本の吹き抜け
2024/04/26 昨日
閉館時間まで図書館にいた。はじめて閉館時間を迎えたわけだが、蛍の光ではなく、聞き覚えのある明るい音楽が少しずつボリュームアップしていくという冴えたやり方をしていてどんなところにも工夫があるものだと感心した。席を立とうというより「動こう」という気になる。そして帰り際に「今日返却された本」のコーナーを見て面白そうな本を見つけたのでそのまま借りていく。『藤原道長の日常生活』という本。固有名詞次第ではライトノベルのタイトルでありそうな新書だ。藤原道長が、というより彼のあの歌が、あの歌を詠む人格が気になり、それを好きだと自覚するようになったのが二年ぐらい前なのだが、なんとなく望月がいいと思っているだけで具体的にそれ以上知ろうという動きがなかったなか、ようやく道長への道を歩き出したということになる。
帰りの電車は代々木上原まで座れたしスムーズだったが、小田急が遅れていてぎゅうぎゅうの電車に乗ることに。東北沢で降りて飲みながら歩いて帰ろうということになり、Reloadを抜けて歩いて帰る。7%の無糖氷結500とダイエーで補給した同4%の350でたのしい春の散歩になる。ミカン、ボーナストラックも通ったので新下北沢のプレイスをなぞることになった。なんでいちいちそんなことを書くのかわからないほどいつもやっていることなのだが、意外と散歩コースを記していないような気がしてちょっと書いてみた。
道長は身辺で起こったことを書き記していたということを新書で知る。『御堂関白記』。日記を書くということが限られた身分の人にしかできなかった時代のことではあるがやっぱり親近感をおぼえる。今日にしても有形の特権こそないものの、それをしようとする意欲や方向づけの面などで、無形の特権がある気がする。日記を書けるというのはそれだけ暇な時間を持てているということだ。そして有閑はいつの時代でも”いい身分”ということだ。
帰って何をするでもなくただただ夜ふかしをしてしまう。同居人の仕事のアイデアにいらぬ口を挟んだり、質問をかけたり。翌朝に映画を見に行く予定なのだから黙ってねむればいいのに失敗した。
2024/04/27 今日
九時に起きて十時からの映画を見るために出かける。同居人の「ゆめみた」通知があったので内容を確認すると、一、昔飼っていた猫のサラが近くに寄ってきたという夢。一、友人が家を自分で設計して作ったというので遊びにいく夢。こちらではガレージの屋根部分になぜか車を乗せるスタイルを取っていて、しかも屋根部分は塩ビ素材で見た目にも頼りないほど薄い存在感で大丈夫なのかと懸念を表明。友人の回答は専門家に頼んだから大丈夫というものだったがそれを言い終わるか終わらないうちに屋根がゆっくり歪曲していって車がボンと下に落下。現実でもやったことがないほど腹が捩れるほど笑い、床をバンバン叩いて笑いのめしたとのこと。現実でもそれぐらい笑いたいものだというのは置いておいて、やっぱりそれだけ強烈に笑える体験というのはたとえ夢でも羨ましいもので、実際それを思い出しながらとても幸福そうだった。常軌を逸したほどの笑いがこみ上げるときというのはやっぱり幸福なんだろう。
午前十時からみた映画はジョン・カサヴェテスの『ラブストリームス』という作品だった。こちらに登場するサラは「愛とは途切れない流れ」を座右の銘としている妙齢のブロンド女。精神的にショックなことが起こると身体的には横になるという癖を持っていて、そのことで医者にもかかっている。その弟的存在のロバートが主人公なのだが、彼は今でいうところのポリアモリー。ポリアモリーという言葉がなくても彼は自分の性質を理解したうえで一秒も休まずに女性たちと関係しようとして、実際起きているときにも寝ているときにもほとんどつねに誰かと関係している。「愛とは途切れない流れ」というのを実地でいっているようにみえるが、姉弟でその解釈はちがう。ただ両者とも強い力を持っていてそれを持て余し気味。その力の余勢から女はドラマチックな夢やロマン主義的な夢を見る。刹那的で支離滅裂な行動にも出る。男は一見自己統制がきいているようだが、メチャクチャになるまで飲むことが常態化している。時代のせいか粗野にみえるがどうしても繊細さを拭い去れず、ひとつひとつの動作が磊落なようで洗練されている。とくに心付けをするときなど、カメラがそれを直接映さないというのもあるが、これ以上は不可能というぐらいいかにもさりげなく、気まずさとはまったく無縁。だからあるシーン、突然タクシーの車内で二十八ドルを支払う場面が映されると、支払うというアクションが粒立ち、それだけで物悲しさを呼び込んでいた。そういう物語の進捗とは直接関係ない、なにかの動作をするシーンに見るべきものが多い映画だった。サラが唐突にボウリング場に出かけていって、店員にとっては意味不明の自分の事情をひとしきり話し切ったあと、向こうの言い分(貸靴のコーナーはあちらです云々)には一切耳を貸さず、ヒールを脱いで見事にボウルを投げるシーンなどは、ボウリングが登場する映画の中でもマーカーで印をつけないといけない部類に属する。
サラが完全に自分自身に固有の望みを持っていて、それに比べれば「創造性」などは単なる金稼ぎ遊びのための手段と考えているのがはっきりわかるところなども良い。それに対するロバートの意見ははっきりしないが、少なくともサラの意見に反対するのではなく、まるっきりそのまま受け入れているようにも見える。小説を書くというのは女性といっしょに過ごすための手段にすぎないと言ってもおかしくはない。内面というもの、内心でどう考えているかというところに頓着せず、すべてを外面に出していくスタイルというのはある年代のアメリカ人的なものだと思うが、それが生活にとって良いか悪いかはおいても、やっぱり映画で見る分には楽しいものだ。ウディ・アレンのようにメガネをかけてぐちぐち言っている場合でも、それを口に出すとやっぱり面白くて笑える。内奥に秘めた思いというのが一番つまらないものなのだが、自分自身のやり方を選べと言われたらついそれを指さしたりしてしまう気がする。映画ではないからそれでいいんだと思うが、それを言うなら、こういう映画を見るとき、そんなふうにすべてをあけすけにして話し尽くすというのはありえないといって却下するのではなく、映画なのだからそれでいいんだと計算を働かせたうえで見るのがいい。そのうえで自分だったらどう考えるかというのをもとにして、ものすごく行動したり支離滅裂な行動をする人物を眺めていると、それだけで川の流れに興味惹かれるように興味惹かれて面白く感じられるものだと思う。
ふたりの男女について、ヘンテコだし遠くにいる人物のように感じたとしても、それと同時に彼らを「近く」にも感じないかぎり、この映画は動物園で動物を見ているような面白さしかない。むしろその要素もあるからたとえ近くに感じられないとしても見るべきところのある面白い映画だというべきだろうか。ポニーも出てくるし。しかも二頭同時に。
映画が終わったあと、ダイエーでカツ丼を買ってそのまま家に帰る。昼飯後、二時間近く昼寝をしてからしばらく無為に時間をすごす。シャワーを浴びてスタバに出かけるのが十八時半すぎ。wrpd runnerをおろした。LUUPがなんどでも六〇分無料のクーポンをやっているので歩いて八分の道をLUUPで移動する。スタバでは日記を書く。これから本を読む。