20240521

日記378

晴れ風とともに

2024/05/20 昨日
二十一時過ぎにスタバを出て駅前のベンチに座って氷結を飲む。隣のベンチに座っていた人間愛の強そうな男女が氷結のプルタブを起こす音を聞きつけて乾杯しにきてくれた。通りがかりの犬の可愛さを大声で褒めそやしたり、人通りの多い駅前広場でバトミントンを始めたり、とにかく自由に楽しんでいる様子だった。べつに話をするというわけではなく彼らのコミュニケーションを笑ってみているだけだったのだが、立ち去る時にちょっと声かけていこうかそのまま黙って立ち去ろうか迷った。無難に黙って立ち去ろうとして腰を上げたところノイズキャンセリングイヤホンを貫通して「あ!」と男の声が聞こえてきたので思わず振り返ると二人揃ってこっちを向いていた。笑顔で会釈するとそれに応えて満面の笑みと会釈を返してくれた。
BUZZSTOREで服を見てから帰宅。帰ってからサニーボーイの続きを見る。ラスト三話、死の回から元いた世界へ復帰する回への流れが力強い。毎回、胸に穴を開けられたうえ美しいものを流し込まれるようなダメージを負う。サニーボーイでは説明を抜かしていたり、コマを抜かしていたり、引き算の演出をかなり大胆に行っている。「説明しなかったらその部分が無いものとなる、とはならない」という信頼をもとに作られているような気がする。その信頼は、何かが別の何かと繋がっているという考えに基づいている。根拠のない重ね合わせにすぎないが、検証する前にえいっと乗っかってしまえばそれに乗ることになり、乗っていることからそれが存在するようになるというマジックのような存在の仕方だ。「なかった」ということの逆は、「あった」ではなく、「「なかった」とはいえない「なかった」とは思わない」ということになる。問題はあるかないかではなく、ないの否認をどのようにやるかということだ。四千年以上生きている人間や五千年以上生きて犬になったキャラクターを描くやり方として、事細かに描写する代わりに思い切って描写を抜かす以外やりようがあるとは思えない。そういった登場人物を登場させたり、超能力を与えるというのは、物語世界をラボとして機能させるためだ。何を研究するためのラボかといえば、「人間性」だったり、主体にとって別個体の果たす役割だったり、「本当に必要なものは何か」という問いに答えるための計算式だったりするのだろう。そこまで大それた舞台装置が果たして必要なのかという疑問もあるのかもしれないが、ある人にとっては必要になるのだろう。


2024/05/21 今日
渋谷出勤。立ち合いは昼休みになる合間時間も多く、退勤時間も十五時過ぎとだいぶ早いのでもっとやりたい。作業自体は順調に進んでいてあと二回しかないのが惜しい。鼻水は治った。
昼時間にはグーグルアナリティクスの学習を進めたり『戦争と平和』を読む。今はちょうどナターシャがアナトーリに誘惑されているところ。アナトーリの人物造形は、女の子を泣かせる昔ながらの美男子役なのだが、その心のなかにはイノセントな自己像があるという描写がとくに優れている。疚しいところのなさが直接的な魅力となって女の子の心に食いつく。屈託のない笑顔。グーグルアナリティクスはピボットテーブルについて学習中。
十五時に退勤後、その足でBunkamuraル・シネマに向かう。二度目の『悪は存在しない』を鑑賞。読み応えがありそうだと思ったのでパンフレットを購入。思った通り読み応えがあった。役者のインタビューがよかった。撮影現場の様子を複声的に伝えてくれる。
マークシティ前の蕎麦屋で親子丼セットを食べて下北に戻る。スタバでパンフレットを読む。日記を書く。

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