20240430

日記362

ふたりのディスタンス

2024/04/29 昨日
十三時半過ぎにスタバを出て、下北周辺で昼飯を探す。丸亀製麺に行こうとしたら店外まで列ができていたので振り捨てて第二候補のドドドに向かうもこちらも店外まで行列。しぶしぶ丸亀製麺に戻るとさっきよりも若干列が伸びていた。屈辱感に耐えながら仕方なしに並んで冷たいかけうどんを食べる。いざ食べると安定しておいしいのが悔しいところ。
映画の時間まで余裕があったので一旦帰宅してだらだらしつつ『ダンジョン飯』を読む。十八時の回を見るためにふたたび出かける。渋谷まで。展示スペースに銀獅子賞のトロフィーが飾られていた。肝心の映画は鑑賞直後に「めっちゃ面白かった!」と言えるものではなかった。それでも見終わってからも考えることがたくさんあってめっちゃ興味深いということはいえる。
餃子を食べるためにセンター街の薄皮の店に行くも行列だったので諦めて下北沢に戻る。俺流餃子楼。まあまあおいしくてリーズナブルだが満席に近い状況だったこともありキッチンが大変そうでオーダーが通るのも遅かった。食べ終わった皿を下げるところだけは本当に素早いのでギャップが目立つ。なんだったらホールの人は暇そうだった。混んでいるときにはもう行かない。帰ってからわりと早めにねむる。

2024/04/30 今日
出勤日。朝、電車に間に合うためにちょっと走ったのに電車が遅延しているときのやるせなさを味わう。ぎりぎり雨は降っていなかったのでそれはよかった。出社すると社内はがらがら。決めていた読み物をすすめる。あとは小学校の時の友人から飲みにこれるかと急な誘いを受けたので行けたら行く(行く)と返事をする。昼ご飯は気になっていたぼっかけパスタの店に入って青じそトマトの大盛りを食べる。焼き立てのパスタと冷トマトのみじん切りとしそがいい具合にからまって美味しかった。横のタリーズに入り、昼休憩時間を使って日記を書く。オフィスにいる暇な時間に『悪は存在しない』について考えている。納得できないことをどうにかして自分自身に納得させようとするなかでいろいろなことを考えることになる。「これは、君の話になる――」というのはそういうことなんだろう。と、わかっていても心がざわざわする。
退勤後にふたたびタリーズにきてドリップコーヒーをもらう。トッピング別添えでアイスクリームをオーダーしたらワッフルコーンがついてきた。アイスをしゃくるところを見ていたらアイスは固いのでしゃくりとるのに力がいるのだが、完成しかけに勢い余ってアイスが下に落ちた。思わず天を仰ぐ店員の姿にかつての自分が重なって笑ってしまった。本日のコーヒーはたぶんエスプレッソロースト。抽出したてでおいしかった。バニラアイスにも合う。
悪は存在しないの感想を書くまえに、感想未然の感想を残しておきたい。まず山がきれいだと思った。ただし自然がきれいというのではなく、それもあるが、人が住む集落としての山がきれいだと思った。夜の山小屋から車二台が出ていくシーンのヘッドライト。ギザギザした光の輪がきれいだった。あとはポスターにもなっている羽根を拾うシーンにグッときた。すすきの背が高いあの映像には既視感がある。それから金髪の青年が行方不明になった女の子の名前を大声で呼びながら走るシーンがよかった。あの必死さ、となりで流れている水のきれいさとのコントラストにやられた。
巧はバランスを重視しているから、おそらくあの行動に釣り合う何かが見えているんだろう。しかしこちら側にはそれが見えないまま結果だけを突きつけられる感じになる。不満が残った。不条理にも近いが人のやったことだからそれともちがう。どちらかといえば不本意という感じだ。
公式サイトで予告編を見たら胸が苦しくなった。最初の一〇秒、完全なかたちの対話詩だ。

マツ!
 あれはカラマツ
赤いのがマツで
黒いのはカラマツ


20240429

日記361

種屋の軒先に並んで

2024/04/29 今日
九時に起き出してスクワットをする。その後カサヴェテスのレトロスペクティブを見に行く。『チャイニーズブッキーを殺した男』。今回の連休で見た三作はどれもよかったが、今作が一番楽しめた。「気楽になるのが幸福への道」という最後の言葉には説得力があったし、そうやって言い聞かせるところにどうしたって混ざる微量のシリアスさが、わずかに、だがたしかに幸福を遠ざけているところに物悲しさがあってよかった。とはいえそうなることを知っている男の口から漏れる述懐ではあるので、気楽さのロスについても最小限に抑えられている。しかし最小限だからこそかえってその存在感が大きくなるともいえるので何が良いのかわからない。
とにかく見栄を張ろうとする人間はカジノに行ってはいけないという教訓はあった。借金を返しきった”お祝い”と称して女たちを引き連れてカジノの店にでかけていき、ポーカーテーブルについてあっさり借金をこさえるのはまあコメディだが、単純に愚かな男の話だと思っていたそこから展開があって面白かった。主人公の男がいくら困ったことになっても見栄を張り続けるので、評価が底をついたあとじわじわ上がっていくことになった。いずれにしても男の愚かさを見て楽しむコメディではある。だけど尺の分だけ込み入った愚かさにまで到達していて見ごたえがあった。ふざけた伊達男のふざけたヒゲのメイクは観客を笑わせようとして顔の表面に書かれたものにすぎない。それはそれで可笑しいが、それが舞台の後半には汗で消えてしまい、くたびれた中年男の顔が浮き上がってくるというところに滑稽味がある。愚かな人間を演じる人間の愚かさの奥にもやっぱり愚かさがあるという愚かさの入れ子構造を鮮やかに写し撮っていた。あわれなブッキーの最期のセリフもよかった。あれしかないというほどシンプルだが、さりげないなかにも含蓄があった。

20240428

日記360


2024/04/28 今日
洗濯機を回してから映画を見に行く。カサベテスの『オープニング・ナイト』。その足でLUUPに乗って芦花公園近くの世田谷文学館へ。成城石井でミニパンアソートを買ってベンチに座って食べる。世田谷文学館では池澤夏樹の講演を聞く。
講演終わりには伊藤潤二展の物販の賑わいを尻目に世田谷文学館を飛び出す。芦花公園駅から新宿経由で赤羽へ。TCBの面々と合流して馬鹿祭りの後の祭りを雰囲気だけ楽しむ。夕方過ぎに文蔵に入って飲む。その後駅前のホットスポットに陣取って昔遊んだ恋愛シュミレーションゲームの話をしたり、フェミニズムについての話をする。
新宿経由で下北にもどる。

20240427

日記359

本の吹き抜け

2024/04/26 昨日
閉館時間まで図書館にいた。はじめて閉館時間を迎えたわけだが、蛍の光ではなく、聞き覚えのある明るい音楽が少しずつボリュームアップしていくという冴えたやり方をしていてどんなところにも工夫があるものだと感心した。席を立とうというより「動こう」という気になる。そして帰り際に「今日返却された本」のコーナーを見て面白そうな本を見つけたのでそのまま借りていく。『藤原道長の日常生活』という本。固有名詞次第ではライトノベルのタイトルでありそうな新書だ。藤原道長が、というより彼のあの歌が、あの歌を詠む人格が気になり、それを好きだと自覚するようになったのが二年ぐらい前なのだが、なんとなく望月がいいと思っているだけで具体的にそれ以上知ろうという動きがなかったなか、ようやく道長への道を歩き出したということになる。
帰りの電車は代々木上原まで座れたしスムーズだったが、小田急が遅れていてぎゅうぎゅうの電車に乗ることに。東北沢で降りて飲みながら歩いて帰ろうということになり、Reloadを抜けて歩いて帰る。7%の無糖氷結500とダイエーで補給した同4%の350でたのしい春の散歩になる。ミカン、ボーナストラックも通ったので新下北沢のプレイスをなぞることになった。なんでいちいちそんなことを書くのかわからないほどいつもやっていることなのだが、意外と散歩コースを記していないような気がしてちょっと書いてみた。
道長は身辺で起こったことを書き記していたということを新書で知る。『御堂関白記』。日記を書くということが限られた身分の人にしかできなかった時代のことではあるがやっぱり親近感をおぼえる。今日にしても有形の特権こそないものの、それをしようとする意欲や方向づけの面などで、無形の特権がある気がする。日記を書けるというのはそれだけ暇な時間を持てているということだ。そして有閑はいつの時代でも”いい身分”ということだ。
帰って何をするでもなくただただ夜ふかしをしてしまう。同居人の仕事のアイデアにいらぬ口を挟んだり、質問をかけたり。翌朝に映画を見に行く予定なのだから黙ってねむればいいのに失敗した。

2024/04/27 今日
九時に起きて十時からの映画を見るために出かける。同居人の「ゆめみた」通知があったので内容を確認すると、一、昔飼っていた猫のサラが近くに寄ってきたという夢。一、友人が家を自分で設計して作ったというので遊びにいく夢。こちらではガレージの屋根部分になぜか車を乗せるスタイルを取っていて、しかも屋根部分は塩ビ素材で見た目にも頼りないほど薄い存在感で大丈夫なのかと懸念を表明。友人の回答は専門家に頼んだから大丈夫というものだったがそれを言い終わるか終わらないうちに屋根がゆっくり歪曲していって車がボンと下に落下。現実でもやったことがないほど腹が捩れるほど笑い、床をバンバン叩いて笑いのめしたとのこと。現実でもそれぐらい笑いたいものだというのは置いておいて、やっぱりそれだけ強烈に笑える体験というのはたとえ夢でも羨ましいもので、実際それを思い出しながらとても幸福そうだった。常軌を逸したほどの笑いがこみ上げるときというのはやっぱり幸福なんだろう。
午前十時からみた映画はジョン・カサヴェテスの『ラブストリームス』という作品だった。こちらに登場するサラは「愛とは途切れない流れ」を座右の銘としている妙齢のブロンド女。精神的にショックなことが起こると身体的には横になるという癖を持っていて、そのことで医者にもかかっている。その弟的存在のロバートが主人公なのだが、彼は今でいうところのポリアモリー。ポリアモリーという言葉がなくても彼は自分の性質を理解したうえで一秒も休まずに女性たちと関係しようとして、実際起きているときにも寝ているときにもほとんどつねに誰かと関係している。「愛とは途切れない流れ」というのを実地でいっているようにみえるが、姉弟でその解釈はちがう。ただ両者とも強い力を持っていてそれを持て余し気味。その力の余勢から女はドラマチックな夢やロマン主義的な夢を見る。刹那的で支離滅裂な行動にも出る。男は一見自己統制がきいているようだが、メチャクチャになるまで飲むことが常態化している。時代のせいか粗野にみえるがどうしても繊細さを拭い去れず、ひとつひとつの動作が磊落なようで洗練されている。とくに心付けをするときなど、カメラがそれを直接映さないというのもあるが、これ以上は不可能というぐらいいかにもさりげなく、気まずさとはまったく無縁。だからあるシーン、突然タクシーの車内で二十八ドルを支払う場面が映されると、支払うというアクションが粒立ち、それだけで物悲しさを呼び込んでいた。そういう物語の進捗とは直接関係ない、なにかの動作をするシーンに見るべきものが多い映画だった。サラが唐突にボウリング場に出かけていって、店員にとっては意味不明の自分の事情をひとしきり話し切ったあと、向こうの言い分(貸靴のコーナーはあちらです云々)には一切耳を貸さず、ヒールを脱いで見事にボウルを投げるシーンなどは、ボウリングが登場する映画の中でもマーカーで印をつけないといけない部類に属する。
サラが完全に自分自身に固有の望みを持っていて、それに比べれば「創造性」などは単なる金稼ぎ遊びのための手段と考えているのがはっきりわかるところなども良い。それに対するロバートの意見ははっきりしないが、少なくともサラの意見に反対するのではなく、まるっきりそのまま受け入れているようにも見える。小説を書くというのは女性といっしょに過ごすための手段にすぎないと言ってもおかしくはない。内面というもの、内心でどう考えているかというところに頓着せず、すべてを外面に出していくスタイルというのはある年代のアメリカ人的なものだと思うが、それが生活にとって良いか悪いかはおいても、やっぱり映画で見る分には楽しいものだ。ウディ・アレンのようにメガネをかけてぐちぐち言っている場合でも、それを口に出すとやっぱり面白くて笑える。内奥に秘めた思いというのが一番つまらないものなのだが、自分自身のやり方を選べと言われたらついそれを指さしたりしてしまう気がする。映画ではないからそれでいいんだと思うが、それを言うなら、こういう映画を見るとき、そんなふうにすべてをあけすけにして話し尽くすというのはありえないといって却下するのではなく、映画なのだからそれでいいんだと計算を働かせたうえで見るのがいい。そのうえで自分だったらどう考えるかというのをもとにして、ものすごく行動したり支離滅裂な行動をする人物を眺めていると、それだけで川の流れに興味惹かれるように興味惹かれて面白く感じられるものだと思う。
ふたりの男女について、ヘンテコだし遠くにいる人物のように感じたとしても、それと同時に彼らを「近く」にも感じないかぎり、この映画は動物園で動物を見ているような面白さしかない。むしろその要素もあるからたとえ近くに感じられないとしても見るべきところのある面白い映画だというべきだろうか。ポニーも出てくるし。しかも二頭同時に。
映画が終わったあと、ダイエーでカツ丼を買ってそのまま家に帰る。昼飯後、二時間近く昼寝をしてからしばらく無為に時間をすごす。シャワーを浴びてスタバに出かけるのが十八時半すぎ。wrpd runnerをおろした。LUUPがなんどでも六〇分無料のクーポンをやっているので歩いて八分の道をLUUPで移動する。スタバでは日記を書く。これから本を読む。

