20240229

日記313

横断歩道・橋・高架

2024/02/29 今日
朝はよくねむれたおかげで調子が良かった。在宅バイト。各所と調整。タスク消化。二十一時半までザ行。そのせいで体力気力ゲージともに完全に底をついた。とはいえ実際には座っているのがメインなので体力は残っている。気力を回復しなければと思って雨の中銭湯に出かける。なぜかお腹は空いていない状態だったが、せっかくのうるう日に仕事だけして消耗したこの身体に牛丼の味はどう感じられるだろうという興味があって駅まで足を伸ばして吉野家に入る。牛丼アタマの大盛りが到着して食べ始めるとお腹が減っていたことを思い出し、とくに何か変わった感覚もないままいつものように食べ終わった。劇的な何かを欲していたわけでもなかったがそれでもやはり肩透かしを食った気分になった。雨の中当初の目的地の銭湯に向かう。普段通らない角をまがって歩いていたらうっかり新代田駅にまでのぼってきてしまった。食後の腹ごなしにちょうどいいと思うことにして銭湯に入る。ただ湯がいくらなんでも熱すぎて最初は二秒と浸かっていられずにすぐにシャワーの場所に退却。蛇口をひねって水を投入しながら何とか一五秒程度出たり入ったりして身体をあっためる。最後慣れてきたから頑張ってみようとすこし無理したらすこしやけどした。帰り道ゆっくり歩いて帰っても湯冷めしないから風呂はやっぱりすごい。ただ、すねのあたりは今もヒリヒリする。

20240228

日記312



2024/02/27 昨日
わりと捗ったスタバからの帰りにダイエーでさば味噌煮の弁当を買って帰る。アルコールなし。帰ってそれを食べてからわりとすぐねむる。夜寝るまでの時間に何をしているのか意識がない。意識はあってもくだらない動画を見ているだけでそのときの記憶がないんだと思う。心が眠るための準備をしていてその時間の記憶がないというのはベッドに入る前にねむっているようなものだ。

2024/02/28 今日
在宅バイト。早く目が覚めて、ついさっきまですぐ近くに感じられた夢を思い出そうとしているうちに仕事のことを思い出した。そのせいで半覚醒から覚醒に意識レベルが上がってしまうのは自分にとってはかなり嫌な覚醒の仕方だ。
ちゃんと打ち合わせに出てから面談のために中抜けする。その後戻ってきて二十一時までザ行。面談はいざ始まってしまえばそこまで緊張しなかった。それでも始まるまで気は張ったし、帰りの移動時間だけ唯一寛いだ気分になれた。
同居人が野菜炒め弁当の塩味を買ってきてくれたので食べる。疲れすぎていて何かをしようという気になれずすぐねむることにした。しかし二十二時ちょっとすぎだったのでさすがにすぐには寝付けず、一旦起き上がって眠気がくるのを待つ作戦を採る。一応日記を書いてねむる。この日の面談で出向いた水道橋らへんの神田川と首都高と総武線が交錯する景色はたくさんの流れがある東京の良さを代表しているようで気に入った。

20240227

創作物への態度

人が作ったものについて、それが誰かによって作られたものだという事実それだけで基本的にはもう面白い。面白がる目線で見ればすべては面白いから、何かについて退屈でつまらないと言うことはできない。つまらないと宣言することは、見る自分の怠惰な姿勢を表すだけのことで、対象の面白さを毀損するものではない。だから何かを見てそれが面白くないというとき、それは面白い/面白くないという話ではない。正確にいうとすれば好き嫌いの話だ。しかし、好き嫌いという整理だったり区別では話がそこで終わってしまうことも多い。ああそれが好きなのね、ああそれが嫌いなのね、で話が終わってしまう。その人と何かについての話をしたいのであれば、好き嫌いというのは最後に持ってくるセリフになる。対象について好き同士あるいは嫌い同士でそれを褒めながらあるいは貶しながらお互いの親密さをメンテナンスするというのでなければ、片方が好きでもう一方が嫌いというシチュエーション、それらの好き嫌いのグラデーションのなかで相手を説得して自分の意見に引き寄せようとする会話を楽しむことができる。人それぞれだよねという言葉でお互いの壺の中に引きこもろうとする蛸的習性を回避してあくまで会話を続けたいのであれば、好き嫌いの話ではないという体をとるのが効果的なやり方ということになる。そこで、嫌いであれば粗を見つける、好きであれば美点を説明するというやりとりが生まれる。ただこれはどう考えても「嫌い」にとって有利だ。だから嫌い側は好き側に配慮することを忘れてはいけない。というかべつに配慮する必要はないのだが、嫌いという側に立っているだけでもう十分に有利なのだから討論で優勢なことを得意がってそれでえばったりしていると相手とのやり取りにおける自分自身の発言のプレゼンスが下がる。一度か二度しか話さない相手であればプレゼンスを無視してやり逃げできるかもしれないがある程度長期的な関係を築くのであればそのやり方は通用しない。こういう不公平な位置関係に敏感で、自分が風上に立ってえらそうになるのを回避したいがゆえ面白い/面白くない論争において嫌い側に立とうとしない人が一定数いるのも理解できる。彼らはまともな人間であること(まともな人間と見られること)を優先する人だということがいえる。もちろん社会人としてはそれで十分だし、そういう人が多い社会というのはそうではない社会に比べて住みよい社会だといえる。それでも、友人として見るのであればそれでは満足できない。もし自分の友人に嫌い側に立って何かを言うということをまったくしない人がいたとすると、その人の前ではつねに自分のほうが嫌い側で会話をすることになる。それでもいいと思わせてくれる相手であればそれでもいいのだろうが、それでも、たまには自分がフォローしたり自分の思う作品の美点を言わせてくれよという気になるはずだ。誰かに向かって何かを嫌いというとき、相手がそれを好きだろうが嫌いだろうが、まずは自分の感覚に頼ってきっぱり言い放ってしまう。そのあと相手が追従してくるか、反発してくるか様子を見ることになるが、どちらになってもそれで自分の価値観を示せるとともに相手の価値観が知られるということになって基本的に良いことしかない。ただ暗に期待するのはやっぱり反発してくるほうだ。自分の感覚にはない美質があるとわかったり、不注意からあきらかな美点を見逃しているときに指摘してくれるのは会話するということそのものが持つ利点だと思うからだ。そのためには、一にも二にも自分の感覚に正直になり、面白いか面白くないかにフォーカスして自分の旗幟を鮮明にすることだ。創作物その他についてネガティブなことを一切口にしないというのは、気を遣っているふうでいて実際には保身でやっている以外の説明がつかないと思うがどうか。

まあ、保身は必要なスキルだからそれが悪いというのではない。ただ、保身しなくていいタイミングではそうしないほうが面白いことになりやすい気がするというだけの話だ。

日記311

まさ東

2024/02/26 昨日
在宅バイトでのザ行が長引いて家から一歩も出ないで一日が終わった。こういう日は無くしていかなければならない。お金をもらうためだけに消費された一日……。翌日が出社なので先行してゴミ捨てするため玄関から十歩だけ外に出た。

2024/02/27 今日
出社の日だった。朝早くから出かけるのがなんとも億劫でそのうえ気がかりもあってつい俯きがちだったがそれではいけないと無理やりに顔を上げたら朝日と空がきれいで不意をつかれた。駅から会社までの道はビル風がすごくて飛ばされそうになった。
出社してばりばりと働きながらふと死ぬのがこわくなった。存在していられる期間が限られていることの不条理に気づき驚くというパターンでの死ぬのがこわいだが、しばらくそのことを考え、こうしているうちに時間がすり減っていくことを思い、だんだん厭な気持ちが積み重なっていった。いつも途中で考えるのをやめてしまうことで事なきを得るのだが、それ以外の回避策があるのだろうか。死んだら終わり、死ぬまでしか続かないということを考えて暗い気持ちになっていたのに、その一時間ぐらいあとの打ち合わせではいつもどおり喋る前に緊張していたりして、それを俯瞰で見てばかばかしいと思いながら画面の向こうの人に話しかけていた。何かをやって気を紛れさせるのはうまくいくと思う。しかし気を紛れさせるのだけがうまくなって気づけばタイムアップということだがそれでいいのかと考えて厭な気持ちになったのだった。昔は芯から怖かったし回避策もうまく働かなかった。三十代になってからは怖さが軽減されてきたし、回避策までの経路にも慣れてきた。しかしここへきて怖さの質が変わってきた。自分の衰えがちゃんと目に見えるようになって、今までよりもっと高い精度で終わっていくのが想像できることでふたたび怖さのグラフが上昇曲線を描き初めたような気がする。あたらしい回避策には一応目星がついているもののそれが機能しないことも予想されるので、回避策を実行に移しながらプランB、プランCと探していかなければいけない。
一度家に帰って端末を置いてからスタバに出かける。道を歩いているだけでも良い一瞬はたくさんある。そのいちいちを覚えていないから記述することもできないのだがそういう瞬間のためだったらそれを得るための活動としてバイトをするのも仕方ないかと思う。定時で会社を出たらまだすこし日の名残があり空が明るかったことや、黒いプードルが自分のことを王子様の乗る白馬と思っているかのように優雅なステップで歩いていたこと、スタバの店員がTOKYOローストは中目黒で焙煎されているというのを一言さりげなく教えてくれたこと、書き残しでもしないとすぐ忘れしまうような「ちょっと良いこと」がたくさんある。そういう瞬間をひとつでも写真に撮れたらいいと思って身構えているのだけどどうしてもちょっとだけ遅れてしまう。日記を書いていてもわざわざ書こうと思わないようなちょっとのラインで、だからこれまで日記に書くことができていないのだが、もうすこし意識してちょっとのことを書き残すようにしよう。そうすると自然見たもの中心の記述になるから行動したことを書こうとする日記とはモードが合わない。
自分は改行をあまり使わないようにしているが、それを解禁し、改行を用いてモードの切り替えをしながらつながらないことでも書き継いでいくようにしよう。

