20240421

カジュアルダウンとドレスアップ【文体1】

よく言われる「文体」について自分自身あまり納得できていないので、できるだけエレメンタルなところから自分で考え始めることにした。これは自分の小説において文章を使うにあたって、「文体」を避けて通れないものとしてある意味観念した結果である。

文体について考えるにあたってまず比較衡量に使おうと思うのがファッションだ。
1.被服文化について一定の興味があること。2.自分で選ぶことができ、かつ外部に向けて見せるという目的に共通点があること。思いつく理由は以上のふたつだ。
そもそも文体と結びつけて考えようと思いついたのは、タイトルにもしているカジュアルダウンとドレスアップという論理だ。
カジュアルなものが下にあって、フォーマルなものが上にあるというのは、そのまま文章にも適応できる考え方のように思われる。権威的な文章が硬質なもので、より親身な文章になるとやわらかい印象を与えようとするというのは、ベーシックで広く浸透したイメージだろう。文章を書くとき、どの程度まできっちりさせて、どの程度までくだけた言葉遣いを選ぶかというのは、意識するしないにかかわらず書き手がコントロールしているものだ。誰が読むのか、どんなふうに見せたいのか、どの立場で書くのかというのを総合して適当な水準を設定している。
よく言われることで、実際に自分でも意識するのは、どの程度熟語を使うか(考えるor考慮する)。カタカナ語を使うか(コントロールするor制御する)。またそのなかで普段よく使われる単語を選ぶかあまり使わない単語を選ぶかのグラデーションもある。普段使う単語というのも、流行語のように時間によって左右される要素もあるし、口語表現と文章表現で若干のちがいがある。古い言葉遣いや熟語を使うことで文章を古風な顔立ちにしようとしながら、同時にカタカナ語をたくさん使うというのは、ちぐはぐな印象になって読むものを混乱させるかもしれない。しかし、両者は混在させられないというのでは必ずしもなく、なんとなくレベルを合わせることもできる。このあたりの合う合わないの感覚はファッションの感覚に近いものがあると思う。
ある程度この水準で行くというのを決めてから書き始めないと、まとまった文章として読むときに印象の定まらなさを感じさせてしまう。もちろん文章を書く以上、揺れを完全に無くすことはできない。むしろ一定の範囲の中で締めたりゆるめたりすることで、ある部分に特別の注意を引くよう印象付けたり、多彩で飽きさせない文章のダイナミズムにもつながっていくこともある。文体のリズムというのも言葉の強弱があってはじめて成立する考え方だ(文体のリズムについてはまた別の機会に考える)。
調和というのは基本的に決まった型からもたらされる。とくにフォーマル寄りであればあるほど、決まった型からの逸脱が不調和と見なされやすい。
一方、異化効果というのもある。ファッション用語ではハズしというが、あえてコンテキストにそぐわないパーツを導入するというやり方だ。これはファッションにおけるアキレス腱で、うまくやれば高い効果を得られる代わりに、間違ったときの影響も大きい。ハイリスク・ハイリターンの手法である。うまくやったときに得られる格好良さはほかのやり方では得られにくい。しかし全体の型とパーツの効果を熟知していないと単に格好悪くなってしまうだけだ。手法として何かを印象づけるというとき、結果的に格好良さとして受けとられるようにしなければならないというのは、文章においては必ずしもそうとはかぎらないものかもしれない。しかし、格好良さというものをもっとも広義にとらえたときに、それと重なるようでなければならないとは考えている。格好悪さや居心地の悪さ、不快感をも包摂した広い意味での格好良さを追求するというのは、外部に向けて見せるという要素がある以上は避けられない。
自分にとって、文章における「格好良い」というのは「賢い」という感覚にかなり近い。これはどんなファッションにおいても意図やビジョンが欠かせないという考え方と相似していると思う。賢いというのをもっとも広義にとらえたときに、そこと重なるようでなければファッションとは呼べない。文化である以上当たり前のことでもあるが、ファッションというのは何よりもまず知性的な営みである。それを直言するのは本来あまりお洒落なやり方ではないのだが、この文脈においては自然に思えるはずだし、自然に思えることというのはそれだけ行き届いたコントロール下にあるということの証明にもなる。技術的な要素をほとんど感じさせない人工物というのは、現今において、おそらく遠い将来に向けても、全制作者が目指すべき目標であり、そうあり続けるはずのものだ。われわれはその見通しに立って生活していくべきだし、制作もまたその見通しのもとに行われていってほしい。
上下の感覚について、カジュアルダウンと行ったりドレスアップというときの上下は、そのコンテキストにおける見方で、架構した目線だ。それを理解したうえで目的を達成しようというとき、上下の意味合いはおのずと暫定的なものになる。メタ化した上下の感覚を持っていなければ、カジュアルダウンとドレスアップという言葉を使うことはできないのだが、逆に言えばこの言葉を使うことで、ある視点を架構されたものと捉えるものの見方を獲得することができている。何かに入り込むにしても、反目するにしても、一旦メタ化してその後”あえて”入り込んでいくこと、”あえて”反目して見せることという手続きをとるべきなのだが、言葉を使うだけでそれが自動的に成され、事後的にメタ化を了承する構造になっている。悪意に取るとすればこれは明らかに罠の手法だが、当人はそれによって「格好良い」「賢い」方向に押し上げられることになるわけで、訴えを起こそうにも罪状を作れない。野蛮人が「おれは文明人ではなく野蛮人でいたかった!」と臍を噛んでももう遅い。誰かにそれを訴えようとするとすればそれは文明的行為として行われる以外にないわけで、彼が彼の不満を表出するためには暴力に訴えるという方法しか残されていない。こちらとしては「それは止めてほしい」とお願いするしかないわけだが、そのお願いが聞き届けられる可能性は十分高く、反対に聞き届けられない可能性はほとんどないはずだと考えてよいものだと思う。最広義の格好良いと最広義の賢いとが結び付けられたものの見方においてそのことは明らかだ。

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