20240426

オシップ・マンデリシュタームの『石/対話者について』

良い図書館があることは本当に良いことだ。良い図書館に行って過ごす時間には何ものにも代えがたい価値がある。本との出会いの場として機能するということひとつとっても、これ以上のバリエーションの豊富さは考えられないというほど豊かなラインナップを並べられる。本屋にはどうしても同年代の本という制約がある。
たとえば図書館でしか発見できない本というのは存在する。それは大型書店でしか、またはブックオフでしか発見できない本がそれとはべつにあるのと同じことで、図書館でしか見つからない本というのはたしかに存在する。それは本の経済的な流通とはべつの、もうすこし精神的なものとでも言いたいような、しかし実際のところ本は物質なので、たんに経済的な流れの中にない、あるいはそこからこぼれ落ちて取り残されたといってもいい本のことである。
アテンション・エコノミーという言葉を知った同じ日に、オシップ・マンデリシュタームという何回か繰り返して唱えでもしないかぎり覚えられない名前を知ることになった。
よく本を読んでいて、よほど文学に明るい人でないかぎり知らない名前だろう。それはよく本を読んで文学に明るいほうであると自認している自分が知らなかったことからそう思っているにすぎないのだが、とにかく、仕事帰りに寄ることが多くなった区立図書館の書架の中で、おしゃれな書店よろしく平置きリコメンドされていたことで手にとってみたのがきっかけだ。そのきっかけを与えてくれたことをありがたいと思うし、それは図書館でなければ実現されなかったろうと思って、良い図書館があることは本当に良いことだとあらためて認識することになった。
詩を読む気分ではなかったから詩のパートをまるまる飛ばし、まずはエッセイを立ち読みし始めた。タイトルにある「石」と「対話者について」という文言に注意を引かれ、最初は流し読みに近いかたちだったが、なぜか普段の読書でもあまりないほど書いてある内容がすらすらと入ってきた。いい詩を書く詩人の書くエッセイはだいたい面白い。面白いけれど、彼が詩人であるということからくるこちら側の反感、反感とまでいかずともある程度の逆風のなか読まれることになるのは避けられず、それなりに面白いもの、わりと良いことを言っている程度では「また詩人ちゃんが面白いこと言ってらあ」となってしりぞけられることが多い。また、そのときに「まあ、せっかくなので」と詩を読むとそれはそれで「エッセイではなく詩を書いてろ」となって終わり。
「石」なんていういかにもなタイトルで、しかも図書館に推されているのだから面白くないことはないだろうと逆風なのか追い風なのかわからない状態でたらたら読み始めた。
読んでいるうちに浮かんできた感想はほっとしたというものだった。自分は詩を書かなくてもいいんだと正式に認めることができたというか、詩作については免除されたと自分の中で思うことができたというのが大きかった。これだけもののわかった人がいて、すぐれた詩とそうではない詩についてのエッセイを書いているということは、その人の書いた詩がこの本の前半部分にたっぷりと遺されているということで、だったら詩を書く必要がなくなると思った。
ここという箇所を引用してもいいのだが、「対話者について」というそのエッセイは合計で三十三頁ほどの短い文章だから、それをするなら全文引用したほうがいいような気になる。
しかし、そう言って引用しないで済ませ、詩人の言ったことをただ示唆するにとどめ、とにかく深い感動を感動したのだということで終わらせたくはない。全文を読むことについてつよく勧奨したいが、ここでは一部を抜粋して、あなたが図書館に行ってこの本を借りるという正しい行動をするための役に立てたい。
文章を読んで感動した経験を持つ人は、心のどこかで、あるいは考え感じたりするどこかのタイミングで、「自ら詩を書くこと」について思いを及ぼすにちがいない。当然いつもそうしたことを考えているわけでもなければ、それを思った日がいつだったかを思い出せないほど昔にちらっと考えたことがある程度だったりもするだろう。それでも「自ら詩を書くこと」について思い及ぼした過去がまったく無くなってしまったわけではない。筆を舐めたり折ったりした経験のないほとんどの人にとって、それについては保留したまま、今この地点まで行き着いたというのが実態なのではないだろうか。
エッセイのタイトルは「対話者について」だ。

そう、もしわたしが誰でもよい誰かと話しているとしたら、わたしはその人を知らず、知ろうとは望まないし、望むことはできない。対話を欠いた抒情詩は存在しない。わたしたちを対話者の抱擁へと押しやる唯一のものは、自分自身の言葉に驚きたい、自分自身の言葉の独創性と意外さにうっとりしたいという願いである。この論理は不動だ。

別離の距離は愛しい人の顔を消す。そのとき初めて、その顔をありありと目の前にしていたときは言えなかった大切なことを、言いたいという願いがわたしに生じる。

また、これらの文章に続いて「心を砕かねばならないのはむしろ距離についてである」とも書かれてあるが、まさにその通りである。

あとはストレートな怒りの表現のなかに、同意しないではいられない意見がある。捉えようによってはファナティックなのだが、それについては目をつむるということを読者にあえてさせるような箇所だ。



ここで言われている「詩的正当性」という概念にはポエティック・ジャスティスという言葉を当てたい。意味がすこしずれてしまうかもしれないが構わないということにして、ポエティック・ジャスティスという歌の歌詞に使われている言葉を、『対話者について』で言われる詩的正当性の意味でとらえたい。自分が良いと思う歌や詩には詩的正当性があるし、自分は詩を書かない代わりに、その正当性について自覚しつつ、機をみてはさらっと押し広げていきたい。

日記358

木漏れ日読書(たぶんKindle)

2024/04/25 昨日
図書館をあとにするとき、館内をぐるっと回ってみてオシップ・マンデリシュタームを見つけた。即図書カードを作って貸出の手続きをする。電車に乗っているあいだも、駅についてからもこの僥倖のことを考え、駅前の半オブジェ半ベンチの「石」にちょっとのあいだ腰掛けて詩を読んでから家に帰る。見つけたという感動と、書かれた詩によってしばらく茫然自失のようになって鼻水も飛び出た。
帰宅してからはヤクルト1000を飲んで、同居人のRAGEをサンドバックのように受けたり、マタドールのように避けたりしてから、なるべく早くねむる。

2024/04/26 今日
出社して午前中から昨日と同じ読み物(総務省の資料)をしようと思ったのだが仕事の確認を済ませるのが先だと思い断念する。昼休みに唐揚げ弁当を買って食べたが唐揚げの油がしたのご飯に染み込んでご飯がテラテラになっていて胸が悪くなった。今度からべつの店で弁当を買おう。
休憩中にビルの探索などもやってみた。さすが良い店が多い。引継ぎしてくれた子が今日で最終日だった。良い時代が終わって嵐が始まるのかもしれない。しかしまぎれもなく良い時代だった。2,3週間だがだいぶお世話になった。前の職場の1年分はお世話になった感がある。感謝に堪えないし、感謝に堪えないことを本人にも伝えた。自分も誰かに引継ぎするときにはあんなふうに明るく溌剌と、それは無理でも丁寧かつ親切に引き継ぎしようと思った。
それでも定時退社。吉野家で夕食を済ませ図書館に。予約していなかったので目当てのイベントには行かず、『ビルマの歴史』『戦争と平和』を読む。オシップ・マンデリシュタームについての記事と日記を書く。

20240425

日記357

直線は溶けてもカーブにはならない

2024/04/24 昨日
スタバで日記を書いたあと、餃子を食べに行くお誘いがある。雨の中、駅前で集合してなぜか二本の傘を持っていたのでそのうちの骨組みが白いほうのビニール傘を借り受けてすこし前から目をつけていた俺流餃子楼にいく。雨のせいか貸し切り状態で瓶ビールとバリエーションに富んだ餃子を四つずつ注文する。味もよく雰囲気もわるくなかったし、鳥貴族ぐらい安く済んだので今後も使う機会が増えそうだ。潰れなければいいね、と森閑とした店内に失礼かつ儚い声が響き渡った。店の戸口の前では「餃子どうですかー」と雨降る店外に向けて代わる代わる呼び込みをする熱心な店員たちがいた。そんなことをされて入ってくる客なんかいないだろうと思っていたら、こちらの会計と入れ替わるかたちで若い女性客がひとり入店した。雨脚はすこし弱まったものの傘は手放せない天気だったのでおかわりのお酒をコンビニで注文することをせず、まっすぐ家に帰った。
帰宅後、『滅相もない』をみる。二話目にして穴に入らない人物が出てきて、しかもその動機が不明なこともあって逆に興味惹かれる感じになった。少なくともテレビドラマ的ではないテレビドラマだ。今にも「仲間の数と配置は」と言い出しそうなナレーターの声もいい効果をあげている。
機械のように規則正しい睡眠時間をキープするBがねむるまえにベッドに入り、Bより早くねむる。翌日が晴れなので、早朝に洗濯機をまわすねらい。

2024/04/25 今日
前夜に予約して回りきった洗濯機、さらにおかわりで回した洗濯機の洗濯物を干す。そのうえ筋肉体操のスクワットをこなしたうえでシャワー。朝食はプロテイン。通勤前にそれだけこなし、電車の中では『物語ビルマの歴史』を読む。電車が遅延したにもかかわらず始業二〇分前には席に座る。やっていることだけ見るとなんだかスーパーエリートだ。
仕事時間になったらすぐメールを返して、振られた事務作業を済ませる。その後は情報産業について総務省がまとめた資料を読む。その中でデジタルツインの概念と国土交通省がかんでいる「PLATEAU」というサービスの存在を知り、それに関連する記事を夢中で読んでいるうちに昼休みになる。
↑令和5年 情報通信に関する現状報告の概要
よくまとまっていて能力の高さが表れている。若干立場による表現が見られるところもあり、そもそも政府刊行物ではあるので眉に唾するのは欠かせないが、それでも読み物として面白い。
午後からは仕事の引継ぎを受ける。あいだに仕事をはさんで人と和やかに話すのは、話す必然性があることで気楽でもあり面白い。こちらが年上だから丁寧に接してくれるというのもある。仕事でのコミュニケーションにおけるこれまでに被ってきたマイナス面がきれいに漂白された結果だと思う。
引継ぎ以外の時間は総務省の資料を読み、そうこうするうちに定時になる。
業種・職種が通信事業なので、それに関する面白い読み物さえ見つけられれば出社中にやることがある状態になる。一般教養的な知識として持っていたほうがいい内容だったり、すこし体系的に学習を進められたり、ルックアップできて視野が広がるため、見識の獲得として考えればかなり有意義に過ごせるので出社ベースも環境次第ではわるくないと思っている。
退勤後、富士そばでカツ丼を食べる。セットにしないことで付いてくるあのスープをちょうど飲んだところで、ノイズキャンセリングイヤホンで聞いていたラジオから、ランジャタイ国崎が「富士そばのスープが一番美味かった」という思い出の話をしてきて適時性が高かった。二日三日ぐらいご飯を食べてなかったときに母親から送られてきた五千円で食べたカツ丼でまずスープに口をつけたからその思い出補正があると言っていたが、さらっと二日三日食べないことがあるという話をしていてそこに迫力を感じた。話のテンションとしてそういうことも普通にあるでしょという感じで粒立てていないのが恐ろしかった。芸人はやっぱりすごい。東京にきてから二日三日食べないというのは生活実験以外ではしたことがない。
図書館に来て『ビルマの歴史』を読む。『戦争と平和』も久しぶりに2チャプターだけ読む。日記を書く。

20240424

日記356

露骨に肋骨

2024/04/23 今日
よく眠れた。朝から三分間だけだけスクワットをする。通勤の技をひとつ編み出す。早めの電車に乗ることが必須なので早めの電車に乗った。表参道まで千代田線で行くのは同じ。乗り換え時に渋谷方面に乗って、渋谷で折り返す方法。これだと座れるので車内で比較にならないほど楽チンだ。
意外にもいつの間にか仕事が回ってきている。それをこなしつつ、セキュリティ商品の勉強会に参加。昼休みにはおにぎりとプロテイン飲料。『のりものづくし』を読み終える。朝にも午後の紅茶無糖ミルクティーを飲み、午後にも同じ商品をリピートしたらお腹がゆるくなるまで行かないがガスが溜まる感じになって面倒なことになった。定時で退勤。この日は雨が降っていたので図書館は断念して濡れない方法で下北まで帰る。牛乳の飲み過ぎということで、普段のオーダーでは必ずミルクを入れてもらうドリップコーヒーをそのままで注文する。いつもの店員さんだったら「おやおや?」と思ってひょっとすると話しかけてくれるチャンスだったのだが、いつもの店員さんではない人がレジに立っていたのでとくに何もなくそのままTOKYOローストを受け取る。
『のりものづくし』の最終章は南極訪問の旅行記兼日記だった。池澤夏樹の日記は読んでいられる。まず形式がしっかりある。そして、日記を書いている人が日記に書かれてある経験をしたとき、何に注目してそこにいるのかというのが具体的に見えてくる。自分も日記を書いていてかれこれ二年以上になるのではっきりわかるのだが、公開する日記である以上、トピックを隠すというか、経験としてありつつも書かないことがある。池澤の日記にも当然それがあるはずなのだが、読んでいてもそれを感じさせない。書くと決めて書くところを丁寧に書いているからなのか。なんとなくだが、書く前に「書くこと=経験」を思い出して再度それを味わってから書くということをしているような気がする。自分はこれを書くときには思い出してから書くというよりは思い出しながら書くというのが近い。書いたあと、次の出来事思い出すことに注意力を使い切って、そのとき書いて思い出していることを流してしまっている感がある。これからはこのやり方を改善して、
1.経験する、2.Macの前に座って経験したことを思い出す、3.思い出した経験のなかに両足を入れた状態で経験のことを書き出す、
というやり方で日記を書くのが良いかもしれないと思った。
『のりものづくし』で共感したのは、都会は歩くのに一番ちょうどいいフィールドだと書いている回だった。平坦で道が整備されているので顔を上げて歩くことができる、そして顔を上げて歩いていると角を曲がった先などにだいたい異性がいて、その人とすれ違うことができる、という主張をしていて、これを読んだときには思わず我が意を得たりと膝を打った。たしか昨夜ねむる前にデスクで読んだときだった。あとは虎ノ門に向かう銀座線の通勤電車の中で読んだペンギンの時間感覚について想像するパートにも、共感をおぼえた。昔出町柳で鴨川の流れの中に棹さすようにして立っているサギらしき鳥がいたのだが、自分がその鳥を見つけてから眺めているあいだ、一切動かずじっとそこに佇んでいた。そのとき、川の流れに棹さしているということもあって時間が止まっているような感覚に陥った。時間が止まっているといっても本当に止まっているのではなく、鳥にとっての主観時間とでもいうものが停止しているのではないかということを思わされた。ふたたび活動状態に戻って歩いたり魚を見つけたり仲間の声に呼ばれて飛び立とうとしたときに時間が動き出すのではないかということを、その鳥の主観に立った気になって思ったのだった。だいたいそれと同じようなことを南極のペンギンに思ったのだということがエッセーには書いてあった。

