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牛腸茂雄の写真
ある写真にはそこに写っているもののほかに何かがあるとしか思えないものがある。その写真はあきらかに特別な写真なのだが、なぜそれが特別なのかはわからない。
どの写真であっても、そこにある特別さを感知する機構を写真を見る側が持っていさえすれば、それは特別な写真ということになる。つまり、写真のなかにそれを見るものに特別さを感知させる何かがあれば、それは特別な写真ということだ。
問題はその写真を見たときに特別さを感知させる何かとは一体何なのだろうかということだ。それがあるから、それがあるその写真のことを特別だと感じるのだが、それが何なのかがわからない。わかるのはただそこには何かがあるということだけだ。
たとえば写真に写っている人物にはそれぞれ表情がある。顔の表情と動きの表情だ。それが意味するところを目の当たりに見られるというところに、特別さがあると言ってもいいかもしれない。写真というのは切り取られた瞬間のことだから、かなり限定的にはなるが、それでもその瞬間にかぎっていえば写された人物のことがとてもよくわかる気になるようなある種の写真がある。たとえばおやつを目の前にして今にも泣き出しそうな表情をしている女の子の写真があったとすれば、それを見た人の頭の中には一瞬で物語が構成されるかもしれない。それはある特定のものの見方をする人からすれば高い情報量を持つ写真だといえるだろう。それは物語のある写真、動きのある写真、ということになるはずだ。
物語には方向づけられた一点、そこへと収束していく一点がある。そして動きというのは、どこかへ向かっての動きということになりやすい。必ずしもなりやすいというのではないのかもしれないが、それを目にする他人にはどうしてもそう見えやすい。
物語も、どこかへ向かう動きも、それを目にするものによってそう見られる。そして写真に付けられたキャプションはそれを補助する。物語を見せる写真は優れた写真の一形式だ。動きを見せる写真も同様だ。
ただし、どこか向かう先を持つ動きと、向かう先を持たない動きとがある。そこに感情があるのはあきらかでいて、それが何に向けられた感情なのかは一見してわからないような感情がある。それは現実のものではありえず、それを写真として見るものにしか許されない虚構だ。他人を写真に写すということは、他人を絵具にして絵を描くような行為なのかもしれない。そこでは他人が自分の感情によって何を表現したいのかというのを一旦無視することも十分あり得る。
そもそも牛腸茂雄の写真には写っている当の本人にとってその感情が何を意味するのかわかっていない種類の感情があり、牛腸茂雄はそれを写し取ることを目指していたようにも受け取られる。その感情は向かう先を持たない動きのようなもので、どこに向かうためでもなくふいに出てきた何かなのかもしれない(あるいはそんな漠然としたものではまったくない固有で具体的な感情なのかもしれない)。当然どんな感情であってもそれが感情ではないとすることはできないし、ましてや無いとすることもできない。それがあるというのは何をおいてもあきらかなことだ。ただ、それが何なのかがわからない感情もあるというだけの話で、何なのかがわからないからいっそのこと無いものとするというのにも無理がある。こういうことを思い切って言えるのは、牛腸茂雄のいくつかの写真には「何かがある」としか思えない写真があるからだ。
そして、それはどうも物語に属するものではないように見える。物語を見ることや向かう先を持つ動きを見るというのは虚構を目にするというよりむしろ現実を目にしていると感じられる事柄だ。牛腸茂雄が撮ったものはそこから脱け出す一瞬を掠め取った稀有な写真だと見える。それらは物語未然でありながら、成り立ちにおいてはたしかに感情だ。無感情ではなくその逆で、そこにはあきらかに感情がある。しかも感情の持ち主のことを顧みないことによって却って感情を掬い上げているように見える。果たしてこれはあきらかな誤謬なのだろうか。
ある写真にはそこに写っているもののほかに何かがあるとしか思えないものがある。もしそれが誤りだとすればそもそもの初めから誤りでしかない。それは特別な写真などないというものの見方とイコールで結び付けられる。特別な写真がないということはほとんど特別な何ものもないということで、それはものの見方という観念に値しないことはあきらかだ。
何かがあるとだけ言うことは何も言っていないことに等しい。本当に何かがあるのであればそれは言わずもがなのことだし、本当には何かはないというときにだけ、ある種の虚構として意味が通ることになる。こちらは言うことの意図・内容にそぐわないため、裏の意図というものでもないかぎり言うことによって何も言えていないということになる。
