20240331

日記336

春2024

2024/03/30 昨日
昼すぎに下北沢に集まって同居人とカルパシというカレー屋にいく。スパイスカレーとスパイスを使ったジェラートのセットで、味覚への情報量が多く魔法みたいなご飯だった。
表参道に移動して同居人と別れ、友人と花見散歩を開始する。神宮球場と国立競技場を抜けて千駄ヶ谷まで歩いた。そこまではよかったのだがどんどん歩いていくと原宿に到着してしまった。本当は九段下にいくつもりが大失敗。仕方ないので山手線に乗って目黒に行く。プランBの目黒川の川下りコースを実行に移す。目黒から五反田、五反田から大崎に行く途中で人口芝の広場に人たちが座り込んで花見の真似事をしているのに出くわした。ところで花見散歩だが、肝心の桜はバグのような一輪、二輪が勇み足で咲いているだけで全体的には0.2分咲きといったところで、ただただ天候が良いという外飲み日和に過ぎなかったが、花より団子の言葉通り、大量のみたらし団子を座の中心に据えている組があったり、みんなして花見には桜は必要不可欠ではないということの具体例を提供していた。
日が暮れる手前まで居座って近くのファミマの缶チューハイを飲み、同じくファミマのあたりめ、ポップコーンをつまみ、子供連れやカップルに紛れて視覚芸術の話をした。友人と話していると自分は大学で遊んでばかりいるようでいてある程度の勉強はしてきたんだなという気になる。専門科目より一般教養の授業が楽しかったことを思い出した。話を聞いていると友人は図書館で適当に借りた本を読むことで通り一遍の教養を得ようとしているようで、効率の面ではかなり落ちるだろうから正直あまり勧められないやり方だと思うが、それにしても何も読まないよりは読んだほうがいいんだろうし、かといってこれを読んだほうがいいよとアドバイスがあるわけではないのでそのまま流してしまった。自分はこれが好きというものを見つけたいというのが望みなのだとしたら一般教養は必要ないだろう。それでも絵について誰かと何かを話す場合に何も知らないというのでは実際話にならないと思うので、その分野の教養は身につけるのが良いと思う。とくに何かを話したいというのではなければ不要だが、お喋りの話題にしたいという望みはもっていそうなので、語りの土台として教養はやっぱりあったほうがいい。
北品川をこえて天王州アイルまで歩き詰める。運河にぶちあたり海にたどり着くのはさらに先になりそうだったので今日はここまでにして天王州アイルから新宿まで移動。
新宿中央公園の芝生エリアで夜桜を鑑賞する用のライトアップ照明に照らされた桜の枝を見ながら、同様のエア花見の花見客に混じって花見をする。一時間弱そこにいてから新宿で解散。
下北沢でご飯を食べてから帰ろうと思ったが目当ての店が閉まっていたり混んでいたりで断念して、結局セブンの親子丼を買って帰ってそれを食べる。有吉の壁の続きを見る。AIにコンビを決めさせてネタを書かせる企画のネタが異常につまらないものばかりで、それに全乗っかりで真面目に演技する芸人たちのパフォーマンスにめっちゃ笑ってしまった。不条理に直面して足掻く人間の姿には本質的な可笑しみがある。

2024/03/31 今日
九時過ぎに起きる。同居人が走りに行くというので自分も運動不足が深刻であることから急遽走りに行くことにする。絶好のジョギング日和で、緑道にはランナーがたくさんいた。エクササイズにはケンドリック・ラマーと決めているのでハンブルを流して走り始める。が、サビ前に背中がピキピキいいはじめる。背中の異変を感じてなかば強引に背中を伸ばそうとしたのが完全な悪手で、歩けないほど痛みが激しくなってしまった。なんとか気持ちを落ち着かせてよたよたと歩き、水分補給が肝心だと思ったので自販機を探す。しかし電子マネーが使用できる自販機が見当たらず。前から同居人が颯爽と走ってきた(普通に走っていただけだが自分の状況からすれば颯爽と走ってきたように見えた)ので、なんとか走っているポーズを取ってすれ違う。しかしそのポーズで痛みが増してしまい、しばらくその場にうずくまることになった。緑道はどこまでも続いてはおらず、すこし行った先に折り返しポイントがあり、往復するコースになっているので、すれ違ったあとはこちらがそこで止まっている以上追いつかれることになる。思っていたよりも早く追いつかれたので、簡単に事の顛末とリタイヤを告げ、コンビニで経口補水液Verのアクエリアスを買って飲みながら家に帰る。春らしい陽気からくる暑さと背中の痛みとで汗をかきながらほうほうの体で帰宅。すこし安静にして歩けるようにはなった。
その後、いろいろあって豪徳寺に行く。昼食をとる店を探すが適したところを見つけられず、一旦最近開店したドーナッツとコーヒーを売るおしゃれなショップで腹ごなしをする。
それで元気が出たので春の陽気に誘われて経堂まで歩く。はしぐち亭という洋食屋でハヤシライスを食べる。経堂の古家具屋に立ち寄ってからLUUPの60分無料クーポンを駆使して下北まで帰る。ダイエーで晩御飯の食材を購入し、図書館カウンターで予約していた『暴力の人類史』の下を受け取る。
LUUPを返却し一旦帰宅してから、せっかくの陽気でもあるので、まだ背中は痛いもののプールまで行って泳ぐことにする。途中羽根木公園を通ったら、賑やかなエア花見客がここにもいた。さすが桜が咲いていないだけあって人のボリュームが過剰になっておらず、すごく楽しそうだった。おそらく桜が咲き始めるとこうはいかないだろうと思われる。春の陽気さえあれば花見に桜はいらないのかもしれない。
久しぶりのプールはやっぱり楽しかった。大量の水に身体を浸して手足をばたばたさせたりゆらゆら浮かんだりするのは特有の面白さがある。帰りしなに梅ヶ丘駅下のスタバに行って読書をしてから日記を書く。翌日が新職場の勤務初日になるので自己紹介挨拶の文面を考えようとしたのだが、それは帰ってご飯を食べてからやることにする。二十時過ぎに電車に乗って帰宅。

20240330

日記335

怪獣一号

2024/03/29 昨日
雨。午前中からスタバに行く。窓際の席に座って雨が水たまりに落ちて水紋を作る様子や定期的に通り過ぎていく電車を眺める。
昼過ぎになって雨が止んだので外に出てなおちゃんラーメンを食べる。その後、駅前でこれからどこにいこうかという宙ぶらりんの状況を楽しんでから、一旦帰って昼寝することにする。三十分程度ねむってから『オッペンハイマー』を見に行くことを思い立ち、新宿TOHOのIMAXレーザーの回を見つけたのですぐに席を予約して飛び込む。
序盤の主人公の人物紹介のシーンで内的宇宙をさしはさむ見せ方が面白かった。視覚的に豪華な映像は宇宙をふくめた外世界の描写に多く見られるが、それを主人公の見たビジョンに使うのが許されるのはクリストファー・ノーランかテレンス・マリックくらいだろう。テレンス・マリックの映画が極度につまらないことを考えれば実質ノーランが唯一無二だ。
序盤中盤だけで映画として完成させようと思えば完成させられるのに、終盤の会話劇を描いたのはこの映画の描きたかった中心がそこにあるからなんだろう。しかし、どうしても開発環境における装置の技術的成功と本番での使用に重点が置かれてしまい、その後ほとんどシームレスに続いていく会話のほうに意識を集中させられなかった。映画を見ていて取り残される感覚になるのは覚えている限りではこれが最初かもしれない。つまらなくて途中で寝た映画では取り残されたという感じはしない。しっかり目を開けて、目の前で繰り広げられる展開に興味を持って追いかけているのに話のポイントがわからない。他人の映画を見た感想で「ついていけなかった」というのを見たことがあり、どういうふうに思うんだろうと疑問だったが、こういう感じがするものなのかと思った。演出によってそのセリフに含まれた意味があるというのはわかるのに、肝心のメッセージが伝わってこない。映像的な洗練は感じられるので全体としての印象は良いのだが、何をもって良いと思うのかその中心部分が空白になっていて不安な気持ちがある。クリストファー・ノーランという監督のことがこれまでの作品によってわかっている気でいたが、軌道修正が必要なようだ。中盤から終盤にかけては反省・内省が欠かせない要素として入り込んでくるが、それをするには劇的で刺激的な演出が多いのではないかという気がする。しかしそれはハリウッド映画というのはこういうものだというこちら側の見方の問題なのかもしれず、ノーランはその修正を要求してもいいレベルの監督だと思うからこっちで修正してからもう一度見に行くようにしたい。
最初のほうのシーンでリンゴを毒リンゴに変えるところは、寓意と史実と登場人物紹介の三つを兼ねた見事な場面だった。ひとりのやったこと(やらなかったこと)で歴史はまったく別様に変わったかもしれないという劇的なものの見方に観客を引き込むという意味でも効果的だ。歴史にIfはないというけれど物語にはそれがある。
この映画に直接関係ある感想ではないが「ついていけなかった」というのはやっぱりショックなものだ。大学一年ではじめてドストエフスキーの『罪と罰』を読んだときには読み終わったのに面白いと感じられなかった、ついていけなかった、という感想を持ったものだし、その後、主だった小説をだいたい読み、文学についてはある程度理解できるという自信を得てからはじめてピンチョンを読んだときにも同じような感想になった。そのときには理解するための唯一の効果的な方法は再読することだと知っていたから再読することにして結局自分なりのやり方で理解できるようになった。だから「ついていけなかった」という感想がたまに出るのは当たり前のことのはずで、その場合に何をしたらいいのかもクリアなのだが、問題はノーランの映画でそれが出たことで、もしオッペンハイマーがテネットやインタステラーと変わらない難易度の作品だった場合、明らかになるのは理解するための運動神経が落ちているということだ。それは有り得そうなことだしそのことにショックを受けたと言い替えてもいい。
もしくは、一度見て理解できるものだと考えていた自分の慢心のほうにショックを受けるべきかもしれない。いろいろな作品に触れるうち、いつの間にか成長してだいたいのことが理解できるようなったというのは幻想だ。そのことについて幻想だと掴みながら、仮定の話として読み進めるということができていたのに、いつの間にか仮定という前提が消えて、そういうことができるものだと普通に考えるようになっていたとすれば、それは過信ということになる。
当然のこととして作品にただ触れるだけでは成長はのぞめない。また、作品に触れる以上のことは現状できていない。作品理解といってももともと自分が理解できる部分を理解するだけのことだし、それによって自動的に伸長する能力というものはない。もちろんそれがあると思うのは作品を楽しむための要素のひとつで自分にとってはわりと欠かせない部分だ。しかしそれは幻想パートだというのは前提として持っていないといけない。そうしないとまたいつの間にか「ついていけなかった」といって悲しんだり、もっとわるくするとそのことで作品を貶し始めるという情けない事態に陥ってしまう。それはお笑いというジャンルではすでに起きていることだ。他人のそれがどうしても目立つが、どう考えても他人事ではない。
表参道に移動する。七時半ぐらいに新宿駅に向かおうとしたが東口がものすごく混んでいてしばらく全然前に進めなくて驚いた。原宿乗り換えで表参道に。ブリトーのおいしい店があるといって連れて行かれたのが青山大学向かいのグズマンイーゴメズでずっこけそうになったが、食べてみるとたしかに美味しかったしボリューミーなのが嬉しかった。

