20240602

日記388

しかし二人は動かない

2024/06/01 昨日
成城のモスバーガーを出たあと、小田急下北沢乗り換えで渋谷に向かう。渋谷Streamの大階段ですこしのあいだ読書をして(大江健三郎『定義集』)、同じように読書をしていた友人と合流。スクランブルスクエアの3Fですこし服を見てから、ミヤシタパークに向かう。二一時前から映画『関心領域』の上映が控えていたので自分は酒の代わりにチルアウトを飲んでお茶を濁す。途中、友人が読んでいた本の芸術論の話になる。「貧しい人間にも触れられる芸術こそ真の芸術だ」という主張が展開されている十九世紀か二十世紀はじめ頃の本らしい。現代における貧しい人間というのはどういうペルソナを想定するかというのがまず疑問だが、たんにお金がないということでは当時の貧しいとはちがう意味になりそうな感覚がある。機会がない、そのため能力がないというのが「貧しい」の意味内容に近いのではないかと思われる。たとえば、読む能力にしても何もしないでいながら自動的に身につけられるものではない。そうなると方向づけや能動的な意志が必要になってくる。そういった受容側のエネルギーをまったく必要としない芸術というのは難しく、かなり限定的なものにならざるを得ない。前提条件不要の芸術というのは、それだけ広範な影響力を持つ、強い威力のものに限定される。ピカソや岡田のようないかにも芸術家タイプの芸術家が真の芸術家だと考えるのは多くの人がそう考えるという以上の意味を持たないことで、AIの回答ならそれでいいかもしれないが、そうではないだろうと思う。ただし、ある属性の人間だけに受け入れられる芸術が真の芸術とは言えないというのは正しいと思う。個人にはいろいろな所属や属性があり、その所属や属性に基づいて生活を送らざるを得ないという制限がある。そして各人の制限は不合理なところもあるが、社会において実際に機能している。その機能や分類に沿うかたちで、ある属性だけに通用する内輪ネタのように受容されている芸術は、およそ芸術の名に値しない。むしろ所属や属性を越境して、その芸術を愛好するという一点で、生活において別々に点在している人たちをひとつの新しい属性としてまとめあげる働きをできるのが、本来の芸術という言葉で言い表されるべきものの中身なのだと思う。
また芸術を受容する側から考えても、誰にでもわかるようにという制限を真に受けて制作された作品をいつまでも有難がっているわけにはいかない。たとえば絵本作家が絵本を作るときにも二種類のパターンが想定される。子供にもわかるように表現するという考えに基づいているパターンは、最初の一歩目から落とし穴を踏み抜いていると自分には思われる。それを回避できるのは制作者のやりたい表現がたまたま子供にもわかりやすい形式だったというパターンだけだ。人気のある絵本作家というのはことごとく後者に属するだろうし、それでなくとも、そのようなスタンスをうまく偽装できているはずだ。友人とは渋谷で別れ、同居人と合流する。この日二本目の映画を見に行く。
『関心領域』を見た。黒字の背景に映されるタイトルが徐々に消えていく演出から始まった。画面はしばらく黒いままだが、おどろおどろしい音楽の後景に、会話を含めた生活音が聞こえてくる。映画として見たときにところどころで過剰な演出箇所があったように思われるが、それが過剰になるかどうかというのはよく検討されたうえでないと結論付けられないだろう。当然よく考えてそうしたのだろうから、迂闊に演出過剰と言うのはよくないのかもしれない。しかし、あえて恐ろしさを強調する必要はないのではないかと思わさせられた。集団的狂気の内幕というのは、慣れからくる無関心のことで、それは自分自身の生活を尊重することとつながっている。そう考えたときの居心地の悪さは嫌な感覚をもたらした。隣が収容所という状況は特異なもので、そこでの自然あふれる生活というのは「映画になる」題材だが、ある悲惨な状況と隣り合っているということは、どこまでを隣と見做すかという問題につながっていく。隣ではないから問題にならないというのは、本来映画を見るときだけに適用されるべき考え方で、それは問題にならないのではなく映画にならないということを示すだけだ。そのようにして無関心・無関与を自身に納得させるのは、音は聞こえてくるが目にすることはないという状況であれば目をつぶっていられるという生活の送り方と構造的には変わることがない。構造的に変わらないこととは別に、距離的な問題とそれに伴う関与の度合いの問題があることは確かなので、そのままイコールではないというのははっきりさせておく必要があるにはせよ、映画館に足を運ぶことで無関心・無関与の領域外に一歩出てしまっていることは明らかなので、結果として、内蔵を圧迫されて吐き気がするあの嫌な感覚を思い起こすことになる。
渋谷の街を抜けて、井の頭線のホームまで歩く。途中にうるさい車、下水の臭い、やかましい田舎者が、やや肌寒いとはいえ基本的に快適な気候をおびやかしてきた。おかげで電車に乗り込む頃にはすこしずつ元気を取り戻して映画の話をすることができるようになった。
下北沢につく頃には晩ごはんを食べずに空腹だったことを思い出したので、ちょい飲みを兼ねて鳥貴族にいく。同居人から福岡出張での一幕を聞く。夜、社長に飲みに連れて行ってもらい、社長の同級生たちといろいろ話をすることでそれまで見たことのない社長の一面を知ることができたと言っていた。そのなかでの、良心に縛られているタイプの人(社長の友人)より、良心より好奇心を優先すると公言するタイプの人間(社長)のほうが良心的な行動をこだわりなく実行に移せるという話は、よく聞く話というのではないが、たしかにありそうなことだと思った。自分の内的生活に照らしてみても考えていないときのほうがパッと動けるようなことはある。素早く的確に行動するために考えることを手放そうとは思わないが、両方とも労せず手に入れられるのであれば両方できるに越したことはないよなと思う。しかし、自分の場合、優先順位は考えることのほうにある。
帰宅してわりとすぐにねむる。酒を飲んでいるせいで判断を誤り、ベッドでつまらない動画を見て夜ふかしをしてしまいそうになったが、悪(=睡眠時間を削ってのつまらない動画視聴)を行使しようにもあまりにも眠たく、動画視聴を断念。結果的に翌朝の寝不足を回避できた。こうなると何が良くて何が悪いのかわからない。……いや、それはわかる。

