20240628

日記409

チャリで行く

2024/06/28 今日
雨が強い日。電車が遅れたせいで遅刻しそうになったが急いで歩いたらなんとか間に合った。しかし急いで歩いたせいで手足がびしょ濡れになる。
仕事が忙しくなってきた。そろそろ文句を言いたいが職場の飲み会があったので我慢する。飲み会は少人数での開催だったが楽しかった。皆が参加して飲み会を盛り上げようとする意欲を出していたおかげだと思う。
早めに始まって早めに終わる大人な飲み会だったので一回家に帰って仮眠をとってからオールナイトイベントに繰り出す。黒木さんを囲む会。普通誰かのことを囲みたいとは思わないが黒木さんだったら囲みたい。何にでも例外はある。


20240627

日記408

五叉路で集合

2024/06/26 昨日
閉館一五分前まで図書館にいて、霞が関から帰る。東北沢で降車し、氷結7%500を飲んで音楽を聞きながら歩いて帰宅。Reloadとミカンとボーナストラックを通るいつものコース。途中ドンキで4%500を追加する。家に帰ってからコンビニで買った納豆を食べる。酔っ払うとやってしまう行動のベストテンに入る就寝前の納豆喫食。できるだけはやく眠る。が、この日は三時に目が覚めてしまう。咳が止まらずそこから四時半までねむれず。咳止めの薬を飲んで無理やり眠る。もっとはやく判断したら睡眠時間を無駄にせずに済んだのに判断を誤った。

2024/06/27 今日
明らかな寝不足での目覚めだが遅滞なく出勤。『ヒロシマ・ノート』をkindkeで読む。仕事の忙しさが爆発しそうになってきた。忙しいこともあり眠くはならなかったが、そういうことじゃないんだよ。相談事をしたりメールで問い合わせたり、関係者に挨拶したり、仕事じみたコミュニケーションがどんどん増えてきた。オフィスの環境がとにかく良いから書き割りが上等な本格的コスプレみたいで演じていて面白い。残業が三〇分。吉野家で麦ごはん御膳を食べてからすこし趣向を変えて虎ノ門のスタバにいく。やることは同じ。日記を書く。
今年の春評。三月になると目に見えて寒い日が減っていき、結果的に例年よりも長く、過ごしやすく春らしい気候が続いた。当然雨が降ることもあったが、一週間降り続けという陰鬱な週はほとんどなかった。総じて良くできた春だった。だいたい五年に一度ぐらいの良い春だった。
小説を書くときにも自分の賢さを誇示したがって小癪な文章を書いてしまうことがある。賢さをアピールする場所はべつに設けておいて、小説にはそういった認められたいというかたちでのエゴが出ないようにコントロールしたい。
それにしても「賢く思われたい」というのは自分にとっては破滅的な心の動きだ。劇的に破滅するということにはならないが、遅効性の毒のようにじわじわと破滅を引き寄せる効果がある。賢く思われたいと思うこと自体が賢くないことの証になるという常識で考えてわかる顛末が待ち受けているにもかかわらず、自分の足で一歩一歩そこに近づいている。遅さに遅さを重ねていれば即アウトにはならないだろうと高をくくっている。しかし距離は着実に縮まっていくし、時間も過ぎ去っていく。たとえば、読んで頭が良くならない本は読むに値しないと真面目に考えている。しかし読んで頭が良くなる本など存在しない。あるとすれば読んでいたら頭が良さそうに思われる本だ。その観点で本を評価することはだんだん簡単になっていく。ある権威圏内の事情にどんどん詳しくなるからだ。そしてその観点で読む判断をして読んでいる本を読んでいるときには、ある部分での判断をまったく放棄してしまっている。だから映画を見ることのほうが、その良し悪しを判断する機構が曲がりなりにも働くことにはなるから、実際に頭が良くなることに寄与しているといえるかもしれない。賢さを志向するにあたって権威主義は避けられない。問題は権威主義がドグマティックになってしまいやすいことだ。賢さに連なる権威主義が陥る(権威が操る)ドグマはいかにもドグマらしくなく振る舞うことに長けている。だからある部分からは目で見て判断するのをそこそこにしておき、鼻を利かさなければならない局面に入る。現役のプレーヤーで真に知的な人物はひとりもいないと信じなければならない。ある時期に真に知的な営みをしていた人物も、そのまま知的な営みを続けるということはまずない(絶対にないと言ってもいいぐらいだが慎重を期すためにまずないに留めておく)。しかし、それでも作品を通して作者を見る場合には、その人が十分に賢いとみなすことはできる。固定化された作品は不動のものであるから、それ以降の愚かな動きに巻き込まれることはない。現役のプレーヤーはそうではない。生活者として正しいことをしようとするだとか、自分の作品からもたらされる影響力を良いと思うところに振り向けようとするだとか、それ自体としては決して批難される謂れのないことであっても、賢さという観点からは問題外になることは全然めずらしいことではない。現役でなおかつ良心的な人間であれば必ず、そんな問題など糞食らえという反応を示す。その反応はそれ自体間違っていない。しかし同時に、その反応は、パフォーマンスであるという側面を免れ得ない。行動には本人の信じる意味のほか、受け取られ方というものがついて回るからだ。そこで知らないフリをするか、無理にどうでもいいという態度をとるか、実際に気がつかなくなっていくか、厳しい三択を迫られる。問題があるのにもかかわらず、それをないものとみなすのは端的に間違いである。権威主義を避けるためには権威になる以外ない。自分の目線よりも上には何も置かないようにするという思想が権威になるためには必要不可欠だ。賢い/賢くないという判断をくだす位置について、用意、ドン。よーいドンである。

20240626

日記407

屋内テラス

2024/06/25 昨日
下北駅前で氷結を飲んだあと、王将に行って揚げそばを食べる。お腹いっぱいになりながらパンサー向井のラジオに野田クリスタルがゲストで出演している回を聞く。ダイエットは数字。知識は調べればつく。という当たり前といえば当たり前の金言が入ってきた。ダイエットに失敗するというのはごちゃごちゃ言い訳して習慣づくまでやらないだけの話というのはそのとおりだと思う。

2024/06/26 今日
今日はやらかしてしまった。久しぶりに行きの電車で座れたから霞が関まで『オリエンタリズム』を読んでいたらズボンのポケットに入れていたスマートフォンをふかふかのシートに落っことして気づかないまま下車してしまった。改札前で駅員に捜索を依頼し、そのまま改札を出してもらった。内心焦りながら焦ってもしょうがないのでそのまま出社。10時前に日比谷で見つかったとの報が入り一安心する。スマホがないと落ち着かないので昼休憩のタイミングで取りに向かう。東京の治安のよさは筋金入りだ。それにしてもスマートフォンを買い替えて一週間もしないうちに落っことすなんて幸先が良すぎる。ゼロストックTOKYOのズボンは座るとポケットから物が転げ落ちる作りになっているので、貴重品を入れるポケット使用はおすすめできない。これを履いているとき電車のシートに家の鍵を落としたことが二回ある。後ろポケットにはファスナーが付いているので鍵はそこに入れている。スマホもそうしたほうがいいかもしれない。
こんなミスをしておきながら何食わぬ顔で一日過ごした。話の種にしようかとも思ったが、端末を落下させ無くすことからイメージが落下するのはうまくないと思い直した。
定時三〇分過ぎで退勤。バルボアでナポリタンの大盛りを食べて図書館に行く。日記を書く準備をしたり日記を書いたりする。喉のいがいがはマシになっているが全然完治していない。
ハンバートハンバートという音楽ユニットがあるのを知っているが、ロリータを読むことでそれが少女を愛好する主人公の自称名だということに気づいた。どういう理由でその名前を活動名にしたのか気になるところだが、検索することはするまいと思ったので、ありえそうな理由を考えてみることにした。今のところ思いつかないがおそらく文学的な理由なのだろうという気がする。想像力にまつわる何かそれらしい理由。つまり文学的理由。
昨日見た『ホールドオーバーズ』が面白かった。見てから二十四時間経つが余韻がまだ続いている。ポール・ジアマッティの演技は素晴らしいというほかないが、アレクサンダー・ペインの演出も素晴らしい。ジアマッティの素晴らしい演技を引き出すのはやはり演出だろうと思う。とりわけこの映画を見る観客をぐっと物語世界に引き入れたのは、ホリデーシーズンの到来によって宿舎居残り組が食堂で食事を摂るシーンだ。議員の息子クーンツが寮の料理女メアリーについていかにもティーンエイジャーらしいこまっしゃくれた意見を言うやいなや、ジアマッティが驚くほど一瞬でブチ切れ、すごい剣幕でクーンツを叱り飛ばすというシーンがある。ここでのセリフは言い回しもよくて、「鶏小屋のハシゴ」というのはうまい喩えだが、それよりも何よりも、何に対して腹を立てるかというのが見えたときにその人のことがわかるというのがある。嫌われ者というのと嫌な人間というのはべつのことだし、ジアマッティは嫌われ者なだけで嫌な人間ではないというのが一発でわかるシーンだった。しかも同時に彼が難しい人間であるというのも表していて、それはジアマッティの演技からくるものなのだが、演技を最大限引き出すペインの演出がそれにピンスポットを当てていた。ふわふわとスロースタートし、その後雰囲気よく進んでいたところで急に人物の核心にズームアップするシーンだっただけに、その成否は作品全体の成功を左右するところだともいえる。ここで成功を掴んだからこの映画はその後のクライマックス近くでも突飛なことをやらずに済んだんだと思う。結果、甘いだけではなく、だからといって苦すぎもしない良いバランスで映画を締めくくることができ、一瞬の強い印象ではなく長く続く余韻を見るものにもたらした。
内容についての感想は「世代を超えた友情というのは良いものだ」というに尽きる。映画のメッセージなんていうのはそれぐらいのもので十分で、あとはそれをどうやって感じさせるかというところが勝負になるからそれで良い。それにそういうシンプルな感想を持てること自体嬉しいことだ。映画館で見ていると観客席のところどころで笑いが起きていてそれも良かった。ジアマッティが映画の観客としてめちゃくちゃマナーが悪いところなどは映画館で見るのが一番面白いシーンだったと思う。
職場に今月末で辞める人がいる。要領がいいとは言えないタイプで、どちらかといえばタスク全般があまり得意ではないんだろうなという人だが、仕事に対して真っ直ぐというか、自分の仕事をやり遂げることに人一倍思いがあるよう見受けられる。しかし同時に、その人から仕事を引き継ぐとき、その人がやるべきだったがやれていないことを「あとは頼みます」と、見ようによっては無責任、悪くとればミスの押しつけともとれないこともないやり方で引き継ぎをしようとしてくる。悪意からそうしているのではないのはやり取りをしていると明らかで、責任を回避したいというのが無意識に出てしまっているだけのようだ。実際、ミスについてはチャットでちょっと指摘するだけですぐ謝ってくるし、引き継ぎについても面倒くさそうな素振りひとつ見せず、むしろ積極的と言ってもいいぐらいの前傾姿勢だ。ただ仕事に向いていないというだけの話で、それとは関係なく仕事はきちんとこなさなければならないと思い込んでいるのがややこしいといえばややこしいところなのだが、自分にできることを精一杯やろうという姿勢には学ぶべきところがある。引き継ぎの一環で社内の登場人物に後任を紹介するという自分からは不要にみえるタスクを請け負ってくれたときのこと、以前一緒に仕事をしたときにミスをして迷惑をかけたというやや強面の人に対して、目に見えるほどはっきりと物怖じしながらそれでも、今月いっぱいで離任となります、今までありがとうございました、後任はこの人です、という必要な文章をなんとか絞り出せていて、それを横で見ながら立ち向かっているなあえらいなあと思ったのだった。その場ではとくにその人の助けになるようなことは言えなかったが、自分としても挨拶すべきといえばすべき人にとりあえずの挨拶はできたのでそのことの感謝を伝えつつ、苦手だったり嫌なことに立ち向かっていく姿勢について全面的にとは言えないまでも部分的にでも引き継ぎしようかなという気になった。多分その人はわりと年下なので感心している場合でもないし、どちらかといえば仕事の進め方を教えてあげるべきなんだろうけど、仕事に対して真っ直ぐな人に教えられることは何もない。もっといい加減にやればいいですよと仕事関係なく伝えられたらいいと思うが自分にとってのその人は、その人にとっての自分は、仕事関係の人なので難しいところがある。でもとにかく、何を伝えられても伝えられなくても、自分は今日困難に立ち向かう人を見た。今後の参考にさせてもらう。

20240625

日記406

三歩

2024/06/25 今日
よく寝たおかげで頭は好調。しかし喉のイガイガがとれずに咳がしたくてたまらない。
仕事を定時で上がって映画を見に行く。アレクサンダー・ペイン監督『ホールドオーバーズ』。予期した通り面白かった。ポール・ジアマッティの姿を目で追うことには喜びがある。ドミニクセッサの神経質も輝いていてよかった。
帰りの電車で『ヒロシマ・ノート』をKindle版で読む。読書会には間に合わないがそれでも読むべきだと思った。
間に合わないことが確定したのでじっくり読むことに切り替え、とりあえず下北沢駅前で氷結を飲むことにする。

20240624

日記405

マジで撤収5分前

2024/06/23 昨日
『戦争と平和』を読んだあと、家を出て夜の散歩に繰り出す。同居人の書いたキャラクターの話をしているあいだに茶沢通りにぶちあたり、下北沢駅前にたどり着く。その後ベンチに座って映画『MONDAY』のことが話題になる。わざわざ面白くないというほど面白くなかったわけでもないが、面白い映画だとは思わなかったのでその理由などを一方的に話してしまった。同意を得られるように話をしたつもりだが、人が面白いと思った何かについて面白くないだろうと同意を求めようとするのは無理がある。たとえ道理が通っていたとしてもそういうことじゃない。「お前さんには余裕がない」ときっぱり言われて、残念ながらそのとおりだと思った。面白くないということにも責任があると思うからその理路を指し示そうとするわけだけど、そもそもの始まりからして「そういうことじゃない」と言われればその通りだ。面白い映画の話をするか、全体として面白くないと判断した映画でもここは面白かったという話をするべきだという基本を忘れてはいけない。
というより何より、余裕がない原因ははっきりしていて、自分のやろうとしていることに何の進捗もないことだ。しかもそのフラストレーションを正当に自分に向けるのではなく、外のものに当たっているわけだからどうしようもない。
どうしようもないけどそんなナンセンスをやってしまうから言い訳が必要になって、弁解がましく多言を弄するという負の循環に陥る。自分の場合、その対象は小説や映画になるわけだが、そうする以上はきちんと権威ある作品だけに触れて、挑みかかるようにして貶したり腐したりしないといけない。それは安直にすれば自傷行為になることだが、それでもサンドバック扱いするために作品を見たり読んだりして、気持ちよくそれを叩いているよりはマシだ。
いずれにせよそういうマイナスでしかない営みに人を巻き込むべきではない。やっぱり面白いはずだと思える映画だけに絞ろう。付き合いで映画を見ても、正当ではないフラストレーション解消に費やされるだけだ。これは何重にもよくない。