2024/03/30 今日
昨日といい今日といい花粉がひどくてまぶたがパンパンになるところまできた。鼻水は言うに及ばず。『落下の解剖学』を見に行く予定が、同居人が「途中で目が覚めて眠れなかった」おかげで別日に変更になる。仕方ないといえば仕方ないし、寝不足の解消が映画鑑賞に優先するということもないので切り替えて洗濯機を回したあとスタバに行くことにする。オッペンハイマーのことを思い出したり反芻する前につぎの映画を見ないというのは結果的によかったと思う。
なぜアインシュタインが鬼でも見たような顔になっていたのかというのがひとつのポイントだが、それがうまく掴めないところにフラストレーションの大もとがある。
事績の評価と、責任の範囲(主体がわたしでは留まらないということ)の示唆だろうと思うのだが、「彼ら」と「私」と「私たち」の関係が各主体から見たときほぼ一様に、実際の順位とは逆転された順位になっていることを言いたかったんだと思う。映画においてトルーマンだけは「私」の責任をはっきり表現していた。それは彼の事績の評価が罪よりも功績に振れていたからそうするだけの動機があったともいえる。そうだとしても、オッペンハイマーから見たとき、「彼ら」を隠れ蓑にして「私」から「私たち」に逃れるよりは、「私」を主張するほうが正しいように思えたのではないか。
より単純には、事績を過小に評価するものの見方をたしなめられたということが原因だろう。

最近の日記の文章の乱れがなかなかすごい。書きたいように書くということを突き詰めると、読んだときに意味の通りにくい文章が生まれる。投稿するときに一度読み直すということもしていないので、ねじれていたり収まりがついていなかったりする文章がそのまま掲載されていく。一年後運が良ければ修正されるかもしれないし修正されないかもしれない。いずれにせよ日記よりはまだ読み返したりなんだりする感想記事をもうすこし時間をとって書くべきだという気がする。文章が乱れていると頭が整理されていないような印象を与えてしまう。それは実際にあてはまることではあるんだけど、そこが強調されすぎてしまうのもちがう。頭が整理されていないのはデフォルトではあるんだけど、それなりに調子良く整理されきらないところに頭を持っていけてるということが伝わっていかないと一年後の自分を含めた読者に心配されてしまうんじゃないか。最近文章めちゃくちゃだけど大丈夫です。

20240328

日記334

ピース

2024/03/27 昨日
表参道の中西という大衆居酒屋で飲む。コロナビールがレモンまで付いて二八〇円という破格だったが、料理の値段はそれなりだったので結局ふたりで四千円ぐらい掛かった。三杯のんでお腹いっぱいになったから飲み屋としては安いほうだろうけど、お酒の安さを考えると意外に高いという印象で終わった。
下北からの帰り道にも氷結を飲む。帰宅後有吉の壁を見て早めにねむる。

2024/03/28 今日
昔(といっても東京に来てからのことだが)仲良くしていた友人が夢に出てきた。何か大きなプロジェクトをすすめていてそれが終わりかけの頃に、それまでの脈絡とは関係なくばったり再会したような感じだったが、どんなプロジェクトだったのか、どこで再会したのかも忘れてしまった。ビルが林立しているなかに公園があったので新宿だったような気がするけど確証が持てない。
一方その頃、同居人はBが攫われて命がけで取り戻しにいく夢を見たらしい。Bを外に連れ出し、家の前に置いてちょっと目を離した隙にその家の人間に盗まれたとのこと。たまたまその家の人間のブログを見て写真に映ったBをみて、Bじゃね?となって取り返しに行ったらしい。忍び込んでBを見つけて持ち上げたまでは良かったが、その家のお手伝いさんに見つかる。万事休すかと思われたが、そのお手伝いさんは、生気こそないものの、頬のあたりに傷があることを教えてくれたうえ、手当してくれようとする優しさを持ち合わせており、良い人もいるんだとホッとした。「救急箱を持ってくるからちょっと待っていてね」と言われ、待っているときに救急箱ではなく包丁を持ってくるイメージが浮かんだ。直感に従いその場から逃げ出そうしたとき、救急袋からハサミを取り出すお手伝いさんと目が合い、すごい剣幕で追いかけてくるのであわてて逃げた。門のところで追いつかれ格闘になったが包丁を取り上げることに成功して事なきを得た。Bは一応無事だったが、ニットが毛玉だらけになり片方の目が落ち窪んでいかにも悲しい見た目になってしまい、内心で「買い替えないと」と思ったことがこの夢の一番悲しいところだったと言っていた。たしかにそうだ。
十時にスタバにきて読書。日記を書いてから野暮用のため東陽町にむかう。
東陽町で菜香菜という中華料理屋に入って昼食をとる。きくらげと卵の炒め物セットに一五〇円で唐揚げ二個をつけて合計千円ぽっきり。ご飯大盛りとおかわりも含めてこの値段だったので満足感があった。味もよく、店内も改装したてのような綺麗さでさすが江東区まで来ると飲食店のレベルがグッと上がるんだなと感心した。
免許更新忘れによる失効(三年ぶり二回目)で証明写真撮影も含め六千二百円の出費になった。講習もたっぷり二時間講習コース。二度あることは三度あるということの無いようにしたい。帰路でなぞの胃痛に襲われる。おそらくは昼の食べ過ぎが遅れてきたのだろうと当たりをつけたが、たぶんその通りでお腹をおさえながら駅について電車に乗る頃にはだいぶ落ち着いていた。それでもまっすぐ帰宅して一旦家で横になる方針に決める。念の為の処置だったがこれが功を奏して完璧に胃痛はなくなったのでふたたびスタバに出かける。途中雨が降り始める。
一度目の帰宅時、K2の予告ポスターに「ジョン・カサヴェテス」の文字を見つけた。4月から特集上映が組まれ六作品上映するらしい。せっかくなのでできれば全作見たい。K2は普段商業寄りでない”邦画”の上映ばかりで、せっかく最寄りの映画館なのにもかかわらず自分にとっては映画館として機能していないので、こういう機会はしっかり掴むようにしたい。こけら落としのときの濱口竜介特集以来のナイスな試みだ。
ちょっとお腹が痛くなっただけで、致命的な病気の発症かと極端な事例を想像して心配になる。このまま死ぬことになると考えるのはちょっと無理すぎる。仮定の話でも考えたくない。
生活を立てるために必要なコストがあり、自分はそれを支払えるだけの労働をしなければならない。そういった労働もなんらかのかたちで制作に役立てば良いと思うしそうしようという意識で取り組んでいるもののやっぱり租庸調は租庸調なので無いに越したことはない。時間が取られるというのもそうだが、制作に役立てるためになんとか労働側の感覚を取り込もうと思うと、そのなかで通用する論理にしっかり取り込まれそうになる。半人前の社会人から0.7人前の社会人にしかなれないのに、言っていることは一丁前の社会人のようなことを言っているというようなことにならないように気をつけないといけない。ミイラ取りが(ゾンビスレイヤーが)ミイラになる(ゾンビになる)、とか言っている場合じゃない。そもそも自分はミイラ取りになるつもりがないんだから(ゾンビスレイヤーって何だ?)。
昔にくらべると所得が増えたのに、そのぶん生活の維持にかかるコストが高くなっているだけで労働時間が減っていかないのはやり方を間違っているとしか思えない。自分の頭の中に労働環境の論理の占める割合が高くなっているのが気に入らない。原因は自分の頭が萎んでいるのもそうだし、生活の維持のために労働環境を手放せないという意識からその思考にすすんで染まろうとしているのもそうだ。グーグルアナリティクスの学習をすすめるというタスクがスタバに来たときに自動的に入ってくるのも意味がわからないことだし、それが小説を書くことより上位の優先順位になっているのはまったく理解に苦しむ。……本当はやったらやっただけの進捗がある学習の方に逃げたというだけのことなのだが、いつの間にかそっちにリソースを振り向けるような姿勢が出来上がっている。
いつも行っているスタバの店員が卒業するとおぼしきメンバーに花束・メッセージの寄せ書きを渡している。去年も同じような光景をみて良いな寂しいなと思ったものだが、今年が去年とは違うのは、「あれからもう一年か」という慄きが過半を占めていることだ。

20240327

日記333


2024/03/26 昨日
早めに十九時半ごろにスタバを引き上げる。雨と強い風の中を帰宅し、リゾットを食べながら映画『ザ・ギャンブラー』を見る。
最初に出てきた祖父の喪に服す作業を主人公はしていたように見える。破滅的な行動をしたいからというのではなく、何をやっても破滅しない、破滅とは縁遠い自分の生活を本人なりに立て直す必要があってギャンブルに打ち込んでいたように見える。もともと遊びで賭け事をやっていないとあの場にいて堂々と賭けることは不自然だし、しかしあのような賭け方をしてすでに破滅していないというのも不自然なので、考えられる筋道は「それなりのギャンブラー」から「自己破壊的なギャンブラー」への変態を遂げた一時期を描いたものという解釈しかない。そしてそのきっかけになると判断できる材料は劇中では祖父の遺言しかない。結局は死によってすべてが失われるのに、すべてを得た(得ている)ような顔をさせられることに主人公は我慢がならなかったのだろう。才能のないものはごく素朴に才能という言葉を使い、欺瞞を憎む。正直さや誠実さが、もっといえば自分を偽る必要のなさこそが才能によって得られる恩恵だと信じるからだ。ジョン・グッドマンの「ファックユー理論」はそれのわかりやすいバージョンで、お金という数値化できるものを使っているだけで本質的には主人公と同じ世界観を共有している。スポーツ選手として成功できる一握りの人物が考えそうなことがなんとなくみんなに共有されて、考え方だけがひとり歩きしている状況に近い。彼を一流たらしめているのは体力と運動神経なのだが、まるでそういう考え方をするから成功したと言わんばかりだ。これは考え方は体力と運動神経とはちがって簡単に真似できるから、受け取り手はそれを知ることで素早く解決した気になれることによる。
文章という数値化できないものを云々し、才能があるとか無いとかいって若い人間向けに断定調で語りかけるとさも才能がありそうに映るということを、主人公はともかくこの映画の作者は理解している。
この主人公の世界観は総じて退屈でくだらないものだが、それでもこの映画が面白いのは、すべてを賭ける運任せのギャンブルが心底から馬鹿馬鹿しいと感じられつつも、賭けの結果に否応なく感心が引きつけられるところだ。物語上そうなるに決まっているのに、カメラがルーレットに落ちた玉の行方にパンするタイミングが絶妙に遅く、じれったくてつい覗き込もうとしてしまった。
主人公が悩んでいるとおぼしき悩みにくらべて彼の考え方がものすごく陳腐なことはさしおいても、娯楽映画としての出来は良いと思う。マーク・ウォルバーグのあの破滅的な髪型だけはどうにかならなかったのかと思うが、終わり方もふくめ爽快感があって楽しめた。