20240423

日記355

光が漏れ出る

2024/04/23 今日
よく眠れた。同居人と同じタイミングでの通勤になる。表参道で降りていったが自分は霞が関まで行く。
研修を受けてミーティングに出て引継ぎを受けていたらあっという間に定時になる。荷物の受取りがあったので即帰宅する。受取については首尾よく行ってwrpd runnerが手に入った。しかし机の前に座ろうと思ったがぼーっと過ごしてしまう。ようやく二十一時過ぎに座ったが疲れがあるのか捗々しくいかない。日記を書くのもやっとという体たらく。できれば『なみのこえ』の感想や『暴力の人類史』の感想を書こうと思っていたのだが、たぶんやらないで済ませると思う。
感想文のためのメモ書きを残すと、暴力の人類史では自分が持っている感覚が理論立てて書かれているという印象を持った。自然回帰や田舎は良いという言説については、それをいう人のことを嘘つきとは言わないが全然賛成できない。昔は良かった系の言説についてもこれまではたんに甘いこと言っているなという印象だったのが、歴史の振り返りによって補強されたと思った。ただ、現代では「そんなことを考えもしない」というアンモラルな人への当たりが昔は当然だったというときに、それについて牧歌的な(この本を読んだ以上イカれたというのが正しいと思われるたぐいの)郷愁を持つことはないのだが、アンモラルではない方向(未来方向)にも「そんなことを考えもしない」という際立った考え方があり、ある種の読書体験によってそれに触れる機会を与えられることを知っている。そういった際立った体験というのとは異なる次元にある、いってみれば「常識についての話」だという気がした。啓蒙する意図に沿ってよく書けていると思うし、常識をアップデートすることの意義も浅からずあるとは思うが、当たり前のことが書かれているという印象が中心にある。突飛なことを言おうとしているわけではなく、事実が突飛なものに聞こえるはずだというのが意図として含まれているので、現今の風潮に棹さす形で議論がすすんでいる。それが面白さでもあり、面白くないところでもあった。
啓蒙する側というのは人々が啓蒙されていないという前提に立って物を言うことになるので、自分自身の仕事によって、その仕事がうまくいけばうまくいくほど、つまらないことを言っているという感想を持たれることになる運命(さだめ)にある。面白くなかったという部分的な感想についても、あまりにもスムーズに論が進んでいくことで、その感想を持った読者自身に自分が啓蒙されたと気づく暇も与えないまま、いつの間にか啓蒙を済ませていることの証だといえるのかもしれない。すばらしい仕事というのはその功績が目立たないものなのだとすれば、この本は、長い目で見たときにはとくに、それに該当するといってもいいと思った。
池澤夏樹の『のりものづくし』面白い。乗り物に乗るというテーマのエッセイなのだが、短文でポンポン進んでいくリズムが気持ちいい。書くべきことがクリアであればあるほど変にこだわらず肩肘張らずに短い文章をつないでいけるのかもしれない。長ったらしい文章を書くと、まさにその反対の印象を持たれることになり、書くべきことが定まっていないからふらふら蛇行すると思われるんだろうというようなことを思った。その印象はわりとしっかり当たっていると思うが、長い文章を書く理由はそれだけではないだろう。どういうねらいなのかは置いておいても一文を長くしたいという奇妙な願望があるのはたしかだ。なんでそうしたいのかはわからない。有り体に言えば煙に巻いたりごまかしたいという願望にも近い気がするが、それにしてもそれだけではないような気もする。ねらいといってとくに思いつかず、願望についても消極的なものしか思いつかないということであれば、わざわざ面倒な方向に進もうとしないで、できるだけ短文をポンポンつないでいくように心がけるのが良いのかもしれない。少なくとも試してみる価値はある。

20240422

日記354

広がり

2024/04/21 昨日
ビオスの前で同居人と合流したあと、バビシャーに昼ご飯を食べに行く。その後新宿経由で池袋に行く。最近池袋ばっかり行っている気がする。ビックカメラの本店?でホームシアターシステムのスピーカーの体験をする。本店にしては控えめな店舗サイズだったが、テレビのフロアには余っているんじゃないかというぐらい店員がいた。
新宿経由で経堂にいく。目当ては駅前の経堂図書館だったが、同居人がボウリング場があるのを目ざとく発見し、1ゲームだけ玉を転がしてあそぶ。その後図書館で大きな文字で読む大判本の『のりものづくし』を発見する。翌週に大江健三郎についての講演を聞きに行く予定なので予習がてら手にとって読み始めると面白いのでそのまま借りて帰った。この分だと講演もたのしみだ。生の池澤夏樹に会えるだけでも嬉しいのに大江健三郎について喋ってくれるのはありがたい。
図書館を出たのが閉館時間の二十時。雨が降っていたので経堂のかつやでカツ丼竹を食べる。カツ丼(竹)というイントネーションにしてほしいという注文を受けたが、かつやではカツ丼松だしカツ丼竹というイントネーションにすることは譲れない。それだとそういう竹みたいじゃないかと言われた。然り、そういう竹・そういう松だと思ってほしい。
帰宅後、シャワーに入ってねむる準備を済ませる。二十二時半にはねむれたのだが、あとすこしだから読み終わってしまうかと『暴力の人類史』を読み終える。予想できたことだったが読了の勢いがついてしまったことで目が冴えて結局二十四時半ごろまで寝付けず。迂闊にも翌日の寝不足が確定してしまった。

2024/04/22 今日
雨が降っていたので一番濡れない経路として表参道での銀座線乗り換えをえらぶ。あまりにもひどい押し込まれように怯んで二本電車を見送ったが結局ぎゅうぎゅうの思いをすることになった。雨に濡れるほうがまだましという感覚になっている。しかし夏の暑さを考えたときにどうするかはちょうど悩みどころだ。
一日ずっと研修だった。昼飯はお誘いいただき虎ノ門ヒルズのつるりという蕎麦屋につれていってもらう。すごくきれいなオフィスビルのお洒落な店が並ぶエリアなのでTHE★昼食エンターテインメントという感じがして値段相応の楽しみがあった。富士そばだったら三食分でも食べきれない量のそばを食える。
研修中に暇な時間があったので週末からはじまるカサヴェテス特集の上映時間を確認しようとK2のページを見ていたら『なみのこえ 気仙沼』の上映が十九時過ぎからあるのを見つける。二年前の濱口竜介特集でちょうどそれだけ見逃していたいたので、渡りに船とばかりに即申し込む。
寝不足を危惧したので、定時に即虎ノ門を出て家に帰る。ほんの三十分だけ昼寝をしようと思ったがうまく寝付けず。なんとか一〇分だけ寝れた。このパワーナップの成功は大きく、また映画が面白いのもあってだが、ちゃんと集中して見ることができた。聞くのがうまいのかセッティングがいいのか、喋る人はみんな、弁が立つというのではないが、心のままに喋れているように見えた。言えること・言えないことがあるなかで、言いたいこと言うべきことを探し出し、それを伝わるように言えるという能力はすごいものだと感じる。こういう言い方をするのはあまり公平ではないような気がして若干後ろ暗いのだがどの人も「大人」だという気がする。だからこそまだ子どものように見える最後の若いペアのやり取りがよかった。自分の中で整理がついていないままカメラの前に立っているようだった。本当のところ整理をつけられるわけないのを何とかして整理をつけて「話す」というのも大切なことだと思うが、話せないことがあるというのを話せないことによって示すのもそれに劣らず重要なことだと思う。なんでそういう行動をしたのかわからないということは、日常非日常にかかわらずどういうときにでもあることだし、それをあとからいくら思い出そうとしてもやっぱりわからないんだろうと思う。聞く側でそれらしい理由をつけたり解釈しようとしないのは、こういう聞き取りにおいては少なくとも必要不可欠な前提で、カメラはその禁を犯すまいと気を張って注意している。一方で、親密な関係にある他人がそれを知りたいと思って「なぜそういう行動をしたのか」と質問するのも自然なことだ。だから最後のペアのやりとりは、「話してほしい、知りたい」という気持ちと、それに対する「わからない、答えられない」という反応とのあいだで、めったに見られるものではない応酬になっていてとてもスリリングだった。ほかのどのペアの会話にも協調と対立が微妙なニュアンスのなかで顔を出したり引っ込めたりしていて、協調する場面に負けず劣らず、対立する場面にも見るべきものがあった。その人に向かい合うということをしているのは対立する場面のほうだ。どれほど親密な関係の中にも緊張はある。そして緊張が高まっていく過程で、本当の意味で協調を必要とするポイントがある。そこを逃さないできちんと対立から協調へと切り替えるところなど、名人芸を見ているような気になった。マンボのふたりもそうだし、着物屋さんもそうだった。どちらのペアもふたりとも大人で均衡が取れている。
『なみのこえ』は対話するところを撮ることによって、人にとっての他人の重要性をものすごく感じさせる映画だと思う。
図書館カウンターに本を返却にいく。駅前を通って帰宅。下北沢の街をすこし歩いたらすごくお酒を飲みたくなった。でも我慢して飲まずにまっすぐ帰る。帰ってから日記を書く。

20240421

日記353

邂逅

2024/04/20 昨日
午前中にスタバに行く。小説を書くための準備として「計画」を立てた。昼過ぎに代々木公園に移動。到着してからドッグランの水飲み場側のベンチに座って二時間ほど犬を見続けていた。途中本を読み進めたりもするから全然飽きない。ドッグランを挟んで向かい側の広場にブルーシートを広げていた友人と合流。まずはコンビニに酒と書くものを買いに行く。マジックで「対戦募集!」と書いたリングノートを置いてモルックに興じるが思ったより人通りがなく、文字を見られる機会さえろくになかった。犬を見すぎてスタートが遅れたのが原因だ。友人との会話のなかで「面白い話をしようとすることがなくなった」ということが話題になる。自分も面白い話をしようとすることを諦めた時期があり、たぶんそれは誰にも気づかれていない自信があるのだが、それは会話においてボールを持つ時間が少ないプレースタイルなのが大きい。友人はボールを持つ時間を長くしたいという希望がありかつ面白いことを言おうとする気が無くなったと言っているのだからその深刻さはこちらの比ではない。なにせそれの意味するところは会話においてつねに犠牲者を要求するようになったということとニアリーイコールだからだ。しかし実際のところ、出会い頭や会話の切れ目に面白くないことを喋っているとき以外、そこまで面白くなさは感じない。とくに面白い話をできない人間にも「話を聞く」というコマンドは残されていて、それで何とかなるのだ。
下北沢で二十時前に解散して、入れ替わりで同居人と合流。ステーキ松でハンバーグを食べる。帰宅してドラマ『滅相もない』を見る。すごく眠くなって床に転がってすこし寝たので、寝る準備をしたうえでちゃんと寝ようとしたが、いざそうするとさっき寝たことで回復したのかなかなか寝付けず、ベッドでつまらない動画を見て時間を無駄にする。

2024/04/21 今日
二度寝を経て九時頃に起きる。スクワットをしてからスタバに出かける。途中外で本を読んでいる人を見かけた。自分もそれに習って(スタバが満席だったこともある)ビオスという駅前のちょい高いスーパーのそとに設置されたテーブルで本を読むことにする。文体について考えたり日記を書く。メモ書きのつもりで書き始めたのだがなんとなく成形しはじめて半端な文章になった。

カジュアルダウンとドレスアップ【文体1】

よく言われる「文体」について自分自身あまり納得できていないので、できるだけエレメンタルなところから自分で考え始めることにした。これは自分の小説において文章を使うにあたって、「文体」を避けて通れないものとしてある意味観念した結果である。

文体について考えるにあたってまず比較衡量に使おうと思うのがファッションだ。
1.被服文化について一定の興味があること。2.自分で選ぶことができ、かつ外部に向けて見せるという目的に共通点があること。思いつく理由は以上のふたつだ。
そもそも文体と結びつけて考えようと思いついたのは、タイトルにもしているカジュアルダウンとドレスアップという論理だ。
カジュアルなものが下にあって、フォーマルなものが上にあるというのは、そのまま文章にも適応できる考え方のように思われる。権威的な文章が硬質なもので、より親身な文章になるとやわらかい印象を与えようとするというのは、ベーシックで広く浸透したイメージだろう。文章を書くとき、どの程度まできっちりさせて、どの程度までくだけた言葉遣いを選ぶかというのは、意識するしないにかかわらず書き手がコントロールしているものだ。誰が読むのか、どんなふうに見せたいのか、どの立場で書くのかというのを総合して適当な水準を設定している。
よく言われることで、実際に自分でも意識するのは、どの程度熟語を使うか(考えるor考慮する)。カタカナ語を使うか(コントロールするor制御する)。またそのなかで普段よく使われる単語を選ぶかあまり使わない単語を選ぶかのグラデーションもある。普段使う単語というのも、流行語のように時間によって左右される要素もあるし、口語表現と文章表現で若干のちがいがある。古い言葉遣いや熟語を使うことで文章を古風な顔立ちにしようとしながら、同時にカタカナ語をたくさん使うというのは、ちぐはぐな印象になって読むものを混乱させるかもしれない。しかし、両者は混在させられないというのでは必ずしもなく、なんとなくレベルを合わせることもできる。このあたりの合う合わないの感覚はファッションの感覚に近いものがあると思う。
ある程度この水準で行くというのを決めてから書き始めないと、まとまった文章として読むときに印象の定まらなさを感じさせてしまう。もちろん文章を書く以上、揺れを完全に無くすことはできない。むしろ一定の範囲の中で締めたりゆるめたりすることで、ある部分に特別の注意を引くよう印象付けたり、多彩で飽きさせない文章のダイナミズムにもつながっていくこともある。文体のリズムというのも言葉の強弱があってはじめて成立する考え方だ(文体のリズムについてはまた別の機会に考える)。
調和というのは基本的に決まった型からもたらされる。とくにフォーマル寄りであればあるほど、決まった型からの逸脱が不調和と見なされやすい。
一方、異化効果というのもある。ファッション用語ではハズしというが、あえてコンテキストにそぐわないパーツを導入するというやり方だ。これはファッションにおけるアキレス腱で、うまくやれば高い効果を得られる代わりに、間違ったときの影響も大きい。ハイリスク・ハイリターンの手法である。うまくやったときに得られる格好良さはほかのやり方では得られにくい。しかし全体の型とパーツの効果を熟知していないと単に格好悪くなってしまうだけだ。手法として何かを印象づけるというとき、結果的に格好良さとして受けとられるようにしなければならないというのは、文章においては必ずしもそうとはかぎらないものかもしれない。しかし、格好良さというものをもっとも広義にとらえたときに、それと重なるようでなければならないとは考えている。格好悪さや居心地の悪さ、不快感をも包摂した広い意味での格好良さを追求するというのは、外部に向けて見せるという要素がある以上は避けられない。
自分にとって、文章における「格好良い」というのは「賢い」という感覚にかなり近い。これはどんなファッションにおいても意図やビジョンが欠かせないという考え方と相似していると思う。賢いというのをもっとも広義にとらえたときに、そこと重なるようでなければファッションとは呼べない。文化である以上当たり前のことでもあるが、ファッションというのは何よりもまず知性的な営みである。それを直言するのは本来あまりお洒落なやり方ではないのだが、この文脈においては自然に思えるはずだし、自然に思えることというのはそれだけ行き届いたコントロール下にあるということの証明にもなる。技術的な要素をほとんど感じさせない人工物というのは、現今において、おそらく遠い将来に向けても、全制作者が目指すべき目標であり、そうあり続けるはずのものだ。われわれはその見通しに立って生活していくべきだし、制作もまたその見通しのもとに行われていってほしい。
上下の感覚について、カジュアルダウンと行ったりドレスアップというときの上下は、そのコンテキストにおける見方で、架構した目線だ。それを理解したうえで目的を達成しようというとき、上下の意味合いはおのずと暫定的なものになる。メタ化した上下の感覚を持っていなければ、カジュアルダウンとドレスアップという言葉を使うことはできないのだが、逆に言えばこの言葉を使うことで、ある視点を架構されたものと捉えるものの見方を獲得することができている。何かに入り込むにしても、反目するにしても、一旦メタ化してその後”あえて”入り込んでいくこと、”あえて”反目して見せることという手続きをとるべきなのだが、言葉を使うだけでそれが自動的に成され、事後的にメタ化を了承する構造になっている。悪意に取るとすればこれは明らかに罠の手法だが、当人はそれによって「格好良い」「賢い」方向に押し上げられることになるわけで、訴えを起こそうにも罪状を作れない。野蛮人が「おれは文明人ではなく野蛮人でいたかった!」と臍を噛んでももう遅い。誰かにそれを訴えようとするとすればそれは文明的行為として行われる以外にないわけで、彼が彼の不満を表出するためには暴力に訴えるという方法しか残されていない。こちらとしては「それは止めてほしい」とお願いするしかないわけだが、そのお願いが聞き届けられる可能性は十分高く、反対に聞き届けられない可能性はほとんどないはずだと考えてよいものだと思う。最広義の格好良いと最広義の賢いとが結び付けられたものの見方においてそのことは明らかだ。

