街の灯と強風雨
2024/05/28 昨日
スタバ終わりにダイエーで買い物をして帰る。雨と風が強すぎて歩けないと判断したので、普段歩いている一駅分を電車で移動。五分足らずの道、傘をさして歩いたのにもかかわらず、両腕両脚がびしょ濡れになった。
同居人と『蛇の道』を見る。脚本のワンアイデアに全振りしたというか、アイデアの恐ろしさに外形的なクオリティがついてきていないという意味で、つまり悪い意味で大学生の自主制作映画みたいだと思った。しかし、それでもやはりアイデアの威力は明らかで、「自分だったら」ということを考えながら観ることのできる映画だと思う。不満点も多いが、一番不満だったのが怒らせたヤクザがすごく弱っちいこと。警察が存在しないかのように登場人物が考えて動いているように見えることの二点。期間限定無料だったし、見ないままリメイク版を見るわけにはいかないと思ったが、見ないでもよかった。香川照之が死体を蹴るシーンは怒りに任せての行動のはずなのに、まるで相手が怪我するのを気遣うような「蹴るフリ」そのままだったのであとに続くラストシーンにも影響するほど冷静になってしまった。あれでは香川照之がかわいそうだ。アクションシーンを入れるのであればしっかりアクションできるように準備しないと駄目だと思う。逆に演出意図とも受け取れるぐらい、迫力に欠けていた。
2024/05/29 今日
渋谷出勤。スクワットをしてから出かけても時間に余裕ができるような素晴らしい朝だった。早起きにはそれだけ価値がある。午前だけの作業だったので、自己判断で午後以降は自己学習の時間に充てる。そのため十時半にはLUUPを使って一旦帰宅し、洗濯機を回す。
その後、粗品の週刊誌記者の張り込み現場を押さえる動画を見るなどしてだらだらする。お昼にはペペロンチーノを食べる。ニンニクを引き上げる方法でやってみたがどうも油っこさが出てうまくいかない。
ダラダラするために帰ってきたわけではないので自分のケツを蹴っ飛ばし、十四時前にスタバにくる。『いつもの言葉を哲学する』読了。「いつもの言葉」というが「いつもの」感が少なかった。とくに最後の四章は、新聞の見出しを取り上げたり、コロナ禍で生まれた新語にフォーカスされるなど哲学的というよりは社会課題への問題提起という色が濃かった。たんに哲学科の先生が書いているエッセイというだけのことで「哲学する」とは、新書まるだしのミスリードタイトルだ。それでも読んでいると著者の人の良さがにじみ出ている箇所もあって、とくにあとがきの謝辞にはグッときた。
言葉に対するアプローチは、哲学の”そもそもの根本から問い直すスタンス”よりも、文学の”既にあるものを通して表現する(受け取る)”というスタンスのほうが射程が長いように感じられる。たとえば辞書に書かれている語義に対する受け止めについて、哲学的なスタンスを取るほうが俯瞰して見られる分、より見通しがきくように思えるのだが、文学において辞書に書かれてあることを一旦正しいものと受け止めて扱うスタンスのほうが、その先へ目が向かうため、結果的に遠くまで見通せるのではないかと思う。また、ある言葉や出来事に対する社会的な受け止めについて、より今風の「社会が注目している以上、そこに何か問題があるのに違いない」というような目では見通しにくい局面というものがあるはずだと思うし、そういった”いつもの生活感覚”では届かないところについて「哲学する」みたいな展望があれば良かった。いつもの〇〇を哲学するというのはそういう試みでないと成立しているとはいえない。
少なくとも自分にとって「いつもの言葉」というのは政治家のよくある言い抜けのための常套句などではないし、人によって「いつもの言葉」は全然違うものであるにしても、コロナ禍で急によく聞くようになった新しい言葉遣いなどは”いつもの”というよりは”有事の際の”に近いのではないか。これが書かれた年と新書という形式によっていくらか割り引いて考える必要はあるのかもしれないが、「哲学する」というのはそうやって割り引いて考えたうえで対象となるような営みなのだろうかという疑問は残る。
