20240414

死状態に移行する恐怖

昨夜、定期的にやってくる死の恐怖に見舞われるタイミングがきた。感覚としては地面に落ちていくような、まさに不可避の出来事という感じでそれを捉えている。もっと感覚主導で言うと、不可避の出来事という感じでそれに捉えられている。べつの場所に抜け出すことができない。
死の恐怖について考えるのは無駄だし、どうにかしようとはできないから、諦めて無感覚の状態に気持ちを持っていくしかない。死の恐怖が襲ってくるときというのは、自分の耳だけに影響するイヤホンで、黒板が不断に引っかかれる音を聞き続けさせられるようなものだ。かつてその音に抵抗するためべつの音を鳴らして対抗しようとしたこともあったが、どんな音を出そうしても、できるだけハッピーな音で埋めようとしても、何をどうやっても嫌な音ばかりが耳に入ってくる。その嫌なノイズを低減するには、べつの音で不快な騒音をかき消すというよりは、ボリュームそのものを下げることがもっとも効果的だと何度目かのエンカウントから学んだ。
不安感や恐怖というのは、それが始まったところがピークということになるのだすれば、いくらか耐えようもあるのではないかという気がする。問題はそれがどこまでも増大していくかのように感じられるところにある。落ちていくイメージがぴったりだと感じられるのは、落ちていく最中の時間感覚にある。まさに「落ちていく」という現在進行系なのだ。破局を迎えるのは地面との避けられない接触場面ということになるが、その地面が、自分にとってのギロチンの刃が迫ってくる恐怖が、生々しく迫ってくる。否応なくそこに引きつけられていくのがはっきりわかるというところにポイントがある。
死の恐怖というのは自分の中にある感情のなかの多くを占めるものだということもあって、誰もが持っているものだと感じている。しかし表立ってその恐怖のことを言う人は少ない。人は彼ら持ち前の慎み深さによってそれを表に出さないようにしているのだと考えてきた。しかしそれにしても、彼らの我慢強さは、自分が人たち一般に見いだしている忍耐力の度合いをゆうに超えている。本来我慢できなくなってもっと表に出てくるはずのものだ。人は何か自分にとって許せないニュースがあるとそれに対して言及しないでいることができないような環境をすでに充分なほど手にしている。それにもかかわらずほかの何にもまして圧倒的にあるはずの恐怖の感情はあまりにも言及されることがない。もしかすると、人は死の恐怖を感じていないのではないか。それは言いすぎだとしても、自分が感じるような死の恐怖を感じていないのではないか。死の恐怖に対応するものがあるとしても、穴を落ちていく、絶対に救いのない感覚としての死の恐怖ではないのかもしれない。
ある本の著者がすでに死んでもう生きていないというのは取り立ててめずらしいことではない。映像のなかで元気に笑っている人が、昔の記憶の中で話しかけてくれた人が死んでもう生きていないというのも、時期にもよるがすでにめずらしくないことか将来的にめずらしいことではなくなるかのどちらかだ。自分以外の人の死というのはありふれている。名前情報だけ知っている他人が何かの理由で死んだとき、関心の対象になるのは理由のほうだったりする。死というのはそれに見舞われる他人との距離感によってその姿を変えるようだ。心理的に近しい他人が死んだという報に接するときには、死因をはじめとして、そのときの物理的な状況や精神的な状況が気になる。あの人は心安らかに死ぬことができただろうか、と無理な注文を付けさえする。死ぬのだから心安らかでいられるはずはない。だから無理な注文なのだが、半分祈るような気持ちで、是非ともそうであればいいと思う。自分自身が心安らかでいるための臨終場面を想像しようとする。かなり多くの場合、その答えはその人の死とともに(自分にとっては)失われるわけで、「最期はおだやかだったよ」という伝聞情報などを駆使して橋頭堡を築く。とにかく自分は生きている。だから、実際のところどうだったのかとは独立にそうすることが必要だ。
実際に死が近くまで迫ってきている場合にはべつの考え方を採用することになるのかもしれないが、今のところ自分は、何がどうあってもとにかく死を避けたいと考えている。人はいつか死ぬという現在の状況には絶対の不満がある。今そうなっているというのは明らかに問題だ。自分が生きているうちに解消されるべき致命的な欠陥だと思う。
死状態へ移行するというのは何を意味することなのかまったく見当がつかない。死後の世界があって別の存在に生まれ変わるという物語はこの自分をひとつも納得させない。
加齢によってすこしずつ耳がわるくなっていって、今は嫌で嫌でたまらない騒音が自然気にならなくなっていくものだろうか。イヤホンから聞こえてくるのは基本的には素晴らしい音ばかりだ。ときたまものすごく嫌な音が鳴るこのイヤホンは、普段は外界の音を自分に提供してくれる。いろんな音が鳴るなかで、これ以上はないという最高の音が届くこともある。だからそれをミュートにして何も聞こえない状態を作りたいと積極的には思わない。ただ、ミュートにせざるを得ないほど、圧倒されるような嫌な音が鳴ることもある。自分としては最高の音を聞いていたい、最悪の音は聞きたくない。とにかくその両方を希望する。しかし、そんな希望を出すうちにも、地面は、絶え間なく、容赦ないスピードで近づいてきている。他にやりようがなく、仕方なくボリュームを落としていって、結局、消極的なミュート状態になってしまってもおかしくない。すこしずつ外界から遮断されていったとしても内界を閉ざされるのは遠慮すると思っているのは、外界の音が不自由なく聞こえるという状況に依るものなのだろうか。ひょっとすると、閉ざされた状況に置かれるやいなやあっという間に嫌気が差して、あっさりもういいやと自棄をすることになるかもしれない。しかし自分としては今のこの状況をもとに考えるしかない。早めに回り込んで、いつか死状態になることを計算に入れて自分らしく生きるなんていうことはできない。死をどうにかして避けられるものと捉え、地面に激突するとは限らないと考えること。
空を自由に飛びたいという希望がそう遠くない未来において通ると心得て、必ずしも地面に激突するとは限らないと考えて今を生きること。酔生夢死というのは、字が意味するごとく、生に酔い、死を夢見ることだ。それは死を虚構の領分に追いやった先に感覚される。首尾よくそれをやり遂げられたら実際に死ぬことはない。

臭いものに蓋をする。しかし臭いものがなくなるわけではない。蓋をするという行為がむしろ臭いものを実在させることになる。ノールックで臭いものに蓋をする。それでだいぶ善くなった。しかしまだ臭いものはそこにあることになる。だから思い切って次のように言うべきだ。ノールックで蓋をする。さらに善くなった。しかし一体何を見ないのだろうと思うことがあるかもしれない。だからあと少しだけ進む。蓋をする。
蓋をする以上、いつかはそれが開くだろう。蓋が開く。抽象的で何のことかよくわからない。それだけに希望があるようにも感じられる。箱に凝って中身を忘れる。対象が透明になる。

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