサウンドトラックを聴きながら下北沢駅前のベンチに座って氷結を飲む。幼年時代を思い出しているような気分になる。なんというかそれが自分の物語ではないとは思えない。しかし実際のところそれはゲームの経験にすぎず、それが感覚的に理解できない。今このベンチに座っていることの不思議と合わせ鏡のようにも感じられた。
ダイエーで安い惣菜を買って帰って食べようと思っていたが信じられないほどの行列がレジにできていたので断念し、追加の酒を求めてドン・キホーテにいく。しかしそこのレジでも長蛇の列。氷結無糖7%500ml分のアルコールで判断力が無くなっていたので王将に行くことに決める。そこでキムチチャーハンとニンニクゼロ餃子ジャストサイズ、ウーロンハイを注文する。体型維持のことをまったく考えられていない。
帰宅してから何かの動画を見てねむる。

2024/07/03 今日
暑いなか出勤する。新支給の端末が社外でもネットワークに繋げられるので午前中はオフィスで働いて午後から在宅勤務にする。途中昼飯を食べるときにEuro2024のハイライト動画を見る。トルコ対オーストリアの一戦で、試合終了とともにピッチに倒れ込むのがオーストリア・トルコ両選手というのがこの試合の壮絶さを物語っている。4分弱のハイライトなのにちょっと感動してしまった。洗濯物を干すのにうってつけの天気だったので洗濯機をまわす。昼寝をしてからこの日の仕事をこなして定時であがる。途中で大江健三郎のNHK出演番組とサツマカワRPGのコントを見る。動く大江光を始めて見た。さすが親子だけあって物腰と雰囲気が健三郎にすごく似ている。サツマカワRPGのコントはショッピングモール出禁ネタでこれには本当に感心させられた。芸人のコントなのだが完成度とかそういう次元ではない。すごく面白かった。最近見たお笑いのなかで随一。
暑い中スタバに行く。『戦争と平和』『ロリータ』を読む。どちらもすごく面白い。すごく昔の人と昔の人なのにサツマカワに負けていない。戦争と平和は面白く読める箇所が多くてすごい。長編のなかでも長いほうなのに、感覚的にはほとんど半分ぐらいハイライトをつけている。kindleの良さは小説でも全然気にせず線を引きながら読めるところだ。『ロリータ』も夢のシャーロット殺害場面とシャーロット退場場面まで来た。語り手がうるさい作品だが読ませる箇所はめちゃくちゃ読ませる。ハンバートハンバートを応援しようとは思わないし、許せない人間だと単純なレベルでは考えるが、そういった許せないと単純に思うことのシンプルさというのはしょうもないものだという感じがある。自分の中で単純さと複雑さが戦う時にはほぼ複雑さが勝利するという、昔友人に笑われたそれこそシンプルな考え方からすれば、シンプルに許せないとすることには頼りなさがある。それはやはり『ロリータ』の記述の確かさ、細やかさとの対比からくるもので、ただ単純に許せない、面白いと言っているだけでは至ることのできない境地にむかって文句を言っている構図にさせられるからだ。油断するとすぐそういう状況に追い込まれる。とくに油断していなくてもページをめくるうちにそうなっていくとは思うのだが、結果から見たときそれはやはり油断が原因だと考えられることになる。そういう単純な因果関係から脱したいのにそうなるんだから何かしらの魔力がはたらいているのだと奇天烈なことを言ってみてただのシンプルから脱したいという願望が生まれてくる。二項対立を避けるためにもう一項をひねり出す、そういう工夫なのだが第三項に魔力を持ち出すのはなんぼなんでも、である。

20240702

日記411

RR

2024/07/01 昨日
スタバを出たあと同居人と合流して彼女が松屋で飯を食うのに付き合う。瓶ビールを飲むだけで松屋に入って何も食べないというのを始めてやった。その後氷結を買って飲みながら帰る。有吉クイズを見てから二十三時半過ぎにねむる。ラブドール回。真剣な眼差しが”彼女”の目線とすれ違うとき、そこには恋の模様が描かれる。