人が作ったものについて、それが誰かによって作られたものだという事実それだけで基本的にはもう面白い。面白がる目線で見ればすべては面白いから、何かについて退屈でつまらないと言うことはできない。つまらないと宣言することは、見る自分の怠惰な姿勢を表すだけのことで、対象の面白さを毀損するものではない。だから何かを見てそれが面白くないというとき、それは面白い/面白くないという話ではない。正確にいうとすれば好き嫌いの話だ。しかし、好き嫌いという整理だったり区別では話がそこで終わってしまうことも多い。ああそれが好きなのね、ああそれが嫌いなのね、で話が終わってしまう。その人と何かについての話をしたいのであれば、好き嫌いというのは最後に持ってくるセリフになる。対象について好き同士あるいは嫌い同士でそれを褒めながらあるいは貶しながらお互いの親密さをメンテナンスするというのでなければ、片方が好きでもう一方が嫌いというシチュエーション、それらの好き嫌いのグラデーションのなかで相手を説得して自分の意見に引き寄せようとする会話を楽しむことができる。人それぞれだよねという言葉でお互いの壺の中に引きこもろうとする蛸的習性を回避してあくまで会話を続けたいのであれば、好き嫌いの話ではないという体をとるのが効果的なやり方ということになる。そこで、嫌いであれば粗を見つける、好きであれば美点を説明するというやりとりが生まれる。ただこれはどう考えても「嫌い」にとって有利だ。だから嫌い側は好き側に配慮することを忘れてはいけない。というかべつに配慮する必要はないのだが、嫌いという側に立っているだけでもう十分に有利なのだから討論で優勢なことを得意がってそれでえばったりしていると相手とのやり取りにおける自分自身の発言のプレゼンスが下がる。一度か二度しか話さない相手であればプレゼンスを無視してやり逃げできるかもしれないがある程度長期的な関係を築くのであればそのやり方は通用しない。こういう不公平な位置関係に敏感で、自分が風上に立ってえらそうになるのを回避したいがゆえ面白い/面白くない論争において嫌い側に立とうとしない人が一定数いるのも理解できる。彼らはまともな人間であること(まともな人間と見られること)を優先する人だということがいえる。もちろん社会人としてはそれで十分だし、そういう人が多い社会というのはそうではない社会に比べて住みよい社会だといえる。それでも、友人として見るのであればそれでは満足できない。もし自分の友人に嫌い側に立って何かを言うということをまったくしない人がいたとすると、その人の前ではつねに自分のほうが嫌い側で会話をすることになる。それでもいいと思わせてくれる相手であればそれでもいいのだろうが、それでも、たまには自分がフォローしたり自分の思う作品の美点を言わせてくれよという気になるはずだ。誰かに向かって何かを嫌いというとき、相手がそれを好きだろうが嫌いだろうが、まずは自分の感覚に頼ってきっぱり言い放ってしまう。そのあと相手が追従してくるか、反発してくるか様子を見ることになるが、どちらになってもそれで自分の価値観を示せるとともに相手の価値観が知られるということになって基本的に良いことしかない。ただ暗に期待するのはやっぱり反発してくるほうだ。自分の感覚にはない美質があるとわかったり、不注意からあきらかな美点を見逃しているときに指摘してくれるのは会話するということそのものが持つ利点だと思うからだ。そのためには、一にも二にも自分の感覚に正直になり、面白いか面白くないかにフォーカスして自分の旗幟を鮮明にすることだ。創作物その他についてネガティブなことを一切口にしないというのは、気を遣っているふうでいて実際には保身でやっている以外の説明がつかないと思うがどうか。
まあ、保身は必要なスキルだからそれが悪いというのではない。ただ、保身しなくていいタイミングではそうしないほうが面白いことになりやすい気がするというだけの話だ。

『戦争と平和』第三部5を読む。そのまま劇になりそうな筆致で感心した。というより自分の頭のなかで劇が上映された。戯曲の場合たまに起こることだが小説でそれが起こるとは。アナトーリ、老公爵、マリヤ、ブリエンヌ、そしてマリヤの独白。

20240226

日記310

雨風寒気

2024/02/25 昨日
十時ごろに起床。トーストを食べて十一時半からラジオを録る。とりあげたニュースはアルコール量の表示変更について。あとはケンドリック・ラマーとコラボしたダムフォンについて。
十二時半に友人が遊びに来るのにあわせて駅前まで昼飯を食べに出かける。雨の中酒おつまみを買い込んで家に帰る。コンセプトという新しいゲームとカタンで遊ぶ。いつも負けている友人がめずらしく一位になった。三人でやるカタンは動き方が洗練を通り越して収束してきていて遊びがすくないと感じる。何か別の要素を導入したいと思う。『I am...』というテレビドラマを見る。恋愛フォーマットながら森岡龍のドラマっぽいなと思って満足していたら友人いわくあの映画を撮ったとは思えないぐらいイマイチだったとのこと。だらだら酒を飲みながら駄弁りながら見たので仕方ない部分はあるけどきちんと判断できているのかいつにもましてあやしいものだ。その後まいばすけっとに酒や食べ物を補充しにいく。ポケモンかるたでちょっと遊んでひとりが帰る。二枚麻雀のあとEカードで遊ぶ。読みにいくときに確率のことをどうしても考えてしまってかえって割のよくない勝負に持ち込まれていくのが面白かった。あとは相手の動き方を読むときと自分の動き方を相手がどう読んでくるかを読むときには勝手が違うというか相手の考えの深さにギャップが出ることを知った。自分の場合あまりそのギャップがないように調整しようとすると思うが、相手がそれをほとんどまったくやっていないということに驚いた。いずれにせよ相手は自分ではないわけで、相手がどんなプレーヤーなのか見極めて調整していくのが面白い。どこかのプレースタイルでぴったり止まっていることもないから調整し続けることが必要になる。それを考えると自分の動き方はずいぶん読みやすいだろうと思った。だからその裏をかくのも簡単といえば簡単で、50/50に持ち込まれてからは結構回避できた。そのときには相手がこっちの動きの変化に対応しようとしていない感じがあった。

2024/02/26 今日
在宅バイト。やるべきことをやっていたらすぐに定時になった。定時間際に作業用として使っていたエクセルの馬鹿が途中で落ちてデータが飛んだせいで作業がまるまるやり直しになり、気づけば二十時半までザ行になった。エクセルの馬鹿はもう絶対に許さない。そもそもエクセルの作業に時間をかけ過ぎだし、作業用とはいえ自動保存設定にしていなかったやつが一番の馬鹿だ。予定作業はなんとか終わらせたがとにかく疲れた。同居人がスーパーで買物をしてくれて鍋になった。結局家から一歩も出ない日になった。一応昼休みにラジオ体操をしたものの運動不足の加速がおそろしい。体型維持にもうすこしコストをかけていかないと気分高揚の天井が下がっていく気がする。心技体の体が何より重要なのは知っての通り。
昨日今日とおもしろい夢を見たのだが内容を忘れてしまった。面白いながらこのままの生活に不安を抱かされるちょうどいい塩梅の夢だったのに忘れてしまって惜しいことをした。サラリーマンのような暮らしに安穏としているべきではないぞと思いながら月曜を迎え撃つような、自分の志向に沿って前向きな気持ちになる夢だった。休日もまんまサラリーマンの休日みたいな休日に終止していたし、このままでは時間を無駄にしてしまう。スタバに行かないでBとケンドリック・ラマーを聞きながら日記を書く。

20240225

日記309

街のくまさん

2024/02/24 昨日
一週間単位で久しぶりの晴れ間になったので朝から洗濯機を回す。早起きしすぎていたので二度寝をすると十二時過ぎになる。国領にうまいインド・ネパール料理(カレー)を出す店があるというので明大前で京王線に乗り換えて国領まで出向く。ほとんど何も無い駅だったが、駅前にショッピングセンターがあってその二階にK.Cはあった。十四時半に入って店休時間の十五時ちょっと過ぎまでおいしいクルチャとカレーをいただく。
その後、よみうりランドに行くという思いつきが発案されるもアトラクションの待ち時間四十五分になっていることで気勢をそがれ別の案が採用される。仙川にあるスーパー銭湯に行くことにする。ご飯を食べた後ちょっとは運動をしたほうが入浴を楽しめるという理由で仙川の隣駅つつじヶ丘で降車して一駅歩く。道中に武者小路実篤記念館と実篤公園があるのを確認していたので実篤公園に立ち寄ってから仙川のスーパー銭湯にいく。岩盤浴を入れて千六百円なので値段はお値打ちなのだがそれと連休中日のせいで客が殺到していた。岩盤浴に入るためにベンチに座って待たされるところで気持ちがかなり萎んだ。ただ入ってみると岩盤浴では寝ているだけでじゃんじゃん汗が出て都合三回出たり入ったりを繰り返すうちに湯船に落とされたぐらい汗が出た。漫画コーナーは11000冊あるとはいいながら期待したほどのラインナップでもなかった。ただ目当てのドラゴンボールは当然あったのでピッコロ大魔王を倒すところまで読み終わった。
そのまま風呂に行く。十九時から二十時の時間帯で広いサウナは満席状態。湯船も浸かることはできるがつねに隣近所に人がいる状態で、満足いくリラックス体験にはならなかった。テルマー湯から千円安いとまあこんな感じかというちょうどのラインだった。
その後仙川駅前の杉玉にいく。仙川は駅前商店街は新しくてきれい、入っている飲食店も粒揃いなので印象が良かった。
帰りも明大前で乗り換えて新代田で降りる。ファミマのレモンチューハイ白を飲みながら帰宅。不適切にもほどがある5話を見てねむる。このドラマの仕掛け部分が明かされる起承転結の転部分で面白かった。感動シーンで音楽をふんだんに使うこれまでの演出からここへきて音楽を使わない演出に切り替えることで高い演出効果があった。この演出効果は映画では出せないテレビドラマフォーマット特有のもので、コメディミュージカルを含めた「音楽」のON/OFFで見せてくるから驚いたし結構食らった。つねにテンションが高いコメディ俳優のシリアスな演技にもさすが俳優と思わされて感心させられるところがあった。岩盤浴サウナで疲れていたのでいつにもまして速攻入眠。

