20240505

日記366

上には上

2024/05/04 昨日
朝起きて近所の映画館に向かい、カサヴェテスの『アメリカの影』を見る。カサヴェテスの映画はとにかく登場人物みんなハキハキ喋って元気いっぱいだ。当時のアメリカ人の映画ではといったほうがいいかもしれない。すこしばかりの衝突など物ともしない豪快さが全体に漂っている。くよくよしている人はいない。いたとしても「苦悩!」という感じでそれが表に出てくる。自分は昔放映していたという「元気が出るテレビ」という番組の世代ではないが、もし今それが放映されたら元気が出るだろうか。それとも時代の違いに戸惑い、げんなりしてしまうだろうか。どっちになるか見ていないので何とも言えないが、カサヴェテスの作品は自分にとっては「元気が出る映画」だ。いろいろ言えることがある面白い映画なのは間違いないが何よりもまず見ていると元気が出る。意図が感じ取れてきちんと収まりもあるのに緻密という感じがなく、撮って出しという感じが強い。それだからこその勢いがある。最初期の作品だという『アメリカの影』はそれをとくに感じさせた。映画の最後に「即興的演出で撮られた」というキャプションが入って、はっきり言って蛇足だと思ったが、役者がとにかくいきいきしていてセリフを言っているという感じがないのはすごい。登場人物みんながみんな、もともとそういうふうにハキハキ思ったことをいう人格だとしか思えない。昔だし多分そうなんだろうとこちらから枠にはめていく解釈も手伝ってそういう見え方が簡単に成立するところはあるんだろう。
途中で演技をしている人たちを見ている感覚がなくなっていることに気がついて驚くということがこの作品ふくめ何回かあった。とくに『オープニングナイト』は、劇の内外を舞台に据えているという構造も手伝って、虚実の境界線がわからなくなる瞬間がほかの作品よりも際立って長くあった。主役の女優が舞台に立っていない(=演じていない)ときの映像が本当に演じていないように見えるのがものすごい演技だと思って感動した。見ているときにはそれが演技だと感じられず、見終わってしばらくしてから「ああ、あれも演技か」と気がつく始末。
昔の映画館はおそらく今よりも劣悪な環境だったと思うが、それにも負けないぐらい観客の注意を引き付ける力が強かったのだろうと思う。すこしのセリフの聞き逃しやカットの見逃し程度では押しも押されもしない骨太の魅力があるのは間違いない。それでいて作品の繊細さにはケチのつけようがない、いや、つけようと思えばいくらでもつけられるだろうが、見た人はそういうことをしようとは思わないだろう。現代からみて良くいえば豪放磊落な表情のなかにも、微妙な揺らぎが含まれているのをまざまざと見せつけられるからだ。感情の機微を読み取りつつ、惜しげもなく前面に出てくる表情をかいくぐってアラを見つけ、そこだけ攻撃するという器用な仕事があったとして、そういった”正確な指摘”を無力化するだけの揺さぶりをかけてくる作品なのではないか。おそらく一切感情的にならないようにすれば指摘することはできるだろう。しかし、そのようにして無力化することができても、そうやって感情方面の音量をミュートにして映画を見ることにどんな意味があるだろうということになるのではないか。
批評家の仕事にはそういう一面がある。感情のボリュームを下げてべつの部分の音を聞き取り、その部分を論じることにはやっぱり価値があるからだ。ただ誰も彼もがそんなふうに映画を見ようとしたり、あまつさえ批評家のような態度で”個人の生き方”を論じようとするのは何かが間違っているような気がする。カサヴェテスの登場人物と批評家とを横並びに並べてみて素朴に考えたとき、自分は断然前者を支持する。批評家的な態度と距離があればあるだけそれを支持するというのでは逆に批評家を意識しすぎていることになるのかもしれないが、最近の自分はそういう考えだ。カサヴェテスの映画を見ることでいよいよその傾向がはっきり表れてきたと思う。自分の都合で好き勝手にいろんなツマミをひねくり回し、ボリュームをコントロールしたうえで作品を見るということをやっていきたいとは思うが、何かを見聞きするときに感情面の音を完全に切ってしまうのはやめておきたい。
ダイエーで昼ご飯を買って帰って食べる。ダンジョン飯を読む。面白すぎて読むのを止められず、TCBの友人たちとの待ち合わせ時間に家を出ることになってしまった。
一時間遅れになって西川口駅で合流する。高い建物が一切ない駅がこんな近場にあるとは思っていなかったので驚いた。ぎりぎり暑くない良い天候のなか、それでも途中アイスを食べたりしながら河川敷の方面に向かって歩く。ララガーデンで本屋に立ち寄り、はま寿司で寿司をつまみ、カルディでコーヒーの試飲をさせてもらう。フードコートの店紹介のサンプルを置いている什器が360度ビューの立方体のものではじめて見る形だった。
河川敷までの道すがら白地図ならぬ白新聞の無人販売所があったので物珍しさについ百円を支払って購入する。せっかく手ぶらに近い格好で出かけてきたのに百円を出して荷物を持ち運ぶことになった。冷静に考えればミスなのだが何かに使えるのではないかという直感が働いたので仕方ない。それに今まで見た新聞のなかでもっとも中立公正な新聞だったので、お守りにしたい気分も手伝っての購入になった。直前に陰謀論の話で盛り上がっていたのも影響したかもしれない。一番おそろしかったのは「地図を広げて実際に見てみると、アメリカの政治の中枢ワシントンと日本の永田町の二点を直線で結ぶことができる」というものだった。まさかそんなことが。それが示唆することを考えるとおそろしい。
あとは陰謀論については、それを誰か身近な人たちに広めようとするのは明確に害悪なので個人の趣味の範囲で楽しむようにしてほしい。また、相手は想定問答集を用意しているので安易に論難しようとしてもうまくいかないのでやるのであれば準備をして臨むこと、迂闊につつかないようにすることという結論になった。
河川敷に来るとテンションが上がる。ひらけた風景というのと下流ということもあって大量の水が流れるのでテンションが上がるのだと思う。途中大型トラックのラジコンを操作しながら自転車を漕いでそれについていくおじさんとすれ違う。思わず「格好いい」と声を上げてしまった。
ゴルフコースがありそこに便所とベンチがあったのですこし座って休憩する。昔やったゲームの話をすこしする。
じゅうぶん休んでからちょっと歩いた先にドッグランを発見。こちらで休めばよかったと後悔した。しかも隣ではクリケットの試合で遊んでいる人たちがいてそちらも興味深かった。
日が暮れそうになったので名残惜しく思いながら川口・赤羽の方面に歩を進める。途中山あいに沈んでいく日没を見る。結局赤羽で飲もうということになって橋を渡って東京に戻る。埼玉東京間の徒歩移動は初だったかもしれない。
いろいろ見て回ったあとキャベツというお好み焼き屋に入る。ひとり一杯ずつしか頼まないうえ、ブタのお好み焼きだけの注文のくせして三人のうち誰がどれだけ払うかと揉めていたところ、店のマスターに会計に不明点があると主張しているとの誤解をされ、電卓を持ち出して来られた。嫌味を含んでの電卓だったと思うが、それを使って律儀に計算をする友人が面白かった。一度は行ってみたいと思っていた店が晴れて二度と行かない店になった。値段にもそこまで不満はないし味は美味しかったです。
その後、威勢の良い入ってみたかった居酒屋に入ってガヤガヤした店内で飲み直す。こういう声を張らないと通らない雰囲気が赤羽の居酒屋に求めていたものだったので楽しかった。店を出てから歩き飲みをする。ララガーデンという商店街を通って公園へ。遊具にやる気を感じる広い公園で、季節もあってか各エリアに人がいて各々盛り上がっていた。サイファーをしている三人組もいた。居心地もよかったのだが残念なことに蚊が出て刺され始めたので退散する。