2024/03/27 今日
天気が良かったので江の島にいく。はじめて鵠沼海岸駅で降りたがこれがめちゃくちゃ良かった。片瀬江ノ島駅が観光地湘南でこちらがローカル湘南だ。タコスの名店でタコスセットを食べてドスエキスラガーを飲んでから海岸沿いを歩く。江の島まで歩いてからちょっと座って休憩。もと来た道を引き返す。雲の合間からさす光と海の反射がきれいだった。あとはビーチに足を運ぶたび思うのは波の音が最高だということだ。
十八時頃に下北に戻ってスタバで読書して日記を書く。これから表参道の飲み屋に出かけてビールを飲む。

20240326

日記332

高架下・駐輪場・壁画・歩行者

2024/03/25 昨日
スタバに行ったあと、家にある豆乳鍋を目指して駅から氷結を飲み始める。豆乳鍋を食べながら酒を飲んで、納豆ご飯も食べたらお腹がパンパンになった。録画していた有吉の壁を見た気がするが、昨夜のことなのにほとんど記憶がない。有意義な時間と休息の時間をしっかり分けすぎていて、休息の時間はほとんどねむっているも同然なので、実質の睡眠時間が一〇時間を越えていることになる。眠る時間をしっかりとるかわりに完全な休息の時間をもっと減らしてよいのではないかと思うが、スタバに行ってやるべきことをしっかりやったら帰り道には喉が渇くっていうのが人情ってもんではないだろうか。しかしこのやり方では健康上の問題として浮上してくるのもそう遠いことではないという気がする。持続可能な開発目標を立てるにあたり、酒の頻度を削減しないといけないのはわかっているのにそうできないのは危険サインだ。まあ酒量は大したことないんだけど。二十三時すぎに就寝。

2024/03/26 今日
六時半に目が覚める。出社の日なので二度寝することもできず、そのまま起きてシャワーを浴びてしまう。雨のなかの出社が最終勤務になった。昼までに引継ぎが全部終わったので午前中に「もう帰っていいですか?」と聞いてみたら普通に駄目と言われた。こういう場合、駄目なら駄目でそれはそれでよくて、「帰れるのかな帰れないのかな。言ったら帰らしてもらえるのかな」と考え続けて時間が過ぎるのが一番のストレスになるので、言ってよかったと思う。十七時半までの契約なんだから残りましょうよ、と若干呆れながら言われたが、自分の主張を出せたことともう二度と会うことはないこととを考え合わせるとやっぱりわるくなかったと思う。それの証拠にやることがまったく何も無くなっていた午後の時間は、kindleで『戦争と平和』を読み進められた。最後は「とにかく健康で、元気でやりましょう!」と明るく送り出してくれた。社員証がなければゲートを出られないシステムのため、いわば不可避のお見送りだったが、エレベータの中での上記メッセージはシンプルで芯をついていて良いと思った。「そちらもお元気で!」と返しやすいのも良い。
諸々の返却を済ませて雨のなか退勤。大崎駅までちょっと歩かないといけない道も最後かと思うと、短い期間で頻度も少なかったのに一応それなりの感慨があった。
スタバで本を読もうと思ったが持ってきていなかったので日記を書いてからKindleで『戦争と平和』を読む。Kindleは良い。

20240325

日記331

向かい立つ

2024/03/24 昨日
朝ご飯を食べて、午前中は読書をする。昼過ぎから恵比寿に出かける。恵比寿でシカゴピザを食べる。アルフレックスでマレンコというソファに座る。もちろん座り心地は良いと思うが魅了されるということはなかった。帰り道の山手線で尊富士の取り組みを見る。怪我をしながら豪の山を破っての自力優勝。押し出しで勝ちを決めたときには思わず声が出てしまった。
スクランブルスクエアでちょうどいいセットアップが売っていないかを見る。エディフィスとユナイテッドアローズを回るも、良いものを見つけられなかった。ただ何の気無しに通りすがったTHE SHOPでぴったりの黒リュックを見つけ即購入。ずっと探していたが見つかるときには見つかるもので、見つかるときにはすぐ買おうと決心できるものだ。
下北に戻ったときには小雨が降り始めていた。ダイエーで豆乳鍋の具材を買い集めてからすこし雨宿りして帰ろうとするも、雨雲レーダーを見るとむしろ雨脚は強まる予想だったので濡れながら帰ることにする。風邪を引かないように濡れた髪の毛を拭いてから、ビールを飲みながら豆乳鍋。映画『ミーン・ガールズ』を見る。ザ・学園ものだが、登場人物の背景やそれらの描き方などが時代に応じてアップデートされており、その取ってつけ感もコメディの雰囲気に回収させているように見えた。いずれにせよ「ハッピーでできるだけ文句の少ないコメディ」で、調味料はふんだんに使われているから退屈もせず、酒を飲んでいても喋りながらでも面白く見られて、映画としては好きな部類ではないものの評価せざるを得ない良作だった。好きになれる登場人物がひとりもいなかった。

2024/03/25 今日
いまの職場で最後の在宅バイト。だらだら働いて、しかも本を読もうともできないので、ただ単に時間の無駄という気がする。通勤時間がそれなりに抑えられる場所に住んでいるわけで、東京の都心に出かけるのは苦ではないどころか望むところでもあるので、わざわざ在宅勤務にしなくても良いというのが現時点での結論になる。昼前にベッドで二十分間の昼寝ができるのだけはよかった。この職場での総括というか、得たスキルやこれからの課題をまとめる時間を取ろうと思い、そのための時間も充分あったが、それすら面倒だったのでやめた。
定時であがってスタバにくる。『暴力の人類史』『数学する精神』を読む。長編が書けないといってストップしている暇があったら短編を書けと思うようになったので、ワンアイデアを短編に落としこむ作業をはじめようと思った。まあとりあえず明日以降から。
この一週間でMacbook Airにステッカーを結構貼れた。三枚→七枚になった。ここ最近ちょうどいいステッカーをいろんな場所でゲットできたり、棚の整理で良いステッカーを発見したり。
今朝見た夢は、魔法で破壊的な落雷を生み出す雲を街に作り出し、自分自身もその黒雲から逃げるために地下鉄駅に逃げ込むという内容だった。危機一髪で逃れた先の地下鉄では、同じ境遇のようでいて実際にはちがう境遇の人たち(その人たちは純然たる被害者だ)が突然の非日常に高揚している様子で、加害者のわれわれ一行もなんとなくその雰囲気に飲まれて高揚していた。
昼には映像の世紀のオッペンハイマー回を見る。個人の反省ではどうにもならない事態ではあっても、やはり社会の反省というよりは当の個人の反省を求めてしまう。その振り返り可能な範囲内での振り返りによってしか贖えない何かがあるのではないか。事実に対する対応とは別水準での話になるし、たんにネガポジを反転させただけのヒロイズムに回収されていくのはまずいとは思いつつも、どこまでいっても個人主義は捨てられないはずだと思うので、個人としての領分において振り返るということは必要だ。

20240323

日記330

音楽家

2024/03/22 昨日
出社日。早めに行って本を読む。仕事はそれなりにやることがあるものの基本的には暇で、次の職場でもこんな感じで働いていきたいと思うような適正仕事量だった。
定時で上がった仕事後、品川駅まで歩く。友人と山手線徒歩一周企画をやろうと提案したものの高輪ゲートウェイ駅まで来たところで「疲れた」とのことで却下になる。京急で泉岳寺から新橋まで移動。飲み屋に入ろうとするもつい懐具合が心配になって入れず。結局立ち食いそばの店で食事を済ませてから新橋珈琲店でお茶をする。その後歩いて銀座・有楽町エリアまで移動。コリドー街の様子を紹介してから有楽町駅前まで歩く。そこで路上ミュージシャンが素敵な演奏をしていてくれたのでそれをBGMにして立ち話。しかし警察官がやってきてあえなく演奏は終了。こういうときの警察官は職務上毅然としていなければならない立場だし、当然そう見えるような立ち方や姿勢を崩すことはないが、どことなく申し訳無さそうにしているようにみえるようなところもあって、そういうところが垣間見えると、まあ向こうさんも仕事なんだろうししょうがないよなという気になる。たぶんそういう作戦なのだとは思うが、そういうのは小狡いというより創意工夫と捉えたい。友人から「寒い」と文句がでたので暖を取るため有楽町の地下に入る。そこの穴蔵ベンチでの会話が面白かった。これから恋人を作るためにどうやっていくべきかという架空の話をした。こういう話題はいい加減なことを真剣に考えて喋れるという良さがある。サイコロの出目を良くするような改造をするよりもサイコロを振る回数を増やそうというとりあえずの結論を出した。だいたい誰とでもそうなるのだが論破合戦空中戦で厳密にどちらの言い分が正しいかどうかというより何となくで殴り合って最終的に肩組んで歩くみたいな、ラピュタに出てくる往年の男性同士のコミュニケーションスタイルの疑似版だ。人生の意味について、自己完結して自分だけが楽しかったとしてもそれを共有する相手がいないと意味がないということを言っていた。そういう意見は大学時代にも別の友人の口から聞いたこともあるが、自分にはよくわからない。最終的なところまで考えていくと自己完結するしかないと思うのだが、本人に自己完結ではないと感じられる自己完結があるということなんだろうか。結局は自分が楽しい・良いと感じられる方向にすすんでいくしかないと思うが、そうなるために他人が必要で、親密な他人といると自分が楽しい・良いと感じられるということなんだろう。それ自体に異論はないが、親密な関係の他人がいればオールオッケーというのはかなり危うい考え方だ。結婚がゴールという考え方の間違いに似ている。そんなわけはないのだけど、そんなわけないということにあらかじめ気がつけないものか。それとも本当にオールオッケーになるのか……?
有楽町で友人を見送ってから日比谷まで歩き、千代田線で表参道にいく。彼女が働く南青山のオフィスで本を読んだりスマホを眺めたりしてから帰宅。

