20240616

消去法スマート、あるいは短くて重い杖

最近、スマートという言葉に興味がある。電話というツールがスーパースマートになって久しいが、それにともなって、扱う側の人間もそれなりにスマートを進化させている。そして、状況の変化のなかでスマートの定義そのものも少しずつだが確実に変化していっているはずだ。
……はずなのだが、大きな船に乗っていると乗員である自分もつねに動いているという事実に気がつかないように、時間の経過による緩やかな変化には気がつきにくいものだから、スマートの定義やそれ以外のものとの位置関係も変化しているものの自分たちでは変化に気が付きにくいということが起こっているように思われる。その変化に興味がある。
今のスマートと以前のスマート、両者の変化したところと変化していないところ、それらのスマートとその関係に興味がある。ここでの「変化していない」というところも、スマート概念からすると普遍的で、だから変化していないといえるものもあれば、十年の時間単位では変化が見えないけれど百年単位で見れば変化しているというものもあるだろう。
人類が誕生してからしばらく経つと、腕っぷしという意味での力に加えて、「賢さ」が重視されるようになった。時代や環境によっては力によって賢さが無力化されることがあったが、それはあくまでも例外的な一時期、限られた環境下のことであり、基本的に賢さは重要な指標であり続けた。ようするに賢さという価値が発生してから、人類は一度もその価値を手放していない。それはホモ・サピエンス(=賢い人)という呼称にも表れているし、自分以外の他人にどう思われたいかという個人の思惑にも表れている。
後者は前者ほど歴然と表れていないが、人間がアーカイブとして残ろうとするときに起こる自然淘汰において、もっとも重要な指標となるのが「いかに賢いか」ということであるのは明らかだ。歴史を学ぶことが常識になっている今、賢さという価値についてまったく知らず、あくまで無謬であるとする姿勢を維持することは簡単なことではない。そもそもそういったスタンスを選ぶということにも賢さは存しなければ済まないというわけだ。
だが、現実には資質や環境の問題もあるから、そういったことを考えない人たちが存在しなかったというわけではない。どの時代にも賢さについて興味関心をもたない人はいただろうし、それは多数派でさえあっただろう。ただし、現在時からみて千年前の多数派は存在しないも同然、というのは言いすぎであるにしても、不可視でかぎりなく透明な存在であることは疑えない。
名も知れない賢人が千年前にもおそらくいたのだろうと想像することはあっても、名も知れないただの人がいたのだろうと想像することはない。そう想像する機会が少ないのは、そういった想像をする人の賢さが、自分に似た境遇のだれかを想像しようとし、つまりあり得たかもしれない自分を想像するにおいて、暗々裏に賢い人(社会に馴染みきれない・社会を不完全な乗り物とみなす)を想像するだろうからだ。考えるものは自らを賢いものとみなす。無知の知を問いたソクラテスにしても(そして彼の発言をフォローする無数の人たちも)、知について譲歩することでその奥にある知を得ようとしたわけで、賢さを放棄したわけではない。謙遜して自分は賢くないというものがしていることといえば、目の前のリンゴを齧らないだけの賢明さが自分にはあるという主張にすぎない。物事を客観的に見ていますよという宣伝だ。
しかし「賢さ」というのがむき出しの概念であるということは言えて、直接に「賢さ」に言及することがかえって賢さから遠ざかるという段階が出現する。ただし、これは賢さを指標にすることをやめるという話ではない。その指標をやめるように見せて、実際には隠しパラメータにするだけの話だ。これは本質的にペテンであって目くらましにすぎない。自分より愚かな人間に対してのみ有効なやり方で、賢さという長いスパンの考えにおいて有効となるものではない。有効期限が自分自身の人生をすっぽり覆うために、個人としてこのやり方を選ぶというのは合理的な選択だといえるかもしれないが、現在から見て錬金術がまったくのナンセンスに感じられるように、十分考慮を経たうえで判断するなら(今の常識で考えれば)、ただのナンセンスでしかない。賢さを秘蹟であったり魔術的なものであるとするのは、手品師の手品のようなものだ。ネタの割れた手品を見て喜ぶものは誰もいない。
それとはやや違う、しかし似たケースとして、賢さ以外のものに価値を置くという考えが台頭する。賢さ以外のものとして「愛」というものを発明し、それに殉じるという姿勢だ。これは個人として限られた生を前提とする立場からは賢い選択だといえる。「それがあれば生きられる」という杖を手にするやり方で、現在時からは存在の見えない多数派も、じつは生まれてから死ぬまでのあいだに銘々でこの杖を手に入れて、それを握りしめて死んでいったのだと考えられる。それは個人の選択として、たとえそれしか道がなかったとしても、十分に賢い選択だと考えられる。この選択によって、過去の多くの人たち(そして存在しない未来の多くの人たち)、本来は不可視の存在である彼らと精神的なつながりを持つことができる。たしかにこれは必要十分な利点であるのかもしれず、同じ杖を持っているという標(しるし)が、透明で見えないはずのものを感じ取らせるよすがになる。その世界観は現実における確かな支えになる。

自分には賢さに逆行したいという思いがある。そもそもの前提に異議を唱えるためには賢さを捨てる必要があると思うからだ。しかし、逆行するのはともかくとして、捨てるということはむずかしい。じつは試したこともないのだが、どこまで行っても「本当の意味での賢さ」という考えから抜け出せないという気がする。
しかも、杖から目を離すこともできないと思う。手に取ろうとしないのにもかかわらず、つねに視界の中には入れておきたい、選択肢として可能性を残しておきたいという思いが離れない。これは臆病からというよりは自分の思う「賢さ」からそうしているつもりでいる。
どこまで賢くなれるのかという自分自身に向けた問いは、賢いという価値がどういった形式・内容にまで変化していくのかという問いに置き換えられる。社会のスマートが変化していくのを尻目に、部分的にはそれに逆行し、べつの部分では順行するかたちで、独自のスマート観を進化させることで、結果的に幅を持たせたいというのが現在のところの漠然とした展望である。
また、幅という観点からは、賢さを重要な指標にしていない存在にとっての賢さにも興味がある。自分以外のもの、外側からの視点を取り入れるために、「賢さ」がいろいろある指標のなかの一要素にすぎないという考えを想像して、それを自分の在り方の参考にしてみたい。

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