20240420

無益だが計画を立てる

20代の頃の自分は、「若さ」の力を信じておらず、30代から準備をはじめて、40代から50代までを生産期に設定しようということを漠然と考えていた。そして気がつけば37歳である。30代後半に差し掛かった頃には、年齢というのはたいして重要な指標ではないということを嘯き始めた。たしかに、むやみにあわてたところで意味はないから、加齢によって若いときほどそわそわしなくなったのを良いことに、どっしり構えるという心づもりで実際にはただぼんやり過ごすことが多くなった。
20代からブログを書くということを通して文章を書いていたが、そのときには差し迫った感情から書かずにはいられないということも多かった。何かをしていなければ不安で仕方がないというのは、上のようにできるだけのんびり〈あとでやる精神〉を涵養するよう心がけていても沸き起こってきたもので、衝迫感をところてん式に押し出した文章ばかりできあがっていった。当時からそういうものに価値を置いていないから、自分の書く物にはつねに不満だった。自意識とタイピングの遅さに影響を受け、文章をギシギシに押し詰めるようにして稠密方向に煮詰まっていったのもこの頃の文章の特徴で、今もそうした傾向は全然なくなっていない。タイピングもあまり早くならないままだし、自意識も、意識レベルが全体的に下がったおかげでまったく身動きがとれないという状態ではなくなったものの、意識内の割合としてはいまだに多くを占めている。
文章を書いては消して修正し、読み返しては微修正し、その修正の影響を測り直してべつの場所にも手を加え、ということを繰り返しては消耗し、もういいやと諦めて、直すべき文法語法上の明らかな誤りをそのままにして投稿するということも少なくなかった。そうやって公開したものを読み返すのは嫌な気持ちのするものだから、見直したり書き直したりする機会もなくそのままにしてべつのブログをあたらしく開設するというのを2,3回繰り返していた。
20代はだいたい上のような感じで、あとはできるだけ読むべき本を読もうとしているうちに過ぎていった。総じて「若さ」を信じられないという感覚だけが正しかったということを証明するような20代を過ごした。あとは悲しかったり苦しかったりする自分の感情を真正面から全力で受け止めようとしていたから精神的な余裕も全然なかった。当時より冷静な37歳の頭で考えてもそれらは必要だったと思うし、何かをやろうとして全然うまくいかなかったということを差し引いても、その経験は無益なことではなかったと思う。
ある経験が無益かそうでないかというのは、それが何かの生産に結び付いてはじめて人に主張できることだ。自分にとっては無益ではなかったと言えればそれで良いしそれまでなのだが、自分はこれから40代から50代にかけて生産活動をしようとしている。生産活動をしようとする以上、その苦い経験を活かさない手はない。
大体の方向だけ決めて進んできたこれまでの道程にはおおむね満足している。このやり方を続けていても今後大きく間違わないという自信もある。ただ、形を定めるという段階に入るとき、このやり方ではそれ以上先にはすすめない壁を現時点で感じている。長いスパンで考えて、できるだけ長大なものを書きたいという志向があるのであれば、どうしても欠かせないのは計画だろう。若さを信じないと言いながら実際にきちんと若かった当時の自分は、計画を立てるということを生産活動においてかなり低く見積もっていた。正直なところ、今でもじゅうぶん高く見積もっているとはいえない。計画を立てるということを無益な行動だとつい考えてしまう。わざわざ計画を立てても絶対にその通りにはならないじゃないか、と。
計画を立てるとき、その計画に沿って行動するというのがセットになっている。自分はそのように習ってきた。ある程度の短いスパンではその感覚が正しい。しかしある程度以上の長いスパンでの計画においては、それに沿った行動や沿うようにと心がける日常と同等の位置づけに「計画の見直し」が組み込まれるのが正しいということを最近になって受けた”研修”で知った。所詮ビジネス研修なので当然眉に唾つけてというか、まったく鵜呑みにはできないし、何だったら自分の方向性からはてんで見当違いのことを言うものだと身構えているのだが、自分が何となく計画のことを役に立たないと思っていた原因の、計画して行動するという流れそのものの穴を突いていたこともあって、これには受講しながら膝を打った。目新しい内容を伝える類の研修ではないし、もしかするとすでにどこかで見聞きしていながらスルーしていただけのことかもしれないが、ようやく、それなりの時間をかけて自分のもとに必要な情報として届けられたということなのだろう。
とにかく、生産活動における当面の叩き台として、それに沿って行動するという意味合いにおいては無益だと思われる計画を立てる。だからほとんど予言のようなものだ。


***
2027年 長編『賢犬伝』完成 1200ページ
2028年 長編『逆走』完成 1200ページ
2029年 長編『完全な嵐』完成 600ページ
2031年 短編『屁のなるほうへ』『あたらしい』完成 150‐200/200ページ
2032年 長編『巨大な鏡』完成 1200ページ
2033年 短編『とおいてん』完成 200ページ
2034年 長編『明滅』完成 600ページ
2035年 短編『十』『二』完成 200/200ページ
2036年 短編『絵、踏むための絵』完成 200ページ
2037年 長編『ロストパケットを探して』完成 1200〜ページ
***

土日をのぞいた一年の日数 260日
1ページあたり600文字(文庫本)
長編は大体600ページ以上1200ページ程度まで

200日間で毎日1800文字書けば600ページ、3600文字書けば1200ページ到達
日記の文字数は平均して大体1000文字程度と思われる(所要時間は30-40分ぐらいか)


この計画ではフルタイムで働く時間の余裕はない。また、書き始めてから何らかの理由で執筆が止まるのが許容されるだけの予備の時間は確保されていない。
どうにか生活を変えて可処分時間を増やし、しっかり準備して取り組まないかぎり”完成”の実現は難しい。準備は、取材することとプロットを固めること。とくに最初の三作では「書きながら考える」という甘い考えを捨ててとりかかる必要がある。完成の二文字は重い。タイプするとたったの二文字なのだけど、真剣に考えて取り組まないかぎり正真正銘のそれを見ることは絶対にできない。

20240419

日記352

ジャスト・ドロップイン

2024/04/19 今日
早起きして仕事に行く前に洗濯機を回せたらと思っていたが、やはりそうはうまくいかず。一応六時半に目覚めたのだが、心地よい二度寝の誘惑に従ったら時間がなくなった。
霞が関経由で出社。ビル風のとくに強い朝だった。信号待ちのときほんの一歩だけだが飛ばされた。
業務の引継ぎ(してもらうほう)がリスケになったので、簡単なメールに返信だけして、あとは仕事に役立ちそうな勉強資料を自分で探してきてそれを使って自己学習を進めるという一日だった。基本暇なので途中ぼーっとキャリアのことを考える時間もあったが、そうなると出てくる夏目漱石の小説作品を書き並べるという癖が出た。十年に満たない時間であれだけの小説群を並べたのだから本当に驚くしかない。わけのわからないITテクノロジーのことを漫然と勉強している場合ではないと思って、つい深いため息が出た。
お昼は日も出ていて気温もちょうどよく快適だったので弁当を買ってきてビル下のベンチに座って食べた。昼過ぎに勝手に席移動する。フリーアドレス制なので基本的にどこに座って仕事するかは自由だ。与えられている自由は無理を押してでも行使しなければならない。
定時間際に、以前退勤するときにエレベータで見かけた明るい髪色の若者がフロアにすがたを見せてつい息を呑む一幕があった。二日か三日前、エレベータでお互いボタンを押すポジションにいて、一階についたので「開」のボタンを押して乗客を全員降りさせたあと、片手を相手方向に差し出して進むよう促す「お先にどうぞ」の同じジェスチャーを送りあって、その相手のジェスチャーを同じように受け取り、「ありがとうございます」と先に出ようとする動きがぴったり重なってしまい、またジェスチャーを送りあって、しばらくそのままお見合い状態になってエレベータから出るに出られなくなったという経験を共有しただけの関係だが、そのときに見せた全開のはにかみ笑顔が素敵だったことで印象に残っていた。つい一昨日の出来事だし、たぶん向こうもこちらのことを覚えていたはずなのだが、自習モードの自分はとにかく格好つけて考えている雰囲気を全開にしているので「あ、どうも。あのときは失礼しました」という挨拶のひとつもかけることができず、あんなに莞爾と笑いあった関係なのにもかかわらず、いたって無愛想に、むしろ不機嫌な様子でデスクに肘をつきながら端末の画面を睨みつけているだけで終わった。職場でクールぶるのは自分のような人間にとっては必要なアピールでもあり、完全にわるいことだとは思わないが、クールな状態と暖かい温情をかけてやるモードとをさっと往来できるようでないといけない。せめて会釈でも返してあげればよかった。向こうから会釈をされないでも会釈を”返す”スキルが自分にはあるのだからそれを使う好機だったはずなのだ。
職場のゲートをくぐりビルを出て、富士そばでカツ丼セットを食べてから千代田図書館に行って『暴力の人類史』を読む。途中トイレに立ったタイミングで書架を眺めていたら目立つところに『はだしのげん完全版』の一巻が陳列されているのが目に入る。歩いていけるほど近くにある大きな映画館で『オッペンハイマー』が上映されている今このときに、『はだしのげん』を配架することの静かなメッセージを感じる。映画館も好きだが図書館はやっぱり最高だ。ある視点に対して、他にも視点があることを示す館のメッセージは物静かでありながら雄弁でIMAX-Lの大音響にも負けないぐらい胸に響いた。
物語が誠実であろうとするときにはある視点を固定させるのが必要になることもあると思う。そのとき別の視点を提供できるのはやっぱり別の同じ物語だ。それらは補完的にそれぞれの、しかし同じ誠実さに向かっていくように思われる。
下北沢駅に帰りベストな気候と金曜の夜をひとりでお祝いするためベンチに座って氷結を飲む。METAFIVEをBGMにする。若干悔しいが音楽はいいものだとしみじみする。

20240418

日記351

植生・人生

2024/04/17 昨日
オッペンハイマー(IMAX-L)の二回目を見る。見はじめてすぐ気づいたのだが、初回に見てさっと理解できなかった原因が隣の隣の席に何回もスマホを取り出してこちらを眩しがらせたクソ野郎がいたことだったのを思い出した。あまりにも嫌な記憶だったので存在を頭から記憶ごと消していた。結果、オッペンハイマーを見て内容が十全に理解できなかった悔しいという感想になっていた。自分のしたことながらこれほどきれいな記憶の改竄ができるとはおそろしい。最低の人間に阻害されず映画に集中したらすんなり理解できた。そしてこの映画は面白い。オッペンハイマーは自分のやろうとしたことを実現する力が際立って優れている人間として描かれていた。
本編上映前の映画予告もIMAXだと迫力がある。キングダム、マッドマックス・フュリオサ、猿の惑星の三本立てだった。笑えるというのにも種類があるのだとわかった。順にそれぞれ、しょぼいものを豪華なフォーマットで見たときの失笑、ものすごい迫力に思わず笑ってしまう感じ、猿が真面目に喋っていることに対してのふつふつと湧き上がるような滑稽味。笑いが起きるという結果だけを見れば、どれが良いなどといった優劣はない。笑いが起きるという結果だけを見るというのがすでにフィクションなのだが、それはそれとして。
3hの本編上映が終わったとき、ふたつ右の席の前の席に座っていたメガネの男の人が振り返って、自分の席の後ろに座っていた女連れの兄ちゃんに「ずーっと席蹴っていましたよ。次から気をつけたほうが良いですよ」と物腰柔らかに言っていて、優しさと力強さと迫力を見た。あとは別の男女が、階段をゆっくり降りながら映画の感想ではなく「ずーっとスマホ触っていて最悪だった。勘弁してほしかった。スマホ触らずにはいられない病気なのかな」とおそらく第一声を発していて、これにはかなり同情させられた。スマホが気になって上映中に端末の画面を見ようとする人は他の観客のためにも映画館に来てほしくない。少なくともIMAX-Lのフォーマットで見るのは違うと思う。とはいえ悪意があってやっていることではないのだろうから、その致命的な無知を矯すためにも映画館は広告を出すべきだ。スマホ画面の光が想像以上に他の観客の気をそらすというのをどう伝えればいいのだろうか。しかし本当にかなり大々的にやるべきで、「映画泥棒」ぐらい大きな問題として取り組んでほしい。実際映画泥棒というのは観客の側からすれば上映中にスマホの光を発する奴らだ。あいつらが盗んでいくのはお金と時間の両方で、映画を通して呼び起こされるはずの感動さえ台無しにしていくのだから、誰にも気づかれないように盗撮していく人間より実害が大きい。盗撮した映像で映画を見たいやつというのは勝手にさせておいても問題ないと自信を持っていうべきだ。映画館でしか味わえない感動が歴然とあるのだから盗撮映像で映画を見たとしてそれが何だ。それで本当に面白いのかと堂々と言ってやればいい。
帰ったら二十四時になっていたのであわててすぐねむる。