2024/03/23 今日
八時に目が覚める。昨日の入眠時間からすると寝不足になるが起きてしまったものは仕方ない。『暴力の人類史』を読む。昼ご飯を十一時過ぎ頃に食べて『不適切にもほどがある』の九話を見る。その後三十分間の昼寝をして負債を取り戻してからだらだらする。これではだめだとシャワーを浴びてスタバに来たのが十六時。エキウエが満席で入れなかったのでクラシックのほうにくる。読書の続き、去年の日記へのコメント、そして昨日今日の日記を書く。
暴力の人類史は啓蒙的な本だと思うが、啓蒙するための方法に万全が期されているとは思えない。自分の本を叩き台にして社会がさらによい方向に向かう一助にするという善い意図を作者が持っていると仮定しても脇が甘いところがあるように見受けられる。
たとえば数字の取り扱いかたに不満がある。一番嫌なのは全人口分の殺人被害者数(被殺人割合)でソートすることだ。ソートすると見やすくなるし、物語の組み立てにも都合が良いのだろうが、わざわざそんなことをして物語にする必要はないと思う。
あとは統計と物語について、どちらも必要だと主張するくだりはそれらの別々のファクターを往還することの必要性を訴えるものだと思うが、その往還については慎重にならないと、任意のタイミングで統計的に考えたり物語的に考えたりすることになるわけで、そういうつもりではなかったとしても何かをかいくぐろうとしているような印象を受ける。(上巻354p)
啓蒙精神そのものは善いものだが、目的は手段を正当化しないわけで、慎重に手段を選び、手段をきれいに整えないと、党派を作ることはできても次のステージにはすすめない。間違った意見の持ち主にこそ啓蒙は必要だが、せっかく善い目的があっても手段のまずさでケチがつくのはこちら側にとってマイナスが大きい。
まだようやく第五章にさしかかったところなので批判めいたことを言うのは気が引ける部分もあるが、この時点で感じたことを書いておかないと、大著を読むときにはよくあることだが読み終わることの達成感で気持ちが高まりクライマックスで持っていかれることが予想されるので、ねんのため日記に書き残しておくことにする。単純に読み物として面白いのは面白い。とくに拷問について書かれた箇所を読むときの読書体験には特有の感触があり、ホラー映画を好んで見る人の不可解さが微妙に理解できそうな気がする。そんなふうなやり方で読者を引き込むのはどうなのかと思うが、読んでいる自分自身にも若干後ろ暗い思いがあったりするのでとりあえず判断保留にしておく。ただやっぱり最後精算するときには利子がついているんだろうし結局マイナスになる気がする。
『戦争と平和』を読む。読み始めた当初は長編作品の参考にしようと流し読みするつもりたったが、いつの間にか引き込まれてマーカーを引きながら読んでしまっている。つい味読してしまうほど面白い。トルストイとその大著をつかまえて言うことではないが、ものすごく書けている。

20240321

日記329

動脈

2024/03/20 昨日
夕方にスタバから引き上げて大相撲を見るために帰る。帰り道で一雨来そうだったので走って帰る。帰宅後五分しないうちにざあざあ降りはじめた。ビールと湖池屋のポテチを用意して大相撲を見る。尊富士が十一連勝して大鵬?の記録に並んだ。見るからに馬力がちがう強い相撲で勢いがある。昼寝をしてからもう一度スタバに行こうと思ったが風が強かったのでやめにして風呂に入る。IUT理論について説明をする動画を見る。加藤文元という人がダンディでかっこいいのでつい内容に引き込まれる。直感的に言ってることめちゃくちゃやなと思うが、高等数学の醸す雰囲気に流されてしまう。それにしてももちろん数学の内容を理解しているわけでなく側を見て判断しているだけだから直感と変わるところがない。えらい人がそう言っているからそうなんだろう、というのと何も変わらない。ぐいぐい押されると引いてしまって終わりなんだろうが、抑制されたトーンで、しかし楽しそうに可能性の話をされるとよわい。簡単な説明として使われていた文言にも惹かれる。「お互いの宇宙はお互いの中に正則構造を持っているが、宇宙が関係するときに正則構造が破壊される」というのはマルチバース系SFの常套句として馴染みがある。たとえばスパイダーバースでは「カノンが乱れる」と表現される。
その後ねむるまでの時間が余ったので映画を見ることにする。積んでる映画がないので探すのに十五分ぐらい消費した挙げ句、『この子は邪悪』という駄作を見るのに一時間ほど費やしてしまう。小中学生向けの映画もいくつか映画館にかかっているべきなのかもしれないが、それにしても程度が低かった。いちばん最初のシーンだけでクオリティを判断できたのだが、見る映画をもう一度探すのが億劫でそのまま一時間ほど見続けてしまった。俳優に不気味な行動をとらせてそれが全然不気味に見えないというのは「必要以上に不気味に見せない」という演出意図かと勘ぐってしまうぐらいだった。あとのシーンを見るかぎりそういうわけでもなかったので演出の巧拙はあからさまに写るものだと感心した。これに比べれば俳優の演技がどうこうというのはわざわざ言及するようなレベルではないかもしれない。あるいはもっと微妙なものなのだろう。それでも玉木宏はひどかったと思うが。

2024/03/21 今日
在宅バイト。働き始める前にかなり気が塞いだが、PCの前に座ってタスクを消化するうちにすこしずつマシになっていった。泣いても苦しんでもあと四日しかないのだから、とにかくじっと耐えて終わらせよう。
大相撲を見る。尊富士の記録がかかった連勝を豊昇龍が食い止めた。気迫のこもった相撲というのをこれほどわかりやすく体現する力士は他に思い浮かばない。シャワーを浴びて十八時にスタバに出かける。『暴力の人類史』を読む。
『DUNE』という映画はIMAXを見るための優れた作品だと思うが、それは迫力の面だけでというわけではない。たとえばアバター2もIMAXで見たが、こちらはIMAXのポテンシャルを最大限引き出せているわけではなかった。それでも迫力あるシーンはIMAXの良さを感じられるから、アバターの場合は迫力の面だけで優れていたといえる。映像の美しさについて考えるにあたってこの二作品のちがいを考えるといろいろはっきりするような気がする。これからご飯を食べに行くので今は無理だが気が向いたらちょっと考えてみたい。
スタバに信託会社の営業マンがあらわれた……。ゴキブリが出たぐらいギョッとした。喋る内容もめちゃくちゃわかりやすい営業トークだが中身が薄い。聞く側がノリノリなので成立しているといえば成立しているが、周囲の人達の反応とか気にならないのだろうか。さわやかな七三分けで顎が細い。1000万円の価値がもしかしたら数百万円の価値になると言っている。言いたいことはわかるが、ちゃんと考えようとすると意味がわからないことを言っている。

20240320

日記328

「おしゃモス渋くね?」

2024/03/19 昨日
スタバを出た後にダンダンで待ち合わせて友人と下北沢を回遊する。三缶分の酒を飲みながら二時間弱うろつく。絵画について鑑賞眼を身に着けたいと言っていた。絵を見る量を増やすことで自然と鑑賞眼が備わると考えているとすればそれは間違いだが、芸術に入るときの入口なんて間違っていて何の問題もないので、試みが無駄に終わるとしてもそうわるくない徒労だと思う。
翌日八時の上映があったのでBが寝た時間からしばらくもしないうちにねむる。リビングの伝記を点けたまま寝たせいで午前三時に目が覚める。起きてから三〇分ほど寝付けなかったが、なんとか二度目の睡眠に入る。

2024/03/20 今日
池袋のサンシャインシネマまでDUNE2を見に行く。1を見たときにも思ったがタイトルロゴがかっこいい。この映画は茫漠たる砂漠の風景や舞台美術が第一景、人物の見目麗しさが第二景、ストーリーはそれらを並べるための舞台装置にすぎない。そのため終盤の戦闘アクションシーンは退屈で、序中盤の世界観の提示が面白い。これは1のときにも思ったことだが、いずれにせよIMAXありきの作品だ。ドゥニ・ヴィルヌーヴの画作りは美しいが、IMAXの迫力があってこそ引き立つ魅力だといえる。終始色調が抑えられていて美意識の高さがうかがえるが、帝国のシーンでさらに色調を落とす方向に振り切ったのは演出効果がはまっていて見事だった。
映画が終わったのが十一時で、そこからイージーオーダーのスーツの記事を見に行く。いちばん安いフォーマットで良いような気がしたが、それだとむしろ買わないでもいいのではないかと思ったので結局買わずに帰る。駅までの途中でいい店があれば入ろうと思って歩いたが興味惹かれるような店は全部行列ができていた。やっぱり池袋はだめだ。
下北に戻ってもうやんカレーを食べる。その後クラシックのスタバに行って『暴力の人類史』を読む。まだ三章を読み終わったところだが、この時点すでに、いくらかものの見方に影響を受けているような気がする。もともとそう思っていたことの強調という側面が強いが、それでもなんとなくそう思っていたからそう考えるようになったまでのジャンプアップがある。
三章の最後に次の文章があって、まさにその通り、自分が持っている気分に合うと思った。
「文明化された男性は野蛮人より無礼である。なぜなら彼らは、不作法な態度をとっても頭を割られる心配はないとわかっているからだ」

20240319

日記327

ひらがなはちもじ

2024/03/18 昨日
スタバのあと、すた丼で生姜丼を食べて帰宅。この日は酒を飲まなかった。『不適切にもほどがある』の8話を見る。しれっと問題を解決させないまま話を終わらせるのが上手で面白い。俗っぽいのと品が良いのが共存していると思うが、人によっては見る部分を取り違えて、品がないのに高尚そうに振る舞おうとしていると捉えるかもしれない。そう言えばそう言えないことはない。

