20240530

日記386

トゥー・シャドウズ

2024/05/29 昨日
八時前にスタバを出て、すた丼を食べて帰宅。帰ってからは何をするでもなくすぐに寝る準備をして爪切りなどして早めにねむる。

2024/05/30 今日
たっぷり寝たので一日通して調子がよかった。出勤してからは消費生活を読んだり、知らない用語の確認に時間を使う。昼からはAIを活用するユースケースについて考えたりする。
図書館で本を返してから真っ直ぐ帰る。家でペペロンチーノを作る。途中時間帯指定の佐川急便の荷物受け取り。このために図書館で時間を過ごせず即帰宅したのだった。自分で選べるなら佐川急便は使わないと決めた。置き配をやってくれないのは不便すぎる。ログインサービスも使いにくいし。
ペペロンチーノは今までで一番うまく作れた。これまで入れる茹で汁の分量を間違えて多く入れすぎていた。これでペペロンチーノをマスターできると思う。
テレビ録画していた有吉クイズを見て、この日もすぐにねむる。

20240529

日記385

街の灯と強風雨

2024/05/28 昨日
スタバ終わりにダイエーで買い物をして帰る。雨と風が強すぎて歩けないと判断したので、普段歩いている一駅分を電車で移動。五分足らずの道、傘をさして歩いたのにもかかわらず、両腕両脚がびしょ濡れになった。
同居人と『蛇の道』を見る。脚本のワンアイデアに全振りしたというか、アイデアの恐ろしさに外形的なクオリティがついてきていないという意味で、つまり悪い意味で大学生の自主制作映画みたいだと思った。しかし、それでもやはりアイデアの威力は明らかで、「自分だったら」ということを考えながら観ることのできる映画だと思う。不満点も多いが、一番不満だったのが怒らせたヤクザがすごく弱っちいこと。警察が存在しないかのように登場人物が考えて動いているように見えることの二点。期間限定無料だったし、見ないままリメイク版を見るわけにはいかないと思ったが、見ないでもよかった。香川照之が死体を蹴るシーンは怒りに任せての行動のはずなのに、まるで相手が怪我するのを気遣うような「蹴るフリ」そのままだったのであとに続くラストシーンにも影響するほど冷静になってしまった。あれでは香川照之がかわいそうだ。アクションシーンを入れるのであればしっかりアクションできるように準備しないと駄目だと思う。逆に演出意図とも受け取れるぐらい、迫力に欠けていた。

2024/05/29 今日
渋谷出勤。スクワットをしてから出かけても時間に余裕ができるような素晴らしい朝だった。早起きにはそれだけ価値がある。午前だけの作業だったので、自己判断で午後以降は自己学習の時間に充てる。そのため十時半にはLUUPを使って一旦帰宅し、洗濯機を回す。
その後、粗品の週刊誌記者の張り込み現場を押さえる動画を見るなどしてだらだらする。お昼にはペペロンチーノを食べる。ニンニクを引き上げる方法でやってみたがどうも油っこさが出てうまくいかない。
ダラダラするために帰ってきたわけではないので自分のケツを蹴っ飛ばし、十四時前にスタバにくる。『いつもの言葉を哲学する』読了。「いつもの言葉」というが「いつもの」感が少なかった。とくに最後の四章は、新聞の見出しを取り上げたり、コロナ禍で生まれた新語にフォーカスされるなど哲学的というよりは社会課題への問題提起という色が濃かった。たんに哲学科の先生が書いているエッセイというだけのことで「哲学する」とは、新書まるだしのミスリードタイトルだ。それでも読んでいると著者の人の良さがにじみ出ている箇所もあって、とくにあとがきの謝辞にはグッときた。
言葉に対するアプローチは、哲学の”そもそもの根本から問い直すスタンス”よりも、文学の”既にあるものを通して表現する(受け取る)”というスタンスのほうが射程が長いように感じられる。たとえば辞書に書かれている語義に対する受け止めについて、哲学的なスタンスを取るほうが俯瞰して見られる分、より見通しがきくように思えるのだが、文学において辞書に書かれてあることを一旦正しいものと受け止めて扱うスタンスのほうが、その先へ目が向かうため、結果的に遠くまで見通せるのではないかと思う。また、ある言葉や出来事に対する社会的な受け止めについて、より今風の「社会が注目している以上、そこに何か問題があるのに違いない」というような目では見通しにくい局面というものがあるはずだと思うし、そういった”いつもの生活感覚”では届かないところについて「哲学する」みたいな展望があれば良かった。いつもの〇〇を哲学するというのはそういう試みでないと成立しているとはいえない。
少なくとも自分にとって「いつもの言葉」というのは政治家のよくある言い抜けのための常套句などではないし、人によって「いつもの言葉」は全然違うものであるにしても、コロナ禍で急によく聞くようになった新しい言葉遣いなどは”いつもの”というよりは”有事の際の”に近いのではないか。これが書かれた年と新書という形式によっていくらか割り引いて考える必要はあるのかもしれないが、「哲学する」というのはそうやって割り引いて考えたうえで対象となるような営みなのだろうかという疑問は残る。
大江健三郎『定義集』を読む。これは上記の新書を批判するにあたって「虎の威」とした(となってしまった)エッセイなのだが、広辞苑についての受け止め等が思った以上に素朴で驚く。専門家に対する敬意がそうさせるのだと思うが、それだけではなく、大江が外国文学を読むとき、翻訳を読んで満足するのではなく、自ら原文にあたり、自分でも訳して内容を噛み砕こうとするときの杖となる「辞書」に対する長年の信頼がそうさせるのだろう。ちょっと悩んだときに開いてみるという検索型のツールではないのだ。いや検索型のツールではあるのだろうが、その頻度の面でも姿勢の面でも「ちょっとわからないのでググってみる」という度合いの積極性ではないように思える。そう思うこと自体、行き過ぎた敬意を示しているようだが、昔ながらの道具が持つ「焦点がぼやけない」感じというのはあるんだと思う。ネット検索は便利だが、その検索結果については妥当性をつねに判断しないといけない。判断事項を先送りにして、なんとなくの理解で済ませるということは検索するたびに起こることだ。そんなふうに問題が自動的に奥へ進んでぼやけていくようなことが辞書を引くときにはない(少ない)のではないか。
しかし、とにかく自分に言わないといけないのは「劣等感を隠すために敬意を持ち出すな」ということだ。自分にとって大江健三郎は偉大な作家だし、書くものを通して知るかぎり立派な人間だ。それでも自分は彼が立派な人間だということは一旦無視して、ただ偉大な作家として彼の作品にあたるべきだ。
訳文でしか海外文学を読んでいないということに劣等感がある。これについては「やるかやらないか」の二択で「やらない」を選択しつづけてきた。内心それでは駄目なのではないかと思っているから、果敢に原文にあたっている大江の知的活動に頭が上がらないということになる。だから、尊敬しておけばそのぶんラクができると思っているところがないか、注意して自分で自分を監視していなければならない。手間だ。
『ナボコフの文学講義 上』を読む。フローベールの章は『ボヴァリー夫人』を読み終わってからあたることにする。とりあえずオースティンとディケンズの章を飛ばし飛ばしで読み終えてしまい、池澤夏樹の解説を読む。池澤の解説によるとナボコフの目から見れば「文学に思想は不要」ということなので、ナボコフが大江を読んだとしても評価しないかもしれないということをすこし思った。ただ、当然のことながら大江が自身の小説作品を思想の入れ物としているわけではないから、必ずしもそうなるとは限らない。だからここですこし思ったことは
、よく考えれば訂正されるはずのことだ。しかし、すこしそう思ったところには、大江が大江の条件のなかで作品を書いているということへの評価をどうするかによって読む側にも分岐が表れるように思えるということがある。大江は偉大な作家だが、彼を偉大な作家とする条件がすこしだけ欠けていたとしたらどうなっただろうかというつまらない空想をしてしまう。この空想についても元を辿れば大江のことを立派な人間だと考えるところからきているようだ。
ともかく、間違った尊敬の仕方をしてその人にとって失礼になるのは、もっとも情けないことのひとつだ。崇拝するな。軽々しく先生と呼ぶな。むしろやるべきことは逆。たとえば彼が純文学に対して寄せる無謬の信頼を攻撃すること。あれは権威主義ではないか(という紋切り型の言葉ではびくともしないだろうが)。
『存在することの習慣』を読み始める。この本は『定義集』で勧められていたので借りて読むことにした。フラナリー・オコナーという小説家の書簡集とのこと。小説家がどうやって生活のなかで書いていくことを習慣にしていくかということが手紙の中に表れているらしい。参考にするべきところが多いはずだと直感した。
こうやって読書をすすめていくのと、課題図書がずらりと並んでいるのとで、読む本がない状態というのは自分にとってありえない。大学一年の頃からずっと読むべき本に追いかけられているが、これにはゴールがない。

20240528

日記384

三色刷り

2024/05/27 昨日
閉館時間まで図書館にいて、千代田線で下北に戻る。図書館での読書の余勢を借りて電車内では『定義集』を読む。ある程度集中力が出て頭が回り始めてなおかつ疲れていないときに読まないと、読み飛ばしたり流したりできないほど密度の濃い文章にも関わらず、流れていってしまうことがあるので、きちんとコンディションと相談して読まなくてはならない。そういう重い本と比較的軽い本を両方リュックに詰め込んでおくというのは通勤時間のある生活においては不可欠の工夫だといえる。「小説を書く人のために」というタイトルのエッセイには自然集中力が高められるが、そういうわかりやすいタイトルではなくても、すべて吸収するべき文章でひとつも取りこぼしが許されないという感覚がある。何かに似ているなと思ったら、家で飲んでいるプロテインのULTRAについて、ホエイプロテインの含有率の高さから顆粒一粒でさえこぼすことは避けたいと考えて専用スプーンを使ってシェイカーに移すときの感覚に近い。それでも手の震えや気の緩み・油断などでたまに大胆にこぼしてしまうというところも似ている。ところで関係ないが、顆粒がどうしても変換されずどうした訳だ? と疑問に思い検索したら顆粒は「かりゅう」と読み、「けんりゅう」とは読まないらしい。かりゅうと読むのは知っていたが、同時にけんりゅうとも読むはずだと思いこんでいた。耳でもけんりゅうと聞いたことがある気がするのだが、そうすると自分自身の間違った発言が自分の耳に入っていただけだったのか。少なく見積もって十年ぐらいは「けんりゅう」生活を続けていた。恥ずかしい。
二十二時半すぎの帰宅になり、Bはぎりぎりのところで目を瞑ってうつらうつらし始めていた。残念に思いながら自分も寝る準備をする。サニーボーイを一話だけ見て二十三時半にはねむる。バスタオルを首に巻き、毛布を被ってねむる。

2024/05/28 今日
雨降るなかを霞が関経由で出勤。雨脚が強めだったので虎ノ門駅で地下に潜り、ヒルズのビルまで地下道を行く。チャットとメールと電話でひとくだりずつのやりとりがあるだけ、打ち合わせに二回参加しただけの暇な一日だった。昨日からAIを使える環境が備えられていることに気がついたので引き続き4.0を使って、AIと会話して遊んでいた。その他、AIを使ってこんなことをしましたという事例集がまとまっていたのでそれらを古い順に眺めていった。AIは面白いが、それを使う人間とのやり取りが記録されている資料はより面白かった。
定時退勤。退勤時間にも雨が降っていて図書館まで歩けないので下北に戻ってスタバにいくことにする。スタバ前にすた丼で生姜丼を食べる。『定義集』を読んで日記を書く。「どうしても取り返しのつかないことをどうしても取り返すために」これはひょっとしたら、皆で共有している、しかし各人にとっての念願なのではないか。