2024/02/25 今日
久しぶりの再会、仕事のサボりとその隠蔽失敗など、いろいろあったのち演劇のWSに参加する夢を見る。一ヶ月の短期間で公演まで持っていくWSで、指導・演出してくれるのはあの有名劇作家(名前を思い出せないが作品は見たことがある)、役者は四人という中身だった。観客席に座ってなにかの発表を見ていたら、突然演出家本人が登場し「なぜ役者になろうと思ったのか」と詰められ、自分の思ったことを喋ったら「お前には中身がない、何を考えているのか見えてこない」と詰られた。えらい人なんだぞとアピールするような喋り方をしてきたのでそれに反感をおぼえ説明するモードに入り説明していたら、その場を取り巻いている人たちのなかに友人の顔を見つけた。おかげでリラックスして「格好のいい人を映画や演劇で見ることがあるのでそれに近づく方法はないか考えていてWSに参加することがそのヒントになるのではないか云々」と思っていることを喋ったら、無反応でどこかへ行った。これからの一ヶ月が思いやられると心配になりながらも、そこに立っていてもしょうがないので友人と飲みに出かけることにしたら目が覚めた。

20240223

映画『WILL』を見た

自分は東出昌大のファンなので、実物を見れる機会があってあらかじめその情報を得ている場合、機を逃さじと劇場やら映画館に足を運ぶことにしている。
昔はその待機列が長すぎたから、たとえ情報を手にしていても最初から見に行くことを断念していたのだが、どういう風の吹き回しか、最近ではかつてのような非現実的な行列はできなくなった。ただ、さすがに予約なしでなんとかなるというレベルではないため、普通に予約して実物を見に行っている。
ある人物における虚像と実像という側面を考えようとするとき、東出昌大ほど適した人物はいないように自分には思われる。自分は演技の巧拙についてまったくわからないから、役者として演技が上手いからファンだというわけではないし、かといって発言等から人間的な魅力を感じとって追いかけたいと思っているわけでもない。よくもわるくも等身大という印象の発言については、たまにウンウンとなることもあるがうーむと首をひねることのほうが多かったりする。
それでもなぜなのか自分でもよくわからないが『桐島、部活やめるってよ』という映画で彼の姿を見て以来ずっと気になっており、映画に彼の出演情報があればなんとなく気に留めておいてタイミングが合えば見に行くということを繰り返してきた。
規格外のスケールを感じさせると同時につまらない人間のようにも感じられるという「同時に」性に興味があるような気がする。人からつまらない人間だと思われないようにそれを隠すということをしていないのがスケールの大きさにも見えるし、単に見え方の面で考えが及んでいないだけのようにも見える。仮にすべてを意識してやっているとしたらかえってスケールダウンして見えもするところだから、かならずしも意識していることが良いことだとは思わない。むしろ時折のぞく小人物っぽさが大物感に結びついているともいえるし、それでも覚えず識らずつい仰ぎ見てしまうようなことがあるのは、もとをただせば小者感から端を発しているとも考えられる。自分は賢さの条件にはアホであるということが欠かせないとする一派なのだが、東出昌大はその基本線の中心をモデルぐらい正確に真っすぐ歩いているように見える。
彼は一般的に見て良いとはいえない部分を特長としてもっていて自分はそれが良いと思うのだが、なお良いと思うのは一般的に見て良いとしか言えない外見のうえにそれが備わっていることだ。スーパースターのぶっとんだエピソードへと突き抜けていかず、低空をふらふら安定しないまま飛び続けているように見えるのも特異なところだ。これは好き嫌いの話だが、トム・クルーズのようにスター然として振る舞っていたとしたらそのスター性に興味惹かれることはあってもここまで気になる存在にはならなかっただろうと思う。

『WILL』を見に行くことにしたのも舞台挨拶付き上映があると知ったからだ。東出昌大の実物を見るということには上の理由からも自分にとって価値がある。また、エリザベス宮地監督をドビュッシーというユニットでの活動や映像作品『みんな夢でありました』で知っていたのも大きい。近年、どんどん活躍の場を広げていてすごいなと思っていたこともあり、ここで東出昌大と繋がるのかと感慨深いものがあった。友人が大ファンだったことから影響を受けて聴くようになった永原真夏の近くにエリザベス宮地監督がいたこともあり、そのときにも偶然の符合に驚いたものだが、よくよく考えればエリザベス宮地監督が興味を持つ人物というのはそれだけエネルギーを発している特異な人物だということが言えて、そういったタレントは芸能の世界には多数いるにせよ、まったくありえない偶然ということにはならない。彼の作品の方向性も考え合わせると蓋然性の高い偶々(たまたま)というところだ。

本作は狩猟ドキュメンタリーという性質上、画面のなかで野生動物の血が流れる。まず、映画で血が流れることはめずらしいことではない。また、野山で血が流れることにしても狩猟をする人間にとっては少なくとも日常の一部でめずらしいことではないのだろう。しかし、映画のなかで実際の動物の血が流れるというのはわりとめずらしいことだ。
生きるか死ぬかという問題を突きつけるのはある種の劇の特長だといえて、それによって観客は考えることを要請されたりするが、そのなかでも血で生と死を印象づけるというのはよくある手法だ。そのため血を流してみせるのは陳腐でありふれた表現になりかねない。ある小説家は作中で血を流すことで客の集中を引きつけて緊張を高めるというのは下等な手段だと言った。そうではなく血が流れるかもしれないという可能性において緊張感を引き起こすのが上等なやり方だと小説家は説いた。自分はこの意見に賛成だ。いたずらに血を流し、見るものを驚かせるというやり方はどれだけ工夫をこらそうとも馬鹿げている。その馬鹿げているさまを逆手にとるというやり方はあるだろうし、結局それで面白いと感じさせるのであればそれで十分良いということはいえる。ただしその場合、作品がフィクションであり、流された血が血糊であるということが外せない条件になる。たとえ事実を基にした物語であっても、それを演じる人が本人であろうとも、血は贋のものでなければならない。『WILL』はその禁忌(タブー)に抵触している。

本物の血が流れるのを映すと決断する以上は、その場面も含めた作品の全体によって、かならず見る者の感情を動かさなければならないと自分は思う。しかし、どれほど優れた作品であっても最終的に感情を動かすのは観客自身なのだから、これは映画監督の職掌を原理的に踏み越えていることでもある。
踏み越える動機は自分には理解できないものだ。なぜそれをする必要があるのか、本人にもわからないようなことなのかもしれない。ただ、とにかく頭で考えた必要がなくても心に感じる切迫感はある。それで免罪されることはないにせよ、理解できないにしても、そう思う人がいるだろうということを自分ではない他人の可能性として感じとることはできる。
自分は一度進んだらもう引き返せないという状況に身を置くことをつねに躊躇する。たとえ躊躇しようとも、それを選び取るということをしないままでいようと、自動的に引き返せない状況に身を置く羽目に陥らされていることを頭では理解しているつもりだ。それでも「どうせ死ぬのだから【生きる】ということを生きているうちにすべてやり尽くすのだ」という考え方にははっきり反対だ。いつか死ぬと考えて生きることは自分のやりたいことではない。いつまでも死なないという条件が与えられているつもりで生きるというのが自分のやりたいことだ。