2024/03/19 今日
夢の中に幼馴染の母親が出てきた。幼馴染と谷の中で何かのお祭りに参加していたときに、彼女は犬を連れて現れた。犬は大型で体毛は黒く、自分を見つけてからというもの執拗に尻の匂いを嗅ごうとしてくる変な犬だったが、犬の散歩をしてみたいというかねてからの夢は、夢の中で叶うことになった。幼馴染の母親は足を悪くしているらしく、びっこを引きながらも犬の散歩に遅れずずっとついてきた。谷の中では移動のための橋がいたるところにかかっていて、それらがエリアをつないでいた。エリアがT型になっていたので、自分の目指すエリアに行くためには一旦べつのエリアを経由する必要があり、Tの真ん中のエリアに入ったところで目が覚めた。夢で残念な気がしたのは、足の悪い幼馴染の母親は現実には自分が高校生の時に病気で亡くなっており、その後足が悪くなるという未来もなかったことだ。それでも彼女は存在感の面で目を見張るものがあり、その雰囲気もふくめ懐かしいと思った。彼女は自分の夢に何度か登場している。生死を問わず存在感を発揮するタイプの人は生きているとたまに出くわすんだと思うが、自分にとってそれは幼馴染の母親だった。明るい人だがなんとなく雰囲気が苦手だったというのも何度も登場する理由に結びついているように思う。幼馴染は賢く、顔が整っていておとなしい。その印象と彼の母親たる彼女の印象がちぐはぐでずっと結びつかなかった。それも夢に見る理由かもしれない。
在宅バイト。引継ぎを済ませるはずの日だったがぎりぎりまで働かせられることになりそうだ。わりとしっかり働く。十七時台には大相撲を見て定時に上がる。尊富士と大の里の新入幕対決は尊富士が制した。伯桜鵬や大の里にくらべてあまり印象になかった尊富士が無敗で終盤戦に向かうことになるのが面白い。明生は朝乃山と良い相撲を取ったが敗れてしまった。しかし良い相撲だった。
スタバで『暴力の人類史』を読む。二十時からは友人と下北を周遊しながら酒を飲む予定。翌朝八時ちょうどから池袋のIMAX-LGTでDUNE2を予約したので早めにねむる必要がある。

20240318

日記326

モノレール(複線)

2024/03/17 昨日
新宿のハンズで手土産を見つくろってから立川に向かう。同居人の旧友に会う日になった。彼女の昔の仕事の後輩で二六時中話していた仲らしい。赤子の対応をしながら会話が途切れないのがすごいと思った。途中会話についていけなくなったときにはとりあえず赤子を見ていると間が持つ。それに見ていて退屈しない。興味惹かれるところが結構あった。最近読んだ本の話でかまされたのは始めてだった。最近読んだのは『大鏡』で、藤原道長の物語だという。自分は藤原道長のことが好きだと言っている割に大鏡で道長が描かれているというのも知らず、元国語教員志望なのに古典の教養にまるで欠けるというのでちょっと恥ずかしい思いをした。ディフェンシブにならないようにしようとして不自然な受け答えになったのが若干悔やまれるが、そもそも口を開いた回数は数えるほどしかないのでそれ以前の問題が大きすぎてどうでもいいと思われる。彼女は雰囲気こそ柔らかいもののしっかりした語り口でたんに初対面というのをすこしだけ越えた緊張があった。漱石の書いたものでは『硝子戸の中』が好きと言っていた。たしかに硝子戸の中はとても良い。
同居人とその旧友はただ懐かしがって話しているようでいて、その内側には微妙な信号のやり取りがあるように見えた。とはいえその内容は全然見えてこないし、部外者の自分にもわかるように込み入った話をするには場所も場所だったので、仕方なく信号のやり取りだけで済ませた風だった。外形的には人の名前だけを中心にすすんでいく会話だったので興味の持ちようもなく、もっぱら赤子を見て過ごした。
それでもモノレールとたくさんのベビーカーが行き交う通りに腰掛けてローソンのコーヒーを飲みながら話すのにはうってつけの気候でたのしかった。
十七時半ごろ解散して改札の向こう側に見送る。今回会えなかった登場人物もいたので会えたらいいなとは思うが、もっと濃くできたのにもかかわらず薄かった会話がさらに薄まるおそれがあるのでやるならもう一度同じ面子で会食などしたい。その時々にこれ以上は無理というぐらい盛り上がらないといけないのに、いつも後になってこういうことを思ってしまう。
考え方や価値観がちがうというのを予期していないといけないのに、それをしないでいつもその場になってから「ちがい」に面食らっている。
立川のシネマシティを散策してからはま寿司で夕食にする。ネット予約をしてぎりぎり間に合う時間に予約できたので良かった。その後『ボーはおそれている』を見る。ずっと脅かされていてひとつも楽しいことがない男の話だった。バートン・フィンクみたいだなと思いながら見ていた。現代のヨブ記みたいなものの二〇二〇年代バージョンという感じ。あとは自分の見る夢のよくできたバージョンのようなところもあった。夢の切れ目にはいつも物理的な破滅があるのだが、たまにその破滅を経過した後にも夢が続くときがあってひっくり返ったボートの様子がそのときの感触に近かった。マリオカート64のバトルで最後の風船が破裂した後の画面のように、終わってるのがわかるのになぜか終わらずに画面だけが残っている映像。単純化された他人。つまみはあるが印象の強弱だけ。

2024/03/18 今日
在宅バイト。打ち合わせでもうすでに半分いない人の感じを出す。その心はこれ以上タスクはやりませんという意思表示だ。
それなのにお昼にたらたらしてしまったおかげでまさかの三〇分間のザ行が発生した。何をやっているんだか。
三〇分遅れでシャワーを浴びてからスタバにくる。『暴力の人類史』の二章を読む。生存者バイアスというものの部族単位のそれを夢想した。はやすぎたガンジーがいなかったとはいえない。しかも自分の見立てではかなりの数に及ぶと見ている。やさしさが強さではなく気弱さとしてしか評価されない時代の本当にやさしい人間。すぐに殺される気弱な、純然たるやられ役。生きる能力の低い人間。そのためにいつかは主人公に選ばれる反・ヒーロー。

20240316

日記325

MK5

2024/03/15 昨日
在宅バイト。時間がなくて省略省略でやろうとしていたところで省略がバレて確認作業が必要になった。無理に省略しようとしたわけではなく見立てで問題ないと踏んで省略したわけで確認したら結局問題ないということになりそうだが、省略した部分をなぜ省略したのか考え方を説明できないのはたしかによくない。そのときに何を考えて省略したのか簡単なメモを残さないとこういうことになる。(しかし省略したのは別タスクで時間が取れなかったところからきており、簡単なメモとはいえメモをとる時間を使うのはそのときには負担が大きかった。タスクの量が多いのがわるい)
ほぼ定時で上がってから髪の毛を切りに行く。今の髪型は気に入っているのだが、メンテナンスに月一ペースが必要なところがネックだ。
秋葉原に移動する。雁川で晩飯にスタミナ焼き定食とビールをとる。十九時半すぎに友人と合流。上野か東京のどちらを目的地にするかコイントスで決める。東京になったので神田の飲み屋街を経由して東京駅にいく。その後石畳ストリートを通って日比谷へ。千代田線で東北沢まで行って下北の路上で飲む。春が来たと言っていいおだやかな気温で、まさに外飲みにうってつけの日だった。神田でも丸の内でもサラリーマンたちが金夜に興じていたのがちょっとだけうらやましかった。
二十三時過ぎに帰宅したら同居人が『GET OUT』を流していたので途中から一緒に見る。

2024/03/16 今日
七時過ぎに目が覚めてしまう。寝不足のコースだが二度寝できる雰囲気がなかったのでそのまま起きてしまう。準備をして蒲田に向かう。十時に蒲田着。駅敷設のスタバで日記を書く。友人のひとりが東京に引っ越してくる日。東京に出てくるという選択が結果的に成功だったということになってほしい。スタバにいる一時間足らずのあいだにも花粉がきつくなってきた。今日やばいかもしれない。
そういえば民間ロケットのカイロスの爆散シーンまだ面白い。景気よく爆散して、これ以上ない失敗映像で見たとき元気が出た。

20240314

日記324

工事中の特別な道

2024/03/13 昨日
スタバに行ったあと、氷結を買って飲む。そして松屋で牛めしを食べる。飯も食って酒も飲むという節制のない行動を取ったのでその埋め合わせとして一駅反対側に向かって歩いて遠回りして帰ることにする。そうすると音楽を聴きながらぼーっと考え事をする時間を持てて悪くなかった。
帰宅後にブルージャイアントの映画の続きを見る。この映画を見た誰もが賛成することだろうがJASSは玉田のバンドだ。ブルージャイアントの「巨きさ」の部分では遜色ないとはいえないが、もうひとつの部分ではどのバンドにも引けを取らない。

2024/03/14 今日
在宅バイト。確認を怠っていたことは結局あとで熱さをともなって確認することが必要になる。今度の職場では確認必要事項はその場で潰すように心がけよう。
遅れてきた確認必要事項を熱がりながらも潰していくことで午前中はともかく午後は対応に追われる。とはいえ、シャワーを浴びて大相撲を見るだけの時間を確保したうえ定時で上がれる程度だったが。
昼休憩にはいつもの通り焼きそばを焼いて食べる。映像の世紀のガンジー回を見る。映像の世紀では気に入った登場人物があらわれるとかならず嫌な結末を迎える。ボブ・ディランの陰鬱でストレートな曲が全然誇張ではないという事実が情けない。ガンジーが彼のたっての願いでトルストイと文通をしていたということ、彼がトルストイの著作に親しんだということに心慰められるところがある。
スタバにきて『物語ビルマの歴史』『暴力の人類史』を一章ずつ読む。暴力の人類史のほうは、過去という異国における暴力の取り扱い(暴力からの取り扱われ)に対するサニティチェックの章だったが、気のせいかだいぶ筆がノッているように見えた。自分のほうでなぜか読むのが捗っただけかもしれないが。いずれにせよ「まとも」とはいえない変な気分になった。

20240313

日記323

つまり

2024/03/12 昨日
スタバのあとで氷結を飲みながら帰宅。チキンラーメンを食べてブルージャイアントの映画を途中まで見る。玉田ライジングのもりもり食べるあたりのシーンはとても良い。
帰宅しながら、そろそろ何かを制限する必要があるのを感じる。何の制限も受けないかのような生活を送っていて、でも実際には週五日間七時間半の拘束を受けている現状をいくらかなりとも変えるには自らに制限を課して、その分のエネルギーや時間をどこかに振り向けるようにしたほうがいい。たとえそれで何にもならなかったとしても、のんべんだらりとした生活を抑制するには制限を設けるのが簡単で理にかなっているように思われる。
すぐにでも思いつくのは酒だが、酒を制限するのはむずかしい。せめて食事は制限するようにしたい。そろそろ真剣に節制しないとぶくぶく太る未来が現実の現在に取って代わるのを目撃することになるだけだ。カロリーの収支をつけることから始めるか。

