20240330

日記335

怪獣一号

2024/03/29 昨日
雨。午前中からスタバに行く。窓際の席に座って雨が水たまりに落ちて水紋を作る様子や定期的に通り過ぎていく電車を眺める。
昼過ぎになって雨が止んだので外に出てなおちゃんラーメンを食べる。その後、駅前でこれからどこにいこうかという宙ぶらりんの状況を楽しんでから、一旦帰って昼寝することにする。三十分程度ねむってから『オッペンハイマー』を見に行くことを思い立ち、新宿TOHOのIMAXレーザーの回を見つけたのですぐに席を予約して飛び込む。
序盤の主人公の人物紹介のシーンで内的宇宙をさしはさむ見せ方が面白かった。視覚的に豪華な映像は宇宙をふくめた外世界の描写に多く見られるが、それを主人公の見たビジョンに使うのが許されるのはクリストファー・ノーランかテレンス・マリックくらいだろう。テレンス・マリックの映画が極度につまらないことを考えれば実質ノーランが唯一無二だ。
序盤中盤だけで映画として完成させようと思えば完成させられるのに、終盤の会話劇を描いたのはこの映画の描きたかった中心がそこにあるからなんだろう。しかし、どうしても開発環境における装置の技術的成功と本番での使用に重点が置かれてしまい、その後ほとんどシームレスに続いていく会話のほうに意識を集中させられなかった。映画を見ていて取り残される感覚になるのは覚えている限りではこれが最初かもしれない。つまらなくて途中で寝た映画では取り残されたという感じはしない。しっかり目を開けて、目の前で繰り広げられる展開に興味を持って追いかけているのに話のポイントがわからない。他人の映画を見た感想で「ついていけなかった」というのを見たことがあり、どういうふうに思うんだろうと疑問だったが、こういう感じがするものなのかと思った。演出によってそのセリフに含まれた意味があるというのはわかるのに、肝心のメッセージが伝わってこない。映像的な洗練は感じられるので全体としての印象は良いのだが、何をもって良いと思うのかその中心部分が空白になっていて不安な気持ちがある。クリストファー・ノーランという監督のことがこれまでの作品によってわかっている気でいたが、軌道修正が必要なようだ。中盤から終盤にかけては反省・内省が欠かせない要素として入り込んでくるが、それをするには劇的で刺激的な演出が多いのではないかという気がする。しかしそれはハリウッド映画というのはこういうものだというこちら側の見方の問題なのかもしれず、ノーランはその修正を要求してもいいレベルの監督だと思うからこっちで修正してからもう一度見に行くようにしたい。
最初のほうのシーンでリンゴを毒リンゴに変えるところは、寓意と史実と登場人物紹介の三つを兼ねた見事な場面だった。ひとりのやったこと(やらなかったこと)で歴史はまったく別様に変わったかもしれないという劇的なものの見方に観客を引き込むという意味でも効果的だ。歴史にIfはないというけれど物語にはそれがある。
この映画に直接関係ある感想ではないが「ついていけなかった」というのはやっぱりショックなものだ。大学一年ではじめてドストエフスキーの『罪と罰』を読んだときには読み終わったのに面白いと感じられなかった、ついていけなかった、という感想を持ったものだし、その後、主だった小説をだいたい読み、文学についてはある程度理解できるという自信を得てからはじめてピンチョンを読んだときにも同じような感想になった。そのときには理解するための唯一の効果的な方法は再読することだと知っていたから再読することにして結局自分なりのやり方で理解できるようになった。だから「ついていけなかった」という感想がたまに出るのは当たり前のことのはずで、その場合に何をしたらいいのかもクリアなのだが、問題はノーランの映画でそれが出たことで、もしオッペンハイマーがテネットやインタステラーと変わらない難易度の作品だった場合、明らかになるのは理解するための運動神経が落ちているということだ。それは有り得そうなことだしそのことにショックを受けたと言い替えてもいい。
もしくは、一度見て理解できるものだと考えていた自分の慢心のほうにショックを受けるべきかもしれない。いろいろな作品に触れるうち、いつの間にか成長してだいたいのことが理解できるようなったというのは幻想だ。そのことについて幻想だと掴みながら、仮定の話として読み進めるということができていたのに、いつの間にか仮定という前提が消えて、そういうことができるものだと普通に考えるようになっていたとすれば、それは過信ということになる。
当然のこととして作品にただ触れるだけでは成長はのぞめない。また、作品に触れる以上のことは現状できていない。作品理解といってももともと自分が理解できる部分を理解するだけのことだし、それによって自動的に伸長する能力というものはない。もちろんそれがあると思うのは作品を楽しむための要素のひとつで自分にとってはわりと欠かせない部分だ。しかしそれは幻想パートだというのは前提として持っていないといけない。そうしないとまたいつの間にか「ついていけなかった」といって悲しんだり、もっとわるくするとそのことで作品を貶し始めるという情けない事態に陥ってしまう。それはお笑いというジャンルではすでに起きていることだ。他人のそれがどうしても目立つが、どう考えても他人事ではない。
表参道に移動する。七時半ぐらいに新宿駅に向かおうとしたが東口がものすごく混んでいてしばらく全然前に進めなくて驚いた。原宿乗り換えで表参道に。ブリトーのおいしい店があるといって連れて行かれたのが青山大学向かいのグズマンイーゴメズでずっこけそうになったが、食べてみるとたしかに美味しかったしボリューミーなのが嬉しかった。