20240527

日記383

難局

2024/05/26 昨日
一昨日、展示を見に行く道すがら気温が下がっていた影響で喉の調子が悪くなっていた。できるかぎりの養生をして(首にバスタオルを巻いて)寝たのだが、それでも朝起きたときには調子が悪かった。仕方ないので午前中を潰して安静にする。一時間のうたた寝でなんとか持ち直したので予定されていたJリーグ観戦に出かける。FC東京ーガンバ大阪の試合。ガンバサポーターの近くの自由席だったこともあり、とにかく大阪人たちの圧力がすごかった。なぜか東京の人たちがYou'll Never Walk Aloneを歌い始めたタイミングでこの日一番のブーイングがガンバサポーターから沸き起こったのが面白かった。それに負けるかたちですぐ歌いやめたのが一番面白かった。ひょっとしてボケとツッコミ? 試合は0−1でガンバが勝った。帰りしなに負けた東京サポーターの女子二人組から「最悪の気分って感じでもない」というこれ以上ない負け惜しみの声が聞かれた。こういうこともあるから引き分けなんてぬるい結果ではなく白黒決着つく試合が魅力的だ。VARで取り消されたけど終了間際に同点ゴール未遂があり、会場が一瞬盛り上がったのが良いガス抜きになったのだと思う。試合後、スタッフ以外誰もいなくなったスタジアムに残り、NHKプラスで大相撲の千秋楽、大の里ー阿炎の対戦を見る。大の里が阿炎を圧倒して優勝を決めた。来場者数三万人弱がスムーズにお行儀よく帰っていくのもすごい。FC東京の残党が飛田給駅を埋め尽くしていたのでレンタサイクル(ダイチャリ)を使って吉祥寺まで移動することにする。思っていたより距離があってしっかり一時間もチャリを漕いでいた。電動とはいえ長時間なので疲れた。前住んでいたマンションを確認したあと、パルコの前に移動して酒を飲む。すこし空気が冷えてきたので、首を冷やしては喉痛がぶり返してよくないと思い、ユニクロで購入予定だった感動パンツを購入し、首巻き代わりに使う。おかげで喉痛が悪化せずに済んだ。感動こそしなかったが、首が寒いときに巻きつけることのできるサイズの布は有り難い。日高屋で野菜たっぷりタンメンと餃子を食べてから二十一時に解散。肌寒さは継続していたのでまっすぐ家に帰る。翌日七時起きということもあったので帰ってすぐ熱準備を済ませてねむる。

2024/05/27 今日
この日も首にバスタオルを巻いて寝たおかげで体調はすっかり万全になった。仕事は適量あったのでそれを適当にこなし、あとはWEB ACROSSの定点観測インタビューと消費生活の記事を読む。サンプル605の日記を四月分から何気なく読んでいて、そのまま五月分も読んでいたら不意に率直な表現に出くわして涙が出そうになった。婚約者のことをフィアンセと呼ぶのなんか面白いなと思っていたらそこが伏線になっていたなんて。それ以外の時間には小説のことを考える。職場のPCでチャットGPTを使えるのでそれを駆使して特定の職業のことを調べたり、その職業人がどういう特性を身に付けているのかを聞いてみたりした。
昼休みやおやつ休憩時間に階下のアーバンファミマでやっているポップアップストアのかばんを物色。おしゃれなのがあったので母親へのプレゼントとして退勤後に購入する。吉野家で飽きずに唐揚げ定食を食べる。図書館に来て『いつもの言葉を哲学する』を読む。日記を書く。

20240525

日記382

スピードで圧倒


2024/05/24 昨日
スタバを二十時半に出て友人と下北沢で飲む。友人は背伸びせず見渡せる範囲にあるものを受容しているだけで、自分自身では何もしないで満足していられるタイプなのだが、そのことに不安を覚えることはあるらしく、自分で何かを始めるわけでもなく、ただただその不安を吐露したり何かやることのある人を羨ましがったりして愚痴を言ったりしている。話を聞いていると「普通」に到達するのを本気で目標にしているようだ。自分から何か言えることがあるわけでもないし、その道筋や進路、方法の工夫についても興味を持てないので、いよいよ話すことがなくなってきている。ちょっと前までは映画の話をしていたが、同じ映画を面白いと言っていても、見ているところが噛み合うようで全然噛み合わないので相手の話を受けて何かを言おうという気が起きない。何かしらのイベントにいったり、あいだにボードゲームを挟んだり、知らない人を連れてきたりする必要がある。Xのアカウントを開設してツイートの最大いいね数をどちらが多く稼げるかという企画を持ってきた。あまり面白くならないのではないかと直感的に思ったが、せっかく持ってきた企画を無下に断るのも気の毒だったのでとりあえずやることにした。クソみたいなアカウントを作って全然興味のないアカウントをフォローしまくっていいねしまくるという無駄な時間をしばらく過ごし、そのせいで夜ふかしをしてしまう。酔っ払っていたとはいえアホすぎる。とはいえ勝負は勝負なのでそれには勝って終わりにしよう。

2024/05/25 今日
九時過ぎに起きる。三日ほど前、寝室の窓につけていたサイズの合っていない遮光カーテンからサイズぴったりのブラインドに変更した。サイズはいいのだけど遮光性能がなくなったことで、前日夜ふかしをして寝不足になるのを避けるため朝寝坊したいときにも目が覚めてしまうので問題がある。寝不足で土曜日を過ごすことになる。午前中にスクワット。今週届いていた『脳内ニューヨーク』のBDの再生確認。日本語字幕あったらいいなという期待は実らず、英語字幕で見ることになる。久しぶりに見たのだが画面といいモチーフといい暗い映画だと感じた。死の問題を寓話的にだが直接扱っている。三〇分ほど見て止める。ペペロンチーノを作って食べる。味付け・分量の加減は掴めてきたがタイミングがまだ掴めていないのか乳化がうまくいっていない気がする。どうなったら成功なのかわからないまま作っているのも良くない。油っぽい仕上がりになっていると思うので多分駄目なんだろうと思うがそういうものだと言えば言えるぐらいの微妙さに仕上がる。シャワーに入ってから散髪に行く。いつもの人にいつもの髪型をお願いしたうえで、こういう感じにセットしてくださいと一年前の自分の写真を見せたらいい感じに仕上げてくれた。リクエストをするとやる気が出るタイプなのかもしれない。たぶんプライベートで良いことがあって機嫌が良かったとかそんなのだろうけど、理由なんてどうでもいい。何にせよチャキチャキやる気で仕上げてくれる職人気質に直に触れられるのは楽しいことだ。その足でスタバに行って『いつもの言葉を哲学する』『定義集』を読む。日記を書く。

20240524

日記381

二〇年代の遠近感

2024/05/23 昨日
結局読書と日記にすべての時間を費やして図書館をでたのが閉館五分前。同居人が働く表参道のオフィスに立ち寄り、『悪は存在しない』の二回目を社員たちと見てきたという社長とその映画の話をする。ニコニコして話してくれるから話しやすいのだけど、とくに出だしにおいて下手なインタビュアーのような直接的な質問から会話を始めてしまい、相手の出鼻を挫いていないか心配になった。しかしそれなりに距離のある人と映画の話をするのは面白い。ちゃんと自分のポイントオブビューを提示するという手順を踏んでいるから中身のある話になる。映画の話は面白いものだったと再認識させられた。自分にも鮮烈な印象を残した夜のシーン、車のライトがきれいな光のギザギザになるところは、レンズが良いとああいう画が撮れるらしい。ためになることを教えてもらった。映画を見て「物事を自分の思う方向に決めつけない姿勢」を自分は前提にしているつもりだが、それを引っ張って理由がわからないと居心地が悪い状況を映画が作り出してきているから、普段のペースを乱されて居心地の悪さを二重に味わう羽目になったという話をした。映画を見て映画が伝えるメッセージを正確に受け止めるのではなく、自分がそれを見てどう感じるかというところにフォーカスするということを言っていて、それには完全に同意だった。そういうときにはあまりにも言っていることがぴったりするので話を広げにくいということが起こるということを知った。向こうもお酒を飲んでいて話しやすいセットが組まれていたのでもっと話をしたかったがすぐに運転代行が来てお開きになった。下北沢から歩いて帰る。ボーナストラックの無人花屋でひまわりが売られていた。夜の電灯に照らされたひまわりの黄色が好きだ。あと、初夏というのもあってほんのすこし季節を先取りしているのでおしゃれに感じられてそれもよかった。買って帰ることはせず。部屋で見るのとはすこし勝手がちがうし、そのちがいを尊重したかたち。

2024/05/24 今日
渋谷に出勤。この日とあわせて残り二日なので名残惜しい。立ち合いという仕事はかなり自分の時間が作れるからずっとやっていたいぐらいだ。午前の搬出作業の立ち合い後、デニーズに行ってモーニングを注文する。二時間半強の滞在でグーグルのデータアナリストの学習を進める。『戦争と平和』を読む。購入を検討しているエクスペリアの情報を集める。昼休み終わりの時間に作業場に戻る。午後の作業立ち合いも皆さんテキパキと動いたおかげもあり、十四時前には終わった。道玄坂を降りて宮益坂を登って茹で太郎にいく。豚丼セットを食べる。その後銀座線で銀座まで。ソニーストアでエクスペリアの実機を触ってみる。カメラ操作の懸念事項、縦持ちでシャッターを押すときにシャッターボタンが下にありすぎる問題は、設定で音量ボタンをシャッターボタンに変更できることで解決した。高い買い物だし、懸念がある場合は触ってみるにかぎる。それにしても今使っているMACよりも倍ほど高いというのはどうかしている気はする。ただデジカメを買おうとしたときに金銭感覚は引き上がっているし、スマートフォンならぬスマートカメラと位置づけて日常的にガシガシ使っていくのであれば、総合して納得できる値段ということになりそうだ。いつの間にかソニーファンになっている。スパイダーバースの影響でノイズキャンセリングヘッドフォンを買ってみてその使用感に満足してからソニーが気になり始めた。ノイズキャンセリングイヤホンも買ったし、今回エクスペリアを買うことになれば、これはもう立派なソニーファミリーだ。あと、関係ないけど『Sonny Boy』のことを最初サニーボーイではなくソニーボーイと読んでいた。
ちょっとくたびれたので帰宅することにして、家で大相撲十三日目を見る。明生ー阿炎戦は両方とも応援している力士で両方とも八勝四敗の成績だったので両方ともを応援していたが、それでも最後明生が阿炎にすくわれたときには思わず大声が出た。明生に勝ってほしかった。終わったらすぐスタバに行けばいいのにyoutubeでサニーボーイの考察動画をだらだら見て十九時過ぎになる。あわててスタバに出かけてとりあえず日記だけは書く。この後二十時半から友人と下北飲み。合流する前にすこし時間が余ったから坂本慎太郎のインタビューを読む。こういう感じで考えるのがいいというエッセンスがむき出しになっているので坂本慎太郎のインタビューは読みやすい。その考えを自分の考えにしていくというのもやりやすいと思う。ただその考えを使いこなすというか、その考えで生活するというのがむずかしいと感じる。ここからは方向だけきっちりわかるけど道がないように見える。

20240523

日記380

ことばは沈黙に 光は闇に 生は死の中にこそあるものなれ

2024/05/22 昨日
図書館に二十二時までいたあと、霞が関から電車に乗って帰宅。ダンジョン飯を見る。すぐねむるつもりがいろいろ考えるべきことを放り込まれて入眠が遅れる。俺には責任感もあるし考える力もある。ただ考えるにしてもタイミングというものがある。寝込みを襲われ一刀両断にされたところでそれはこちらの責めを負うべき出来事にはならない。「普通」というものに抵抗しながらここまで流れ着いたという自覚がある。自負することではないから自覚というしかないのだけど、今いるこの場所に満足感があるから「普通」というものに回収されないようにする過去の自分のひとつひとつの選択やその積み重ねによって培われてきた姿勢を自分自身で蔑ろにしたりむやみに軽んじるようなことはやりたくない。それにしても、咄嗟の受け答えのなかにいい加減な回答があったことは認めざるを得ない。ただし、こちらの認識としては寝込みを襲われたというもので、自分の実力・実意を反映したものではないということははっきり強調しておくようにしたい。

2024/05/23 今日
目覚ましが鳴ってからスクワットができるギリギリの時間までベッドから離れられない。ねむたすぎる。それでもしっかりスクワットをやって出勤したからえらい。職場ではタスク消化と不明点の質問コミュニケーション、チーム打ち合わせ、新しい登場人物とのチャットがあった。隙間時間にWEB ACROSSの消費生活を読む。昼休みには前日行った居酒屋ランチが気に入ったのでお代わりをしにいったのだが、バイト君の対応含め昨日とは明確に段が下がっていて微妙だった。昨日ふたりで喋りながら歩いていると感じなかったがひとりで歩くと結構遠くまで来なければならないこともわかった。虎ノ門ヒルズステーションビルB1Fの居酒屋「KAN」、残念だけどもう行かない。
定時で退勤して吉野家で唐揚げ定食を食べる。大相撲を見る。琴櫻つよし。三敗・四敗が入り乱れる荒れた場所になっている。明生は本当に痺れるような息もできない取組で見事大栄翔を破り勝ち越し。四敗なので「まさか」はまだあり得る。頑張ってほしい。
図書館の近くで友人と一時間半ほど電話する。近況を聞く回だったけど結構驚かされた。とにかく元気が一番だと思うし、無理をしない範囲で頑張るということを頑張ってほしい。要するに頑張らない構えをできることが重要ということだ。わかりやすく頑張るのは力士に任せて、人にはわかりにくいかたちで頑張るようにしよう。
昨日借りた大江健三郎『定義集』と古田徹也『いつもの言葉を哲学する』を読む。「いつも」の厳密でなさをそのまま受け止めて哲学しようとする厳密さがあり好感が持てる。自分のいつもの感じ方というのは好感というものなしにはありえないのでそれでいいといえばいいのだが、もしこの本を好感なしで読んだらあまり感心しないのではないかという気がする。その意味で、読む側への有無を言わせぬような力強さはうすい。まあ、それが好いということなのだけど。