それでも何かがあると思えない対象が自分にはあり、たとえば短歌に対して自分は比較的冷淡なのだが、良い歌について「ああそう」という感想で済ませたり、感想を持つほどしっかりそれを読まない(読めない)ということも十分あり得る。そうするとたとえば短歌について自分は「何かがある」とは感じられない状況にいるということになる。これを敷衍して、写真にはそこに写っているもののほかに何かがある、とは思えない他人の感じ方というのも認めないわけにはいかない。しかしその場合においても、自分が短歌に冷淡だからそこに何かがあると信じられないだけで、もしかするとそこにも自分には感知できない何かがあるのではないかと考えることもできる。しかし自分はそういうことをせずに、ただ、短歌には何もないように感じられるで済ませることにする。それのネガポジを変換させたのが、ある写真には特別な何かがあると「言う」ことだと思うからだ。短歌勢に対して「表面ではなく深層で再会しよう」と言うのは助平心全開なのでやらないでおくが、そう思っていることを隠すつもりもない。
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まだまだ「作文はむずかしい」と感じるので二〇二四年は作文能力についての成長をみせたい
覚えている一番最初の作文は小学校六年のときに書いた卒業文集でのものだ。テーマは「学校生活のなかでおぼえていること」だったような気がする。自分の中ではこれというものがあって、そのことについて書き始めたのだがどうもうまくいかなかった。面白いと思った体験と自分の書いた作文とのあいだにものすごい溝があって、なんでこんなことになってしまうのかさっぱりわからなかったが、この作文は失敗だという感覚だけははっきりあった。そのときに味わった挫折は大きく、正直のところ今でもまだ立ち直っていない。そのときにやるべきだったのはおそらく、失敗した作文を初稿として第二稿を書き始めるということだったと思われる。しかし、せっかく書いた作文を一度消して、新しく書き始めるということが自分にはどうしてもできなかった。できるできないというよりはその発想がまるっきりなかった。机の上に座って鉛筆を握り、何かを紙の上に書きつけるだけの労力を払っておきながらそれがまったくの無駄になるというのが許せなかったんだと思う。机に座って何かに取り組んだことで勉強する時間が減ることはあっても増えるなんていうことは当時の自分にはありえないことだった。今でも一度書いた文章を駄目だからと消してしまって新たに書き直すということが不得意だ。書いた文章をべつのやり方でなんとかつなげようとするのは、場合によっては最初から書き直すよりも手間がかかるものだというのは頭ではわかるのだけど、実際にはすぐにその判断をできないことが多い。書き直したほうが早いしラクだとわかっていても、つい、直前にできた文章の延命をはかってしまう。
卒業文集用の作文も、どんな文章だったか思い出せないが、書き出しから失敗していたと思う。作文に書きたかったのは五年生のときの野外活動で山登りをしたときのことだ。普段あまりつるまない、ちがうグループにいるクマみたいな男の子と列の前後になった。下り坂になっている道の途中、喉が渇いた自分はお茶を飲み、飲み終わって水筒をしまおうとしたときに不注意で水筒の蓋を落とした。蓋は丸い形状だったので側溝を転がっていった。あっという間に見えなくなるところまで転がっていき、水筒の蓋を失くした状態でその後の野外活動をやり過ごさないといけなくなる、そんなビジョンが瞬時に頭の中をかけめぐった。しかし、実際に起きたのはべつのことで、前を歩いていたクマのような男の子が予想外の素早さで転がる蓋をさっと拾い上げてくれたのだった。そのときの意外な感じ、蓋が助かった喜びのことなどを六年生の自分は作文に書きたいと思ったのだろう。そのほかに詰め込むべき要素も多かった。その子とはあまり仲良くなかったし、それをきっかけに仲良くなったというわけでもなかった。そんなクラスメイトを作文の中に登場させたいというのは、やっぱり自分のなかで印象に残るさまざまな要素があったからだろう。当時の自分は今よりもずっと神経質で、粗野で粗暴な雰囲気のクマ男とは仲良くなれるチャンスはなかった。それでも蓋を拾い上げてくれるというイベントが起こったときにはそのクラスメイトのべつの側面をみた気がして、そのこともまた嬉しかったのだ。