20240612

日記396

この色

2024/06/11 昨日
閉館一〇分前まで図書館で読書。ナボコフの『ロリータ』を借りて帰る。帰宅時間がぎりぎりになりそうだったので走って帰る。二十二時半のB就寝時間に滑り込みで間に合って「ただいま」を言えた。Bも寝る前になんか言っていた気がするけど何だったか忘れてしまった。

2024/06/12 今日
昼ご飯にバルボアのぼっかけを食べた。
定時後すぐに虎の門を飛び出してゼンデイヤの『チャレンジャーズ』を見に行く。渋谷ヒューマントラストシネマで見たがODESSAで運が良かった。(ODESSAの紹介映像はかっこいい)
『チャレンジャーズ』は映画館で見ない場合、この映画の馬鹿馬鹿しい盛り上がりが体感できないのでほとんど見る意味がなくなってしまう気がする。
途中あくびを挟みながらも、音楽の使い方といい、テニスという競技の間の抜けた馬鹿馬鹿しさ(球を打つときのハポンという音からして間抜け)といい、スポーツ優等生の滑稽なシリアスさごと笑いながら見ていたが、最後クライマックスシーンには爆笑しながらもちょっと涙が出るという映画鑑賞体験になった。『チャレンジャーズ』というタイトルの時点で見に行かないという選択肢を削られていたわけだが、見に行ってよかった。
テニスだけを追求していく求道者が、自分の願望を見つけ出してそれを叶えようとする話で、基本的にスポ魂映画だった。ただし、普通のスポ魂作品が持っている寓話要素が削られて、代わりに一瞬の輝きというにはあまりにも間延びした、長いスパンでのスポーツ魂が描かれていた。しかもその際、恋愛を横においておくのではなく、スポーツ魂と不可分で渾然一体の情動的欲望にしていて、カオティックで意欲的な作品ながら、登場人物の情動は完全に「ザ・アメリカン」ともいえる姿勢で一貫しており、ところどころ解釈の余地を残すにしても、そこに深さのようなものは一切ない。
主要登場人物は女ひとり、男ふたりで、時代が違えば男ふたりが持っているのはラケットではなく刀剣類ということになるのだろうが、最初のシーンから命の奪い合いという見立てが十分に可能になるような描かれ方をされており、実際に命が懸かっていないからといって、たとえば中世の決闘者の持っているシリアスさには及ばないと見ることはできない。これは劇あるいは劇映画の登場人物が演技によって小道具の竹光を真剣と捉えるのと同じことで、「でもだってラケットじゃん」ということを言うとしたらそれは観客の側に不足がある。フィクションには興味が持てない、ドキュメンタリーだったら見ると言う人のことを「たしかにそういう意見もあるか」と思いながらもどこか馬鹿にしてしまうのは、彼が自分自身の人生しか生きられないということを自分で選び、自分の外から何かを学び取ろうという意欲を持っていないように見えることからくるのと同じことで、「たかがテニスでそんなに真剣になって」とチャレンジャーズのことを馬鹿にするのは、何に対しても真剣になることのできない冷笑家か、本当の命のやり取り以外には真剣さというものを認めない野蛮人か、どんなときもどんなことにでも笑っていたい馬鹿か、そのいずれかということになる。
そしてここがポイントなのだが、チャレンジャーズは長いスパンで自分の望むものに向かってたゆまぬ努力を続け、彼らなりに一直線に進んできたことで、いつしかテニスに対する真剣な姿勢を越えてしまっている。つまり、ある時点からあとの彼らは真剣なスポーツマンでもあり冷笑家でもあるということだ。テニスだけしかなかったという時代を抜けてテニス以外にもいろいろあるということを現代時の彼らは知っていて、そのため「たかがテニス」という視点を持ったうえで、真剣にテニスを追求している。テニスだけを見ていればそれでよかった頃とは事情が変わって、とにかく強烈に何かを求めているのだが、そしてそれを手に入れようとすることを生活の中心に据えて突き進んでいるのだが、何を求めているのかという肝心のところがわからなくなって、強い意思と不屈の闘志を持ったままで迷子になっているのだ。求めることをやめれば迷子であるという状況も終わりになるはずなのだが、それでもつとめて迷子でいようとする。それは自分自身の求めているものが自分自身を超えたものであって欲しいという願望からきているにちがいない。性的な情動、勝つか負けるかしかない勝負、相手を自分に屈服させたいという気持ちのなかで、アンコントローラブルな状況に自分と相手を追い込んでいく。
そういうところから何を得たいかといって、自分だけではなく相手も巻き込んでぐちゃぐちゃに関係しあいながら一心に求め続けてきたものが得られる瞬間でしかない。その一瞬にこそテニスを超えるということが本当に起こるはずだし、しかもそこで片方の生命が実際には尽きないということの利点、見立てることの利点が完璧に表現されることになる。それを見るとき、テニスという競技はやはりどこか馬鹿馬鹿しいが、馬鹿馬鹿しくて良かったとさえ思えるはずだ。
ただし、この見立てはひとりの視点しか代表していない。何かを手に入れたいと望むことと、何かを失いたくないと望むことはまったく別のことだ。それぞれにそれぞれのチャレンジがある。ふたつに共通するのはチャレンジが成功するとは限らないこと、自分がどれほど努力してもうまくいかないことがあり、「成功するのも失敗するのも自分次第」とは言いたくても言えないということだ。
スタバでほうじ茶&クラシックティーラテのアイスをたのむ。日記を書く。
昔持っていて今持っていないものを美化して情熱と呼びたくなるがそれは単に極端な視野狭窄ではなかったか。当然違う。が、そんなふうに間違って考えてしまうタイミングが多くなってきている。
どちらにしても情熱を求め始めたらおしまいだ。若さを求め始めるのと同じで。それでも疾風怒涛などと言いたくなることも増えてきている。バレンボイムのベートーヴェン月光がわかりやすくて良い。
チャレンジャーズの現在時は2019年だが、ゼンデイヤの娘がスパイダーバースを見たがって隣の部屋からスパイダーバースの音が聞こえてきたところと、ロッカールームで男がめっちゃスワイプしてるところがとくに好ましかった。

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