20240522

日記379

ザ・シーズン・オブ・ブラピ

2024/05/21 昨日
スタバを出てまっすぐ家に帰る。酒を飲まないですぐにねむる予定だったのにガクテンソクの漫才やら何やら動画を見ているうちに夜ふかしになってしまう。見たくなったから見たサニーボーイの一話を見たのも良くなかった(サニーボーイの一話は当たり前だけどすごく良かった)。

2024/05/22 今日
朝すこしだけ早めに起きて三分間スクワットをする。いつもの時間の電車で出勤。朝の時間には仕事と仕事のコミュニケーション。昼時間にはたまたまエレベータで遭遇した同僚の人とランチに繰り出す。仕事の話をしたり、すこし遅いがGWの過ごし方の話をしたりする。居酒屋ランチの定食を食べる。虎ノ門ヒルズという強力な立地もあってか、生姜焼き定食の肉量が多くて美味しかった。しかも一〇〇〇円ポッキリ。当たりを引いた。話の流れが良い方に進んで仕事後一緒にポーカーに行けるかもしれない。目黒のアミューズメントカジノ。めっちゃ楽しみだし行けたら嬉しいのだが、ポーカーフェイスを崩さず「いいですね、いきましょうよ」という男前ぶった返事をしながらエスカレータに乗ってオフィスに戻った。
昼休憩時間に一〇分間だけ昼寝に成功。昼寝のおかげで元気を取り戻したがやる気は戻らなかったのでWEB ACROSSの消費生活の記事を読む。つい男の人の記事を読んでしまうがどれも興味深かった。なかでもドイツ留学に行っている大学生の記事がめちゃくちゃ良くて、自分の過去ではないのについ涙ぐみそうになってしまうぐらい懐かしい気持ちになった。世間(のようなもの)が言っている意見のことを無視はできないけど、それに流されていたくない、だけど……、というように「だけど」を振り回している感じにどこか見覚えがある日記だった。
日記とはべつに、何にお金を使ったのかという「消費」が事務的に添えられているのも良い。「消費」を見ると生活が立体的に見えるような気がする。日記と組み合わせることでかなり効果を上げるのではないかと感じたので、この日記にも試験的に消費生活を導入してみることにした。ページ作りの参考にしようと消費生活を見てみると、ちょうど五月から連載をスタートしたフード関係の仕事をしている女性の日記が素敵で、当初の目的を忘れて夢中になって読んでしまった。
定時で退勤後、大相撲を見ながら吉野家へ。唐揚げ定食を食べながら明生ー琴櫻戦を見守る。ここで勝ったらあるぞと思って期待したけど琴櫻は盤石で崩せるようには見えなかった。大の里をぶち破る豊昇龍の豪快な投げと、大の里の華麗な受け身を見て図書館に行く。『古事記ワールド案内図』読了。読みやすく、読み物として面白かった。
隣にいる誰かが何かを感じたり考えたりして生きているということは、すこし考えてみれば当たり前にわかることなのだが、日々をスムーズに送っていくうちにその意識が薄れていってしまう。おそらく、大勢の人を情報として扱おうとするとき、そのために適切な距離感を運動神経を働かせるようにしてほとんど考えずに処理しているのだと思う。そうすることで享けられる楽しみがあるのを知っているから、そういった非人情の見方を禁じようとは思わない。ただ、それが習慣化されていくうちに、WEB ACROSSの「定点観測」のインタビューや「消費生活」の日記を読んではじめて道行く他人にも人としての側面があるということに気がついて驚くような迂闊さが醸成されていくのだろう。こういう読み物で手もなく感動するというのは、ぽかんと大口を開けたまま歩いているようなもので、本来それなりに恥ずかしいことなのかもしれない。今はものの見方・日の送り方・やり方を変える気がないので、ことさらにそれを恥ずかしがることはしないでおく。

20240521

日記378

晴れ風とともに

2024/05/20 昨日
二十一時過ぎにスタバを出て駅前のベンチに座って氷結を飲む。隣のベンチに座っていた人間愛の強そうな男女が氷結のプルタブを起こす音を聞きつけて乾杯しにきてくれた。通りがかりの犬の可愛さを大声で褒めそやしたり、人通りの多い駅前広場でバトミントンを始めたり、とにかく自由に楽しんでいる様子だった。べつに話をするというわけではなく彼らのコミュニケーションを笑ってみているだけだったのだが、立ち去る時にちょっと声かけていこうかそのまま黙って立ち去ろうか迷った。無難に黙って立ち去ろうとして腰を上げたところノイズキャンセリングイヤホンを貫通して「あ!」と男の声が聞こえてきたので思わず振り返ると二人揃ってこっちを向いていた。笑顔で会釈するとそれに応えて満面の笑みと会釈を返してくれた。
BUZZSTOREで服を見てから帰宅。帰ってからサニーボーイの続きを見る。ラスト三話、死の回から元いた世界へ復帰する回への流れが力強い。毎回、胸に穴を開けられたうえ美しいものを流し込まれるようなダメージを負う。サニーボーイでは説明を抜かしていたり、コマを抜かしていたり、引き算の演出をかなり大胆に行っている。「説明しなかったらその部分が無いものとなる、とはならない」という信頼をもとに作られているような気がする。その信頼は、何かが別の何かと繋がっているという考えに基づいている。根拠のない重ね合わせにすぎないが、検証する前にえいっと乗っかってしまえばそれに乗ることになり、乗っていることからそれが存在するようになるというマジックのような存在の仕方だ。「なかった」ということの逆は、「あった」ではなく、「「なかった」とはいえない「なかった」とは思わない」ということになる。問題はあるかないかではなく、ないの否認をどのようにやるかということだ。四千年以上生きている人間や五千年以上生きて犬になったキャラクターを描くやり方として、事細かに描写する代わりに思い切って描写を抜かす以外やりようがあるとは思えない。そういった登場人物を登場させたり、超能力を与えるというのは、物語世界をラボとして機能させるためだ。何を研究するためのラボかといえば、「人間性」だったり、主体にとって別個体の果たす役割だったり、「本当に必要なものは何か」という問いに答えるための計算式だったりするのだろう。そこまで大それた舞台装置が果たして必要なのかという疑問もあるのかもしれないが、ある人にとっては必要になるのだろう。


2024/05/21 今日
渋谷出勤。立ち合いは昼休みになる合間時間も多く、退勤時間も十五時過ぎとだいぶ早いのでもっとやりたい。作業自体は順調に進んでいてあと二回しかないのが惜しい。鼻水は治った。
昼時間にはグーグルアナリティクスの学習を進めたり『戦争と平和』を読む。今はちょうどナターシャがアナトーリに誘惑されているところ。アナトーリの人物造形は、女の子を泣かせる昔ながらの美男子役なのだが、その心のなかにはイノセントな自己像があるという描写がとくに優れている。疚しいところのなさが直接的な魅力となって女の子の心に食いつく。屈託のない笑顔。グーグルアナリティクスはピボットテーブルについて学習中。
十五時に退勤後、その足でBunkamuraル・シネマに向かう。二度目の『悪は存在しない』を鑑賞。読み応えがありそうだと思ったのでパンフレットを購入。思った通り読み応えがあった。役者のインタビューがよかった。撮影現場の様子を複声的に伝えてくれる。
マークシティ前の蕎麦屋で親子丼セットを食べて下北に戻る。スタバでパンフレットを読む。日記を書く。

20240520

日記377

治安田命

2024/05/18 一昨日
朝から洗濯機を回す。終日鼻水が止まらなかった。昼から出かける。下北沢のボーナストラックでブランチ。キャロットケーキとチーズケーキとアイスコーヒー×2で二〇〇〇円。何かが間違っているのは確実だが、まあいいかと思えた。たぶん雲ひとつない好天候だったからだ。新宿経由でTCB集合場所の秋葉原に行く。はま寿司で昼ご飯を食べる。初めてはま寿司を見つけたときの感動がない。ネタがショボくなっている気がする。ふたりを待ちながらauショップでエクスペリア1Ⅴの実機をさわったり、ニューデイズでプロテイン飲料を買う。駅前広場に座って飲む。ひとり合流。ブックオフに行ってもうひとり合流。そこから両国方面に歩く。浅草橋駅をこえて両国橋を渡って国技館へ。力士出待ちの待機列を見つけたのでそこに並ぶ。浴衣に着替えて引き上げる力士たちの格好良いこと。玉鷲が登場したときには周囲の人だかり全員の背筋が伸びてさすがだと思った。大栄翔はテレビであの迫力を見ているともっと大きいのかと思っていたが、そこまで大きくなかった。明生が出てきたときにはさすがに背中を追いかけてしまった。入口からちょっと外れたところを脇に曲がった先で車に乗り込んでいった。その直前に男の子が明生と一緒にセルフィーを撮っていた。俺も勇気を出せばよかった。
両国の串カツでんがなに入って飲む。劣悪な店舗でがっかりした。晩杯屋で飲み直し。こちらもやたらと忙しそうで欠品が多くあまり良い店とは言えなかった。錦糸町まで歩きながら飲む。新宿方面と千葉方面の方向を逆で捉えてしまうという方向音痴が炸裂した。それだけ国技館の盛り上がりに気を取られたということにしておこう。Lシステインの奪い合いに敗れた代償なのか、帰る頃にはすこし頭痛がし始める。

2024/05/19 昨日
目が覚めて身体を起こした直後から頭痛に悩まされる。これは二日酔いなのでバファリンを飲んで対処する。ただ鼻水も止まらない。前日にダイアンのyoutubeを見て面白そうだったので衝動的にポチったクラスクが届く。さっそく同居人と遊ぶが、思った通り楽しい。たぶん戦術もいろいろあるんだろうし、世界大会があるというのも頷ける。
お昼の時間を飛行機の検索にあて、ニューヨーク行きのフライトチケットを予約する。これで一気にニューヨーク行きが現実のものとなった。往復で二〇万円。これを高いと取るか安いと取るか。たっぷり一週間の滞在時間があるのでその過ごし方に寄るだろう。
遅めの昼ご飯にお好み焼きを食べてすぐに昼寝。起きたらとっくに日が落ちていて、鼻水も治らないし胃がもたれてしんどい。それでもなぜかお腹は減っていたので外食のため下北に出る。うろちょろして心スープカレーに入る。札幌で食べて以来だったがわるくない。安定感がある。グリーンサラダ(二〜三人前)が五〇〇円というのも良心的な価格で気に入った。二十四時からのアーセナルの試合を見れる店の様子を見てから帰ろうと、若干大回りして帰宅。
ダンジョン飯を一話だけ見て、試合時間まで仮眠をとる。寝てばかりの一日だがちょこちょこ動いたりビールを飲んだりしているせいもあって風邪のような症状を治すには至らず。ユニクロの防水テックパーカーを羽織り、雨降る中をLUUPでスポーツバーに向かう。キックオフから二〇分遅刻したらすでにシティが2-0のスコアにしていて優勝を諦める。そのうえアーセナル先に失点。さすがに悲しい気持ちになったが、前半終了間際に冨安のゴールで追いつく。しかもシティが一点返されて2-1のスコアに。奇跡の気配がうすく漂い始める。結局このときがピークだった。その後シティは追加点を上げて盤石の態勢になる。アーセナルは追加点を奪えないまま八〇分を過ぎる。それでもこれまでのアーセナルと違うと思ったのは、きっちり点を取って逆転したこと。結果としては二位で終わったが、自分たちのベストを尽くして最終節に勝ち点3を取れたことは大きい。ざあざあ降りのなかLUUPに乗って帰宅する。テックパーカーから内部に滲出した雨が冷たかった。速攻ねむろうとするがなんだかんだ興奮状態だったため三時ごろの就寝になる。翌日の寝不足は確定。アーセナルを真剣に応援していたときの気分を思い出した。試合に勝ったら翌日の寝不足なんて屁でもないと思っていたが、当時も今も、勝っても負けても寝不足は寝不足だった。