上の考え方にしたがって原理的に考えるのであれば、この映画を見て感動などするべきではないと思っている。しかし、そう思っていても半ば強制的に感動させられる。歌には力があるし、山を含めた映像にも力があるからだ。そのせいで自分の心は一筋の血の流れの向こう側へと押し動かされる。動かされながら、感情が動かされるのは避けられないにしても……、と頭の中ではべつのことを考えている。感情を動かされながらも同時に「厭だ」と感じるこの感情のほうにどうにか筋道をつけられないか、ということだ。
画面の向こう側からは当人自身が抱えている矛盾に対して真正面から言及する声が聞こえる。さすがに分が悪いと感じるが、負けを認めるわけにはいかない。そもそも敵ではないのかもしれないし、味方でさえあるかもしれないが、一緒になって肩を組むわけにはいかない。自分には自分の感じた厭悪を、自分の感情からみてもやや分が悪い、よわい厭悪感を守る義務がある。それが踏み潰されることがあるとすれば、それは誰かの足によってではなく、この自分の足によってということになるだろう。それを許すことはできない。
ほかのことを許せないと思う人だっているのかもしれないが、その人と結託しようとは思わない。猟銃が許せない人、食肉が許せない人、埋設処理が許せない人、不倫が許せない人、週刊誌が許せない人、感動が許せない人は、それぞれで銘々勝手に自分の領域を守ってくれたらいい。
自分にとって許せないのは、これは仮定の話になるが、何らかの信念や考え方において決断し、自分が踏み越えた行動のことをただ禁忌を破ったと言って済ませることだ。ゼロではないものをゼロだとみなすような言説については許せないし許さないという基本線に立ち返って考えるのであれば、自分の犯した罪のことを禁忌と言うことそれ自体が許されざる禁忌ということになるはずだ。矮小化された意見がもつ暴力に敏感であろうとすることだけがその処方箋なのだとすれば、矮小化された意見にこれ以上ないほど晒される羽目に陥った人間が、自分自身がそれと同じようなことをしないだろうかと試され続けるような環境や境遇に身をおいていて、しかもその姿をカメラで捉えることで成立したこの映画は、見る側にとっても「禁忌に挑戦している」で済まされていい内容のものではない。
映像を見てここまで許せないという気持ちになったのは、初めてのことだとは言わないまでも自分にとっては数えるほどしかないめずらしいことだ。しかもその中心にいるのが好きな俳優だったというのも自分にとっては大きかった。今後もこれを超える映像体験はないかもしれない。もともと感動するから良いという価値判断はしていないつもりだったが、今作によって感動は良いものだという無意識の前提は掘り返され、両者をより厳密に区別することになってしまった。この映画の中でも格好良い意見や魅力的な声は聞かれたが、この映画によって新たに獲得した観点からすれば、その意見や声に対しては首を捻らざるをえない。
舞台挨拶付きの上映だったためか終映後に拍手が起こった。そのときには胸のうちに感動があったから自分も拍手に加わった。それが間違っていたとは言わないが、流されての行動だったと反省しないわけにはいかない。面白い映画だったし見事だという思いもあったから、感動したから拍手したというのはそれこそ単純化した表現になる。しかし、もとをただせば自分の感動が根底にあり、その後にいろんな感想が続いていっているというのは疑えない。感動がないのは味気ないし、ないよりあるほうがいいのは間違いない。それでもある種の作品においては、ただ感動したで済ませられない、罠のような仕掛けがあるのも事実だ。舞台挨拶付きの上映に釣られてのっぴきならない状況に陥っている。困ったことになったし、そのせいでだんだん許せない気持ちが大きくなっている。地面に向かってぐにゃりと伸びた鹿の首が頭から離れない。

日記308

雨天決行

2024/02/22 昨日
モバイルオーダーのカフェラテが来てからものの十分しないうちにスタバを出て飲みにいく。目当てにしていた店はそれぞれ貸し切り、臨時休業、満席だったので第四候補の店になる。いつか行きたいと思っていた下北六角というミカンの一番手前にある和食居酒屋。客層は仕事終わりの社会人がほとんどで下北らしくない客層だと思っていたら、後から大学生ぐらいの女四人連れが入ってきた。小綺麗でお金がかかっていそうな身なりだったので納得こそしたが、いずれにせよ下北らしくない。終電などは関係なく各々タクシーで帰っていきそうな風貌だった。こういう店に来ていたらこういうのがデフォルトになって、物珍しさからくる感動なども早々になくなるのだろうし、単純に安いものが食べられなくなるだけで嬉しさの総量はたいして増えないんだろうという気持ちになった。飯に金をかける人間というのは楽しみを見つけることにおいて工夫できないやつという印象なのでその列に並ばないようにしたい。対照的に出される料理にはちょっとした工夫が凝らされていて、お金を出せばひとの工夫を享受する側に回れるということなんだろうが、そういうのもなんか恥ずかしくて嫌だった。真蛸とカブと金柑のサラダ。
やさぐれた気分とおいしい料理に満足した気分と半々で帰宅。酒はそこそこ足りていたが気分的に必要だったので氷結グレープフルーツを飲みながら歩く。
帰ってから久しぶりに『ラウンダーズ』を見ることにする。折に触れて見返している映画なのだレンタルではなく購入する。半分いかないぐらいで眠くなったので途中で止めてねむる。

2024/02/23 今日
8時半に起床。ポケモンスリープは途中でアプリが終了して計測終了していることがたまにある。この日もそれが起きて朝から残念な気持ちになった。ただ、入眠において完全にスマホを手放してねむることになるのはメリットとして大きい。ついスマホに手が伸びたせいでねむる時間が三十分削られるというのはわりとよくあることだった気がするがポケモンスリープを始めてからそのミスは減った。
Bたちと朝の会話をしてパンを食べてから9時半に家を出る。昨日も「大変だ」と話しかけたら「大変なんだね」と返してくれたり、ほっこりする交流がある。
スタバにいって日記を書く。小雨が降っているのにもかかわらず満席でいつものテーブル席が空いていないのでソファ席に座り膝にMACBOOKを置いて文字を打っている。若干組んだ足がしんどいものの意外と安定している。
『WILL』の感想を書く。感動と感情を少年たちのカブトムシみたいに無理に戦わせてないかという心配がある。「許せない」という感情はそれが感情だと指摘されるのも許せないという特徴がある厄介な感情だ。すた丼で生姜丼を食べて帰る。帰って風呂に入りラウンダーズの続きを見てからBKDTチャンネルを見る。途中でベッドの足を交換してベッドの高さを変える。
日が落ちてから外出。この日二回目のスタバに行く。ぎりぎり雨は降っていなかったものの本格的な冬の寒さで閉口する。『戦争と平和』を読む。久しぶりにグーグルアナリティクスの勉強をする。気がついたら二十二時前になった。日経のニュースを見ていたらホクセイホウのニュースが目に入る。上背があって期待が大きい力士のひとりだっただけに残念だ。やったことの内容はニュースレベルではどうしても表面的なものになるし処分は妥当なんだと思う。図体が大きいのにやることが小物なのは悪い意味で目立つ。

20240222

日記307

豚山イエロー

2024/02/21 昨日
早起きして友人の部屋探しに付き合うため品川にいく。蒲田に移動して蒲田の不動産屋に行く。そのままその不動産屋で決まったのだがわりと良い部屋に決まった気がする。条件が限られるなかで必要なポイントを押さえた良いチョイスだ。そのうえ面白ポイントまで相当加算されている。
部屋探しが終わったら16時過ぎになっていたので蒲田のとんかつ檍に行く。東京に来たての頃、東京に先住していた高校時代の友人に連れて行ってもらった店。あの頃と同じ特ロースをたのむ。あの頃の感動が蘇ったとまでは言わないもののそれなりの感慨があった。
大学時代の友人に会うとのことで18時に恵比寿駅山手線車内で解散し帰宅。プレゼン終わりの同居人と酒を飲みながら『不適切にもほどがある』4話を見る。滑っているように見えるシーンはただそういうふうに見えるだけではなく実際に滑っているのではないかとミュージカルシーンをみて思った。

2024/02/22 今日
在宅バイト。わかっていたことだが一日分のタスクが溜まっていたのでひいひい言いながら消化していく。ザ行が十九時半にまで及ぶ。昼ご飯には焼きそばを作って食べた。前回が最高に上手くいったのに比べると水を入れすぎたせいで若干の失敗になった。速攻でスタバにきて日記だけ書いてしまう。この前映画『WILL』の感想を書いたのだが書いていると気持ちが昂ってきて神経質な文章になってしまったので直さないといけない。と思っているうちにタイムアップ。

20240221

日記306


2024/02/20 昨日
在宅バイト。翌日を休みにするためにバリバリ働く。そのおかげでほとんどザ行なしでタスクを消化できた。翌日が休みということで新宿まで飲みにいく。まずは桂花ラーメンを食べ、歌舞伎町とゴールデン街をうろうろしてから歌舞伎町タワーに上る。ホールのDJイベントがよかった。ドラクエから坂本慎太郎へのつなぎ、さらにスーパーマリオブラザーズにつなげるのは面白い感覚だと思った。坂本の曲は「あなたもロボットになれる」だった。
コンビニでポップコーンとジントニックを買って新宿を横切る。コンビニから出た直後にWARPを見つけたので入らなかった。エントランスにちょっと行列ができてたし賑わってるのかもしれない。惜しいことをした。
南口のSuicaペンギン広場で音楽の話をしてから23時過ぎに解散する。サカナクションはすごいけど大変そうだという話からミュージシャンやバンドは定年10年にしたほうがいいという主張を提唱するところまで。
翌日は東京に出てくる友人の部屋探しに付き合うためわりと早起きだが夜ふかしになってしまう。1時過ぎにねむる。

