20240210

日記299

現地集合

2024/02/09 昨日
スタバに行ったあと、代々木上原の焼肉に連れて行ってもらう。お高いお肉を焼いて食べる。霜降りカルビの口のなかでなくなる感覚というのはなるほどこういうものなのかという発見があった。二十三時すぎには帰宅。この一週間のあいだ二十四時前にねむる習慣がついていたので眠くなり、翌日の朝イチでで散髪の予約を入れていたこともありおとなしくすぐねむる。

2024/02/10 今日
土曜日の朝に下北沢駅前を通っていつもの理容室へ。快晴でほとんど無風のため寒さはあまり感じられず朝日が気持ちよかった。散髪と白髪ぼかしが済んでから卵と牛乳を買って帰る。はじめて白髪処理のメニューをたのんだ。帰宅してすぐ追い焚きをしてあった風呂に入る。その後フレンチトーストを食べて洗濯機を回し、ラジオ二回目の収録をする。どういうことがしたいのかをクリアにしていく過程だと思う。思うままに口を動かすのが目的であって、話しながら何かを考えたいという意図はうすいと口にする。なんだかんだ一時間ぐらいの長さになったラジオが終わってから寝室の模様替えをする。ラックの位置とベッドの向きを変えるだけのことに二時間ぐらい費やしたような気がする。お腹が空いたので下北沢に出かける。道中を良いカメラで撮影しながら歩いていたら土土土到着が十六時半すぎになる。ラストオーダーが終わっていた。仕方ないのでバビシャーに行く。いつものチーズナンを食べてナン半分のおかわりをしたら満腹になった。ユニクロと無印に寄って帰る。あとボーナストラックでやっていた写真展に顔を出す。Frame Tokyoという写真集団の展示らしく、アート写真っぽい写真が展示してあった。良いカメラを持って入場したので写真好きのような雰囲気が出たかもしれない。帰宅後すこし休憩してからスタバに出かける。昼間拾ったエルヴィン・シュレディンガーの『生命とは何か』を読む。以前書いた小説の主人公の名前に彼の名前を借りているにもかかわらず、今になってはじめて著作に手をつけた。なんだったら顔もファーストネームも知らなかった。
読みながら眠くなって若干うつらうつらしていたら今朝方に見た夢を思い出した。散髪してもらいながら思い出そうとしても思い出せなかったのだが、意図せず夢の世界に近づくことで思い出せた。古いマンションの一階のマンションの町内会が行われるようなスペースがかなり割安で賃貸に出されていたので喜んで借りてそこに住み始めたら、ほとんど毎日、夕方ぐらいになると勝手にドアを開けられて見知らぬ人が入ってこようとする。驚いて「誰ですか?」と訊くと、向こうも驚いて「すいません」と言いながらすぐ退散する。見知らぬ人たちが入れ代わり立ち代わりで入ってこようとすることがあまり続くから、ひとりを呼び止めて事情を聞くと、自分たちがそこを借り入れて住み始める前はロックミュージシャンたちのたまり場のようになっていたらしいことを知る。自分は正当な経路で借り入れしたのだが、あらかじめそういう事情を聞かされていたら誰かのたまり場を潰すような真似はしなかったのにと大家に腹を立った。事情を話してくれた男の子について勝手口のほうにいくと、最近見た昔の映画のキャラクターの等身大フィギュアやらキャラクターの顔を模した庇やらが飾り付けられていた。そこのミュージシャンたちは皆その映画が好きで、自分たちでそれらを作ってイベントを企画したりしていたらしい。家賃の割にかなりの広さがあって駅にも近いから便利だと思って住みはじめたばかりだったがまた引っ越しかと思っているうちにいつの間にか目が覚めていた。
