恵まれた環境に生まれてきて、ある程度自分の生きる場所を選べる人が、自分自身をどこに置きたいかというのを突き詰めて考えるとき、じつはその「パターン」というのはあまり多くないのかもしれない。
その人は、おそらく物心つく頃から自分自身のことを自然に理解していて、それを理由として、当然のように自分という存在に関心を持っている。一方で、自分のことが好きか嫌いかという考え方には馴染まない。そういった区分けというのは表面上のものにすぎず、嫌いと言おうが好きと答えようが、結局、同じ内容をべつの表現で表出しているにすぎないということが、自分の内面を通してはっきり明確になっているからだ。表裏を気にして一向に前に進まないのとは決定的に違う。彼らが好き嫌いについて考えるとすれば、何をやっているときの自分が好きかということだけだ。
これはまさしく恵まれた環境に置かれたものの特権で、たとえ彼がどれほど真剣に悩んでいて、どれだけ自分の願望を充足させることに血道を上げていようと、自分のことを好きになれない人にとってそれは贅沢な悩み、楽しそうな努力ということでしかない。そうするとやはり「生きる世界が違う」という結論にならざるを得ないようだが、そう結論づけるのを保留し、あえてその悩みにフォーカスして考えてみるということ、はたしてそれは可能だろうか。
それが可能かどうかというのは、これもまた個人の資質に依るところが大きく、できるやつはできるし、できないやつはできないというだけの話になる。だが、仮定に仮定を重ねるようでやや撞着の気味があるところではあるが、無理を押してそれができると仮定して、つまりトップテニスプレーヤーとしての人生を想像するということをしてみて、ようやくこの映画のいいたいことが理解できるようになるのではないかと思われる。
そこまで寄り添うことは無理だとしても、次の簡単な条件にだけ同意できれば、チャレンジャーズのいうチャレンジとはどういうことなのかというのを考えられることになる。そこがスタート地点だ。それを考えようとしないでこの映画を見るのは不毛なことだと思われる。境遇が近ければまだしも、想像力をまったく働かせないで見ていて楽しいたぐいの映画ではない。ただただテニスをやっている姿が美しいというだけの映画ではないし、そもそも優れたテニスの試合が見たいのであれば2008年のウィンブルドン決勝をみればいいだけの話だ。
条件というのはつまり、「自分のやることのなかで、何をしているときが一番楽しいかを真剣に考える」ということだ。「何にだったら情熱を傾けられるかを考えること」だと言い換えてもいい。
どんなことをするにしても当惑し、何をするにも失敗を恐れる、という自らの性質からくる絶対の条件を一度外してみて、どんなことでも簡単に、誰よりもうまくできるとした場合、その「楽しみ」はどこにあるのだろうと想像してみることだ。できないことがいくらでもある人たちは、試行回数を増やすことによる慣れや、持ち前の運の良さでなんとかうまくいったときに「最大の報酬」を得られる。できないからこそ、できたときの喜びがあるというわけだ。それなしに自分の達成を冷静に考えてみたら、何をそんなに喜んでいるのか、何がそんなに嬉しかったのかということにもなりかねない。実際考えがそこに及びそうになったら慌てて回路を閉ざし、それ以上考えることをやめなければならないだろう。
しかし、何でもうまくやれる人はそうすることができない。考えがそこに及ぶ及ばないではなく、その冷静な疑問「何が楽しいのか、何が嬉しいのか」というのは、彼らにとって考えはじめるスタート地点にあたるからだ。
つまり、なんでもうまくやれる人とそうではない人は全然ちがうゲームをプレイしているということになる。ある観客があくまでも自分のやっているゲームに固執するというのであれば、おそらくその人にとって『チャレンジャーズ』は見られた映画ではないということになるはずだ。ただただ当惑し、退屈するだけだろう。「何を言っているのかわからない」ということになる。
あるいは、(自分だったら)もっとうまくやれるのに彼らは一体何をしているんだとがっかりするということもあるのかもしれない。一体何に躓いているのか、「何をやっているのかわからない」。
恋愛について、あるいは結婚について、社会にはルールがある。だから当然、社会の一員としてそのルールを遵守しなければならない。当たり前のことだ。
