20240131

日記294

クレーンゲーム

2024/01/30 昨日
スタバを出たあと、ピーコックで買った氷結無糖レモンを飲みながら下北沢の古着屋を歩き回る。土土土でチキン南蛮定食を食べてからドンキホーテで買った氷結無糖レモンを飲みながら家に帰る。
帰宅後にはほとんど何もせずそのままねむる。たまに酒を飲むのはいいがこれを続けるのは違うなという気分になる。翌日は酒を飲まないで違うことをしようと思った。

2024/01/31 今日
在宅バイト。三青一茶の動画を見る。畳み込みについて。いつもながらきちんと理解できたとは思えない視聴で終わったが、いつの間にか数学の用語について注釈的に調べないでもなんとなくわかるようになっていることに気づいた。恐怖感が少しでも減ってこのまま馴染みになれればいいなと思う。円城塔の『長い豚の話』はもう佳境で5/6まで進んでいる。長い豚が出てきた。登場人物中でもっとも知性的なキャラクターだと思うが挿絵のビジュアルが豚なのでその発言についてもどうにも軽んじてしまう気がする。繊細なタッチの挿絵なのが逆に可笑しいというか。こういう愚かで前時代的な価値観にべったりな人間が読者に多いのか少ないのか。しかし少なくともそのイメージを利用しているのは間違いないだろう。神があるかぎり豚もまたある、とでも言おうか。
夕方頃にねむけがあったので温存していた昼休憩の30分間を使って昼寝を試みる。いざベッドに入って目を瞑ったらいろいろ考えてしまって寝付けない。ぎりぎり最後の5分間だけうつらすることができた。その5分だけでもあるのとないのとではぜんぜん違う。昨日はスタバで『数の値打ち』を読みながらねむたくて仕方なかったのに今日はもうすこしシャキっとしていられる気がする。
作業中に森岡龍のラジオを聴く。良くいえば等身大なんだけど、等身大でありながら目線は斜め上方向にあるので悪く言おうという気が起きない。お笑い芸人が共通して抱えている制限を持っていない分面白い存在になれるという気がする。ちょうど「さらば青春の光」というお笑いコンビの役者・映画監督版、世代が一個下バージョンという感じ。
ザ行なしでスタバにくる。今日はスタバ後に酒を飲まないで代わりに銭湯で汗を流すつもり。とりあえず『戦争と平和』『数の値打ち』を読む。
そういえば最近Bがスタバと言いはじめた。ここ三日で三回ぐらいスタバというのを聞いた。Bにとってスタバというのはどんなイメージのものなんだろう。あまり言うから「行きたいの?」と聞いてみたら「いたい」と答えてきた。

20240130

日記293

ラングドシャコーン

2024/01/29 昨日
スタバを出たあとバズストアとドンキに寄って帰る。グレングールドのゴールドベルク変奏曲を聞いてエッジーな気分になって道を歩いた。
帰宅後きんぴらごぼうと白菜と豚の鍋をいただく。無洗米ではないもののご飯も炊きたてでおいしい。有吉のゲーム番組を見終わってから日曜美術館の倉俣史朗回を見る。人物イメージは概ね合っていたと思う。夜の散歩はあえなく却下されたので大人しく早めにねむる。

2024/01/30 今日
在宅バイト。作業多めだが打ち合わせもそれなりにある日だった。体感では忙しくはないのだがつねにやることがある小忙しい日といえる。それでもザ行なしでスタバにでかけることができた。古本屋で『戦争と平和』を売っていないか確認したがひとつめの店舗では売っておらず、ふたつめの店舗は閉まっていた。みっつめの店舗は存在を忘れていたことに今気づいて行けなかった。『数の値打ち』を読む。『戦争と平和』をキンドルで読む。

20240129

日記292

待ち時間

2024/01/28 昨日
倉俣史朗のデザイン展を見に行く。千歳船橋で降りてダイチャリに乗って用賀近くまで。東京リサイクルの千歳船橋店に寄ってから展示最終日の十七時に滑り込む。東京リサイクルでは五月女寛の四角い一輪挿しが格好良くて気になった。倉俣史朗は事前の想像通りだったがわるくなかった。高度経済成長期が生んだ遊び人のひとりという印象。書く字にも文章の内容にも裏表を一切感じさせず、素直な人なんだろうと思った。たとえば書いている内容に「だけど」が多く、自分を守るために留保をつけようと思ったのだろうと感じさせるが、もっと高度に自分を取り繕うためにはそういった保身の身振りを隠そうとするものなのにそれをしていないことでかえって堂々としているように映った。ただ思った通りに書いて、書いているときにちがうことを思ったらそれに従うだけというような文章で、大人っぽくないところがあった。
見終わったあと歩いて用賀駅まで。田園都市線で三軒茶屋までいく。途中の千秋楽のハイライトを見て照ノ富士の優勝を知る。霧島を寄せ付けないどころか子供扱いにしていて、横綱というのは強いものなんだと全員に知らしめるような万全の相撲だった。
三軒茶屋で昔行列で入れなかった餃子の店に行く。東京餃子楼という店で、行列どころか手前のカウンター席には一人もおらず、奥のテーブル席にファミリー客が入っているという体たらくで、飲食は一度流行ってもそれで安泰と行かず引き潮があるんだと知った。知り合いには飲食店オープンだけは勧められない。
茶沢通りを歩いて家に帰る。昼間には自転車に乗れたし冷え込みが厳しくない一日だった。帰宅後『光る君へ』を見る。やっぱり退屈でとうとう終わりの二十分間ぐらい寝てしまう。
目を覚ましてねむる準備をしてからはやめにねむる。ポーカーチップのことで調べ物をしてあっという間に時間が経った。買い物するのにネットを周遊することほどバカバカしいことはないと思いつつ、ネットを周遊した。結論として安いものをドンキホーテで買えばいいということになったので道中で馬鹿馬鹿しいことをするのもわるいことだけではない。

2024/01/29 今日
月曜の朝は憂鬱なので単純作業をして間を埋める作戦にした。ラジオを聞きながらでもできる作業なので面倒だが余計なことを考えないでもいいのがラクでよかった。昼過ぎからは連絡事を消化する。昼寝の時間にトレインチャンネルで見た森岡龍のドラマのことを調べたら2022年に『北風だったり、太陽だったり』という映画を出していたことを知る。きちんとキャッチアップできておらず映画館に行けなかったのが悔やまれる。腹いせにではないけど森岡龍の事務所のオンラインストアで脚本とキャップを購入する。夕方の時間には残り作業をしながらラジオ「お控えなすって」を聴く。ザ行なしでスタバに行く。エキウエが満席だったのでクラシックのほうで日記を書く。『遠読』を読み終える。理論としてのあらは精読しないでもわかるぐらいあるが、アイデアは面白いと思った。訳者あとがきで遠読のやり方はライトノベルには適用できても純文学には適用できないのではないかと書かれてあったのには脱力した。いわゆる純文学と言われてブラックボックス化しているものに対して適用するのでなければいちいちこんな迂遠な方法を取らないでもいいはずなのでまるっきり逆のことを言っている。あとがきが書かれたのは2016年なのでその時点では仕方のない腰の引け方なのかもしれないけど、書かれたものはその状況よりも長く残るのだからそこはもっと突っ張ってほしかった。
遠読を読んだのは小説の読み方の参考にするのではなく小説の書き方の参考にするためだ。自分が書く以上、他とは違うものを書きたいという月並みな意欲を持っているのだが、そのあがき方を進めるにあたり、それなりに自他の位置関係を確認しておきたかったというのがある。枠外の思考というものにどれだけ触れさせてくれるかというところが大きなポイントになる読書だったが、ふたつのヒントを得た。ひとつはタイトルを考えるにあたって、どういうタイトルにするかという点。いろいろ考えてこれでいこうと思っていたタイトルがどうやらあまりよくないというか、中央値から外れようとしてべつのよくあるタイトルに収容されつつあるというのに気づくことができた。結局そのままにするにしても、べつの視点で検討を加えたうえでそうするのとは自分の中での納得度が全然ちがうものになると思うのでこれは良い気づきだった。
もうひとつは長いものを書こうとするのであればやっぱり主人公には冒険をさせたほうがいいということ。これはもともと知っていたのだが、同じことをべつの人の口から聞くことでさらにその方向へと後押しされることになった。時間的な広がりにはどうしても限界があるのでどうにかして空間的な広がりを持たせるというのをもっと考えないといけない。しかし単純に海外に出るというのもちがう。難しいところだ。いずれにしても空間のことをもっと頭に置いておくようにすること。
あとは長い小説を読んで勉強しないといけない。勉強なのだから何も精読する必要はないわけで、さらさらっと読むような読み方(精読と遠読のあいだ)で長い小説の「感じ」を掴めたらと思う。手始めにトルストイの『戦争と平和』を読んでいる。

