ファクユー・ブルー
2024/06/18 昨日
スタバから図書館カウンターまで『賢い血』を受け取りに行く。ついでにユニクロにオンライン注文していたクルーネックTシャツ三枚を受け取りに行く。白XXL、赤3XL、黒4XL。二十時半頃、スタバまで同居人がやってきたので一緒に帰る。酒を飲みながら歩いて帰る。自分と相手の知識量に差があるときの説明をどうすればいいかについて話をしながら歩く。相手にどの知識があってどの知識がないのかを判断しながら話すとなると、話の内容に集中できなかったり、話が途中で折れ曲がって話し始めに予期していたのと全然別のほうへ向かったりする。面白い方へ転がっていけばそれでいいのだが、相手が知らずに自分が知っていることでその説明となると面白い方に進んでいかないことが多い。そして相手の「なるほど」とか「そうなんだ」で話が途切れがちになる。そこでもとの話に戻せればいいのだけど、そこまで話の主導権を保持できないことが多い。しかし、一旦話し始めたら最後までその話をするという気持ちを持ったほうがいい。途中で途切れても話を戻せばいいだけだ。何かの話をする以上、少なくとも最後まで話し終えないと何かを言い始めて言い終わらないというわるい癖につながってしまう。そうなるぐらいなら最初から話さなければいい。考えていることや感じたことを話すのは難しいからここに書くようにするという結論に逢着。何かについての感想など、相手の知識量を考えなくてもいいのはとにかくラクだ。
そういえば、自分は小説を書きたいと思っているが、その延長線上に小説家として有名になりたい気持ちがあるのかと質問してみた。書いたものを読まれたいと思うことはあってもそれで有名になりたいという気持ちはない。という答えが返ってきた。面白くない。
人事を尽くして、という言葉があるが、それで言うと「自分事(じぶんじ)を尽くして」というのがまずは第一だ。とにかく人のほうへ流されないことが大事だし、有名になって泰然自若を貫くのは難しいんだろうと思うから、この誰からも注目されていない今を時機だと思って自分固めをしておく必要がある。人のいうコンテンツをただ面白いと喜んでいる場合ではない。面白く見られるように工夫されているものが面白いのは当たり前。そしてそれ以上を出せないならわざわざ自分がやる意味はない。つねに面白いものを見ていればそれで満足できるのなら満足するのは簡単なことだと思う。そういうわけにはいかないから面白い動画を見ていられる時間を犠牲にしてまで面白いのかわからない本を読んだりしている。本を読むために寝不足を回避してアホみたいに規則正しい生活を送っている。
人からズレて変なことを言うようにしようというのも人のほうへ流されるのと反転しているだけでまったく同じナンセンスなので、逆張りだとか天邪鬼とかそういうことはやらない。とにかくどんなものに対しても自分基準を明確にしていくこと。どんなときにでも感じたことに注意をはらい、自分のかたちを掴まえにいくこと。文体を持つ前に自分体(じぶんたい)を持つこと。瞬間の良い悪いを決めること。少なくとも好き嫌いは決める。瞬間の判断と考慮しての判断の両方を必ずして、保留にしないこと。保留しない代わりに、さらにその先で間違っていることに気づいたらしばらく考慮してそれでも間違っているようならためらいなく判断を訂正すること。無形ではなく、有形で不定形というスタンス。たとえば「モヤモヤする」というのは何も思っていないのと同じなので無形として扱う。流行語はできるだけ使用を避ける。
2024/06/19 今日
渋谷に一〇時前出勤でよかったので朝起きてからゆっくり朝の準備をして洗濯機まで回す。三〇分弱で用事を終えたあと、案件チームメンバーの人と一緒に移動する。渋谷駅までのバスと渋谷から虎ノ門までの銀座線を無口な男同士あまり喋らずに黙々と移動する。あまり焦らず黙っていられるのは、必ずしも良いとは言い切れないところもあるがやっぱりスキルだと思った。それでも最低限の雑談はあって、出身地がお互い関西ということがわかり、それだけでなんとなくほんわかする。震災の年に就職で東京に出てきたと言っていたのでほぼ同い年だとわかった。そのことを言えばよかったのだが電車が虎ノ門に到着したので話の切れ目になってしまった。渋谷でサボるつもりだったのだが上の理由で虎ノ門まで運ばれてしまったので仕方なく虎ノ門のタリーズでサボることにする。外出させると最低一時間は余計に工数がかかるということを理解させなければならないからだ。フラナリー・オコナー『賢い血』を読む。へんてこな信念を持った男が主人公で、その信念のせいで人に対して一切物怖じしないこともあってか、他の人物と一切会話が噛み合わない。噛み合わないのに何度も同じ主張を繰り返して、結果的に人を思った通りに動かすからコミュニケーションの目的は達している。人は神の被造物という世界観をきちんと踏襲した、人形遊びのような動き方をしているが、わざとらしかったり、作為的な言動ということは感じられない。均等に距離をとって描写すると、たとえその眼鏡が度入りだったとしても読む方で勝手に調整できるし違和感は感じないのかもしれない。「賢い血」という言葉がわりとすぐそのまま出てきたことにちょっと驚いた。イーノックという無学な若い男が主人公に対して言っていたのだが、その主張もまた理にかなっているものだった。今の時代にはまったく合わない描写ではあるが、そんなことは全然関係なく、口を利く人物が描写されている通りにそうやってそこにいればそういうことを言うのはおかしくないと思わさせられる。
フラナリーのカトリックとしての不幸がこの小説を書かせたという解釈を自分はやりたくない。やりたくないが、この小説にはそういう不幸なところがあると主張する人がいたとして、その人のことを何もわかってないということはできないかもしれない。カフカが幸福だったとはあまり思えないというのと似ている。書かずにはいられなかったんだろうとわかるようなことが書かれていて、そういうことから作者の幸福といったポジティブな側面を引き出すのは難しいというだけの話かもしれないが。書いているときには幸福というところから離れていたとしても、書いていないときには幸福だった、というのもあり得る話だろう。そういう意味では書かれたものから作者の幸不幸を判断するというのがそもそも間違っているということは言えそうだ。
彼は鼻がたれるのをとめるために袖口で鼻の下をふいた。「そうか」と彼は叫んだ。「あんたが行くとこに行けばいい。だけど、いいか。」彼はポケットをたたいて駆けより、ヘイズの袖をつかまえて、皮むき器の箱をがたがた鳴らしながら彼のほうに差し出した。「あの子がよこしたんだ。あの子がおれによこしたんだから、あんたにはどうすることもできねえ。あの子は住所を教えてくれて、おれに来てくれと言った。そして、あんたも連れてくるようにね――あんたがおれを連れてくんじゃなくて、おれがあんたを連れてくんだ――あの人たちのあとをつけたのはあんただったのにな。」彼の目は涙を通して光り、顔はのびて、意地悪いゆがんだにたにた笑いがうかんだ。「あんたは、だれよりも賢い血を持っていると思いこんでいるみたいにふるまっている」と彼は言った。「でも、違う! 賢い血を持ってるのはおれだ。あんたじゃねえ。おれだ。」