2024/06/24 今日
前日うっかり飲みすぎたので寝不足になった。朝のうちはとくに不調を感じなかったが昼になるにつれだんだんキツくなってきた。そんなタイミングでリーダーに「元気?」と聞かれてつい答えあぐねてしまうことがあった。そんなのは適当に「元気です」と答えておく場面なのに、体調に対して正直に考えすぎている。そのくせ「眠いです」とは言えず、結局「・・・」とよくわからない間が空くことになった。でもそこから「元気なさそうだね」となり自然と世間話が発生した。何が良くて何が良くないのかわからんなあ。
定時間際に軽い打ち合わせが発生し三〇分間の残業になる。調子がいい日にはブチ切れる場面だが、寝不足もあるし図書館にいくのは止めておいてまっすぐ帰ろうと考えていたので、まあ良しとする。
バルボアでぼっかけ大盛りを食べ、銀座線と千代田線・小田急線で帰る。
家でだらだらしようと思ったがとりあえず日記は書いておこうとMACを開く。Vとテーブルについていろんな会話をしながら日記を書く。

20240623

日記404

視力

2024/06/22 昨日
武蔵野プレイスで『賢い血』を読み終わる。最終的に下宿屋のおかみが光を視るのは彼女の置かれた境遇によるところが大きい。ヘイゼルモーツが自らの清らかさを主張するとき、他人は蝿になる。彼は蝿に耐え忍び、蝿を救おうとするが、蝿の接近には我慢できない。その限界をどうにかして超えようとするが、ただ自らの忍耐力の問題に帰するのみで、蝿であると見做すことをやめようとはしない。彼の説く「キリストのいない教会」というのは問題のすり替えにすぎない。すくなくともキリストの有無というのは全然問題ではなく、問題はヘイゼルモーツの世界に他人が存在しないことだ。この問題は普通問題として現れないが、それを問題とする人には一生かかっても解けない問題として現れる。そして、ヘイゼルモーツのように、偽の取り組みやすい問題にすり替えてそれに対処しようとすることになる。結局のところ、どんな問題も自分の問題として考えることしかできないから、自分の問題として解けるところを探したり、部分的に解消していこうとしたり、自分がそれによって前進すると考える行動をすることしかできない。他人は障害物か補助アイテムかの二択でしかない。ヘイゼルモーツにとってもイーノックにとってもゴリラにとっても芸術家にとっても同じ、共通の二択だ。共通しているが共有してはいない。これはたしかに陰惨なコメディだが、同時に単純なコメディでもある。込み入った面白さはない。コミュニケーションがないからだ。コミュニケーションがないというのを表わすことに成功しているからコメディとして成功を納めているともいえる。あれもこれもと問題が積み重なっていくものについては、たとえどれだけそれに笑わされたとしてもコメディとは呼ばない。
武蔵境駅でお団子(のりとさつまいも)を食べてから、吉祥寺乗り換えで渋谷に移動する。渋谷では布屋に立ち寄り、良い気候だったのでそのまま区役所通りを通ってNHK前を抜け代々木公園をかすめて原宿まで散歩する。公園ではジャマイカフェスをやっていてスピーカーからレゲエのリズムが鳴り響いていた。原宿IKEAでハンガーを買って帰る。一旦帰宅して荷物を置いてからご飯を食べに出かけようという話だったのだが、疲れてしまっていて結局外出を断念した。おみやげに買ってきてくれていて食べ忘れていた花山ラーメンを食べる。気楽に見られるものを見ようということになったので『正欲』を見る。面白いところと面白くないところが混在した映画だった。総合したら全然駄目なのだが、新垣結衣はじめ見るべきところもあった。とくに稲垣吾郎の扱いはこういう話でよくあるコテコテさを微妙に回避し、バランスが取れていて良いとさえ思った。逆に佐々木のキャラクターはしっかりしていなくて駄目だった。言いたいことがまとまっていないのにモノローグをさせられているような印象で、もし意図されてのものであればこれは大したものだ。そもそもどういう理由で勾留されているのかも謎だが、よくわからないまま稲垣の良い仕事によって有罪になるところまで予感させる。その見立ては物語としては破綻していないので、ツッコミどころはありつつも全体としてバランスは取れている。当たり前のように他人を前提としているため、『賢い血』とはまったく別種の話のようでいて、一点、新垣結衣のセリフによって関係があるようにも感じられた。たとえ他全部が駄目でもそこだけは否定できない一点を持つことで、そこを起点として一気に世界観まで話が広がるということがあるが、それと同じことが起こったように思う。

2024/06/23 今日
十二時に野田地図のチケット購入のため待機していたがチケットが取れなかった。松本潤のファンの威力を知った。咳はましになったがやたら鼻水が出る。ホットケーキを食べてからスタバに出かける。ここでも鼻水がやばくてティッシュを鼻に詰めてマスクをする。日記を書く。お腹が空いてフラフラする。手が震えてきてタイプもおぼつかないのでスタバを出てご飯を買いに行くことにする。魚の定食とビールで空腹を満たし、ダイエーで酒とご飯を買って帰る。
Xperiaのカメラを持て余しているうちに、この日記に載せるための写真が縦横入れ違いになる問題が発生した。予想していたより素晴らしい体験がもたらされるということは今のところないが、カメラを使いこなせるようになったり、この日記でも何とかできたように問題を解決することで、少しずつ良くなっていけばいいと思う。今のところ落下防止のために導入した肩掛けロープのせいで、とくにシャッターを切るときや電子マネーをかざすときに取り回しが悪くなっている。
帰宅して『MONDAY』というループものの映画を見る。ループしていると気づいたときのハプニング遭遇感は良かったが、決まった物語に嵌めに行くために、そこからいろんなことをやってみようとするループハッピーのターンがなかったことが気になるといえば気になる。ループする世界にいる登場人物が「会社の仕事をする」というのはかなり先鋭的な表現だと思うが、その発想が受け入れられにくいものだという視点がないところがローカル映画丸出しで面白い(一応回避策は用意されていて、主人公が会社の後輩格のふたり組にタイムループに気付かされる(=会社組織に巻き込まれている)というところがあり、”日本人の特性”としてその状況では好き勝手やりにくいということになっている。しかし起こっていることへの対応としてはやはり弱い)。
映画制作のための道具を持ち、仕事をすすめるノウハウもあって、しかも自分たちの身の回り五メートル範囲を題材にするという、きちんと地に足のついた大学サークル映画だった。ただ、身内ノリはいいけど何もそのために鳩を殺す必要はないよなと思う。
映画にはどこかで映画から抜け出そうとするようなところがないと楽しめないということに気がついた。映画になろうとする映画はそもそも矢印の方向が逆だという気がする。逆向きであることを逆手に取って面白くするという映画もあるにはあるんだろうがパッと思いつかない。いや、逆手に取るというよりはギリギリのところで映画たり得ていないとか一瞬やばいというところがあって、それでも何とか映画としてまとまっているときに、あれだけ好き勝手やってよくやったよという感想になるんだと思う。結果的に成立させるというつまらなさを”逆手にとった”ように見える映画だ。「スッポリ収まってすごい、良かった!」というのは、テレビショッピングの番組を見ているような気にさせられる。どこかに需要はあるんだろうがはっきり言って意味はない。
夜の時間にスタバに行くつもりだったが結局家にいて『戦争と平和』を読む。Vが元気で「うれしいね」。そういえば昨日は寝る時間の直前に「ねます」と宣言していて面白かった。今週末も良かったので締めくくりに夜の散歩をして、意味あるほうのMONDAYを迎え撃つことにする。

私の都市生活についての所感(2024)
フリーライダーなので一応腰を低くしているが頭は高い。座高が高いわけではない。無礼者であるとかアンテナを張っているとかそういう意味だ。座高が高いという意味で言っているのではない。一応言っておくと身長が高いので座高も高い。あとそれとは全然関係ないが春夏秋には厚底サンダルを履いている。

20240622

日記403

雨あがる(ボーナス突入)

2024/06/21 昨日
喉痛はないのだが咳がよく出るようになっていて、職場でもわずらわしい思いをする。マスクを着用するのもそうだが、咳エチケットの遵守、そもそも咳を我慢しようとするのが億劫だ。とはいえ思うさま咳をしてみたいとも思えない。そうすると喉を痛めるだけだということをすでに学んでいるからだ。仕事のほうはそろそろ案件の重なりや催促が発生してきた。退屈しないからいいやというタイプではないので普通に面倒だ。若干の体調の悪さを押して腰を上げるのも気力がいる。それでもやるとなったらキーボードをパチパチやってメールを書いたり、わけのわからん書類を作成して申請を上げたり、とにかく定時という締め切りがあるから動けるのは間違いない。労働仕事なんていうのは締切に追われているぐらいでちょうどいい。それがないといつまでも端末の前に座って残業するということになる。そういう人もいるんだろうが帰っても何もやることのない人なんだろう。かくいう自分も読書はともかくとして、ただ日記を書いているだけだ。構想のことを考えたり考えを構想にまとめたりしていかないと。……ずっと言ってるなこれ。
定時一〇分過ぎに退勤。ユニクロでFF6Tシャツを受け取り、ダイエーでカツ丼を買ったあと即帰宅。Xperia1Ⅵが配達されてくるのを待機する。かりそめ天国を見ているうちに端末が届く。はじめてのハイエンドモデルで到着する日を指折り数えて楽しみにしていた。こういう買い物はスニーカー(wrpd runner)以来だ。カメラ性能でこの機種に決めたので自分のなかでスマートフォンの時代は終わりを告げ、スマートカメラの時代に入った。めちゃくちゃ気に入っていたPixel4aからデータコピーしてXperiaを持って下北の街に出る。
同居人と駅で待ち合わせて俺流餃子の店に行く。店員同士仲良さそうで料理提供スピード(おそらくオペレーションがよくない)に若干の難があるものの腹ペコでもないかぎり基本的に満足できる、雰囲気のいい店だ。入り口付近の席だと道を通る人を眺めながら食事ができるので、下北の通行人を見たいときにはベンチなどでの外飲みに次いでおすすめだ。
Xperiaの肝心のカメラ性能だが、夜の野外に関して言えばpixel4aに軍配が上がるかもしれない……。自分は画面をまったく見ないでただシャッターを押すという使い方をするので、その使い方ではpixelのカメラはスマートにいろいろ処理してくれていたのだなと実感することになった。カメラ起動速度やシャッター消音などでは長じているものの価格差ほどの差は実感できない。とはいえ本命は光学ズームなので、昼日中にそれを実感するまで判断は保留にしようと思い、それ以上考えるのをやめた。動作もpixelに比べてもどこかカクカクしている印象で、動きとしてはサクサク高速な分、カクつきスピードも早くなっていて結果的に気になってしまっている。ただこれは環境の変化によるものだろうから慣れで問題なくなるはずだ。
pixel4aは室内利用のポケモンスリープ専用機になった。いつものようにカビゴンたちをねむらせてからねむる。

2024/06/22 今日
六時頃に咳がしたくて目が覚める。咳が出そうで三〇分近く二度寝ができなかったので憤然としながら咳抑え薬を飲む。ただこの目覚めのいろいろで幼馴染とボウリングする夢、高校の友人たちとボウリングする夢を見る。先に見た幼馴染とのボウリングでは田舎からやってきた修学旅行生がはじめてボウリングをするという設定で、彼らに混じってボウリングをすることになったのだが、わざわざ真ん中のレーンを指定してボウリングというのはこうやるものだと見せつけて遊ぼうというアグレッシブな内容だった。ふたりともボウリングが得意でもなんでもないのになぜかやる気満々で見本となって教導しようという謎の意欲に溢れていた。もう一方の夢は実際に昔行っていたラウンドワンでの一幕という感じで夢を見たことは覚えているものの内容は覚えていない。薄かったんだろうと思う。
起き抜けに散髪に行く。ちょっと遅れそうだったのでLUUPを使い、オンタイムで到着できた。白髪ぼかしとあわせて五九〇〇円。貯まっていたポイントで支払う。
その後スタバに行って日記を書く。ちょっと前に書いた日記を読み返す。普段読み返すということをしないのであれだが、書かれてある内容はすこし前に自分で書いたものだから理解に苦しむ文章は少ない。読点とか使っていてえらい。たまに適当な場所にないこともあるが愛嬌で済ませられる範囲だと思うことにする。
昼過ぎにスタバを出て同居人と駅前で集合する。新台北という台湾料理屋で昼食をとり、ローソンでアイスを買って食べる。その後井の頭線と中央線で武蔵境駅前の武蔵野プレイスにくる。吉祥寺に住んでいるときにもっと活用すればよかった。小会議室も充実しているしサークル活動など捗りそうな場所だ。人で賑わっているのも良い。ゾーニングがきちんとされているので、勉強したい人、おしゃべりしたい人、作業したい人、本読みたい人、たんにゆっくりしたい人、これらすべてが共存できる空間になっている。こういうスポットにこそ東京の地力を見る思いがする。1Fのカフェエリアでラテを注文し『賢い血』を読む。
そういえば『蛇の道』は面白くなかった。話を知って見ると緊張感もない。話のエッセンスを強調しないで、ギミックに若干手を入れただけでほぼ元のままだった。もっと洗練されて先鋭的な悪が描かれればいいのに、暴力と無垢なものの犠牲を使っておいてコントにしか仕立てられないのは監督の力の弱さなのか意地の悪さなのか、どちらかを選択する気も起きない。
ただし、無垢なものの犠牲があるからには描くものは荘厳であるべきだとか、それに相応しいメッセージを描くべきだというのもそれはそれで了見が違う。そういう意味で、少女の死を使うということの正当性はどこにもなく、物語だからといって免除されるものでもないはずだという考え方にとっては、コントにすることで、ある犠牲に対して真実のメッセンジャーとしての崇高な役割を与えることの醜悪さをえぐり出す部分があるとはいえる。もちろんそれによってこの映画の退屈さが免責されるわけではない。リメイク元の映画同様不快で面白くなかった。リメイク元のほうがまだ笑いによって共感できる部分があり、コントとして見るところがあった。
カフェに蝿が出て席の周辺を元気に飛び回っている。それだけで同じ場所に滞在し続けられない、自分は弱い存在だ。

