昼のピクニック
2024/06/04 昨日
図書館を二一時半ごろに出る。伊勢原行きの急行に乗って下北沢に帰る。ベンチで氷結を飲みながらベートーヴェンのコンチェルトを聴く。三〇分間ほどしてから帰宅。洗濯機の予約だけしてすぐにねむる。
2024/06/05 今日
早めに起きて洗濯物を干す。いつもの通勤電車に乗る。朝方にあった人身事故で四分間の遅れ。霞が関からの七分間の徒歩で元気が出るぐらい、とても天気の良い日だった。朝の涼しさと抜けるような青空の協演。梅雨なのか雨がちな一週間にスポットで訪れる晴れ間は嬉しい。
仕事は暇だったので音楽について考える。
まず、音楽には解釈を必要としない領域があるとして、それを味わおうとするのであれば歌詞は不要なのではないかということを思った。感情の方向性をまとめる効果にしても音が担えるものだろうし、まとめるだけでよしとするのではなく、ダメ押しのように言葉を使ってひとまとまりにする意味はあるのだろうかと思った。
あとは音楽を聴くことで自分の内部に矢印が向くというのがクラシック音楽の演奏を聞くときに起こることで、演奏者がこっちを見ろと矢印を引き受けるのがポピュラー音楽の主張だということを思った。
ポピュラー音楽の演奏者は、演奏しながら聴衆から自分に向けられる矢印ごと自分に矢印を向けているわけで、その音楽への向き合い方に違和感はない。
ただ聴衆がポピュラー音楽を聴いてそれをありがたがるということには違和感がある。聴衆は演奏者が自分自身へ向ける矢印を目で見て、それに自分を重ねることで矢印を自分に向けるということを学習するのかもしれない。それなら話は通る。
音楽というのは、基本的にはそれを自分の内部へ取り込むことだ。だから言葉のように音の作り出す効果とは無関係に誘導的に働く外要因を入れることに意味はあるのか。そういった意図しない誘導が起こらないようにするというやり方は考えられる。しかし、できるだけ邪魔にならないような言葉を使ってまで歌を作り出すことに意味はあるのか。ポピュラー音楽だからそうやって餌を撒かないとやっていけないということか。取っ掛かりとして受け入れられた意味のある言葉は、何度も聴き続けるうちにそのまま引っ掛かりになるんだろうと思うが、演奏者としてはそうなる前に新しい曲をリリースするから問題ないということか。これらに対して断固ノーということでないかぎり、クラシック音楽など特定の音楽(特別な音楽)を聴くことにしか音楽を聴く意味を見いだせない。BGMとして”ながら聞き”に聞く分にはある程度なんでもいいのかもしれないが、そういう”それなりの音楽”に対して、別のことをする時間を削り、音楽を聴くための時間を作って音楽を聴くということをやる意味はない。
盛り上がりたいならサッカーを見るし、感動したいなら映画を見るし、考えごとにつなげたいなら本を読めばいい。その全部に一時的な倦怠をおぼえ、そのうえちょうどタイミングよく時間が空いていたら、暇つぶしに音楽ライブに行ってみてもいいぐらいのことだ。いや、それでも酒のんで昼寝したりする方が楽しいような気がする。サッカーの面白さを理解できず、考えごとをしたいわけでもない、感動するために二時間同じ作品を見通すだけの集中力はない、酒を飲むことは楽しみではない、そういう人が音楽を聞いて溜飲を下げるのかもしれない。だったらそれはこんなふうに攻撃していい相手ではない。あれもやりたいこれもやりたいという好奇心と意欲に溢れた人で、黙って部屋のなかでひとりポピュラー音楽を聴いて楽しむという人はさすがにひとりもいないだろうと思うが、そういうわけでもないのか。カラオケが好きで自分がそれを歌うために、覚える作業として歌を聞くというのであれば合点がいく。
とにかく自分はポピュラー音楽や商業音楽を相対的にかなり低くみている。楽しい気分になりたいというのは理解できる動機だが、それもにしても自分で作り出せるから、そこに効用があるだけの音楽にはあまり価値を置かないでいいという立場だ。自分はドライブもしなければカラオケにも行かないから、それで相対的にポピュラー音楽の価値が下がるというだけの話だ。
ただ、「絶対音楽」(それがどういう絶対なのかわかっていないが)には興味があり、近づいてみたい気持ちがある。そこで起こるかもしれないことには興味惹かれる。心底驚かされてみたい……。
定時退勤。余計なことを考えて過ごしたからかすごくお腹が減った。ちょっとフラフラするぐらいだったのでビルのそばにある「バルボア」というパスタ屋に行く。そこで気になっていた「ぼっかけ」を注文する。これが食べたことのない味ですごく美味しかった。食べたことのない味で美味しい場合、しかも空腹時に食べた場合、ものすごくハマることになるのを経験上知っている。実際さっき食べて三時間ぐらいしか経っていないのに、もう食べたいまた今食べたい。
図書館に来て『音楽と社会』を読む。協調ばかりで進む無意味な対談とは全然違っていてずっと緊張感がある。ふたりとも手に持っているものを相手に見せようとするのではなく、つねに先へ進もうとしているからスリリングで面白い。