20240219

日記305

駅へ

2024/02/18 昨日
前日に無意味な夜ふかしをした影響で起床が昼前になる。これから雨続きになるということだったので洗濯物を回す。パンを食べてからラジオを録る。三周目にして喋るのに慣れてきた。ちょうど三十分ぐらいの分量になる。ゲノム操作で内蔵移植用のブタを開発しているというニュースとイマーシブシアターのアクターを養成する学校ができたというニュースの二本だった。
昼ご飯はビールを飲みながらお好み焼き。粉をたくさんつかったパンパンのお好み焼きでお腹いっぱいになった。お土産の牛タンも一緒に食べながら『不適切にもほどがある』をみる。八嶋無双回でカムカムミニキーナの現実リアルタイムでやっている公演の告知をドラマ内でやっていて面白かった。E企画の永野さんも登場したし、自分の知っている演劇人が一処に集結した感があった。食後に有吉クイズを見ようと思ったが眠気に殴られてニーチェアに座りながらうたた寝をしてしまう。目を覚ましてから気を取り直して有吉クイズを見る。メダルゲームを夢中になってやりながら考えを整理するというのはなんだか納得させられるというか自分から見て賢いと思う人がパチンコにいくことの不思議をいくらか説明している気がした。その後出かけるためにシャワーを浴びてからTCBにわたす写真をギガファイル便に上げているといつの間にか見に行くつもりで予約していた映画の上映時間が迫り、直前で電車を乗り過ごしたことなどもあって、あろうことか一〇分の遅刻になる。普段の映画館での上映であればちょうど予告編が終わってちょうどいいのだが、舞台挨拶付き上映だったので予告編の上映がなく、しっかり遅刻して映画館に入ることになってしまった。そこまで期待せずに見に行ったのだが、内容がしっかりしていることもあって見ごたえがあった。
上映後新宿三丁目から副都心線で渋谷に移動して、同居人が幹事をすることになっているクラス会の会場候補の居酒屋の下見に付き合う。副都心線の深い地下からエレベータを乗り継いで地上に出たら暴走族というか珍走団というか爆音でバイクを運転する集団の109前走行会に出くわす。珍しそうにスマホを向ける外国人観光客の反応が新鮮で面白かった。
WILLを見てあてられたこともあってマークシティ前の鳥貴族に入って酒を飲み鶏肉を食う。あっという間に一時間経過してそろそろ帰ろうかと思って外に出たら駅入口にシャッターが降りていた。思っていたよりも井の頭線の終電が早かった。仕方ないので歩くかそれに準じた方法で帰ろうとするも、同居人が翌日朝早いしどうしても歩きたくないということでタクシーに乗ることにする。二六〇〇円。タクシー代とかもうあまり気にしないといっていたがそれではあまりにも豪儀だ。豪儀にすぎる。でもさすがタクシーはラクで、ちょっと話しているうちにすぐ家の近くまで運んでくれた。翌日仕事があるので不承不承すぐねむる。

2024/02/19 今日
昨日の映画にも関連したような夢を見た気になって目が覚める。生きるということにフォーカスしたような内容の夢で、夢なので現実とは一致していないながら生きることで不可避的に生じる自分自身の暴力について部分的に反映したような内容だったと思う。記憶と願望が今の軌道からズレて進んでいくのを止められないし、そのときには多分止めようともしていなかった。もともとの考え方や姿勢が徐々にカーブして今の形になっている。まっすぐ進むべきだったともまっすぐ進みたかったとも思わないし、べき論でいえばカーブさせるべきだと思う。しかしとにかくこの日見た夢の中では自分はあれからずっとまっすぐ進んでいたし、当然気分は良かった。
青々と茂る野草を踏みながら歩いてとても気分良かった(短歌になった)
在宅バイト。人と連絡をすることなく延々単純作業。面倒だがチャットで話しかけるよりも気がラクだった。ラジオを三本聞き終わる。サンドリとTokyo Styleと三四郎のオールナイトニッポン0。三四郎のラジオは久しぶりだったがやっぱり面白い。小宮の作り出すノリがいい。
昨日干した洗濯物が朝方からの雨で全部だめになったのがショックだったが夕方には何とか立ち直る。ザ行ほぼなしでスタバにくる。

20240217

日記304


2024/02/15 一昨日

スタバを出てすた丼に入ろうとしたら入口が混雑していたので並ぶのも嫌だし違うところで食べることにする。流れていくうちに王将にたどり着く。わるくないけどもっとこの街のものを食べる習慣を身に着けたい。そもそもすた丼を食べようと思った人間がいうことではないかもしれないが。

帰宅して酒を飲みながら有吉の壁を見る。早めにねむろうとして結局十二時を回るがそのおかげで東出昌大主演の映画の舞台挨拶の回のチケットを買うことができた。


2024/02/16 昨日

出社の日。三〇分以上早く着いて朝ゆっくりするのは基本になっている。さすがに毎日出社でそれはむずかしいだろうから今の在宅勤務が基本で出社がイベントぐらいの比率でないと維持できないやり方だという気がする。ザ行なしで終わらせて友人と飲みにいく。わりと久しぶりに会った東京の友人だが、会話に面白をまぜる感じは変わってない。去年東欧に行ってきて今年北米とオーストラリア近辺に行く構えとのことで、海外移住に対する志向が強めなのも自分の周囲では珍しい。最近読んだ本の話をしてそのうちの一冊にエーリッヒ・フロムのあの本『愛するということ』があった。あまりピンとこなかったらしく、縷々内容の説明をしたのち、何を言ってんだって感じと宣っていたが、このタイミングでその本に手を伸ばした事実が興味深いねとコメントしておいた。ひょっとして感情を学ぼうとしているアンドロイドですか? とは言わないでおく。アンドロイドだとするとすごく会話がうまい機種だ。最大にして最後のチャンスがあったときに浮気するかどうかというアホな話に夢中になっているうちに店の閉店時間が来たので帰る。


2024/02/17 今日

昨日ねむったのは二時を回っていたのに八時に目が覚めた。二度寝もできない感じなので日記を書くことにする。起き抜けに鼻をかんだら鼻血がでた。昨日に引き続き二日連続。鼻の粘膜が弱っているのかなんなのか朝から血を見ると一気に目が覚めるので、寝覚めの悪い人は血を見るモーニングルーティンを導入してはどうか。

今日一日をどうやって過ごそうかと考える。休日なので何でもできる。寝不足を解消するための昼寝をどこに持ってくるかでプランの立て方にバリエーションがある。昼寝をしないという選択もあり得るし。結局時間を置いての二度寝を選択し、起きたら十三時ということになった。ご飯を食べに出かけるのが十四時過ぎ、ご飯を食べ終わってスタバにくるのが十五時半ということになった。目当てのカレー屋は行列、六角は売り切れで、ミカンにあるベトナム食堂に行く。コムガーが美味しかったのでとりあえずの満足感はあった。エキウエのスタバは満席で座れなかったのでクラシックのほうにくる。『戦争と平和』の第二部を読み終わる。ナポレオン率いるフランス軍との戦争パートだが、三国志や戦国大名の伝記物で馴染みのある描写とはやっぱり違って、カメラが地面に近いという印象だった。すでに主要人物といえる人物とそれ以外の区別はついていて、その一番は名前があるかどうかだが、名前がある人物にしても登場回数という尺度でのグラデーションがある。砲弾のなかを右往左往しながら生き残るかどうかというのはこの尺度による。それにしてもどこかで誰かを殺すことになるだろうが今のところはまだ負傷はあるものの全員生き残っている。スタバでも鼻血が出た。出血の気配を感じたのでトイレに駆け込んだため地面に血が垂れることにはならずに済んだ。

20240215

日記303

駅前工事

2024/02/14 昨日
スタバにいる時間が短かった。土土土で豚の生姜焼き定食と瓶ビール。帰りがけにドンキホーテで本搾りグレープフルーツを買って飲みながら帰る。帰宅後アーセナルの懐かしい試合のハイライトを見る。試合結果をわかって見ていても昂ぶりが抑えられない。その後だらだらするだけでねむる。しかもなぜか無駄にスマホの画面を眺める時間があり遅くなる。

2024/02/15 今日
在宅バイト。山を越えたようでいてまだまだ忙しい。というのも次の山がまた大きいからだ。昼ご飯のために弁当を買いに外に出る。風が強くてキャップが吹き飛ばされそうだったので寝癖対策に被っていったのに結局脱いで手に持って歩く。野菜炒め弁当の塩味はおいしかった。途中昼寝を三〇分弱はさむ。明日に回せる内容を明日に回すことでザ行は一時間で済む。通常であればザ行は五分でも苦しいものなのに感覚がおかしくなっている。夜になっても風が強い。月の近くに星が光っていてきれいだった。スタバにきて日記を書く。常のごとくドリップコーヒーのショートをたのむが値上がりして三五〇円から三八〇円になっていた。
戦争と平和を読んでからかなり久しぶりにエディターを広げる。賢犬の小説をすこしだけ書き継いだ。筋がないと読むのも大変なのかもしれないが、書くのも大変になる。続けていくためには腰を上げるような動作を排除して、機械的に続きにあたるための方策が必要になる。そのための理にかなった方便が物語の筋なのかもしれない。よくわからないが自分はいま筋がないために苦労しているということは言えそうだ。筋ができてくるまでひたすら人物を登場させていくのがいいのかもしれない。しかし登場させられる人物はどこにいる? もっと周囲を見回すようにしないと。

20240214

日記302

補い導く

2024/02/13 昨日
スタバを出てからの記憶がない。ピーコックで常温で売っていた氷結シークワーサーの500を持って駅前をしばらくぶらぶらしてから王将に行ってキムチチャーハンと餃子を食べて、セブンイレブンで干した小さなブロック生ハムと限定のアセロラチューハイを買って飲みながら帰る。そのあとは週末に撮影した写真を見て残すものを決める作業。やさぐれモードで夜ふかしを決め込んだがやはり限界はきて25時過ぎにはねむる。

2024/02/14 今日
それなりの夢を見たおかげで睡眠不足のわりに寝覚めはわるくなかった。しかしどんな夢だったかは思い出せない。在宅バイト。チームの中でもタスクが自分に集中しているようでタスク整理の打ち合わせが開かれる。期待したほど巻き取ってもらえなかったが、小粒のものを2,3と当番を免除してもらった。昼休みが満足に取れなかったので十五時過ぎに自主的に休んで昼寝をする。前日の寝不足は仕事中に解消できたと思ったが残念ながらしっかりザ行が発生。十九時半まで家に籠もって仕事。その後スタバに出かける。コーヒーを一口飲んでからネットショッピング受け取りのため無印の店舗にいってまたスタバに戻ってきた。二十時半にはスタバを出てご飯を食べに行く。あいてたらドドド。