2024/07/02 今日
6時半過ぎに目が覚める。良い目覚めになったのは良い夢を見たからだが、そのときには夢の内容を思い出せず。ただ睡眠時間を伸ばそうと二度寝をはかる。その後職場のトイレで夢の内容を思い出した。夏目漱石フリークの新しい知り合いができるという夢だった。自分が何を求めているのかわかりやすい夢だ。
引き継いだ仕事のケツ拭いで忙しいが、それも二日目にして落ち着いてくる兆しが見えた。うっかり忘れているということが一番やばいのでしっかり管理簿を更新しながら毎日降ってくるタスクを潰していくようにしないといけない。
定時退勤してスタバにくる。電車内で『戦争と平和』を読む。スタバでは日記を書いてもう一度戦争と平和を読む。あとはロリータも。

20240701

日記410

嘘の龍虎町(現実界)

2024/06/29 一昨日
オールナイト企画に参加したおかげでサタデーモーニングは消し飛び、午後になってもだらだら過ごしたり寝たりない分を補ったりしているうちにあっという間に夜になった。夜と言っても十八時なんて甘いもんじゃない。なんと二十一時になったのだった。それでもさすがに一日フルで休んだだけあり、気力体力ともに充実していたのでメスカルを飲みに出かける。万珍酒店という店で角打ち。角打ちなのにもかかわらずローソファが設置されていてゆったりリラックスできるチルな空間だった。その後三茶に行くつもりが店を出て歩く方向を間違える。淡島通りに出たので結局池ノ上に向かって歩く。そこから東北沢をなめて下北に戻る。氷結とナッツを持って夜の散歩になった。今年最後の春になるのかもしれないがめちゃくちゃ過ごしやすい夜だった。十二時前に帰ってきて、春雨スープを飲んでから一時過ぎにねむる。

2024/06/30 昨日
TCB三人で十一時に新宿集合。新宿で買ったアイスコーヒーを卸したての白いFFⅥTシャツにこぼす愚を犯す。歌舞伎町タワーのほうを巡回してから山手線に乗り込み、行きがかり上五反田で降りることになる。目星をつけた乗客が降りた駅で降りるという山手線ルーレット企画。暑くて不快だが歩くのが不可能というほどではない気候。歩いて武蔵小山に向かう。武蔵小山に来たことはあったがアーケード商店街に来たのは始めてだった。龍の演し物をやっていて頭役のおじさんだけがノリノリで楽しそうなのが印象に残った。一番長いアーケード商店街だとかいう話だったがこの日は都合一往復半した。TCBが集まるといつも歩きづめに歩くことになる。林試の森公園をぐるっと回ったり、ジェラートを食べたりしたあと飲み屋に入る。この日は二軒飲み屋に入った。晩杯屋本店仮店舗と炙りま専科。とくに後者では目覚ましい活躍があった。サイコロを振ってハイボールが安くなる企画で、三人が二回ずつサイコロを転がして、偶数一回、ゾロ目一回という出来すぎた結果になった。サイコロを転がした順に、無料、半額、半額、半額、無料、無料。それなりに食べて三〇九〇円という破格の成績だった。一人当たりではない。三人合わせて三〇九〇円。
そこから戸越銀座商店街まで歩き、武蔵小山駅前まで引き返す。最後駅前ベンチに座って強い風に吹かれながら駄弁っているのは良い時間だった。残念に思いながらも翌日出勤なので一抜けする。二十二時に下北沢につく。同居人とミカン前で待ち合わせて一緒に帰る。風に吹かれて歩いて帰る。