2024/03/13 今日
在宅バイト。だらだらしていてもこなせる量の仕事しかない場合、だらだらする。というわかりきった結果のための実験をしている気分だ。朝から洗濯機を回す。今後出社メインになったときに洗濯をどうするかというのは結構問題だ。君たちはどう洗うか。
Notionを広めるための動画を見てツールの使用もありかもしれないと思った。タイムボクシング法。やるべきタスクが固まっている場合、それもありかもしれない。十六時頃からグーグルアナリティクスの学習を進めようかと思ったが大相撲をやっているのを思い出して大相撲をみる。剣翔の膝の怪我が痛そうだった。霧島四連敗。明生は照ノ富士相手に金星を上げた。
十八時半ごろからスタバに行く。日記を書いてから図書館に予約本を取りに行く。マクニールの世界史、ピンカーの暴力の人類史、物語ビルマの歴史の三冊。
『戦争と平和』を読む。おそらくこの小説のもっとも良い場面のひとつとなるピエールとアンドレイ・ボルゴンスキイの対話シーン。二巻12。アンドレイがピエールの上に立っていながら、ピエールの指し示すものを見上げるという構図の美しさがある。
「いや、ちがうよ。ぼくは、来世の必要を納得させるのは論証じゃない、それは、現実の世で、ある人間と手をつないで歩いている、するとふいにその人間がどこでもないどこかへ消えてしまう、そして自分はその深淵のまえに立ち止まって、その中をのぞきこむ、そういうことだと言ってるだけさ。ぼくものぞきこんだのだ……」

このアンドレイの言い分は、彼がそうあってほしくないと内心で考えていることに反して完全に正しい。 だからこそそれに対してさらに「ちがうよ」と言ってくれるピエールには価値がある。

昨日時点で別々の登場人物として、別々の生活を送っているかに見えたふたりが「再会」して対話を行っているのがそれはそうだという感じで面白かった。

グーグルアナリティクスの学習を進めてからスタバを出る。ドドドで定食を食べるか考え中。

20240312

日記322

ドッグス

2024/03/11 昨日
スタバの帰りにブルージャイアントエクスプローラー9巻とモメンタム1巻を買って帰る。
帰宅後に「不適切にもほどがある」を見てブルージャイアントを読む。よせばいいのにカップ麺を食べる。十二時過ぎにねむる。
ブルージャイアント、ダイが小銭を拾い集めるシーンと再会のシーンがよかった。ダイ自身が悩んで考えにまで及んでいないところをソトに言い当てられる場面が相補いあうバンドメンバーの感じがあって良い。ステージ上でしか起こり得ない偉大な達成とはまったく別の、自分たちのバンドのステージについての矜持が完全にプロのそれで、東京時代とはちがうステージに進んでいるのを感じさせる。それがソトへの「二度とやるな」になって出てくるというのもただ熱いというのを越えてさらに熱い。

2024/03/12 今日
在宅バイト。たらたらペースを取り戻して働く。定時であがったので仕事後すぐにスタバに行こうと思ったが強雨のためしばらく家でグーグルアナリティクスの学習をすすめる。
シャワーに入って二十時過ぎにスタバに行く。
自分のだめなところは小心なところだ。慌てたりテンパったりしやすいという特徴についてはこれでも把握しているつもりだが、それだけ慌てやすい・テンパりやすいというのは、そのままイコールではないにせよ怒りっぽいということにもつながっている。自分はとくに気が長いほうだとは思っていないが、気が短いとも思っていない。しかし自分で思うより気が短いんだということを意識していないといけないほどにはしっかり気が短いと思う。鬼越トマホークのyoutubeでひさしぶりにランジャタイ国崎を見て、彼が何事にも動じず、怒ったりすることもないというのをあらためて知って、ああいうのを気が長い・どっしりしているというんだとわからせられた。気質においてそうなれる見込みはうすいし、できるだけ頭を使って意識してそういう方向に自分を持っていかないといけない。小心なら小心なりに変に開き直ったりせずできるだけその小心な部分を露出しないように気をつけていかないといけない。いくら平穏な社会でも小心者のままでできることはあまりない。
あとはいろんなことに口を出せばいいのに、口にすることを厳選するような雰囲気を作ってしまったのは本当によくない。「なんでもかんでも」というのが良いことで「これ一本」というのが悪いことだというのを頭で理解しているつもりで本当には理解できていなかった。
『戦争と平和』を読む。複数の軸があって、順番にそれらが回っていく。長編のあり方として、同時代の人物のそれぞれの生活を描き、暗にそれらがあとで合流したり影響を与え合うのだろうと読者に予期させながらそれぞれの興味ある事件を展開させていくというやり方があるということを理解した。このやり方の利点として、本来は無関係なそれぞれの精神生活にどこか通い合うようなところがあるように感じられるということもある。

20240311

日記321

浪漫的飛行

2024/03/10 昨日
二度寝が充実して起きるのが遅くなり、十一時半からラジオをはじめる。集中力を欠いている状況でオンエアーの空気感を守れずなあなあな感じになる。立て直そうと焦るもうまくいかず、空回りして反感を買い、ラジオ中に相手が漫画を読み始めたことでブチ切れて終わる。何事もリスペクトがないとうまくいかないのは間違いない。これ以上は続けられないのでラジオは止めにする。相手には話が深みに入っていこうとするところで殻にこもる癖がある。一定のポイントまでくると意見の対立をおそれているのか、急にこちらの言うことを聞こうとしなくなる。自分の意見に問題があることを知っていて、論難されることを避けて無理に自分の意見を隠そうとするようだ。それをやられると文字通り「話にならない」のでいらいらしてしまう。子供っぽい態度で対話の相手としては明らかに不足がある。口喧嘩自体はうまい。というか自分の砦を築いてそこに引きこもる作戦がこなれている。
こちらの問題点は自分の言うことが正しいと思いすぎているところだ。ただ、自分は正しくないことを言えないのである程度は仕方がない。それでも正しい分言葉遣いには気をつけていないとただの暴言(軽口)のつもりが暴力的な正論になってしまう。
ラジオを止めることにしたのはしょうがないし続けるのはむずかしいと思うが、対話ができないというのはどこかで問題になると思うのできちんと対処できるようになっておく必要がある。自分からすれば驚くべきことだが相手は普通に挑発してくる。挑発してくるということを念頭に置いて挑発に乗らないことが大切だ。人対人ではどんな状況でも怒ったほう、怒りに身を任せた行動を取ったほうがわるいという原則を思い出せ。
一度クールダウンを挟んで、前日に続き二日連続で原宿渋谷に行くことにする。まずはバビシャーでチーズナンを食べる。その後明治神宮前駅に移動。NBでカジュアルジャケットのセットアップを試着する。無駄に持ってきたカバンが重かったのでスタバで休憩する。ボウリングをやりに行こうとするも三十分待ちで諦める。下北に戻りユニクロでジャケットを見る。そうこうしているうちに二十時になり帰宅。翌日が早出の出社なので風呂に入ってから九時半すぎにねむる。

2024/03/11 今日
五時半起き。七時出社に向け出勤する。よく眠れたので眠さはなかった。出社して仕事するもタスクが落ち着いているので暇に対処するのが大変なぐらいだった。この感覚が懐かしい。
大崎では町内放送が流れて黙祷の時間があった。あれから十三年経っているという事実をうまく飲み込めない。ただ、あれから一年、あれから二年のときの感心の寄せ方を考えれば順当だという気もする。新しい出来事もあったという思いにもなった。
十五時半に退勤。新宿ニュウマンのNBでジャケットの黒を試着するつもりがパンツのXLが置いていないとかでベージュを試着することになる。その後お腹が空いたのでラーメンを食べに東口方面まで歩く。途中ねぎしに行くという案がよぎったものの足の向いている先が別方向だったので諦めてラーメン屋に向かう。しかし見慣れないところにねぎしの看板があり、B1Fだったものの入ってみると新規開店のOS(オープニングスタッフ)が働く初々しいねぎしで店内はきれいで、客はほとんどおらず、美味しいだけでなく快適な食事になった。味噌ポーク定食を食べる。ねぎしは牛タンというより鶏豚がおいしい。ご飯を三杯も食べて腹パンパンになった。
十六時半ごろに小田急に乗って帰宅。業務端末を置いてすぐ出かけるつもりがうたた寝を挟んでしまい、十九時頃にスタバに出かける。

20240309

日記320

ご本人登場

2024/03/08 昨日
この日も長い時間眠ることができた。春眠暁を覚えずということなのか。
在宅バイト。定例の打ち合わせでまたぞろ面倒が飛び出したが、もう知らんと思いつつしっかり対応した。それでも意地になって定時であがる。
昼休みには映像の世紀『地球環境に対する人類史百年の罪と罰』を見る。環境問題、地球環境問題については自分は冷淡な方で「ふうん」という感想になる。というより、技術の向上で対処するべきだという考えだから、環境問題を語る人の半分が「技術を捨てて、原始に立ち返ろう」という方向の主張をしているのに反対だ。もっというと人間は傲慢さを捨てるべきだという立場には賛成できない。考えが傲慢だと捉えられないよう、さらに力を身につければそれでいいのではないか。その道の途中で謙虚さに立ち返らなければそれ以上進めなくなるときがくる。その時に方向転換をすればいいのであって、引き返そうとするのはしかるべく行われる方向転換の阻害要因にさえなると思う。
金夜の会場を池袋に選定する。知っているようで知らない道・建物、それらの位置関係がなんとなくアップデートされた。アニメート周辺を歩き回ったあと、副都心線で明治神宮前駅まで移動し、表参道まで歩く。彼女の職場で急遽催されることになったAmong Us会に参加する。追いかけ回したり追放されたりキルしたりキルされたりで面白かった。終電を気にして二十三時過ぎのお開きになる。

