20240404

日記340

春雨でもあり夜雨でもある

2024/04/03 昨日
スタバを出たあとユニクロに行ってオンラインで買った商品を受け取る。帰宅してから寝るまですこし時間があったので映像の世紀を見る。一九六八年と一九八九年の回。「一九八九年は一九六八年の続編である」というセリフがバチッと決まっていた。あとはラジオで非暴力での抵抗を呼びかけたチェコの文人ハヴェルが印象的だった。

2024/04/04 今日
今日は曇りだったのでスニーカーで出社した。霞が関から虎ノ門まで歩くあいだ、スーツでスニーカーを履いている男はひとりもいなかった。マンハッタンと並んだときにこれではさすがにだいぶ遅れを取っている。ひとり気を吐いていこう。
初日にチーム向けに挨拶をして以来、今日はグループ向けに挨拶をした。それ以外は研修動画を見て過ごす。
自分にとっては新しい登場人物になる四月一日からの同僚や先輩連の顔を見ると、これまでどこかのタイミングで見たことのある顔ばかりだという気がする。こういう顔でこういう雰囲気の人、どこでか思い出せないもののどこかで見聞きして知っている。登場人物に既視感がある。
昔といっても東京に出てきてからのことだが、初めて会った人に「あなたによく似た人い会ったことがある。いや、どこかで会いませんでしたか」と言われたことがある。相手が同年代の異性だったりすれば何じゃそれと思いながらもすこしテンションが上がったかもしれないが、年下の同性に言われたものだからテンションは上がらず、自分にはめずらしくちょっと失礼やなと思ってしまった。そのときにも思ったことだが、自分のことを主人公と考えて人生を物語だと自然に考えていてしかもそのビジョンを他人にも振りかざせる態度が不遜だと思ったのだった。もちろん自分というのがこの私ということであればそういうふうに思うのはまったく自然なことだし、彼にとっての自分は彼自身のことなのだろうからこの立ち位置から彼を指して不遜だというのは見当違いだとも思うのだが、それでもこの私からすれば彼のことを不遜な平民がおると顔をしかめるのもまたまったくもって自然なことだ。この立ち位置から見て玉座はひとつしかないわけで、だとしたら座るのは僕ということになる。そういう思考で、登場人物がまるで容量不足からくるモブキャラの使い回しのように被って見えるという体験をしたとき、そこでおもしろいで済まず、かつて無礼を働かれた記憶が浮かび上がってくるのが不愉快だった。しかもそのことに考え至った二回ともで、顔も名前も思い出せないそいつの薄暗くグレーアウトに塗り潰されたニタリ笑顔が思い起こされたし、なんだったらこれを書くうちにも思い起こされ、しかも完全には思い出せないもやもやに後押しされてやり場のないいらいらが募った。
仕事後にちょっと歩いて千代田区の図書館にくる。都市生活者のなかでも仕事帰りにこの図書館に立ち寄れるのはごく限られた一部の成功者だけの特権のように思える。皆読書したり視覚の勉強をしていたり、なかには仕事をしている人もいる。その全員が大きな音を立てたりしないし静かにルールとマナーを守って過ごしている。良い図書館だ。
『暴力の人類史』を読む。日記を書く。『戦争と平和』を読む。戦争と平和には豊富にユーモアがある。こんなに可笑しい箇所があるなんて実際に読む前には想像もできなかった。最初はこの長編をもとにしてピンチョンは独自の味付けとしてユーモアを物語に取り入れたんだろうと思っていたが、この長編のユーモアも含めたすべてをもとにして、自分の生きた時代に当てはめただけのような気がしてきた。種類はちがうが同質のユーモアがある。人間の出す一番良い音を使って奏でる音楽のような。暴力の人類史を読んだあとでこういう言い回しをするのはいらぬ不穏さを呼び込んでよくないが、それでもそういう音が鳴っているのを感じるしそれをひとまとまりの作品に感じられる以上、音楽というのがまっとうな言葉遣いだと思われる。第四部の冒頭がこれだ。

聖書の伝説は、働かないこと――無為が、堕落前の最初の人間の至福の条件であった、と語っている。無為を愛する気持は堕落した人間にもそのままのこったが、罰がたえず人間の上に重くのしかかっている。それは単にわれわれが額に汗して自分のパンを得なければならぬからではなく、自分の精神的特性によってわれわれは何もせずに、しかも心安らかでいることはできないからである。何もせずにいることの責めは負わねばならぬぞ、とひそかな声がささやきかけるのだ。何もせずに、しかも自分は世に益し、自分の義務を果たしているのだと感じられるような状態を、もし人間が見いだすことができたとしたら、彼は原始的な至福の一面を見いだしたことになろう。そして義務としての、だれからも非難されることのない無為のこのような状態を享受しているひとつの階級がある――それは軍人階級である。この義務としての、だれからも非難されることのない無為にこそ、これまでもそうであったし、これからも軍隊勤務最大の魅力があるのである。


進歩的というよりは現代のパースペクティブに合致するようだ。ひとつ心がけることがあるとすれば 、軍隊勤務をしないでこういった無為を享受できるように個人は当人の精神的特性を醸成しなければならないし、そこにこそ現代人特有の、つまりこれが書かれた時代にはまだ存在しないはずの義務があるのだといえる。

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