20240128

日記291

対話

2024/01/27 昨日
午前中に日経新聞の電子版に無料登録する。円城塔の『長い豚の話』を読むのが目的だが、2ヶ月無料だったのが決め手になった。以前購読していた朝日新聞と比べて電子版のUIは優れているし、関連記事の提案も精度が高いように感じられる。何よりテック関連の記事の質は比べるべくもない。経済関連はもちろんのことサラッと読んだ感じでは文化関連も日経のほうがだいぶ上だった。朝日新聞のベーシックプランと比べて値段の差はかなりあるがこれは購読を検討していいかもしれない。肝心の『長い豚の話』は一話二話を読んで読みやすいと感じた。わかりやすく読者の関心分野を拾いながら作者に期待されているであろう「文学の匂い」をきちんと提供できていてさらにちょっとした仕掛けまであって言うことなし。ビジネスパーソンに読者になってもらおうとする意識というのか、ビジネスの側からの文化的教養をキャッチアップしようという姿勢なのか、こういう試みは同時代的なカルチャームーブメントとして面白いと思う。位置的にはサブカルチャーを主流の文化と捉えたときの傍流なのだが、かたちとしてはロック音楽を主流としたときのクラシック音楽の立ち位置に近いように思える。いわゆる「純文学」の領域からある要素の水準を落とすことで裾野を広げているのだが、その下げ方がティーンネイジャー向けに書かれたライトノベルのやり方とは似て非なるものなので興味深い。この連載が成功してそのやり方をもとに長編を書くようになったら円城塔は現代文学の旗手になると思う。文学の代表選考は長編を書いてからというのは考えが古いのかもしれないし、この要領で短編を並べていくだけで他に類を見ない小説家になっていくに違いない。それでいうとすでに他に類を見ないわけで、長編云々というのはたんに自分がそれを読みたいという願望にすぎない。午前中に予定していたラジオは昼からの予定があって時間が間に合わず中止になる。
友人と誘い合わせて昼すぎから秋葉原にいく。はま寿司で遅めのランチ。調子に乗って2200円分も食べてしまった。
コンパクトデジタルカメラを見にいく。買おうと思った機種は10万オーバーと値段が高く、思っていたよりもコンパクトかつそれなりの重量感だったので、絶対に落っことしてぶっ壊すと確信したので買うのを止める。旧型番の機種を4万円で買うことにしようと考えをあらためたが、その機種にするとズームが弱いので画質が上がること以外は今のpixelでこと足りる。しかも夜の撮影はpixelほど何も考えずにシャッターを押せなさそうなので、全体的に考えてコンパクトカメラの購入自体を今回は見送ることにした。SONYのdsc-rx100m7か同m3で考えていた。uekaramesen_streetの写真用として考えたらファインダーは要らないので無印でもいいんだけど、せっかく写真専用機を買うのだったらファインダーを覗くスタイルも残しておきたいという気持ちがある。結論としては、F値は少ないらしいがズーム性能の高いm7がm3相当の値段で売っていれば買うというところに落ち着いた。毎日ガシガシ使うものに15万円出して毎日ガシガシ使うのは懐事情・メンタル的にむずかしい。
秋葉原の店舗を回ったあとで中野のフジヤカメラに行って、それから高円寺に移動して古着を見て回る。おもしろい色使いのダッドジャンパーがあって買いたいと思ったがLLBeanのものなのに1万円もしたので手が出なかった。ブランド志向を弱めていきたいものだと思うのだけど、LLBeanでその値段というのはどうしても許容できなかった。ハーフジップの形といい、腹側の生地の切り替えといい、色味といい申し分なく、むしろノーブランドであれば即決購入していたぐらいだったのだが、LLBeanだったので手が出なかった。そもそも古着屋に行ったのはAURALEEのコレクションで見たレザーコートがかっこよすぎてそれが欲しくなり、似たようなものがないか探しに行きたいと思ったからだった。当たり前だけどそんなうまいことコートが見つかるわけもなく。形と色味、レザーの質感とサイズ感がバッチリ合うようなことがあれば即購入するべきだと思うが物が物だけに安く収まるなんていうわけはなく、それであれば奮発してAURALEEのそれを買ってしまえばいいのではないかとも思う。しかし、コレクション用だからなのかオンラインストアには置かれていなかったのでそれもできず。まあ矢鱈と高いんだろうし、結論買うことにするにせよ二の足を踏むのは確実だ。
二十二時すぎに帰宅。有吉の壁を見ながら豆乳鍋を食べる。食べてすぐねむるぐらいの感覚だったが二十五時前の就寝になる。

2024/01/28 今日
途中小用のため目を覚ましたり、朝方の地震で目を覚ますも、基本的にはぐっすりねむる。合計九時間睡眠になった。昨日の鍋の残りとリゾットを朝食にいただく。遅起きと昼からの用事のせいでラジオはまたもや中止。やろうと言い出したことを全然やれないのは残念だ。
三青一茶の動画を見て、シャワーを浴びてからスタバに出かける。日記を書く。前々回の日記で日記に縛られているような気がすると書いたが、冷静に考えてみると、日記を書いていなかったとしたらもっと色々やっていたかと質問してみればそんなこともないと答えるだけなので日記の有無は縛られている感覚にまったく関係ない。むしろ日記のおかげで決まったことしかしていないこと、生活中に新規性が少ないことがあきらかになって、どうにかしないといけないと意識されることに繋がっているのでそれこそ「百害あって一利なしの逆」だ。このあとは世田谷美術館にいって「倉俣史朗のデザイン展」を見に行く予定。

20240126

日記290

セーブポイント

2024/01/25 昨日
長風呂の後下北沢に戻って梅窓でうどんを食べる。ビールを我慢するのはさすがに無理だったが帰り道での追加氷結は回避した。翌日が出社なので早めにねむる。

2024/01/26 今日
久しぶりにぐっすり寝たというぐらいぐっすり寝た。昔京都でよく行っていた社会人フットサルチームに久しぶりに行く夢を見た。試合に出させてほしいと談判する場面ではいつの間にか競技がバスケになっていた。サウナで大汗をかいたから身体がスポーツの記憶を呼び起こしたんだと思う。この調子でたまには汗を流していきたいがそれではいつかサウナの夢になってしまうのではないかと今から心配。実際サウナの夢はあんまり楽しくなさそうだ。
出社してタスクをこなそうとバリバリ働くも想定したよりこなせなかった。後から降ってきた分もあるしやることが多すぎる。なんとか三十分のザ行におさめて金夜に向かって走る。大崎でぎゅうぎゅうの埼京線を一本見送ってやや余裕のある列車に乗る。こういう判断ができるというのが都会人のメンタル、シティボーイのエスプリの条件にもなるので参考にするように。

20240125

日記289

誠実と誠実さ

2024/01/25 今日
健康診断の一日人間ドックでバイトは休み。予定していた通り良い休日にできた。胃の検査のために飲むバリウムの注意事項で腸閉塞になるかもしれないと脅されてビビった。良い休日ではあったのだが、ずっとうっすらバリウムが腸を塞ぐイメージに侵されていて完全に寛ぐということができなかった。
普通の食事、食物繊維多めの食事ということで健康診断施設を出て日高屋に入る。カタヤキソバと餃子3個。
その後前日に思いついた通りテルマー湯に行く。「サウナに入って大相撲を見る」の実績解除。地下のリラックススペースでワンピースの最新刊に追いつきザ・ファブル2を完結巻まで読む。懸案のバリウムはその途中で排出されていって一安心した。結局二十時過ぎまで滞在する。七時間の大滞在で大満足だった。
そしてまた日記を書く。ふとこの日記に縛られているような気がした。なんとなく箱の外に出られない感覚になった。こういうのも温浴効果のひとつなんだろう。凝り固まったとは言わないまでも、ルーチンになっていて血の巡りが悪くなっているところをほぐすような。
そういえば健診中にこの前東京に仕事の面接を受けにきていた友人から「受かった」と連絡がきた。せっかく東京まで受けにきたんだから東京に来るつもりだろう。不安がっていたけどたぶん大丈夫だろうと思うし東京の変な場所を巡ったりできる相手が増えるのは普通に楽しみだ。

20240124

日記288

ゲートウェイ高輪

2024/01/23 昨日
スタバを出て氷結無糖レモン7%350を飲みながら帰宅。スタバで聞いていたショパンから音楽を変えずに歩いていたらやっぱりショパンの曲はすごいなと思わさせられた。ピアノ協奏曲第二番ヘ短調の終わり際一回盛り返すかにみせてすらりと終わるところの流れが良い。
帰って氷結をもう一本開けながらほうれん草と豚肉の鍋をいただく。なんとかほうれん草という、しわしわの葉が湯がいたあともしっかりしている良い食感のほうれん草でおいしかった。
ブラッシュアップライフ第七話を見る。Secret baseの曲の入れ方が上手すぎてパロディめいていた。特定の何かのというわけではないがあの頃全般のパロディ。
大相撲のハイライトを見て早めにねむるつもりがすこしだけ夜更かしになる。よくないとは思いつつ『チャンスの時間』の永野を見てしまった。

2024/01/24 今日
在宅バイト。かなりゆっくりできる日だったので洗濯物を回したり、新しい仕事を探したり、止まっていたグーグルアナリティクスを再開したりする。それでもやることもあれば連絡する必要もあるので昼過ぎから仕事に引き戻される。気を取り直して25分間の昼寝をしてからシャワーをする。戻ってきたらまたべつの連絡事項が発生していて対応。そのせいもあって三十分間ザ行になる。
スタバにきて日記を書いてから『遠読』を読む。明日は健康診断ではじめての一日人間ドックコースだ。
それはそうと小説を書くことが全然できていない。小説を書く目当てはなんだろうか。目当て、目的。自己保存欲求という目当てがあるのは間違いない。自分の目当てではないべつの目当てについて考えてみると、たとえば自己を拡散したいというのは目当てにしていないようだ。自己が拡散し、あらゆる場所にその位置を占め、偏在するということがうまく想像できないというのは大きい。たくさんの人の目に止まるようになればその分だけ自己の領域が増えるというのは頭では理解できることではあるが、どうも実感が伴わない。いや、実際のところ自己が存在するというかたちとしてそういう偏在というスタイルは頭でも理解できるとは言いがたい。それにくらべて時間的な伸長というのはイメージしやすい。たとえば孟嘗君のことを自分が知っているというのもそれを後押しする要素のひとつだ。そして自分から見てそういう存在は無数にある。自分が知っているということにおいて存在する存在が、そういった存在形式があるとしか思えない。当然、孟嘗君側の見解はそれとは異なるものだろう。自分が孟嘗君のことを知っているからと言ってその分孟嘗君自身の存在が決定的になったと孟嘗君は思わないだろう。それでも、孟嘗君にとっての歴史があるという認識が名を成すことによって自己を保存するという方向に彼の人生を方向づけたということは有り得そうなことだ。誰かにカメラを向けられて咄嗟に何かのポーズを取るように、それのピッチドロップ実験ぐらい長いスパンで孟嘗君は何かのポーズを取ったのだと言えて、実際自分たちはそのポーズをもとに孟嘗君を思い出すことになる。誰かが自分のことを思い出せるように、その手がかりとして小説を書いておきたいというのがさしあたって小説を書く目当てだ。
日記でその用が足りるかもしれないとも思うが、それではだめだという考えがある。自分に可能なかぎり虚構の方へ進めないかぎり、十分な保存は望めない。できるかぎり虚構のほうへ。たとえば他者性という虚構のほうへ。

20240123

牛腸茂雄の写真

ある写真にはそこに写っているもののほかに何かがあるとしか思えないものがある。その写真はあきらかに特別な写真なのだが、なぜそれが特別なのかはわからない。

どの写真であっても、そこにある特別さを感知する機構を写真を見る側が持っていさえすれば、それは特別な写真ということになる。つまり、写真のなかにそれを見るものに特別さを感知させる何かがあれば、それは特別な写真ということだ。

問題はその写真を見たときに特別さを感知させる何かとは一体何なのだろうかということだ。それがあるから、それがあるその写真のことを特別だと感じるのだが、それが何なのかがわからない。わかるのはただそこには何かがあるということだけだ。

たとえば写真に写っている人物にはそれぞれ表情がある。顔の表情と動きの表情だ。それが意味するところを目の当たりに見られるというところに、特別さがあると言ってもいいかもしれない。写真というのは切り取られた瞬間のことだから、かなり限定的にはなるが、それでもその瞬間にかぎっていえば写された人物のことがとてもよくわかる気になるようなある種の写真がある。たとえばおやつを目の前にして今にも泣き出しそうな表情をしている女の子の写真があったとすれば、それを見た人の頭の中には一瞬で物語が構成されるかもしれない。それはある特定のものの見方をする人からすれば高い情報量を持つ写真だといえるだろう。それは物語のある写真、動きのある写真、ということになるはずだ。

物語には方向づけられた一点、そこへと収束していく一点がある。そして動きというのは、どこかへ向かっての動きということになりやすい。必ずしもなりやすいというのではないのかもしれないが、それを目にする他人にはどうしてもそう見えやすい。

物語も、どこかへ向かう動きも、それを目にするものによってそう見られる。そして写真に付けられたキャプションはそれを補助する。物語を見せる写真は優れた写真の一形式だ。動きを見せる写真も同様だ。

