20240123

牛腸茂雄の写真

ある写真にはそこに写っているもののほかに何かがあるとしか思えないものがある。その写真はあきらかに特別な写真なのだが、なぜそれが特別なのかはわからない。

どの写真であっても、そこにある特別さを感知する機構を写真を見る側が持っていさえすれば、それは特別な写真ということになる。つまり、写真のなかにそれを見るものに特別さを感知させる何かがあれば、それは特別な写真ということだ。

問題はその写真を見たときに特別さを感知させる何かとは一体何なのだろうかということだ。それがあるから、それがあるその写真のことを特別だと感じるのだが、それが何なのかがわからない。わかるのはただそこには何かがあるということだけだ。

たとえば写真に写っている人物にはそれぞれ表情がある。顔の表情と動きの表情だ。それが意味するところを目の当たりに見られるというところに、特別さがあると言ってもいいかもしれない。写真というのは切り取られた瞬間のことだから、かなり限定的にはなるが、それでもその瞬間にかぎっていえば写された人物のことがとてもよくわかる気になるようなある種の写真がある。たとえばおやつを目の前にして今にも泣き出しそうな表情をしている女の子の写真があったとすれば、それを見た人の頭の中には一瞬で物語が構成されるかもしれない。それはある特定のものの見方をする人からすれば高い情報量を持つ写真だといえるだろう。それは物語のある写真、動きのある写真、ということになるはずだ。

物語には方向づけられた一点、そこへと収束していく一点がある。そして動きというのは、どこかへ向かっての動きということになりやすい。必ずしもなりやすいというのではないのかもしれないが、それを目にする他人にはどうしてもそう見えやすい。

物語も、どこかへ向かう動きも、それを目にするものによってそう見られる。そして写真に付けられたキャプションはそれを補助する。物語を見せる写真は優れた写真の一形式だ。動きを見せる写真も同様だ。

ただし、どこか向かう先を持つ動きと、向かう先を持たない動きとがある。そこに感情があるのはあきらかでいて、それが何に向けられた感情なのかは一見してわからないような感情がある。それは現実のものではありえず、それを写真として見るものにしか許されない虚構だ。他人を写真に写すということは、他人を絵具にして絵を描くような行為なのかもしれない。そこでは他人が自分の感情によって何を表現したいのかというのを一旦無視することも十分あり得る。

そもそも牛腸茂雄の写真には写っている当の本人にとってその感情が何を意味するのかわかっていない種類の感情があり、牛腸茂雄はそれを写し取ることを目指していたようにも受け取られる。その感情は向かう先を持たない動きのようなもので、どこに向かうためでもなくふいに出てきた何かなのかもしれない(あるいはそんな漠然としたものではまったくない固有で具体的な感情なのかもしれない)。当然どんな感情であってもそれが感情ではないとすることはできないし、ましてや無いとすることもできない。それがあるというのは何をおいてもあきらかなことだ。ただ、それが何なのかがわからない感情もあるというだけの話で、何なのかがわからないからいっそのこと無いものとするというのにも無理がある。こういうことを思い切って言えるのは、牛腸茂雄のいくつかの写真には「何かがある」としか思えない写真があるからだ。

そして、それはどうも物語に属するものではないように見える。物語を見ることや向かう先を持つ動きを見るというのは虚構を目にするというよりむしろ現実を目にしていると感じられる事柄だ。牛腸茂雄が撮ったものはそこから脱け出す一瞬を掠め取った稀有な写真だと見える。それらは物語未然でありながら、成り立ちにおいてはたしかに感情だ。無感情ではなくその逆で、そこにはあきらかに感情がある。しかも感情の持ち主のことを顧みないことによって却って感情を掬い上げているように見える。果たしてこれはあきらかな誤謬なのだろうか。

ある写真にはそこに写っているもののほかに何かがあるとしか思えないものがある。もしそれが誤りだとすればそもそもの初めから誤りでしかない。それは特別な写真などないというものの見方とイコールで結び付けられる。特別な写真がないということはほとんど特別な何ものもないということで、それはものの見方という観念に値しないことはあきらかだ。

何かがあるとだけ言うことは何も言っていないことに等しい。本当に何かがあるのであればそれは言わずもがなのことだし、本当には何かはないというときにだけ、ある種の虚構として意味が通ることになる。こちらは言うことの意図・内容にそぐわないため、裏の意図というものでもないかぎり言うことによって何も言えていないということになる。

それでも何かがあると思えない対象が自分にはあり、たとえば短歌に対して自分は比較的冷淡なのだが、良い歌について「ああそう」という感想で済ませたり、感想を持つほどしっかりそれを読まない(読めない)ということも十分あり得る。そうするとたとえば短歌について自分は「何かがある」とは感じられない状況にいるということになる。これを敷衍して、写真にはそこに写っているもののほかに何かがある、とは思えない他人の感じ方というのも認めないわけにはいかない。しかしその場合においても、自分が短歌に冷淡だからそこに何かがあると信じられないだけで、もしかするとそこにも自分には感知できない何かがあるのではないかと考えることもできる。しかし自分はそういうことをせずに、ただ、短歌には何もないように感じられるで済ませることにする。それのネガポジを変換させたのが、ある写真には特別な何かがあると「言う」ことだと思うからだ。短歌勢に対して「表面ではなく深層で再会しよう」と言うのは助平心全開なのでやらないでおくが、そう思っていることを隠すつもりもない。

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