大江健三郎『定義集』を読む。これは上記の新書を批判するにあたって「虎の威」とした(となってしまった)エッセイなのだが、広辞苑についての受け止め等が思った以上に素朴で驚く。専門家に対する敬意がそうさせるのだと思うが、それだけではなく、大江が外国文学を読むとき、翻訳を読んで満足するのではなく、自ら原文にあたり、自分でも訳して内容を噛み砕こうとするときの杖となる「辞書」に対する長年の信頼がそうさせるのだろう。ちょっと悩んだときに開いてみるという検索型のツールではないのだ。いや検索型のツールではあるのだろうが、その頻度の面でも姿勢の面でも「ちょっとわからないのでググってみる」という度合いの積極性ではないように思える。そう思うこと自体、行き過ぎた敬意を示しているようだが、昔ながらの道具が持つ「焦点がぼやけない」感じというのはあるんだと思う。ネット検索は便利だが、その検索結果については妥当性をつねに判断しないといけない。判断事項を先送りにして、なんとなくの理解で済ませるということは検索するたびに起こることだ。そんなふうに問題が自動的に奥へ進んでぼやけていくようなことが辞書を引くときにはない(少ない)のではないか。
しかし、とにかく自分に言わないといけないのは「劣等感を隠すために敬意を持ち出すな」ということだ。自分にとって大江健三郎は偉大な作家だし、書くものを通して知るかぎり立派な人間だ。それでも自分は彼が立派な人間だということは一旦無視して、ただ偉大な作家として彼の作品にあたるべきだ。
訳文でしか海外文学を読んでいないということに劣等感がある。これについては「やるかやらないか」の二択で「やらない」を選択しつづけてきた。内心それでは駄目なのではないかと思っているから、果敢に原文にあたっている大江の知的活動に頭が上がらないということになる。だから、尊敬しておけばそのぶんラクができると思っているところがないか、注意して自分で自分を監視していなければならない。手間だ。
『ナボコフの文学講義 上』を読む。フローベールの章は『ボヴァリー夫人』を読み終わってからあたることにする。とりあえずオースティンとディケンズの章を飛ばし飛ばしで読み終えてしまい、池澤夏樹の解説を読む。池澤の解説によるとナボコフの目から見れば「文学に思想は不要」ということなので、ナボコフが大江を読んだとしても評価しないかもしれないということをすこし思った。ただ、当然のことながら大江が自身の小説作品を思想の入れ物としているわけではないから、必ずしもそうなるとは限らない。だからここですこし思ったことは
、よく考えれば訂正されるはずのことだ。しかし、すこしそう思ったところには、大江が大江の条件のなかで作品を書いているということへの評価をどうするかによって読む側にも分岐が表れるように思えるということがある。大江は偉大な作家だが、彼を偉大な作家とする条件がすこしだけ欠けていたとしたらどうなっただろうかというつまらない空想をしてしまう。この空想についても元を辿れば大江のことを立派な人間だと考えるところからきているようだ。
ともかく、間違った尊敬の仕方をしてその人にとって失礼になるのは、もっとも情けないことのひとつだ。崇拝するな。軽々しく先生と呼ぶな。むしろやるべきことは逆。たとえば彼が純文学に対して寄せる無謬の信頼を攻撃すること。あれは権威主義ではないか(という紋切り型の言葉ではびくともしないだろうが)。
『存在することの習慣』を読み始める。この本は『定義集』で勧められていたので借りて読むことにした。フラナリー・オコナーという小説家の書簡集とのこと。小説家がどうやって生活のなかで書いていくことを習慣にしていくかということが手紙の中に表れているらしい。参考にするべきところが多いはずだと直感した。
こうやって読書をすすめていくのと、課題図書がずらりと並んでいるのとで、読む本がない状態というのは自分にとってありえない。大学一年の頃からずっと読むべき本に追いかけられているが、これにはゴールがない。