2024/05/20 今日
虎ノ門に出勤。朝から雨が止まなかったせいで傘をさしていく。仕事でやるべきことがあったのでそれをこなしていると時間はあっという間に過ぎた。昼休みに昼寝をしようと思って意気込んでいたが意気込みが強すぎたせいもあって五分ほどしかねむれず。それでも効果があった。昼からもやることがあったし仕事とは関係ない調べものもあったので暇な時間はほとんどなかった。定時で退勤。NHKプラスで大相撲を見ながら吉野家で唐揚げ定食を食べる。役力士が半分ぐらい休場しているせいで取組がすかすかに感じられる。五月場所はハズレだと思う。怪我は仕方ないとはいえ現地で見る人はすこし気の毒だ。
銀座線で渋谷に行き、アシックスの店で靴のサイズを見る。下北に戻ってスタバで日記を書く。寝不足なのもあるしちょっとだけやってすぐ帰ろうと思っていたが日記が溜まっていたのもあってそれだけで二〇時半になる。

20240517

日記376

長きことクレーンのごとし

2024/05/16 昨日
二十時にスタバを出てから友人と下北で飲む。最初は歩きながら外飲み。友人の彼女とその友人と合流してからは風知空知という店に入って飲む。昔演劇祭に出た話をする。もともと自分は全然そういうタイプじゃないのにもかかわらず逆に演劇に出るというのが面白いところというつもりなのに前提を共有できていないと、たんに演劇やっている人というスタートになるのが恐ろしい。まあ来歴が知られていないということは裏を返せばここ一年の自分として振る舞えるということでもあるから面白いところでもある。でも慣れないかたちで新しい人と接して若干靴擦れを起こした感じだ。いや肉離れを起こしたかもしれない。まあそういうミスが出ることも含めて新しい知り合いができるのはいいことだ。こういうふうに飲んでいて「終電間近」になることも少なくなった。明日に備えて余裕を持って解散になった。

2024/05/17 今日
渋谷に出勤。作業立ち合いで自分は何もせず作業員の作業をただ突っ立って見ているだけなのだが、現場の人というのはコミュニケーションも快活で見ていて気持ちがいい。内部に入れば微妙なパワーバランスなどがあってその維持メンテナンスに気を遣わなければいけないんだろうから良いことばかりではないのだろうが、外から眺めている分にはそのバランスがきれいにとれている様子も好ましく思える。無責任というのは無重力ぐらい気楽なものだ。作業員は八人〜六人チームで、ひとりふたり初老すぎのおじいさんも働いている。若い衆に混じって現役で働いていてすごいと思うし、若い衆は若い衆で気を遣いすぎない範囲で大ベテランに対する気遣いができていて大人同士のコミュニケーションだと感心する。現場の敬老精神というのは見ていると自然頭が下がる思いがする。それで円滑に回る部分はあるんだろう。大ベテランは尊敬のまなざしの取り扱い方もうまい。ドライバーや自分のような外部の人間に対する間合いの取り方も達意を感じる。無口で作業中どこを見るでもなくぼーっと突っ立っている長身の立ち合い者。一番遅く現場入りして、何もしないで一日過ごし、作業が終われば一番先にそそくさと帰っていく無用者。
作業が巻いて十五時すぎには撤収できる。それを予期していたからあえて昼飯を食べずにいた。ベジ郎に行って一日分の野菜を摂取する。その後ミヤシタパークにいって芝生で寝転ぶ。昼寝をしたりNHKプラスで大相撲を見たりして午後の時間を悠々と過ごす。六時前にはスマホの電池が無くなったので下北に戻って帰宅。
家では何をするでもなくだらだらと過ごした。ペペロンチーノを作る。一番いい感じでできたが、ちょっと塩辛かった。満点をとるのはむずかしいが手際の面でも上達を感じる。筋肉体操をしてからシャワーに入る。二十二時すぎに外の空気を吸いがてら一回コンビニまで出かける。帰宅後日記を書く。SONNY BOYのエンドレスループ音楽を見つけてそれを聞いている。いいアニメだった。自分としてはあの作品を人にすすめたい。近くにいるのにめちゃくちゃ遠いという他人の感じがよくでているアニメだと思う。思春期特有の鋭敏な感覚でそれを表現できているからすごく鮮やかに感じられるというのはあるが、その問題自体は思春期に特有のものではないと思う。現場でも見ている近くて遠い微妙な距離感のことだ。

20240516

日記375


左チョコレート右堀田原


2024/05/15 昨日
渋谷出勤で遅く出ていいことにあぐらをかきすぎて出る時間が想定より遅くなる。到着したらちょうど朝礼中という微遅刻が一番気まずい。もう4回目にもなると立ち合いにも緊張感などほとんど残っていない。WEB ACROSSのインタビューを読みながら時間つぶしをする。そういうデータを集めているのだろうから当然といえば当然なのだろうが、皆ファションに対して真剣で、読んでいると少しずつ気後れがはじまった。三人にひとりぐらいの割合で自分の着ているものの説明にかなりの長文で答える、真剣さの度合いが大きい強キャラクターが表れる。よくぞ聞いてくれましたとばかりにつらつらつらつら喋っている様子が喜々としていて微笑ましいと同時に、着ていくものについて真剣に吟味検討を加えたうえで街に出てきているということの明確な証明でもあるので、全体的な印象としてはやっぱり気圧されてしまう。半分仕事着だというのはあるが、いま渋谷にいる自分の身なりがいかにもみすぼらしく、何も考えずに急いで着の身着のまま飛び出した朝の準備時間の浅ましさも思い出されるし、だんだん情けない気持ちになってきた。そのせいか十五時半すぎに解放されたのにもかかわらずどこにも寄らずまっすぐ下北沢に帰って帰宅することになった。お昼はデニーズの向かいの総合アジアンダイニングの店でチーズナンを食べた。
帰宅して大相撲を見る。幕内の取組をすべて見ることができた。出かける気にならずそのまま家でだらだらする。雨が降ってきた。日記ぐらい書くかと思ったところで二十一時前。同居人が帰宅してきたのでダンジョン飯を見る。三、四話分見てねむる。
この日はとくに何もしなかった。仕事時間中にグーグルアナリティクスの学習をすすめたぐらい。一応朝出かける前に三分間スクワットをしたのだった。帰宅して相撲を見たあとペペロンチーノを作った。そのあともう一回スクワットと背中の筋肉体操をしたのだった。今思えばだるい感じもあったし風邪の引き始めだったかもしれない。何もしないと思ったけど結構頑張っている。

2024/05/16 今日
その場のノリで演劇をやることになる夢を見た。それなりにうまくいったような、そうでもなかったようなという感じだったが、どちらにしても幕があいて最後まで通したのでその満足感はあった。昔参加した演劇祭で演出してくれた人に言われた「相手を見てそれに対して自分が何か言ったりやったりする」ということの意味がわかった気がした。昔本番のときに自分のやることでいっぱいいっぱいになっていたタイミングがあって、そのときには全然相手のことなんか見れていなかったというのが夢から覚めたタイミングでなぜかはっきり理解できた。そのときの記憶とともに自分の姿を自分で見るということがようやくできた。グッと入り込んでしまうことが自分にはあるし、何だったらそういうことは人より多いのかもしれない。対人関係というかコミュニケーションにおいての話だ。会話において集中できていないと感じることも多くなった。興味ない方向に進みそうになったとき、自分の興味ある方にぐっと引きつけるのではなく、そのままぼーっと興味ない話を興味なさそうに聞くということになっている。そんな消極的では会話の有意義さが半減してしまう。気をつけていきたい。というか体力をつけていきたい。
朝たらたら準備していたせいで乗るべき電車を乗り逃す。急いで虎ノ門に出勤したら一〇分前になった。やるべき仕事があったのでそれに費やしているうちに一日が終わる。そんなに寒くないはずなのに上着を脱げなかったし、喉が痛くなってくる感じがあったので早めに対処しようと思って十五時頃に隣のビルにあるドラッグストアまで出かけて喉の炎症に効く薬を買う。落ち着いて薬剤師の人に相談して一番自分の症状に合った薬を買うことができた。会計後さらりと「おだいじに」と言える素敵な女性だった。お薬はすぐに飲んだ。これで全快した! と言えれば良かったのだけど、退勤後、吉野家で頭の大盛りを食べたあとにもお薬を飲んだが、スタバにきて日記を書いている今も喉の痛みというか風邪の初期症状っぽい感じがなくならない。この後友人と下北沢で飲む予定がある。全快状態で迎えたかったがちょっと無理そうだ。

20240514

日記374

ファサードの青

2024/05/13 昨日
図書館で借りた『都市感覚を磨く観察学入門』という本のなかで、PARCOが主催しているファッションの定点観測を続けているWEBページが紹介されているのに出くわす。その名も「WEB ACROSS」。
上のようなインタビューページもある。自分がやりたいと思っていた企画がすでに実現されていた。しかも長期間にわたるプロジェクトなので有り難い。このインタビューを見ていると、いつもストリートで見ていながら普段は通り過ぎていくだけの人たちに実際に話しかけていろいろ聞いてみているような気分になれて本当に嬉しい。当たり前といえば当たり前だが、いろんなことを言っている人がいる。職業、収入、自由に使えるお金、家賃、居住地域、ファッションに使うお金、という情報にアクセスさせてもらえると、たとえ言っていることが陳腐な意見であったとしても、その一面だけ見てつまらない人間と判断することができない。(そもそも陳腐な意見というものが存在しない。これはインタビュイーへの配慮から言うのではなく、喋っている人とそれを読んでいるこちらとの時代がズレることで、同じ場所にいれば陳腐と感じたかもしれない言葉でも「ひとつの意見」として見えるようになるということだ。これはどれだけ近い時代、たとえば一ヶ月前でもそう感じられる。たとえ一ヶ月前、一週間前でもインタビューを受ける人はすでにアーカイブ・過去になっている。)答えてくれている人たちのことが知り合いを通り越して友人のようにみえてくる。「若さ」を持っている人は現時点での高いとはいえない収入を明かすことに躊躇が少ないんだろう。一気に友達が増えたような気分になった。
スタバを出て雨降るなか帰宅。わざわざ寄り道してコンビニのある道を選んだのに、どのコンビニにもカルピスの睡眠用飲料が置いていないという憂き目にあう。寄り道が若干の回り道になるのを押して、最後、頼みの綱のローソンに入ったら、残り”ひとつだけ”カルピスの睡眠用飲料が陳列してあった。思わず心のなかでガッツポーズした。街のほっとステーションは伊達じゃない。帰宅後、ダンジョン飯を一話見て二十三時過ぎにねむる。

2024/05/14 今日
朝の準備に手間取って、乗るべき電車の時間に遅れて駅についたが、予想通り電車が遅れていて乗りたかった電車に乗れた。晴れていたのでスニーカーで出勤。出社してからは昨夜見つけたWEB ACROSSのインタビュー記事を読み漁る。2023年の下北沢からスタート。皆知らないブランドのことを追いかけているし、知らない店に行ってご飯を食べている。良い。
昼ご飯は「ばるぼあ」に出かけて明太子パスタの大盛りを食べる。昼からも研修動画を見たりWEB ACROSSを見たりする。
定時で退勤後、eyevan7285の190を見に行こうとミッドタウン日比谷のcontinueに行く。店員の人が優しくて色々教えてもらい、当初やろうとしていた、190のもともとの薄い色のレンズを濃い色のレンズと交換するというアイデアはあまりうまくないということがわかった。とりあえずお礼を言って店を出る。
日比谷から千代田線で一気に下北まで戻る。車内で大相撲の取組動画を見る。どういう事情なのかわからないが、先場所までの取組動画から改変があり、Webページのクオリティがかなり落ちている。自分は世の中はだんだん良くなっていく、とくにインターネット関連のUIは日々向上していくものだと思っているから、こういうあからさまな退行があると驚いてしまう。しかもNHKの事業規模でそういうことがあるのだから、これからいろいろな場面で今あるサービスが衰えていくのは珍しいことではなくむしろ普通のことになっていくと思っておいたほうが安全かもしれない。ファミマのセルフレジは出た当初にはローソンに比べてすごく使いやすかったのに、本当にどういう仕組でそうなるのか不明だがローソンに寄せるかたちでちょっと使いにくくなっている。理由はいろいろあるんだろうがごく大雑把に言って、「お邪魔者」というボードゲームにおけるサボタージュ役のように、邪魔を仕事にしている人がいるということだろう。たとえばIT業界でも、めちゃくちゃ優秀な人がいるのは間違いないが、できるだけ働かないほうがいいような人も数多いということだ。NHKの相撲動画についていえば、改変担当者は間違いなく何もしないほうが良かった。大方予算の関係でこれまで外注していたものを自分たちでやるようにしたorもっと安い業者にたのんだということなのだろうが、その判断をする人がいない方がよっぽど公益にかなった。一部のコンサルや管理職は自分がいないほうが仕事がよく回る、無駄が少なくなるということを認めないで、しかもしゃかりきに働くから余計始末に悪いというのは言い過ぎだろうか。お邪魔者の我々は社会のためを思って、一切働かないのは無理だとしてもできるだけ少なく働くよう努力しないといけない。優秀な人が走り込んでシュートを打てるようスペースを空けること。フリーだからといってスペースに走り込まないこと。コインを多くもらえるコース取りをするというのは単純に自分のためになるから、邪魔にならない範囲で各自励むのが良いとは思う。大相撲の内容としては明生の勝ち方が明生らしくて良い取組だった。あと懸賞を手に持って引き上げてくる熱海富士の懸賞二度見と、付き人に一回渡してもう一回受け取る動作の一連が熱海富士らしくて良い場面だった。一方で霧島はやっぱり不安になる。負け方もわるくて大関らしいとはいえない。
スタバにくる。『都市感覚を磨く観察学入門』読了。もともとある街のイメージをそれらしくというよりそのまま書いてあるだけなので内容は単なる固有名詞の羅列。感想文にさえなっていない。それでも「WEB ACROSS」の存在を教えてくれた書として、自分にとっては格別の価値があった。
昨日取り組んでいた、夢から得た感情を文章に移し替えようとする作業は、冷静になってしまい続けられなくなった。昨日の発熱からは信じられないほどの平熱。この続きは明日やろうと思ってMACをリュックに仕舞ったとき、こうなることをすでに予想していた気がする。むやみにあせらず、ふたたびの発熱を待とう。