20240213

日記301

白い犬

2024/02/12 昨日
朝食にホットケーキを食べる。それから寝室のベッド向きを変えたり模様替えに午前中を費やす。昼過ぎにお腹が空かしていたら同居人がリゾットを作って振る舞ってくれた。十五時ぐらいにから井の頭公園に行ってモルックと凧揚げをする。良い写真機を持っていったので公園で憩う人たちの写真をいくつか撮ることができた。サッカーをやりにきたイケイケの集団がいて格好良かった。あと十年若ければ話しかけて混ぜてもらっていたと思うが、残念なことに指をくわえて楽しそうなプレーを見ているだけで終わった。昼休みのサッカーという雰囲気でドリブルやらトリックプレーの披露会といった趣がありかなり懐かしかった。こちらは木の棒を投げたり凧を上げたりして、物理的にはかなり近くにいたのにもかかわらず、結局接触はゼロだった。その後三鷹に移動し、サイゼリヤで千円払って豪勢な晩飯を取ってから友人宅にお邪魔する。お邪魔するという言い方には若干違和感がある。結婚していて配偶者にあたる彼女と一緒に住んでいる家に遊びに行くのだからお邪魔するで合っているものの、言葉と当人との結びつきがどうもしっくりこない。酒を飲むのに適したリラックス空間でもっとゆっくりしたかったが、翌日から仕事が始まるとあっては二十二時すぎに退散せざるを得なかった。でかいテレビでなぜか奈良公園の散歩動画を流していて、まんまと釘付けになった。夏の日の奈良公園特有の気だるい感じが懐かしかった。依頼のあった牛乳寒天を買って帰る。同居人がこれから一段と忙しくなりそうとのことで心配だ。お腹の調子があまり思わしくないので腸内環境を整えると書かれてあるカルピスかヨーグルトか何かを買って飲む。翌日仕事なので夜ふかしはできないものの、この週末に撮った写真をすこしだけ見てからねむる。

2024/02/13 今日
三連休明けの在宅バイトだがよくねむれた。夢も結構な大作を見てしかもおぼえていられる感じだったからよかった。昨夜のカルピスだかヨーグルトが効いた気がする。新しく寮生活をはじめる夢で、新生活に気が引き締まる思いをしながらも一連の事件の犯人がその寮に潜んでいるという情報を自分は持っていて、内偵の役割を果たすためさっそく先輩に取り入ろうとする夢だった。ラーメンに連れて行ってもらってなぜか皆カレーを注文するノリがあって三番目に注文する自分もあとに続いた。よっぽど玉ねぎカレーを注文しようかと思ったが悪目立ちするのはよそうと思って前の奴が「カレー」というのと同じリズム感で「カレー」と言った。先輩は気難し屋だという情報があったが、虫の居所が良かったのか特別良くしてくれる感じで幸先の良いスタートだと思った。それもあって気分の良い目覚めだったんだと思う。
昼休みも十五分間ぐらいの感じでしかもザ行して十九時半までみっちり働く。一応途中で洗濯だけはこなした。ばたばたしている案件への対応の影で本案件のスケジュールがどんどん消費されていて、スケジュール未達にならないかと心配しているPLに詰められるというイベントがあった。知らんがなと思って話を聞いていたが誰も答えないことで自分が答える番らしいことを悟り、いい加減なスケジュールで間に合わせのような回答をする。その場の温度が高くなるのを避けようとだけして、あとで首が締まる回答をするという駄目なやり方の典型だが、打ち合わせまでに考える時間が作れなかったのでそういうことになってしまった。持たされているタスクが多すぎる。はっきりと「できません」と言っていかないといけない。
それでも二十時前にはスタバにきて日記を書く。二十二時半まで読書したりしようと思うが晩飯を食べていないのをどうしよう。スタバから出たら晩飯を食べて酒を飲みながら帰ろう。しっかり規則正しい生活をしてきちんと仕事をしてということをちょっと続けるともうどうしようもなく消耗する。毎日がルーチンになっていくという感じが苛々させる。だったら滅茶苦茶な不摂生でもしてやったほうがいくらかましだという間違った考えが浮かんでくる。本当の解決策はそうではないのだが、それができないでいるからその逃避策だ。とりあえず『戦争と平和』を読む。ロストフが盗みを目撃してそれを告発したところ騒ぎになり、騒動を起こしたかどで上官から謝罪を要求される羽目に陥っている。その始末の付き方が戦闘が始まったというところにある。戦闘の開始が個人的事件の一件落着につながっているというこの顛末には目を見張るところがある。良いとか悪いとかいう価値判断がどこに目を向けるか、どのスケールで考えるかというところに依拠するということをきれいに物語として描いている。個人的に気分が晴々することが誰かに泥をかぶらせることにつながっていることもあれば、個人的に鬱々としてやることがほかの誰かの窮状を救うということもあるんだろう。どうあれ行動する主体にとっては泥をかぶらせることや鬱々とすることに対する言い訳が必要だ。それが現実に連なっていて架空の言い訳になっていないと主張することもまた必要だ。そういう言い訳が必要になっているときにはすでに過ちの折り返し地点を越えていることだろうと思う。だからいざ実際に誰かに主張するときには内心で無理があると認めていて大声を張り上げたり強張った言い方になったりする。これが過ちに突っ込むことが美徳であるという倒錯さえ起こることの理由だ。縷々理路をつむぐのとは反対にどこかで途切れさせるのが大事だ。それは水を差すということであまり褒められた行動にはならないだろうが、それでもそれしかないほど重要なことだ。

20240212

日記300

春節

2024/02/10 一昨日
スタバから帰ってから黒沢清の『CURE』を見る。見るのは三回目か四回目だったがざらついた画面と編集が怖いイメージを生のままごろっと置いているような印象を受けた。最後の場面が終わった瞬間から鳥肌が立つ。映画を見るという体験の中でも珍しい体験になる。

2024/02/11 昨日
昨日深夜に映画を見たせいですこし寝不足だった。目の下にくまができていたので慌てて風呂に入る。メルカリで売れた家のソファを引き取ってもらう。ソファというものをはじめて買って三年ぐらい使ったが座りやすいとは言えずあまり座る回数は多くなかった。
TCBの第一回撮影会を渋谷と横浜で敢行する。途中小雨がポツポツ降りかけるも滞りなく撮影完了。SONYのα7ⅲのAFの威力を実感できた。山下公園まで歩いたので春節のにぎわいを見るためにすこしだけ中華街に立ち寄る。野毛に移動して撮影会の打ち上げをする。ユニーというママのワンオペ居酒屋(常連らしき人たちを給仕としてこきつかっていたが)で忙しそうだったがそれなりに居心地が良くご飯も美味しかった。二軒目は野毛地下の何とかという居酒屋(すずらんの向かい)でメガハイボールを飲む。帰りは桜木町から横浜まで、横浜から湘南新宿ラインで新宿までという経路で帰宅。

20240210

日記299

現地集合

2024/02/09 昨日
スタバに行ったあと、代々木上原の焼肉に連れて行ってもらう。お高いお肉を焼いて食べる。霜降りカルビの口のなかでなくなる感覚というのはなるほどこういうものなのかという発見があった。二十三時すぎには帰宅。この一週間のあいだ二十四時前にねむる習慣がついていたので眠くなり、翌日の朝イチでで散髪の予約を入れていたこともありおとなしくすぐねむる。