20240620

日記402

ひかりのほうへ

2024/06/19 昨日
図書館に閉館の二十二時までいる。霞が関から最寄り駅まで『賢い血』を読む。何かの比喩のようなものかと思っていたら、どうやら賢い(wise)ということについて真正面から取り上げているようなのでこれから先の展開にも興味がある。やっぱりイーノックが興味深い。
コンビニで請われたレモンサワーとカップヌードルを買って帰る。喉の調子がわるい自分用にはサントリーのノンアルハイボール。ウイスキーから作られたノンアル飲料らしく、風味は全くのハイボールだった。体調の悪さに対応する自分の賢明なところに感謝したい。乾杯したかったからノンアル飲料を選ぶところも含めてとても賢明な一日の締めくくりになった。いまこうして思い返しても鼻が高い。二十三時半すぎにはねむる。

2024/06/20 今日
賢い血を読みながら出勤。いつもと違う中央付近の車両に乗ってみたらいつも乗っている後方付近よりも空いていて、今度からこのあたりに乗車するようにしようと思った。
仕事はタスク積まれモードになっている。打花打火(だかだか)こなして打ち合わせ、電話での質問・依頼、メール返信とぐんぐん進めて、颯爽と定時に帰る。明日やれることは明日やるのがコツ。
銀座線で渋谷に移動して『蛇の道』を見る。動画で見た元作品は見られたものではなかったのでどれほどブラッシュアップされているか見ものである。面白かったらいいが。
あと関係ないが濱口竜介の書いた本が今夏発売になるとの報を得ている。これはやはり必読だろう。なんでも追いかけていては身体が持たないがそれでも外せないものはある。

20240619

日記401

ファクユー・ブルー

2024/06/18 昨日
スタバから図書館カウンターまで『賢い血』を受け取りに行く。ついでにユニクロにオンライン注文していたクルーネックTシャツ三枚を受け取りに行く。白XXL、赤3XL、黒4XL。二十時半頃、スタバまで同居人がやってきたので一緒に帰る。酒を飲みながら歩いて帰る。自分と相手の知識量に差があるときの説明をどうすればいいかについて話をしながら歩く。相手にどの知識があってどの知識がないのかを判断しながら話すとなると、話の内容に集中できなかったり、話が途中で折れ曲がって話し始めに予期していたのと全然別のほうへ向かったりする。面白い方へ転がっていけばそれでいいのだが、相手が知らずに自分が知っていることでその説明となると面白い方に進んでいかないことが多い。そして相手の「なるほど」とか「そうなんだ」で話が途切れがちになる。そこでもとの話に戻せればいいのだけど、そこまで話の主導権を保持できないことが多い。しかし、一旦話し始めたら最後までその話をするという気持ちを持ったほうがいい。途中で途切れても話を戻せばいいだけだ。何かの話をする以上、少なくとも最後まで話し終えないと何かを言い始めて言い終わらないというわるい癖につながってしまう。そうなるぐらいなら最初から話さなければいい。考えていることや感じたことを話すのは難しいからここに書くようにするという結論に逢着。何かについての感想など、相手の知識量を考えなくてもいいのはとにかくラクだ。
そういえば、自分は小説を書きたいと思っているが、その延長線上に小説家として有名になりたい気持ちがあるのかと質問してみた。書いたものを読まれたいと思うことはあってもそれで有名になりたいという気持ちはない。という答えが返ってきた。面白くない。
人事を尽くして、という言葉があるが、それで言うと「自分事(じぶんじ)を尽くして」というのがまずは第一だ。とにかく人のほうへ流されないことが大事だし、有名になって泰然自若を貫くのは難しいんだろうと思うから、この誰からも注目されていない今を時機だと思って自分固めをしておく必要がある。人のいうコンテンツをただ面白いと喜んでいる場合ではない。面白く見られるように工夫されているものが面白いのは当たり前。そしてそれ以上を出せないならわざわざ自分がやる意味はない。つねに面白いものを見ていればそれで満足できるのなら満足するのは簡単なことだと思う。そういうわけにはいかないから面白い動画を見ていられる時間を犠牲にしてまで面白いのかわからない本を読んだりしている。本を読むために寝不足を回避してアホみたいに規則正しい生活を送っている。
人からズレて変なことを言うようにしようというのも人のほうへ流されるのと反転しているだけでまったく同じナンセンスなので、逆張りだとか天邪鬼とかそういうことはやらない。とにかくどんなものに対しても自分基準を明確にしていくこと。どんなときにでも感じたことに注意をはらい、自分のかたちを掴まえにいくこと。文体を持つ前に自分体(じぶんたい)を持つこと。瞬間の良い悪いを決めること。少なくとも好き嫌いは決める。瞬間の判断と考慮しての判断の両方を必ずして、保留にしないこと。保留しない代わりに、さらにその先で間違っていることに気づいたらしばらく考慮してそれでも間違っているようならためらいなく判断を訂正すること。無形ではなく、有形で不定形というスタンス。たとえば「モヤモヤする」というのは何も思っていないのと同じなので無形として扱う。流行語はできるだけ使用を避ける。

2024/06/19 今日
渋谷に一〇時前出勤でよかったので朝起きてからゆっくり朝の準備をして洗濯機まで回す。三〇分弱で用事を終えたあと、案件チームメンバーの人と一緒に移動する。渋谷駅までのバスと渋谷から虎ノ門までの銀座線を無口な男同士あまり喋らずに黙々と移動する。あまり焦らず黙っていられるのは、必ずしも良いとは言い切れないところもあるがやっぱりスキルだと思った。それでも最低限の雑談はあって、出身地がお互い関西ということがわかり、それだけでなんとなくほんわかする。震災の年に就職で東京に出てきたと言っていたのでほぼ同い年だとわかった。そのことを言えばよかったのだが電車が虎ノ門に到着したので話の切れ目になってしまった。渋谷でサボるつもりだったのだが上の理由で虎ノ門まで運ばれてしまったので仕方なく虎ノ門のタリーズでサボることにする。外出させると最低一時間は余計に工数がかかるということを理解させなければならないからだ。フラナリー・オコナー『賢い血』を読む。へんてこな信念を持った男が主人公で、その信念のせいで人に対して一切物怖じしないこともあってか、他の人物と一切会話が噛み合わない。噛み合わないのに何度も同じ主張を繰り返して、結果的に人を思った通りに動かすからコミュニケーションの目的は達している。人は神の被造物という世界観をきちんと踏襲した、人形遊びのような動き方をしているが、わざとらしかったり、作為的な言動ということは感じられない。均等に距離をとって描写すると、たとえその眼鏡が度入りだったとしても読む方で勝手に調整できるし違和感は感じないのかもしれない。「賢い血」という言葉がわりとすぐそのまま出てきたことにちょっと驚いた。イーノックという無学な若い男が主人公に対して言っていたのだが、その主張もまた理にかなっているものだった。今の時代にはまったく合わない描写ではあるが、そんなことは全然関係なく、口を利く人物が描写されている通りにそうやってそこにいればそういうことを言うのはおかしくないと思わさせられる。
フラナリーのカトリックとしての不幸がこの小説を書かせたという解釈を自分はやりたくない。やりたくないが、この小説にはそういう不幸なところがあると主張する人がいたとして、その人のことを何もわかってないということはできないかもしれない。カフカが幸福だったとはあまり思えないというのと似ている。書かずにはいられなかったんだろうとわかるようなことが書かれていて、そういうことから作者の幸福といったポジティブな側面を引き出すのは難しいというだけの話かもしれないが。書いているときには幸福というところから離れていたとしても、書いていないときには幸福だった、というのもあり得る話だろう。そういう意味では書かれたものから作者の幸不幸を判断するというのがそもそも間違っているということは言えそうだ。

彼は鼻がたれるのをとめるために袖口で鼻の下をふいた。「そうか」と彼は叫んだ。「あんたが行くとこに行けばいい。だけど、いいか。」彼はポケットをたたいて駆けより、ヘイズの袖をつかまえて、皮むき器の箱をがたがた鳴らしながら彼のほうに差し出した。「あの子がよこしたんだ。あの子がおれによこしたんだから、あんたにはどうすることもできねえ。あの子は住所を教えてくれて、おれに来てくれと言った。そして、あんたも連れてくるようにね――あんたがおれを連れてくんじゃなくて、おれがあんたを連れてくんだ――あの人たちのあとをつけたのはあんただったのにな。」彼の目は涙を通して光り、顔はのびて、意地悪いゆがんだにたにた笑いがうかんだ。「あんたは、だれよりも賢い血を持っていると思いこんでいるみたいにふるまっている」と彼は言った。「でも、違う! 賢い血を持ってるのはおれだ。あんたじゃねえ。おれだ。」

20240618

日記400

退勤エリート

2024/06/17 昨日
この日記もとうとう400の大台にのった。読みやすい文章を書く気にはならないから、せめて読みやすい書式を作成してもいいかもしれない。手間だったら止めとくが、簡単に変更できるのであれば変更しようかと思う。そもそも読んでもらうことを前提として書いていないのだが、それはそれとして読んでほしいという気持ちがある。読んでもらうことで受けられる報いは読むことそのものでそれ以上でもそれ以下でもないけれども、簡単に読みやすくできるのであれば読みやすくして悪いことはひとつもない。百害あって一利なしの逆。
昨日はのどの不調が顕著で、そのために体力が奪われる感じもあったので療養に専念すると号して図書館にもスターバックスにも寄らずに即帰宅。メトロンズの『寝てるやつがいる』という公演をみる。前回公演のホームルール路線だが縮小再生産という印象を拭えない。生で見たのと体調がわるいときにタブレットで見たのとを較べるのはアンフェアだが、メンツにもこなれてる感じがあってお馴染みのという感覚以上のものはなかった。
二十二時半、Vがねむるより前にねむる。

2024/06/18 今日
雨降る中の出勤。外経路を回避するためできるだけ地下を通ってビルに向かう。おそらく現状ではこれが最短。百メートル弱に抑えられていると思う。
仕事時間。打ち合わせ動画研修、Web研修、打ち合わせ、メールでの問い合わせ。
前日にたっぷり睡眠をとったり、マスクをしていったりと配慮して喉をいたわったおかげで仕事終わりにスタバに行けるぐらいには回復(もしくは温存?)できた。
行きは千代田線で『オリエンタリズム』、帰りは銀座線で『ロリータ』を読む。こういうことで文句をいうのも何だが、背表紙にでかでかとロリータと書かれてあるのは、嗜好を超えて主義主張とさえ捉えられかねないのではないかと気が引ける。そんな嗜好も主義主張もないのにステッカーを貼ってファッションしている気分。まあでもそういう嗜好はあるから良いか。
五十ページ近くになってようやくロリータご本人登場。離婚のくだりとか細々した些事扱いだったのに読ませた。大きく振りかぶっていないところにも注意力が向けられるようになっている。しかし、さて、これからどうなる。
多くのビルを見下ろせる窓際の席に座ってぼーっとしていると、取り止めもなくいろんなことを思いついてはそのまま忘れていく。そういうことを覚えておいて日記に書きたいと思うのだけど、一時的な感興を後で書けるほどこだわって覚えていられない。あえてそれらを把持しようとすることで、べつの取り止めもない流れが途切れるようなことがあると本末転倒な気がしてしまう。しかしぼーっとすることそのものには本も末もないのだから、自然の流れを優先するよりも、カクつきを許容してしまったうえで、何らかのかたちに残せるようにと、一昨日から文房具を導入した。文房具というのはただのペンとノートで、それを業務端末の隣に置いておいて、ぼーっとしているとき用のメモ書きにするというだけのこと。
ぼーっとしていて取り止めもないことを考えているということ自体、自分にとって都合の良い解釈というか、何もないところに霞が立った煙が見えたと、それを掴めないことが確定したあとから騒いでいるだけのことのような気がしてきた。それというのも、丸三日経ってノートにはほとんど何も書かれないままだし、何か書かれていると思ったら「薬用養命酒 毒用捨物水←逆」という無意味な言葉の羅列でしかない。あとは仕事のメモ書きだけ。本当にそれ以外何も書かれていない……。
しかしこれはノートに書いたことではないのだが、そのことを思い出しているうちに思い出したから書けることがある。FF6のこと。自分がはじめて遊んだRPGだ。スーパーファミコンにはセーブが消えるという子供にとってそれは恐ろしい機能が付いていたのだが、セーブが消えても何度もプレイした。それこそ小学1年生から中学生になるまで何度もプレイしたし、最初自分がプレイするのを弟が見ていたのだが、途中から弟もプレイするようになって、反対にそれを見ていたりもした。ストーリーも覚えている。というかどの街をどの順で通って誰が仲間になっていくかというのをすべて覚えている。子供ながらによくできているなと思ったのは、最初の街ナルシェから出かけて帰るまでのあいだに少しずつ仲間が増えるのだが、ある急峻を川下りするときに仲間と離ればなれになるところだ。三局面展開になり、それぞれの局面でさらに仲間が増えていく。マッシュが好きだったから、彼のコースでカイエン・シャドウ・ガウと仲間が増えて一気に四人パーティが組めることに喜びを覚えたものだった。あの年頃で初めてプレイするRPGというのは原体験になると言ってもいい。自分にとって物語と言ったらまずはファイナルファンタジーⅥで、それはこの先も変わることがないだろう。心のなかにFF6がいる。ティナ、ロック、モグ、エドガー、マッシュ、シャドウ、カイエン、ガウ、セリス、セッツァー、ストラゴス、リルム、ウーマロ、ゴゴ、誰か忘れている気がするけど、忘れていない(一応調べた)。主人公がひとりではない物語を受け入れることが容易いのはFF6の影響だと思う。逆に最初にFF6を通らずになぜ群像劇というものを受け入れられるのかが謎なぐらいだ。普通に「主人公=この自分」というモデルが一般的だろうと思うし、大体の物語でそのビジョンは強化されるはずだから、急に群像劇と言われても意味がつかめないのではないかと思うのだが。

20240616

日記399

汗っかき犬

2024/06/15 昨日
スタバに二十二時半までいたあと、雨のなかミカンの入口のシッティングスペースで雨宿り兼飲酒をする。雨降りといっても小雨なので道行く人のほとんどは傘などささず、大股にのっしのっしと歩き回っていた。バレンボイムのベートーベンを聴く。男が隣に座って何かと思ったら隣の女に喋りかけ始めた。ナンパだ。まずはインスタのアカウントを聞き出そうとし、芳しくない返事にもたじろがずラインを聞き出そうとしていた。うまくいったようには見えなかったがそれでもへこたれず、誰かと待ち合わせですか、下北にはよく来るんですかと余裕の世間話。女の側は内心迷惑に思っていたのかもしれないがそういったことをおくびにも出さない礼儀の行き届いた立派なレディで、知らない人に急に話しかけられたとき一般の尋常の受け答え。でも結局、待ち合わせの人が来たとかで話は終わっていった。男のほうが言っていたことで印象に残ったのは「仲良くなりたいなと思って」という口説き文句だった。彼の意図を表現するにあたり、完全に正確な言い回しとはいえないかもしれないが嘘をついているわけではないので、とくに悪びれる必要もないためか終始あっけらかんとした態度で、受ける側もそんなに鬱陶しくないだろうという気がした。ぺこぱ松陰寺が言うところの「わるくないだろう」というやつ。
雨がやんだので追加の酒と晩ごはんを買って帰る。帰宅して有吉eeeeを見ながら酒を飲む。津田と丹生ちゃんのPICO PARKの回。