20240513

日記373

本の終わり

2024/05/12 昨日
二十時にスタバを出て同居人と合流。最初は俺流餃子楼に行こうとしたが、昼飯のペペロンチーノにニンニクを使っていたのでニンニク被りになってしまうことに直前で気づく。スズナリの方から回って「般゜若」というカレー屋に向かう。イカスミカツのカレーを食べる。衣がさくさくで美味しかった。カレーもすごく特有の感じで美味しいのに客が自分らふたりしかいなかったのが不思議。下北沢にきて飯食うやつは大半が節穴なのでまあ仕方といえば仕方ないのかもしれないがそれにしても、それにしてもだと思った。
帰宅してダンジョン飯を見る。二話のつもりが三話、三話のつもりが四話となって、結局ファリンが復活するところまで見る。翌日に備えて早めにねむる。

2024/05/13 今日
七時半に起床。夢を見る。過去をひとつの夢に大集合させたような前後編に別れた超大作だったような気もするが、ところどころ忘れてしまっているなか思い出せる部分を思い出しているとやっぱりすかすかになってしまい、自分の過去の集大成というのはかなりすかすかなのでは? と自分と過去の自分にとってギルティーな感想を抱いてしまった。
雨の中出社する。迂回経路をとらずに行ったのに到着時間がぎりぎりになった。危ない。到着してからは先週分の溜まったタスクをこなす。午後までにはあらかた片付けてしまったので研修資料を眺めるふりをしながら夢の内容をできるだけ思い出そうと努める時間にあてる。
定時で退社。帰りの銀座線車内で大相撲を見る。定時に上がれた場合、結び前の三番は見れる。先場所からかなり不調そうで昨日も負けていた霧島が平戸海に勝った。ホッとする。照ノ富士と貴景勝は本場所を休場。仕方ないけど現地まで見に行っている人はやっぱりさみしい思いをするだろうな。
渋谷でサングラスをちょっと見てから下北に戻る。eyevan7285の190。

スタバで見た夢を思い出したり日記を書いたりする。進捗というほどの進捗もないが見た夢に夢中になっていつの間にか二十二時前になる。読書の時間がとれなかった。仕方ない。それに書いたりすることに時間を当てるのは読み物を読むよりも優先度が高いから本来望むところのはずだ。

20240512

日記372

青空電線横断歩道花壇

2024/05/11 昨日
スタバを出て晩飯をどうしようか考えていると、ペペロンチーノを自作するというアイデアを思いついたのでそれを実行することにする。ペペロンチーノぐらい自分で作れるような人間でいたいと思ったからだが、そう思わせた動画がふたつあって、ひとつはJKIG(ざっくりYouTube)のペペロンチーノ-1グランプリを企画したいという小籔の話。もうひとつは鎮座DOPENESSの対談動画で「ペペロンチーノぐらい手際よく作れますよ」という鎮座の発言。すべらない話も、ラップライブも、自分にだってできるとはまったく思えないが、ペペロンチーノを自作するということだったらできるはずだと思って、新しく何かをやってみるのは原則として良いことという方針に沿ってやってみることにしたのだった。
閉店間近までスタバにいたこと、その後駅前で氷結を一本飲んでストリートを見ていたこと、買い物に時間がかかりすぎたこと(とくに鷹の爪が全然見つからなかった)が合わさって、二十三時半すぎに量を作りすぎたペペロンチーノを食べる羽目になった。分量を守ったので味付けは概ね問題なかったが、最初なんだしどう考えても「一人分」から作るべきだった。貧乏性のため料理するときに「一人分」で作るというのができない。時間が勿体ないと感じられからだ。最初の一口はうす味、最後の方はちょうどいい味付けになった。しかし、温度は最初のほうが温かくて最後の方は冷たくなり始めていたのでその分も「ベストのペペロンチーノ」には遠かった。基準点ができたのでこれから上達していければいいと思う。睡眠用カルピス飲料を飲んでねむる。

2024/05/12 今日
九時半に起きる。スクワットと腕立て伏せの筋肉体操をやってから家で読書をする。お昼にはペペロンチーノチャレンジDAY2。昨日の反省から一人分を料理することにしたがオリーブオイルを入れすぎたかもしれない。昨日の倍量と思って入れたのと変わらない量を投入した。そのせいで油っぽくなってしまったと思うのだが、うまく乳化ができていないと油っぽくなるとレシピサイトに書いてあったのでそのせいかもしれず、ちょっとよくわからない。しかし各種の作業タイミングや段取りについては二回目にしてしっかり向上している。味付けはちょうどよかったように思えるし分量も一人分で間違いないと確信した。三回目にしてベストのペペロンチーノに到達してしまうかもしれない。それでなくても工程についてはもうマスターしたこともあるし、すでに飽き始めの兆しが見られる。
グーグルアナリティクスのチャプター5のモジュール2に取り組む。昼間は出かけないことに決めて大相撲初日を見る。幕内力士の顔と名前が頭に入っている状態で初日を見るのは面白い。あとはやっぱり勝っても負けても力士は最高の表情をするからいつか現地観戦してみたいもののテレビ観戦が一番良いのではないかと思う。ノウハウの蓄積があるのだろうと思うが、スイッチャーの仕事が本当に完璧だ。こっちが見たい顔をしっかり抜いてくれる。
小結の大の里が横綱照ノ富士から金星を上げたのを見てスタバに出かける。五月場所初日は四大関・一横綱が全敗という波乱の幕開けになった。試供品でもらったゾーンでカフェインを摂っていたのでスタバではゼンクラウドウーロンティーラテを注文する。日記を書く。予約していた『都市感覚を鍛える観察学入門』を図書カウンターで受け取っていたのでそれを読む。

20240511

日記371

ローアングルかもしれない

2024/05/10 昨日
渋谷出勤。作業の立ち合いなのでやることは何もない。遅めに家を出ることができる。昼休憩時間が倍以上ある。普段より一時間半ほど早く帰れる。良いことしかない。休憩時間に久しぶりにグーグルアナリティクスのコースを進める。遅めの昼飯には下北にもあるはんさむという蕎麦屋で天丼と蕎麦セットを食べる。天つゆひたひたの天丼とつゆの濃い味は酒ありきの濃すぎる味付けであまり好みではなかった。店の雰囲気は良いし、東京の昔ながらのスタイルなのだとすれば迎合しようという気がないではないが、自分はなんだかんだ言ってやっぱり関西のうす味とうどんで育っているのだとあらためて思った。
仕事終わりに一旦家に帰る。荷物をおいて着替えてからすぐ北千住行きの電車に乗る(代々木上原で乗り換え)。北千住での飲み会は「昔懐かしの」でありながら新しい展開がある近況も聞けて楽しかった。早い時間開始だから入れた気になっていた餃子の店ラスベガスはまあいい感じではあるが、今風の見せ場をきちんとキャッチアップできて人気が出た店という感じでそこまでの注目に値する場所ではなかった。あてもなくうろついて見つけた二軒目のメキシカンは二軒目にちょうどよかったのがよかった。半外の席も今がシーズンという感じで楽しめた。終電を気にしないでいい時間帯に解散。頭を回すほうが楽しい会だし、そこまで酒を必要とする感じでもないので次はノンアルコールの企画を考えたほうが良いかもしれないと思った。

2024/05/11 今日
八時半に起床。寝不足になるが二度寝できる雰囲気はなかったのでそのままスタバに出かけてしまう。いろいろ考えたいことがあるのに考えをそのまま書くということを憚る気持ちもあり、それを発散させないまま内部で練り練りして何かの形にできないかということを思った。それには今のこの気持ちをフリーズドライのようにして記憶を維持する必要があるのではないかと思った。日記にして公開するのではなく、身辺雑記のなかに放り込むべきだという気持ちがあるが、せっかく文字にするものを日記に入れないのは勿体ないという気持ちも働き、葛藤は静観で終わるものだから結局何もしないままになる見込みだ。その記憶の保持について何もしない流れをこのように記述することに意味はあるのかと思わないでもないが、そういう意味のうすいことをするのは嫌いではない。それと昨日ナボコフのエッセイ『良き読者と良き作家』を読んだ。まず思ったのは「これはその通りだが、とくに目新しいことを言っていない」という感想だった。ただ少し考えると、この有名な文章について誰かが引用したり取り上げたりしたのを又聞きのように聞いていて、それに深く納得して今の自分の考え方がそう方向づけられているのではないかと思った。小説を読んでそれについて語るというときの基盤にするべき考え方であるのは間違いない。そこからどれだけ離れられるかということが結果的に重要になるということもあるにはせよ、スタートはつねにここから始めないかぎり、小説を読むというスタートにそもそも立っていないことになるのは絶対に間違いない。十人十色の読みだとか、人それぞれ受け止め方とかいう前に、共通の前提になるまさに基盤部分の考えだというのは間違いない。その意味でこの短文は小説読者にとっては必読だ。そうそう、その通り、当たり前、どんな肯定のリアクションでも良いがこれに同意しないと次に進めないサービス約款のような文章だといえる。小説をよく読むという人ほど頷くところも多く、しかもそれは深い首肯になるのではないか。もっともわかりやすく実践的なところで言うと、再読する以外、小説を読むとはいえないと断言しているところだ。物語の筋運びを把握するのが一度目の読みで、それは小説を読む準備にすぎず、小説のもっとも良い部分を味わうためには全体の筋や登場人物の顔つきを踏まえたうえで読むということが必要になるというのだという。これは優れた小説作品であればあるほど厳密に適応される条件であり、もし暇つぶしに読むというだけでそれを済ませていいと考えるのであればそのような手順を踏む必要はない。そういうわけできちんと小説を読むということはそれだけでかなり時間を要する娯楽だといえる。
お昼時になったのでザピザという下北の五叉路にあるピザ屋でピザ四枚とコンビニでキリンの缶ビール(一番搾り350、ラガー500)を買って帰る。帰宅してダンジョン飯を二話分見ながらピザパーティ開催。昼日中、とくに天気が良い一日をこうやってむざむざ潰すことの贅沢を味わう。これこそがまさに「豪華な浪費」だ。 うまい言葉を見つけてそれに飛びつく生活と精神生活。
昼から飲むビールとピザの満足感によって当然のように昼寝に移行する。最初は二〇分間のうつもりで寝っ転がるが、アラームやタイマーのたぐいをセットする気も起きず、気がついたら夕方といって差し支えない時間帯になっていた。今週は二度洗濯機を回しているのにもかかわらずそれなりに洗濯物が溜まっていたのでダメ押しで洗濯機を回し、それを干したり出かける準備をする。ドラマに対してそうするように半分まで見ておいておいた『ドライブ・マイ・カー』の続きを見る。劇中劇がパズルのように結び付いてそれが反応を起こす様子はやはり見事なものだと感心してしまった。役者として演じていないように見える・演じているように見えない車内での会話シーンの岡田将生はオープニングナイトのジーナ・ローランズを思わせる最高の空っぽ演技だった。顔が美しいと「空っぽ」が良いものとしか見えないのもあるかもしれない。ただちょっと冷静な判断がつかないような高みに上り詰めているということは言えて、その真贋を見直したり一時停止するなどして解明したいとも思わない。
本日二度目のスタバに出かけて日記を書く。ナボコフの『文学講義』を読む。ただ取り上げられているオースティンの『マンスフィールド荘園』を読んでいないし、フローベールの『ボヴァリー夫人』も面白く読みながら途中で投げ出している状態だったと思うので、それらを読んでから講義を受けるのが筋だろうという気がしている。しかし、文学講義を受けるのは今よりもっと良い読者になろうとしてのことではないので、取り上げる作品を読んでいないというのはまあ仕方がないことだと考えることにする。読者として悪い読者というより読者ですらないということだが、それはそれでべつに構わないということだ。
スタバに行く前に見ていたのは鎮座DOPENESSのインタビュー動画だ。この人はひょうきんで格好いい見た目をしていて喋る内容も面白い。彼が自分の書いた小説の登場人物だったら良いのになと自分でもよく意味の通らないことを思った。制作する自分と生活する自分をわけて考えない、いつも同じになっているようにするという趣旨のことを言っていて「うんうん、そうだよねえ」となった。鎮座の発言は、俺が俺の小説内に存在させようとした人物が本当に言いそうなことで、彼が頷いているのだ。