2024/04/18 今日
渋谷出勤のため普段より三〇分だけ遅く起きる。朝の時間だけ六〇分無料クーポンが発行されていたのでLUUPで渋谷に出る。一三〇円ぐらいなのでお金のためというよりは「LUUPで出勤」という実績解除のため。しかしGPSの狂いのせいもあって返却場がどこかわからなくなってしまい、二、三分の遅刻になってしまう。
渋谷での仕事は巻きで終わったので長めの昼休みをもらう。開店直後のベジ郎で昼食をとり、ヒカリエでデスフェスというのが開催されているのを知り見に行く。東京で開催される大体のフェス同様、お金の匂いがする場所だった。「ハッキリ言って死ぬ気なし」と白い壁に鉛筆で書きつけてやろうかと思ったがやめておいた。銀座線で銀座まで乗車して、虎ノ門まで二駅折り返す。十三時前に出社する。オーラリーとニューバランスの例のスニーカーwarpd runnerの当選メールを確認する。あれを履けると思うと嬉しい。
客に電話してメールでの不明点を聞くというタスクがあり、電話するとよく訳のわかっていなさそうな人が電話をとって、こちらもよくわかっているわけではないので電話越しにふたりして困ってしまうという出来事が発生したのがこの日の仕事上のハイライトだった。長めの休み時間をもらったのにやけに疲れてしまった。定時退勤し銀座線と千代田線で下北に帰る。エキウエのスタバに寄ろうとしたが夜に雨が降るという予報だったので早めに帰宅する。ゴジラSPを見ながら納豆ご飯を食べる。有吉クイズの録画を見て、テレ東の有吉木曜という番組をオンタイムで見る。
一応日記を書いて早めにねむることにする。

20240417

日記350

風待ち

2024/04/16 昨日
虎ノ門ヒルズ近くのタリーズを出て、歩いて神谷町に行く。HUBで飲んでいる友人たちと合流。1パイントのビールを飲むことにするが、ビールサーバが汚いのかグラスをちゃんと洗っていないのかその両方なのかビールが臭かった。今まで飲んだ中で間違いなく一番不味い一杯目のビールだった。ビジネス街にあって仕事終わりの人がこれの被害に遭うのだと思うとやり切れない。義憤さえ感じた(実際には個人的な怨みのちょうどいい表出方法にすぎないが)。とにかくHUB神谷町店は良くない酒屋だ。これがHUBクオリティというものなのか神谷町店が特別ひどいのかわからないがもう二度と行かない。
その後気を取り直して六本木一丁目方面に歩く。麻布台ヒルズに設置されている椅子とテーブルに座ってハイキューやヒカルの碁、こたけ正義感の実況の話などをする。やや話し込んだあと立ち上がって友人の職場探訪。友人たちの職場がまいばすけっとを挟んだ隣のビルだということが判明する。歩きながら途中ベンチに座りながら、溜池山王・国会議事堂前で解散。だらっと喋るのがやっぱり楽しい。帰宅後、同居人がリビングでWEB打ち合わせをしていたせいでサプリを飲めず、就寝が遅れそうになる。ジェスチャーをまじえて抗議をしていたところWEB会議を切り上げてくれたので事なきを得る。

2024/04/17 今日
乗るつもりの電車に遅れると一〇分遅れになるのがでかい。朝の一〇分ロスは結構許しがたい。午前中は自己研鑽に励み、ランチはひとりベンチに座ってお弁当。なんだかんだひとりが気を遣わないで良い。オフィスに戻ってから自席で昼寝していたら寝過ごして五分間のアディショナルタイムが発生する。この日も引継ぎをしてもらい和やかに終了。富士そばでミニカツ丼セットを食べて図書館にくる。『暴力の人類史』を読んでから日記を書き、TOHO日比谷に行く。IMAXレーザーでオッペンハイマー(二回目)を見ることにする。図書館で機嫌よく読書していたら蝿がぶんぶん飛び回っていて思わず立ち上がって逃げようとしてしまう。そのまま退館しようかと思ったがなんとかこらえ、時間になるまで読書を続けた。部分的・条件限定的だが、自分の中の蝿の存在感がものすごかった。朝の電車でリュックを前にかけようとしたときに紐がすこし当たっただけなのにものすごい剣幕でこちらを睨みつけてきた小さいおじさんがいたのだが、その人が表参道で降りるまでのあいだ、そのときのおじさんの顔が瞼の裏に焼き付いた感じになって読書しながらずっと気になった。虫や小さいおじさんの影響というか神経に障る感じというのはノイズとして大きな存在感がある。実際の外形的な影響度は小さいのに、こちら側で不合理なほど大きく押されるところが似ている。気にしないのが一番、だが気になるというところ。

20240416

日記349

ランドマーク(レガシー)

2024/04/15 昨日
スタバを出て同居人と合流。自分は飯を食ってしまっていたので、連れ合いが蕎麦屋で蕎麦をたぐる横で付き出しのホタルイカの壺漬けをさかなにしてそば茶割を飲む。
帰宅後就寝時間まで間があったのでバラエティ番組を見る。チャンスの時間、永野が「年下では笑わない、もし笑ったら100万円払う」という回のパート2。こういう動画をみて自分は笑うけど時間を無駄にしてしまったという感じはどうしても拭えない。異常な早さで就寝するほうがよかった。

2024/04/16 今日
霞が関経由で出社。一本遅い電車でなおかつ五分程度の遅延が発生した影響で始業一〇分前到着になる。普段三〇分前に出社しているのが普通になっていて我ながらえらいものだ。探し出してきた研修動画を見る。今日は気楽なひとりランチ。天気が良かったのでコンビニおにぎりを外のベンチで食べる。午後からは引継ぎの続き。和やかな雰囲気ですすむ引継ぎ。仕事なのに全然つらくない。おかしい。つい会話に夢中になって定時から五分遅れであわてて退勤する。これはなんだ? 自分が知っている仕事の感じではないというのだけわかる。そういえば午前中に七〇人の前で自己紹介の挨拶をする会があった。しかしテレビ会議だと緊張の閾値が一定で人数に比例していかない。
遅れてきた花見がてらTCBで集まって飲む会が催されることになる。六本木一丁目・神谷町・虎ノ門ヒルズで働く三人。これは十分Tokyo Coolではないか。
日記を書くためにタリーズに入る。ドリップコーヒーとアイス(トッピング別添)を注文。あとはマンハッタンポーテージとのコラボグッズがかわいかったのでオンラインで衝動買いをしてしまう。

「自分のために生きるのは限界があるよ」という言説について。お前はそうなんだろう。こういう述懐するかたちの言表というのは実感がこもっている感じがするから、普段物を考える習慣がないと、いや習慣があってさえ、ついそうだよなと思わされがちになる。ふっと緩んで束の間弱いことを言うというのは『微笑みの爆弾』の歌詞にもある通り、イメージのなかでつよい存在感をもつだけの威力あるものだ。
しかし、限界は何にでもあるし、その限界を決めるのは他の誰でもない自分なんだから、それを言っている側のもつ感慨や条件と、それを聞いている側が感じ取る条件・感慨のあいだには詐欺的な大きな開きが生まれる。諦めるということの意味がちがうと思う。同じじゃないかという意見はデジタルすぎるように自分には感じられる。
ようするに、一度でもほんとうの意味で自分のために生きたことのある人だけが「自分のために生きるのは限界があるよ」と言うべきであって、それ以外の全員はまず自分のために生きるということを完遂しようとするべきだ。ほんとうの意味でという言葉の「ほんとう」の定義は自分にしかわからないものだし、それをわかろうとするにはそれだけでかなり多くを自分に費やさなければならないはずだ。そうやって進んでいけば、少なくとも、限界なんて見えないと思えてきて当然だ。格好つけて「人のため」とか言うなよ。それを言うことで自分自身に格好つくと思っているのなら全然良い。よく考えるということは目的によっては前提条件にならないこともある。

20240415

日記348

落書きムヨウ

2024/04/14 昨日
八時過ぎに目が覚めたのでそのままスタバに出かける。日記を書くかわりに前日に催した忌死観念について書く。ダイエーで昼食を買って帰る。いつものカツ丼。すこしだけ家でぼーっとして動画「馬狼」を見たあと、梅ヶ丘方面に散歩。羽根木公園で子供や犬を見る。プールで泳いで帰宅。お好み焼きで宴を開催してからファンタスティック・プラネットを見る。いくらなんでも昔の映画すぎたがバカバカしいなかにも迫力のようなものがあった。

2024/04/15 今日
霞が関駅経由で出社。この日はよい研修素材を見つけて一日それに費やした。昼休みに念願の虎ノ門ランチに連れて行ってもらえる。前週の飲み会の支払いをPAYPAYでどうぞというチャットがきてしぶしぶ口座を開くもすぐ使えるようにはならず。明日支払おうと心に決めて定時で退勤。
下北に戻ってすた丼で夕食を食べたあとクラシックのスタバにくる。『暴力の人類史』を読む。急いで日記を書いて同居人との下北集合に間に合わせる。

20240414

死状態に移行する恐怖

昨夜、定期的にやってくる死の恐怖に見舞われるタイミングがきた。感覚としては地面に落ちていくような、まさに不可避の出来事という感じでそれを捉えている。もっと感覚主導で言うと、不可避の出来事という感じでそれに捉えられている。べつの場所に抜け出すことができない。
死の恐怖について考えるのは無駄だし、どうにかしようとはできないから、諦めて無感覚の状態に気持ちを持っていくしかない。死の恐怖が襲ってくるときというのは、自分の耳だけに影響するイヤホンで、黒板が不断に引っかかれる音を聞き続けさせられるようなものだ。かつてその音に抵抗するためべつの音を鳴らして対抗しようとしたこともあったが、どんな音を出そうしても、できるだけハッピーな音で埋めようとしても、何をどうやっても嫌な音ばかりが耳に入ってくる。その嫌なノイズを低減するには、べつの音で不快な騒音をかき消すというよりは、ボリュームそのものを下げることがもっとも効果的だと何度目かのエンカウントから学んだ。
不安感や恐怖というのは、それが始まったところがピークということになるのだすれば、いくらか耐えようもあるのではないかという気がする。問題はそれがどこまでも増大していくかのように感じられるところにある。落ちていくイメージがぴったりだと感じられるのは、落ちていく最中の時間感覚にある。まさに「落ちていく」という現在進行系なのだ。破局を迎えるのは地面との避けられない接触場面ということになるが、その地面が、自分にとってのギロチンの刃が迫ってくる恐怖が、生々しく迫ってくる。否応なくそこに引きつけられていくのがはっきりわかるというところにポイントがある。
死の恐怖というのは自分の中にある感情のなかの多くを占めるものだということもあって、誰もが持っているものだと感じている。しかし表立ってその恐怖のことを言う人は少ない。人は彼ら持ち前の慎み深さによってそれを表に出さないようにしているのだと考えてきた。しかしそれにしても、彼らの我慢強さは、自分が人たち一般に見いだしている忍耐力の度合いをゆうに超えている。本来我慢できなくなってもっと表に出てくるはずのものだ。人は何か自分にとって許せないニュースがあるとそれに対して言及しないでいることができないような環境をすでに充分なほど手にしている。それにもかかわらずほかの何にもまして圧倒的にあるはずの恐怖の感情はあまりにも言及されることがない。もしかすると、人は死の恐怖を感じていないのではないか。それは言いすぎだとしても、自分が感じるような死の恐怖を感じていないのではないか。死の恐怖に対応するものがあるとしても、穴を落ちていく、絶対に救いのない感覚としての死の恐怖ではないのかもしれない。
ある本の著者がすでに死んでもう生きていないというのは取り立ててめずらしいことではない。映像のなかで元気に笑っている人が、昔の記憶の中で話しかけてくれた人が死んでもう生きていないというのも、時期にもよるがすでにめずらしくないことか将来的にめずらしいことではなくなるかのどちらかだ。自分以外の人の死というのはありふれている。名前情報だけ知っている他人が何かの理由で死んだとき、関心の対象になるのは理由のほうだったりする。死というのはそれに見舞われる他人との距離感によってその姿を変えるようだ。心理的に近しい他人が死んだという報に接するときには、死因をはじめとして、そのときの物理的な状況や精神的な状況が気になる。あの人は心安らかに死ぬことができただろうか、と無理な注文を付けさえする。死ぬのだから心安らかでいられるはずはない。だから無理な注文なのだが、半分祈るような気持ちで、是非ともそうであればいいと思う。自分自身が心安らかでいるための臨終場面を想像しようとする。かなり多くの場合、その答えはその人の死とともに(自分にとっては)失われるわけで、「最期はおだやかだったよ」という伝聞情報などを駆使して橋頭堡を築く。とにかく自分は生きている。だから、実際のところどうだったのかとは独立にそうすることが必要だ。
実際に死が近くまで迫ってきている場合にはべつの考え方を採用することになるのかもしれないが、今のところ自分は、何がどうあってもとにかく死を避けたいと考えている。人はいつか死ぬという現在の状況には絶対の不満がある。今そうなっているというのは明らかに問題だ。自分が生きているうちに解消されるべき致命的な欠陥だと思う。
死状態へ移行するというのは何を意味することなのかまったく見当がつかない。死後の世界があって別の存在に生まれ変わるという物語はこの自分をひとつも納得させない。
加齢によってすこしずつ耳がわるくなっていって、今は嫌で嫌でたまらない騒音が自然気にならなくなっていくものだろうか。イヤホンから聞こえてくるのは基本的には素晴らしい音ばかりだ。ときたまものすごく嫌な音が鳴るこのイヤホンは、普段は外界の音を自分に提供してくれる。いろんな音が鳴るなかで、これ以上はないという最高の音が届くこともある。だからそれをミュートにして何も聞こえない状態を作りたいと積極的には思わない。ただ、ミュートにせざるを得ないほど、圧倒されるような嫌な音が鳴ることもある。自分としては最高の音を聞いていたい、最悪の音は聞きたくない。とにかくその両方を希望する。しかし、そんな希望を出すうちにも、地面は、絶え間なく、容赦ないスピードで近づいてきている。他にやりようがなく、仕方なくボリュームを落としていって、結局、消極的なミュート状態になってしまってもおかしくない。すこしずつ外界から遮断されていったとしても内界を閉ざされるのは遠慮すると思っているのは、外界の音が不自由なく聞こえるという状況に依るものなのだろうか。ひょっとすると、閉ざされた状況に置かれるやいなやあっという間に嫌気が差して、あっさりもういいやと自棄をすることになるかもしれない。しかし自分としては今のこの状況をもとに考えるしかない。早めに回り込んで、いつか死状態になることを計算に入れて自分らしく生きるなんていうことはできない。死をどうにかして避けられるものと捉え、地面に激突するとは限らないと考えること。
空を自由に飛びたいという希望がそう遠くない未来において通ると心得て、必ずしも地面に激突するとは限らないと考えて今を生きること。酔生夢死というのは、字が意味するごとく、生に酔い、死を夢見ることだ。それは死を虚構の領分に追いやった先に感覚される。首尾よくそれをやり遂げられたら実際に死ぬことはない。