2024/05/05 今日
九時半ごろまでたっぷり睡眠をとる。スクワットをしてからダンジョン飯の続きを読む。朝食にグラノーラを食べてから背中のトレーニング。みんなの筋肉体操の動画が消えてしまってNHKインターナショナルのものしかなくなったので仕方なくそれを使っているのだが、もとのスクワットの動画でトレーニングしたい。
ダンジョン飯を最終話まで読む。これは優れたビルドゥングスロマンだ。イヅツミのキャラクターがとくに効果的で、イヅツミに対してパーティーメンバーがどういうことを言うかという描写があるからメッセージの伝達に無理がなくなっている。キャラクターの良い部分を引き出しやすい仕掛けということになるが、それがわかっていてもなお感動させられる。よくできている。
十四時半過ぎに家を出て昼ご飯を食べにいく。しかし目当ての店を決めていかなかったことで昼飯を探して流浪する羽目になった。ドンキでPSBを入手して昼間からビールを味わう。新台北という行ってみたかった店に行くことにする。噂に違わぬ良い店で、四、五品頼んだが全部おいしかった。オコゲにあんかけを落としてもらう料理が『鉄鍋のジャン』で見た通りのパフォーマンスで嬉しかった。
帰宅して昼寝をする。予定よりも遅く起きて十九時半ごろにスタバに出かける。日記を書く。

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