20240213

日記301

白い犬

2024/02/12 昨日
朝食にホットケーキを食べる。それから寝室のベッド向きを変えたり模様替えに午前中を費やす。昼過ぎにお腹が空かしていたら同居人がリゾットを作って振る舞ってくれた。十五時ぐらいにから井の頭公園に行ってモルックと凧揚げをする。良い写真機を持っていったので公園で憩う人たちの写真をいくつか撮ることができた。サッカーをやりにきたイケイケの集団がいて格好良かった。あと十年若ければ話しかけて混ぜてもらっていたと思うが、残念なことに指をくわえて楽しそうなプレーを見ているだけで終わった。昼休みのサッカーという雰囲気でドリブルやらトリックプレーの披露会といった趣がありかなり懐かしかった。こちらは木の棒を投げたり凧を上げたりして、物理的にはかなり近くにいたのにもかかわらず、結局接触はゼロだった。その後三鷹に移動し、サイゼリヤで千円払って豪勢な晩飯を取ってから友人宅にお邪魔する。お邪魔するという言い方には若干違和感がある。結婚していて配偶者にあたる彼女と一緒に住んでいる家に遊びに行くのだからお邪魔するで合っているものの、言葉と当人との結びつきがどうもしっくりこない。酒を飲むのに適したリラックス空間でもっとゆっくりしたかったが、翌日から仕事が始まるとあっては二十二時すぎに退散せざるを得なかった。でかいテレビでなぜか奈良公園の散歩動画を流していて、まんまと釘付けになった。夏の日の奈良公園特有の気だるい感じが懐かしかった。依頼のあった牛乳寒天を買って帰る。同居人がこれから一段と忙しくなりそうとのことで心配だ。お腹の調子があまり思わしくないので腸内環境を整えると書かれてあるカルピスかヨーグルトか何かを買って飲む。翌日仕事なので夜ふかしはできないものの、この週末に撮った写真をすこしだけ見てからねむる。

2024/02/13 今日
三連休明けの在宅バイトだがよくねむれた。夢も結構な大作を見てしかもおぼえていられる感じだったからよかった。昨夜のカルピスだかヨーグルトが効いた気がする。新しく寮生活をはじめる夢で、新生活に気が引き締まる思いをしながらも一連の事件の犯人がその寮に潜んでいるという情報を自分は持っていて、内偵の役割を果たすためさっそく先輩に取り入ろうとする夢だった。ラーメンに連れて行ってもらってなぜか皆カレーを注文するノリがあって三番目に注文する自分もあとに続いた。よっぽど玉ねぎカレーを注文しようかと思ったが悪目立ちするのはよそうと思って前の奴が「カレー」というのと同じリズム感で「カレー」と言った。先輩は気難し屋だという情報があったが、虫の居所が良かったのか特別良くしてくれる感じで幸先の良いスタートだと思った。それもあって気分の良い目覚めだったんだと思う。
昼休みも十五分間ぐらいの感じでしかもザ行して十九時半までみっちり働く。一応途中で洗濯だけはこなした。ばたばたしている案件への対応の影で本案件のスケジュールがどんどん消費されていて、スケジュール未達にならないかと心配しているPLに詰められるというイベントがあった。知らんがなと思って話を聞いていたが誰も答えないことで自分が答える番らしいことを悟り、いい加減なスケジュールで間に合わせのような回答をする。その場の温度が高くなるのを避けようとだけして、あとで首が締まる回答をするという駄目なやり方の典型だが、打ち合わせまでに考える時間が作れなかったのでそういうことになってしまった。持たされているタスクが多すぎる。はっきりと「できません」と言っていかないといけない。
それでも二十時前にはスタバにきて日記を書く。二十二時半まで読書したりしようと思うが晩飯を食べていないのをどうしよう。スタバから出たら晩飯を食べて酒を飲みながら帰ろう。しっかり規則正しい生活をしてきちんと仕事をしてということをちょっと続けるともうどうしようもなく消耗する。毎日がルーチンになっていくという感じが苛々させる。だったら滅茶苦茶な不摂生でもしてやったほうがいくらかましだという間違った考えが浮かんでくる。本当の解決策はそうではないのだが、それができないでいるからその逃避策だ。とりあえず『戦争と平和』を読む。ロストフが盗みを目撃してそれを告発したところ騒ぎになり、騒動を起こしたかどで上官から謝罪を要求される羽目に陥っている。その始末の付き方が戦闘が始まったというところにある。戦闘の開始が個人的事件の一件落着につながっているというこの顛末には目を見張るところがある。良いとか悪いとかいう価値判断がどこに目を向けるか、どのスケールで考えるかというところに依拠するということをきれいに物語として描いている。個人的に気分が晴々することが誰かに泥をかぶらせることにつながっていることもあれば、個人的に鬱々としてやることがほかの誰かの窮状を救うということもあるんだろう。どうあれ行動する主体にとっては泥をかぶらせることや鬱々とすることに対する言い訳が必要だ。それが現実に連なっていて架空の言い訳になっていないと主張することもまた必要だ。そういう言い訳が必要になっているときにはすでに過ちの折り返し地点を越えていることだろうと思う。だからいざ実際に誰かに主張するときには内心で無理があると認めていて大声を張り上げたり強張った言い方になったりする。これが過ちに突っ込むことが美徳であるという倒錯さえ起こることの理由だ。縷々理路をつむぐのとは反対にどこかで途切れさせるのが大事だ。それは水を差すということであまり褒められた行動にはならないだろうが、それでもそれしかないほど重要なことだ。

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