20240223

映画『WILL』を見た

自分は東出昌大のファンなので、実物を見れる機会があってあらかじめその情報を得ている場合、機を逃さじと劇場やら映画館に足を運ぶことにしている。
昔はその待機列が長すぎたから、たとえ情報を手にしていても最初から見に行くことを断念していたのだが、どういう風の吹き回しか、最近ではかつてのような非現実的な行列はできなくなった。ただ、さすがに予約なしでなんとかなるというレベルではないため、普通に予約して実物を見に行っている。
ある人物における虚像と実像という側面を考えようとするとき、東出昌大ほど適した人物はいないように自分には思われる。自分は演技の巧拙についてまったくわからないから、役者として演技が上手いからファンだというわけではないし、かといって発言等から人間的な魅力を感じとって追いかけたいと思っているわけでもない。よくもわるくも等身大という印象の発言については、たまにウンウンとなることもあるがうーむと首をひねることのほうが多かったりする。
それでもなぜなのか自分でもよくわからないが『桐島、部活やめるってよ』という映画で彼の姿を見て以来ずっと気になっており、映画に彼の出演情報があればなんとなく気に留めておいてタイミングが合えば見に行くということを繰り返してきた。
規格外のスケールを感じさせると同時につまらない人間のようにも感じられるという「同時に」性に興味があるような気がする。人からつまらない人間だと思われないようにそれを隠すということをしていないのがスケールの大きさにも見えるし、単に見え方の面で考えが及んでいないだけのようにも見える。仮にすべてを意識してやっているとしたらかえってスケールダウンして見えもするところだから、かならずしも意識していることが良いことだとは思わない。むしろ時折のぞく小人物っぽさが大物感に結びついているともいえるし、それでも覚えず識らずつい仰ぎ見てしまうようなことがあるのは、もとをただせば小者感から端を発しているとも考えられる。自分は賢さの条件にはアホであるということが欠かせないとする一派なのだが、東出昌大はその基本線の中心をモデルぐらい正確に真っすぐ歩いているように見える。
彼は一般的に見て良いとはいえない部分を特長としてもっていて自分はそれが良いと思うのだが、なお良いと思うのは一般的に見て良いとしか言えない外見のうえにそれが備わっていることだ。スーパースターのぶっとんだエピソードへと突き抜けていかず、低空をふらふら安定しないまま飛び続けているように見えるのも特異なところだ。これは好き嫌いの話だが、トム・クルーズのようにスター然として振る舞っていたとしたらそのスター性に興味惹かれることはあってもここまで気になる存在にはならなかっただろうと思う。

『WILL』を見に行くことにしたのも舞台挨拶付き上映があると知ったからだ。東出昌大の実物を見るということには上の理由からも自分にとって価値がある。また、エリザベス宮地監督をドビュッシーというユニットでの活動や映像作品『みんな夢でありました』で知っていたのも大きい。近年、どんどん活躍の場を広げていてすごいなと思っていたこともあり、ここで東出昌大と繋がるのかと感慨深いものがあった。友人が大ファンだったことから影響を受けて聴くようになった永原真夏の近くにエリザベス宮地監督がいたこともあり、そのときにも偶然の符合に驚いたものだが、よくよく考えればエリザベス宮地監督が興味を持つ人物というのはそれだけエネルギーを発している特異な人物だということが言えて、そういったタレントは芸能の世界には多数いるにせよ、まったくありえない偶然ということにはならない。彼の作品の方向性も考え合わせると蓋然性の高い偶々(たまたま)というところだ。

本作は狩猟ドキュメンタリーという性質上、画面のなかで野生動物の血が流れる。まず、映画で血が流れることはめずらしいことではない。また、野山で血が流れることにしても狩猟をする人間にとっては少なくとも日常の一部でめずらしいことではないのだろう。しかし、映画のなかで実際の動物の血が流れるというのはわりとめずらしいことだ。
生きるか死ぬかという問題を突きつけるのはある種の劇の特長だといえて、それによって観客は考えることを要請されたりするが、そのなかでも血で生と死を印象づけるというのはよくある手法だ。そのため血を流してみせるのは陳腐でありふれた表現になりかねない。ある小説家は作中で血を流すことで客の集中を引きつけて緊張を高めるというのは下等な手段だと言った。そうではなく血が流れるかもしれないという可能性において緊張感を引き起こすのが上等なやり方だと小説家は説いた。自分はこの意見に賛成だ。いたずらに血を流し、見るものを驚かせるというやり方はどれだけ工夫をこらそうとも馬鹿げている。その馬鹿げているさまを逆手にとるというやり方はあるだろうし、結局それで面白いと感じさせるのであればそれで十分良いということはいえる。ただしその場合、作品がフィクションであり、流された血が血糊であるということが外せない条件になる。たとえ事実を基にした物語であっても、それを演じる人が本人であろうとも、血は贋のものでなければならない。『WILL』はその禁忌(タブー)に抵触している。