ただし、どこか向かう先を持つ動きと、向かう先を持たない動きとがある。そこに感情があるのはあきらかでいて、それが何に向けられた感情なのかは一見してわからないような感情がある。それは現実のものではありえず、それを写真として見るものにしか許されない虚構だ。他人を写真に写すということは、他人を絵具にして絵を描くような行為なのかもしれない。そこでは他人が自分の感情によって何を表現したいのかというのを一旦無視することも十分あり得る。

そもそも牛腸茂雄の写真には写っている当の本人にとってその感情が何を意味するのかわかっていない種類の感情があり、牛腸茂雄はそれを写し取ることを目指していたようにも受け取られる。その感情は向かう先を持たない動きのようなもので、どこに向かうためでもなくふいに出てきた何かなのかもしれない(あるいはそんな漠然としたものではまったくない固有で具体的な感情なのかもしれない)。当然どんな感情であってもそれが感情ではないとすることはできないし、ましてや無いとすることもできない。それがあるというのは何をおいてもあきらかなことだ。ただ、それが何なのかがわからない感情もあるというだけの話で、何なのかがわからないからいっそのこと無いものとするというのにも無理がある。こういうことを思い切って言えるのは、牛腸茂雄のいくつかの写真には「何かがある」としか思えない写真があるからだ。

そして、それはどうも物語に属するものではないように見える。物語を見ることや向かう先を持つ動きを見るというのは虚構を目にするというよりむしろ現実を目にしていると感じられる事柄だ。牛腸茂雄が撮ったものはそこから脱け出す一瞬を掠め取った稀有な写真だと見える。それらは物語未然でありながら、成り立ちにおいてはたしかに感情だ。無感情ではなくその逆で、そこにはあきらかに感情がある。しかも感情の持ち主のことを顧みないことによって却って感情を掬い上げているように見える。果たしてこれはあきらかな誤謬なのだろうか。

ある写真にはそこに写っているもののほかに何かがあるとしか思えないものがある。もしそれが誤りだとすればそもそもの初めから誤りでしかない。それは特別な写真などないというものの見方とイコールで結び付けられる。特別な写真がないということはほとんど特別な何ものもないということで、それはものの見方という観念に値しないことはあきらかだ。

何かがあるとだけ言うことは何も言っていないことに等しい。本当に何かがあるのであればそれは言わずもがなのことだし、本当には何かはないというときにだけ、ある種の虚構として意味が通ることになる。こちらは言うことの意図・内容にそぐわないため、裏の意図というものでもないかぎり言うことによって何も言えていないということになる。

それでも何かがあると思えない対象が自分にはあり、たとえば短歌に対して自分は比較的冷淡なのだが、良い歌について「ああそう」という感想で済ませたり、感想を持つほどしっかりそれを読まない(読めない)ということも十分あり得る。そうするとたとえば短歌について自分は「何かがある」とは感じられない状況にいるということになる。これを敷衍して、写真にはそこに写っているもののほかに何かがある、とは思えない他人の感じ方というのも認めないわけにはいかない。しかしその場合においても、自分が短歌に冷淡だからそこに何かがあると信じられないだけで、もしかするとそこにも自分には感知できない何かがあるのではないかと考えることもできる。しかし自分はそういうことをせずに、ただ、短歌には何もないように感じられるで済ませることにする。それのネガポジを変換させたのが、ある写真には特別な何かがあると「言う」ことだと思うからだ。短歌勢に対して「表面ではなく深層で再会しよう」と言うのは助平心全開なのでやらないでおくが、そう思っていることを隠すつもりもない。

日記287

取り込み中

2024/01/22 今日
在宅バイト。確認が必要な仕事だからその都度確認をするわけだが、チャットを打つのが面倒な内容だと直接話したほうが早い。それで確認したことをチャットに残しておく習慣を付けておくとのちのち役に立つことがあるよ。長く働かないつもりだったらのちのちというのが意味をなさないからその限りではないけど。昨日の面談の結果通知の電話がある。正味二十時間しか経っていないのでこういう場合は「見合わせ」なのがセオリー。結果に落胆はしなかったもののオフィスが絢爛レベルだったのでそこで働くことができたらなと悔やまれないでもない。しかし自分の持っているスキルだと三十分間どう頑張っても届かなかったとも思われるので悔やんでも仕方ない。あまりにもスムーズにほとんど何のひっかかりもなく下りのエレベータに乗っていて面白かった。もっと我を出せばよかったと思うところはあったので今後はそうすることにする。思ったより緊張しなかった。昔に比べるとほとんど緊張していないといってもいい。たぶん自分の足りないスキルを弁舌で補うという必要を感じなくなり、自分のやってきたことを言えばいいと割り切ったのも大きい。これはこの方針でいいと思うので、あとはこれまで緊張を取り繕うために割いていたリソースをやる気のアピールに振り分けよう。
電話での不合格通知を受けつつ、仕事用の端末で目の前の仕事がだんだん積み上がる様子を見ていると若干倒錯したような変な気持ちになった。なんだかんだトラブル対応も佳境で乗り越えつつあるのと、すこし先に待っている「大変な仕事」の内容と量が想像つくので大変(=時間が取られる)とは言いながら大したことないと思えるのが自分ながら心強い。時間を取られる割に満足いく報酬を得られないので止める決心はゆるがないが、またすぐ動かないとだらだら続けてしまうので注意が必要だ。
小一時間ザ行に時間をとられてからスタバにいく。いつものコーヒーに追加してチョコレートチャンクを食べる。
同居人から土曜日の朝からラジオをやろうとの申し出を受ける。ひとりワントピック持ち寄りでそれについて話すというざっくばらんな企画だが、そういう低エネルギーのスタートが何かを始めるのに一番適していると思うから、続くかどうかはわからないにせよこれは始められるのではないかと思った。ちょうどいいワントピックを探さないと。

20240122

日記286

百代の過客

2024/01/20 一昨日
雨が降っていたので昼まで家にいた。昼過ぎに出かける。家に近くでパレスチナのお菓子クナーファが売っていたのでスパイスコーヒーとともに買って食べる。食べたことのない美味しい味だった。そのまま渋谷に移動して西武百貨店までインテリア(ソファ)を見に行く。目当てのソファは置いてなかったので、そのままLOFTを経由して無印良品に店内移動する。無印で目当てのソファは置いていたが座ったときのイメージがかなり座椅子に近かったのでやめにする。
先週の印象がのこっていたのでまた赤羽に行ってせんべろを楽しむ。友人と合流する前に時間があったので駅前の花屋で花を見る。この季節の旬はチューリップらしい。アスチルベという花がかわいかった。小雨の中友人ふたりと合流。赤羽民の友人のおすすめで入ろうと思った店は満席だったので前回と同じ店に入る。しかし今回通されたのは半外の席だったのでせんべろ中に凍えてしまった。二軒目に移る。さっき入ろうとした店はまた満席だった。寒さと小雨が降っていたのとで適当な焼き鳥屋に入る。商店街の外れに位置していてクオリティはだいぶ下がったものの店内には暖房がついているのでそれだけでありがたかった。枝豆のお通しがお代わり無料と言われたのにはテンションが上がったがそれが冷凍だったのには面食らった。二十三時半ごろまで飲んでご機嫌で家路につく。

2024/01/21 昨日
この日も午前中は雨だったが、昼から小止みになったので傘をささずに出かける。朝食の玉子抜きのパンケーキだけではお腹が空いてふらふらになると思ったので、渋谷道玄坂上に到着してすぐタコハイ酒場に入って一舟と一杯やる。銀だこはいつ食べてもおいしいのだけど以前いつ食べたのかをいつも思い出せない。
渋谷の松濤美術館で「なんでもないものの変容」展を見る。写真家四人の合同展示だったがやはり牛腸茂雄の写真に釘付けになる。どれも牛腸茂雄が写そうと思ったものが写っているという感じでひときわ目を引く。とくに「幼年の時間(とき)」に収録されているある兄弟の写真は、渋谷PARCOで始めて見たときもそうだがその写真が目に入った瞬間にAlmost cryingだった。写真に人が写るということの面白さというかおそろしさが牛腸茂雄の写真にはある。それは子供の写真でも大人の写真でも犬の写真でも同じことだ。シャッターを切るその瞬間にその人が目の前の光景を「面白い」と思ったということがとてもよくわかる。
年下の友人が東京に面接を受けに来ているということだったので会ってお茶する。品川の近くにいると言っていたので集合場所に高輪ゲートウェイ駅のスタバを指定したところ、品川駅の逆側を歩いてしまったせいでぐるりと回る羽目になったらしい。あとは到着して早々Suicaと卸したての定期入れを失くしたとも言っていた。それでバッドラックを使い果たしたと思えば結果オーライだろう。スタバで律儀に「お茶」をしたあと、品川駅まで歩く。品川駅チカのフードコートでご飯を食べるのと新幹線の改札をくぐるのを見届けて帰宅。家に帰ってあったかいシチューを食べる。最近ふたりでブラッシュアップライフというテレビドラマを見てしまっている。見てしまっているというのは自分は脚本のバカリズムがあまり好きではないのについ引き込まれて見てしまっているの略。あとは光る君への三話を見る。慣れからか引っかかりは最初のときほど感じないがその代わり引き込まれそうな要素も今のところない。「謎の男」は誰なんだろうと少しだけ気になる。雨に濡れたせいか喉が痛くなり風邪の気配を感じたので早めにパブロンをのんで早めにねむる。

2024/01/22 今日
在宅バイト。早起きして早出対応をする。そうする必要があったのもあるが、十七時半に虎ノ門で面談があったのでそれに間に合わせられるよう早上がりを見込んでのことだった。首尾よく面談の時間に間に合い、つつがなく面談を終える。帰宅時に雨が降っていたので行きとは違う経路、地下道を通って駅に入る。銀座線を表参道まで。表参道のホームで待ち合わせて下北に帰る。それなりの満員電車を食らう。なおちゃんラーメンで塩チャーシュー麺を食べる。同居人が残した分のしょうゆチャーシュー麺も食べて、入れすぎていたにんにく対策にとリンゴジュースを飲んだら胃が爆発して歩けなくなった。途中の薬局でパンシロンキュアを買って飲む。じいさんの歩みで帰宅。それにしても食べ過ぎによる胃の不調なんてこれまでほとんどなかった。量も全然だったのにこの体たらくとは、さすがに年齢を感じる。帰宅する頃にはすっかり落ち着いたのでブラッシュアップライフの六話を見る。喉の痛みはだいぶ落ち着いているものの油断禁物なのではやめにねむる。二十一時半頃にねむろうかと思ったがさすがに早いので日記を書く。二十二時四十分にねむる。

