20240405

日記341

ちょうど目線パーク

2024/04/04 昨日
図書館で本を読んでいるとタリーズ時代の友人から着信がある。外に出て近況などの話を少しする。その後図書館を引き上げて日比谷駅まで移動。駅でまた話をしてBerealをやろうという話とuekaramesen_streetのフォローたのむというお願いをする。てっきり断られるかと思っていたらあっさりフォローしてくれた。こういうときに意外と断らずに素直にお願いを聞いてくれるという、らしくないんだからしいんだかわからない年下・後輩ムーブを決めてくる。というか前からそうだったか。もうひとりのやんちゃボーイのほうがきっぱり断る系の動きをするからその印象に引きずられて同じフォルダに入れてしまっている。彼らふたりは顔かたちこそあまり似ていないものの呼称が似ていることもあって兄弟のように自分からは見える。七月から職場が変わるらしく、六月には有休取得で空き時間があるため東京に遊びに来るかもしれないという話だった。東京で遊べるのが楽しみだ。こうやってちょくちょく連絡をくれる友人がいるのは嬉しい。そういえばトイレに一円玉が落ちていてそのときに名曲『1円拾った』のメロディが再生されたという話をしていた。それがきっかけで思い出してくれるのはまさに望外の喜びだ。作ったときにはこんなに良い効果があるものとは想像していなかった(売れるんじゃないかという期待はあった)。彼らとのバイト生活は異常に楽しくて、B面の『楽しいことは逃げていく』という曲もすぐに書けて、金字かどうかはわからないが一時代を記念する塔を打ち立てられていたことに満足をおぼえる。今ここからも見えるというのが自分なりの灯台のようでなんともたのもしい。
ちょうどの電車に乗れたので表参道から同居人が乗り合わせてそのまま一緒に帰宅する。帰ったら二十二時過ぎになっていたのでそのまま寝る準備をしてねむる。朝が早いとこのあたりに無駄が生じないのでこのルーチンが定着すればだいぶつよい。

2024/04/05 今日
七時に起床することにも早や慣れた。雨の予報だったのでスニーカーを履かず、テクシーリュクスで出勤。日和っているわけではないので勘違いしてくれるなという気持ちを前面に出して出社する。今日も動画研修かと思っていたら、予定ではそうだったのだが、急遽打ち合わせに参加せよとのことでわけもわからぬなか打ち合わせに参加。そのままベテランさんのありがたい個人開催説明会を受けさせてもらえた。愛嬌のある人で、ちょこちょこ昔の大変だった話がはさまれるも、研修で学んでいることからのこのチームでの例外対応を中心にためになる話を聞かせてもらえた。何より愛嬌があるのがだいぶ良い。新入りの自分がはやく馴染めるように気を使ってくれているのがわかって嬉しかった。もともと急遽の打ち合わせに声をかけてくれた人も二月に入ったばかりらしく、年齢もそう離れていないと思うし仲良くなれたらいいな。
すぐ帰りたいとなる雰囲気の職場ではなく、むしろぼーっとしてから、あるいは誰かに話しかけてから帰るぐらいがちょうど良さそうな良い雰囲気の職場のように感じられるが、1.まだ話しかける相手がいないこと。2.定時ですぐ帰るのはポリシーであること。というふたつの理由から心を鬼にして退勤した。
そばを食ってから図書館に移動。『数学する精神』読了。数学というイメージで理解するしかないものについて、べつのイメージで喩えてくれるような本。イメージ同士のつながりを感じられると十楽しいのだろうが、数学の方はちょっとわからないし、もう一方のイメージの方も片方に数学があることによるこちら側の姿勢の問題でいつもとは勝手が違い「わかるー」とはいえない(四ぐらいはわかっているつもり)ので、いつにもましてふわふわする感じだ。漱石がの猫が出てきたのはやっぱり嬉しい。それから山崎正和の影を感じて、またすこし懐かしくなった。『演技する精神』や『世界文明史の試み』での〈「する」身体〉からの、言葉の上での直接的な符号からにすぎないが、連想したものは連想したものなので仕方がない。
正しさにも二種あるという考え方は、べつの場所でも使えそうな考え方だと思った。たしかテオリアとオートス(読み直したらオーパスだった)。すべてがオーパスではないのかという気がしないでもない。テオリアは宇宙人からしても正しいと考えると思われる正しさのことだというが、テオリア度を強めれば強めるほど(自明の度合いを高めるほど)、そのような宇宙人の仮定のほうが無理になるような気がする。程度の低いというか自分の見える範囲でしか動かさないレトリックだが、言おうと思ったらそういうことを言えるので言った。
あとは人間の数学は見えることを前提とした数学世界になっているというのも面白かった。すぐれた視覚表現で数学の解説をしてくれる3blue1brownの動画シリーズは、この数学世界観に則ったというか同じ直線上にある試みなんだという気がした。直接つながりがないところにつながりを見いだすというのは、パズルがバチッとはまるのとは違うことだと思うが、自分のなかでは同じかそれ以上の快感がある。比喩表現の表現元ではなく、本当のパズルのほうしかわからないから比べるべくもないわけだが。
金属バットがベジ郎という二郎系野菜炒め店のことを褒めていたので行ってみたくなった。回り道になるけど渋谷に寄って帰るかもしれない。
そういえば仕事中にぼーっと下のようなことを考えた。
人には楽しいというだけの理由でやっていることがいろいろあると思うが、それをやめてみようとしてみると良い。まず楽しいだけの理由でやっていることのリストアップをしてみるとその量に驚くかもしれない。そしてその大半はやめるのが難しいと感じられるだろうと思うが、やめようとして暫定的にやめてみれば半分ぐらいはそのままやめられるものだ。わざわざ生活上から楽しいことを減らしてどうするのだと思うかもしれないが、そうやって空いた容量には新たな楽しいことが入る余地が生まれる。それは周囲を見渡して何か楽しいことがないかと探すフェーズに入るということだ。世の中にはたくさんの楽しいことがあるから、そのなかから自分にとってとくに楽しいものを見つけることが大事だ。楽しいと思ってやっていることのサイクルを早めることで特別楽しいことを発見する効率が上がる。人はもともと「飽きる」というかたちで意図せずそのサイクルを回しているのだが、月一回のペースで楽しいことの棚卸をすることで、そのサイクルを早めることができる。しかし何も効率のためだけに言うのではない。
飽きたといって消極的に楽しいことを終わらせるのではなく、楽しいことがまだ楽しいうちに自らそれをやめていくのだ。いわば積極的に楽しいことをパージしていく。そうするとやがて、何度棚卸の機会を迎えても一向にやめようと思わない、楽しいことのコア部分が浮かび上がって、自分自身にも明らかになる。楽しいだけではない「大事な楽しいこと」を見つけられるのが、楽しいだけの理由でやっていることをやめてみるという試みの良い効果だ。楽しいことを探す機会を増やすほうがいいのは間違いない。それに一度手放してもべつのより良い機会でまた出会い直すこともできるはずだ。

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