20240323

日記330

音楽家

2024/03/22 昨日
出社日。早めに行って本を読む。仕事はそれなりにやることがあるものの基本的には暇で、次の職場でもこんな感じで働いていきたいと思うような適正仕事量だった。
定時で上がった仕事後、品川駅まで歩く。友人と山手線徒歩一周企画をやろうと提案したものの高輪ゲートウェイ駅まで来たところで「疲れた」とのことで却下になる。京急で泉岳寺から新橋まで移動。飲み屋に入ろうとするもつい懐具合が心配になって入れず。結局立ち食いそばの店で食事を済ませてから新橋珈琲店でお茶をする。その後歩いて銀座・有楽町エリアまで移動。コリドー街の様子を紹介してから有楽町駅前まで歩く。そこで路上ミュージシャンが素敵な演奏をしていてくれたのでそれをBGMにして立ち話。しかし警察官がやってきてあえなく演奏は終了。こういうときの警察官は職務上毅然としていなければならない立場だし、当然そう見えるような立ち方や姿勢を崩すことはないが、どことなく申し訳無さそうにしているようにみえるようなところもあって、そういうところが垣間見えると、まあ向こうさんも仕事なんだろうししょうがないよなという気になる。たぶんそういう作戦なのだとは思うが、そういうのは小狡いというより創意工夫と捉えたい。友人から「寒い」と文句がでたので暖を取るため有楽町の地下に入る。そこの穴蔵ベンチでの会話が面白かった。これから恋人を作るためにどうやっていくべきかという架空の話をした。こういう話題はいい加減なことを真剣に考えて喋れるという良さがある。サイコロの出目を良くするような改造をするよりもサイコロを振る回数を増やそうというとりあえずの結論を出した。だいたい誰とでもそうなるのだが論破合戦空中戦で厳密にどちらの言い分が正しいかどうかというより何となくで殴り合って最終的に肩組んで歩くみたいな、ラピュタに出てくる往年の男性同士のコミュニケーションスタイルの疑似版だ。人生の意味について、自己完結して自分だけが楽しかったとしてもそれを共有する相手がいないと意味がないということを言っていた。そういう意見は大学時代にも別の友人の口から聞いたこともあるが、自分にはよくわからない。最終的なところまで考えていくと自己完結するしかないと思うのだが、本人に自己完結ではないと感じられる自己完結があるということなんだろうか。結局は自分が楽しい・良いと感じられる方向にすすんでいくしかないと思うが、そうなるために他人が必要で、親密な他人といると自分が楽しい・良いと感じられるということなんだろう。それ自体に異論はないが、親密な関係の他人がいればオールオッケーというのはかなり危うい考え方だ。結婚がゴールという考え方の間違いに似ている。そんなわけはないのだけど、そんなわけないということにあらかじめ気がつけないものか。それとも本当にオールオッケーになるのか……?
有楽町で友人を見送ってから日比谷まで歩き、千代田線で表参道にいく。彼女が働く南青山のオフィスで本を読んだりスマホを眺めたりしてから帰宅。

2024/03/23 今日
八時に目が覚める。昨日の入眠時間からすると寝不足になるが起きてしまったものは仕方ない。『暴力の人類史』を読む。昼ご飯を十一時過ぎ頃に食べて『不適切にもほどがある』の九話を見る。その後三十分間の昼寝をして負債を取り戻してからだらだらする。これではだめだとシャワーを浴びてスタバに来たのが十六時。エキウエが満席で入れなかったのでクラシックのほうにくる。読書の続き、去年の日記へのコメント、そして昨日今日の日記を書く。
暴力の人類史は啓蒙的な本だと思うが、啓蒙するための方法に万全が期されているとは思えない。自分の本を叩き台にして社会がさらによい方向に向かう一助にするという善い意図を作者が持っていると仮定しても脇が甘いところがあるように見受けられる。
たとえば数字の取り扱いかたに不満がある。一番嫌なのは全人口分の殺人被害者数(被殺人割合)でソートすることだ。ソートすると見やすくなるし、物語の組み立てにも都合が良いのだろうが、わざわざそんなことをして物語にする必要はないと思う。
あとは統計と物語について、どちらも必要だと主張するくだりはそれらの別々のファクターを往還することの必要性を訴えるものだと思うが、その往還については慎重にならないと、任意のタイミングで統計的に考えたり物語的に考えたりすることになるわけで、そういうつもりではなかったとしても何かをかいくぐろうとしているような印象を受ける。(上巻354p)
啓蒙精神そのものは善いものだが、目的は手段を正当化しないわけで、慎重に手段を選び、手段をきれいに整えないと、党派を作ることはできても次のステージにはすすめない。間違った意見の持ち主にこそ啓蒙は必要だが、せっかく善い目的があっても手段のまずさでケチがつくのはこちら側にとってマイナスが大きい。
まだようやく第五章にさしかかったところなので批判めいたことを言うのは気が引ける部分もあるが、この時点で感じたことを書いておかないと、大著を読むときにはよくあることだが読み終わることの達成感で気持ちが高まりクライマックスで持っていかれることが予想されるので、ねんのため日記に書き残しておくことにする。単純に読み物として面白いのは面白い。とくに拷問について書かれた箇所を読むときの読書体験には特有の感触があり、ホラー映画を好んで見る人の不可解さが微妙に理解できそうな気がする。そんなふうなやり方で読者を引き込むのはどうなのかと思うが、読んでいる自分自身にも若干後ろ暗い思いがあったりするのでとりあえず判断保留にしておく。ただやっぱり最後精算するときには利子がついているんだろうし結局マイナスになる気がする。
『戦争と平和』を読む。読み始めた当初は長編作品の参考にしようと流し読みするつもりたったが、いつの間にか引き込まれてマーカーを引きながら読んでしまっている。つい味読してしまうほど面白い。トルストイとその大著をつかまえて言うことではないが、ものすごく書けている。

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