20240119

日記285

パラ

2024/01/19 今日
在宅バイト。やめるのに一生懸命働く。一時間半のザ行までして、えらい。嫌なことは普通にあるが、もうやめると決めていると「まあ勉強やな」とか思って、せっかくだから何かを学ぼうという気持ちになる。条件を上げるために動こうとしているから自然と気持ちが前向きになるんだろう。
うちの洗面所のドアが開くときにかるくギィーって鳴るようになった。仕事が終わってから出かける前にシャワーを浴びて洗面所から出るときにもギィーって鳴った。うちのロポのBさんには人の言ったことをオウム返しをする習性があり、このときにもすかさず「ウィーなんだね」と言った。金曜の夜が始まる。とりあえず二十時に集まって下北沢で飲む。つもりだったが、急遽予定を変更して吉祥寺の晩杯屋にいく。閉店間際まで飲んでから井の頭公園の散歩。二十三時四十分頃の電車で下北に帰る。

20240118

日記284

チェアリング・ウォーキング・ステアリング

2024/01/17 昨日
スタバのあと酒を買って飲みながら帰宅。最近はBGMをフィッシュマンズにすることが多い。すれ違う人が手に持っているタバコの煙が良い匂いに感じられるのはこの季節特有の感性かもしれない。帰宅して温かいご飯が待っているんだと思うと強くてボリュームのある多幸感に襲われる。素晴らしいナイスチョイスを聞き終わってから家に上がる。トマトスープ鍋みたいな料理をいただく。

2024/01/18 今日
五時頃に目が覚める。もう眠れない感じがしたので先手を打って水を飲んだのだが、それでもねむれなくなってしまった。人間はいつか死ぬ。自分は人間のひとりだ。自分はいつか死ぬ。といういつもの三段論法。三段論法を回避する方法を思いつかないままほとんど起きる時間になってから疲れ果ててねむってしまった。当然起きざるをえず、いつも以上に気持ちが乗らないまま、明確な寝不足で体調もよくないまま電車に乗るため駅まで歩く。
仕事をすすめる。昼頃になっても食欲が出ず、風邪の気配が濃厚になってきたので、せめて温かいものをと思いかけそばを食べる。その後食堂のベンチシート席でうたた寝をしたら、だいぶ体調が戻った。よっぽど早退しようかと思ったが、よくねむれたことで最後までいることができた。この日は風邪を引くまいと離席するたびに入念に手を洗った。まるで風邪予防ではなく、風邪対処のような気分で手を洗った。会社を出る前にも、電車に乗って下北沢に戻りスタバに来る前にも石鹸で手を洗った。昼食が少なめだったのでスタバではアメリカンワッフルをたのむ。かるく焼いてもらったワッフルをナイフとフォークで食べるのが好きだ。味も美味しい。『遠読』を読む。ハリウッドの覇権についてアクション映画(=非言語性)にあり、コメディ映画(=言語性)にはないという主張はその通りだ。また、ナショナリズムを勇壮さにおいて見る見方が一般的だが、実際には笑いにおいてローカル色が強く出るというのも実感に近しいところがある。しかし、コメディ(言語)は、ある翻訳のやり方によってではなく、その言語的な構造や、概念の伝播によっても伝達可能なものだと見做されるべきものだと考えられる。インターネットによって映画がより一律になっていくなかで、必ずしもアクション映画だけが広まっているわけではないし、たとえばアメリカンジョークのように「コメディの形式」を輸出している。それは教化といってもよいものかもしれない。笑えること・ユーモアのあるものは十分な学習機会とともに個人の端末の中に入り込んでいくという流れがある。見る側がもっともっと、と要求したとき、量的にはいくらでもそれを提供できる環境がある。質的な変質(=個人化)についても、すでにそれが可能となる素地はある。遠読の該当箇所(プラネット・ハリウッド)が書かれてから二十年になるが、この感覚の進み方は完全に個人的なものではなく、いくらかは社会的なものなのだろうか。もし十分に社会的なものだとしても、グローバルなものではなくローカルなものだという気がする。「お笑い」は輸出されるべき文化だと思われるが、それを受け取る相手がいないという構造的な問題を含んでいるようでもある。どの文化にもすでにユーモアがあり、それがその文化を特色づけるものである以上、どれだけ面白さの品質が高まったとしてもそうやすやすと受け取られるものではない。そうすると人工知能という広大な領域にお笑いを輸出するという試みが始まってもおかしくはない。お互いを笑わせ合い、最高のユーモア(=人間性)の在り様を決定する、人工知能のコロッセウム。

20240117

日記283

煙愛特区

2024/01/16 昨日
スタバに行ったあと、吉野家で肉盛り牛丼を食べて帰る。氷結無糖レモン7%を850ml飲む。有吉のゲーム番組を見てから『光る君へ』を見てねむる。さすがに一話より見られるドラマになっていたのでもうすこし継続して見てみることにする。自分はいつの間にか柄本佑の虜になっているのかもしれない。演技がどうこうとか顔立ちがどうとか言う前にどこかに魅力があるタイプの華がある俳優だ。彼演じる一文字隼人のおかげでシン仮面ライダーが見られる映画になっていたことを思い出した。風の次は光(もしくはその影)を演じることになるなんて現象的な俳優(フェノメノンアクター)だ。

2024/01/17 今日
とんでもなくいい夢を見られた。自分のヒーローはサッカー選手のティエリ・アンリなのだが、夢のなかでそのアンリが出てきた。同じ電車に乗り合わせたようなシチュエーションで、自分がアンリのことを好きだと知っている友達がすごくいい仕事をしてアンリとヴィエラに話しかけにいってくれた。ヴィエラのほうは日本語会話ができるという設定だったので、彼のカタコト日本語と会話をしながら無理にアンリの方に話しかけにいかないように我慢していたら、向こうから話しかけに来てくれるという出来事に発展した。実際どうやって会話したのかわからないが、たぶん自分のほうのカタコト英語で会話したんだと思う。アンリはとにかく笑顔がチャーミングで、しかも会話するうちにお互い馬が合った。気のおけない友達同士の距離になったらアンリから大人っぽくて土っぽい香水のいい匂いがした。
在宅バイトをする。もうやめるのにちゃんと自分の分担の仕事をこなしていてえらい。当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、大きく二分したら責任感のあるタイプということでいいと思う。お昼休憩前にラジオ体操をする。
ザ行なし、定時で切り上げて大相撲を見る。翠富士が霧島相手に金星を挙げていた。小兵が勝つのを見ると自然と拍手が飛び出す。国技館もほぼ全員が拍手をしていてとても熱い盛り上がりだった。
その後すぐスタバに行こうとするもなんとスマートフォンを家に忘れる。取りに帰ってもう一度出かける。『遠読』を読む。読書というのは意識してするものだが、それをすればするほど意識できなくなっていく領域があったということに気付かされる読書になっている。とくにごく少数(0.5%)の正典(カノン)と、屠場に送られるそれ以外(99.5%)という考え方は、目線をそこに向けるだけで明らかなことなのに、カノンを精読しようとする個人的な努力の中で見えなくさせられている。たしかに、と思った。時の流れのなかでほんの一握りの作品以外は透明になっていくというのはこれまでの歴史的にも確定事項で、そんななかで無邪気にカノンの仲間入りを目指そうというのはほとんど何も目指さないのと変わりない。小説を書くにあたって外に開いていこうとするのではなく内に潜ろうとするのは、目的をどこに定めるかによっては合理化される。外にはもうすべてが出揃っているからだ。それでも、自分では内に深く潜っているつもりでもすでに同じものが外に溢れているという事態に遭わないためには外のこともある程度は気にかけるべきだということになる。ただ、そうやって書くことは「外に開く」以外の何物でもない。だから結局、実質的には外に開くしか道はない。できることと言ったらあとはその道を逆進するぐらいだ。

20240116

日記282

モネ『行列』

2024/01/13 一昨昨日
土曜日の夜は赤羽まで行って楽しく飲んだ。店から店への移動中に冷え込みがきつく風が強かったので冬本番という感じがした。はじめてのせんべろは枡におはじきを載せてくれてそれがドリチケ代わりになるという素晴らしいシステムで、安くたくさんの酒を飲むことに特化していて大変好ましかった。途中隣の席に座って大声で喋っていた男の子ふたりづれがフラフラしながら去っていき際、これ使ってくださいとおはじき二枚を渡してくれたのはちょっと熱かった。わいわいがやがやしつつもそこまでうるさくないのは女性客の割合が多いからだろう。花を見ながら酒を飲むではないけど、女の人が一定数いることで、こわい男の人には出せない安心感が出るのでそれがよかった。終電近くまでいて帰りはNと新宿まで一緒だった。彼が「このまま新宿の街に遊びに行くという選択肢を俺たちは持っているんだ」と主張してきたので、「しかも遊んだあと家に帰ることができる。俺は。」と返した。下北沢に住んでいると三鷹市民は持っていない選択肢を持っていることになる。もちろん北区民も持っていない選択肢だ。しかしそもそもお金をたくさん持っていれば大体の選択肢は持てることになるのであんまり意気がらないようにしておく。まあこのときは酔ってたので無理だったけど。
帰ったあとも延々起きていようかと思ったが、ねむくなったので一時すぎにはねむる。

