2024/03/26 昨日
早めに十九時半ごろにスタバを引き上げる。雨と強い風の中を帰宅し、リゾットを食べながら映画『ザ・ギャンブラー』を見る。
最初に出てきた祖父の喪に服す作業を主人公はしていたように見える。破滅的な行動をしたいからというのではなく、何をやっても破滅しない、破滅とは縁遠い自分の生活を本人なりに立て直す必要があってギャンブルに打ち込んでいたように見える。もともと遊びで賭け事をやっていないとあの場にいて堂々と賭けることは不自然だし、しかしあのような賭け方をしてすでに破滅していないというのも不自然なので、考えられる筋道は「それなりのギャンブラー」から「自己破壊的なギャンブラー」への変態を遂げた一時期を描いたものという解釈しかない。そしてそのきっかけになると判断できる材料は劇中では祖父の遺言しかない。結局は死によってすべてが失われるのに、すべてを得た(得ている)ような顔をさせられることに主人公は我慢がならなかったのだろう。才能のないものはごく素朴に才能という言葉を使い、欺瞞を憎む。正直さや誠実さが、もっといえば自分を偽る必要のなさこそが才能によって得られる恩恵だと信じるからだ。ジョン・グッドマンの「ファックユー理論」はそれのわかりやすいバージョンで、お金という数値化できるものを使っているだけで本質的には主人公と同じ世界観を共有している。スポーツ選手として成功できる一握りの人物が考えそうなことがなんとなくみんなに共有されて、考え方だけがひとり歩きしている状況に近い。彼を一流たらしめているのは体力と運動神経なのだが、まるでそういう考え方をするから成功したと言わんばかりだ。これは考え方は体力と運動神経とはちがって簡単に真似できるから、受け取り手はそれを知ることで素早く解決した気になれることによる。
文章という数値化できないものを云々し、才能があるとか無いとかいって若い人間向けに断定調で語りかけるとさも才能がありそうに映るということを、主人公はともかくこの映画の作者は理解している。
この主人公の世界観は総じて退屈でくだらないものだが、それでもこの映画が面白いのは、すべてを賭ける運任せのギャンブルが心底から馬鹿馬鹿しいと感じられつつも、賭けの結果に否応なく感心が引きつけられるところだ。物語上そうなるに決まっているのに、カメラがルーレットに落ちた玉の行方にパンするタイミングが絶妙に遅く、じれったくてつい覗き込もうとしてしまった。
主人公が悩んでいるとおぼしき悩みにくらべて彼の考え方がものすごく陳腐なことはさしおいても、娯楽映画としての出来は良いと思う。マーク・ウォルバーグのあの破滅的な髪型だけはどうにかならなかったのかと思うが、終わり方もふくめ爽快感があって楽しめた。
2024/03/27 今日
天気が良かったので江の島にいく。はじめて鵠沼海岸駅で降りたがこれがめちゃくちゃ良かった。片瀬江ノ島駅が観光地湘南でこちらがローカル湘南だ。タコスの名店でタコスセットを食べてドスエキスラガーを飲んでから海岸沿いを歩く。江の島まで歩いてからちょっと座って休憩。もと来た道を引き返す。雲の合間からさす光と海の反射がきれいだった。あとはビーチに足を運ぶたび思うのは波の音が最高だということだ。
十八時頃に下北に戻ってスタバで読書して日記を書く。これから表参道の飲み屋に出かけてビールを飲む。