2024/07/01 今日
ポツポツ雨だったので傘をもたず家を出る賭けに出た。天気予報を見て判断したのでギャンブル性はうすかったが、家から駅まで以外には降られなかったので天気予報を信じて結果よかった。
これから二ヶ月間レシートを受け取る生活が始まる。生活のデータを揃えることに喜びをおぼえるほうなので性に合っていると思う反面、突飛な行動をしないから傍から見て面白みに欠けるだろうとも思う。あまりわざとらしい出費はしないようにしようとは思うものの、かました出費をかましたいという思いもある。一日目ということで予定していた映画の日の映画鑑賞だったが『ルックバック』がなぜか一律料金とか言って一七〇〇円固定でせっかくの映画の日を無効にしてきたので腹が立ち、見に行くのを止めにする。そもそもそんなに見に行きたいと思っていない映画を見て無為に時間を潰すのを止めるべきだ。
定時で上がってスタバに行く。日記を書く。『ロリータ』を読む。ハンバートハンバートがロリータの母親と結婚した。ロリータに接近するという目的のためにはもっとも合理的な手段だ。しかしそれではあまりにも、という感覚はある。それでも、目的が手段を正当化するということではないけれど、それを九〇度回転させて、何をどうやっても目的が正当化される見込みはない以上、手段が正当化される意味がないと判断するのは理にかなっているように思われる。ルールを守る意味ごと消滅するから、すべてが可能になるというのは恐ろしいことだが、そういった自棄というのは本来そこらじゅういたるところで起こってもおかしくないはずのことだと思う。しかし実際にはそういう滅茶苦茶なことが全然起きないわけで、何がどうなっているのか、まったくわけがわからない。いわゆる文学的想像力というものが文学の世界の内側で想像力として留まっていることのプラスの影響(極端なマイナスが実在しないということ)ははかりしれないものがある。将来のことは確定していないという夢想が、文学的想像力を瓶詰めにしている当のもので、しかも両者は同じものにも受け取られる余地があるというのは、身も蓋もないようななし崩し的なトンネルが地下に通っていて、どうしても爆発するはずのガスがそれそのものは危険だが全体として見れば安全に寄与するかたちで外に漏れ出ているようなものだと思う。しかし、運悪くその場に当たる個人は致命的な影響を受けることになるのだろう。それでも自分の不運を背負っておとなしく死んでいくというのは一体どういう気持ちのすることなのだろう。
『戦争と平和』を読む。老公爵が亡くなる。マリヤは老公爵の最期を看取り、彼から優しい言葉をかけられる。それまで継続的に虐げられ、絶対の支配下に置かれていた境遇を最期の一言で帳消しにするというのは不可能なことであるはずなのだが、そういうことが奇跡的に可能になることもひょっとすると実際にある、少なくともそういう見立てができるように書かれていた。ただし最期の老公爵に救いがあるというようには書かれていない。自業自得だとは思えないほど苦しんで最期を迎えたと読めた。そういうとき、チホンがみせた実際的な聞き耳を立てる能力、死へと近づく人間の立てる「か細い声」を聞き分ける能力というのは、いつも必要なものではないが、それでもここぞという時にはもっとも必要な能力だと思った。最期の場面はどうしても決定的にならざるを得ない。そこで何が聞こえるかというのは最も「試される」場面だと言ってもいい。そこで試されるのは発信する口ではなく受信する耳だ。
アルパートゥイチとドローンの対決場面が面白かった。支配者のヒエラルキーの上部と下部で接している人物同士の対話だが、どちらもそれまでに自分の立場を築いてきただけあって如才ない。漫画『ヒストリエ』の一話分に相当する緊張感のあるやりとりだった。しかも会話だけで実際に血が出るようなシーンではないので、文字情報だけのほうがより迫力が出るのではないかと思う。
ヒストリエの十二巻はやっぱり面白かった。ついに主要人物が死に、そのことで「放たれた矢」になるエウメネス。クライマックスの戦闘場面ではいびつな時間感覚を味わえる。一瞬の出来事をスローモーションにするというのは映像でやる分にはありきたりだが、漫画のコマでそれが表現されると、読んでいる側の感情の動きと速度がシンクロすることもあって奇妙な感覚になる。時間を動かすのが自分の心の動きだから、目で見たときの動く錯覚よりも、心の芯を捉えたアニメーションになる。登場人物が被らなければならない「痛さ」について、絵から伝わるのが信じられないほど伝わってくる。

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