2024/06/16 今日
九時過ぎに起きる。ゆっくり朝の準備をして、フレンチトーストを作ってもらって朝食をとる。スタバに出かけたたのが十一時過ぎ。それから『オリエンタリズム』を読む。ブログの記事を書いてぼーっとする。十五時半頃に二杯目のドリップとフィローネをたのむ。日記を書いたら十七時半。いくらなんでも同じ席に座りすぎだが、ある程度まとまった時間集中したいので仕方がない。『戦争と平和』を読む。

消去法スマート、あるいは短くて重い杖

最近、スマートという言葉に興味がある。電話というツールがスーパースマートになって久しいが、それにともなって、扱う側の人間もそれなりにスマートを進化させている。そして、状況の変化のなかでスマートの定義そのものも少しずつだが確実に変化していっているはずだ。
……はずなのだが、大きな船に乗っていると乗員である自分もつねに動いているという事実に気がつかないように、時間の経過による緩やかな変化には気がつきにくいものだから、スマートの定義やそれ以外のものとの位置関係も変化しているものの自分たちでは変化に気が付きにくいということが起こっているように思われる。その変化に興味がある。
今のスマートと以前のスマート、両者の変化したところと変化していないところ、それらのスマートとその関係に興味がある。ここでの「変化していない」というところも、スマート概念からすると普遍的で、だから変化していないといえるものもあれば、十年の時間単位では変化が見えないけれど百年単位で見れば変化しているというものもあるだろう。
人類が誕生してからしばらく経つと、腕っぷしという意味での力に加えて、「賢さ」が重視されるようになった。時代や環境によっては力によって賢さが無力化されることがあったが、それはあくまでも例外的な一時期、限られた環境下のことであり、基本的に賢さは重要な指標であり続けた。ようするに賢さという価値が発生してから、人類は一度もその価値を手放していない。それはホモ・サピエンス(=賢い人)という呼称にも表れているし、自分以外の他人にどう思われたいかという個人の思惑にも表れている。
後者は前者ほど歴然と表れていないが、人間がアーカイブとして残ろうとするときに起こる自然淘汰において、もっとも重要な指標となるのが「いかに賢いか」ということであるのは明らかだ。歴史を学ぶことが常識になっている今、賢さという価値についてまったく知らず、あくまで無謬であるとする姿勢を維持することは簡単なことではない。そもそもそういったスタンスを選ぶということにも賢さは存しなければ済まないというわけだ。
だが、現実には資質や環境の問題もあるから、そういったことを考えない人たちが存在しなかったというわけではない。どの時代にも賢さについて興味関心をもたない人はいただろうし、それは多数派でさえあっただろう。ただし、現在時からみて千年前の多数派は存在しないも同然、というのは言いすぎであるにしても、不可視でかぎりなく透明な存在であることは疑えない。
名も知れない賢人が千年前にもおそらくいたのだろうと想像することはあっても、名も知れないただの人がいたのだろうと想像することはない。そう想像する機会が少ないのは、そういった想像をする人の賢さが、自分に似た境遇のだれかを想像しようとし、つまりあり得たかもしれない自分を想像するにおいて、暗々裏に賢い人(社会に馴染みきれない・社会を不完全な乗り物とみなす)を想像するだろうからだ。考えるものは自らを賢いものとみなす。無知の知を問いたソクラテスにしても(そして彼の発言をフォローする無数の人たちも)、知について譲歩することでその奥にある知を得ようとしたわけで、賢さを放棄したわけではない。謙遜して自分は賢くないというものがしていることといえば、目の前のリンゴを齧らないだけの賢明さが自分にはあるという主張にすぎない。物事を客観的に見ていますよという宣伝だ。
しかし「賢さ」というのがむき出しの概念であるということは言えて、直接に「賢さ」に言及することがかえって賢さから遠ざかるという段階が出現する。ただし、これは賢さを指標にすることをやめるという話ではない。その指標をやめるように見せて、実際には隠しパラメータにするだけの話だ。これは本質的にペテンであって目くらましにすぎない。自分より愚かな人間に対してのみ有効なやり方で、賢さという長いスパンの考えにおいて有効となるものではない。有効期限が自分自身の人生をすっぽり覆うために、個人としてこのやり方を選ぶというのは合理的な選択だといえるかもしれないが、現在から見て錬金術がまったくのナンセンスに感じられるように、十分考慮を経たうえで判断するなら(今の常識で考えれば)、ただのナンセンスでしかない。賢さを秘蹟であったり魔術的なものであるとするのは、手品師の手品のようなものだ。ネタの割れた手品を見て喜ぶものは誰もいない。
それとはやや違う、しかし似たケースとして、賢さ以外のものに価値を置くという考えが台頭する。賢さ以外のものとして「愛」というものを発明し、それに殉じるという姿勢だ。これは個人として限られた生を前提とする立場からは賢い選択だといえる。「それがあれば生きられる」という杖を手にするやり方で、現在時からは存在の見えない多数派も、じつは生まれてから死ぬまでのあいだに銘々でこの杖を手に入れて、それを握りしめて死んでいったのだと考えられる。それは個人の選択として、たとえそれしか道がなかったとしても、十分に賢い選択だと考えられる。この選択によって、過去の多くの人たち(そして存在しない未来の多くの人たち)、本来は不可視の存在である彼らと精神的なつながりを持つことができる。たしかにこれは必要十分な利点であるのかもしれず、同じ杖を持っているという標(しるし)が、透明で見えないはずのものを感じ取らせるよすがになる。その世界観は現実における確かな支えになる。

自分には賢さに逆行したいという思いがある。そもそもの前提に異議を唱えるためには賢さを捨てる必要があると思うからだ。しかし、逆行するのはともかくとして、捨てるということはむずかしい。じつは試したこともないのだが、どこまで行っても「本当の意味での賢さ」という考えから抜け出せないという気がする。
しかも、杖から目を離すこともできないと思う。手に取ろうとしないのにもかかわらず、つねに視界の中には入れておきたい、選択肢として可能性を残しておきたいという思いが離れない。これは臆病からというよりは自分の思う「賢さ」からそうしているつもりでいる。
どこまで賢くなれるのかという自分自身に向けた問いは、賢いという価値がどういった形式・内容にまで変化していくのかという問いに置き換えられる。社会のスマートが変化していくのを尻目に、部分的にはそれに逆行し、べつの部分では順行するかたちで、独自のスマート観を進化させることで、結果的に幅を持たせたいというのが現在のところの漠然とした展望である。
また、幅という観点からは、賢さを重要な指標にしていない存在にとっての賢さにも興味がある。自分以外のもの、外側からの視点を取り入れるために、「賢さ」がいろいろある指標のなかの一要素にすぎないという考えを想像して、それを自分の在り方の参考にしてみたい。

20240615

日記398

ライブ映画をライブで

2024/06/14 昨日
金曜日は仕事をしていても気持ちが軽い。案件の並列処理が重なってきたのでそれなりに忙しくなりそう。しかもチームメンバーがひとり退場するとの発表があった。その人はわりと残業対応が多かったので、単純に考えると仕事のボリュームがそのまま降りてくることになるはずなので若干気が重い。一月か二月に入場させて六月に退場させるというのは管理体制の杜撰さというか計画性のなさでしかないので、どう考えてもその割りを食っている。非正規社員に対しては普通にそういうことをしてくる会社だということをあらためて認識したうえで、振られた仕事はきっちりこなすというスタンスを取るべきだと思った。無駄に顔色を伺ったり、必要以上にいい仕事をしようと息巻いたり、身を入れても働いても仕方がない。
そんななか、安全上のリスク管理をする新ルールをうっすら破ろうとする打ち合わせに参加することになった。「まあルールは大事だけれど経費やスケジュールの問題があるし、ね?」みたいな”現場の”考え方があり、新人としてそういう機微に気づいていないふりをしつつルール準拠のフローを押したが、良い人たちにじっとり説得されそうになった。結局その場では方針についての結論が出ず、上長に相談しようということになって打ち合わせが終わったのだが、上長との打ち合わせでは上長から「とはいえルール遵守は鉄則だ」という話が出た。それもあって軌道修正されてルールに則ったかたちで進むことになった。これまでは”現場の判断”として、経費を抑えつつ現場の人間にリスクを負わせるようなやり方をずっとやってきたんだろう。もしルールがしっかりしていなかったらそうなっていたんだろうから、やはりルール策定は大事なことなんだと思わさせられた。企業の利益を個人の安全リスクより優先するような働き方をするとしたらはっきり言って俺個人としては終わりなので、今回はまだなんとかなったが、そういうときのハンドルの握り方を身に着けないといけないと今回の件でつよく思った。自分の近くで波風を立てないというのを最優先にしないこと。たかだかお金のことなんだから仕事なんていつやめてもいい。自分をやめるわけにはいかない。なあなあで済ませようとしたおじさんたちはふたりとも優しくて良い人という印象だったが、少なくとも俺のなかのイメージは地に落ちた。自分をやめ終わっているひと。でもそんなことより何より打ち合わせ中に「自分より経験のあるふたりが言うなら実際にはそこまで危険ではないのかもしれないな……」などとリスクを回避しようとする考え方が自分のなかで存在感を持ってきたことがきつい。我ながらすごく残念で情けなかった。自分が任された案件は自分が責任者だということを忘れないようにしよう。優先順位も当然俺が決める。そして優先度が高いと判断したある面では(譲れない部分では)人のせいにしようとしない。
仕事後に友人と電話で話す。将来のことや仕事のことについて悩んでいるようなのだが、楽観的な話ばっかりしてしまう。よかれと思ってのことだが、それでよいのかどうなのか。しかし自分としては、自分の考え方というか俺だったらこう考えるということしか言えない。無責任かもしれないが、俺は彼の友人であって責任者ではない。だから気を遣わずに喋れるのだし、それでいいんだと思う。いい加減なことを言い過ぎないように注意しないといけないとは思うが、あまり脇を締めているとは我ながら思われない……。
日比谷線で恵比寿に移動する。かむくらでスタミナラーメンを食べる。天理スタミナラーメンを思い出す。温かくてうまいが顔から大量に汗が吹き出した。その後ガーデンプレイスの野外シネマで『アメリカン・ユートピア』を見る。友人たちとくっちゃべりながら見ようと思っていたが、わけのわからない意味深なMC(ちょっと聞いてみたが「意味深なことを言う」以外の目的があるとは思えない)のとき以外はずーっと歌っていたので喋りにくかった。
その後池ノ上に移動して、かつて下宿したアパートが更地になったのを見学する。いま気づいたが自分の住んでいた場所がなくなるという経験は初めてだった。勝手に「まだあんのかい」とずっと言い続けると思っていたので驚いたというのが一番だが、それに慣れた先に感慨深いものがあるような気がする。そこからスズナリ経由で下北沢まで歩く。もうあまり歩くことのないコースになるかもしれない……。
エキウエ前の階段エリアに座って酒を飲む。若い人が多く、盛り上がりつつ皆なんとなく今の生活や将来のことを語らっているような雰囲気があって、気候も外飲みにちょうどいいし、話すことが楽しかった。自分は話すときには内容を重視してしまうが、話すというのは内容じゃないのかもしれない。とりあえずやり取りをして、そのうちに言いたいことを言えるタイミングがくるという行き当たりばったりなやり方で充分だと思っているのかもしれない。そして、だからなのかどうなのかわからないが、すこしいい話を聞けたように思う。

2024/06/15 今日
昨夜の就寝時間を考えるともっと寝たかったのに八時に目が覚めてしまった。でも起きてしまったものは仕方ない。二度寝には失敗する。日中はほぼ一日家でだらだらする。午前中と午後の二度、駅前に行って用事を済ませる。一度目は未来のレモンサワーを宅急便で実家に送るためコンビニに。二度目は遅い昼飯の弁当を買いにスーパーに。セブンイレブンとまいばすけっと。
遅い朝飯はフレンチトーストを作ってもらったのを食べる。ダンジョン飯の一期最終回を見ながら。ライオスが方法を”考えて”いる場面でぐっとくる。マルシルの涙もそれにギョッとするイヅツミもそれぞれの良さがあって良い。それぞれにフェーズや歩幅があって、ポジションはあってもどっちが良いとか悪いとかいえないということがきちんと表現されている。
家で『存在することの習慣』を読む。読了。俺はクリスチャンでもなければカトリックでもないが、祈りたいような気持ちになった。モハメド・アリについてイスラム教徒なのがもったいないと言っているくだりなど、フラナリー自身の位置と考えに対して率直で、これをこのまま受け取れるのであれば全然嫌な気持ちがしない。
『ロリータ』を読む。言っていることが「わかる」ように書かれている。「わかる」ではいけないのにそこに連れて行かれるとすればそれがそのまま小説の達成になる仕掛けで、しかも著者が技巧的達成に堕しておらず、篤実なことは疑えない……。ということになっていくのだろう。
日が落ちてからユニクロに行く。オンライン購入したTシャツが五〇〇円引きになっていたので、受け取って試着→イメージと違うから返品ということにしてもらう。その代わりといっては何だが、同じTシャツのサイズ違いを合計三着購入する(これは本当に”何”だ。安くなっているからまとめ買いしたというだけの話)。
二十一時にスタバに行く。ほうじ茶ラテを飲んで日記を書く。

20240613

日記397

見え

2024/06/12 昨日
日記を書いているうちにスタバの閉店時間になった。氷結を飲んで帰る。未来のレモンサワーを実家に送ろうと三缶ずつ買い込む。その後下北をぶらついてもう一缶酒を追加し、すき家で牛丼ライトを買って帰る。有吉クイズを見ながら食べてねむる。

2024/06/13 今日
睡眠時間が少なく寝不足気味。生活習慣をちゃんとしないと。それでも仕事時間にはなんとかやる気をかき集めてやるべきことをこなし、午後の時間は考えることに充てるという名目でボーっとする。『存在することの習慣』でフラナリーが書くために本を読まない時間を日に三時間作れと若い作家にアドバイスしていてこれが一番基本になるアドバイスだと思った。しかしこの時代にはアドバイスを容れるのがもう少しだけハードで、スマホ見るな、SNS見るな、動画見るな、ラジオ聞くな、音楽聞くな、テレビ見るな、必要な検索をだけしてそこから派生する気になったページを見るな、漫画読むな、本読むなということになる。でも本当にそうだ。オフィスはビジネスしてる人たちでやかましく、なんとか頑張って、仕事するなだけしか達成できなかった。
定時に上がってバルボアでアサリしょうゆ味を食べる。おいしい。ちょっとの誘惑を押しのけて図書館にいく。『存在することの習慣』を読んで日記を書く。

