20240227

日記311

まさ東

2024/02/26 昨日
在宅バイトでのザ行が長引いて家から一歩も出ないで一日が終わった。こういう日は無くしていかなければならない。お金をもらうためだけに消費された一日……。翌日が出社なので先行してゴミ捨てするため玄関から十歩だけ外に出た。

2024/02/27 今日
出社の日だった。朝早くから出かけるのがなんとも億劫でそのうえ気がかりもあってつい俯きがちだったがそれではいけないと無理やりに顔を上げたら朝日と空がきれいで不意をつかれた。駅から会社までの道はビル風がすごくて飛ばされそうになった。
出社してばりばりと働きながらふと死ぬのがこわくなった。存在していられる期間が限られていることの不条理に気づき驚くというパターンでの死ぬのがこわいだが、しばらくそのことを考え、こうしているうちに時間がすり減っていくことを思い、だんだん厭な気持ちが積み重なっていった。いつも途中で考えるのをやめてしまうことで事なきを得るのだが、それ以外の回避策があるのだろうか。死んだら終わり、死ぬまでしか続かないということを考えて暗い気持ちになっていたのに、その一時間ぐらいあとの打ち合わせではいつもどおり喋る前に緊張していたりして、それを俯瞰で見てばかばかしいと思いながら画面の向こうの人に話しかけていた。何かをやって気を紛れさせるのはうまくいくと思う。しかし気を紛れさせるのだけがうまくなって気づけばタイムアップということだがそれでいいのかと考えて厭な気持ちになったのだった。昔は芯から怖かったし回避策もうまく働かなかった。三十代になってからは怖さが軽減されてきたし、回避策までの経路にも慣れてきた。しかしここへきて怖さの質が変わってきた。自分の衰えがちゃんと目に見えるようになって、今までよりもっと高い精度で終わっていくのが想像できることでふたたび怖さのグラフが上昇曲線を描き初めたような気がする。あたらしい回避策には一応目星がついているもののそれが機能しないことも予想されるので、回避策を実行に移しながらプランB、プランCと探していかなければいけない。
一度家に帰って端末を置いてからスタバに出かける。道を歩いているだけでも良い一瞬はたくさんある。そのいちいちを覚えていないから記述することもできないのだがそういう瞬間のためだったらそれを得るための活動としてバイトをするのも仕方ないかと思う。定時で会社を出たらまだすこし日の名残があり空が明るかったことや、黒いプードルが自分のことを王子様の乗る白馬と思っているかのように優雅なステップで歩いていたこと、スタバの店員がTOKYOローストは中目黒で焙煎されているというのを一言さりげなく教えてくれたこと、書き残しでもしないとすぐ忘れしまうような「ちょっと良いこと」がたくさんある。そういう瞬間をひとつでも写真に撮れたらいいと思って身構えているのだけどどうしてもちょっとだけ遅れてしまう。日記を書いていてもわざわざ書こうと思わないようなちょっとのラインで、だからこれまで日記に書くことができていないのだが、もうすこし意識してちょっとのことを書き残すようにしよう。そうすると自然見たもの中心の記述になるから行動したことを書こうとする日記とはモードが合わない。
自分は改行をあまり使わないようにしているが、それを解禁し、改行を用いてモードの切り替えをしながらつながらないことでも書き継いでいくようにしよう。

人が作ったものについて、それが誰かによって作られたものだという事実それだけで基本的にはもう面白い。面白がる目線で見ればすべては面白いから、何かについて退屈でつまらないと言うことはできない。つまらないと宣言することは、見る自分の怠惰な姿勢を表すだけのことで、対象の面白さを毀損するものではない。だから何かを見てそれが面白くないというとき、それは面白い/面白くないという話ではない。正確にいうとすれば好き嫌いの話だ。しかし、好き嫌いという整理だったり区別では話がそこで終わってしまうことも多い。ああそれが好きなのね、ああそれが嫌いなのね、で話が終わってしまう。その人と何かについての話をしたいのであれば、好き嫌いというのは最後に持ってくるセリフになる。対象について好き同士あるいは嫌い同士でそれを褒めながらあるいは貶しながらお互いの親密さをメンテナンスするというのでなければ、片方が好きでもう一方が嫌いというシチュエーション、それらの好き嫌いのグラデーションのなかで相手を説得して自分の意見に引き寄せようとする会話を楽しむことができる。人それぞれだよねという言葉でお互いの壺の中に引きこもろうとする蛸的習性を回避してあくまで会話を続けたいのであれば、好き嫌いの話ではないという体をとるのが効果的なやり方ということになる。そこで、嫌いであれば粗を見つける、好きであれば美点を説明するというやりとりが生まれる。ただこれはどう考えても「嫌い」にとって有利だ。だから嫌い側は好き側に配慮することを忘れてはいけない。というかべつに配慮する必要はないのだが、嫌いという側に立っているだけでもう十分に有利なのだから討論で優勢なことを得意がってそれでえばったりしていると相手とのやり取りにおける自分自身の発言のプレゼンスが下がる。一度か二度しか話さない相手であればプレゼンスを無視してやり逃げできるかもしれないがある程度長期的な関係を築くのであればそのやり方は通用しない。こういう不公平な位置関係に敏感で、自分が風上に立ってえらそうになるのを回避したいがゆえ面白い/面白くない論争において嫌い側に立とうとしない人が一定数いるのも理解できる。彼らはまともな人間であること(まともな人間と見られること)を優先する人だということがいえる。もちろん社会人としてはそれで十分だし、そういう人が多い社会というのはそうではない社会に比べて住みよい社会だといえる。それでも、友人として見るのであればそれでは満足できない。もし自分の友人に嫌い側に立って何かを言うということをまったくしない人がいたとすると、その人の前ではつねに自分のほうが嫌い側で会話をすることになる。それでもいいと思わせてくれる相手であればそれでもいいのだろうが、それでも、たまには自分がフォローしたり自分の思う作品の美点を言わせてくれよという気になるはずだ。誰かに向かって何かを嫌いというとき、相手がそれを好きだろうが嫌いだろうが、まずは自分の感覚に頼ってきっぱり言い放ってしまう。そのあと相手が追従してくるか、反発してくるか様子を見ることになるが、どちらになってもそれで自分の価値観を示せるとともに相手の価値観が知られるということになって基本的に良いことしかない。ただ暗に期待するのはやっぱり反発してくるほうだ。自分の感覚にはない美質があるとわかったり、不注意からあきらかな美点を見逃しているときに指摘してくれるのは会話するということそのものが持つ利点だと思うからだ。そのためには、一にも二にも自分の感覚に正直になり、面白いか面白くないかにフォーカスして自分の旗幟を鮮明にすることだ。創作物その他についてネガティブなことを一切口にしないというのは、気を遣っているふうでいて実際には保身でやっている以外の説明がつかないと思うがどうか。
まあ、保身は必要なスキルだからそれが悪いというのではない。ただ、保身しなくていいタイミングではそうしないほうが面白いことになりやすい気がするというだけの話だ。

『戦争と平和』第三部5を読む。そのまま劇になりそうな筆致で感心した。というより自分の頭のなかで劇が上映された。戯曲の場合たまに起こることだが小説でそれが起こるとは。アナトーリ、老公爵、マリヤ、ブリエンヌ、そしてマリヤの独白。

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