20240508

日記369

川の流れのように

2024/05/07 昨日
図書館の閉館時間までいる。帰り際に池澤夏樹の『古事記ワールド案内図』を借りていく。ナボコフの『世界文学講義』は別の館にあって借りれなかったので世田谷図書館で予約する。帰りの電車で『なぜ終わらないのか』を読む。最寄り駅で降りて睡眠用カルピス飲料を買う。帰宅するとBが寝ている。台所に昨日の残りのお好み焼きがあったのでいただく。筋肉痛がひどいのでプロテインと睡眠用飲料を飲んでからねむる。すぐ寝付くつもりが「死の恐怖」が現れたせいでねむるのに手間取る。死の恐怖が出現したのは次の連想による。自分には失われた歯がある。一度抜いた歯は生えてこない。だからこれからの生涯をずっと抜いた歯がない状態で過ごす必要がある。ただこれからの生涯ずっととは言っても無限に続くわけではない。終わりの時はくる。これまでの生涯にはなかった不可逆な変化としての老いを感じ始めたことで、しばらく落ち着いていた死の恐怖が復活したのか。そうだとするとこれから大変だ。理由はひとつということはないだろうが、生活上の不安や嫌なことがまったくないせいで、「死の恐怖」がその穴埋めをしようとしているというのも考えられる。そうだとするとそれでは収支が合わないので、穴にはめるための不安や嫌なことを考えついたり、そういう方向に進むように意識するほうが長い目で見るといい考えだという気がする。

2024/05/08 今日
睡眠時間を十分とったおかげで快適な目覚めになる。スクワットをしてシャワーを浴びて出かける。余裕を出しすぎていつもより一〇分遅れてしまい、二本遅い電車に乗ることになる。さすがに遅刻するかと思ったが、とくに走ったりすることなく五分前には端末を起動することができた。一日通して調子は良かったのだが、唯一、シャワー前に手に取った着替えのヒートテックが生乾き臭のするものだったせいで終日若干臭い状態になった。これがどのぐらいの臭さをまとった状態なのかわからないが「まあそういう日もあるよな」で済ませて一日過ごせた。昔はそんな堂々とはいられなかっただろうしこれは確実に中年の構えなので、一日それで過ごせてしまったというのが自己イメージからの発言になると思うのだが、それにしても先に出てきたのは「過ごせた」という不可能が可能になったことを悦ぶ言い分だったので、これはもう自己イメージから構えが変わっているということかもしれない。
仕事は忙しく、翌日翌々日が終日作業立ち会いで潰れるからどうしても今日中にやっておかないといけないということもあり、仕方なしに三〇分間残業をする。雨降りだったので虎ノ門から表参道経由で下北に戻る。スタバで『なぜ漱石は終わらないのか』を読む。日記を書く。二十一時からはカサヴェテスの『フェイシズ』を見る予定。
漱石を再読すると初めて読んだ頃の記憶がよみがえるのにあわせて当時の感覚もよみがえる。小説の記憶よりも漠然としていてほとんどぼんやりと思い出すというのにすぎないが、懐かしく思い出される記憶の尻尾がまだ動くのを感じ取って安心する。こっちだよといたずらっ子のように動くのを見て、それは思い出の全体というよりはほんの尻尾の先ぐらいのものなのに、じゅうぶん心強く感じられる。小説の方は読み直しているということもあってそれよりも確かに思い出せるから記憶の完全性はむしろそちらに任せてしまって、それは記憶の記憶ぐらいの曖昧さで良い。思い出すというよりはほとんど当時を偲ぶというように、かたちだけ、ただただ動作として振り返ってみる。タイミングよく吹いた風でめくられる青春の一ページ。『門』を読んで宗助を羨ましく思ったりしたこと。

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