臭いものに蓋をする。しかし臭いものがなくなるわけではない。蓋をするという行為がむしろ臭いものを実在させることになる。ノールックで臭いものに蓋をする。それでだいぶ善くなった。しかしまだ臭いものはそこにあることになる。だから思い切って次のように言うべきだ。ノールックで蓋をする。さらに善くなった。しかし一体何を見ないのだろうと思うことがあるかもしれない。だからあと少しだけ進む。蓋をする。
蓋をする以上、いつかはそれが開くだろう。蓋が開く。抽象的で何のことかよくわからない。それだけに希望があるようにも感じられる。箱に凝って中身を忘れる。対象が透明になる。

20240413

日記347

レガシー色

2024/04/12 昨日
千代田線で通勤。乗り込んだときにポジションさえ押さえておけばストレスをセーブできることに気づいた。電車の時間がだいたい二十分間あるので数学の歴史を読む。
学習をすすめる。事務処理のやり方を初日か二日目に動画でさらっと見ただけでこのまま実務に入るのは心もとないということに気づいたのであたためて動画を見る。飲み会があったので一日そわそわしていた。
定時に上がってから飲み会の開始まで時間があったのでタリーズで『暴力の人類史』を読む。ほうじ茶ラテのアイスとアイストッピングの別添えをオーダーした。
肝心の飲み会は、やっぱり大人の飲み会という感じで、はっちゃけられず仕舞いだった。それでも普段の自分の感じからすると異常な元気良さがあったと思う。自分としては通常よりも安全運転寄りを意識したのだが、うっすら押してみたのでちょうどその分だけうっすら引かれた感触があった。こういうときに焦って空回りを重ねないのが自分の良いところだと思うが、あわてないイコール挽回の機会を逸するということでもあったので、うっすら引かれた感触だけが自分の中に生々しく残って、帰りしなからすでに苦しい思いをしていた。大学デビュー失敗を百倍に薄めたしんどさだと思うが、百分の一に希釈してもこれだけ苦しいのだから大学デビュー失敗してたら血を吐いて倒れていたかもしれない。あるいはこの年齢で大学デビュー失敗のような失敗をするととくに厳しい精神ダメージを受けるということか。参加者からするとまじで覚えていないレベルだろうから完全に自意識過剰の取り越し苦労だ。それに仕事中の「借りてきた猫」状態とのギャップに摩擦が生じている(ような気がする)主因があるのだから、出勤時のポーカーフェイスをいきなり解消とはいかないにせよ、すこしずつ緩和していけたらいいだけの話だ。それでもこれだけは言いたいと思っていたことを言えたのでよかった。しかしそのせいで来週からのランチタイムのことを思うと今からもう気が重い。
不完全燃焼かつオーバーザラインバイオレーションを犯した飲み会のあとに、表参道で飲んでいるから来れないかという誘いがあった。地獄に仏とはいかないまでも渡りに船ではあったので(渡りに船よりは地獄に仏寄り)、二つ返事で駆けつけることにする。地下のクラフトビール店だったのだが、こちらでは心理的安全性が確保されていたので超のびのびできた(当社一次会比)。変な奴だと思われたらまずいという気持ちが自分をいかに抑えつけているのかが白日のもとに晒される結果になった。帰りに大谷翔平のなぜかちょっと憎たらしい顔の絵が表参道の交差点にどデカくかざってあったのでいっしょに記念撮影することを提案し、快く受け入れてもらう。一次会終わりにもよっぽど記念撮影を提案しようと思ったが日和ってしまってできなかった。これからちょっとずつ頑張っていきたい。
・出身地
・居住地
・年齢
・休日にやっていること
・前の職場で何をやっていたか
今回の話題はこんな感じだった。あとは隣のおじさんと大学が同じだったのですこし大学の話もした。年齢差やら何やらがあるときには何か共通点があるとついそれにすがってしまう。
そういえば表参道での二次会ではuekaramesen_streetのフォロワーを増やすことに成功した。しかも二人同時にだ。こういう企画を面白いんじゃないかと思って考えているという話を聞けて愉快だった。深夜のゴミには物語がある、というところから、それを拾い集める記録を残すというコンセプトで面白いと思った。実現するためのハードルもそんなには高くなさそう。夜遊びをしていたら簡単にできることという気がする。繁華街ではいつだって夜遊びをする人は夜遊びをしているわけだし。ただ、ゴミから感じられる物語というのは、もう夜遊びをしない人にとってそれを振り返り見る過程で価値があるのであって、いま現役で夜遊びをしている人にとっては喫緊で追いかけるべきいろんな物事があるんだろうから、悠長にゴミを撮ったり拾ったりしている場合じゃないだろうというミスマッチの問題がある。
uekaramesen_streetについてコメントしてくれた。フォロワーを増やしていくためには、①強い写真を厳選して投稿する、②短いキャプションをつける、どちらかをやったほうがいいということだった。①についてはそのとおりだと思うが、一日一投稿というルールを課すこと自体に生活にハリを与える効果があると思っていて、その効果は今のところ実感されていること。あとは弱い写真、強い写真それぞれから撮影者の微妙な傾向が長いスパン(ある程度の量)で浮き上がってくるという効果を期待していること。という大きな二つの理由から毎日投稿にしようと思っている。このやり方をしながら強い写真を撮れれば言うことないのだが、まあそんな良い機会が無尽蔵に転がっているわけでもなし、この企画に何かを犠牲にして割けるリソースがあるわけでもないので、現状維持ということになってしまう。
②についても同じで、撮って上げるだけだからお手軽簡単で続けられているという理由がまずある。キャプションをつけるとなると、撮影意図について写真を余計な方向づけや誘導をしない範囲で的確に文章にする必要があり(必要を感じ)、そのハードルがある。メタデータをつけるというかたちで客観情報を付与するのが機械的にできていいと思うが、撮影場所はすでに付けている、撮影時間は写真を見れば大体わかる、ほかに付け足すことのできるメタデータはあるだろうか。毎日投稿という性質を使って、毎日の星座占いとその当たり具合の評価とか?
撮影者がどういう気持ちで投稿しているのか、そこがもっと明らかになったほうがいいという主旨だった。公開するかしないかにかかわらずキャプションをつける試みはやっていこうかと思う。

2024/04/13 今日
六時すぎに目がさめてしまう。朝から洗濯機を二回回す。シャワーに入ってからスクワットをして、すこしゆっくりしてから昼ご飯を食べに街に繰り出す。道中フリスクのポップアップがオープンしていたので試供品をもらう。昔の自分に言いたいことをふせんに書いて貼れるコーナーがあったので昔の自分に言いたいことを書いて貼ったら、ふせんを貼ってくれた人用として味付きのフリスクをプレゼントしてもらう。十五年前の自分に言うこととして、今から十五年後の自分から言われることがなんとなくわかるので、そこと重なることを言いたいと思って、ごく短いメッセージにした。
ステーキ松でカットヒレステーキの300gを食べる。二二〇〇円の豪勢なランチ。溶岩石による脂の飛び跳ねがすごかった。前の人が食券機で一万円を使い、お札のお釣りをまるまる忘れるという凡ミスをしたので追いかけて教えてあげた。
エキウエのスタバに行ったら満席状態だったのでクラシックの方にきて日記を書く。『物語数学の歴史』を読む。
スタバを出てからダンダンで本の続きを読む。散歩のあいだ人を待つ犬がかわいかった。茶色の眉毛のあるミニチュアダックス。帰宅する前に古本屋で坂本龍一の連載第一回が掲載されている新潮を読む。「あと何回、満月を見るだろう」。山田風太郎オマージュだろうか。「あと千回の晩飯」あまり結びつきそうもないふたりだが。エキウエで花を買う。帰宅してから昼寝。起きてから坂本龍一のNHKスペシャルLast daysをみる。感情の豊かな人なんだなという印象。おかしな動きが免疫を高めるという記事を読んで実際におどけて見せる変な動きのダンスが平凡なボキャブラリーで構成されていたのがおもしろいと思った。何かに秀でているひとはなんでもできるわけではない。何でもできるひとが何かに秀でているというわけでもないということ。漱石全集の八巻が本棚にあった。調べてみると『行人』だった。
見終わったあとNHKでプロジェクトXがやっていたので見る。カメラ付きケータイの回。エンジニアの後ろ姿がかっこよかった。日本酒の会社を立ち上げた人の舵の切り方もかっこいい。好きに生きるための努力。
スタバにきて『数学の歴史』を読み終える。閉店までいて二十二時半に出る。
隣のギャル風の女の子の会話がおもしろかった。彼氏だか友達だかの家の中には汚物コーナーというスペースが設けられていて、外から入った人の荷物はすべてそこのビニールシートのうえに置かせられるらしい。病的な強迫的潔癖だが、同じような症状に苦しんでいた大学時代の面白い友人のことを思い出した。
外で酒を飲むのに良い季節なのでさすがにダンダンで氷結無糖レモン500をやる。BGMはフィッシュマンズ。そこは嘘でも坂本龍一だろとちょっと思った。asyncを聴いてみようかな。

20240411

日記346

どの橋渡ろうか

2024/04/10 昨日
図書館を出てフォロウィングを見る。全部見終わったときに全部思い出すという記憶力のなさのおかげで新鮮に楽しむことができた。時系列を入れ替えるというのを映画特有の表現として取り入れている野心的な姿勢に思わず顔がほころぶ。最近見たすずめの戸締まりという映画が子供向けの作品なのを盾に黒枠をつけて漫画的表現で過去の話ですよとわかりやすくする演出をしていたのを思い出して情けない気持ちになった。より多くの人に届けたいと考えた時点からその作者の作るものは腐り始める。
フォロウィングは音楽が良かった。映画館を後にする人たちに、おそらく例外なく帰り道に振り向かせるだけの「人を動かす力」をもった映画だった。だから我慢して無理に振り返らないようにして気持ち早足で電車に飛び乗って家に帰った。
下北沢で飲み終わりの同居人と合流していっしょに帰る。寒くも暑くもない春の夜。よっぽど酒を飲もうかと思ったが、耐えることができた。お誂え向きすぎるとかえって耐える気持ちに傾きやすい。

2024/04/11 今日
七時に起きてちょっとだけスクワットをしてからシャワーを浴び、千代田線で職場に向かう。行きの電車内では『物語数学の歴史』を読んでいたが、車内がぎゅうぎゅうですこし暑いのもなって結構不快だった。やっぱり銀座線での通勤に戻したほうが良さそう。午前中には自己研修の座学。午後からグループミーティング。その後キッティングという名の雑用。ただ案件引継ぎでやっと人と話すことができる。仕事ができるというか、そつのないコミュニケーションを上手にとれる明るい女の子に教えてもらう。こっちも愛想よくしようと思うから自然和やかな打ち合わせになった。自分としては見習うべきところが大きい。雰囲気を良くして自分も相手も楽しんで仕事上の必要なコミュニケーションをとるということを心がけないといけない。そこぐらいにしか本当にやりたいことはない。頑張らないといけない。
定時であがる。富士そばでカツ丼を食べてから図書館にくる。『暴力の人類史』を読んで去年の日記と二年前の日記にコメントをして日記を書く。いずれ日記という名の年輪になればいい。
オーラリーとニューバランスのコラボスニーカーが発表になったのに出くわした。普通にほしい。ワープドランナーという名前、都市生活者向けというターゲットチョイス、完璧な一振りが顎を直撃した。
都会的な直線に映えることが想像できるカーブがかわいい
とにかく色が良い



20240410

日記345

中央吹き抜け道

2024/04/09 昨日
TCBのひとりと花見をする(もうひとりはザ行のため参加できず)。日比谷公園からスタートして花見散歩が開演する。霞が関から出発して有楽町、銀座、新橋、虎ノ門、霞が関の順番でぐるりと歩く。ちょっと広域な銀ブラといったところ。途中銀座で二店舗ほどコンビニに入って給酒。新橋ではとんこつラーメン屋台に入る。若干の肌寒さから途中で座ることもできず歩き詰めになる。千代田線で下北まで移動して、下北でもすこしだけ飲んでから解散。
帰宅して二十二時だったが、二十二時半には即寝する。

2024/04/10 今日
久しくないほどぐっすり眠れた。やっぱりカルピスの睡眠サポート飲料が一番効く。本当は早起きして洗濯物を干してから行きたかったのだが時間がなく普通に出勤になる。渋谷経由の銀座線コースだが、わりと時間がかかることが判明した。
弁当を持って出社する。元チームの人たちと近い席に座ったばっかりに、誘い合わせてお昼を食べにいくところを指をくわえてみる羽目に陥った。弁当があるので遠慮しておきますというのは誘われてはじめて言えるセリフなのであって、行き届いた配慮により最初から誘わないでおきましょうをされると打つ手がなかった。いい加減自己学習にも倦んできたので途中堂々とスマホをデスクに放りだしてkindleで『戦争と平和』を読む。しかし、やはり周囲が気になってチャプターをふたつしか読み進められず。暇なので業後に何をしようかと考えていて、その一環で映画を調べたらノーランの『フォロウィング』が上映されていることを知ったので予約する。図書館からシャンテは歩いていける距離なので定時後に図書館→映画館というよくばり都会セットみたいなコースをとれることになった。図書館で『暴力の人類史』を読み、日記を書いて映画館に向かう。
ちょっと時間があったので有吉メモを読んだ。面白かった。

20240409

日記344

花見本読み

2024/04/08 昨日
図書館を引き上げたのが大体八時半。帰宅してゴジラSPを見ながら、せいろで蒸し上げた玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、春キャベツ、冷凍豚、ウインナーをいただく。一話二話を見たあと、有吉クイズを見る。二〇〇五年の新聞ラテ欄の穴埋めクイズだったのだが、さすがに十九年前になると隔世の感がある。覚えているところは覚えているし、言っても00年代で大学に進んだ時期なので普通に繋がっている意識はある。それでも隔世の感というほうが実感に即するようになったのが奇妙に感じられる。
二十二時半にはねむる体制に入る。二十三時にはねむる。しかしねむる直前になって自分の身体が永遠に維持できないことに気がつき、そこから死後の無を想像して苦しんだ。解決策がそのままねむってしまうこと、というのも考えてみれば恐ろしい。

