チェアリング・ウォーキング・ステアリング
2024/01/17 昨日
スタバのあと酒を買って飲みながら帰宅。最近はBGMをフィッシュマンズにすることが多い。すれ違う人が手に持っているタバコの煙が良い匂いに感じられるのはこの季節特有の感性かもしれない。帰宅して温かいご飯が待っているんだと思うと強くてボリュームのある多幸感に襲われる。素晴らしいナイスチョイスを聞き終わってから家に上がる。トマトスープ鍋みたいな料理をいただく。
2024/01/18 今日
五時頃に目が覚める。もう眠れない感じがしたので先手を打って水を飲んだのだが、それでもねむれなくなってしまった。人間はいつか死ぬ。自分は人間のひとりだ。自分はいつか死ぬ。といういつもの三段論法。三段論法を回避する方法を思いつかないままほとんど起きる時間になってから疲れ果ててねむってしまった。当然起きざるをえず、いつも以上に気持ちが乗らないまま、明確な寝不足で体調もよくないまま電車に乗るため駅まで歩く。
仕事をすすめる。昼頃になっても食欲が出ず、風邪の気配が濃厚になってきたので、せめて温かいものをと思いかけそばを食べる。その後食堂のベンチシート席でうたた寝をしたら、だいぶ体調が戻った。よっぽど早退しようかと思ったが、よくねむれたことで最後までいることができた。この日は風邪を引くまいと離席するたびに入念に手を洗った。まるで風邪予防ではなく、風邪対処のような気分で手を洗った。会社を出る前にも、電車に乗って下北沢に戻りスタバに来る前にも石鹸で手を洗った。昼食が少なめだったのでスタバではアメリカンワッフルをたのむ。かるく焼いてもらったワッフルをナイフとフォークで食べるのが好きだ。味も美味しい。『遠読』を読む。ハリウッドの覇権についてアクション映画(=非言語性)にあり、コメディ映画(=言語性)にはないという主張はその通りだ。また、ナショナリズムを勇壮さにおいて見る見方が一般的だが、実際には笑いにおいてローカル色が強く出るというのも実感に近しいところがある。しかし、コメディ(言語)は、ある翻訳のやり方によってではなく、その言語的な構造や、概念の伝播によっても伝達可能なものだと見做されるべきものだと考えられる。インターネットによって映画がより一律になっていくなかで、必ずしもアクション映画だけが広まっているわけではないし、たとえばアメリカンジョークのように「コメディの形式」を輸出している。それは教化といってもよいものかもしれない。笑えること・ユーモアのあるものは十分な学習機会とともに個人の端末の中に入り込んでいくという流れがある。見る側がもっともっと、と要求したとき、量的にはいくらでもそれを提供できる環境がある。質的な変質(=個人化)についても、すでにそれが可能となる素地はある。遠読の該当箇所(プラネット・ハリウッド)が書かれてから二十年になるが、この感覚の進み方は完全に個人的なものではなく、いくらかは社会的なものなのだろうか。もし十分に社会的なものだとしても、グローバルなものではなくローカルなものだという気がする。「お笑い」は輸出されるべき文化だと思われるが、それを受け取る相手がいないという構造的な問題を含んでいるようでもある。どの文化にもすでにユーモアがあり、それがその文化を特色づけるものである以上、どれだけ面白さの品質が高まったとしてもそうやすやすと受け取られるものではない。そうすると人工知能という広大な領域にお笑いを輸出するという試みが始まってもおかしくはない。お互いを笑わせ合い、最高のユーモア(=人間性)の在り様を決定する、人工知能のコロッセウム。