ランチどこにするミーティング
2024/05/02 昨日
渋谷のEnterというクラブでLiving Roomというイベントの10thアニバーサリーがあるという情報を得たので閉館一〇分前の図書館から飛び出て、霞が関から表参道、表参道で銀座線に乗り換えて渋谷へ向かう。とりあえずミヤシタパーク近くの歩道橋で氷結500を一杯だけ飲んで入るかどうかを決めることにする。一〇分近くで入ることに決まったのでマップで探し出してEnterに入る。一回だけ行ったことがあると勘違いしていたがそれは別のクラブだということが判明した。そこがコロナ中ということもあってかあんまり良くない雰囲気だったのでEnterのイメージはあまり良くなかった。それでも行くことにしたのはこの日記を書いているからで、あまりにも平坦な日常を公開し続けていると四角四面な人間だと思われそうなのでその打開を目指してのことだ。
クラブに行って踊るというのは、やったことない人からすれば非日常パーティ体験という印象だと思う。そしてクラブというのはそこにいかない人とは別のタイプの人が猛っているこわい場所というイメージがあるのだろう。クラブにはそういうモードがあるにはあるが、もともとそういうモード全開の変わった人がいるというよりはそういうモードに皆で入っていくというほうが近い。ほとんど誰とも喋ったことがないからそれも勝手な印象にすぎないし、変わっている人とそういうモードに調整している人の違いというのも傍目にはまったくないから外部からの最初のイメージや印象が的外れということにはならない。ただ変わっているというなら誰だって変わっているところはある。そういうのに寛容な薄暗い場所というのがもっとも中立的で客観的な表現ではないか。そこで全身に響くような大音量で音楽が鳴っているから、踊ろうかという気分にもなり、お酒の力を借りなどして実際に踊ることもある。ソロで踊ることもあればペアになって踊ることもある。自分はたまたまソロでしか踊ったことがない。
おそらくこの日の目玉で、自分が行こうと決心した理由にもなっているのは、あの鎮座DOPENESSがライブをやるということだった。二十三時前に入ると音楽の中、酒を飲んで格好良く身体を揺らしている彼の姿があった。何人かは勇敢にも声をかけていっしょにセルフィーを撮ってもらっていたが、クラブでそういう動きはしないでおこうというポリシーが自分にはあったのと、もっと大きな理由として勇敢さが少々足りないのとで羨ましさに心の平穏を脅かされながら、断固として踊るという姿勢をつらぬいた。
そうやって途中椅子に座りなどしながらしばらく踊って、二時からライブが始まる。圧巻の一言だった。あっという間に所定の三十分間がおしまいになった。勉強不足で知ってる曲は一曲もなかったが、そんなことは一切関係なかった。言葉を使って周囲の群衆をこれだけ湧かせられる人がいるのかと驚きだった。うねりを作り出している人が真ん中にいる、そこにみんなの目が釘付けになるという自然発生的で避けようのない構図。彼のスタイルは本物感があって格好いい。四十三歳だという。フィジカル的なトレーニングを欠かしていないんだろうなという感じがあった。
さすがに疲れたが根性で歩いて帰宅。ほうほうのていで家に帰り着いたのは三時半すぎだったのだが、なんとそのときにもまだ同居人が起きて仕事をしていた。すぐにねむる。
2024/05/03 今日
十時前に目覚めて寝不足コースになりながらも洗濯機を二回も回す。昨日の晩御飯の残りをブランチとしていただいて昼寝をする。二十分間のつもりが手違いで六十分間になる。遅刻気味で渋谷の上映会にいく。スパイダーバース1と2を見る。1も相当良かったが、一時間の休憩ののちに始まった2が本当に良くて始めてみたときと同じぐらい感動した。クライマックスの展開の妙と盛り上げに対して他の観客が思わず息を呑む様子があり、そういう雰囲気を感じ取りながら見れたのがよかった。ラストシーンのグウェンの最後のセリフが決まったタイミングで拍手が起こってそれがすごく嬉しかった。グウェンと父親の対話シーンで鼻をすする音が聞こえたし、仲間といっしょに映画を見ているという気持ちになれて上映会に期待していたことが本当に実現した。行って良かった。
ほくほくしながら下北沢にもどり、エキウエのスタバに入って日記を書く。前日図書館で見つけて借りた『なぜ漱石は終わらないのか?』『親密な手紙』を読む。前者は漱石学者同士の対談。後者は大江健三郎が新書に書いたエッセイ。硬さと柔らかさが少なくとも二軸あるのだということがはっきりする二冊の並びだ。
下北で飲んでいる友人と合流しようと思ったが時間が合わず断念。ご飯を食べて帰る。