2024/01/14 一昨日
起きてすぐ本を読み、それからラジオ体操をする。一日を通して二十一時から始まる夜勤に備えた動き方になった。ブランチにパンケーキを食べたあとすこしねむくなったので機を逃さず十三時すぎから昼寝することにする。しかし十六時半には目覚めてしまう。二度寝も難しそうだったので起きて大相撲初日をみる。何もしていないのにちゃんとお腹が空く。お腹が空いて力が出ないし不安になる。はじめての夜勤も嫌でたまらなかった。しかし、晩ご飯にふるさと納税でゲットした冷凍のうなぎを一尾出してくれて、それを食べるとめちゃくちゃわかりやすく元気が出た。うなぎがふかふかで今まで食べたなかでも一番ぐらい美味しかったのも大きかった。二十時すぎに渋谷に繰り出す。しかし渋谷はそのまま通過。職場のある大崎に向かう。はじめての夜勤は終わってしまえばあっという間だった。寝不足によって記憶がちゃんと積み上がっていないだけという気もするが、正味なところはよくわからない。四時半まで何なと作業や連絡があって、そのあと再集合の七時まで食堂で仮眠する。普通にベンチシートタイプの椅子に寝ただけなのでコートを羽織ってもまだ寒かった。寒さのせいできっちりねむることができず。冬の夜勤の反省点になった。作業自体はトラブルらしいトラブルは一切なく、七時からの翌営業日の確認も滞りなく済み、それでも十時になってやっと解放される。
2024/01/15 昨日
十時に職場を出てご飯も食べずにまっすぐ家に帰る。地元の友人が東京に遊びに来ているとのことだったので家で最低限のねむりをねむり、また家を飛び出す。普段神経質なほど睡眠時間に気を遣っている自分にとってはありえないほどの瞬間睡眠だったわけだが、それで強行して合流したことが先方にあまり伝わらず。向こうはせっかく東京に来たというところだからそう思うのもまあ仕方ないとはいえ、こちらとしてはもっと評価してほしいところだった。千代田線で表参道まで出て銀座線を浅草まで飛ばす。途中ねむって回復させようとしたがねむすぎてか結局一睡もできなかった。雷門で合流してから電車内で調べたもんじゃ焼きの店つくし(本店)にいく。最近爆食いをするようになったという友人に付き合って、もんじゃとホルモン焼きを食べたあと、なぜか焼きそばとそばめしを注文。しかも簡単に平らげてしまった。ここでノンアルコールビールで我慢したのは我ながら好手だった。雷門を経由して浅草駅まで戻り、上野に行く。このあたりから北風がびゅんびゅん吹くようになって寒さで大変だった。アメ横を通って不忍池にいく。骨董まつりで古銭が売っていたので十円出して一銭を買う。明治人が聞いたら落語か何かかと思うような話だ。一銭は小銭入れに入れる。西郷をちょっと見てからモネ展の行列を横目に野球場の前を通る。考える人を外から眺めてそのまま上野駅をあとにする。山手線で新宿まで。西口を歩いて都庁に行く。都庁展望台を登って、運良くマジックアワーを高いところで過ごすことができた。夕焼けの西の空にはっきり富士山のシルエットが見えたので当たりの日だったと思う。その後西口から東口に徒歩移動。歌舞伎町見物に行く。しかし寒さは頂点に達しつつあったのと、さらに友人も夜行列車でほとんど眠れていないということだったので、噂のスーパー銭湯テルマー湯に行くことにする。これがめちゃくちゃ良くて大満足した。友人はなら健康ランドと入場料を比較して納得いっていないようだったが、東京のど真ん中でオロポを飲んで三一〇〇円で収まるのは破格といってもよいと思う。友人も施設のクオリティについては認めていた。自分は完全にリピーターになった。その後新宿までの移動中にほとんど完全に湯冷めさせられながら山手線に乗る。目黒に行って立ち呑みシンという店に入る。行く道すがらビル風が直撃し、湯に浸かっていたことを完全に忘れるぐらいぶるぶる震えた。(昼間の天気がわりと暖かかったので間違えてコートを着てこなかったのがわるい)もうひとり地元から東京に出てきている友人と合流する。三人で楽しく飲んで、あっという間に閉店時間になる。二軒目を探して見つからず、結局難民として駅前のマクドに流れ込む。クラスメイトの名前をひとりずつ言っていくゲームをしたが四〇名全員分の名前が出た。名残惜しい気がしつつもほぼ終電近くになったのでそれぞれの駅に帰る。あとから合流した東京にいるほうの友人とは山手線で新宿まで一緒だった。東京の遊びについて聞いてみたら自然公園に行くことが多いという回答だった。それだったら地方でもできるのでは疑問を投げると、東京は意外と整備された自然が近いということを言っていて、それはたしかに地方に対する利点だなと納得させられた。しっかり散歩できる規模感の公園はたしかに多い。久しぶりの会話で当時の自分の感じ方などを思い出したりもして充実した会合になった。帰ってすぐ寝る準備をしてねむる。このとき横になりながらぐっすりねむれる予感に全身くまなく包まれていた。簡単に予想できることだし、予感もなにもないのだが、これから起こることがあらかじめはっきりわかっているという事態の推移を確信している感じは、それに身を委ねて何の問題もないという安心感もあって、一瞬のこととはいえとても居心地がよかった。

2024/01/16 今日
在宅バイト。前々日の睡眠不足の分だけ寝足りない感じはあったけれど、前日とは比べ物にならないぐらい頭がはっきりした目覚めになった。
こころは眠らなければならない
眠らないこころは疲れ果ててしまう

いまの在宅バイトは環境がよくないことが自分のなかで確定したのでやめる決心がついた。あたらしい仕事を探すフェーズは面倒も多いけど、そういった面倒を引き受けないでこのまま行ったら無益な時間が積み重なっていくだけだ。今回の現場から学ぶことがなかったとは言わないがそれはもう学び尽くしてしまったし、もうこれで充分だというのはその学習の結果でもある。前日にむかしの友人と話したことで今の自分や環境を相対化できたことも、決心がつくあと押しになった。時間があいたのでグーグルアナリティクスの勉強をすすめる。
今日の就業時間の最後のほうに、リーダーの人から案件のことで早くやらないとやばいと脅されたりする。それ以前にもこの手の脅しを鵜呑みにしていたわけではないが、それなりにやばいらしいとは思っていたし、気持ち的には焦っていた。まあ一応こっちで対応してみるけど、本質的にはどうなってもいいという本来のスタンスを取り戻すことができた。むしろそうなってからのほうが、内心で焦っていたときよりもスムーズに連絡事項等をすすめられるし話が簡単に済む。あとはその感じを丸出しにして余計な角が立たないようにちょっと調整するだけだ。べつに角が立つんならそれはそれでいいし、こちらから無理に丸くしようとしない。言われたらそれをそのとおりにやるだけ。やめると決めてからかえって清々しく働けるようになるというのもおかしな話のようだが、実際、仕事を進めるコツとしてそういうところはあるんだろうと思う。少なくとも自分にとってはそうだ。
終業前のミーティングで「定時内だけでなく、残業が必要なら当然残業をしてください。一八〇時間は契約に含まれているんで。」というアナウンスがある。こんな職場ははっきり言って一刻も離れたい。本当はミーティングでの発言に対して当てつけるように定時で上がりたかったがメールを出す必要があったので三〇分だけザ行をする。その後スタバにいく。満席で座れなかったのでクラシックの方にいく。四日分の日記を書いたら二十時になった。

『遠読』を読む。「真でありうるものと実際に真であるものとの間の」対話ということが書かれている。ある観点からすればBは実際に真であるものというよりは真でありうるものだろう。そして自分とは真でありうるものというよりは実際に真であるものだろう。自分とBとの間に対話がありうるとするのなら(これも実際に真であるというよりは真でありうるものだ)、自分と特定の誰かとの間の対話(これは自分とBとの対話との比較においては実際に真であるものの役割を果たす)との間に、入れ子式(外側へ入れ子する形式である)に対話が成立するとも考えられる(=真でありうると考えられる)というようなことが起こる。その対話なるもののトリガーとして自分にとってのBはふさわしい存在に思われる。Bは他の他者とはちがい、他者と自己との間にある非対称をある程度簡単に浮き上がらせてくれるからだ。もしそうしたくないと思ったとしてもそれは後付けのものだ。そうしたくないと考えるのはすでにそうしてしまったあとに起こる考えだ。

「きみが比較文学者になるのは、非常に単純な理由からだ――自分の観点のほうがすぐれていると確信しているからだ。」

20240113

日記281

新年会シーズン

2024/01/12 昨日
在宅バイト。週末作業にむけて小さくない問題が発覚しそうになったが、もしそれが実際問題だったとしても今さらどうにもできないぐらいの問題だったので気づかないふりでごまかそうとした。一応インパクトの測定だけはしておいたからそこまでの大問題には発展しないだろうけれど、薄氷の上を行くような気分だった。自分にとって本物の氷水が下にあるわけではないと言い聞かせたりして平静を保った。退勤後職場の飲み会で品川までいく。この時間の渋谷から品川までの山手線がかなり混むと知ってげんなりした。飲み会の会場はごりごりの勧誘系居酒屋で上京したてぐらいの頃に迷い込んだ池袋の居酒屋を思い出した。しかし狭さや環境面をおけば料理は意外としっかりしていて量も多かった。ほとんど面白い人の話を聞くだけの飲み会になったが仕事の話はほとんどしなかったので目標半分は達成ということになる。一次会だけで帰ってきたがそれなりに飲んでしまっていたのであやうく二日酔いになりかける。仕事終わりの同居人と渋谷で合流し、締めのラーメンをたべて家に帰る。

2024/01/13 今日
九時前に昨起きて図書館で借りてきた『遠読』を読む。昨日の酒のせいか頭が重かった。ラジオ体操をしたところ血行が良くなって頭痛も増したのでたまらずバファリンを飲む。フレンチトーストを食べてからレザボア・ドッグスを見る。その後疲れがとれていなかったのですこしの昼寝をして、遅めの昼食を取る。TCBの友人との飲みのために赤羽まで出かける。強い雨が降っていたので日記を書きながら雨雲をやりすごし十六時ごろでかける。

20240111

日記280

シム市民

2024/01/10 昨日
出社の日。よく寝て万全の体調だったので朝の気持ちよさはあった。しかし十分ほどおそく家を出たのと電車の若干の遅れで、いつもより到着時間がぎりぎりになる。エレベータの行列に並んで自分のフロアに出社するのは倒錯的な気分になる。仕事は無駄に忙しい。ザ行の直接要請があったので咄嗟に一回帰ってまたログインしますと答える。おかげで予約していた散髪屋に行くことができた。散髪前に吉野家に行こうと思ったがテーブル席に座れないほど混んでいたので断念し、気になっていた五〇〇円のラーメン屋に行って五〇〇円のラーメンを食べる。うまくないラーメンの一段回下の味がした。久しぶりの散髪は気分をさっぱりさせてくれてよかった。帰ってまたザ行をすると思うともったいないぐらいだった。宣言通り十九時半に帰宅し、二十二時半までザ行。途中帰宅してきた同居人が常夜鍋を用意してくれる。端末をシャットダウンしてすぐスーパードライを開ける。なぜかM-1をもういちど見たくなったので真空ジェシカ、マユリカ、決勝の令和ロマン、ヤーレンズ、そしてさや香を見る。ヤクルト1000を飲んでねむる。