2024/04/09 今日
七時に起きてスクワットをする。三分間だけだけと思ったが、筋肉痛の蓄積が思ったよりあって六種目あるうちの最初の二種目だけしかできなかった。
雨が降っていたが頑張って下北沢駅まで歩き、新経路で通勤する。渋谷駅で結構歩くがこれが一番ストレスの少ない通勤経路かもしれない。銀座線の出発駅になるので必ず座れるというのも大きい。虎ノ門についてしまえば雨に濡れる心配はない。
資料の読み込みと、新チームでの引継ぎについての説明を受ける。四月末で抜ける人から別途説明を受けることになっているが、おだやかそうながらはきはき喋るところをみると優秀そうだ。とてもじゃないが自分に後任が勤まるとは思えない。が、無理にでも自信あるように振る舞ってみようと思う。
定時で帰るころには雨も止んでいて、富士そばでカツカレーを食べてから図書館にくる。カツカレーはあんまりだった。カツは揚げたてだったが小さいし、肉部分もぎりぎり小さすぎないサイズ感で余計にみすぼらしく感じられてしまった。小さいカツなのだが小さすぎることはなく、まるで冗談に紛らしたユーモアがなく、代わりにシビアな経済感覚があるといった趣。
今日は友人と日比谷公園で花見をすることにした。待つ間に日記を書いて本を読む。雨は止んでこそいるもののまさに花冷えのする春の夜なので風邪など引かないかすこし心配だ。

20240408

日記343

Be gentle

2024/04/07 昨日
スタバから歩いて帰宅。せいろ野菜と鶏肉の晩ごはん。鶏肉がぷりぷりで美味しかったし、大根の輪切りはいくらでも食べられそうだった。すずめの戸締まりを見る。ファンタジー色のつよいフィクション作品にするにはモチーフに現実感がありすぎるというところにほとんどすべての非難すべきポイントがある。他にも演出や人物造形に不満がないわけではないが、そんなことはいかにも些事に思われる。現実の出来事を作品で扱うのであれば必要となるはずの配慮が足りていない。いや、注意深く配慮はされているが、そもそも地震災害の原因を特別な力とそれを食い止めるための特別な役職者の力不足に帰するのは、現実の被害者に対する横暴ではないか。見終わったあともしばらく気分がわるかったし、今も腹立たしく感じているが、自然による人間の手に負えない出来事に対するものの見方が神話を形成するということはこれまでも見られてきたことで、そういうことをやりたかったのかもしれないとは思った。しかし結果的に時期尚早かつ力量不足で、制作中止にしないまでも延期するべきだった。製作側のお金の問題に巻き込まれてそれができなかったのだと想像するが、そうだとしてもまったく言い訳にならない。昔ながらの比喩表現を借りると、「悪魔と契約して駄作を作り出した」ということになる。罪はふたつある。大きいのと小さいのでふたつだが、分割されているだけに罪深くならないというのが本当に良くないところだ。
力量不足と言ったところは、登場人物への感情移入がなされそうなところですぐ次のシーンに移ってしまう駆け足の編集のことを指している。しかし、安易な感情移入を避けてあえてそういう演出にしているということも考えられはするので、その場合、単純にまずいということはいえない。また、登場人物が桃太郎の犬猿雉ばりに従順かつ協力的なのも気になるところだ。それぞれの持っている能力や差し出せるものも主人公が前進するのにちょうどいいし、放っておくこととかまってあげることのバランス感覚が何度も同じような人助けを繰り返してきたかのように過不足なく、手の差し伸べ方もやけに手慣れている。そういう人たちしかでてこない。変なやつや冷たい無関心もあったなかで、前に進むことのできる他人とのひとときだけを切り取ったのだということも言えるが、そういうやりとりも(ひょっとするとそういうやりとりこそ)重要ではないのか。そんなふうに省略してしまいつつ、犠牲が見込まれる「100万人」としてだけ他人を取り扱うというのは、物語至上主義ならぬ主人公至上主義といわれても仕方ないことだ。ただ、そういうことを堂々とやってしまえるのがこの監督の持ち味だと思うので、持ち味を発揮できているとも考えられる。しかしその場合、現実に起きた出来事との相性は相当悪い。何らかの手立てを講じたうえで接続することが必要不可欠だった。それにもかかわらず、普段と同様のやり方でほとんど無造作に取り扱っていることで、落ち着いて映画を見るために必要なだけの集中を湧き上がる反感によって阻害されてしまった。
二十三時過ぎにねむろうとするも、たらたらして二十四時近くの入眠になる。

2024/04/08 今日
金曜時点でこの新しい職場では月曜がそこまで嫌とは感じないかもしれないと思っていたが、習慣の力はつよいもので、何のことはない、憂鬱な月曜の朝だった。
夢で高校時代の友人たちとキャンプに行った。馬鹿な甲冑遊びに興じて対決しているうちのひとりが事故でほとんど指を落としそうな大怪我を負った。ぷらぷらと手のひらから離れかけた中指だか薬指を氷で冷やして病院に行くことにしたのだが、何をぐずぐずするのかいつまでも車が出ない。友人の痛そうな表情を見るのも忍びないし、目線を下げていたらちょうど視線が患部のあたりをさまようことになり、ろくに冷やせていないぷらぷらと手のひらから離れたがっている指ばかりが目に入り、一体何をぐずぐずしているのか、と気が気でないし、だんだん腹が立ってきたところで目が覚めた。
出退勤時には雨にはならない予報だったのでスニーカーで出勤。ぎりぎりのところで体制変更を思いついたらしく、先週の話とはちがうチームに所属することになった。どちらが良いのか判断できないし、何より自分で行き先を決められるわけではないので、これで良かったんだと強いて思うことにする。いずれにせよ、小規模ながらわかりやすく未来が分岐したことになる。
定時退社。雨も降っていないし富士そばに寄ってカツ丼を食べてから図書館にきて本を読む。日記を書く。移動中にはヴァンパイア・ウィークエンドの新譜とサンデーナイトドリーマーを聞いている。到着してからはいつもの通り辻井伸行のショパン。一曲だけケンドリック・ラマーとメトロ・ブーミンのLike thatを聞いた。「そういうのがしたかったの?」というのは強烈な一撃になる。そいつら越しに脳が揺れるのを感じた。

20240407

日記342

止まり木

2024/04/06 昨日
朝起きて散髪をしにいく。その後そのままクラシックのほうのスタバに行く。時間帯もあって席がガラガラだった。暴力の人類史を読む。
十三時過ぎに昼ご飯にする。ドドドにいってぶりの照焼定食をたのむ。夜に行くときにはいつも売り切れていて食べられなかったが売り切れになるのも納得。めちゃ美味い。
Reloadのほうに散歩してからK2で『落下の解剖学』を見る。温故知新というか新しい感覚と古い演出が渾然一体となっていて感覚的に目新しさを感じた。フランスやドイツでは当たり前のことなのかもしれないが、登場人物全員が自分の主義主張をそれは見事に開陳していて違和感というか気圧される感があった。主人公の息子にしても、自分の言葉で正しいと思うことを主張していて(それは相手の意見への反駁でもある)、とにかく聡明だと感嘆させられた。口をきかないことでそういう違和感とは無縁であるはずの犬さえ、もし言葉を操ることができたらさぞ朗々と弁じ立てるんだろうと思わせる賢そうな瞳の光を宿していて、本来癒やしであるはずの犬パートでも心休まることがなかった。唯一心休まる思いをしたのは刈り上げ警察官の穴だらけの証言場面だった。彼だけがひとり気を吐いて、それこそ犬のような素朴さをもって緊迫感の続く会話劇の小休止に一役買っていた。しかし、法廷全体がすぐ「こいつに喋らせても駄目だ」という空気になったのを見て、結局、居た堪れない気持ちになった。
映画を見てすぐ渋谷に移動。同居人がシークレットイベントに連れて行ってくれる。場所は何度か行ったことのあるボードゲームカフェ。ただ、なにやら奥の席に案内され、いつもと雰囲気がちがう。なんと、イマーシブシアターのプレ公演だった……!
演目はコメディ要素の強い演劇で、よくカフェなど飲食店を使ってやっているような小劇団の演劇だった。こちらも作り上げられた世界観に寄与する必要を感じて緊張したため、全力で楽しめなかったのが、そういう緊張感そのものがイマーシブシアターの醍醐味であるかもしれず、そうだった場合、きちんと楽しめたことになる。他のテーブルの人がそれなりに劇的な内容の話をしているとしても、ガン見して立ち聞きするのは気が咎めるので、それとなく聞いていないようにして聞き耳を立てているというような演技をしてみたのだが、どうやらそういった配慮はまったく不要だったようだ。あとは劇の内容よりも観客のなかにサバンナ高橋がいたことが記憶に残った。演者を円形に取り囲むかたちに配置されていて、演者を挟んで真向かいに高橋が座っていたのでそちらが気になり、しかも気にしていない素振りを維持する必要を感じてなんとか実行に移そうとしていたため七〇分近くの公演時間のほとんどに高橋の存在がちらつき続けた。主宰の人にぜひ宣伝をお願いしますと言われたのでここで宣伝することにするが、イマーシブシアターには従来の演劇のように「こう見る」という形がまだ定着していないので、自由に劇に参加することも参加しないこともできる。最大限困らせるようなことをやってみてもおそらく訓練された演者によって吸収されると思うので、もし見に行くのであればその大船に乗ったつもりで、のびのびと観劇(劇参加)するのがいいと思う。新しい体験を求めるのにうってつけのアクティビティが、ボードゲームカフェでのイマーシブシアター『コアクト』だ。ジェリージェリーカフェ渋谷店で来週から一週間ほど開演とのこと。時間とお金があればぜひ行くべし。
終演後、同卓になった人たちとごきぶりポーカー、おばけキャッチであそぶ。それこそ役者をやっていそうなよく声の通る女の子がルール説明や進行を買って出てくれた。小さな男の子もいたが、どちらのゲームにも全力で取り組み、全員をねじ伏せて両方ともで一位になった。
店を出てから食べたいものの折り合いがつかず渋谷で晩飯難民になりかけたが、グストイゴメスで両者妥協しブリトーを食べる。
酒を飲みながら帰宅。酒を飲んで電車に乗っているという状況のなかでなぜか中東情勢の話をしかけられ、あまり大声で話すような内容でもないので(状況的に真面目に話そうとするのもむずかしかった)否定的な短い返事をしていると、否定意見の意図が相手に伝わらず、機嫌を損ねるだけの結果になった。しかし、中田敦彦の動画を見て、それだけを情報元にして話すというのはいくらなんでも蛮勇がすぎる。自分もどんな話題でも話せるようでありたいが、慎重になるべき話題はやっぱりあるし、適切ではない方向性が目についたとき、反応しないままでいることが難しい。それでも準備していない反論より話頭の転換のほうが賢明なのだろう。そのときの日和っている後ろめたい感じは、それについてはっきりとしたことを知る労力をとっていない以上請け負うべきことなんだろう。

2024/04/07 今日
久しぶりの晴れ日になったので洗濯機を二度回す。同居人が親知らずを抜き、下顎付きの歯が左右対称になったことを喜んでいた。アップルパイとパン・オ・ショコラを買ってきてくれたのでそれをいただく。ケンドリック・ラマーを聞きながらスクワットを三分間だけだけする。
昼から代々木公園に出かける。下北沢駅の箱根そばで昼食をとってから代々木八幡から代々木公園に入る。目当てのわんわんカーニバルは想像していたよりかなり小規模かつ人間をもてなす犬たちにも疲れが見えており、悪のペットショップに行ったような気分にもなって楽しくなかった。道行く犬たちを見るのは楽しかったが、人も犬もごった返すなかでどの犬も緊張状態にあって普段とはちがう振る舞いをしているような気がして、これもドッグランで犬を見ることより楽しくはならなかった。ただ、春の陽気が最高で、青空の下だったら何をしていても楽しいボーナス状態だったので、その状態で桜とLUUPでの都市移動を満喫できてよかった。シャツ一枚羽織っていれば寒くも暑くもない状態というのが春のあるべき姿で、しかも雨続きのなかの晴れ間の一日になったのがどう考えても嬉しい。実際すれ違う人全員が笑顔で歩いているように見えた。
渋谷のラグタグがある通りをすこし行った先の公園ですこし休憩してからLUUPの六〇分クーポンを駆使して下北に戻る。途中、代々原のジャーミイでハラールショップや礼拝堂をちょっとだけ見学する。家で水着を回収してそのまま梅ヶ丘のプールまで移動。一時間弱泳いでから梅ヶ丘駅スタバに入って日記を書く。

20240405

日記341

ちょうど目線パーク

2024/04/04 昨日
図書館で本を読んでいるとタリーズ時代の友人から着信がある。外に出て近況などの話を少しする。その後図書館を引き上げて日比谷駅まで移動。駅でまた話をしてBerealをやろうという話とuekaramesen_streetのフォローたのむというお願いをする。てっきり断られるかと思っていたらあっさりフォローしてくれた。こういうときに意外と断らずに素直にお願いを聞いてくれるという、らしくないんだからしいんだかわからない年下・後輩ムーブを決めてくる。というか前からそうだったか。もうひとりのやんちゃボーイのほうがきっぱり断る系の動きをするからその印象に引きずられて同じフォルダに入れてしまっている。彼らふたりは顔かたちこそあまり似ていないものの呼称が似ていることもあって兄弟のように自分からは見える。七月から職場が変わるらしく、六月には有休取得で空き時間があるため東京に遊びに来るかもしれないという話だった。東京で遊べるのが楽しみだ。こうやってちょくちょく連絡をくれる友人がいるのは嬉しい。そういえばトイレに一円玉が落ちていてそのときに名曲『1円拾った』のメロディが再生されたという話をしていた。それがきっかけで思い出してくれるのはまさに望外の喜びだ。作ったときにはこんなに良い効果があるものとは想像していなかった(売れるんじゃないかという期待はあった)。彼らとのバイト生活は異常に楽しくて、B面の『楽しいことは逃げていく』という曲もすぐに書けて、金字かどうかはわからないが一時代を記念する塔を打ち立てられていたことに満足をおぼえる。今ここからも見えるというのが自分なりの灯台のようでなんともたのもしい。
ちょうどの電車に乗れたので表参道から同居人が乗り合わせてそのまま一緒に帰宅する。帰ったら二十二時過ぎになっていたのでそのまま寝る準備をしてねむる。朝が早いとこのあたりに無駄が生じないのでこのルーチンが定着すればだいぶつよい。