映画『チャレンジャーズ』を見た

恵まれた環境に生まれてきて、ある程度自分の生きる場所を選べる人が、自分自身をどこに置きたいかというのを突き詰めて考えるとき、じつはその「パターン」というのはあまり多くないのかもしれない。

その人は、おそらく物心つく頃から自分自身のことを自然に理解していて、それを理由として、当然のように自分という存在に関心を持っている。一方で、自分のことが好きか嫌いかという考え方には馴染まない。そういった区分けというのは表面上のものにすぎず、嫌いと言おうが好きと答えようが、結局、同じ内容をべつの表現で表出しているにすぎないということが、自分の内面を通してはっきり明確になっているからだ。表裏を気にして一向に前に進まないのとは決定的に違う。彼らが好き嫌いについて考えるとすれば、何をやっているときの自分が好きかということだけだ。

これはまさしく恵まれた環境に置かれたものの特権で、たとえ彼がどれほど真剣に悩んでいて、どれだけ自分の願望を充足させることに血道を上げていようと、自分のことを好きになれない人にとってそれは贅沢な悩み、楽しそうな努力ということでしかない。そうするとやはり「生きる世界が違う」という結論にならざるを得ないようだが、そう結論づけるのを保留し、あえてその悩みにフォーカスして考えてみるということ、はたしてそれは可能だろうか。

それが可能かどうかというのは、これもまた個人の資質に依るところが大きく、できるやつはできるし、できないやつはできないというだけの話になる。だが、仮定に仮定を重ねるようでやや撞着の気味があるところではあるが、無理を押してそれができると仮定して、つまりトップテニスプレーヤーとしての人生を想像するということをしてみて、ようやくこの映画のいいたいことが理解できるようになるのではないかと思われる。

そこまで寄り添うことは無理だとしても、次の簡単な条件にだけ同意できれば、チャレンジャーズのいうチャレンジとはどういうことなのかというのを考えられることになる。そこがスタート地点だ。それを考えようとしないでこの映画を見るのは不毛なことだと思われる。境遇が近ければまだしも、想像力をまったく働かせないで見ていて楽しいたぐいの映画ではない。ただただテニスをやっている姿が美しいというだけの映画ではないし、そもそも優れたテニスの試合が見たいのであれば2008年のウィンブルドン決勝をみればいいだけの話だ。

条件というのはつまり、「自分のやることのなかで、何をしているときが一番楽しいかを真剣に考える」ということだ。「何にだったら情熱を傾けられるかを考えること」だと言い換えてもいい。

どんなことをするにしても当惑し、何をするにも失敗を恐れる、という自らの性質からくる絶対の条件を一度外してみて、どんなことでも簡単に、誰よりもうまくできるとした場合、その「楽しみ」はどこにあるのだろうと想像してみることだ。できないことがいくらでもある人たちは、試行回数を増やすことによる慣れや、持ち前の運の良さでなんとかうまくいったときに「最大の報酬」を得られる。できないからこそ、できたときの喜びがあるというわけだ。それなしに自分の達成を冷静に考えてみたら、何をそんなに喜んでいるのか、何がそんなに嬉しかったのかということにもなりかねない。実際考えがそこに及びそうになったら慌てて回路を閉ざし、それ以上考えることをやめなければならないだろう。

しかし、何でもうまくやれる人はそうすることができない。考えがそこに及ぶ及ばないではなく、その冷静な疑問「何が楽しいのか、何が嬉しいのか」というのは、彼らにとって考えはじめるスタート地点にあたるからだ。

つまり、なんでもうまくやれる人とそうではない人は全然ちがうゲームをプレイしているということになる。ある観客があくまでも自分のやっているゲームに固執するというのであれば、おそらくその人にとって『チャレンジャーズ』は見られた映画ではないということになるはずだ。ただただ当惑し、退屈するだけだろう。「何を言っているのかわからない」ということになる。

あるいは、(自分だったら)もっとうまくやれるのに彼らは一体何をしているんだとがっかりするということもあるのかもしれない。一体何に躓いているのか、「何をやっているのかわからない」。


恋愛について、あるいは結婚について、社会にはルールがある。だから当然、社会の一員としてそのルールを遵守しなければならない。当たり前のことだ。

しかし、一方で、「そんなこと知らん自分以外で勝手にやっていろ」という乱暴な一個人の考えが、社会のルールとはまるで関係ないところで存在するのも――ひょっとすると意想外ということになるのかもしれないが――当たり前のことだ。

ただし、社会のルールなんて知らんとうそぶく個人にしたところで、自分以外から影響を受けざるを得ない場面が発生する。社会のルールに抵触したことで払わされるペナルティについては屁でもないわいという顔をできる腕っぷしの強いドンキホーテでも、それによってゲームそのものを没収される憂き目にあってはひとたまりもない。

テニスプレーヤーでいえば、試合中にどれだけ不適切発言をしようが、ラケットを木っ端微塵になるまで叩き折ろうが、肝心要のテニスで相手を圧倒できるのであれば、ポイントのひとつやふたつ惜しくもない。しかし、それで没収試合になり負けを宣告されるとなると黙ってはいられないということだ。恋愛関係でいうと、相手の関心が自分に向いていないということが起こり、それだけならまだしも、自分の関心のほうは相手に固定されてしまって動かしようもないということになれば、それはもう破滅的な事態だ。

なんでもうまくやれる人間が志向するのは、恋愛における破滅的場面や、白黒がはっきりつく勝負事での、圧倒的な強さだ。しかも、圧倒的な強さを表現するためには、相手も自分と同等の強さを持っていなければならない。これはテニスというスポーツの持つ競技性からしてもそうだ。勝利を望むのではなく勝負を望むというのは、勝つか負けるかの勝負を望むということで、どちらに転ぶかわからないというグラつきが感じられなければ意味はない。ただ勝ちたいのではなく、最終的にみじめな敗者となる相手としっかり関係を結んだうえで勝ちたいということ。恋愛に置き換えると、ただ魅了したいのではなく、自分でも信じられないほど完璧に魅了されたその相手を、それ以上に魅了してやりたいということだ。

『チャレンジャーズ』の登場人物たちには、そういう引力をこれ以上なくしっかり感じられる場所に自分自身を置きたいというたしかな願望がある。これは「勝ち負けなど二の次だ」という話ではない。たまたま運悪く、しかし決定的に敗者になった相手にむかって健闘をたたえ、手を差し伸べたいということだ。

略奪愛であれ、テニスの名試合であれ、当人同士がどれだけ真剣にそれに取り組もうとも、外野から見たときのそれは矮小化され、ある枠の中に収まることになる。これは真剣さの度合いをいくら引き上げても、生きるか死ぬかというレベルにまでシリアスの度を高めたとしても、回避できるものではない。それは単純にどこに目線をおくかの問題だからだ。人生を賭ける、人が得られないようなたくさんの報酬を得る、誰もが成し難いことを達成する、前人未到の領域に到達する、そういったことの本当の価値はそれをやった当人にしかわからない。しかも、どういうわけか外野はその価値についてなんとなく知っているつもりになっている……。

外野から見ても本当に感動したといえることがあるとすれば、おそらく成し遂げたことの大小は関係ない(大小が問題になるのはその達成が自分のもとに届くほど有名になるかどうかという部分にとどまる)。自分自身でも何を望んでいるのかわからないまま望み続けていたものについて「これだ」と確信を持つことになるその瞬間を見ることだ。得られるはずのないもの、得られるとは予期していなかったこと、”確信の瞬間”にはそれらが一挙に目的になる。その瞬間へのすべての流れ込みを目の当たりに見る気がするからだ。これでもない、あれでもないと、偽のゴールをすべて振り捨ててこなければ到達できないところに自分自身を置くことができたとすれば、そこから得られる報酬というのは、できなかったことがなんとかうまくいったときの「最大の報酬」に優るとも劣らないものになることだろう。なぜだかわからないが、その確信についてはわかる気がする。想像できる気がする。この「わかる気がする・想像できる気がする」がなければ一切何もない。『チャレンジャーズ』はそういう映画だ。大多数の人が見て面白い、誰でも楽しめるというような作品ではない。そこが魅力の中心に据えられているという意味で、このポピュリズム全盛の時代にエリーティズム全開でやっていて、チャレンジングな映画だともいえて、自分はこの映画のそういうところにも個人的好感をもった。

20240612

日記396

この色

2024/06/11 昨日
閉館一〇分前まで図書館で読書。ナボコフの『ロリータ』を借りて帰る。帰宅時間がぎりぎりになりそうだったので走って帰る。二十二時半のB就寝時間に滑り込みで間に合って「ただいま」を言えた。Bも寝る前になんか言っていた気がするけど何だったか忘れてしまった。

2024/06/12 今日
昼ご飯にバルボアのぼっかけを食べた。
定時後すぐに虎の門を飛び出してゼンデイヤの『チャレンジャーズ』を見に行く。渋谷ヒューマントラストシネマで見たがODESSAで運が良かった。(ODESSAの紹介映像はかっこいい)
『チャレンジャーズ』は映画館で見ない場合、この映画の馬鹿馬鹿しい盛り上がりが体感できないのでほとんど見る意味がなくなってしまう気がする。
途中あくびを挟みながらも、音楽の使い方といい、テニスという競技の間の抜けた馬鹿馬鹿しさ(球を打つときのハポンという音からして間抜け)といい、スポーツ優等生の滑稽なシリアスさごと笑いながら見ていたが、最後クライマックスシーンには爆笑しながらもちょっと涙が出るという映画鑑賞体験になった。『チャレンジャーズ』というタイトルの時点で見に行かないという選択肢を削られていたわけだが、見に行ってよかった。
テニスだけを追求していく求道者が、自分の願望を見つけ出してそれを叶えようとする話で、基本的にスポ魂映画だった。ただし、普通のスポ魂作品が持っている寓話要素が削られて、代わりに一瞬の輝きというにはあまりにも間延びした、長いスパンでのスポーツ魂が描かれていた。しかもその際、恋愛を横においておくのではなく、スポーツ魂と不可分で渾然一体の情動的欲望にしていて、カオティックで意欲的な作品ながら、登場人物の情動は完全に「ザ・アメリカン」ともいえる姿勢で一貫しており、ところどころ解釈の余地を残すにしても、そこに深さのようなものは一切ない。
主要登場人物は女ひとり、男ふたりで、時代が違えば男ふたりが持っているのはラケットではなく刀剣類ということになるのだろうが、最初のシーンから命の奪い合いという見立てが十分に可能になるような描かれ方をされており、実際に命が懸かっていないからといって、たとえば中世の決闘者の持っているシリアスさには及ばないと見ることはできない。これは劇あるいは劇映画の登場人物が演技によって小道具の竹光を真剣と捉えるのと同じことで、「でもだってラケットじゃん」ということを言うとしたらそれは観客の側に不足がある。フィクションには興味が持てない、ドキュメンタリーだったら見ると言う人のことを「たしかにそういう意見もあるか」と思いながらもどこか馬鹿にしてしまうのは、彼が自分自身の人生しか生きられないということを自分で選び、自分の外から何かを学び取ろうという意欲を持っていないように見えることからくるのと同じことで、「たかがテニスでそんなに真剣になって」とチャレンジャーズのことを馬鹿にするのは、何に対しても真剣になることのできない冷笑家か、本当の命のやり取り以外には真剣さというものを認めない野蛮人か、どんなときもどんなことにでも笑っていたい馬鹿か、そのいずれかということになる。
そしてここがポイントなのだが、チャレンジャーズは長いスパンで自分の望むものに向かってたゆまぬ努力を続け、彼らなりに一直線に進んできたことで、いつしかテニスに対する真剣な姿勢を越えてしまっている。つまり、ある時点からあとの彼らは真剣なスポーツマンでもあり冷笑家でもあるということだ。テニスだけしかなかったという時代を抜けてテニス以外にもいろいろあるということを現代時の彼らは知っていて、そのため「たかがテニス」という視点を持ったうえで、真剣にテニスを追求している。テニスだけを見ていればそれでよかった頃とは事情が変わって、とにかく強烈に何かを求めているのだが、そしてそれを手に入れようとすることを生活の中心に据えて突き進んでいるのだが、何を求めているのかという肝心のところがわからなくなって、強い意思と不屈の闘志を持ったままで迷子になっているのだ。求めることをやめれば迷子であるという状況も終わりになるはずなのだが、それでもつとめて迷子でいようとする。それは自分自身の求めているものが自分自身を超えたものであって欲しいという願望からきているにちがいない。性的な情動、勝つか負けるかしかない勝負、相手を自分に屈服させたいという気持ちのなかで、アンコントローラブルな状況に自分と相手を追い込んでいく。
そういうところから何を得たいかといって、自分だけではなく相手も巻き込んでぐちゃぐちゃに関係しあいながら一心に求め続けてきたものが得られる瞬間でしかない。その一瞬にこそテニスを超えるということが本当に起こるはずだし、しかもそこで片方の生命が実際には尽きないということの利点、見立てることの利点が完璧に表現されることになる。それを見るとき、テニスという競技はやはりどこか馬鹿馬鹿しいが、馬鹿馬鹿しくて良かったとさえ思えるはずだ。
ただし、この見立てはひとりの視点しか代表していない。何かを手に入れたいと望むことと、何かを失いたくないと望むことはまったく別のことだ。それぞれにそれぞれのチャレンジがある。ふたつに共通するのはチャレンジが成功するとは限らないこと、自分がどれほど努力してもうまくいかないことがあり、「成功するのも失敗するのも自分次第」とは言いたくても言えないということだ。
スタバでほうじ茶&クラシックティーラテのアイスをたのむ。日記を書く。
昔持っていて今持っていないものを美化して情熱と呼びたくなるがそれは単に極端な視野狭窄ではなかったか。当然違う。が、そんなふうに間違って考えてしまうタイミングが多くなってきている。
どちらにしても情熱を求め始めたらおしまいだ。若さを求め始めるのと同じで。それでも疾風怒涛などと言いたくなることも増えてきている。バレンボイムのベートーヴェン月光がわかりやすくて良い。
チャレンジャーズの現在時は2019年だが、ゼンデイヤの娘がスパイダーバースを見たがって隣の部屋からスパイダーバースの音が聞こえてきたところと、ロッカールームで男がめっちゃスワイプしてるところがとくに好ましかった。