20240509

日記370

表情双六

2024/05/08 昨日
『フェイシズ』を見る。今回のカサヴェテス特集のなかで一、二を争う良い作品を最後に引けて幸運だった。チャイニーズブッキーを殺した男とオープニングナイトにも匹敵すると思う。タイトルコールからの十五分間がいきなり最高潮で、壮年をはみ出しつつある二人の男が向かい合って何をやっているんだという当然の疑問を置き去りにしてとにかく楽しそうに笑い合っていて、思わずつられ笑いに引き込まれた。最初唖然として、そのあと笑いがあって、最後に遅れてだがちゃんとやってくる哀愁があって、そのどれもがそれぞれ滋味深く感じられた。哀愁が尻切れトンボにならないよう、それこそ取ってつけたような場面転換のための破滅場面が後に続くのだが、それら全体を俯瞰で見たときにもう一度笑えるという良さまであった。男が女を笑わせようと何かを言ってみたり、女が男のジョークになんとか協力しようと面白く受けたりする様子には生きるか死ぬかの必死さがある。こういう場面に既視感があってしかもそれは画面越しによく眺めているものだということに気がついた。お笑い芸人が大変な思いをしながらもその才能をきらめかしている場面によく似ている。相手のために始めたことなのに相手を置き去りにして笑わせようという意図だけが先走って暴走するところなど、俯瞰して見ればそれはそれでやっぱり可笑しいわけで、そういう全体の構図が現今のお笑い芸人の姿勢や態度から感じられるものと相似していた。全編通して笑いに満ちあふれていたが(甘いのも辛いのも酸っぱいのも苦いのもあった)、なかでも一番笑ったのはラスト、朝方の再集合の場面で、男が精いっぱい格好つけながらボロボロになった女に自分の怒りをぶちまけるところだった。透かしたりせず、問い詰めたりもせず、癇癪のようなかたちで怒って見せるということのユーモアを感じた。これこそアメリカ的な良さだ。しかし自分としてはその良さについて愛とは言わずユーモアと言いたい。
あとは最初のジョーク合戦で「ヤセている幸せなやつより太っている幸せなやつのほうが多いから太っているやつは幸せだ」「ヤセの幸せは自分が太っていないと思えることだ」というやり取りがあってそのシンプルな世界観に笑った。
終映後、雨降るなかを走って帰る。セブンイレブンでカルピス飲料とラインで請われたビールを買って帰る。せいろで蒸した肉まんを食べながらダンジョン飯(チルチャック回)を見てねむる。

2024/05/09 今日
渋谷出勤のため普段より一時間多くねむれた。雨の中を神泉からすこし歩く。最低限間に合わなければいけない時間には間に合ったが、メンバーのなかで一番遅れての出勤になった。気まずかったので明日は三〇分早く到着するようにしよう。
昼休憩で道玄坂のリンガーハットに入る。野菜たっぷりちゃんぽんを注文して食べる。折りたたみの傘を忘れて店を出る。満腹後モリバコーヒーで『なぜ漱石は終わらないのか』を読む。
仕事が十六時すぎには終わる。リンガーハットで折りたたみ傘を回収して下北に戻る。いつもより早くスタバについて、『古事記ワールド案内図』『ナボコフ文学講義』を読む。『なぜ漱石は終わらないのか』を読了。文庫版の補章に山崎正和『淋しい人間』についての言及があった。専門家というよりはオタクふたりが漱石をさかなに楽しそうに喋っているという印象の対談だったが、読むべき漱石論について一応の言及があったことにほっとした。
「いわば自己の能力と闘って、自分を行動の禁治産者にしている」「そこにはじつに豪華な人間能力の浪費がある」という一節があり、それについて圧倒的な反資本主義だという。「資本主義/反資本主義」という枠組みで考えるのは耳目を集めるための方便だからそれはそれでいいような気もするが、単にそのまま「豪華な浪費」とするほうがイメージの力強さを感じられる結果を得られるものを、わざわざわかりやすくしてその代償としてスケールダウンさせているように思えて不満がある。これはこの本全体にも言えることで、ひょっとするとある程度から先の文学研究全般がそうなる運命なのかもしれないが、もともとは補助線を引くための優秀なペンとペン捌きで、勢い余って光の輪郭まで描き込もうとしたミスではないかと思った。粋じゃないことをあえてする「野暮の粋」というものを想定しているのかもしれないが、そこまで付き合ってくれるほど読者は暇ではないと思う。面白い小説でも読ませてくれるのなら話はべつだが、そういう気配はないし。「豪華な浪費」について金力のことではなく、時間についてそれをするというなら興味があるけれど、巷にいくらでも溢れているケチな浪費のひとつにすぎない。そんなことをするぐらいなら漱石の小説を読み直すほうがよっぽど豪華で良い。豪華ということにこだわっているのは反・反資本主義だと言われるかもしれないがこればかりはしょうがない。

20240508

日記369

川の流れのように

2024/05/07 昨日
図書館の閉館時間までいる。帰り際に池澤夏樹の『古事記ワールド案内図』を借りていく。ナボコフの『世界文学講義』は別の館にあって借りれなかったので世田谷図書館で予約する。帰りの電車で『なぜ終わらないのか』を読む。最寄り駅で降りて睡眠用カルピス飲料を買う。帰宅するとBが寝ている。台所に昨日の残りのお好み焼きがあったのでいただく。筋肉痛がひどいのでプロテインと睡眠用飲料を飲んでからねむる。すぐ寝付くつもりが「死の恐怖」が現れたせいでねむるのに手間取る。死の恐怖が出現したのは次の連想による。自分には失われた歯がある。一度抜いた歯は生えてこない。だからこれからの生涯をずっと抜いた歯がない状態で過ごす必要がある。ただこれからの生涯ずっととは言っても無限に続くわけではない。終わりの時はくる。これまでの生涯にはなかった不可逆な変化としての老いを感じ始めたことで、しばらく落ち着いていた死の恐怖が復活したのか。そうだとするとこれから大変だ。理由はひとつということはないだろうが、生活上の不安や嫌なことがまったくないせいで、「死の恐怖」がその穴埋めをしようとしているというのも考えられる。そうだとするとそれでは収支が合わないので、穴にはめるための不安や嫌なことを考えついたり、そういう方向に進むように意識するほうが長い目で見るといい考えだという気がする。

2024/05/08 今日
睡眠時間を十分とったおかげで快適な目覚めになる。スクワットをしてシャワーを浴びて出かける。余裕を出しすぎていつもより一〇分遅れてしまい、二本遅い電車に乗ることになる。さすがに遅刻するかと思ったが、とくに走ったりすることなく五分前には端末を起動することができた。一日通して調子は良かったのだが、唯一、シャワー前に手に取った着替えのヒートテックが生乾き臭のするものだったせいで終日若干臭い状態になった。これがどのぐらいの臭さをまとった状態なのかわからないが「まあそういう日もあるよな」で済ませて一日過ごせた。昔はそんな堂々とはいられなかっただろうしこれは確実に中年の構えなので、一日それで過ごせてしまったというのが自己イメージからの発言になると思うのだが、それにしても先に出てきたのは「過ごせた」という不可能が可能になったことを悦ぶ言い分だったので、これはもう自己イメージから構えが変わっているということかもしれない。
仕事は忙しく、翌日翌々日が終日作業立ち会いで潰れるからどうしても今日中にやっておかないといけないということもあり、仕方なしに三〇分間残業をする。雨降りだったので虎ノ門から表参道経由で下北に戻る。スタバで『なぜ漱石は終わらないのか』を読む。日記を書く。二十一時からはカサヴェテスの『フェイシズ』を見る予定。
漱石を再読すると初めて読んだ頃の記憶がよみがえるのにあわせて当時の感覚もよみがえる。小説の記憶よりも漠然としていてほとんどぼんやりと思い出すというのにすぎないが、懐かしく思い出される記憶の尻尾がまだ動くのを感じ取って安心する。こっちだよといたずらっ子のように動くのを見て、それは思い出の全体というよりはほんの尻尾の先ぐらいのものなのに、じゅうぶん心強く感じられる。小説の方は読み直しているということもあってそれよりも確かに思い出せるから記憶の完全性はむしろそちらに任せてしまって、それは記憶の記憶ぐらいの曖昧さで良い。思い出すというよりはほとんど当時を偲ぶというように、かたちだけ、ただただ動作として振り返ってみる。タイミングよく吹いた風でめくられる青春の一ページ。『門』を読んで宗助を羨ましく思ったりしたこと。

20240507

日記368

今日は楽しいハイキング

2024/05/06 昨日
映画『こわれゆく女』を見る。これまで見てきたカサヴェテスは都合七作品だが、そのなかで一番感心しない映画だった。退屈しないしよくできているとは思うのだが、精神的にきつかった。いたぶられているような気がした。愛なんていうのはろくでもないものだという反抗的で挑戦的なメッセージには目を瞠るものがある。しかしそれにしてもここまで露悪的にやられるとつい愛の肩を持ちたくなる。たしかにろくでもないやつだよなと一緒になって詰ってやりたいのにそうすることが禁じられているようでヤキモキさせられた。そうすると愛憎劇としてよくできているんだろう。昔見たディカプリオのレボリューショナリー・ロードを思い出した。シリアスでユーモアがないというのだったらまだ逃げ道もありそうなところを、上滑りして固くなった笑えないユーモアを随所にはさんでくるからタチが悪い。最後まで追い込まれた。しかも何の解決もないまま音楽がかかりエンドクレジットが現れて嘆息した。こんな映画を面白がって見ることはできない。映画を見ながら朝方か昼間に見た夢を思い出していた。たくさんの蝶々が寝室に現れてそれらが自分の身体を恐れずに近づいてくるから間違って踏み潰してしまわないように気をつけるんだが、次々近づいてくるから寝返りをうつ拍子に手で踏み潰してしまいそうになって焦るという内容だった。身動きしないでいることが限界になって手が蝶の上に覆いかぶさったのだが、蝶がさらに小さくなり透明にもなったので大丈夫ということになって安心して寝たのだった。映画館にすこし大きめの虫が飛び回っていて時折スクリーンに自分の影を写してアピールするということがあったせいでこの夢のことを思い出した。映画が終わったのが二十三時半すぎ、翌日は出勤なので可及的速やかに帰宅し、いそいでねむる。

2024/05/07 今日
昨夜すぐにねむるために買って帰ろうとしたカルピスの睡眠系飲料がコンビニにおいていなかったので仕方なくヤクルト千で代替したせいか、悪夢を見た。
昔の遊園地にある古ぼけたお化け屋敷のようなフロアにエレベータを見つけ乗り込む。すぐ上階に行って電車か何かに乗って帰りたいと思っていたのだがエレベータだと思って乗ったのがアトラクションのゴンドラで、幼馴染といっしょに焦りながらフロアを巡ることになった。最初幼馴染の乗ってきた車に一緒に乗せて行ってくれるという話だったが、アトラクションのせいで想定外の遅れが出たので自分の目的地に直行すると言ってどこかに行ってしまい、置いてけぼりにされてしまった。そこから場面が昔住んでいた自分の部屋に移り、良くない何かを栽培していたところ、それは法に反するというよりも著しく道徳に反する行為だったようで、嫌な予感はしたのだが、ちょうど窓から覗き込んできた両親に見つかった。果物ナイフを持った彼らに追い回された挙げ句、こちらをまっすぐ見据えながら刀身の短いナイフで自死されてしまった。その際に「自分のやったことを思え」と言われ無理に反省を強いられた。
最低の気分で朝の準備をして出勤する。たった四日間のゴールデンウィークと引き換えにこれだけ最低な朝を迎えさせられるのはどう考えても割に合わないと思った。朝の電車もぎゅうぎゅうに混んでいてつらかった。しかし、代々木上原で目の前の席が空いて座ることができ、霞が関からの徒歩移動でも雨に降られないなど、徐々に盛り返していった。昼ご飯におにぎりを食べる頃には気分的にも落ち着いて平静を取り戻した。休憩時間に昼寝をして完全復調した。
仕事はわかりやすい五月病で、そもそもなんでこんなくだらない仕事をやらないといけないのかと考え出したり、きれいな労働環境でそれが何より気に入っていたのに、ほんの細かな汚れが気になり始めたりした。しかしそれもおそらく悪夢や寝不足の影響で、気分を取り戻してからは気にならなくなった。定時で退勤する頃には職場から颯爽と歩き去ることができていた。吉野家に行って「から牛丼」のあたまの大盛りを食べてから図書館にくる。『親密な手紙』『漱石はなぜ終わらないのか』を読み、日記を書く。

