毎日、ねむる前に「今日一日はどうだった?」と自分に聞いてみることができるということだ。自分のことだから実際に声に出して聞いてみないでもそれに答えることはできる。これは勝手な憶測に過ぎないが、そういう問答をしたがらない人ほど、何か目的を作っては、一日をそれの犠牲にすることで安心を得ているような気がする。それでなんとなく事なきを得ているつもりかもしれないが、今日一日を犠牲にすることで得られるものは基本的には何もないというのは肝に銘じておくべきだ。今日一日を犠牲にして生活する人は、同じ理由で明日も犠牲にするだろうし、そうなると今日や明日の犠牲はそのまま埋没費用ということになって明後日も同様に過ごさないではいられないことになる。どんな目的があったとしても、その目的のために犠牲にしていい日は一日もない。これは生活者として基本に据えておくべきことだ。
そのうえで、どれだけいい一日が続いていってもそれがいつまでも続くわけではないというべつの問題もある。それに対して反抗の意を示そうとするのは自然な流れのように思われるが、そのためであってもやはり当の一日を犠牲にするべきではない。むしろそのためにこそ、満足いく一日をもうひとつ並べてやるべきだと思う。
われわれが誰だろうと、その場所がどこだろうと、その一日を満足いくものにすることはできる。役所広司の動作のひとつひとつを見ていると、彼がそのことを心から信じているのがわかる。周囲の人とのやりとりが補助線になってそのことがよりわかりやすくなっているというのはあるにしても、ほとんど信仰そのものともいえるその生活のありよう、その確実さは、彼自身の立ち方、居方、振る舞い方が中心になって見事に視覚化されている。そして、ほかならぬ彼の生活こそが、その確固たる立ち居振る舞いを作り上げている当のものだ。ここでも鶏がさきか卵がさきかというのは、鶏が卵を生むという事実のまえにあっては影のうすい問答にすぎない。鶏は卵を産んだかという質問を毎日して、毎日それに答える。そんな日々の生活こそが完全な一日なのだ。
と、そんな当たり前のことをいちいち言葉で言ってみてもはじまらない。役所広司の一挙手一投足を見てそれを感じ取る以外に、生活者としてそれを学ぶ方法はない。生活者にとって最高の一日というのは稀に存在するとしても、完全な一日というのは絵に描いた餅だ。そんなものを目指していてはいたずらに一日を不完全なものにしてしまうばかりだ。
それもあって、正直に言って役所広司の『PERFECT DAYS』には反感をおぼえる。あまりにもストロングスタイルだから悪口のひとつでも言ってやりたい気にもなる。しかし、役所広司や登場人物たちが通奏低音のようにして反感をおぼえている「いつか終わってしまう」ということへの反感については身に覚えがあることでもあるし、「完全な」ということの意味、「Perfect Day」という曲の意味というかその曲に聞き入るということの意味が、われわれ生活者に共通する反感を表していることでもあるので、大目に見るというわけでもないが、まあ、大目に見てやろうと思った。ちょうど私が、私の過ごす一日のうち、ちょっとしようがない感じの一日についてちょっと大目に見てやっているのと同じように。