しかし、一方で、「そんなこと知らん自分以外で勝手にやっていろ」という乱暴な一個人の考えが、社会のルールとはまるで関係ないところで存在するのも――ひょっとすると意想外ということになるのかもしれないが――当たり前のことだ。
ただし、社会のルールなんて知らんとうそぶく個人にしたところで、自分以外から影響を受けざるを得ない場面が発生する。社会のルールに抵触したことで払わされるペナルティについては屁でもないわいという顔をできる腕っぷしの強いドンキホーテでも、それによってゲームそのものを没収される憂き目にあってはひとたまりもない。
テニスプレーヤーでいえば、試合中にどれだけ不適切発言をしようが、ラケットを木っ端微塵になるまで叩き折ろうが、肝心要のテニスで相手を圧倒できるのであれば、ポイントのひとつやふたつ惜しくもない。しかし、それで没収試合になり負けを宣告されるとなると黙ってはいられないということだ。恋愛関係でいうと、相手の関心が自分に向いていないということが起こり、それだけならまだしも、自分の関心のほうは相手に固定されてしまって動かしようもないということになれば、それはもう破滅的な事態だ。
なんでもうまくやれる人間が志向するのは、恋愛における破滅的場面や、白黒がはっきりつく勝負事での、圧倒的な強さだ。しかも、圧倒的な強さを表現するためには、相手も自分と同等の強さを持っていなければならない。これはテニスというスポーツの持つ競技性からしてもそうだ。勝利を望むのではなく勝負を望むというのは、勝つか負けるかの勝負を望むということで、どちらに転ぶかわからないというグラつきが感じられなければ意味はない。ただ勝ちたいのではなく、最終的にみじめな敗者となる相手としっかり関係を結んだうえで勝ちたいということ。恋愛に置き換えると、ただ魅了したいのではなく、自分でも信じられないほど完璧に魅了されたその相手を、それ以上に魅了してやりたいということだ。
『チャレンジャーズ』の登場人物たちには、そういう引力をこれ以上なくしっかり感じられる場所に自分自身を置きたいというたしかな願望がある。これは「勝ち負けなど二の次だ」という話ではない。たまたま運悪く、しかし決定的に敗者になった相手にむかって健闘をたたえ、手を差し伸べたいということだ。
略奪愛であれ、テニスの名試合であれ、当人同士がどれだけ真剣にそれに取り組もうとも、外野から見たときのそれは矮小化され、ある枠の中に収まることになる。これは真剣さの度合いをいくら引き上げても、生きるか死ぬかというレベルにまでシリアスの度を高めたとしても、回避できるものではない。それは単純にどこに目線をおくかの問題だからだ。人生を賭ける、人が得られないようなたくさんの報酬を得る、誰もが成し難いことを達成する、前人未到の領域に到達する、そういったことの本当の価値はそれをやった当人にしかわからない。しかも、どういうわけか外野はその価値についてなんとなく知っているつもりになっている……。
外野から見ても本当に感動したといえることがあるとすれば、おそらく成し遂げたことの大小は関係ない(大小が問題になるのはその達成が自分のもとに届くほど有名になるかどうかという部分にとどまる)。自分自身でも何を望んでいるのかわからないまま望み続けていたものについて「これだ」と確信を持つことになるその瞬間を見ることだ。得られるはずのないもの、得られるとは予期していなかったこと、”確信の瞬間”にはそれらが一挙に目的になる。その瞬間へのすべての流れ込みを目の当たりに見る気がするからだ。これでもない、あれでもないと、偽のゴールをすべて振り捨ててこなければ到達できないところに自分自身を置くことができたとすれば、そこから得られる報酬というのは、できなかったことがなんとかうまくいったときの「最大の報酬」に優るとも劣らないものになることだろう。なぜだかわからないが、その確信についてはわかる気がする。想像できる気がする。この「わかる気がする・想像できる気がする」がなければ一切何もない。『チャレンジャーズ』はそういう映画だ。大多数の人が見て面白い、誰でも楽しめるというような作品ではない。そこが魅力の中心に据えられているという意味で、このポピュリズム全盛の時代にエリーティズム全開でやっていて、チャレンジングな映画だともいえて、自分はこの映画のそういうところにも個人的好感をもった。