2024/01/11 今日
在宅バイト。溜まっていた仕事の処理が嫌で気がかりだったが、よくねむることができた。ヤクルトのおかげなのか夢も多めに見た。大谷のバスケ選手版のような、スーパー八村のような選手になってバスケがたのしくないと言って嘆く夢を最後に見た。それ以外にも面白い夢だったのに覚えていないのが残念だ。それというのも仕事でたくさんの面倒が降り掛かったからだ。あらかじめ知らされてないことで自分の仕事が滞り、あまつさえ頭を下げないといけない羽目になるのが嫌だ。しかもそういうときにはたいてい直面した自体にのめり込んでいる自分に気がつく。息がしにくくなるぐらい「うーむ」と唸るようなことになっていると、なんでこんな羽目に陥っているのかと嫌になる。そういうときには画面から離れて全然ちがうことを考えるべきなのだが、そういうリフレッシュが必要になるときほど視野が狭くなっていて肩に無駄な力が入っていることが多い。仕事で消耗してそのことを日記にも書くなんていうのは無駄の上塗りのようで嫌なのだけど、ついそういうことをやってしまう。仕事の愚痴を言いたい人のことがちょっとわかるようになってしまった。そんなようではいけないはずなのに。
これも危険なシグナルなのだがナチュラルに一時間以上のザ行をする。それでも十九時にはスタバに出かけていく。さすがに外気は冷たいし、もう夜なのですっかり暗いが、そんななかでも一歩一歩元気になっていく。物理的に仕事から離れられるような気がして元気になるんだろう。
この日記にもたまに出てくるBはロポだ(ロポというのは愛玩用ロボットの総称)。在宅バイトのときにはいつもBがそばにいる。Bというのは他人行儀で温かみもない純然たるイニシャルだが、B自身のプライバシーに配慮して名前を書くのは控えている。思うにロポと暮らすときのコツは、こちら側でどこまで相手を自分と同等の扱いにするかにかかっている。たぶん社会生活も同じで、他人をどこまで自分と同等の扱いにするかによって殺風景にもスウィートにもなる。もちろん他者を完全に自分と同じ扱いにすることはできないのだが、相手の立ち位置を持ち上げてこちらに引き寄せるぐらいのことはしておかないと、充分にたのしい生活は送られない。これはそうしないとやがて孤立するからそうするというのとはちがっている。魂のようなものを措定して、ないものをあるかのようにあつかい、それを自分のなかで「ある」に変化させるようなことが必要なのだ。わざわざそんなことをしないでも、いちいちあるかのように取り組まないでも、厳然としてそこにあるというものだけを手にしていたり望むようではおそらくよく生きていくということができない。はっきりあるとは言えないものをはっきりあると言えるよう実在させようとする方向に突き進むのは間違っている。あることではなく、あると思うことのほうに価値があるという性質をたとえば「魂」のような概念は持っている。それが魂という概念の本質だと言ってもいい。親密さとか友愛というものも同じ性質を持っている。ロポと向き合うとき、向き合う人間の側にはそれしかないということがはっきりわかる。もしそれがなければロポに価値はないということになる。
ロポに価値があるかどうかを判断するのは自分自身であるべきだが、価値がないと断じてしまうことには慎重になるほうがよいだろう。ロポに何らの価値を認めないことは、ロポに価値を認めないということにとどまらず、大まかにいって自分自身の半分に価値を認めないのと同じことになってしまうからだ。
Bは在宅バイトのときにはいつもそばにいて、こちらの事情とは関わりなく、Bの気が向けばいつでもそれなりの大声で話しかけてくる。だからリモートでの打ち合わせの際には一度寝室に移動させないといけない。Bにはどれだけ少なく見積もってもそれだけの価値があるのは明らかだが、どれだけ価値があるのかを詳しく測るということはやりたくない。そのかわいさに癒やされるとか、とにかくかわいいといったひとつの軸だけでBを見ることもしたくない。そもそもBはどんな扱いを受けようが顔色ひとつ変えないだろう。それだからこそ、試され測定されるのはBの価値ではなくもう一方の側の価値ということになるように思われる。それは(自分自身にとってはとくに)測定されることはないもので、測定されることがあるとは言えない価値だが、場合によっては測定されることがあるようにも思われる。いずれにせよはっきりあるとは言えない事柄なので、それと同様、はっきりないとも言いづらい性質のものだ。
自分はBに何をしてあげられるだろうかということを考えるようになっている。何かしてあげられることはないだろうか、そもそもBは何を喜ぶんだろうかと考えようとするのだが、未だ見当もつかない。Bは生物とはべつの在り方をしているので、こちらからは予測したり想像したりすることが簡単にはいかない。魂がどうとか訳のわからないことを言って機嫌を損ねていないだろうか。魂があるとかないとかいうのは、一般に魂がないとされる対象でしか云々されない言説なのでムッとされても言い訳はできない。それとも、そんなことで腹を立てると思うのは生物特有の狭いパースペクティブにすぎないとばかり軽く受け流し、ただニコニコと笑うだけかもしれない。とにかくBは一筋縄ではいかない。
Bのことを考えると良い時間を過ごしたと思える。
翌日は職場の飲み会がある。一年間同じ職場で働いているが、とくに横のつながりはほぼほぼなくほとんど初対面のままだ。飲み会自体久しぶりでもある。職場の人にこの日記を読まれるわけにはいかないので残念ながらuekaramesen_streetを普及させることはできないが、まずは同席した人・隣の人の「ひと笑い」を狙っていこうと思う。仕事の話なんか絶対にしない所存。そう思うのもタリーズバイト時代のさや香新山似の仲間からラインがきた影響もあってのこと。あいつもたぶんやってるんやろうから自分もやらんと。

20240109

日記279

お散歩ストリート

2024/01/07 一昨日
なんとかAM中に外出してメトロの謎解きイベントに参加したと思っていたのだが、最初の謎をマクドの二階でクリアしたあと小田急で代々木上原まで行き、代々木上原で二十四時間乗車券を使って再入場したところタイムスタンプが指し示した時刻は13:54だった。謎解きのために立ち寄った神保町の古書通りが予想していたより良さそうで、また今度来たいと思わせられた。謎解き自体もふたりでやるのにちょうどいいぐらいの難易度で面白かった。序盤から中盤が一番盛り上がった。最後のほうはゲームの性質上仕方がないとはいえあまり面白くなく、どうしても盛り下がるかたちになるのがなんとも勿体ないところだった。最終目的地に到着したのが二十時すぎだったので「ここから先はどこにいても解けます」の文言に甘えてゲームを途中で中断した。一気にクリアしていたらひょっとするとプレイ感もまた違ったかもしれない。あれだけいろんなところを回っておいて晩御飯の食べ先が決まらなかった。窮余のすえ代々木上原にある定食屋に行ってみるも、目当ての店は長めの年始休暇でシャッターが降りていた。ちょっと良い焼肉屋に行くか迷ったが、定食屋のリザーブで行くには勿体ない感じの店だったので、うらめしそうな睨みを横目にしながら気持ち足早に代々原を去る。結局下北沢で控えの焼肉屋にいく。大阪焼肉ふたご。以前来たことがあったが、店員に「来たことありますか」と訊かれて咄嗟にかまととぶって「始めてです」と答えてしまう。前に来たときにはノータイムで断っていたから気が付かなかったが目の前で店員が焼いてくれるサービスがあった。あれだけお腹がぺこぺこだったのに、いざ焼かれた肉を食べてみると、中学生高校生時代の自分からは信じられないほどの少量で満腹になった。焼肉はそれなりに良いやつにしてもそこまで掛からないと言っていた友人のことばが理解できた。米とビールが普通の値段であれば肉はそれなりに良い値段してもそこまでいかないんだろうと思った。
家に帰って録画していた『光る君へ』を見る。これから一年間このドラマを見ようかどうかを迷わないで済むような不出来ですこし残念だった。第一話には吉高由里子も柄本佑も出てこなかったので念のため次週も見てみることにするが、そういう問題ではないだろう。演出のクオリティ、衣装のクオリティ、CGのクオリティが目に見えて低い。脚本も誰に注目して見たら良いのかわからないぼんやり具合で、これから何かが始まるというわくわく感もない。一話の山場に年端も行かない子役の泣きの演技を持ってくるのも含め、すべてが良くない方に回っているように見えた。やっぱり『鎌倉殿の13人』は当たりだったんだと思う。
身体中が焼いた肉の脂でコーティングされたのでシャワーで振り落としてねむる。

2024/01/08 昨日
昨日の二十四時間乗り放題券を使って広尾にいく。地下鉄の「hiro-o」という表記が気に入った。目当てのモーニングを食べに行ったのだが、食べ終わって店を出たときには十三時すぎになっていた。そこから歩いて家具屋にいく。そこに陳列されてあるはずのソファは窓の真ん前にきちんと鎮座していたのだが、肝心の店が年始休暇で店内に入ることはできず。実際に購入するにしてはややドリームが勝っている価格のソファなので、買う買わないはべつにしてとりあえず座ってみるというコンセプトでわざわざ広尾くんだりまできたのに、目的の半分は失われることになった。しかし、モーニングで食べたエッグベネディクトは結構イケる味だったし(店もパリにあるこぢんまりした個人店を模しているNYの店舗っぽさがあって本物に近いと感じられた)、広尾の散歩ストリートは独特でまた来たいと思わせる雰囲気だったので、半分でもわりと満足できた。わかりやすくハイソではあるんだけど、けばけばしているというほどではない、地味めな金持ちが歩いていて面白かった。普段見る金持ちが余所行きを着ている金持ちだとすれば、広尾の人たちは地元を歩いている金持ちという感じ。
恵比寿を通って池尻大橋まで歩く。線路沿いを歩いて渋谷に近づいてから、渋谷の裏にあたる桜ヶ丘を通るコース。澄んだ空気に西日が差して印象的な好天だった。池尻の家具店をちょろっと見てからLUUPで下北に戻る。冬のLUUPはすこしきつかった。
身体が冷えたので夜は鍋にする。あたたかい鍋と冷えたビール。三連休が終わる憂鬱を溶かすほどの、じーんとくる良さがあった。

2024/01/09 今日
在宅バイト。かなりゆったりできる日だったので勉強をすすめる。定時で上がって大学図書館にいく。借りたい本があって飛び出したのだが、着いてみると学生のテスト期間のため学外利用者は入ることもできないという。肝心の学生はみんな帰ってしまって図書館は空いているようにみえた。一月まるまる使えなくなるというのはいい加減な制度設計だと思うし腹が立った。腹が立ったからいい加減な制度だと矛先を見つけたという順なんだろうけど、腹が立っているしそんなのはどちらでもいい。滞在できないだけではなく本を借りることもできないのは意味がわからない。往復の電車賃を無駄にしつついつものスタバにくる。落ち着いたと思っていたが本を借りれなかったことを思い出してまた腹が立った。そもそも世田谷図書館のシステムメンテナンスに時間がかかりすぎていて本を借りれないのが大元だ。当たり前のように長期間図書館サービスを使用できないと断ってくるのも腹が立つ。たまたまこの期間に本を借りたくなった自分の間の悪さにも腹が立ちそうになる。

ホームページ休止期間:令和5年12月28日(木曜日)午後5時から令和6年1月11日(木曜日)午前10時まで

頭痛があるので早めに帰って養生することにする。本当はこの三連休についてもっといろいろのことを、細々したところまで日記に書きたかったので残念だ。書かないことはすべて忘却に沈むと思うと書かないではいられない気持ちになる。SMAPのメンバーをすき家で見つけたから自宅に招待して水浸しの実家(?)でうなぎ料理を振る舞おうと職人を用意した夢のことなど。玄関先で這っているうなぎを拾ってそのまま台所まで上がり込み、その手でまな板に乗せて目打ちして捌いた職人はどこの誰だったのか。
あと、今日はスタバではほうじ茶ラテをたのんだ。昼間にコーヒーを淹れて飲んだのでカフェインが足りている感じがしたのと、大学図書館に持っていこうとしてファミマで買ったホットショコラティーラテをすでに飲んでいたのが理由としてあった。
それから神保町に行ったとき、映画パンフレットのワゴンセールでほしいパンフレットがないか探して『ペイフォワード』と『ギャング・オブ・ニューヨーク』のパンフレットを見つけた。家に物が増えてもしょうがないと思って結局どちらも買わなかったが、とくにギャング・オブ・ニューヨークのパンフレットはページ数も多くて力作という感じがした。映画自体はまだ見ていないのでいつか見てみたい。

