20240511

日記371

ローアングルかもしれない

2024/05/10 昨日
渋谷出勤。作業の立ち合いなのでやることは何もない。遅めに家を出ることができる。昼休憩時間が倍以上ある。普段より一時間半ほど早く帰れる。良いことしかない。休憩時間に久しぶりにグーグルアナリティクスのコースを進める。遅めの昼飯には下北にもあるはんさむという蕎麦屋で天丼と蕎麦セットを食べる。天つゆひたひたの天丼とつゆの濃い味は酒ありきの濃すぎる味付けであまり好みではなかった。店の雰囲気は良いし、東京の昔ながらのスタイルなのだとすれば迎合しようという気がないではないが、自分はなんだかんだ言ってやっぱり関西のうす味とうどんで育っているのだとあらためて思った。
仕事終わりに一旦家に帰る。荷物をおいて着替えてからすぐ北千住行きの電車に乗る(代々木上原で乗り換え)。北千住での飲み会は「昔懐かしの」でありながら新しい展開がある近況も聞けて楽しかった。早い時間開始だから入れた気になっていた餃子の店ラスベガスはまあいい感じではあるが、今風の見せ場をきちんとキャッチアップできて人気が出た店という感じでそこまでの注目に値する場所ではなかった。あてもなくうろついて見つけた二軒目のメキシカンは二軒目にちょうどよかったのがよかった。半外の席も今がシーズンという感じで楽しめた。終電を気にしないでいい時間帯に解散。頭を回すほうが楽しい会だし、そこまで酒を必要とする感じでもないので次はノンアルコールの企画を考えたほうが良いかもしれないと思った。

2024/05/11 今日
八時半に起床。寝不足になるが二度寝できる雰囲気はなかったのでそのままスタバに出かけてしまう。いろいろ考えたいことがあるのに考えをそのまま書くということを憚る気持ちもあり、それを発散させないまま内部で練り練りして何かの形にできないかということを思った。それには今のこの気持ちをフリーズドライのようにして記憶を維持する必要があるのではないかと思った。日記にして公開するのではなく、身辺雑記のなかに放り込むべきだという気持ちがあるが、せっかく文字にするものを日記に入れないのは勿体ないという気持ちも働き、葛藤は静観で終わるものだから結局何もしないままになる見込みだ。その記憶の保持について何もしない流れをこのように記述することに意味はあるのかと思わないでもないが、そういう意味のうすいことをするのは嫌いではない。それと昨日ナボコフのエッセイ『良き読者と良き作家』を読んだ。まず思ったのは「これはその通りだが、とくに目新しいことを言っていない」という感想だった。ただ少し考えると、この有名な文章について誰かが引用したり取り上げたりしたのを又聞きのように聞いていて、それに深く納得して今の自分の考え方がそう方向づけられているのではないかと思った。小説を読んでそれについて語るというときの基盤にするべき考え方であるのは間違いない。そこからどれだけ離れられるかということが結果的に重要になるということもあるにはせよ、スタートはつねにここから始めないかぎり、小説を読むというスタートにそもそも立っていないことになるのは絶対に間違いない。十人十色の読みだとか、人それぞれ受け止め方とかいう前に、共通の前提になるまさに基盤部分の考えだというのは間違いない。その意味でこの短文は小説読者にとっては必読だ。そうそう、その通り、当たり前、どんな肯定のリアクションでも良いがこれに同意しないと次に進めないサービス約款のような文章だといえる。小説をよく読むという人ほど頷くところも多く、しかもそれは深い首肯になるのではないか。もっともわかりやすく実践的なところで言うと、再読する以外、小説を読むとはいえないと断言しているところだ。物語の筋運びを把握するのが一度目の読みで、それは小説を読む準備にすぎず、小説のもっとも良い部分を味わうためには全体の筋や登場人物の顔つきを踏まえたうえで読むということが必要になるというのだという。これは優れた小説作品であればあるほど厳密に適応される条件であり、もし暇つぶしに読むというだけでそれを済ませていいと考えるのであればそのような手順を踏む必要はない。そういうわけできちんと小説を読むということはそれだけでかなり時間を要する娯楽だといえる。
お昼時になったのでザピザという下北の五叉路にあるピザ屋でピザ四枚とコンビニでキリンの缶ビール(一番搾り350、ラガー500)を買って帰る。帰宅してダンジョン飯を二話分見ながらピザパーティ開催。昼日中、とくに天気が良い一日をこうやってむざむざ潰すことの贅沢を味わう。これこそがまさに「豪華な浪費」だ。 うまい言葉を見つけてそれに飛びつく生活と精神生活。
昼から飲むビールとピザの満足感によって当然のように昼寝に移行する。最初は二〇分間のうつもりで寝っ転がるが、アラームやタイマーのたぐいをセットする気も起きず、気がついたら夕方といって差し支えない時間帯になっていた。今週は二度洗濯機を回しているのにもかかわらずそれなりに洗濯物が溜まっていたのでダメ押しで洗濯機を回し、それを干したり出かける準備をする。ドラマに対してそうするように半分まで見ておいておいた『ドライブ・マイ・カー』の続きを見る。劇中劇がパズルのように結び付いてそれが反応を起こす様子はやはり見事なものだと感心してしまった。役者として演じていないように見える・演じているように見えない車内での会話シーンの岡田将生はオープニングナイトのジーナ・ローランズを思わせる最高の空っぽ演技だった。顔が美しいと「空っぽ」が良いものとしか見えないのもあるかもしれない。ただちょっと冷静な判断がつかないような高みに上り詰めているということは言えて、その真贋を見直したり一時停止するなどして解明したいとも思わない。
本日二度目のスタバに出かけて日記を書く。ナボコフの『文学講義』を読む。ただ取り上げられているオースティンの『マンスフィールド荘園』を読んでいないし、フローベールの『ボヴァリー夫人』も面白く読みながら途中で投げ出している状態だったと思うので、それらを読んでから講義を受けるのが筋だろうという気がしている。しかし、文学講義を受けるのは今よりもっと良い読者になろうとしてのことではないので、取り上げる作品を読んでいないというのはまあ仕方がないことだと考えることにする。読者として悪い読者というより読者ですらないということだが、それはそれでべつに構わないということだ。
スタバに行く前に見ていたのは鎮座DOPENESSのインタビュー動画だ。この人はひょうきんで格好いい見た目をしていて喋る内容も面白い。彼が自分の書いた小説の登場人物だったら良いのになと自分でもよく意味の通らないことを思った。制作する自分と生活する自分をわけて考えない、いつも同じになっているようにするという趣旨のことを言っていて「うんうん、そうだよねえ」となった。鎮座の発言は、俺が俺の小説内に存在させようとした人物が本当に言いそうなことで、彼が頷いているのだ。

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