20240506

日記367

歩きスタンド花

2024/05/05 昨日
二十二時半の閉店時間までスタバにいた。そそくさと退散し、高田馬場で飲んでいた同居人がちょうど帰宅途中ということで駅前で合流することにする。下北沢真ん前に新しく設置されたベンチに座りながら氷結を飲み、鎮座DOPENESSの曲を聞く。お洒落な人の往来が目に楽しいところなのだが、明らかな酔っぱらい男女二人組が千鳥足で駅から離れてどこかへ向かっているのを見てしまう。それだけならなんということもないが、男か女のどちらかまたはその両方が嬉しくないお土産を置いていったおかげで駅員の人が大量のおがくずをもってきてその後片付けをさせられているのが目に入った。大量のおがくずを撒いてこんもり山のようになっていたのが見るも恐ろしく、またなんとも気の毒だった。
気を取り直して合流後、犬拳堂に行こうと思って店の前に来たちょうどのタイミングで「看板です」ということになる。仕方がないのでまちなかに行ってご飯を食べることにする。お通しのにんじんサラダとザーサイポテサラと納豆チャーハンをひとりで平らげてお腹いっぱいになる。飲み物は角ハイボール一杯。同居人はお腹いっぱいということでお茶とスープとごま団子だけを注文。それで四千円近いお会計になる。満腹からくる満足感はあるものの、すぐ食べてすぐ出たこともあり、慌ただしい一食の値段だと考えると高くついたとすこし後悔した。食事中、SNSか何かで流れてきたという桐朋高校かどこかの答辞がすごいという話だったのでそれを読み上げてくれることになった。一箇所知らない漢字の読みを使われているなど「小癪で生意気な!」と思わせられたが、内容については「風」を中心モチーフに据えているものの各部のつながりに生硬なところがある、まあ優等生の言いそうなことだなどと、答辞としての出来を”評価”するなど、酔っ払いのすることとはいえ十二分に情けないことを言いながらご飯を食べ終わって店を出た。後悔するべきところがあるとすれば何よりまずこの言動のほうだ。しかし、コロナ禍のなかで高校生活を送ることを強いられた世代として同情する面は多分にある。もちろんこの高校だけではなく、全高校生・中学生、それから大学生も同じことだ。もう一年二年前の世代は”自粛”が明けることのないまま卒業していったと思うと、今年卒業する世代はまだマシなほうだったかもしれない。少なくとも卒業にあたり自分たちの声を出せるほどには回復しているようだ。奪ったと慮られたり、奪われたと声を上げたりもできないままひっそりと卒業していった世代はいて、やっぱり彼らの答辞は聞こえてこなかったし、気の毒でならない。青春なんていうものは大概くだらないものだが、それがくだらないものだと自分たちの経験において実感しつつ、苦々しく振り返ったりすることはやっぱり大事なことだと思われるからだ。

2024/05/06 今日
前夜の就寝が二時過ぎになったのにもかかわらず、七時半に目が覚める。今日まで休みだが明日には出勤しなければならないので身体をならす意味でも、無理にも起き出して筋トレをする。筋肉体操の腕立て伏せの回をやる。昔から腕立て伏せが苦手で全然まともにできなかったが、その分効いている感じがあった。そのままスタバに出て読書。『親密な手紙』を読む。映画の感想を書こうと思うが思うように書き進められないまま昼過ぎになる。一旦帰宅して素麺を食べる。薬味たっぷりの素麺は、いつも素の素麺をすすっていた自分にとってはご馳走だ。歓迎で買って帰った鶏の唐揚げを付け合わせにする。
ダンジョン飯のアニメを二話分見る。その後昼寝。二〇分間で起きるつもりが、寝不足のためうまくいかず、結局二時間近く寝ることになった。
グラノーラを食べてスタバに出かける。日記を書いてから構想を練る時間にあてる。というよりは、仕事中の暇な時間にも考えを進められるだけの枠組みを用意するようにしたい。
二十一時からは映画を見る。カサヴェテスの『こわれゆく女』。

20240505

日記366

上には上

2024/05/04 昨日
朝起きて近所の映画館に向かい、カサヴェテスの『アメリカの影』を見る。カサヴェテスの映画はとにかく登場人物みんなハキハキ喋って元気いっぱいだ。当時のアメリカ人の映画ではといったほうがいいかもしれない。すこしばかりの衝突など物ともしない豪快さが全体に漂っている。くよくよしている人はいない。いたとしても「苦悩!」という感じでそれが表に出てくる。自分は昔放映していたという「元気が出るテレビ」という番組の世代ではないが、もし今それが放映されたら元気が出るだろうか。それとも時代の違いに戸惑い、げんなりしてしまうだろうか。どっちになるか見ていないので何とも言えないが、カサヴェテスの作品は自分にとっては「元気が出る映画」だ。いろいろ言えることがある面白い映画なのは間違いないが何よりもまず見ていると元気が出る。意図が感じ取れてきちんと収まりもあるのに緻密という感じがなく、撮って出しという感じが強い。それだからこその勢いがある。最初期の作品だという『アメリカの影』はそれをとくに感じさせた。映画の最後に「即興的演出で撮られた」というキャプションが入って、はっきり言って蛇足だと思ったが、役者がとにかくいきいきしていてセリフを言っているという感じがないのはすごい。登場人物みんながみんな、もともとそういうふうにハキハキ思ったことをいう人格だとしか思えない。昔だし多分そうなんだろうとこちらから枠にはめていく解釈も手伝ってそういう見え方が簡単に成立するところはあるんだろう。
途中で演技をしている人たちを見ている感覚がなくなっていることに気がついて驚くということがこの作品ふくめ何回かあった。とくに『オープニングナイト』は、劇の内外を舞台に据えているという構造も手伝って、虚実の境界線がわからなくなる瞬間がほかの作品よりも際立って長くあった。主役の女優が舞台に立っていない(=演じていない)ときの映像が本当に演じていないように見えるのがものすごい演技だと思って感動した。見ているときにはそれが演技だと感じられず、見終わってしばらくしてから「ああ、あれも演技か」と気がつく始末。
昔の映画館はおそらく今よりも劣悪な環境だったと思うが、それにも負けないぐらい観客の注意を引き付ける力が強かったのだろうと思う。すこしのセリフの聞き逃しやカットの見逃し程度では押しも押されもしない骨太の魅力があるのは間違いない。それでいて作品の繊細さにはケチのつけようがない、いや、つけようと思えばいくらでもつけられるだろうが、見た人はそういうことをしようとは思わないだろう。現代からみて良くいえば豪放磊落な表情のなかにも、微妙な揺らぎが含まれているのをまざまざと見せつけられるからだ。感情の機微を読み取りつつ、惜しげもなく前面に出てくる表情をかいくぐってアラを見つけ、そこだけ攻撃するという器用な仕事があったとして、そういった”正確な指摘”を無力化するだけの揺さぶりをかけてくる作品なのではないか。おそらく一切感情的にならないようにすれば指摘することはできるだろう。しかし、そのようにして無力化することができても、そうやって感情方面の音量をミュートにして映画を見ることにどんな意味があるだろうということになるのではないか。
批評家の仕事にはそういう一面がある。感情のボリュームを下げてべつの部分の音を聞き取り、その部分を論じることにはやっぱり価値があるからだ。ただ誰も彼もがそんなふうに映画を見ようとしたり、あまつさえ批評家のような態度で”個人の生き方”を論じようとするのは何かが間違っているような気がする。カサヴェテスの登場人物と批評家とを横並びに並べてみて素朴に考えたとき、自分は断然前者を支持する。批評家的な態度と距離があればあるだけそれを支持するというのでは逆に批評家を意識しすぎていることになるのかもしれないが、最近の自分はそういう考えだ。カサヴェテスの映画を見ることでいよいよその傾向がはっきり表れてきたと思う。自分の都合で好き勝手にいろんなツマミをひねくり回し、ボリュームをコントロールしたうえで作品を見るということをやっていきたいとは思うが、何かを見聞きするときに感情面の音を完全に切ってしまうのはやめておきたい。
ダイエーで昼ご飯を買って帰って食べる。ダンジョン飯を読む。面白すぎて読むのを止められず、TCBの友人たちとの待ち合わせ時間に家を出ることになってしまった。
一時間遅れになって西川口駅で合流する。高い建物が一切ない駅がこんな近場にあるとは思っていなかったので驚いた。ぎりぎり暑くない良い天候のなか、それでも途中アイスを食べたりしながら河川敷の方面に向かって歩く。ララガーデンで本屋に立ち寄り、はま寿司で寿司をつまみ、カルディでコーヒーの試飲をさせてもらう。フードコートの店紹介のサンプルを置いている什器が360度ビューの立方体のものではじめて見る形だった。
河川敷までの道すがら白地図ならぬ白新聞の無人販売所があったので物珍しさについ百円を支払って購入する。せっかく手ぶらに近い格好で出かけてきたのに百円を出して荷物を持ち運ぶことになった。冷静に考えればミスなのだが何かに使えるのではないかという直感が働いたので仕方ない。それに今まで見た新聞のなかでもっとも中立公正な新聞だったので、お守りにしたい気分も手伝っての購入になった。直前に陰謀論の話で盛り上がっていたのも影響したかもしれない。一番おそろしかったのは「地図を広げて実際に見てみると、アメリカの政治の中枢ワシントンと日本の永田町の二点を直線で結ぶことができる」というものだった。まさかそんなことが。それが示唆することを考えるとおそろしい。
あとは陰謀論については、それを誰か身近な人たちに広めようとするのは明確に害悪なので個人の趣味の範囲で楽しむようにしてほしい。また、相手は想定問答集を用意しているので安易に論難しようとしてもうまくいかないのでやるのであれば準備をして臨むこと、迂闊につつかないようにすることという結論になった。
河川敷に来るとテンションが上がる。ひらけた風景というのと下流ということもあって大量の水が流れるのでテンションが上がるのだと思う。途中大型トラックのラジコンを操作しながら自転車を漕いでそれについていくおじさんとすれ違う。思わず「格好いい」と声を上げてしまった。
ゴルフコースがありそこに便所とベンチがあったのですこし座って休憩する。昔やったゲームの話をすこしする。
じゅうぶん休んでからちょっと歩いた先にドッグランを発見。こちらで休めばよかったと後悔した。しかも隣ではクリケットの試合で遊んでいる人たちがいてそちらも興味深かった。
日が暮れそうになったので名残惜しく思いながら川口・赤羽の方面に歩を進める。途中山あいに沈んでいく日没を見る。結局赤羽で飲もうということになって橋を渡って東京に戻る。埼玉東京間の徒歩移動は初だったかもしれない。
いろいろ見て回ったあとキャベツというお好み焼き屋に入る。ひとり一杯ずつしか頼まないうえ、ブタのお好み焼きだけの注文のくせして三人のうち誰がどれだけ払うかと揉めていたところ、店のマスターに会計に不明点があると主張しているとの誤解をされ、電卓を持ち出して来られた。嫌味を含んでの電卓だったと思うが、それを使って律儀に計算をする友人が面白かった。一度は行ってみたいと思っていた店が晴れて二度と行かない店になった。値段にもそこまで不満はないし味は美味しかったです。
その後、威勢の良い入ってみたかった居酒屋に入ってガヤガヤした店内で飲み直す。こういう声を張らないと通らない雰囲気が赤羽の居酒屋に求めていたものだったので楽しかった。店を出てから歩き飲みをする。ララガーデンという商店街を通って公園へ。遊具にやる気を感じる広い公園で、季節もあってか各エリアに人がいて各々盛り上がっていた。サイファーをしている三人組もいた。居心地もよかったのだが残念なことに蚊が出て刺され始めたので退散する。


