20240618

日記400

退勤エリート

2024/06/17 昨日
この日記もとうとう400の大台にのった。読みやすい文章を書く気にはならないから、せめて読みやすい書式を作成してもいいかもしれない。手間だったら止めとくが、簡単に変更できるのであれば変更しようかと思う。そもそも読んでもらうことを前提として書いていないのだが、それはそれとして読んでほしいという気持ちがある。読んでもらうことで受けられる報いは読むことそのものでそれ以上でもそれ以下でもないけれども、簡単に読みやすくできるのであれば読みやすくして悪いことはひとつもない。百害あって一利なしの逆。
昨日はのどの不調が顕著で、そのために体力が奪われる感じもあったので療養に専念すると号して図書館にもスターバックスにも寄らずに即帰宅。メトロンズの『寝てるやつがいる』という公演をみる。前回公演のホームルール路線だが縮小再生産という印象を拭えない。生で見たのと体調がわるいときにタブレットで見たのとを較べるのはアンフェアだが、メンツにもこなれてる感じがあってお馴染みのという感覚以上のものはなかった。
二十二時半、Vがねむるより前にねむる。

2024/06/18 今日
雨降る中の出勤。外経路を回避するためできるだけ地下を通ってビルに向かう。おそらく現状ではこれが最短。百メートル弱に抑えられていると思う。
仕事時間。打ち合わせ動画研修、Web研修、打ち合わせ、メールでの問い合わせ。
前日にたっぷり睡眠をとったり、マスクをしていったりと配慮して喉をいたわったおかげで仕事終わりにスタバに行けるぐらいには回復(もしくは温存?)できた。
行きは千代田線で『オリエンタリズム』、帰りは銀座線で『ロリータ』を読む。こういうことで文句をいうのも何だが、背表紙にでかでかとロリータと書かれてあるのは、嗜好を超えて主義主張とさえ捉えられかねないのではないかと気が引ける。そんな嗜好も主義主張もないのにステッカーを貼ってファッションしている気分。まあでもそういう嗜好はあるから良いか。
五十ページ近くになってようやくロリータご本人登場。離婚のくだりとか細々した些事扱いだったのに読ませた。大きく振りかぶっていないところにも注意力が向けられるようになっている。しかし、さて、これからどうなる。
多くのビルを見下ろせる窓際の席に座ってぼーっとしていると、取り止めもなくいろんなことを思いついてはそのまま忘れていく。そういうことを覚えておいて日記に書きたいと思うのだけど、一時的な感興を後で書けるほどこだわって覚えていられない。あえてそれらを把持しようとすることで、べつの取り止めもない流れが途切れるようなことがあると本末転倒な気がしてしまう。しかしぼーっとすることそのものには本も末もないのだから、自然の流れを優先するよりも、カクつきを許容してしまったうえで、何らかのかたちに残せるようにと、一昨日から文房具を導入した。文房具というのはただのペンとノートで、それを業務端末の隣に置いておいて、ぼーっとしているとき用のメモ書きにするというだけのこと。
ぼーっとしていて取り止めもないことを考えているということ自体、自分にとって都合の良い解釈というか、何もないところに霞が立った煙が見えたと、それを掴めないことが確定したあとから騒いでいるだけのことのような気がしてきた。それというのも、丸三日経ってノートにはほとんど何も書かれないままだし、何か書かれていると思ったら「薬用養命酒 毒用捨物水←逆」という無意味な言葉の羅列でしかない。あとは仕事のメモ書きだけ。本当にそれ以外何も書かれていない……。
しかしこれはノートに書いたことではないのだが、そのことを思い出しているうちに思い出したから書けることがある。FF6のこと。自分がはじめて遊んだRPGだ。スーパーファミコンにはセーブが消えるという子供にとってそれは恐ろしい機能が付いていたのだが、セーブが消えても何度もプレイした。それこそ小学1年生から中学生になるまで何度もプレイしたし、最初自分がプレイするのを弟が見ていたのだが、途中から弟もプレイするようになって、反対にそれを見ていたりもした。ストーリーも覚えている。というかどの街をどの順で通って誰が仲間になっていくかというのをすべて覚えている。子供ながらによくできているなと思ったのは、最初の街ナルシェから出かけて帰るまでのあいだに少しずつ仲間が増えるのだが、ある急峻を川下りするときに仲間と離ればなれになるところだ。三局面展開になり、それぞれの局面でさらに仲間が増えていく。マッシュが好きだったから、彼のコースでカイエン・シャドウ・ガウと仲間が増えて一気に四人パーティが組めることに喜びを覚えたものだった。あの年頃で初めてプレイするRPGというのは原体験になると言ってもいい。自分にとって物語と言ったらまずはファイナルファンタジーⅥで、それはこの先も変わることがないだろう。心のなかにFF6がいる。ティナ、ロック、モグ、エドガー、マッシュ、シャドウ、カイエン、ガウ、セリス、セッツァー、ストラゴス、リルム、ウーマロ、ゴゴ、誰か忘れている気がするけど、忘れていない(一応調べた)。主人公がひとりではない物語を受け入れることが容易いのはFF6の影響だと思う。逆に最初にFF6を通らずになぜ群像劇というものを受け入れられるのかが謎なぐらいだ。普通に「主人公=この自分」というモデルが一般的だろうと思うし、大体の物語でそのビジョンは強化されるはずだから、急に群像劇と言われても意味がつかめないのではないかと思うのだが。

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