それから水筒の蓋を手渡してくれるときに、小学生らしい得意気な様子のなかにも照れのような表情が浮かぶのを見て、自分やよく遊ぶ友達以外にも意識を持つ存在がいるのだと気づかされたのも、当時の自分にとっては驚きをともなう嬉しい新発見だった。だから自分が書いた作文では、そこに到達することを見込んで急ぎ足だったというのもあるが、書き出しの一文目から野外活動の坂道を歩いている場面だったと記憶している。読んでいる人が自分の思い浮かべているあの場面を思い浮かべられるかどうかということには一切頓着しなかった。そのうえ叙事的かつ主観的な記述で、自分以外には意味が通りづらかったと思う。そしてさらにわるいことには、その記述だけで所定の文章量に達したため、尻切れとんぼにただ「嬉しかったです」という抽象的な感想で作文を締めくくっていた。あとで読み返して、文章を書く経験はもちろん読む経験もほとんどなかった自分でも駄目な文章だというのははっきりわかった。自分で書いた作文を読んだときにすごく恥ずかしかったのを覚えている。
作文するときに意識するべき鉄則はそのときからほとんど変わっていない。急ぎすぎないこと。文章を無理に終わらせようとしないこと。感想にするのがむずかしい感慨や印象的な出来事ほど文章にしたくなる。今になって、宿題や課題ではなくただ作文するというとき、動機の中心には「それを面白いと感じた」というのがある。ただそれにはコンテキストがあるから、ただ中心部分だけをくり抜いてみてもはじまらないことがほとんどだ。映画の感想やお笑い番組の感想については誰もがそれを見ているというのを前提に書けるからいきなり中心部分を取り上げても問題はすくない。どこに掲載する文章なのか、これを読むのは誰なのかというのを考えるならそれだけではだめなのだろうが、今のところ媒体をえらんでそれに合わせて書くというのは考えていない。それでも、感想になっていない感想以前の感想を文章のかたちに置き換えようとするときには、できるだけじっくり腰を据えて書くことが必要だ。どう感じたのかということに対して緻密にアプローチしようとすると次第に中心からずれ始めるということもあるからいたずらに時間をかければいいというのでもないが、慌てたり急いで確定させようとすると間違いが起きやすい。
自分からみた対象の中心部分というのは、直接それを射抜こうとしても言葉足らずな観念で終わってしまうことが多い。すごいとか良かったとか、そういう形で文章を閉じるのは小学生の感想文に多い表現で、そこに実感が籠もっていると読むことも不可能ではないが、それにしてもやはり、どうすごいのかどう良いと思ったのかというのは気になるところではある。その説明のためには、ある程度は自分の置かれているシチュエーション、主観の流れを共有したり、コンテキストのなかに感想を配置する労を惜しまないことが大切なのだろう。それには時間がかかるし、自然にまとまった量の文章になる。しかし文章を書いていると、だんだんあのときと同じで短く済ませたいような気がしてくる。たくさんの要素を一文に詰め込んで、うまくまとまっていないのに無理やりまとめて短くしようと気がつけばしている。
自分が書きたいと思うのは、自分にとって固有の条件の中で起こる面白いことであって、必ずしも普遍的なことではないし、少なくとも通例的な事柄ではないから、とにかく文字量が増えるのは良いことだと考えるようにしている。それでもいつの間にか短い言葉でキュッとまとめようとしてショートカットばかり探している。それは暗号的とは言わないまでも、あるコンテキストを共有しているもの同士の符牒のようなものになりやすい。さらにそこで、実情はどうあれ心情的にはそういう言動をするのは嫌だから、ぎりぎりのところでそうなるのを回避しようとして、ちょっとした発明語を開発して使っていることも多い。だから結局、暗号のような文章ができあがる。まったく解読できないわけではないが、読むものにとって引っ掛かりが多く無用なストレスがかかる文章だろうと思う。そうなったとしても文章としては一応書き上がるので、読む人がどう思おうがそんなのは知るかとは言わないものの、できあがった文章を投稿することでそう言っているも同然のことをしている。
二〇二四年は上記のことをきちんと反省し、日記をつぎのSTEPへとすすめたい。とくに長い文章を書こうと意気込んでいるときにこそ、このことを思い出していきたい。長い文章を書こうとするときには、書く前にまずどれだけの文章量になるかを想定すること。そして「それを短くまとめよう」ではなく、「書く前の想定以上に長くする」というのを鉄則として、自分が今後書く文章についてあらかじめ意識しておきたい。
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