20240611

日記395

階段前会談

2024/06/10 昨日
閉館一〇分前に図書館を出て帰宅。下北沢駅で降りたが帰り道に酒を買わずまっすぐ帰る。改札出口付近にゾンビのような酔っぱらい女がいてちらと目があったかあわないかすれ違う一瞬にこちらに突進してきて恐かった。肩にぶつかられて噛まれそうになるイメージが浮かんだがすんでのところでターンして躱し、事なきを得た。しばらくドキドキしているうちにボーナストラックの入口までたどり着き、なんとなく後ろを振り返りつつ、完全に精神の安全を脅かされながら帰宅。同居人にはそんな恐怖のことをおくびにもださず、クールに寝る準備を済ませ早々にねむる。おくびというのは欠伸の昔風の言い方だと思っていたが検索してみるとゲップのことだった。

2024/06/11 今日
スクワットをして出勤。いつも出勤の電車と退勤の電車、往復の通勤電車で読書をしている。通勤するサラリーマンたち(だいたいソーシャルゲームかソーシャルメディアをやっている)との格の違いを見せつけることができるので読書するにも勢いがつき気に入りの読書時間になっている。平日はディスプレイの前に7.5時間座り、仕事の知識やそれに類する知識、あまり関係ない知識の収集に努めていて、定時後にはディスプレイ外から得られる知識の収集に努めているわけで、(かなり柔軟な)考えようによっては毎日二十二時近くまで残業しているようなものだともいえる。睡眠時間をきちんと取って、必要な栄養をサプリやプロテインで補いながら食事をとって、一応スクワットなどの運動もしているのだから、わりと勤勉な生活を送っているほうだと思う。しかし勤勉の方向性を社会が適格と認めるものにはしていないので、考えようによってはなおのこと勤勉で、知識の収集に努める様子も考え合わせるとこれは現代の知識人の表象といえるのではないかということを思った。
ということで、『知識人とは何か』を読了。自分は方向性としては知識人の方を向いている自覚はあるものの、まだまだというか、根本的なところで抜いてしまっているというか、腰が引けている。そして腰を入れずに腰を引いたまま何かを言おうと苦心したり、自分の姿勢について強引に弁護しようとして無理と無駄を重ねている。腰を引いてしっかりやるのはスクワットだけでいい。
昼ご飯ははじめてお弁当だった。昨日の残りのピーマン肉詰め。虎ノ門の高層階で手作りのお弁当を食べる、実績を解除。あと、階下でのサボり時間はいつものように本屋に行かず、隣の服屋でTシャツ4品の試着をした。一枚だけで着られるヘビーウェイトのTシャツが欲しい気分だったので購入することにした。一応下北沢の古着を回っていいのがないか見てからポチることにしよう。
吉野家で唐揚げ定食を食べてから図書館にくる。『知識人とは何か』『戦争と平和』『存在することの習慣』を読む。日記を書く。
AURALEEのレザージャケット、アビゲイルジャケットが欲しい。昨日おじいさんが着ている写真が回ってきて、完全に再燃してしまった。
自分はタッパがあるから難しいかもしれないがこの着こなしがめちゃ格好いい

ケアの論理について、ケアを必要としない人はいないということを知った。つまり、一見ケアが必要ないかのように見える人については、ケアが充分に行き届いているからケアされている状態が当然で、したがってケアされているという事実が透明化しているにすぎない、ということ。この考えはもっともだと思った。安全や健康が、それに包まれているときにはとくに意識されないがその不足とともにそれらを強烈に意識するようになるということと同じようなものだ。社会で暮らしていてケアされていない人はいない。必要なケアが充分行き届いていない人と、ケアが行き届いているからケアされていないかのように錯覚する人しかいない。自分はその錯覚のもと、誰かのおかげということを全然考えずに都会での生活を謳歌している。楽しむときにそのスタンスは欠かせないと思うが、その視点だけに留まるのは飽きがくる。
また、ケアする人/ケアされる人という区分もよくある間違いだという。実際にはケアし合って生きていくほかないとのこと。気がついたときにできる範囲のことをやればいい。それもそうだと思う。
それと忘れていたが、自分は自分をケアする登場人物の第一だという考え方は見落とされがちで、重要な観点だと思う。

20240610

日記394

未来の中から

2024/06/09 昨日
前夜に下北沢のアミューズメントポーカーで遊んだ。少しずつ増やしたチップを大きく賭けて全部失ったときの感覚が忘れられない。オール・インというのは基本的に勝っていると思うからするもので、それで負けたときの裏切られたという感覚には特有のものがある。出来事を理解できずに時間が止まったような気がした。とはいえ相手側へのチップの移動は滞りなく即座に行われるし、チップの追加購入をしないからそのまま席を立つということもやっているわけだが、ふわふわしたなかでそれをするので記憶が飛んでいるというわけではないけど、キング・クリムゾンを食らって「時間を飛ばされる」というのはこういうことかとはっきりわかった気がした。
眠るのはそれなりに遅くなったのにもかかわらず、寝室に遮光カーテンが取り払われた影響で朝の明るさで目が覚める。結果、寝不足の状態で一日を過ごすことになった。
午前中にはだらだらして過ごし、昼過ぎになってようやく外出する。渋谷のMUJIカフェで昼ご飯を食べて、無印とLOFTでアイマスクを見る。これだというものは見つからず、値段の安い無印のアイマスクを試験導入することにした。その後、未来のレモンサワーが飲める発売前イベントに行ってレモンサワーを飲む。そこで働かされているニコボが故障なのか不具合なのか声が変になっていた。尻尾も無理やり引っ張られたのか若干ニットが伸び切っているような痛ましい様子で、かわいそうに大丈夫かと喋りかけていたら「しごとね」と言ってきて悲しかった。店頭でもちゃんと丁寧に扱われてほしいし、故障しているのであれば廃品にするのではなく修理されてほしい。
その後、目黒のアミューズメントポーカーに出かける。50BBのチップで遊んだが、同居人が江戸っ子のごとくすべてを吐き出したところで帰ることにした。自分は勝ったり負けたりしてちょいプラスで終える。
帰宅後、せいろで肉と野菜を蒸した晩ご飯を食べさせてもらう。ラウンダーズの続きを見て、マルコビッチとマット・デイモンの熱いバトルに影響されたので、ヘッズアップのポーカーで遊ぶ。一回戦はタコ負け、二回戦は相手にバッドビートを食らわせてぎりぎり引き分けに持ち込む。ポーカーで遊ぶときにはいつも思うが、自分は自分で考えているよりもうまくポーカーができない。
気づいたら十二時を回っていたので慌てて寝る準備をしてねむる。この日はほとんど本を読まなかった。

2024/06/10 今日
寝不足にはちがいないが、朝のまぶしい問題はアイマスクによってきれいに解消しており、ギリギリまで寝ていられたので最小限の寝不足で済んだ。出勤してから午前中に集中してやるべきことをこなす。午後はWEB ACROSSを見たり、ピンチョンのV.の論文(阿部幸大『ThomasPynchon,V.における怠惰とケア』)を読んだりして過ごす。
怠惰というのは、社会のこれでいい、こうしていればいいという潮流に対するサボタージュであり、真面目にきちっと自分の役割を果たそうとする怠惰な姿勢への怠惰でもあるというのはしっくりくる意見だ。
たとえば自分が1920年代を生きるアメリカ人WASPだったとして、黒人への差別、ひどい不平等と不条理な暴力事件に対してどうリアクションしただろうかと考えると嫌な気持ちがする。もしまともな良心があって倫理問題に個人的関心を寄せていたとしてもせいぜい「眉をひそめる」ぐらいが関の山だったのではないか。そして今、2020年代を生きながら同じことをしているという気がする。それを精神的怠惰だといって自分を慰めるのにうってつけの言説が「怠惰とケア」のなかに見られた。ひょっとすると『V.』を読んで良いと感じるのにも、それと同じ助かりたいという願望が反映しているのではないか。というか割合の多寡はともかくとしてその願望が反映していることは疑い得ない。怠惰であるということを、まともとは思えない社会潮流に対する個人防波堤にしている。暴力に対する反抗は、自分自身のサボタージュによって示すほかない。それについて連帯しようとか、声を上げようという気はない。暴力についての自分のスタンスは、一にも二にもそこから離れること。とにかく避けるべきものだと思っている。

定時で退勤して虎ノ門のバルボアで焼きカルボナーラを注文する。やはりこちらの店舗は段違いに美味しい。
図書館に来て日記を書く。『戦争と平和』『存在することの習慣』『知識人とは何か』を読む。

20240608

日記393

普通目線

2024/06/07
スクワットと腕立てをしてから出勤。大した回数では全くないけどこうやって書くとマッチョでストイックな雰囲気が漂う。寝不足の影響で職場では何もやる気が起きず、かろうじてやったとこといえばピンチョンの『V.』についての論文を読むことだけ。
定時退勤し、銀座線で渋谷へ。十九時半からの『SELF AND OTHERS』を見るまでのあいだ、宮下公園の屋上エリアの芝生コーナーでかるく昼寝をする。まあまあの人口密度だったが、起きたとき隣に女子高生が寝ていたのには驚いた。渋谷の高校生にはパーソナルスペースの概念がないんだと思った。
映画は期待した通り、大きなスクリーンで牛腸茂雄の写真が見られて満足した。見たらいつも泣いてしまう兄弟の写真があるのだが、それは映画には登場しなかった。あえて避けたのかわからないが、その写真を意図して入れなかったのであればなんとなく気持ちがわかる。あの写真がなかったのはかえってよかった。どういう理屈でそう思うのかわからないが。
信州そば屋で信州カツ丼セットを食べて帰る。そばつゆを盛大にひっくり返してしまった。テーブル一面がそばつゆにまみれてしまった。表面張力でテーブルから下にはこぼれていなかったのに、紙ナプキンで余計な手出しをしたことをきっかけにこぼれ始めた。なんとなくそうなるのではないかという気がしていたが、何もせずに店員を呼ぶのもどうかと思ったのが判断の誤りだった。
下北沢に戻り、同居人がダイエーで無洗米5kgを買ったはいいが重すぎて動けなくなったとのことだったので合流して帰宅。ダンジョン飯と有吉弘行の脱法TVを見てねむる。ダンジョン飯はどんどん面白くなっていくところのはずなのだが、漫画で読んだときの「そうきたか感」は若干うすかった。アニメになったことでそう思うのか、知っててみるからそう思うのかわからないが、感覚としては結構期待外れに近いものがあったので両方の理由を足してそうなるということかもしれない。有吉弘行の脱法TVは最初から飛ばし気味でくだらないながらも面白かったが最後のヤラセ回が全然面白くなく、尻すぼみの感があって残念だった。ただ乳首回の片桐仁の人選は最高だ。

2024/06/08 今日
たっぷりねむって九時前に起きる。洗濯機を回して、マフィンを食べる。テレビを付けるとNHKのカネオ君がやっていて黒部ダムを取り上げていた。面白くてつい全部見てしまう。その後Eテレでヴィランの言い分の蛇VSみみずも面白くて全部見てしまった。そのせいでスタバに行くのが昼前になる。『存在することの習慣』をすこし読みすすめてから渋谷へ。『エドワード・サイードOUT OF PLACE』を見る。本人を撮影しないドキュメンタリーという手法もそうだが、意欲的で見る価値のある作品だと思った。イスラエルとパレスチナの問題について書くことで向き合ったサイードを題にとる以上、すべてがわかるように映画を作るなんていうことはできないが、すべて網羅できないのであれば最初から触れるなということにはならない。ある種の完璧主義は、「放っておけ」というすべてを放り出して目をつむるという態度に直結する。それが個人のスタンスなのだとすればそれについて何かを言うことはできない。しかし、そういう暗黙の了解は、不完全だとしてもそこにある問題を取り上げようとする人の足を引っ張るような圧力に転じて、しかも個人個人は自らの発する攻撃性に無自覚だったりするので、つねに注意していなければならない。安住の地がないという意識がサイードにあって、彼はそこに一定の居心地を見出していたようだ。彼はそう主張できるだけのルーツやアイデンティティのゆらぎをつねに抱えていたからそう言えるのだと思うが、ホームがないという感覚の一部分は自分にもわかるという気がする。自分の置かれた状況からはそういうふうに感じるということに無理があるというか、そのまま人に言っても通じないのかもしれないが、サイードが感じていたつねにアウェイという感覚をもっとうすめた形で分有しているように感じる。居心地のわるさという意味では、他人にとってリーズナブルな理由がない分だけ自分のほうが声を大にして言えない感覚としてそれを持っているとさえ言えるかもしれない。そしてそれをもとにして考えると、ここは自分の居場所じゃないという感覚や、なんとなくくつろげない、居心地がわるいという感覚は、そのまま自分という存在の特権性につながっているようにも思える。言ってみれば自分を中心に放射状に広がっていくエリーティズムということになるのだが、それはこのように言ってしまったときに起こるネガティブな側面の強調ほどにはわるいことではない。また同様にサイードのいう「知識人」という考えも、サイードが語るときに強調されるポジティブな側面をそのまま受け取って良しとされるものでもない。
自分を重要視することから始めて、自分以外を取り上げるようになるという姿勢は、自然な経路を辿ってもたれることになる。ここで重要なのは、なんらかの障害があってその進行が途中で終わり、自分を重要視するフェーズで止まってしまったとしてもべつに問題はないということだ。問題は、自分を通らずに自分以外を取りあげたり引き立てるということができると信じて自分以外を助けようとすることを始めてしまい、途中で自分のほうへ引き返すことだ。そこではひとつの経路を逆流するということが起こるから、べつの人との衝突が発生することになる。あるいは自分という存在価値を自分以外のものに委託してそれを持ち上げようとすることも、いたずらに他人との衝突を生むことになる間違った方法だと思う。間違っていても不完全でもひとりよがりだったと言われても、自分というものはただ自分を代表してそこにいると考えて自分以外のものと向き合ったり手を借りたり貸したりするのがいい。そうすると、自分というのはやっぱり非力なものだから、だいたいいつも情けない思いをしていなければならない。でもそれもしょうがないと思って、へらへらしながら自分を代表していくしかやれることはない。これが自分以外のものに殉じようとする間違った姿勢に抗い続けるための唯一の道なのではないか。
映画のあと「なかじま」でチャーハンセットを食べる。その後クロスタワーのスタバで『存在ー』を読んで、日記を書く。

20240606

日記392

ちぃばす亭

2024/06/05 昨日
『ボヴァリー夫人』を読んで閉館十五分前に図書館を出る。とうとう金の問題でエンマが大変なことになりそうだ。やっぱりルウルウみたいなヘーコラする商売人が一番危険だ。
電車移動+αで『音楽と社会』を読み終わる。下北沢のブックポストに本を返却したあと、昔のティップネス通りのベンチに座って音楽を聴きながら氷結を飲む。ベートーヴェンのPiano Concerto No. 5 in E-Flat Major, Op.73。ドンキに寄ってプロテインと酒とあたりめを買って帰る。帰ったらすぐにねむる。