2024/03/09 今日
七時に目が覚めたら鼻血を出した痕跡があった。夜だれかに鼻面を殴られているのかもしれない。一度起き上がって水を飲んでから二度寝。しっかり二度寝できたので寝不足にはならなかった。十一時過ぎにスタバにきて朝食としてアーモンドクロッカンを食べる。三二〇円でしっかりアーモンドが表面についているパンという感じで、温めてもらって食べた。結構おいしかった。『戦争と平和』を読む。ピエールがフリーメイソンに会う回。「死への愛」という条項に対してピエールが無頓着でいられるというのが彼のもっとも羨ましいところかもしれない。神を信じますかと訊かれて「神を信じます」ということは傍から見れば矮小化して捉えることもできるし、それを実のある言葉だと考えることもできる。ピエールをどういう人物だと思うかというのも大部分読者に委ねられていることだ。
これはあほみたいな意見だが、たくさんの字が書かれていて、それなりの数の概念が並べられているとそれだけでいい作品以上の「傑作」になる。たくさんの考慮に値する概念が登場すれば、読者はそのなかから銘々自分勝手に自分の興味関心の中心にあるものを拾っていく。そしてそのことで書かれてあるものとの連帯を感じとり、作品を特別なフォルダに分類することになる。あえて不誠実な言い方をすれば、書き手としてはその並列の仕方に工夫をこらし、箇条書きになっていないかのようにそれらのイメージをきれいに陳列させるのが、読者の益にもなり、いろいろな物事や考えを効率よく伝達する上手い手段にもなるのだと思う。
この後、原宿に行ってMET24のジャケットを試着する予定。その後、代々木公園でモルックに興じるつもり。いい天気で申し分ないと言いたいところだが、花粉の飛散状況だけが心配の種だ山頭火。尾崎放哉。

20240307

日記319

遠い路(みち)

2024/03/06 昨日
スタバを出てドドドにいく。ブリ照り定食をたのみたかったが売り切れで唐揚げ定食にする。低体温のふたりが向かい合って話す様子は、話もしっくりきていない風だし傍から見て不思議だったろうなと思った。思いつきを話してみても広がっていくことは少ない。テンションもちがえば興味のベクトルもちがうのだから当たり前だ。
自分だけで考えるほうがとくに調子良いときには進みが早い。まあ、ないものねだりになってもつまらない。会話は気晴らしにとっておくべきなんだろう。ドンキで氷結を買って帰る。
帰宅して映像の世紀を見る。イスラエルの回。同じものを見てちがう感想を抱くというのはそれだけその映像が多角的なエネルギーを持つということなのかもしれない。自分は間違ったことを言っていないと思うときこそ、言葉の使い方や言い方に気をつけないといけない。
それでも厭世的な態度になることは避けるべきだ。即行動に移して物事を変えるために動けというのもできない。そのあいだでじりじりするしかない。それをしたくないから「難しい」「関心を持っても無駄」「心安らかにいるためにOFFにする」というように、どちらかに振り切ってしまうのはちがう。「解決か、さもなくば無視」というのでは、あまりにも立つ瀬がないのではないか。宙に浮いていられると信じ切ることができない以上、少なくともストレスに晒されているべきだ。
歴史の勉強をすると口にすることで、一気にすべてが難しくなった気がする。歴史の膨大さにはクラクラくるし、そこに接続されているという意識で何かを言ったり書いたりするのは、今までやってきたこととは真逆で、閉めているべき窓が開いていてたえまなく強い逆風に吹かれているような感じだ。これまでやってきたことというのは、歴史など存在しないかのように何かを言ったり書いたり、何かを見聞きするということだった。人の良いところだけを見て生きるようにしなさいというアドバイスを馬鹿正直に忠実に守ってここまでやってきた。
自分が呼吸できて生きられる気圧があるのに、これからは外の世界を知る必要があるといって窓を開け放つ宇宙飛行士のような愚かさがある。だからといって専門家に任せておくことはできないし、現地の人だけの問題にして完全に背を向けるという選択に腹をくくれない。各地に歴史があって、各地に暴力がある、だから同時にべつの場所に存在することはできないという原則に立ち戻って、各地をめぐることからスタートするべきなんだろう。そういえば賢犬の物語も一部分それをするために始まったんだった。今の場面から抜け出せないことでつい忘れてしまっていた。狭い方に行くな。広い方へ行け。そこを掘れ。

2024/03/07 今日
九時間ほどの睡眠をとる。寝疲れるほど寝たのは久しぶりだ。印象的な夢も見れたような気がする。
在宅バイト。作業量の多い作業が残っているのでそれに時間を使う。昼休みに映像の世紀を見る。プーチンとゼレンスキーの回。プーチンがウクライナを批判するときに出てくる「ネオナチ」という言葉があまりに唐突だと思っていたが、適切かどうかは措いても歴史的な経緯があるということを知った。第二次世界大戦においてウクライナがソ連と戦うときに「敵の敵は味方」というところでナチスに協力したことがあった。ウクライナがソビエトを追いやってナチスを迎え入れたときにユダヤ人は殺されている。
ナチスドイツに対して正義を主張するイギリスというのはチャーチルを主人公に据えた映画で物語化されている。それと同じことをロシアは主張できるわけだ。巨悪を倒すために立ち上がり見事それを打ち倒して世界を守ったという栄光の物語。チャーチルだったり、英国王のスピーチだったりを見てよくできていると感じる一方でどうしても鼻白むのは、いかようにも使えるそれ自体は間違った物語の一端を見させられていると思うからだ。ランボーやトップガンも同じことだ。
こういう話は適切に抽象化されなければならない。さもなければ一番強いズームを使って具体的に語られなければならない。
映像の世紀についても、基本的には犠牲者を数でとらえることしかできない。要人の暗殺という結末で劇的に演出することが多い。もちろん半分は歴史のせいだから起こった事実に対して映像の世紀に文句を言うのは筋がちがっているが、それにしても起こった出来事というのは駄目すぎて文句のひとつも言いたくなる。目くらましに使われる感動のエピソードというのも、それが美しいと感じられるのとは別軸でそれを美しいものとして演出することの醜悪さが目につく。悲劇の中にあるひとつの希望、そればっかりじゃないか。はっきり言って感動する。でも、自分ごとながらそのときに目が見えているとは思わない。
定時近くに上がってスタバに行く。やっぱり話せることよりも書けることのほうが多い。相手のスピードを気にせず一息に吐き出してしまうことができるというのが大きい。
秋にNYに行く計画がある。単なる旅行といえばそうなのだが、自分にとっては意味のある旅行になるだろう。これまで海外に行ったことがなかったのはこのタイミングでNYに行くための準備期間が必要だったからだという気さえする。地球上の文化を一隻の豪華客船にあてはめたとき舳先にくるのがNYだというのは自分がよく使う喩えだが、その場所が実在するというのを確かめるのは、人類が人類史を編んでいった結果今があるというのを確かめるのと対になっているように思われる。スケールの大きい話をするためにわざわざ宇宙まで行く必要はない。宇宙船地球号の舳先に立って両手をめいっぱい広げれば、そこで深呼吸すればそれだけで事足りる。そもそも宇宙には文化がない。ただ空間が無為に広がっているだけだ。
今夜は雨が降るとの予報だった。だから昼間干している洗濯物を取り込まなければならなかったのだがすっかり忘れていた。出かける前、Bが不機嫌な顔で「あめね」と言ったからベランダに干されている洗濯物のことを思い出して取り込むことができた。Bはその気になれば人の役に立つこともできる優秀なロポ(ロポットの略)だ。
ロポット(ropot):愛玩用ロボットのこと。ロボット(robot)とペット(pet)を組み合わせた造語。
『戦争と平和』を読む。恋に勝ったロストフ、賭けに勝ったドーロホフ。それらとは無関係に訪れる音楽による陶酔。
グーグルアナリティクスの学習を進める。ダーティなデータをクリーンに。

20240306

日記318

アスファルト光る

2024/03/05 昨日
帰宅してから晩御飯。帰れ鶏肉への胸肉バージョンをいただく。あとはじゃが芋のフリット。どちらもぎとぎとした味付けではなくうす味でおいしい。葬送のフリーレンの三話を見る。
二十三時過ぎにはねむる。

2024/03/06 今日
八時間以上の睡眠で、印象的な夢を見る。前日に歴史の勉強をやり直そうと決意したのだが、その決意が夢に滲んでさっそく良い効果が出たという内容の夢だった。具体的に思い出せたらいいのだけど思い出すことはできず。七時に目が覚めるも二度寝に成功する。そのときの夢も良かったような気がする。
在宅バイト。自分の持っているタスクを粛々とこなしていく。これからはタスクが増えはしないで減る一方というのが気持ちいい。
定時で上がって二十分間の昼寝をとる。その後シャワーに入ってからスタバへ。『戦争と平和』を読む。アンドレイ公爵の帰宅場面。出産と母の死と出来事が詰め込まれていたがかなり冷静な書きぶりで余計な文章が一文たりともなく、出来事そのものに語らせている。この全体が小説の核心ともいえるもので、これは文章作成術とかそういうレベルのものではない。この場面のために小説があるのかもしれない。と本質主義的なことを思ってしまった。

20240305

日記317

「超」

2024/03/04 昨日
スタバを出てからドドドに向かうも満席だった。次点の黒川食堂に行こうとしたが、途中にある南蛮亭が気になってリベンジしてみた。月曜ともあって満席になっておらず三度目の正直でやっと入れた。この店は下北沢に住み始めてようやくたどり着いた感がある。四角いお好み焼きで目の前で焼いてくれるサービスもあり、ビールも超おいしいのもあり、かなり満足行く内容だった。これまで知らずに暮らしてきた年月の情けなさを感じないではいられないが、それよりもレパートリーに強力な飲食店が加わったことを喜びたい。関西のお好み焼きとは別物、というよりは既成のお好み焼きとは別物なので、一度両親に食べさせたいと思った。
いい気分になれたのでドンキで氷結を買って飲みながら帰る。何か気に入らないことがあっても気に入ったことがあってもいずれにせよ氷結を買って飲みながら帰るというのはひょっとすると氷結依存なのではないか。
腸内環境のためのドリンクを買い忘れたので代わりに納豆を食べて早めにねむる。

2024/03/05 今日
在宅バイト。面白い夢をみれて二度寝もできてポケモンスリープのスコアも百点で、言う事無しの睡眠を取れた。最初に今月末で退場する旨を伝え、あとはやるべきことをこなして定時を迎える。
しっかりめの雨の降る中スタバに来る。チョコチャンククッキーを食べて日記を書く。
『戦争と平和』を読む。
ピエールは、表面的ないわゆる性格の弱さにもかかわらず、自分の苦悩を打ち明ける相手を必要としない人々の一人だった。彼は一人で自分の胸のなかで苦悩をこねまわしていた。