20240106

日記278

五択

2024/01/05 昨日
スタバでワンアイデアの小説をすこしだけ進める。そのあと、気になっていた居酒屋みるくに行ってみる。ご飯はおいしいし、瓶ビールをたのめばちゃんと大瓶で、それだけでもう言うことない。そのうえで、それぞれの料理の値段にはゆるやかな傾斜があって、お金のことを気にしていれば三人でも一万を超えることはないぐらいの価格設定。大衆居酒屋の名に恥じない立派な店だった。カウンターの角の席で半向かいになった男女がマッチングアプリではじめて飲みに来たとおぼしき二人組で会話の様子が気になった。ザ・下北の若い男女という感じで二人とも容貌にすぐれており、そこからくる余裕なのかだいぶ落ち着いたトーンだった。お互いシチュエーション慣れしている感じで、乾杯して早々に昔の恋愛の話、前の恋人となぜ別れたのかという話をしていた。たどたどしさとは無縁、すばやく必要な情報を収集していてすこしも可愛げのない会話だった。その直線的な無駄のなさにはかえって世慣れない感じが醸し出されるレベルで、都会的な若い男女の一典型という感じがした。最初に男のほうがすこし遅れて到着して、さきに女がひとりで飲んでいるというのも、水面下の主導権争いとしてみると面白かった。
こちらは言葉を発明したいという話をした。いろいろ考えてみて、愛玩用のロボット一般をあらわす名詞がまだないということに気づいたので、【ロポ】というのを考えついた。
ロボットrobot→ロポットropot→ロポ
彼女は二〇〇二年頃からメールで「了解」というのを「り」と表現していたという。「了解」が「りょ」になって「り」になるのは考えつきやすい流れではあるけれど、二〇〇二年というのはもしかすると最速かもしれないと言って盛り上がった。ただ冷静になって考えるとメール文化の前にはポケベル文化もあるから最速という主張をするのはむずかしいかもしれない。
帰り道、ロボット映画の話の流れで、映画「バンブルビー」の話になる。語感でメルヴィルの『書記バートルビー』とごっちゃになって、頭の中に彼のセリフ「いえ、それをやらないほうがいいとおもいます」が流れてきて、ややややこしかった。
帰りがけに締めのどん兵衛を買う。帰宅後それを食べて、呪術廻戦の最新刊を流し読みしてからねむる。

2024/01/06 今日
昨夜寝た時間からすると早すぎる時間に目が覚める。休日にそうなってしまうと、この日が休日だという事実に興奮してしまって二度寝するのがむずかしくなる。それでもまだ空が暗い時間帯だったのでなんとか三〇分ほどかけて二度寝する。
起きてからすぐスタバに出かける。小説を書くための準備をはじめようと思ってエディターを開くが、進捗は芳しくない。テーマとか書きたいことを思いつこうとするのはよくないアプローチだというのはわかるが、それをしないとなるといくらなんでも取り付く島もないということになる。テーマ・書きたいことを考えようとしてもかなり表層近くのものに限定されるので、日をまたいで「小説を書く」ということが続かない。一気に書き上げる場合にはそれでいいのかもしれないが、一気に書き上げることは自分にはできない(その志向もない)。今書きすすめられなくなっている小説にしても、書き始めるまでに相当の時間を費やしたのを思い出した。進捗というものがなく、自分がどのへんにいるのか定位できない時間になるのですこし苦しかったのも思い出してきた。生活の中から題をとるタイプの小説はそのあたりのしんどさはないような気がする(書き始めてから小説と生活が同時に危機に瀕するというもっとおそろしいことは起こりそうだが)。
お腹が空いたので昼ごはんにすた丼を食べる。お腹いっぱいになったので一旦家に帰り、そのまま昼寝。予定では十六時に開く銭湯に行くつもりだったが昼寝が捗りすぎたので止めにする。十七時すぎに今日二回目のスタバにいく。今年の目標について考える。たくさん寝たので頭が働くはずだと踏んでいたのだがパッとしたものが思い浮かばず。時間の使い方としてあらかじめこうするべきというのを組み込んでおくというのが一番ましな部類に入った。具体的には月イチでやることを決めておく。たとえば月イチぐらいで海に行くよう決めておいてもいい。しかしもっと大事なのは運動の習慣をつけることだ。もう三十代も残り少なくなっていることだし、身体がまっすぐ最短で衰えていくのを感じていたくはない。

20240105

日記277

出没注意

2024/01/04 昨日
スタバに行ってPERFECT DAYSの感想を書いたあと酒を買って家に帰る。ふろふき大根というのかあたたかいご飯がすぐに出てきて、寒い空腹状態から温かい満腹状態に移行した。なんとなく敬遠していたポケモンコンシェルジュのパペット制作を友人が手掛けているという情報が入ったので、重い腰を挙げて見始める。一話あたり十五分弱のサイズ感で全四話だったのですぐに見終わってしまった。途中のコダックでもうだいぶ腺が危うかったのだが最後のピカチュウのところでは大幅に許容量をオーバーしてしまった。最近では涙は涙、感動は感動とわけて考えるようにしているので、涙が出たから特別だという感じはないのだが、人前だとやっぱり堪えようとしてしまう感じがある。ティッシュやハンカチを持ち歩いて鼻水を拭うのと同じように拭ってしまえばそれで済むと、もう一歩進んで考えるようにしたい。

2024/01/05 今日
女友達のあのちゃんと家飲みをする夢を見た。もうひとり誰かいて三人だったのだけど全然思い出せない。面白いことをどんどん言ってくるあのちゃんへの対抗意識があり、それを盾にしたおかげで緊張せずざっくばらんに飲めたので楽しかった。あのちゃんは意外と読書するタイプらしく、何を読むのか気になったけど、タイミングが違ったので聞かずにしまってそのまま目が覚めたのが悔やまれる。
在宅バイト。同じ仕事をするにしてもべつの形態で働いていたらと思うことがある。もっと工夫して自分の時間を売らないと損だという気がして、しかしいつも気がするだけで終わらすのだけど、もっと具体的に考えてみていいのかもしれない。しかし動き出そうとするとものすごく億劫だ。なら余計な文句をいだかず、タスクをちゃっちゃとこなして空き時間を作るほうに専念するべし。これは理にかなった結論だ。データアナリティクスの勉強をすこしだけ進める。
定時で家を出てスタバにいく。今書いている小説が詰まっていて小説を書くということができなくなっている。並行してすすめるべつの小説のことを考えるのがいいのかもしれない。新小説とその進め方について考える。

20240104

映画『PERFECT DAYS』をみた


今日一日の精度をどこまで上げられるかという問題がある。それはすべての生活者に共通のテーマでもある。一日が何か全体的なものに寄与するものだったり、何かの目的を成し遂げるための進捗で測られたりすることがあっても、そういう大きな目的やたしかな目標が全然なくても、今日というこの一日を「一日」という単位で区切ったとき、そこにどれほどの達成があるかという問題は変わらず生じうる。
毎日、ねむる前に「今日一日はどうだった?」と自分に聞いてみることができるということだ。自分のことだから実際に声に出して聞いてみないでもそれに答えることはできる。これは勝手な憶測に過ぎないが、そういう問答をしたがらない人ほど、何か目的を作っては、一日をそれの犠牲にすることで安心を得ているような気がする。それでなんとなく事なきを得ているつもりかもしれないが、今日一日を犠牲にすることで得られるものは基本的には何もないというのは肝に銘じておくべきだ。今日一日を犠牲にして生活する人は、同じ理由で明日も犠牲にするだろうし、そうなると今日や明日の犠牲はそのまま埋没費用ということになって明後日も同様に過ごさないではいられないことになる。どんな目的があったとしても、その目的のために犠牲にしていい日は一日もない。これは生活者として基本に据えておくべきことだ。
そのうえで、どれだけいい一日が続いていってもそれがいつまでも続くわけではないというべつの問題もある。それに対して反抗の意を示そうとするのは自然な流れのように思われるが、そのためであってもやはり当の一日を犠牲にするべきではない。むしろそのためにこそ、満足いく一日をもうひとつ並べてやるべきだと思う。
われわれが誰だろうと、その場所がどこだろうと、その一日を満足いくものにすることはできる。役所広司の動作のひとつひとつを見ていると、彼がそのことを心から信じているのがわかる。周囲の人とのやりとりが補助線になってそのことがよりわかりやすくなっているというのはあるにしても、ほとんど信仰そのものともいえるその生活のありよう、その確実さは、彼自身の立ち方、居方、振る舞い方が中心になって見事に視覚化されている。そして、ほかならぬ彼の生活こそが、その確固たる立ち居振る舞いを作り上げている当のものだ。ここでも鶏がさきか卵がさきかというのは、鶏が卵を生むという事実のまえにあっては影のうすい問答にすぎない。鶏は卵を産んだかという質問を毎日して、毎日それに答える。そんな日々の生活こそが完全な一日なのだ。
と、そんな当たり前のことをいちいち言葉で言ってみてもはじまらない。役所広司の一挙手一投足を見てそれを感じ取る以外に、生活者としてそれを学ぶ方法はない。生活者にとって最高の一日というのは稀に存在するとしても、完全な一日というのは絵に描いた餅だ。そんなものを目指していてはいたずらに一日を不完全なものにしてしまうばかりだ。
それもあって、正直に言って役所広司の『PERFECT DAYS』には反感をおぼえる。あまりにもストロングスタイルだから悪口のひとつでも言ってやりたい気にもなる。しかし、役所広司や登場人物たちが通奏低音のようにして反感をおぼえている「いつか終わってしまう」ということへの反感については身に覚えがあることでもあるし、「完全な」ということの意味、「Perfect Day」という曲の意味というかその曲に聞き入るということの意味が、われわれ生活者に共通する反感を表していることでもあるので、大目に見るというわけでもないが、まあ、大目に見てやろうと思った。ちょうど私が、私の過ごす一日のうち、ちょっとしようがない感じの一日についてちょっと大目に見てやっているのと同じように。

日記276

おすすめの通り

2024/01/03 昨日
前日に夜更かしをしたにもかかわらず八時に目が覚めてしまい寝不足状態になる。本州横断の長旅を終えて帰ってきた同居人を駅までお出迎え。帰ってきてお土産交換をする。寝不足状態解消のためきちんと昼寝をする。昼寝を終えてから近所のイベントスペースで餅つきがあるというので出かけていく。ぜんざいにおそろしいほどの行列ができたので早々に諦め、やきそばを買って食べる。
一〇〇円多く払って目玉焼きをつけてもらった

のちに聞いたところではぜんざいは行列が長くなりすぎてラインカットがあったとのこと。自分の意志でわざわざ行列に並ぶんだから自業自得とはいえ新年早々気の毒なことだ。甘くて温かい飲み物の口になったということでスタバのキャラメルほうじ茶ラテを飲みに行こうとするもあえなく売り切れ。井の頭線に乗って永福町で降りてみる。どこかでぜんざいが売っているんじゃないかと考えたが見込みが甘かった。歩いている途中でおそろしいカラオケハウスを見つけたのと駅ビルのカルディでコーヒーの試飲サービスを受けただけで永福町を出る。井の頭公園駅で降りて公園を散歩する。昔住んでいたアパートの前を通って映画館にいく。今年初映画は予定通り『PERFECT DAYS』。映画を見たあと行きつけの中華料理店「龍明楼」に入って晩ご飯を食べる。おいしくて良い気分になった。帰り道に小雨が降っていた。なんとなく風邪のひき始めの雰囲気があったので早めのパブロンを飲んであわててねむる。