2024/05/05 今日
九時半ごろまでたっぷり睡眠をとる。スクワットをしてからダンジョン飯の続きを読む。朝食にグラノーラを食べてから背中のトレーニング。みんなの筋肉体操の動画が消えてしまってNHKインターナショナルのものしかなくなったので仕方なくそれを使っているのだが、もとのスクワットの動画でトレーニングしたい。
ダンジョン飯を最終話まで読む。これは優れたビルドゥングスロマンだ。イヅツミのキャラクターがとくに効果的で、イヅツミに対してパーティーメンバーがどういうことを言うかという描写があるからメッセージの伝達に無理がなくなっている。キャラクターの良い部分を引き出しやすい仕掛けということになるが、それがわかっていてもなお感動させられる。よくできている。
十四時半過ぎに家を出て昼ご飯を食べにいく。しかし目当ての店を決めていかなかったことで昼飯を探して流浪する羽目になった。ドンキでPSBを入手して昼間からビールを味わう。新台北という行ってみたかった店に行くことにする。噂に違わぬ良い店で、四、五品頼んだが全部おいしかった。オコゲにあんかけを落としてもらう料理が『鉄鍋のジャン』で見た通りのパフォーマンスで嬉しかった。
帰宅して昼寝をする。予定よりも遅く起きて十九時半ごろにスタバに出かける。日記を書く。

20240503

日記365

ランチどこにするミーティング

2024/05/02 昨日
渋谷のEnterというクラブでLiving Roomというイベントの10thアニバーサリーがあるという情報を得たので閉館一〇分前の図書館から飛び出て、霞が関から表参道、表参道で銀座線に乗り換えて渋谷へ向かう。とりあえずミヤシタパーク近くの歩道橋で氷結500を一杯だけ飲んで入るかどうかを決めることにする。一〇分近くで入ることに決まったのでマップで探し出してEnterに入る。一回だけ行ったことがあると勘違いしていたがそれは別のクラブだということが判明した。そこがコロナ中ということもあってかあんまり良くない雰囲気だったのでEnterのイメージはあまり良くなかった。それでも行くことにしたのはこの日記を書いているからで、あまりにも平坦な日常を公開し続けていると四角四面な人間だと思われそうなのでその打開を目指してのことだ。
クラブに行って踊るというのは、やったことない人からすれば非日常パーティ体験という印象だと思う。そしてクラブというのはそこにいかない人とは別のタイプの人が猛っているこわい場所というイメージがあるのだろう。クラブにはそういうモードがあるにはあるが、もともとそういうモード全開の変わった人がいるというよりはそういうモードに皆で入っていくというほうが近い。ほとんど誰とも喋ったことがないからそれも勝手な印象にすぎないし、変わっている人とそういうモードに調整している人の違いというのも傍目にはまったくないから外部からの最初のイメージや印象が的外れということにはならない。ただ変わっているというなら誰だって変わっているところはある。そういうのに寛容な薄暗い場所というのがもっとも中立的で客観的な表現ではないか。そこで全身に響くような大音量で音楽が鳴っているから、踊ろうかという気分にもなり、お酒の力を借りなどして実際に踊ることもある。ソロで踊ることもあればペアになって踊ることもある。自分はたまたまソロでしか踊ったことがない。
おそらくこの日の目玉で、自分が行こうと決心した理由にもなっているのは、あの鎮座DOPENESSがライブをやるということだった。二十三時前に入ると音楽の中、酒を飲んで格好良く身体を揺らしている彼の姿があった。何人かは勇敢にも声をかけていっしょにセルフィーを撮ってもらっていたが、クラブでそういう動きはしないでおこうというポリシーが自分にはあったのと、もっと大きな理由として勇敢さが少々足りないのとで羨ましさに心の平穏を脅かされながら、断固として踊るという姿勢をつらぬいた。
そうやって途中椅子に座りなどしながらしばらく踊って、二時からライブが始まる。圧巻の一言だった。あっという間に所定の三十分間がおしまいになった。勉強不足で知ってる曲は一曲もなかったが、そんなことは一切関係なかった。言葉を使って周囲の群衆をこれだけ湧かせられる人がいるのかと驚きだった。うねりを作り出している人が真ん中にいる、そこにみんなの目が釘付けになるという自然発生的で避けようのない構図。彼のスタイルは本物感があって格好いい。四十三歳だという。フィジカル的なトレーニングを欠かしていないんだろうなという感じがあった。
さすがに疲れたが根性で歩いて帰宅。ほうほうのていで家に帰り着いたのは三時半すぎだったのだが、なんとそのときにもまだ同居人が起きて仕事をしていた。すぐにねむる。

2024/05/03 今日
十時前に目覚めて寝不足コースになりながらも洗濯機を二回も回す。昨日の晩御飯の残りをブランチとしていただいて昼寝をする。二十分間のつもりが手違いで六十分間になる。遅刻気味で渋谷の上映会にいく。スパイダーバース1と2を見る。1も相当良かったが、一時間の休憩ののちに始まった2が本当に良くて始めてみたときと同じぐらい感動した。クライマックスの展開の妙と盛り上げに対して他の観客が思わず息を呑む様子があり、そういう雰囲気を感じ取りながら見れたのがよかった。ラストシーンのグウェンの最後のセリフが決まったタイミングで拍手が起こってそれがすごく嬉しかった。グウェンと父親の対話シーンで鼻をすする音が聞こえたし、仲間といっしょに映画を見ているという気持ちになれて上映会に期待していたことが本当に実現した。行って良かった。
ほくほくしながら下北沢にもどり、エキウエのスタバに入って日記を書く。前日図書館で見つけて借りた『なぜ漱石は終わらないのか?』『親密な手紙』を読む。前者は漱石学者同士の対談。後者は大江健三郎が新書に書いたエッセイ。硬さと柔らかさが少なくとも二軸あるのだということがはっきりする二冊の並びだ。
下北で飲んでいる友人と合流しようと思ったが時間が合わず断念。ご飯を食べて帰る。

20240502

日記364

手前に折り返して降りる

2024/05/01 昨日
スタバを出て駅前で同居人と合流。酒を飲まずにカルピス睡眠飲料を飲んで帰宅。Bがねむるより早く寝る体制を整える。すぐに入眠とはいかなかったがそれでも十分な睡眠時間を確保できた。

2024/05/02 今日
よく眠れたので一日調子が良かった。一週間分の仕事を午前中すこしと午後すこしだけで済ませてしまい、あとは研修資料を読む。昼ご飯はばるぼあというパスタ屋で前回目をつけていたナポリタンを食べる。予想した通りおいしい。たっぷり量があるのも嬉しい。途中抜けて本屋に行くのが定石になった。オシャレ系の本屋だが選書がそれなりにちゃんとしている気がする。どのくらいのペースで入れ替えがあるのかなども定点観測的に追いかけていきたい。
定時で上がって富士そばで夕飯。カツ丼を食べる。歩くのに気持ちいい天候でテンションが上りながら図書館につく。『藤原道長の日常生活』を読む。ところどころ主観で書かれてある箇所が目立ち、おそらく読者にわかりやすいようにという意図があるのだろうが、著者の言葉選びが合わない箇所も多かった。第一章と二章まではわりとちゃんと読んだがそれ以降は流し読みしてしまった。四章「道長の空間」六章「道長の精神世界」という格好つけた章立てがとくに気に入らない。奈良に浅からぬ縁があるということを知れたのは収穫だった。まあ講談社現代新書なので当たり外れはある。それにしても、自分の言いたいように言う、書きたいように書くというやり方でちょっと変わった方を”敢えて”選ぶとこんなにも反感を呼ぶ文章になるのだということが身にしみてわかった。新書を書く人の文章は必ずしも読みやすいわけではないというのと合わせて勉強になった。著者としては締めるべきところは締めて、あとは書きたい放題書いているというのがわかるから、どこか自分を見ているようで寒々しい気持ちになった。日記だからといって好き放題書こうとするのはよくない。そうは言っても好き放題書くのはやっぱり欠かせないから、せめて”敢えて”というのは選ばないようにしてむやみに飛び跳ねまわるのをあらためよう。できるだけ平熱で書くこと。そのための日記、そのためのルーティンだ。
聞き覚えた単語をすぐ不用意に使おうとする癖にしても、”敢えて”やっている感があってよくない。数学の言葉をはじめとして知らない世界の言葉は格好良くみえるから格好つけて使いたいのだが、あれは読む専用の言葉だと心得ていよう。使う気で使うというのではなく勝手に出たのであればそれは仕方ないし、多分そのときには意味もあり、じゅうぶん合目的的に使えていることになるはずだ。
そう考えてみると本当は使えないはずの読む専用であるべきはずの語彙が自分には多い。思想系の用語もそうだ。読むときにはわかるけれど説明することはできない。IT系の仕事で見聞きする単語もそうだ。最近聞いてあまり深く理解せずに使っている専門用語。しばらくは意識してそれらの言葉を使わず日記を書くようにしてみよう。そうすると何かについての感想の文章も変わってくるはずだ。偉そうなのは避けられないかもしれないが、脇の甘さはすこし軽減されるにちがいない。
使用語彙を増やすのではなく減らそうとすることで文体が完成していくのだという仮説を立ててみる。首尾よく実証されるということになればいいが。

20240501

日記363

明るい蛍光灯

2024/04/30 昨日
虎ノ門のタリーズを出て日比谷線で恵比寿まで。道中で『悪は存在しない』関連のインタビュー動画や会見動画を見る。恵比寿に参集するよう声をかけてくれた友人がすでに到着しているというので急いでむかう。選ばれたのは横丁だった。横丁で飲む。久しぶりの恵比寿横丁。割高の居酒屋メニューに舌鼓を打ち、いつも遅刻の友人を待って乾杯だけしてちがう店に移る。公衆便所感のつよいトイレが懐かしい。千葉からはるばるやってきた友人は思いつきでサイクリングをしたらしく、アップダウンのあるコースだったため太ももがパンパンだと言っていた。会うのもけっこう久しぶりだったが、普段そんなことはないのに思いつきで衝動的になんかやるところが変わっていないと思った。駅前の神座でおいしいラーメンを食べ、恵比寿に詳しい方の友人の知っているダーツのできるバーでダーツ矢を的に投げて遊ぶ。最初の方こそ調子良かったのだが、その店は千五百円のチャージ料を払うとダーツだけではなくカラオケも無料になるとのことで、おじさんが景気よく歌い始めた懐メロの威力に押されもして調子を崩した。自分のリズムで投げないと実力が発揮できない。言ってもわれわれもおじさんなのだが、もっと完全なおじさんに場を支配されてしまった。千葉に帰るため終電が早いというので十一時前にお開きになる。ダーツに負けて多めに支払いを払うことになったが、負けたし金は払うのに、とくに嫌な気もせず総じて楽しい会だった。そろそろお互いの元気を喜び合う年齢だ。
同居人の要請に応じてローソンでパイの実を買って帰る。帰宅してすぐシャワーを浴びてねむるが、それでも寝不足確定コースになってしまう。カルピスの睡眠の質を上げる飲料が品切れを起こしている。仕方なく代替としてヤクルト一〇〇〇を使う。

2024/05/01 今日
寝不足にしてはわりと寝覚めが良かった。さっと出勤してしまう。ぎりぎり雨が降り出さなかったので霞が関から歩いて出勤。総務省の作った資料の読み物をする。三日間かけて全部に目を通したわけだが、三日目にもなるとさすがに書きぶりに飽きて惰性で読み終わった。寝不足状態だったのも災いして、最後のほうは全然おもしろくなかった。郵政の部分など自分の職務にまったく関係ないわ興味ないわでなんで読んでいるのか謎だった。昼休みにファミマのおにぎりを一瞬で食べ、あとはまるまる昼寝に当てたら体調が回復した。その後研修資料のほうに戻って時間を潰した。途中、ビル内の本屋に行って本のタイトルを眺める時間をとったりしてなんとかやり過ごすような低調な日だった。寝不足にくわえて雨も影響していたのかもしれない。定時間際になって隣の席の人たちが何やら会話しはじめて自分にも関係しそうだったが無視して定時に帰った。なぜ定時間際になって必要な会話をはじめるのか。それまでずっと暇そうだったろう。知らんけど。
雨に濡れない経路で下北沢で戻る。結構な雨のなか吉野家に入って、予約していた散髪にいく。その後スタバに入って『ビルマの歴史』を読む。読了。四〇〇ページ超あるとはいえ時間がかかった。五月に入ったにもかかわらずあてつけたように気温が低い。十二、三度でヒートテックの上にスーツという出で立ちでも寒い。

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