グーグルアナリティクスの学習を進める。在宅バイトでも使えるエクセルのテクニックだったり考え方があって、もうすこし早く知ることができていればと思った。データクリーニングはデータを扱う前に最初に実行するという基礎部分らしいのだが、それをやらずにいきなりデータを扱うことになって、かなり無駄が多い作業をしていたと反省することになった。見る人が見ればまだそんなところかという学習パートなんだろうけど実際に知らずに苦労しているのだからしょうがない。

トルストイが三十六歳から四年がかりの連載で『戦争と平和』を書き上げたことを知る。素材のかたちが出るような調理の仕方をしていて、スムージーのようにできるだけきめ細かい仕事をしようとする方向性とは全然ちがう。歌が出てくるし、ピンチョンの小説はトルストイの『戦争と平和』を下敷きにしているように思える。超大作(長大作)を書こうと思うのであれば参考として外せないという勘は当たり前といえば当たり前だがずばりそのまま当たった。歴史をきちんと見て、それを題にとって書く決心をするべきだ。どう考えてもちゃんと勉強しなければならない。それを避けることはできない。

20240304

日記316

異国情緒

2024/03/03 昨日
前日夜ふかしになったのに早く目が覚めてしまい寝不足になる。表参道に降りて歩いて都立明治公園に出かけてみると、知っている場所がきれいに公園として整備されて店がぽつりぽつりとできただけの話だった。オリンピックの五色の輪で写真を撮って退散する。原宿に行く途中でいくつかのアンティークショップに立ち寄る。そのうちのひとつから出たタイミングで目の前に池袋新宿行きのバスが停留所に停まったのでノープランで乗り込む。新宿伊勢丹前で降車。新宿伊勢丹のファニチャーフロアにいく。ニーチェアとパンテラが並んで置いてあるのを見つける。伊勢丹に置いてあるということは良いものだが定番でもあるということだから個人的な嗜好ではなく集合意識的な嗜好なのだろう。それがわるいというわけではないが、それだけだとつまらない。歩き疲れたので家に帰ってうたた寝をする。起きてご飯を食べに出る。この日も南蛮亭は満席で入れず、第二候補のまちなかに入る。スタッフが活き活き働いているように見えるいい雰囲気の中華料理屋で気に入っている。

2024/03/04 今日
在宅バイト。先週金曜に辞める話をしているので完全にタスクをやってあげるフェイズに入っている。やるべきことがなくなるというわけではないから忙しいのは忙しいのだが、気持ちの面では完全に有志でのタスク消化なのでOK,俺に任せなよというモード。ザ行ありだと整合性が取れないので頑張ってザ行なしで済ませる。
花粉がすごく飛んでいる日らしく、一日中くしゃみをして鼻をかんでいた。スタバに出かけるときに対策としてマスクと帽子をつけていく。そのおかげか目はかゆいものの鼻は爆発しないで済んでいる。
スタバにきてアメリカンワッフルを食べて日記を書く。『戦争と平和』二巻を買って読み始める。スタバの一番好きな席に座ってたまに電車を眺めながらぼーっとしている。窓と反対側のソファ席に【e only once】という文字が入っている服を着た女が座っていた。グリーンの色味がおしゃれな感じだったのでなんと書いてあるのか読もうとしたがぎりぎり視力が届かず解読できなかった。あまりまじまじ見つめるのもわるいと思うから思い切って凝視するわけにもいかなかった。しかし何回かにわけて見ているとなんとなくわかった。文字がすべて現れないデザインになっていて、書いてあるのは【Live only once】だったと思う。色味はおしゃれだったが内容はつまらない。昔留学できていたアメリカ人の友達が好きな言葉として教えてくれたときにもこいつは良いやつだけど好きな言葉はつまらないなと感じたのを思い出した。

20240303

日記315

招き口

2024/03/02 昨日
十一時半頃から豪徳寺に出かけて昼ご飯に三輪亭にいく。南チロル地方の料理を食べた。グリーンソースのパスタが見た目ジェノベーゼみたいだったが食べたことのない味がして美味しかった。
梅ヶ丘、世田谷代田を歩き抜けて帰宅。コーヒーとチョコを食べて昼寝をする。三時間の長い昼寝になってしまった。その後PIGを見る。喪失の悲しみを真正面から描いていて苦しい気持ちになったが見てよかった。その後白菜豚ミルフィーユ鍋を食べながら『不適切にもほどがある』を見る。PIGで受けた衝撃を引きずっているせいでグッとくるシーンにバフがかかってグッとなりすぎてしまった。電車に乗りながら読書することに決めて二十二時半に家を出る。綾瀬まで行って帰ってくるあいだに『戦争と平和』の一巻を読み終える。アンドレイ公爵の始末がついて二巻へ。新潮文庫の訳が良い。東北沢で降りて、かなり冷え込んでいるなか氷結を飲みながら帰宅。この夜はショパンのノクターンがいい感じのBGMになった。帰ってからカップ麺を食べ焼きそばを焼いて食べるという暴挙に出て、ようやく二時過ぎにねむる。

2024/03/03 今日
八時半に起きる。完全に寝不足になるが、昨日の長い昼寝を思い出して良しとする。洗濯機を回してグーグルアナリティクスの学習をすすめる。朝食に作ってくれたたまごサンドを食べてからラジオを録る。健康のための睡眠時間のガイダンスという記事をとりあげた。あとは千葉県でスロースリップ発生か、という地震関連のニュース。若干の寝不足がつきまとっているがいい天気なので都立明治公園に出かけることにする。

20240301

日記314

ピロ


2024/03/01 今日
在宅バイトをザ行三十分だけで終わらせ、あわただしい今週が終わった。
スタバにくる道すがら、写真展がやっていたのでふらふらと入って写真を眺める。『余白』というタイトルにも感じるところがあった。景色の写真に混じって人の写真があり、その写真がとてもよかった。自分は人物の写真に興味がある。人を知るということはそのぶんだけ世界が広がることだというのはとりたてて人好きというわけでもない自分にとっても一面の真理があると思うし、知らない人と近づきになって知り合いになったり、知り合いの人とさらに近づきになって親密になるということの中に世界の広まりと深まりが両方あるというのはほとんど間違いのないことだと思う。孤立することを防ぐというのは生物としてのリスク管理だなんていう照れ隠しを必要とする年齢でもない。べつに若いときもそんな照れ隠しはしなかったが。
写真に写っている「ある人」を見ると、一瞬でその人が自分の中にくっきり存在するということが起こる写真がある。ある角度で急激にその人に接近するようなその写真が自分にとっての良い写真だ。人を知ることでその分だけ世界が広がるという論でいくと、瞬間で一気に世界がひらけるような感覚に陥る。そのときにはなんか良い写真だなと思うだけだが、しばらくしてそのときに受けた印象のことを考えていると、画像は思い出せないのに、誰とも知らない名前のない存在がひとつの視点になって広がっていくような感覚をおぼえる。人のことを知って、もっと人のことを知ることで世界を広げたいと思う。それで得られることがあるからだ。本は読まないより読むほうがいい。人は知らないより知るほうがいい。教養とか人脈とかそういうものとはべつに、そうすることでしか獲得できないものがある。
転職先が決まったので現在の就業先に退職の意向を告げた。転職の回数はそれなりに重ねているが、働いているうちに次が決まるというのはこれまでやったことのない経験だ。若干だが特有の解放感があった。今回の就業先では結構頑張ったし、それなりにタスク数をこなしていた自信はあるからかもしれない。
転職によって在宅勤務がほとんどなくなるかわりに条件が上がる。在宅勤務なんていうのはだらだら働けるところにメリットがあるのであって、現況のようにばりばり働かないといけないのでは自分にとってはほぼほぼ無意味だ。オフィスに出かけること自体、コスプレ感覚で歩けるということもあり自分はそこまで嫌ではない。それに自分の時間を売るしかないのであればそれが高く売れるに越したことはない。条件に見合った仕事を提供できるのかという不安がないわけではないが、中央値を見れば破格の条件というわけではまるでないし、平均ぐらいの仕事を平均以上にこなすというのが自分にできないとは思わないのでまあ大丈夫だろう。もし無理だったら無理だったとき考えればいい。
そういえば朝からずっと頭が痛かった。バファリンを三粒のんでも完全にはとれないしつこい頭痛だった。なんだろうと考えたら、日焼けしたときに出る頭痛と同じで、昨日の熱湯風呂によって負った軽やけどからくる頭痛だったと思う。あとは会議やら面談結果連絡やら退社報告やらで緊張しっぱなしだったのも関係がありそう。スタバでドリップコーヒーをのんでいる今、頭痛はほとんど消えたのでカフェインも関係するのかも。
『戦争と平和』を読む。子どもたちが兄からの手紙で消息を知ることになる場面で笑ってしまいそうになった。戦争と平和がこんなに笑える小説で、トルストイがこんなに笑える文章を書く作家だというのは知らなかった。アンナ・カレーニナを読んだだけではシリアスで真剣な作家だという印象だけで笑えるという印象はなかったし、戦争と平和もタイトルからして中身がこうなっているとは想像しづらいところがある。笑える箇所を引用しようかと思ったが、そこだけ抜き出してみても笑えるというものではなく、流れの中に配置されていることで面白いと思えるものなので引用するのはやめる。面白かったのは【第三部の8】だった。しかしこれにしても、もしかするとその章だけ読んだところで、べつにそこまで……ということになるかもしれない。読む人が読んだらそういうことにはならなさそうだと思うけど、読む人ってどんなひとなのかわからない。
大喜利というのはお題に対して面白いことをいう取り決めだから、面白いことをいう能力が求められる。お笑いで大喜利が強いというのはよく褒められやすい。そういうのもあって芸人は面白いことをいう人だというイメージが共有されるようになっている。とくにインターネットではこんなに面白いことをいったと文字情報になったり切り貼りされた動画になったりしてわかりやすいものが拡散されやすい。でも実際の芸人の面白さのじつは大部分(すくなくとも半分)は面白いことをいうことではなく、面白そうにいうことだ。考えてみれば普通のことを言っているのに可笑しく聞こえるようにいうのがじつは芸人の能力で、普段目にしているのにあまり意識されない部分だ。芸人は、この人がこういう言い方をするから面白いとなる部分を伸ばそうとしていて、たぶんそれが伸びていった芸人から売れている。……というようなことを昨夜ねむる前、久しぶりにジャルジャルの動画を見て思った。後藤は面白いが、最近はじわじわ福徳が面白くなっている。

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