2024/02/10 今日
土曜日の朝に下北沢駅前を通っていつもの理容室へ。快晴でほとんど無風のため寒さはあまり感じられず朝日が気持ちよかった。散髪と白髪ぼかしが済んでから卵と牛乳を買って帰る。はじめて白髪処理のメニューをたのんだ。帰宅してすぐ追い焚きをしてあった風呂に入る。その後フレンチトーストを食べて洗濯機を回し、ラジオ二回目の収録をする。どういうことがしたいのかをクリアにしていく過程だと思う。思うままに口を動かすのが目的であって、話しながら何かを考えたいという意図はうすいと口にする。なんだかんだ一時間ぐらいの長さになったラジオが終わってから寝室の模様替えをする。ラックの位置とベッドの向きを変えるだけのことに二時間ぐらい費やしたような気がする。お腹が空いたので下北沢に出かける。道中を良いカメラで撮影しながら歩いていたら土土土到着が十六時半すぎになる。ラストオーダーが終わっていた。仕方ないのでバビシャーに行く。いつものチーズナンを食べてナン半分のおかわりをしたら満腹になった。ユニクロと無印に寄って帰る。あとボーナストラックでやっていた写真展に顔を出す。Frame Tokyoという写真集団の展示らしく、アート写真っぽい写真が展示してあった。良いカメラを持って入場したので写真好きのような雰囲気が出たかもしれない。帰宅後すこし休憩してからスタバに出かける。昼間拾ったエルヴィン・シュレディンガーの『生命とは何か』を読む。以前書いた小説の主人公の名前に彼の名前を借りているにもかかわらず、今になってはじめて著作に手をつけた。なんだったら顔もファーストネームも知らなかった。
読みながら眠くなって若干うつらうつらしていたら今朝方に見た夢を思い出した。散髪してもらいながら思い出そうとしても思い出せなかったのだが、意図せず夢の世界に近づくことで思い出せた。古いマンションの一階のマンションの町内会が行われるようなスペースがかなり割安で賃貸に出されていたので喜んで借りてそこに住み始めたら、ほとんど毎日、夕方ぐらいになると勝手にドアを開けられて見知らぬ人が入ってこようとする。驚いて「誰ですか?」と訊くと、向こうも驚いて「すいません」と言いながらすぐ退散する。見知らぬ人たちが入れ代わり立ち代わりで入ってこようとすることがあまり続くから、ひとりを呼び止めて事情を聞くと、自分たちがそこを借り入れて住み始める前はロックミュージシャンたちのたまり場のようになっていたらしいことを知る。自分は正当な経路で借り入れしたのだが、あらかじめそういう事情を聞かされていたら誰かのたまり場を潰すような真似はしなかったのにと大家に腹を立った。事情を話してくれた男の子について勝手口のほうにいくと、最近見た昔の映画のキャラクターの等身大フィギュアやらキャラクターの顔を模した庇やらが飾り付けられていた。そこのミュージシャンたちは皆その映画が好きで、自分たちでそれらを作ってイベントを企画したりしていたらしい。家賃の割にかなりの広さがあって駅にも近いから便利だと思って住みはじめたばかりだったがまた引っ越しかと思っているうちにいつの間にか目が覚めていた。
この一週間はわりと大変でやるべきことがたくさんあり、しかもそれがやりたくないことというかやるのに心理的なハードルがあることだった。自分は客席に座っているような気分で生活するほとんどの時間を過ごしている。もうすこし舞台に立っている気分になったほうがいいかもしれないと思うが、やはり自分に向いているのは観客席なのだろう。面白いものを面白く感じることが得意だ。それには目の前の景色に没頭できる観客席に座を占めるのが理にかなっている。舞台に立つと、目の前の面白いことを素通りして自分のやるべきことをやったり言うべきことを言うべきタイミングで言ったりするのを優先しなければならなくなる。作品・成果物としてそれを誰かに見てもらうためには、見ること・探すことを一旦中断しなければならない。自分で面白いと思うことをやるのであればそういったトレードオフはない。仕事における自分の発表や成果物の報告について、劇的な効果を上げるというところまで突き進んで考えるようにすれば、パフォーマンスの質を高める意識を持ってその役を演じるという気持ちになることができる。面接で自分の職歴について話すときにも同じように考えるのがいいだろう。そのためには入念な準備が必要だ。去年舞台に立ったときにも、セリフは多くなかったものの気持ちの面では自分なりに入念に準備をしていたと思う。ぎりぎりまで観客席に座って状況を見つめていたくなる気持ちをある程度抑え、舞台に立つためのしかるべき準備をしたうえで観客に向けたパフォーマンスに徹するべきだ。こんなことは大学三回生で就活をするときにごく当たり前に身につける態度なのかもしれないが、ようやく今になってその扉の存在が自分の目にも見えるようになった。ようやく今になってというのは大学生を卒業して十何年経ってというのもあるが、演劇祭で舞台に立って丸一年経ってというのもある。自分が表現するということに向いていないとは思わないが、自分にとって表現するというのは当たり前のことではない。奉仕精神がないというのは残念なことだがそれだけが原因ではない。表現するということが必然性のあることではないというのは、その欲求に優先するべつの欲求がごく当たり前にあるということでしかない。面白いと思うことや、何かしら心を動かす物事に触れていたいということ、それらを優先していると自然に後回しになるということでしかない。観客席に座ったままでいると(おそらく)普通はその座席が沈下していき、そのせいで居心地が悪くなる(あるいはその想像がつくようになる)。だから観客席にじっとしていることができず、何かをやったり自分の表現を通して自席の位置を高いところに置き直したり、べつの良い席を探したり、何らかの活動をすることになるんだろうと思う。言ってみれば必要に迫られて、観客席のチケットを買うためのお金を稼ぐという発想になるということだ。自分は人に比べてその焦りを受ける必要が少なかった。さらにその焦りを感じる受光器の感度が低かった。寒さに強いキリギリスよろしく、かなりしぶとく遊び暮らしていたということがいえる。ただ単純に自分のせいだけとも思われない。キリギリスの喩えでいうと、自分の置かれた環境というのは振り返ってみるとかなりの暖冬だということが言えそうだ。そのおかげでたまたま一冬を越えられたキリギリスはその結果次の冬に備えようという発想には至らないはずだ。それは当のキリギリス目線では間違った考え方ではないだろう。温暖化の影響でよくあることといえばよくあることではあるのかもしれないが、奇跡的に何冬も越えられたキリギリスが、それでもだんだん冬の寒さが身にしみるようになってきて、そろそろ自分の価値観に沿わないことをやらなければならないと考えはじめるのも、当のキリギリスの目線では間違った考え方だとはいえないと思う。しかし、そもそもキリギリスというのは立派かどうかはおいてもれっきとした表現者なのでこの比喩は部分的にしか適用できない。比喩に正確さを期そうとするのであれば食べるのが大好きなブタということになるだろうか。黙っていても自分の好きな食べ物がどんどん提供される環境下で、それにもかかわらず表現しなければという切迫感をおぼえるブタがいるとすれば、そのブタは本当には食べることが好きではないのだとだけ考えるブタが自分だ。もちろんこれは比喩だが、さらに言葉を継ぐなら、近頃にわかに食欲が落ちてきてこれまで感じたことのない不安を感じ、焦りをおぼえ始めたブタということになる。

20240209

日記298

小田急線専用改

2024/02/07 一昨日
出社の日。やらなければならないことがあったので出社するのもとくに気にならない。早めに起きて早めに家を出て、早めに職場について朝の時間に余裕をもたせるのはわるくない。そう動いたときにピーク時よりも電車がやや空き気味になるのもわるくない。急ぐ必要がないときにちょっと早足になって駅からオフィス街を抜けていくと、デキるサラリーマンのコスプレができる。昼食を取るだけの短い昼休憩しかとれず、あっという間に時間が過ぎて定時をすこし超過する。それでもわるくないと思えたのはPERFECT DAYSの映画を予約していたから。帰りに新宿に寄って映画を堪能する。上映前あまりにお腹が空いていたのでローソンでシュークリームとカヌレを買い食いした。シュークリームだけで良かったのに図に乗ってカヌレを手にとってしまった。疲れていたしそれが必要だった。アールグレイをお供にしたら会計が四五〇円になった。つい高いと思ってしまう。四五〇円は飯の値段というデフレ世代の金銭感覚だ。まっすぐ帰宅して酒を飲まなかった。はるさめヌードルとキャベツサラダを食べてねむる。

2024/02/08 昨日
在宅バイト。誕生日なのだが仕事のほうで散々な目にあった。〇〇歳になってこんなことをしているつもりじゃなかったのにと悔しい気持ちになる。とはいえ昔にしたところでどんなつもりもなかったわけだし、人々への反応や対応については昔から完全に地続きだ。「成長」という文字を辞書に入れてもらいたいものだとつい普段思っていることとはちがうことを思ってしまう。それでも母親からラインでケーキの写真が送られてきたり、仕事終わりにまちなかというしっくりくるいい感じの中華料理屋に連れて行ってもらったりしてまたしても良い誕生日になった。一杯目のビールの美味かったこと。あと山崎ハイボールを置いている店だったので二杯目に飲む。久しぶりに飲んだが山崎には山崎の味があるというのがよくわかり、なつかしいのもあってちょっと感動した。仕事終わりにシャワーを浴びているときに停電があって暗い部屋のなかで恐ろしい気持ちを味わったことなどはるか後景にしりぞいていくようだった。
久しぶりに酒を飲んだからか、二杯しか飲んでいないのに頭痛がした。ねむればなおるだろうと思って二十三時にはねむる。

2024/02/09 今日
在宅バイト。前日に準備不足で嫌な思いをしたこともあって、自主的に早出の対応をして準備に費やす。一時間半も早く働き始める。自分の旧来の価値観ではありえないほどえらすぎる。ついでに洗濯物もやった。そのおかげもあり前日ほどグダグダにならずに済んだ。どうあれ終われば終わると思っていたが、それでもトンネルのくぐり抜けやすさというのはあると思った。どんどん目の前に仕事が置かれていくので嫌な場面をくぐり抜けたあともべつのやることがある。早出一時間半したうえでザ行一時間してそれもこなし、最低限の宿題を翌週にまわす。この職場は早々にやめるつもりなのだが、それでもこれだけやれるのは責任感があるといっても過言ではないのではないか。できないことが多いのでこれはできるぞということを主張したいのかもしれない。いずれにせよ変にハイになっている。なんだかんだトンネルを抜けられたわけだから多少ハイになってもおかしくない。しかしこれは違うという価値観を保ち続けてタスク消化に取り込まれないようにしたい。やっぱり一生懸命働くなんて間違っている。そういう時期があってもいいとは思うけど、と書いて愕然とする。そんなわけない。金夜の開放感にテンションが上がって変なことを口走っているだけだ。たぶん。スタバに来て日記を書く。『戦争と平和』を読む。チャプター22、ニコライ・アンドレイ・ボルコンスキイ老公爵の厳格さとその娘マリヤの怠惰でロマンチストな性格の描写が面白い。老公爵「人間の悪の根源はふたつしかない、それは怠惰と迷信だ、また美徳もふたつしかない、それは活動と知力だ」人にものを教えるのが下手ないらちだが、彼がぼんやりした娘に数学を教える様子の描写は文字通り目に浮かぶようだ。
このあとはご馳走を食べにいく予定。
漱石の墓参りに二年連続で行けなかった。来年こそはきちんと雑司が谷に行く。

