20240608

日記393

普通目線

2024/06/07
スクワットと腕立てをしてから出勤。大した回数では全くないけどこうやって書くとマッチョでストイックな雰囲気が漂う。寝不足の影響で職場では何もやる気が起きず、かろうじてやったとこといえばピンチョンの『V.』についての論文を読むことだけ。
定時退勤し、銀座線で渋谷へ。十九時半からの『SELF AND OTHERS』を見るまでのあいだ、宮下公園の屋上エリアの芝生コーナーでかるく昼寝をする。まあまあの人口密度だったが、起きたとき隣に女子高生が寝ていたのには驚いた。渋谷の高校生にはパーソナルスペースの概念がないんだと思った。
映画は期待した通り、大きなスクリーンで牛腸茂雄の写真が見られて満足した。見たらいつも泣いてしまう兄弟の写真があるのだが、それは映画には登場しなかった。あえて避けたのかわからないが、その写真を意図して入れなかったのであればなんとなく気持ちがわかる。あの写真がなかったのはかえってよかった。どういう理屈でそう思うのかわからないが。
信州そば屋で信州カツ丼セットを食べて帰る。そばつゆを盛大にひっくり返してしまった。テーブル一面がそばつゆにまみれてしまった。表面張力でテーブルから下にはこぼれていなかったのに、紙ナプキンで余計な手出しをしたことをきっかけにこぼれ始めた。なんとなくそうなるのではないかという気がしていたが、何もせずに店員を呼ぶのもどうかと思ったのが判断の誤りだった。
下北沢に戻り、同居人がダイエーで無洗米5kgを買ったはいいが重すぎて動けなくなったとのことだったので合流して帰宅。ダンジョン飯と有吉弘行の脱法TVを見てねむる。ダンジョン飯はどんどん面白くなっていくところのはずなのだが、漫画で読んだときの「そうきたか感」は若干うすかった。アニメになったことでそう思うのか、知っててみるからそう思うのかわからないが、感覚としては結構期待外れに近いものがあったので両方の理由を足してそうなるということかもしれない。有吉弘行の脱法TVは最初から飛ばし気味でくだらないながらも面白かったが最後のヤラセ回が全然面白くなく、尻すぼみの感があって残念だった。ただ乳首回の片桐仁の人選は最高だ。

2024/06/08 今日
たっぷりねむって九時前に起きる。洗濯機を回して、マフィンを食べる。テレビを付けるとNHKのカネオ君がやっていて黒部ダムを取り上げていた。面白くてつい全部見てしまう。その後Eテレでヴィランの言い分の蛇VSみみずも面白くて全部見てしまった。そのせいでスタバに行くのが昼前になる。『存在することの習慣』をすこし読みすすめてから渋谷へ。『エドワード・サイードOUT OF PLACE』を見る。本人を撮影しないドキュメンタリーという手法もそうだが、意欲的で見る価値のある作品だと思った。イスラエルとパレスチナの問題について書くことで向き合ったサイードを題にとる以上、すべてがわかるように映画を作るなんていうことはできないが、すべて網羅できないのであれば最初から触れるなということにはならない。ある種の完璧主義は、「放っておけ」というすべてを放り出して目をつむるという態度に直結する。それが個人のスタンスなのだとすればそれについて何かを言うことはできない。しかし、そういう暗黙の了解は、不完全だとしてもそこにある問題を取り上げようとする人の足を引っ張るような圧力に転じて、しかも個人個人は自らの発する攻撃性に無自覚だったりするので、つねに注意していなければならない。安住の地がないという意識がサイードにあって、彼はそこに一定の居心地を見出していたようだ。彼はそう主張できるだけのルーツやアイデンティティのゆらぎをつねに抱えていたからそう言えるのだと思うが、ホームがないという感覚の一部分は自分にもわかるという気がする。自分の置かれた状況からはそういうふうに感じるということに無理があるというか、そのまま人に言っても通じないのかもしれないが、サイードが感じていたつねにアウェイという感覚をもっとうすめた形で分有しているように感じる。居心地のわるさという意味では、他人にとってリーズナブルな理由がない分だけ自分のほうが声を大にして言えない感覚としてそれを持っているとさえ言えるかもしれない。そしてそれをもとにして考えると、ここは自分の居場所じゃないという感覚や、なんとなくくつろげない、居心地がわるいという感覚は、そのまま自分という存在の特権性につながっているようにも思える。言ってみれば自分を中心に放射状に広がっていくエリーティズムということになるのだが、それはこのように言ってしまったときに起こるネガティブな側面の強調ほどにはわるいことではない。また同様にサイードのいう「知識人」という考えも、サイードが語るときに強調されるポジティブな側面をそのまま受け取って良しとされるものでもない。
自分を重要視することから始めて、自分以外を取り上げるようになるという姿勢は、自然な経路を辿ってもたれることになる。ここで重要なのは、なんらかの障害があってその進行が途中で終わり、自分を重要視するフェーズで止まってしまったとしてもべつに問題はないということだ。問題は、自分を通らずに自分以外を取りあげたり引き立てるということができると信じて自分以外を助けようとすることを始めてしまい、途中で自分のほうへ引き返すことだ。そこではひとつの経路を逆流するということが起こるから、べつの人との衝突が発生することになる。あるいは自分という存在価値を自分以外のものに委託してそれを持ち上げようとすることも、いたずらに他人との衝突を生むことになる間違った方法だと思う。間違っていても不完全でもひとりよがりだったと言われても、自分というものはただ自分を代表してそこにいると考えて自分以外のものと向き合ったり手を借りたり貸したりするのがいい。そうすると、自分というのはやっぱり非力なものだから、だいたいいつも情けない思いをしていなければならない。でもそれもしょうがないと思って、へらへらしながら自分を代表していくしかやれることはない。これが自分以外のものに殉じようとする間違った姿勢に抗い続けるための唯一の道なのではないか。
映画のあと「なかじま」でチャーハンセットを食べる。その後クロスタワーのスタバで『存在ー』を読んで、日記を書く。

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