20240611

日記395

階段前会談

2024/06/10 昨日
閉館一〇分前に図書館を出て帰宅。下北沢駅で降りたが帰り道に酒を買わずまっすぐ帰る。改札出口付近にゾンビのような酔っぱらい女がいてちらと目があったかあわないかすれ違う一瞬にこちらに突進してきて恐かった。肩にぶつかられて噛まれそうになるイメージが浮かんだがすんでのところでターンして躱し、事なきを得た。しばらくドキドキしているうちにボーナストラックの入口までたどり着き、なんとなく後ろを振り返りつつ、完全に精神の安全を脅かされながら帰宅。同居人にはそんな恐怖のことをおくびにもださず、クールに寝る準備を済ませ早々にねむる。おくびというのは欠伸の昔風の言い方だと思っていたが検索してみるとゲップのことだった。

2024/06/11 今日
スクワットをして出勤。いつも出勤の電車と退勤の電車、往復の通勤電車で読書をしている。通勤するサラリーマンたち(だいたいソーシャルゲームかソーシャルメディアをやっている)との格の違いを見せつけることができるので読書するにも勢いがつき気に入りの読書時間になっている。平日はディスプレイの前に7.5時間座り、仕事の知識やそれに類する知識、あまり関係ない知識の収集に努めていて、定時後にはディスプレイ外から得られる知識の収集に努めているわけで、(かなり柔軟な)考えようによっては毎日二十二時近くまで残業しているようなものだともいえる。睡眠時間をきちんと取って、必要な栄養をサプリやプロテインで補いながら食事をとって、一応スクワットなどの運動もしているのだから、わりと勤勉な生活を送っているほうだと思う。しかし勤勉の方向性を社会が適格と認めるものにはしていないので、考えようによってはなおのこと勤勉で、知識の収集に努める様子も考え合わせるとこれは現代の知識人の表象といえるのではないかということを思った。
ということで、『知識人とは何か』を読了。自分は方向性としては知識人の方を向いている自覚はあるものの、まだまだというか、根本的なところで抜いてしまっているというか、腰が引けている。そして腰を入れずに腰を引いたまま何かを言おうと苦心したり、自分の姿勢について強引に弁護しようとして無理と無駄を重ねている。腰を引いてしっかりやるのはスクワットだけでいい。
昼ご飯ははじめてお弁当だった。昨日の残りのピーマン肉詰め。虎ノ門の高層階で手作りのお弁当を食べる、実績を解除。あと、階下でのサボり時間はいつものように本屋に行かず、隣の服屋でTシャツ4品の試着をした。一枚だけで着られるヘビーウェイトのTシャツが欲しい気分だったので購入することにした。一応下北沢の古着を回っていいのがないか見てからポチることにしよう。
吉野家で唐揚げ定食を食べてから図書館にくる。『知識人とは何か』『戦争と平和』『存在することの習慣』を読む。日記を書く。
AURALEEのレザージャケット、アビゲイルジャケットが欲しい。昨日おじいさんが着ている写真が回ってきて、完全に再燃してしまった。
自分はタッパがあるから難しいかもしれないがこの着こなしがめちゃ格好いい

ケアの論理について、ケアを必要としない人はいないということを知った。つまり、一見ケアが必要ないかのように見える人については、ケアが充分に行き届いているからケアされている状態が当然で、したがってケアされているという事実が透明化しているにすぎない、ということ。この考えはもっともだと思った。安全や健康が、それに包まれているときにはとくに意識されないがその不足とともにそれらを強烈に意識するようになるということと同じようなものだ。社会で暮らしていてケアされていない人はいない。必要なケアが充分行き届いていない人と、ケアが行き届いているからケアされていないかのように錯覚する人しかいない。自分はその錯覚のもと、誰かのおかげということを全然考えずに都会での生活を謳歌している。楽しむときにそのスタンスは欠かせないと思うが、その視点だけに留まるのは飽きがくる。
また、ケアする人/ケアされる人という区分もよくある間違いだという。実際にはケアし合って生きていくほかないとのこと。気がついたときにできる範囲のことをやればいい。それもそうだと思う。
それと忘れていたが、自分は自分をケアする登場人物の第一だという考え方は見落とされがちで、重要な観点だと思う。

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