本物の血が流れるのを映すと決断する以上は、その場面も含めた作品の全体によって、かならず見る者の感情を動かさなければならないと自分は思う。しかし、どれほど優れた作品であっても最終的に感情を動かすのは観客自身なのだから、これは映画監督の職掌を原理的に踏み越えていることでもある。
踏み越える動機は自分には理解できないものだ。なぜそれをする必要があるのか、本人にもわからないようなことなのかもしれない。ただ、とにかく頭で考えた必要がなくても心に感じる切迫感はある。それで免罪されることはないにせよ、理解できないにしても、そう思う人がいるだろうということを自分ではない他人の可能性として感じとることはできる。
自分は一度進んだらもう引き返せないという状況に身を置くことをつねに躊躇する。たとえ躊躇しようとも、それを選び取るということをしないままでいようと、自動的に引き返せない状況に身を置く羽目に陥らされていることを頭では理解しているつもりだ。それでも「どうせ死ぬのだから【生きる】ということを生きているうちにすべてやり尽くすのだ」という考え方にははっきり反対だ。いつか死ぬと考えて生きることは自分のやりたいことではない。いつまでも死なないという条件が与えられているつもりで生きるというのが自分のやりたいことだ。

上の考え方にしたがって原理的に考えるのであれば、この映画を見て感動などするべきではないと思っている。しかし、そう思っていても半ば強制的に感動させられる。歌には力があるし、山を含めた映像にも力があるからだ。そのせいで自分の心は一筋の血の流れの向こう側へと押し動かされる。動かされながら、感情が動かされるのは避けられないにしても……、と頭の中ではべつのことを考えている。感情を動かされながらも同時に「厭だ」と感じるこの感情のほうにどうにか筋道をつけられないか、ということだ。
画面の向こう側からは当人自身が抱えている矛盾に対して真正面から言及する声が聞こえる。さすがに分が悪いと感じるが、負けを認めるわけにはいかない。そもそも敵ではないのかもしれないし、味方でさえあるかもしれないが、一緒になって肩を組むわけにはいかない。自分には自分の感じた厭悪を、自分の感情からみてもやや分が悪い、よわい厭悪感を守る義務がある。それが踏み潰されることがあるとすれば、それは誰かの足によってではなく、この自分の足によってということになるだろう。それを許すことはできない。
ほかのことを許せないと思う人だっているのかもしれないが、その人と結託しようとは思わない。猟銃が許せない人、食肉が許せない人、埋設処理が許せない人、不倫が許せない人、週刊誌が許せない人、感動が許せない人は、それぞれで銘々勝手に自分の領域を守ってくれたらいい。
自分にとって許せないのは、これは仮定の話になるが、何らかの信念や考え方において決断し、自分が踏み越えた行動のことをただ禁忌を破ったと言って済ませることだ。ゼロではないものをゼロだとみなすような言説については許せないし許さないという基本線に立ち返って考えるのであれば、自分の犯した罪のことを禁忌と言うことそれ自体が許されざる禁忌ということになるはずだ。矮小化された意見がもつ暴力に敏感であろうとすることだけがその処方箋なのだとすれば、矮小化された意見にこれ以上ないほど晒される羽目に陥った人間が、自分自身がそれと同じようなことをしないだろうかと試され続けるような環境や境遇に身をおいていて、しかもその姿をカメラで捉えることで成立したこの映画は、見る側にとっても「禁忌に挑戦している」で済まされていい内容のものではない。
映像を見てここまで許せないという気持ちになったのは、初めてのことだとは言わないまでも自分にとっては数えるほどしかないめずらしいことだ。しかもその中心にいるのが好きな俳優だったというのも自分にとっては大きかった。今後もこれを超える映像体験はないかもしれない。もともと感動するから良いという価値判断はしていないつもりだったが、今作によって感動は良いものだという無意識の前提は掘り返され、両者をより厳密に区別することになってしまった。この映画の中でも格好良い意見や魅力的な声は聞かれたが、この映画によって新たに獲得した観点からすれば、その意見や声に対しては首を捻らざるをえない。
舞台挨拶付きの上映だったためか終映後に拍手が起こった。そのときには胸のうちに感動があったから自分も拍手に加わった。それが間違っていたとは言わないが、流されての行動だったと反省しないわけにはいかない。面白い映画だったし見事だという思いもあったから、感動したから拍手したというのはそれこそ単純化した表現になる。しかし、もとをただせば自分の感動が根底にあり、その後にいろんな感想が続いていっているというのは疑えない。感動がないのは味気ないし、ないよりあるほうがいいのは間違いない。それでもある種の作品においては、ただ感動したで済ませられない、罠のような仕掛けがあるのも事実だ。舞台挨拶付きの上映に釣られてのっぴきならない状況に陥っている。困ったことになったし、そのせいでだんだん許せない気持ちが大きくなっている。地面に向かってぐにゃりと伸びた鹿の首が頭から離れない。

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