20240206

日記297

赤兎

2024/02/03 一昨昨日
朝起きてラジオの収録をする。やってみたら「オン」にするのが難しかった。自然に話しているような感じも出したいしそれでいてオンにするというのはどうやったらいいのかうまく掴めないまま終わってしまった。でもこの試みは続けていきたい。
昼からカメラを持って下北沢の街に出かける。ストリートスナップ用の撮影の設定を考えた。シャッタースピードを/360、ISOを640に設定する。ぐるぐる回ってあまり思うような写真が撮れなかった。いつもやっていることに比べて難しすぎる。天狗祭りを目当てにカメラ男子カメラ女子が大集合していて、一群のカメラ小僧共に紛れての撮影になった。
同居人を土土土に連れて行こうと思ったが十四時すぎなのに行列ができていたので断念。黒川食堂に行ってサラダバーとチキン南蛮定食を食べる。
夕方は夜に何をして過ごすかを考えて過ごし、結局アジアカップのサッカーをスポーツバーに見に行ってから近所の銭湯に行くことにする。しかし何となく風が知らせたので調べてみたところ、サッカーはこの試合にかぎって地上波放送があることがわかる。スポーツバーは止めにしてスーパーに恵方巻きと酒を買いに行き、家でサッカーを見ることにする。ハーフタイムに恵方巻きを頬張って、豆をまく。後半ひとつも良いところがないまま逆転を許してあえなく敗退。気を取り直して銭湯に行く。二十三時台もばりばりの熱湯でほとんど軽やけどになりながら温まる。頑張って三回にわけてしっかり汗をかくまで入った。帰ってぐっすりねむる。

2024/02/04 一昨日
この日も撮影に出ようと思い、まずは下北沢に出る。チーズナンを食べにバビシャーに行く。ダルカレーとキーマカレーのセットにしたがキーマカレーがとくに格別うまかった。同居人が表参道の美容室に行くのを見送り、そのまま渋谷に出る。渋谷をぐるっと回りながらタイミングを見て写真を撮るやり方で撮影したが、人があまりいない場所で物や景色を撮るのが気楽で良い。渋谷の人混みは苦にならないし、どちらかといえば好きな方だが、それはただ漫然と移動しているときに限られているようだ。目的がありそれを遂行しようとして渋谷にいると、人の量とスピードにこちらの感覚が影響されてせっかちな気分になってしまってよくない。何の気無しに川の流れを見るように人の流れを見ているのが渋谷の楽しみ方なのだという気がした。いつかやっておきたい撮影会のロケハンも兼ねていたが、昔撮影をしていい感じだった壁は白く塗り込められていてノーグラフィティだった。その方向に進んでいくのは自分の感覚としては基本的に合っているんだけど今の目的には沿わないので舌打ちしそうになった。小一時間もしないうちに退散して下北沢に戻る。スタバで日記でも書こうと思っていたのにエキウエもクラシックのほうもどちらも満席だったので仕方なしに帰宅する。帰ってパラノマサイトというゲームを購入して遊ぶ。ぎりぎり怖いホラーゲームで、メタ的な導入から気に入ってしまった。夜十時頃まで一息で結構な時間遊ぶ。下北沢の駅に同居人を迎えに出かけて日曜を終わらせる。この日は酒を飲まなかった。

2024/02/05 昨日
よくねむれた。在宅バイト。起き抜けにラジオ体操。忙しいとはいえず、だらだら仕事をこなしつつ定時を迎える。外は雪だったので外出しないでパラノマサイトで遊んでしまう。良いところまで進んだがそれ以上進めなくなった。仕方ないのでそのままねむる。パラノマサイトの主張は「人の平等は主観上ありえない。関係ない人に不平等を押し付ける権利が自分の側にあった場合、代償がないと思えたらそれを行使しないことはありえない」というものだと思う。呪いがありその呪いについて自分以外にも知っている人がいるというのは普通に銃社会を導入した舞台装置にちかい。デスノート合戦みたいなものだ。登場人物はみなリスクを何食わぬ顔で背負っていくので驚いた。自分の感覚とはちがっている。もう若くないということかもしれないが、それでいうと若かったことなどないような気もする。この日も酒を飲まないでねむる。

2024/02/06 今日
よくねむれた。ラジオ体操。在宅バイト。トラブルだらけの最悪の案件をもっているのだが、またトラブルが起きてとうとうどうにもならなさそうな状況になった。どうせだめになるんだったらここまでなんとかかんとかクリアしないで最初からだめだったら良かったのにと思う。もうどうでもいいというメンタルにはなっているが、それでも処理をしなければという圧は受ける。対応のほか別タスクもありザ行一時間半。ばからしいがここで働く以上は仕方ない。諦めてこなすだけこなし、スタバに出かける。外を歩いているとちょっとした公園にまあまあ力作の雪だるまがあり、その仕事ぶりを想像して笑顔になった。自分のやっている仕事は面倒で邪魔くさいが、こんなにも楽しげで人を笑顔にさせる仕事があるのだと思って元気が出た。タリーズバイト時代の友人から来週末に京都で集合するぞと連絡が来る。行きたいけど行けないと返信するのが気詰まりだ。でもまた今度。次のタイミングでは駆けつけたい。日記を書き終わってから晩飯を食べに行く。

20240202

日記296

プレゼント用

2024/02/01 昨日
お腹が空いたので二十時にはスタバを出てすた丼を食べに行く。一応酒は飲まないで家に帰る。家で何するでもなく座って過ごし、あまりにも何もすることがなかったので再度『戦争と平和』を読む。途中で戯曲を買っていたことを思い出してひとり読み合わせをする。口が疲れてきたのでねむる。なんだかんだ二十三時半には就寝。

2024/02/02 今日
ポケモンスリープが途中で落ちたらしくがっかりの寝覚めになった。日経新聞で会社の損益についての数字をわかりやすく解説している記事を読む。なんとなく知っていることをタームに置き換えて理解する過程になった。
在宅バイトは思っていたより忙しくなって朝も昼も夕方も働いて大変だった。結局ザ行も発生する。金夜じゃなけりゃ許さない。ただし金曜だから忙しいという説もある。というか来週が忙しいのが見えているので先にタスクを残したくないという意識がはたらいた。後回しにできる仕事は後回しにすればいい。
このあとは友人が家に来て宅飲み。やっぱり休日前というのはうれしい。

20240201

日記295

外席風情

2024/01/31 昨日
スタバを出たあとすた丼を食べに行こうと思ったら直前に若い女四人組が店に入っていったので断念してすき家に行く。中盛というのが吉野家で言うところのアタマの大盛りだろうと見当をつけて注文したら当った。酒は飲むまいと思っていたのでコンビニ等に寄らないでまっすぐ家に帰る。とくに何をするわけでもなく時間を過ごし、はやめにねむることを目指してはやめにねむる。

2024/02/01 今日
久しぶりのアルコール抜きでの睡眠で、いつもより印象の濃い夢を見る。実家の父親が出てきて印象に残ることをやっていたように記憶しているのだが肝心の内容は忘れてしまった。実家の自分の部屋が汚い状態にあって虫が出てきそうな予感がしてここで寝るしかないけど嫌だなと思ったのはおぼえている。京都と奈良のどちらにいるのかわからなくなる夢も多い。夜だから終電を意識するんだけど、気にしているうちに自分がいる場所がいつの間にか京都から奈良に移っていたり、丑三つ時の時間帯に奈良にいて始発で京都に戻って学校に行こうと思っていると気づけば京都にいることになっていたり、奈良でも一人暮らしをしていることになっていたり、昔一人暮らしをしていた千本今出川のアパートから出かけようとしたり、場所間の移動が一瞬で行われる。それなのに歩いたり自転車に乗ったりバスを待ったり電車に乗り遅れそうになったりする。そういう夢の出来事(イベント)が見るごとに定まっていくところがある。これらの夢は大きく見たときの続き物だといえるが、今回見た夢もそれに類するものだということがはっきりわかる。細かい内容は忘れてしまったけど。あと、この手の夢は奈良と東京間での移動のパターンもあれば、奈良京都東京のパターンもある。今回のは東京は関係ないバージョンだった。
在宅バイト。追加でこれもやっとけタスクがぼんと降ってくる。ダルいけど対応。午前中に巻いて終わらせ、昼からはグーグルアナリティクスの勉強をする。えらい。
あとは円城塔賞の締め切りがこの日だっだので、書いてる途中の長編から抜き出した部分をカクヨムに投稿する。応募者数は845名らしい。多いような少ないようなで言うと少ないような。
円城塔の『長い豚の話』を読み終わる。面白いのは間違いないけど長い豚の短い話だと言いたくなる。アニメ本編ではなくサマリーを見させられているような気になった。長い豚の長い話を読んでみたい。まあ人工知能が順調に成長すれば短い小説を膨らませるのもできるようになるんだろうからそうなったときに膨らませて読めばいいということになるか。そのときには適切な補助がつけられるようになって長い話を読みたいという願望も今より叶えやすくなるだろうから、長大な物語にしたうえでそのエッセンスを読むというのも可能なんだろう。ただそうなったら今回の読書とどう違うのかを言うのが難しそうだ。
ザ行なしでシャワーにも入って定時に飛び出してスタバに向かう。ジャンドゥーヤチョコレートモカを注文する。『数の値打ち』『戦争と平和』を読んでから日記を書く。本当は小説を書くべきだがお腹が空いたので仕方なくすた丼に行くことにする。昨日のリベンジだ。
映画の日だからパーフェクトデイズの二回目に行くか迷って行かなかった。行こうと考え直したときには今日の上映回が終わっていた。未練が出たのでスマホでパーフェクトデイズを検索したら公式サイトを見つけた。そこのビジュアルノベルというかサウンドノベルというか、スクロールして読む短い小説の出来がよかった。パーフェクトデイズにグッとくるところがあった人は出会えるサイトだと思うからそういうのも含めてよくできている。渋谷駅前の広告もデカデカと長く掲載されていたし予算が潤沢なんだろう。

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