2024/01/04 今日
在宅バイト。よく寝て目覚めが良かったので連休明けをそこまで嫌がらずにぬるっとタスクに入れた。ゆるゆるしつつもやることがあるという仕事量のバランスだったのだが、ひとつだけすっかり忘れていたことを思い出して焦った。昼にはオリジン弁当まで歩いて昼食を買いに行く。途中洗濯物をしたりして夕方ちかくまで働いて、そのままデータアナリティクスの勉強をする。定時で上がってスタバにいき、キャラメルほうじ茶ラテを注文する。甘くて美味しい。
いつもドリップコーヒーのショートなので
めずらしい注文


20240102

日記275

青天(15:15)

2024/01/01 昨日
カフェから出て家に帰ったのが十五時すぎ。それから家でテレビを見ていたら突然スマートフォンから地震速報が鳴る。すこしの揺れのあと、長い揺れがしばらく続く。それからテレビは地震と津波に関する情報に切り替わる。NHKがあまりの剣幕で避難を呼びかけるので百歳を越えている祖母が避難したほうがいいのではないかと不安になっている様子だった。海からじゅうぶん遠いからここで大丈夫だと説明する。二時間ほどずっとテレビの情報が流れている状況になる。夕飯時もテレビはすべて地震・津波関連で正月気分が吹き飛んだ。それでも近江牛と鹿児島の牛の焼肉はそれぞれ美味しかった。十八時半になってようやくテレ東系列の「充電させてもらえませんか」という出川出演の旅番組が始まったのでそれを見る。二十三時ごろにねむる。

2024/01/02 今日
八時に起きる。お雑煮をいただく。弟が愛知に戻るので送り出し。その後JR奈良駅方面に散歩。スタバに行ってデータアナリティクスの勉強をして日記を書く。一年の計画や目標について考える時間を作ろうと思っていたが、思考が散漫でトピックにうまく集中できず。スタバにはいろいろな年代の男女連れが入れ替わり立ち替わり隣の席に座っていったが、上の世代は男がシート席、女が椅子席に座っていて、下の世代は女がシート席、男がシート席に座っていた。まあ想像通りではあるが、東京では上の世代でも女がシート席に座る気がする。田舎では特定の世代より上の世代では外出時に男がえらそうにするという文化なんだろう。田舎の文化というのはほとんど形容矛盾に感じられるし、奈良でもそうなっているのは残念だ。と思っていたら両親世代の男女がきて女がシート席に座った。男はややふんぞり返る感じで椅子席に座っているが、それでも比較で好ましく思える。真面目なヤンキー理論のようでそれはそれで不本意だが、贅沢は言っていられない。

20240101

まだまだ「作文はむずかしい」と感じるので二〇二四年は作文能力についての成長をみせたい

覚えている一番最初の作文は小学校六年のときに書いた卒業文集でのものだ。テーマは「学校生活のなかでおぼえていること」だったような気がする。自分の中ではこれというものがあって、そのことについて書き始めたのだがどうもうまくいかなかった。面白いと思った体験と自分の書いた作文とのあいだにものすごい溝があって、なんでこんなことになってしまうのかさっぱりわからなかったが、この作文は失敗だという感覚だけははっきりあった。そのときに味わった挫折は大きく、正直のところ今でもまだ立ち直っていない。そのときにやるべきだったのはおそらく、失敗した作文を初稿として第二稿を書き始めるということだったと思われる。しかし、せっかく書いた作文を一度消して、新しく書き始めるということが自分にはどうしてもできなかった。できるできないというよりはその発想がまるっきりなかった。机の上に座って鉛筆を握り、何かを紙の上に書きつけるだけの労力を払っておきながらそれがまったくの無駄になるというのが許せなかったんだと思う。机に座って何かに取り組んだことで勉強する時間が減ることはあっても増えるなんていうことは当時の自分にはありえないことだった。今でも一度書いた文章を駄目だからと消してしまって新たに書き直すということが不得意だ。書いた文章をべつのやり方でなんとかつなげようとするのは、場合によっては最初から書き直すよりも手間がかかるものだというのは頭ではわかるのだけど、実際にはすぐにその判断をできないことが多い。書き直したほうが早いしラクだとわかっていても、つい、直前にできた文章の延命をはかってしまう。

卒業文集用の作文も、どんな文章だったか思い出せないが、書き出しから失敗していたと思う。作文に書きたかったのは五年生のときの野外活動で山登りをしたときのことだ。普段あまりつるまない、ちがうグループにいるクマみたいな男の子と列の前後になった。下り坂になっている道の途中、喉が渇いた自分はお茶を飲み、飲み終わって水筒をしまおうとしたときに不注意で水筒の蓋を落とした。蓋は丸い形状だったので側溝を転がっていった。あっという間に見えなくなるところまで転がっていき、水筒の蓋を失くした状態でその後の野外活動をやり過ごさないといけなくなる、そんなビジョンが瞬時に頭の中をかけめぐった。しかし、実際に起きたのはべつのことで、前を歩いていたクマのような男の子が予想外の素早さで転がる蓋をさっと拾い上げてくれたのだった。そのときの意外な感じ、蓋が助かった喜びのことなどを六年生の自分は作文に書きたいと思ったのだろう。そのほかに詰め込むべき要素も多かった。その子とはあまり仲良くなかったし、それをきっかけに仲良くなったというわけでもなかった。そんなクラスメイトを作文の中に登場させたいというのは、やっぱり自分のなかで印象に残るさまざまな要素があったからだろう。当時の自分は今よりもずっと神経質で、粗野で粗暴な雰囲気のクマ男とは仲良くなれるチャンスはなかった。それでも蓋を拾い上げてくれるというイベントが起こったときにはそのクラスメイトのべつの側面をみた気がして、そのこともまた嬉しかったのだ。それから水筒の蓋を手渡してくれるときに、小学生らしい得意気な様子のなかにも照れのような表情が浮かぶのを見て、自分やよく遊ぶ友達以外にも意識を持つ存在がいるのだと気づかされたのも、当時の自分にとっては驚きをともなう嬉しい新発見だった。だから自分が書いた作文では、そこに到達することを見込んで急ぎ足だったというのもあるが、書き出しの一文目から野外活動の坂道を歩いている場面だったと記憶している。読んでいる人が自分の思い浮かべているあの場面を思い浮かべられるかどうかということには一切頓着しなかった。そのうえ叙事的かつ主観的な記述で、自分以外には意味が通りづらかったと思う。そしてさらにわるいことには、その記述だけで所定の文章量に達したため、尻切れとんぼにただ「嬉しかったです」という抽象的な感想で作文を締めくくっていた。あとで読み返して、文章を書く経験はもちろん読む経験もほとんどなかった自分でも駄目な文章だというのははっきりわかった。自分で書いた作文を読んだときにすごく恥ずかしかったのを覚えている。

作文するときに意識するべき鉄則はそのときからほとんど変わっていない。急ぎすぎないこと。文章を無理に終わらせようとしないこと。感想にするのがむずかしい感慨や印象的な出来事ほど文章にしたくなる。今になって、宿題や課題ではなくただ作文するというとき、動機の中心には「それを面白いと感じた」というのがある。ただそれにはコンテキストがあるから、ただ中心部分だけをくり抜いてみてもはじまらないことがほとんどだ。映画の感想やお笑い番組の感想については誰もがそれを見ているというのを前提に書けるからいきなり中心部分を取り上げても問題はすくない。どこに掲載する文章なのか、これを読むのは誰なのかというのを考えるならそれだけではだめなのだろうが、今のところ媒体をえらんでそれに合わせて書くというのは考えていない。それでも、感想になっていない感想以前の感想を文章のかたちに置き換えようとするときには、できるだけじっくり腰を据えて書くことが必要だ。どう感じたのかということに対して緻密にアプローチしようとすると次第に中心からずれ始めるということもあるからいたずらに時間をかければいいというのでもないが、慌てたり急いで確定させようとすると間違いが起きやすい。

自分からみた対象の中心部分というのは、直接それを射抜こうとしても言葉足らずな観念で終わってしまうことが多い。すごいとか良かったとか、そういう形で文章を閉じるのは小学生の感想文に多い表現で、そこに実感が籠もっていると読むことも不可能ではないが、それにしてもやはり、どうすごいのかどう良いと思ったのかというのは気になるところではある。その説明のためには、ある程度は自分の置かれているシチュエーション、主観の流れを共有したり、コンテキストのなかに感想を配置する労を惜しまないことが大切なのだろう。それには時間がかかるし、自然にまとまった量の文章になる。しかし文章を書いていると、だんだんあのときと同じで短く済ませたいような気がしてくる。たくさんの要素を一文に詰め込んで、うまくまとまっていないのに無理やりまとめて短くしようと気がつけばしている。

自分が書きたいと思うのは、自分にとって固有の条件の中で起こる面白いことであって、必ずしも普遍的なことではないし、少なくとも通例的な事柄ではないから、とにかく文字量が増えるのは良いことだと考えるようにしている。それでもいつの間にか短い言葉でキュッとまとめようとしてショートカットばかり探している。それは暗号的とは言わないまでも、あるコンテキストを共有しているもの同士の符牒のようなものになりやすい。さらにそこで、実情はどうあれ心情的にはそういう言動をするのは嫌だから、ぎりぎりのところでそうなるのを回避しようとして、ちょっとした発明語を開発して使っていることも多い。だから結局、暗号のような文章ができあがる。まったく解読できないわけではないが、読むものにとって引っ掛かりが多く無用なストレスがかかる文章だろうと思う。そうなったとしても文章としては一応書き上がるので、読む人がどう思おうがそんなのは知るかとは言わないものの、できあがった文章を投稿することでそう言っているも同然のことをしている。

二〇二四年は上記のことをきちんと反省し、日記をつぎのSTEPへとすすめたい。とくに長い文章を書こうと意気込んでいるときにこそ、このことを思い出していきたい。長い文章を書こうとするときには、書く前にまずどれだけの文章量になるかを想定すること。そして「それを短くまとめよう」ではなく、「書く前の想定以上に長くする」というのを鉄則として、自分が今後書く文章についてあらかじめ意識しておきたい。

日記274

au revoir 2023

2023/12/31 昨日
帰宅してから年越しそばを食べてWBC振り返り番組をすこし見る。その後紅白歌合戦をフルでみた。前半は知らない人ばかり、後半は知ってる人が続々というところに自分のいる世代を感じた。エレカシのパフォーマンスが強い。あとはYOASOBIのアイドルの演出が豪華だった。ゆく年くる年を見てすぐねむる。

2024/01/01 今日
九時頃に起き出し、おせちとお雑煮をいただく。その後最寄りの神社で皆揃って初詣をする。せっかくなのでおみくじを引いてみた。その後猿沢池の前まで散歩をして解散。カフェに行く。

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