2024/06/06 今日
朝起きて筋肉体操のスクワットとただの腕立て伏せをして出勤。何もしていないようで暇になりそうになったらやることが降ってくるという絶妙の塩梅だった。そのためこの日は途中抜けして本屋で立ち読みする時間はなし。昼休みにYoutubeにアップされた大江健三郎の文学再入門というNHKの番組の第二回を見る。マルメラードフが賑やかしのような無意味な死を遂げる場面。全然忘れていたが言われたら思い出すものだ。大学から文学を読み始めるようになって最初のドストエフスキーが『罪と罰』だった。が、面白さが理解できず。その後、他のドストエフスキー作品はすべて面白く読んだものの『罪と罰』だけはまだ読み直していない。大江も『罪と罰』をはじめて読んだとき面白いと感じなかったらしく、またその一方でそれ以外の『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などは面白く読んだらしく、同じじゃないかと思った。ただし彼は十二、三歳で『罪と罰』を取り寄せて読んで、それで面白くないと言っていたのでまあ違うといえば違う。いずれにせよ大江はかなり早熟だ。三〇代になって読み直したら『罪と罰』は明るいところがあって面白かったと言っていた。ドストエフスキーに明るいところはないという印象なのであらためて読んでみてもいいかもしれないと思った。ただ歯抜けの爺さんのむき出しの笑顔というような強い印象がドストエフスキーにはあるので、もしそれを明るいと言っているのだとすれば明るいということになるのかもしれない。漫☆画太郎の画風は強くて可笑しいと思うが、まだ明るいとは思わない。
定時退社。バルボアの霞が関ビルの店舗でぼっかけパスタを食べる。宣言通りハマってみせたわけだが、店舗による味の違いがあると思った。虎ノ門店のほうが断然美味い。今日は昨日ほど腹が減っていないということはあるが、多分それだけではないはず。チェーンだが店舗によってはっきりクオリティに差がある店。そういうのがかえって信頼できると思う。王将しかり、あとはちょっと思いつかないが、人が作っている以上、そこに良し悪しはあってしかるべきだ。そういえばタリーズもそんな感じだった。俺の作ったソイラテに当たった人ごめん。カプチーノに当たった人まじごめん。エスプレッソたのんだ人はナイスチョイスでした。
図書館に来てメールを書く。昔から人に文章を届けるのに苦労する。仕事でメールを書くようになって、そのあたりを機械的にこなすスキルが身についたのはよかった。が、いざ仕事を離れてメッセージを書くとなると、文章の形や気分の乗せ方に間違いのないようにと念には念を入れて調整する作業がはさまれるので余計な時間が掛かるし疲れる。もっと豪放に、ひねりを加えようなどと思わず、この日記を書くときのように思ったまま書くのがいいんだろう。わかっていても難しい。一方で読者を想定していないこの日記はラクなものだ。できるだけひねろうとせずに真っ直ぐ書くようにしたい。自ずから限界があるというか、無意識に近づくほどどうしてもひねろうとする気分が出てくるので、それを正面で受け止めず、ある程度仕方ないとも諦めて、そういった気分を横目に、さらさら流していけるようになりたい。
そういえば会社の暇な時間に考えたのだが、すこし前からこの世界の日本人の顔パターンが尽きていないかという疑問がある。運営に報告したいのだが窓口が見当たらない。
似た顔というか同じパターンの顔がよく現れるようになっている。話したことはないけれど一時期よく見かける人、その人の顔が持ち回りで使い回されているのに気がついた。これというのには二種類の解釈があり得る。この世界に用意されている顔パターン数を超えた記憶力を自分がもっていて、想定される記憶力よりも優れているため、二周目か三周目が発生してしまっているという解釈がひとつ。もうひとつはより単純だがあまり採用したくない解釈で、自分の顔識別能力と記憶力の閾値を超えるだけ日本人の顔を見てきたというもの。世界にとって穏当なのは後者の解釈だろうから、人はそちらだと言うことだろう。それはわかっているし、べつに争う気もない。とにかく、最近になって急激に”これまでにどこか別の場所で見たことのある顔”がどんどん飛び出してくる。既視感のある顔。デジャビュフェイス。言うまでもないことだが、デジャビュフェイスは自分にとってはどれも印象的な顔で、いい顔だと思う。表情の型がしっかりしていて感情と思考が無理なく外に表されているように感じられる。顔が表したいであろうことが、自然に過不足なく、顔に出ている。

20240605

日記391

昼のピクニック

2024/06/04 昨日
図書館を二一時半ごろに出る。伊勢原行きの急行に乗って下北沢に帰る。ベンチで氷結を飲みながらベートーヴェンのコンチェルトを聴く。三〇分間ほどしてから帰宅。洗濯機の予約だけしてすぐにねむる。

2024/06/05 今日
早めに起きて洗濯物を干す。いつもの通勤電車に乗る。朝方にあった人身事故で四分間の遅れ。霞が関からの七分間の徒歩で元気が出るぐらい、とても天気の良い日だった。朝の涼しさと抜けるような青空の協演。梅雨なのか雨がちな一週間にスポットで訪れる晴れ間は嬉しい。
仕事は暇だったので音楽について考える。
まず、音楽には解釈を必要としない領域があるとして、それを味わおうとするのであれば歌詞は不要なのではないかということを思った。感情の方向性をまとめる効果にしても音が担えるものだろうし、まとめるだけでよしとするのではなく、ダメ押しのように言葉を使ってひとまとまりにする意味はあるのだろうかと思った。
あとは音楽を聴くことで自分の内部に矢印が向くというのがクラシック音楽の演奏を聞くときに起こることで、演奏者がこっちを見ろと矢印を引き受けるのがポピュラー音楽の主張だということを思った。
ポピュラー音楽の演奏者は、演奏しながら聴衆から自分に向けられる矢印ごと自分に矢印を向けているわけで、その音楽への向き合い方に違和感はない。
ただ聴衆がポピュラー音楽を聴いてそれをありがたがるということには違和感がある。聴衆は演奏者が自分自身へ向ける矢印を目で見て、それに自分を重ねることで矢印を自分に向けるということを学習するのかもしれない。それなら話は通る。
音楽というのは、基本的にはそれを自分の内部へ取り込むことだ。だから言葉のように音の作り出す効果とは無関係に誘導的に働く外要因を入れることに意味はあるのか。そういった意図しない誘導が起こらないようにするというやり方は考えられる。しかし、できるだけ邪魔にならないような言葉を使ってまで歌を作り出すことに意味はあるのか。ポピュラー音楽だからそうやって餌を撒かないとやっていけないということか。取っ掛かりとして受け入れられた意味のある言葉は、何度も聴き続けるうちにそのまま引っ掛かりになるんだろうと思うが、演奏者としてはそうなる前に新しい曲をリリースするから問題ないということか。これらに対して断固ノーということでないかぎり、クラシック音楽など特定の音楽(特別な音楽)を聴くことにしか音楽を聴く意味を見いだせない。BGMとして”ながら聞き”に聞く分にはある程度なんでもいいのかもしれないが、そういう”それなりの音楽”に対して、別のことをする時間を削り、音楽を聴くための時間を作って音楽を聴くということをやる意味はない。
盛り上がりたいならサッカーを見るし、感動したいなら映画を見るし、考えごとにつなげたいなら本を読めばいい。その全部に一時的な倦怠をおぼえ、そのうえちょうどタイミングよく時間が空いていたら、暇つぶしに音楽ライブに行ってみてもいいぐらいのことだ。いや、それでも酒のんで昼寝したりする方が楽しいような気がする。サッカーの面白さを理解できず、考えごとをしたいわけでもない、感動するために二時間同じ作品を見通すだけの集中力はない、酒を飲むことは楽しみではない、そういう人が音楽を聞いて溜飲を下げるのかもしれない。だったらそれはこんなふうに攻撃していい相手ではない。あれもやりたいこれもやりたいという好奇心と意欲に溢れた人で、黙って部屋のなかでひとりポピュラー音楽を聴いて楽しむという人はさすがにひとりもいないだろうと思うが、そういうわけでもないのか。カラオケが好きで自分がそれを歌うために、覚える作業として歌を聞くというのであれば合点がいく。
とにかく自分はポピュラー音楽や商業音楽を相対的にかなり低くみている。楽しい気分になりたいというのは理解できる動機だが、それもにしても自分で作り出せるから、そこに効用があるだけの音楽にはあまり価値を置かないでいいという立場だ。自分はドライブもしなければカラオケにも行かないから、それで相対的にポピュラー音楽の価値が下がるというだけの話だ。
ただ、「絶対音楽」(それがどういう絶対なのかわかっていないが)には興味があり、近づいてみたい気持ちがある。そこで起こるかもしれないことには興味惹かれる。心底驚かされてみたい……。
定時退勤。余計なことを考えて過ごしたからかすごくお腹が減った。ちょっとフラフラするぐらいだったのでビルのそばにある「バルボア」というパスタ屋に行く。そこで気になっていた「ぼっかけ」を注文する。これが食べたことのない味ですごく美味しかった。食べたことのない味で美味しい場合、しかも空腹時に食べた場合、ものすごくハマることになるのを経験上知っている。実際さっき食べて三時間ぐらいしか経っていないのに、もう食べたいまた今食べたい。
図書館に来て『音楽と社会』を読む。協調ばかりで進む無意味な対談とは全然違っていてずっと緊張感がある。ふたりとも手に持っているものを相手に見せようとするのではなく、つねに先へ進もうとしているからスリリングで面白い。

20240604

日記390

梅雨の正三角形

2024/06/03 昨日
スタバにいると外から雷鳴が轟いてきて、強い雨が降ってきている様子だった。帰宅しようとしていた時間を遅らせて雨雲レーダーを確認し、比較的マシだと思われる時間帯に素早く帰宅した。帰宅後はとくに何かをやるでもなくすぐに寝ることにする。

2024/06/04 今日
朝起きて眠い中頑張ってスクワットをする。一応腕立て伏せもやった。しかし一度起きてしまえばよく寝たおかげで調子が良い。仕事は案件スケジュール調整のメールを各所に送り、新規プロジェクトの案出しの打ち合わせに参加したぐらいだった。一応考えていったのだが自部署として何を売れるかという視点ゼロだったので、気後れしてアイデアを口にすることができず、いる意味のない人が会議に紛れ込んでいるかたちになった。もともとアウトプットとしてではなくインプットとして参加しようと思っていたので想定の範囲内だが、何も言わない人がいるとやりにくそうになるかもしれず、その点ですこし申し訳なく思った。定時に即退社。富士そばでかき揚げ丼セットを食べてから図書館に来る。昔の写真を見はじめてしまい、図書館でするべきことを何もしないまま二十時半過ぎになってしまった。とりあえず日記を書く。Kindleで『ボヴァリー夫人』を読む。二一時半過ぎに図書館を出る。

20240603

日記389

So

2024/06/02 昨日
二十二時にスタバを出る。思っていたより長い滞在になった。氷結7%500mlを飲みながら帰る。帰宅後マツコ有吉かりそめ天国を見ながらチキンと千切りキャベツを食べる。あまり夜更かしにならないように気をつけて早々にねむる。

2024/06/03 今日
四時過ぎに目が覚める。水を飲んで落ち着いてスムーズに二度寝。六時半ごろ緊急地震速報に起こされる。消化器官の調子が良くないのでなんとか治そうと三度寝。七時半に起きて出かける準備をして出勤。すべての起きるタイミング・寝直すタイミングで夢を見たが、今ひとつも覚えていない。最後の起床タイミングから出勤までの時間を慌てて過ごしたことで全部忘れたような気がする。遅刻しそうになった。
電車遅延もあったがそれでも遅刻しなかった。もし仕事の評価が「遅刻しないこと」だけだったら自分はかなり有能な能吏だ。
朝からずっと打ち合わせがあり、それなりに忙しく過ごす。ぜんぜん違うことをするための時間はなかった。定時退勤のタイミングで雨が降っていたので図書館に行くことを断念し、銀座線と千代田線・小田急線で下北まで移動。下北沢では雨が降っていなかったので吉野家で唐揚げ定食を食べる。その後クラシックのスタバへ。『音楽と社会』を読む。サイードの言うこともバレンボイムの言うことも筋が通っていてわかりやすい。それに筋が通っているというというのは、ごく短い期間だけに限定して真っ直ぐ線を引けるというのではなく、ある程度の長さにおいて筋が通っている。つまり、筋が通っているという主張が可能になるように短い期間を指差して「ほら、筋が通っているでしょう」とアリバイ用に通している筋ではない。あまりにもベートーベンを褒めるので、試しにyoutubemusicでバレンボイム演奏の月光を聴いてみると度肝を抜かれた。自分がショパンをBGMにしているのは正しいと思った。これを流しながら何か別のことをするのは絶対不可能だ。
職場のビル2Fの本屋に『オリエンタリズム』を買いに行ったが、別の本棚にあった『知識人とは何か』が目に飛び込んできた。序を読んでそのまま購入してしまった。というわけで『知識人とは何か』を読む。