2024/04/05 今日
七時に起床することにも早や慣れた。雨の予報だったのでスニーカーを履かず、テクシーリュクスで出勤。日和っているわけではないので勘違いしてくれるなという気持ちを前面に出して出社する。今日も動画研修かと思っていたら、予定ではそうだったのだが、急遽打ち合わせに参加せよとのことでわけもわからぬなか打ち合わせに参加。そのままベテランさんのありがたい個人開催説明会を受けさせてもらえた。愛嬌のある人で、ちょこちょこ昔の大変だった話がはさまれるも、研修で学んでいることからのこのチームでの例外対応を中心にためになる話を聞かせてもらえた。何より愛嬌があるのがだいぶ良い。新入りの自分がはやく馴染めるように気を使ってくれているのがわかって嬉しかった。もともと急遽の打ち合わせに声をかけてくれた人も二月に入ったばかりらしく、年齢もそう離れていないと思うし仲良くなれたらいいな。
すぐ帰りたいとなる雰囲気の職場ではなく、むしろぼーっとしてから、あるいは誰かに話しかけてから帰るぐらいがちょうど良さそうな良い雰囲気の職場のように感じられるが、1.まだ話しかける相手がいないこと。2.定時ですぐ帰るのはポリシーであること。というふたつの理由から心を鬼にして退勤した。
そばを食ってから図書館に移動。『数学する精神』読了。数学というイメージで理解するしかないものについて、べつのイメージで喩えてくれるような本。イメージ同士のつながりを感じられると十楽しいのだろうが、数学の方はちょっとわからないし、もう一方のイメージの方も片方に数学があることによるこちら側の姿勢の問題でいつもとは勝手が違い「わかるー」とはいえない(四ぐらいはわかっているつもり)ので、いつにもましてふわふわする感じだ。漱石がの猫が出てきたのはやっぱり嬉しい。それから山崎正和の影を感じて、またすこし懐かしくなった。『演技する精神』や『世界文明史の試み』での〈「する」身体〉からの、言葉の上での直接的な符号からにすぎないが、連想したものは連想したものなので仕方がない。
正しさにも二種あるという考え方は、べつの場所でも使えそうな考え方だと思った。たしかテオリアとオートス(読み直したらオーパスだった)。すべてがオーパスではないのかという気がしないでもない。テオリアは宇宙人からしても正しいと考えると思われる正しさのことだというが、テオリア度を強めれば強めるほど(自明の度合いを高めるほど)、そのような宇宙人の仮定のほうが無理になるような気がする。程度の低いというか自分の見える範囲でしか動かさないレトリックだが、言おうと思ったらそういうことを言えるので言った。
あとは人間の数学は見えることを前提とした数学世界になっているというのも面白かった。すぐれた視覚表現で数学の解説をしてくれる3blue1brownの動画シリーズは、この数学世界観に則ったというか同じ直線上にある試みなんだという気がした。直接つながりがないところにつながりを見いだすというのは、パズルがバチッとはまるのとは違うことだと思うが、自分のなかでは同じかそれ以上の快感がある。比喩表現の表現元ではなく、本当のパズルのほうしかわからないから比べるべくもないわけだが。
金属バットがベジ郎という二郎系野菜炒め店のことを褒めていたので行ってみたくなった。回り道になるけど渋谷に寄って帰るかもしれない。
そういえば仕事中にぼーっと下のようなことを考えた。
人には楽しいというだけの理由でやっていることがいろいろあると思うが、それをやめてみようとしてみると良い。まず楽しいだけの理由でやっていることのリストアップをしてみるとその量に驚くかもしれない。そしてその大半はやめるのが難しいと感じられるだろうと思うが、やめようとして暫定的にやめてみれば半分ぐらいはそのままやめられるものだ。わざわざ生活上から楽しいことを減らしてどうするのだと思うかもしれないが、そうやって空いた容量には新たな楽しいことが入る余地が生まれる。それは周囲を見渡して何か楽しいことがないかと探すフェーズに入るということだ。世の中にはたくさんの楽しいことがあるから、そのなかから自分にとってとくに楽しいものを見つけることが大事だ。楽しいと思ってやっていることのサイクルを早めることで特別楽しいことを発見する効率が上がる。人はもともと「飽きる」というかたちで意図せずそのサイクルを回しているのだが、月一回のペースで楽しいことの棚卸をすることで、そのサイクルを早めることができる。しかし何も効率のためだけに言うのではない。
飽きたといって消極的に楽しいことを終わらせるのではなく、楽しいことがまだ楽しいうちに自らそれをやめていくのだ。いわば積極的に楽しいことをパージしていく。そうするとやがて、何度棚卸の機会を迎えても一向にやめようと思わない、楽しいことのコア部分が浮かび上がって、自分自身にも明らかになる。楽しいだけではない「大事な楽しいこと」を見つけられるのが、楽しいだけの理由でやっていることをやめてみるという試みの良い効果だ。楽しいことを探す機会を増やすほうがいいのは間違いない。それに一度手放してもべつのより良い機会でまた出会い直すこともできるはずだ。

20240404

日記340

春雨でもあり夜雨でもある

2024/04/03 昨日
スタバを出たあとユニクロに行ってオンラインで買った商品を受け取る。帰宅してから寝るまですこし時間があったので映像の世紀を見る。一九六八年と一九八九年の回。「一九八九年は一九六八年の続編である」というセリフがバチッと決まっていた。あとはラジオで非暴力での抵抗を呼びかけたチェコの文人ハヴェルが印象的だった。

2024/04/04 今日
今日は曇りだったのでスニーカーで出社した。霞が関から虎ノ門まで歩くあいだ、スーツでスニーカーを履いている男はひとりもいなかった。マンハッタンと並んだときにこれではさすがにだいぶ遅れを取っている。ひとり気を吐いていこう。
初日にチーム向けに挨拶をして以来、今日はグループ向けに挨拶をした。それ以外は研修動画を見て過ごす。
自分にとっては新しい登場人物になる四月一日からの同僚や先輩連の顔を見ると、これまでどこかのタイミングで見たことのある顔ばかりだという気がする。こういう顔でこういう雰囲気の人、どこでか思い出せないもののどこかで見聞きして知っている。登場人物に既視感がある。
昔といっても東京に出てきてからのことだが、初めて会った人に「あなたによく似た人い会ったことがある。いや、どこかで会いませんでしたか」と言われたことがある。相手が同年代の異性だったりすれば何じゃそれと思いながらもすこしテンションが上がったかもしれないが、年下の同性に言われたものだからテンションは上がらず、自分にはめずらしくちょっと失礼やなと思ってしまった。そのときにも思ったことだが、自分のことを主人公と考えて人生を物語だと自然に考えていてしかもそのビジョンを他人にも振りかざせる態度が不遜だと思ったのだった。もちろん自分というのがこの私ということであればそういうふうに思うのはまったく自然なことだし、彼にとっての自分は彼自身のことなのだろうからこの立ち位置から彼を指して不遜だというのは見当違いだとも思うのだが、それでもこの私からすれば彼のことを不遜な平民がおると顔をしかめるのもまたまったくもって自然なことだ。この立ち位置から見て玉座はひとつしかないわけで、だとしたら座るのは僕ということになる。そういう思考で、登場人物がまるで容量不足からくるモブキャラの使い回しのように被って見えるという体験をしたとき、そこでおもしろいで済まず、かつて無礼を働かれた記憶が浮かび上がってくるのが不愉快だった。しかもそのことに考え至った二回ともで、顔も名前も思い出せないそいつの薄暗くグレーアウトに塗り潰されたニタリ笑顔が思い起こされたし、なんだったらこれを書くうちにも思い起こされ、しかも完全には思い出せないもやもやに後押しされてやり場のないいらいらが募った。
仕事後にちょっと歩いて千代田区の図書館にくる。都市生活者のなかでも仕事帰りにこの図書館に立ち寄れるのはごく限られた一部の成功者だけの特権のように思える。皆読書したり視覚の勉強をしていたり、なかには仕事をしている人もいる。その全員が大きな音を立てたりしないし静かにルールとマナーを守って過ごしている。良い図書館だ。
『暴力の人類史』を読む。日記を書く。『戦争と平和』を読む。戦争と平和には豊富にユーモアがある。こんなに可笑しい箇所があるなんて実際に読む前には想像もできなかった。最初はこの長編をもとにしてピンチョンは独自の味付けとしてユーモアを物語に取り入れたんだろうと思っていたが、この長編のユーモアも含めたすべてをもとにして、自分の生きた時代に当てはめただけのような気がしてきた。種類はちがうが同質のユーモアがある。人間の出す一番良い音を使って奏でる音楽のような。暴力の人類史を読んだあとでこういう言い回しをするのはいらぬ不穏さを呼び込んでよくないが、それでもそういう音が鳴っているのを感じるしそれをひとまとまりの作品に感じられる以上、音楽というのがまっとうな言葉遣いだと思われる。第四部の冒頭がこれだ。

聖書の伝説は、働かないこと――無為が、堕落前の最初の人間の至福の条件であった、と語っている。無為を愛する気持は堕落した人間にもそのままのこったが、罰がたえず人間の上に重くのしかかっている。それは単にわれわれが額に汗して自分のパンを得なければならぬからではなく、自分の精神的特性によってわれわれは何もせずに、しかも心安らかでいることはできないからである。何もせずにいることの責めは負わねばならぬぞ、とひそかな声がささやきかけるのだ。何もせずに、しかも自分は世に益し、自分の義務を果たしているのだと感じられるような状態を、もし人間が見いだすことができたとしたら、彼は原始的な至福の一面を見いだしたことになろう。そして義務としての、だれからも非難されることのない無為のこのような状態を享受しているひとつの階級がある――それは軍人階級である。この義務としての、だれからも非難されることのない無為にこそ、これまでもそうであったし、これからも軍隊勤務最大の魅力があるのである。


進歩的というよりは現代のパースペクティブに合致するようだ。ひとつ心がけることがあるとすれば 、軍隊勤務をしないでこういった無為を享受できるように個人は当人の精神的特性を醸成しなければならないし、そこにこそ現代人特有の、つまりこれが書かれた時代にはまだ存在しないはずの義務があるのだといえる。

20240403

日記339

ビル影

2024/04/02 昨日
スタバを出たあとユニクロで感動セットアップの試着をする。どれも良かったしどれでも良かったのでコットンライクのネイビーを選ぶ。一番安く一番無難というチョイスだが、仕事するときに着る服など”コストパフォーマンス”で選べばいいのだ。
帰宅してからぼーっとして二十三時過ぎにはねむる。

2024/04/03 今日
久しぶりにきちんとした睡眠時間になる。そのおかげで一日調子がよかった。研修のビデオを見ているときにもしっかり内容が頭に入ってきたし、くだらない内容のときには違うことを考えたりもできた。
雨だったので図書館に行くのは断念し、雨に濡れないコースで下北まで移動する、つもりが渋谷の茹で太郎でそばを手繰りたくなったのでカツ丼セットをあつらえてから井の頭線に乗る。理の当然として道中濡れる羽目になった。手持ちの折りたたみ傘をかざしたもののカバー範囲が狭く、卸したてのコットンライクのスーツがまあまあ水をかぶった。
スタバにきて読書。『物語ビルマの歴史』。日記を書く。

20240402

日記338

タイガーゲート

2024/04/01 昨日
早めにねむったのはいいが、夜中に目が覚めてしまい、その後すこしのあいだ寝付けず。お腹がゴロゴロしそうな予感がある。しっかりお腹を守ってねむったので下さずに済んだが、多量の牛乳を飲んでいたので危なかった。

2024/04/02 今日
自分の言い分があるから必死になって説得を試みる夢を見た。高校時代の女子を相手に、当時のアンバランスな関係性そのままだったが、こちらは大人になっているんだから意を尽くせばきちんと伝わるはずと思って半泣きになりながら説得を試みた。どんな内容だったかくわしいことは覚えていないが、大演説の大佳境で突然鳴ったアラームで目が覚めた。場所も相手も話の内容もおぼえていないが、前日にFacebookで高校時代のクラスメイトを大量に見つけたことが見た夢につながっていたと思うので、高校時代のクラスメイトが登場人物だったのではないかという当て推量だ。
出社二日目。PCのセットアップにほぼ一日を費やす。その後ナレッジを見て感心させられる。案件受注時のリスク管理について、きちんとチェック機構が整理されていた。これぐらい仕組みがしっかりしていれば前職であんな悲惨な目に合わずに済んだだろう。
図書館に行くつもりが、同居人から会社に鍵を忘れて家に入れないとのヘルプが入り、しぶしぶ下北まで直帰する。富士そば跡の定食屋に入ってイワシ三羽定食を食べる。定食を注文すれば生ビールジョッキが一五〇円というサービス価格で提供されることを知ったが、スタバに行くつもりだったのでビールをたのまないで済ませる。その後スタバにきて読書。日記を書く。

20240401

日記337

雲の輪郭がつかめない

2024/03/31 昨日
帰宅後せいろで蒸した野菜と豚肉をいただく。野菜と肉のうまみが凝縮されて(というかうまみを逃さずに加熱されて)おいしい。お酒を飲まないで翌日の初出勤での自己紹介セリフを考える。二十三時にはねむるつもりがうっかり夜ふかしをしてしまって二十四時過ぎにねむる。

2024/04/01 今日
虎ノ門へ初出社。思ってたより電車は混んでいたが、小田急が遅延していたのでその影響かもしれず、実のところはまだわからず。緊張はあまりしないままだがなんとなくぬるっと始まった感じ。チームミーティングがあったのでチームの人達に挨拶をする。メンバーは八人のチーム。中堅のTLに経験豊富なベテランのおじさんが補佐で付いている編成で、おじさんが狂言回しの役割をきっちりこなしチームのコミュニケーションを潤滑にしている。さすが大きな組織だけあってうまいものだと感心する。こういうやり方が浸透しているのかもしれない。
スマホのセットアップとセキュリティに関する読み物を読んで初日は終了。
銀座線虎ノ門駅から表参道で千代田線に乗り換えるコースでまっすぐ下北に戻る。すた丼で晩ごはん。ユニクロでシャツを試着してから帰宅。
家に帰って冷蔵庫を開けると未開封の牛乳の賞味期限が今日でショックを受ける。一リットルを飲み切るのは無理だがすこしでも減らそうと、かなり久しぶりにスクワットをやる。三分間だけだけのスクワットエクササイズに息も絶え絶え、脚もPURUPURUになって、足腰の弱りを痛感する。抹茶味のプロテインを牛乳で溶いて飲む。その後久しぶりにグーグルアナリティクスをすこしだけ進めて、読書して日記を書く。スタバには行かなかった。これからは通勤メインになるのでスタバに行く習慣はなくなるかもしれない。

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