2024/03/30 今日
昨日といい今日といい花粉がひどくてまぶたがパンパンになるところまできた。鼻水は言うに及ばず。『落下の解剖学』を見に行く予定が、同居人が「途中で目が覚めて眠れなかった」おかげで別日に変更になる。仕方ないといえば仕方ないし、寝不足の解消が映画鑑賞に優先するということもないので切り替えて洗濯機を回したあとスタバに行くことにする。オッペンハイマーのことを思い出したり反芻する前につぎの映画を見ないというのは結果的によかったと思う。
なぜアインシュタインが鬼でも見たような顔になっていたのかというのがひとつのポイントだが、それがうまく掴めないところにフラストレーションの大もとがある。
事績の評価と、責任の範囲(主体がわたしでは留まらないということ)の示唆だろうと思うのだが、「彼ら」と「私」と「私たち」の関係が各主体から見たときほぼ一様に、実際の順位とは逆転された順位になっていることを言いたかったんだと思う。映画においてトルーマンだけは「私」の責任をはっきり表現していた。それは彼の事績の評価が罪よりも功績に振れていたからそうするだけの動機があったともいえる。そうだとしても、オッペンハイマーから見たとき、「彼ら」を隠れ蓑にして「私」から「私たち」に逃れるよりは、「私」を主張するほうが正しいように思えたのではないか。
より単純には、事績を過小に評価するものの見方をたしなめられたということが原因だろう。

最近の日記の文章の乱れがなかなかすごい。書きたいように書くということを突き詰めると、読んだときに意味の通りにくい文章が生まれる。投稿するときに一度読み直すということもしていないので、ねじれていたり収まりがついていなかったりする文章がそのまま掲載されていく。一年後運が良ければ修正されるかもしれないし修正されないかもしれない。いずれにせよ日記よりはまだ読み返したりなんだりする感想記事をもうすこし時間をとって書くべきだという気がする。文章が乱れていると頭が整理されていないような印象を与えてしまう。それは実際にあてはまることではあるんだけど、そこが強調されすぎてしまうのもちがう。頭が整理されていないのはデフォルトではあるんだけど、それなりに調子良く整理されきらないところに頭を持っていけてるということが伝わっていかないと一年後の自分を含めた読者に心配されてしまうんじゃないか。最近文章めちゃくちゃだけど大丈夫です。

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