20240426

オシップ・マンデリシュタームの『石/対話者について』

良い図書館があることは本当に良いことだ。良い図書館に行って過ごす時間には何ものにも代えがたい価値がある。本との出会いの場として機能するということひとつとっても、これ以上のバリエーションの豊富さは考えられないというほど豊かなラインナップを並べられる。本屋にはどうしても同年代の本という制約がある。
たとえば図書館でしか発見できない本というのは存在する。それは大型書店でしか、またはブックオフでしか発見できない本がそれとはべつにあるのと同じことで、図書館でしか見つからない本というのはたしかに存在する。それは本の経済的な流通とはべつの、もうすこし精神的なものとでも言いたいような、しかし実際のところ本は物質なので、たんに経済的な流れの中にない、あるいはそこからこぼれ落ちて取り残されたといってもいい本のことである。
アテンション・エコノミーという言葉を知った同じ日に、オシップ・マンデリシュタームという何回か繰り返して唱えでもしないかぎり覚えられない名前を知ることになった。
よく本を読んでいて、よほど文学に明るい人でないかぎり知らない名前だろう。それはよく本を読んで文学に明るいほうであると自認している自分が知らなかったことからそう思っているにすぎないのだが、とにかく、仕事帰りに寄ることが多くなった区立図書館の書架の中で、おしゃれな書店よろしく平置きリコメンドされていたことで手にとってみたのがきっかけだ。そのきっかけを与えてくれたことをありがたいと思うし、それは図書館でなければ実現されなかったろうと思って、良い図書館があることは本当に良いことだとあらためて認識することになった。
詩を読む気分ではなかったから詩のパートをまるまる飛ばし、まずはエッセイを立ち読みし始めた。タイトルにある「石」と「対話者について」という文言に注意を引かれ、最初は流し読みに近いかたちだったが、なぜか普段の読書でもあまりないほど書いてある内容がすらすらと入ってきた。いい詩を書く詩人の書くエッセイはだいたい面白い。面白いけれど、彼が詩人であるということからくるこちら側の反感、反感とまでいかずともある程度の逆風のなか読まれることになるのは避けられず、それなりに面白いもの、わりと良いことを言っている程度では「また詩人ちゃんが面白いこと言ってらあ」となってしりぞけられることが多い。また、そのときに「まあ、せっかくなので」と詩を読むとそれはそれで「エッセイではなく詩を書いてろ」となって終わり。
「石」なんていういかにもなタイトルで、しかも図書館に推されているのだから面白くないことはないだろうと逆風なのか追い風なのかわからない状態でたらたら読み始めた。
読んでいるうちに浮かんできた感想はほっとしたというものだった。自分は詩を書かなくてもいいんだと正式に認めることができたというか、詩作については免除されたと自分の中で思うことができたというのが大きかった。これだけもののわかった人がいて、すぐれた詩とそうではない詩についてのエッセイを書いているということは、その人の書いた詩がこの本の前半部分にたっぷりと遺されているということで、だったら詩を書く必要がなくなると思った。
ここという箇所を引用してもいいのだが、「対話者について」というそのエッセイは合計で三十三頁ほどの短い文章だから、それをするなら全文引用したほうがいいような気になる。
しかし、そう言って引用しないで済ませ、詩人の言ったことをただ示唆するにとどめ、とにかく深い感動を感動したのだということで終わらせたくはない。全文を読むことについてつよく勧奨したいが、ここでは一部を抜粋して、あなたが図書館に行ってこの本を借りるという正しい行動をするための役に立てたい。
文章を読んで感動した経験を持つ人は、心のどこかで、あるいは考え感じたりするどこかのタイミングで、「自ら詩を書くこと」について思いを及ぼすにちがいない。当然いつもそうしたことを考えているわけでもなければ、それを思った日がいつだったかを思い出せないほど昔にちらっと考えたことがある程度だったりもするだろう。それでも「自ら詩を書くこと」について思い及ぼした過去がまったく無くなってしまったわけではない。筆を舐めたり折ったりした経験のないほとんどの人にとって、それについては保留したまま、今この地点まで行き着いたというのが実態なのではないだろうか。
エッセイのタイトルは「対話者について」だ。

そう、もしわたしが誰でもよい誰かと話しているとしたら、わたしはその人を知らず、知ろうとは望まないし、望むことはできない。対話を欠いた抒情詩は存在しない。わたしたちを対話者の抱擁へと押しやる唯一のものは、自分自身の言葉に驚きたい、自分自身の言葉の独創性と意外さにうっとりしたいという願いである。この論理は不動だ。

別離の距離は愛しい人の顔を消す。そのとき初めて、その顔をありありと目の前にしていたときは言えなかった大切なことを、言いたいという願いがわたしに生じる。

また、これらの文章に続いて「心を砕かねばならないのはむしろ距離についてである」とも書かれてあるが、まさにその通りである。

あとはストレートな怒りの表現のなかに、同意しないではいられない意見がある。捉えようによってはファナティックなのだが、それについては目をつむるということを読者にあえてさせるような箇所だ。



ここで言われている「詩的正当性」という概念にはポエティック・ジャスティスという言葉を当てたい。意味がすこしずれてしまうかもしれないが構わないということにして、ポエティック・ジャスティスという歌の歌詞に使われている言葉を、『対話者について』で言われる詩的正当性の意味でとらえたい。自分が良いと思う歌や詩には詩的正当性があるし、自分は詩を書かない代わりに、その正当性について自覚しつつ、機をみてはさらっと押し広げていきたい。

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