この一週間はわりと大変でやるべきことがたくさんあり、しかもそれがやりたくないことというかやるのに心理的なハードルがあることだった。自分は客席に座っているような気分で生活するほとんどの時間を過ごしている。もうすこし舞台に立っている気分になったほうがいいかもしれないと思うが、やはり自分に向いているのは観客席なのだろう。面白いものを面白く感じることが得意だ。それには目の前の景色に没頭できる観客席に座を占めるのが理にかなっている。舞台に立つと、目の前の面白いことを素通りして自分のやるべきことをやったり言うべきことを言うべきタイミングで言ったりするのを優先しなければならなくなる。作品・成果物としてそれを誰かに見てもらうためには、見ること・探すことを一旦中断しなければならない。自分で面白いと思うことをやるのであればそういったトレードオフはない。仕事における自分の発表や成果物の報告について、劇的な効果を上げるというところまで突き進んで考えるようにすれば、パフォーマンスの質を高める意識を持ってその役を演じるという気持ちになることができる。面接で自分の職歴について話すときにも同じように考えるのがいいだろう。そのためには入念な準備が必要だ。去年舞台に立ったときにも、セリフは多くなかったものの気持ちの面では自分なりに入念に準備をしていたと思う。ぎりぎりまで観客席に座って状況を見つめていたくなる気持ちをある程度抑え、舞台に立つためのしかるべき準備をしたうえで観客に向けたパフォーマンスに徹するべきだ。こんなことは大学三回生で就活をするときにごく当たり前に身につける態度なのかもしれないが、ようやく今になってその扉の存在が自分の目にも見えるようになった。ようやく今になってというのは大学生を卒業して十何年経ってというのもあるが、演劇祭で舞台に立って丸一年経ってというのもある。自分が表現するということに向いていないとは思わないが、自分にとって表現するというのは当たり前のことではない。奉仕精神がないというのは残念なことだがそれだけが原因ではない。表現するということが必然性のあることではないというのは、その欲求に優先するべつの欲求がごく当たり前にあるということでしかない。面白いと思うことや、何かしら心を動かす物事に触れていたいということ、それらを優先していると自然に後回しになるということでしかない。観客席に座ったままでいると(おそらく)普通はその座席が沈下していき、そのせいで居心地が悪くなる(あるいはその想像がつくようになる)。だから観客席にじっとしていることができず、何かをやったり自分の表現を通して自席の位置を高いところに置き直したり、べつの良い席を探したり、何らかの活動をすることになるんだろうと思う。言ってみれば必要に迫られて、観客席のチケットを買うためのお金を稼ぐという発想になるということだ。自分は人に比べてその焦りを受ける必要が少なかった。さらにその焦りを感じる受光器の感度が低かった。寒さに強いキリギリスよろしく、かなりしぶとく遊び暮らしていたということがいえる。ただ単純に自分のせいだけとも思われない。キリギリスの喩えでいうと、自分の置かれた環境というのは振り返ってみるとかなりの暖冬だということが言えそうだ。そのおかげでたまたま一冬を越えられたキリギリスはその結果次の冬に備えようという発想には至らないはずだ。それは当のキリギリス目線では間違った考え方ではないだろう。温暖化の影響でよくあることといえばよくあることではあるのかもしれないが、奇跡的に何冬も越えられたキリギリスが、それでもだんだん冬の寒さが身にしみるようになってきて、そろそろ自分の価値観に沿わないことをやらなければならないと考えはじめるのも、当のキリギリスの目線では間違った考え方だとはいえないと思う。しかし、そもそもキリギリスというのは立派かどうかはおいてもれっきとした表現者なのでこの比喩は部分的にしか適用できない。比喩に正確さを期そうとするのであれば食べるのが大好きなブタということになるだろうか。黙っていても自分の好きな食べ物がどんどん提供される環境下で、それにもかかわらず表現しなければという切迫感をおぼえるブタがいるとすれば、そのブタは本当には食べることが好きではないのだとだけ考えるブタが自分だ。もちろんこれは比喩だが、さらに言葉を継ぐなら、近頃にわかに食欲が落ちてきてこれまで感じたことのない不安を感じ、焦りをおぼえ始めたブタということになる。

ブログ移行のお知らせ

当ブログ だから結局 は、Wordpressに高い月額利用料を払い、以下のURLに移行することになった。 だから結局 ぜひブックマークして、日に何度もチェックをお願いしたい。