20240602

日記388

しかし二人は動かない

2024/06/01 昨日
成城のモスバーガーを出たあと、小田急下北沢乗り換えで渋谷に向かう。渋谷Streamの大階段ですこしのあいだ読書をして(大江健三郎『定義集』)、同じように読書をしていた友人と合流。スクランブルスクエアの3Fですこし服を見てから、ミヤシタパークに向かう。二一時前から映画『関心領域』の上映が控えていたので自分は酒の代わりにチルアウトを飲んでお茶を濁す。途中、友人が読んでいた本の芸術論の話になる。「貧しい人間にも触れられる芸術こそ真の芸術だ」という主張が展開されている十九世紀か二十世紀はじめ頃の本らしい。現代における貧しい人間というのはどういうペルソナを想定するかというのがまず疑問だが、たんにお金がないということでは当時の貧しいとはちがう意味になりそうな感覚がある。機会がない、そのため能力がないというのが「貧しい」の意味内容に近いのではないかと思われる。たとえば、読む能力にしても何もしないでいながら自動的に身につけられるものではない。そうなると方向づけや能動的な意志が必要になってくる。そういった受容側のエネルギーをまったく必要としない芸術というのは難しく、かなり限定的なものにならざるを得ない。前提条件不要の芸術というのは、それだけ広範な影響力を持つ、強い威力のものに限定される。ピカソや岡田のようないかにも芸術家タイプの芸術家が真の芸術家だと考えるのは多くの人がそう考えるという以上の意味を持たないことで、AIの回答ならそれでいいかもしれないが、そうではないだろうと思う。ただし、ある属性の人間だけに受け入れられる芸術が真の芸術とは言えないというのは正しいと思う。個人にはいろいろな所属や属性があり、その所属や属性に基づいて生活を送らざるを得ないという制限がある。そして各人の制限は不合理なところもあるが、社会において実際に機能している。その機能や分類に沿うかたちで、ある属性だけに通用する内輪ネタのように受容されている芸術は、およそ芸術の名に値しない。むしろ所属や属性を越境して、その芸術を愛好するという一点で、生活において別々に点在している人たちをひとつの新しい属性としてまとめあげる働きをできるのが、本来の芸術という言葉で言い表されるべきものの中身なのだと思う。
また芸術を受容する側から考えても、誰にでもわかるようにという制限を真に受けて制作された作品をいつまでも有難がっているわけにはいかない。たとえば絵本作家が絵本を作るときにも二種類のパターンが想定される。子供にもわかるように表現するという考えに基づいているパターンは、最初の一歩目から落とし穴を踏み抜いていると自分には思われる。それを回避できるのは制作者のやりたい表現がたまたま子供にもわかりやすい形式だったというパターンだけだ。人気のある絵本作家というのはことごとく後者に属するだろうし、それでなくとも、そのようなスタンスをうまく偽装できているはずだ。友人とは渋谷で別れ、同居人と合流する。この日二本目の映画を見に行く。
『関心領域』を見た。黒字の背景に映されるタイトルが徐々に消えていく演出から始まった。画面はしばらく黒いままだが、おどろおどろしい音楽の後景に、会話を含めた生活音が聞こえてくる。映画として見たときにところどころで過剰な演出箇所があったように思われるが、それが過剰になるかどうかというのはよく検討されたうえでないと結論付けられないだろう。当然よく考えてそうしたのだろうから、迂闊に演出過剰と言うのはよくないのかもしれない。しかし、あえて恐ろしさを強調する必要はないのではないかと思わさせられた。集団的狂気の内幕というのは、慣れからくる無関心のことで、それは自分自身の生活を尊重することとつながっている。そう考えたときの居心地の悪さは嫌な感覚をもたらした。隣が収容所という状況は特異なもので、そこでの自然あふれる生活というのは「映画になる」題材だが、ある悲惨な状況と隣り合っているということは、どこまでを隣と見做すかという問題につながっていく。隣ではないから問題にならないというのは、本来映画を見るときだけに適用されるべき考え方で、それは問題にならないのではなく映画にならないということを示すだけだ。そのようにして無関心・無関与を自身に納得させるのは、音は聞こえてくるが目にすることはないという状況であれば目をつぶっていられるという生活の送り方と構造的には変わることがない。構造的に変わらないこととは別に、距離的な問題とそれに伴う関与の度合いの問題があることは確かなので、そのままイコールではないというのははっきりさせておく必要があるにはせよ、映画館に足を運ぶことで無関心・無関与の領域外に一歩出てしまっていることは明らかなので、結果として、内蔵を圧迫されて吐き気がするあの嫌な感覚を思い起こすことになる。
渋谷の街を抜けて、井の頭線のホームまで歩く。途中にうるさい車、下水の臭い、やかましい田舎者が、やや肌寒いとはいえ基本的に快適な気候をおびやかしてきた。おかげで電車に乗り込む頃にはすこしずつ元気を取り戻して映画の話をすることができるようになった。
下北沢につく頃には晩ごはんを食べずに空腹だったことを思い出したので、ちょい飲みを兼ねて鳥貴族にいく。同居人から福岡出張での一幕を聞く。夜、社長に飲みに連れて行ってもらい、社長の同級生たちといろいろ話をすることでそれまで見たことのない社長の一面を知ることができたと言っていた。そのなかでの、良心に縛られているタイプの人(社長の友人)より、良心より好奇心を優先すると公言するタイプの人間(社長)のほうが良心的な行動をこだわりなく実行に移せるという話は、よく聞く話というのではないが、たしかにありそうなことだと思った。自分の内的生活に照らしてみても考えていないときのほうがパッと動けるようなことはある。素早く的確に行動するために考えることを手放そうとは思わないが、両方とも労せず手に入れられるのであれば両方できるに越したことはないよなと思う。しかし、自分の場合、優先順位は考えることのほうにある。
帰宅してわりとすぐにねむる。酒を飲んでいるせいで判断を誤り、ベッドでつまらない動画を見て夜ふかしをしてしまいそうになったが、悪(=睡眠時間を削ってのつまらない動画視聴)を行使しようにもあまりにも眠たく、動画視聴を断念。結果的に翌朝の寝不足を回避できた。こうなると何が良くて何が悪いのかわからない。……いや、それはわかる。

2024/06/02 今日
朝起きるのが遅くなる。二度寝に成功して十時前まで寝られた。起きてから福岡土産のおいしいマフィンを食べコーヒーを飲む。ダンジョン飯の二十二話を見る。スカイフィッシュを生み出してグリフィンを殺す回。次回が楽しみになる引きで終わる。漫画でも好きだった箇所なので楽しみ。
昼前にようやく出かけてスタバに行く。『定義集』『存在することの習慣』を読む。本当に好きな小説の、とくに好きな箇所ぐらいは英語でも読んでみようと、原文の英語で読むためにKindleで『Gravity rainbow』『V.』を買う。『重力の虹』の振る舞いのグレースが要求されるという箇所が好きなのだが、本当にびっくりするぐらい訳が素晴らしいということに気がついた。もともと好きで良いなとは思っていたが、こうやって原文にあたることではっきりわかった。佐藤良明の仕事には目を瞠る。他のピンチョン作品も訳してほしいぐらいだ。
本を読んだり日記を書いているうちに気がつけば十五時半になっていた。お腹も空いたし、ショパンのノクターンをBGMに鳴らしてくれていたフル充電のノイキャンイヤホンも電池切れになった。
昨日の芸術談義の空疎だったことを考える。それは大江健三郎のエッセイを読んでも、フラナリー・オコナーの書簡集を読んでも、エドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談を読んでも明らかなことだ。芸術とは、真の芸術とは、という言明にはそれ自体どこまで行っても空疎なところがある。だが自分はそんな空疎な会話が嫌いではない。それは会話において仮の回答を即興でひねり出そうとする遊びがそれ自体スポーツじみた試みで、昼休みに校庭でサッカーをして遊んだときの楽しみを思い出させるものだということがある。また、より長続きする(一日経ってスタバに座っている今になってもというだけにすぎないが)理由として、芸術論として得られた回答そのものが、権威がそう言ったものであれ、自分自身が考えついたと思えるものであれ、問いに対する「回答」としてあることがすでにして空疎さを呼び込んでいるということを確認することができるからだ。それを避けるためには慎重に言葉を選んでNGを選ばないよう会話を進めるのではなく、そういったお慰みにする会話をそこだけで切り上げられるように、いっそ極端なことを言ってそれに対する反駁を得るという手続きを踏むことだと思う。つまり、空疎な芸術論を自分の制作に持ち込まないようにするために、会話に流してしまうということだ。そればかりやっているのでは片手落ちだが、何かやるべきことをやっていたり、読むべき本を読んでいるのであれば適当な気晴らしや発散になる。ただし、芸術論にも自ずから段階があり、いつまでも一処に留まっているようでは飽きがくるのも早いから、ある程度サイクルを回そうとする意識は必要になる。所定の効果を上げるためには空疎なりにも工夫が必要になる。昼休みのサッカーにも進展があった。その結果誰かがプロのサッカー選手になるということはなかったが、各々すこしずつ技術の向上が見られ、それが楽しみには欠かせなかった。
スタバを出て洋麺屋五右衛門に行く。野菜たっぷりペペロンチーノを食べる。ニンニクのパンチが聞いていておいしい。塩分もこのぐらいあったほうがいいのかもしれない。と、次回の料理の参考になった。ユニクロに行って安くなっている服を見て試着してみるが、オンラインで目をつけていた商品はどれも実地試験をパスしなかった。ただユニクロに行くとよく起こることではあるが、べつの商品のなかにビリビリ電気が走るTシャツを見つけ、しかも安くなっていたので同サイズを二着同時購入してしまった。自分がこんなにもペパーミントパティのことが好きだなんて今日の今日まで気づいていなかった。マーシーと仲良しのパティがとても好い。たぶん自分とはちがうタイプの女の子と仲良しになる女の子が好きなんだと思う。そこには俺の見たい幻想の入り込む余地がたっぷりあるように思われる。
十七時前にスタバに戻る。『音楽と社会』というエドワード・サイードとダニエル・バレンボイムの対談を図書館カウンターから受け取ってきて読む。これを読んで『オリエンタリズム』に着手するか決めようと思っていたが、オリエンタリズムを購入することに決めた。図書館で借りようと思ったが、文庫版は蔵書していなかったし、サイードの代表作と言うし持っていて良い本だろう。

20240601

日記387

島待機

2024/05/31 昨日
雨の中出勤、傘をささないという選択肢はないほどの雨量。到着がぎりぎりの時間になったのでオフィス自席で自販機のフルーツケーキを食べる。相変わらずやるべきことは少ないので、人工知能関連のプロジェクトの参加希望に手を挙げる。隣で案出しをしているといくらでも考えつきそうに思えたものだが、あれは自分でもうすうす勘付いていた通り、岡目八目というやつだった。自分のアイデアとして会社の人間に発表するというのはむずかしい。はっきり言ってどうでもいいし、実際どうでも良さそうなブレストなのだと頭で理解していても、どうしても心理的安全性が脅かされると感じてしまう。それでも案を出すためと称してAIの実践例のナレッジを漁る。以前も書いたかもしれないがこれが意外と面白い。そういうプロンプトもあるのか、と感心する。
仕事後に職場の人とアミューズメントポーカーに行く。先週から楽しみにしていたイベントだったこともあり、金夜ということもあって、嬉しくてテンションがあがる。自分の立てた目標は一にも二にも「追加バイインをしない」というものだったので、それを守れたうえで最後までテーブルに座り続けられたのでよかった。ラスト3ゲームになってから無理打ちでオール・インをして、運良く勝ったので、ラッキーだったというのも含め上々の出来だった。連れてきてくれた人はポーカー読本を読んだり、チップトリックを習得しようとしていたりと、自分よりもポーカーに対してタイトでアグレッシブなタイプだったので刺激になった。当たり前のようにチップを大きく稼ぎ、仲良し五人組の若い連中から巻き上げるだけ巻き上げて、帰り道に「今日はちょっとレベル低かったすね」にはちょっと痺れた。ポーカーテーブルは格好つけてナンボ、賭ける所作を披露する場という気がしていたのだが、まさにその通りの社交場で、自分も格好良くポーカープレイができるようになりたい。
そういえば同卓の仲良し五人組の面々は東北訛りのような訛りでお互い同士で話していたのだが、ひとり明らかに見たことのある顔だった。どこで会ったのか、何かで見たのか不明だが、バーバースタイルの男らしい髪型込みで記憶にある顔で、そのひとりをきっかけに五人全員どこかで見たような気がし出した。年齢を聞くと二十四歳だという。たぶん、たぶん二十四歳。思い切って、「ごめん。全然記憶にないんやけどどこかで会ったことあったっけ? 女に声かけるときに言うようなこと言ってごめん」と聞いてみたが、会ったことはないと思いますと気を遣ってやんわりきっぱり否定された。そのときは笑いにごまかしたけど、今思い出してもあの顔はどこかで見た顔だったと思う。どこで見たかは思い出せない……。
店は健全に二十三時閉店。帰宅してチキンラーメンを食べて待っていると同居人が福岡出張から帰ってきた。

2024/06/01 今日
7時半に目が覚める身体になってしまっている。それでは寝不足なので二度寝したいのだが、身体は今日が休日だということを知っているのかテンションが上がってしまい、うまく二度寝に入れない。映画の日なので見ようと思っていた二本の予約をしてから苦労して二度寝をする。マスクをアイマスクに、折りたたみ傘を日除けに、というわけのわからない装備で三〇分間弱の二度寝をする。それでうまくいくところが悔しい。LUUPで三茶に出てから田園都市線で二子に行く。まずはIMAXレーザー上映の『マッドマックス:フュリオサ』。これがとても面白い復讐譚だった。最近見たしょぼい映画とは段違い。文学にはちがう世界を体験できるという利点があると思っているのだが、IMAXレーザーの映画は視聴覚的にそれを実現していてすごいと思う。ウォーボーイズの説明的ではないあり方が、怒りのデスロードでの描写よりも響いた。正直、ギターみたいな楽器を弾いて何かする有名な場面はそりゃ笑うけどそこまでおもしろいとも思わないので、そういう奇天烈なところが少ない控えめさが映画全体のトーンの引き締めにも一役買っていた。本作はヴィランが魅力的で、それは主人公の隙を的確についてくるところからくる魅力だと思う。しかし冷静に考えれば彼の最後の攻撃である「お前は俺と同じだ」という主張はまったく通らない。その攻撃が有効であるという時点で、対話するふたりは決定的に異質なのだが、彼女の大きすぎる悲しみがブラインド状態にさせるのだろう。生き延びるためなら何でもやるというところは共通だとしても、彼女はまだ残忍な処刑をしていない。そうだとしても、お前は俺と同じだと言える強さがヴィランの男にはあって、そこが優れた資質なのは間違いない。その発言が効果的な攻撃であるためには、言いくるめるために言ってみるというのではなく、心底からそう思っているように言い放つ必要がある。そしてその条件をクリアできるだけの、自分勝手とはいえ、周囲に影響を与えるだけの強力なビジョンと内世界を持っているところが魅力なのだと思う。それから映画のなかで格上扱いされているのはやはりイモータン・ジョーで、それに比べると実力・求心力の面で見劣りするというところのバランスと描写がよくできていた。最凶のバイカー集団としてバイク三台立ての戦車を乗りこなしているときにあった溌剌さが、より安定して強度も高い四輪車に乗るようになってからは失われていたのが、それだけで器を表わす手段にもなっていてスムーズかつスマートな描写だった。馬鹿みたいにデカい乗り物に乗って殺し合うというのがマッドマックス3から続く主要モチーフ「乗り物」なのだが、平和な秘境では馬、小競り合い多発地域ではバイク、堅固で狂気的なシステム構築社会ではトラック、がそれぞれ採用されている。そして、最初の場面で解体されて盗まれるのが馬だったところにも物語上のわかりやすいメッセージがあった。
映画が終わってから蔦屋家電に行って売られている本の表紙を眺める。その後成城学園前行きのバスに乗ってみる。バス移動するとローカル感が得られて面白い。自転車で来れるほどの近場なのに旅行っぽさが出る。
モスバーガーに入って日記を書く。広い窓で道行く人が景色になっている良い店だ。街路樹の緑も良い。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。