2024/06/02 今日
朝起きるのが遅くなる。二度寝に成功して十時前まで寝られた。起きてから福岡土産のおいしいマフィンを食べコーヒーを飲む。ダンジョン飯の二十二話を見る。スカイフィッシュを生み出してグリフィンを殺す回。次回が楽しみになる引きで終わる。漫画でも好きだった箇所なので楽しみ。
昼前にようやく出かけてスタバに行く。『定義集』『存在することの習慣』を読む。本当に好きな小説の、とくに好きな箇所ぐらいは英語でも読んでみようと、原文の英語で読むためにKindleで『Gravity rainbow』『V.』を買う。『重力の虹』の振る舞いのグレースが要求されるという箇所が好きなのだが、本当にびっくりするぐらい訳が素晴らしいということに気がついた。もともと好きで良いなとは思っていたが、こうやって原文にあたることではっきりわかった。佐藤良明の仕事には目を瞠る。他のピンチョン作品も訳してほしいぐらいだ。
本を読んだり日記を書いているうちに気がつけば十五時半になっていた。お腹も空いたし、ショパンのノクターンをBGMに鳴らしてくれていたフル充電のノイキャンイヤホンも電池切れになった。
昨日の芸術談義の空疎だったことを考える。それは大江健三郎のエッセイを読んでも、フラナリー・オコナーの書簡集を読んでも、エドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談を読んでも明らかなことだ。芸術とは、真の芸術とは、という言明にはそれ自体どこまで行っても空疎なところがある。だが自分はそんな空疎な会話が嫌いではない。それは会話において仮の回答を即興でひねり出そうとする遊びがそれ自体スポーツじみた試みで、昼休みに校庭でサッカーをして遊んだときの楽しみを思い出させるものだということがある。また、より長続きする(一日経ってスタバに座っている今になってもというだけにすぎないが)理由として、芸術論として得られた回答そのものが、権威がそう言ったものであれ、自分自身が考えついたと思えるものであれ、問いに対する「回答」としてあることがすでにして空疎さを呼び込んでいるということを確認することができるからだ。それを避けるためには慎重に言葉を選んでNGを選ばないよう会話を進めるのではなく、そういったお慰みにする会話をそこだけで切り上げられるように、いっそ極端なことを言ってそれに対する反駁を得るという手続きを踏むことだと思う。つまり、空疎な芸術論を自分の制作に持ち込まないようにするために、会話に流してしまうということだ。そればかりやっているのでは片手落ちだが、何かやるべきことをやっていたり、読むべき本を読んでいるのであれば適当な気晴らしや発散になる。ただし、芸術論にも自ずから段階があり、いつまでも一処に留まっているようでは飽きがくるのも早いから、ある程度サイクルを回そうとする意識は必要になる。所定の効果を上げるためには空疎なりにも工夫が必要になる。昼休みのサッカーにも進展があった。その結果誰かがプロのサッカー選手になるということはなかったが、各々すこしずつ技術の向上が見られ、それが楽しみには欠かせなかった。
スタバを出て洋麺屋五右衛門に行く。野菜たっぷりペペロンチーノを食べる。ニンニクのパンチが聞いていておいしい。塩分もこのぐらいあったほうがいいのかもしれない。と、次回の料理の参考になった。ユニクロに行って安くなっている服を見て試着してみるが、オンラインで目をつけていた商品はどれも実地試験をパスしなかった。ただユニクロに行くとよく起こることではあるが、べつの商品のなかにビリビリ電気が走るTシャツを見つけ、しかも安くなっていたので同サイズを二着同時購入してしまった。自分がこんなにもペパーミントパティのことが好きだなんて今日の今日まで気づいていなかった。マーシーと仲良しのパティがとても好い。たぶん自分とはちがうタイプの女の子と仲良しになる女の子が好きなんだと思う。そこには俺の見たい幻想の入り込む余地がたっぷりあるように思われる。
十七時前にスタバに戻る。『音楽と社会』というエドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談を図書館カウンターから受け取ってきて読む。これを読んで『オリエンタリズム』に着手するか決めようと思っていたが、オリエンタリズムを購入することに決めた。図書館で借りようと思ったが、文庫版は蔵書していなかったし、サイードの代表作と言うし持っていて良い本だろう。

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