20240823

ブログ移行のお知らせ

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20240813

日記432

探訪

2024/08/9 四日前
在宅勤務。仕事後に渋谷まで出かける。渋谷キャストで盆踊り。規模の小さいお金のかかった盆踊りという感じでライト層向けだったのだが、DJでっかちゃんの巻き込む力がとくに優れていることを実感した。数々の巻き込むことに失敗した盆踊りと御同様とはなっていなかったのは彼の功績によるところが大きいと思った。ちょうど踊り終わりのタイミングで群衆のスマホから一斉に地震速報が鳴り響き、会場がどよめいた。南海トラフ地震の注意報というのも発令されているようだ。何も起こらなければいいが、というのはいつか起こる以上適切ではなく、ほとんど被害なしで乗り切れればいいがという望みになる。そのための第一歩として緊急時の決め事を決めたり、避難袋などの用意をおろそかにしないことだ。
盆踊り後に池ノ上に移動して旧居跡を見る。今は更地になっていて、友人はこんなに広かったっけ?と漏らしていたが、自分は逆にすごく狭い土地に暮らしていたんだなという気になった。
下北沢の晩杯屋で飲む。いつもどおり好き勝手なことを吹くにしても、下北沢の晩杯屋ではちょっとしっくりくるところがあってしまう。同じ啖呵を切るでも、啖呵壺に向かって啖呵を切るのではなんとなく気勢を削がれるところもあり、目に見えない気炎のサイズはだんだんしぼみ具合になってしまった。
それでもその後外で飲み直すことにしたらだんだん持ち直し、結局、平生のいい加減な論評をを公私を問わず加えあってから解散になった。

2024/08/10 一昨昨日
昼から赤羽に行って、友人の飼い猫のご機嫌を伺いに友人宅を訪う。本当にコミュニケーションとしての発声をよくする猫で、何を言っているのか言葉は明瞭ではないものの、感情の伝達には成功している。よく鳴く猫は、よく吠える犬とはちがって、会いに行く分にはリアクション多めという気がするから良いものだとこの日も思った。
近所の中華で昼飯を食おうという話になっていたが満席だったので仕方なく次善の蕎麦屋にいく。カレー南蛮蕎麦がおいしかった。
その後、久しぶりにUNOで遊び、友人の引越し先の街の話をして、夕涼みができる時間に河川敷まで散歩する。そこで江戸時代の地図が書かれた扇子を拾う。
日が落ちてからせんべろエリアで入れる店を探してみるも、いつものとおりどこも満席で入れず、いつもの文蔵で飲む。歓楽街を無駄にうろつきながらもう一本だけ飲み、赤羽駅前で解散する。

2024/08/11 一昨日
お昼を下北まで食べに行く。外に出るとわけのわからない暑さだったので錯乱して辛いものを食べたくなり、しかし辛いもの関係なくすぱじろうに入る。すぱじろうではちょっと辛そうなメニューを注文。細めのパスタで素麺風だったが、バルボアにだいぶ侵食されており自分は太麺のパスタが好みなのだと感じさせられた。その後待ち時間に少しだけ『戦争と平和』を読み進めて、本屋でニューヨークの旅行ガイドを買う。六ヶ月ぐらいチマチマやっていたGoogleのデータアナリティクスの講座を修了し、データのデータの修了資格を得た。
翌朝(と言っても午前二時だが)から海に向けて出発予定になっていたので十九時には寝る。

2024/08/12 昨日
人生で初、サーフィングにいく。彼女の職場の先輩が同学年なのだが、その人におんぶにだっこで連れて行ってもらった。海に入る前にレクチャーを受けて、ロングボードを持って海に入ったらあとは自分と海の世界という気持ちで臨んだ。
海の上でもレクチャーをしてくれて、さらに最初波に乗る感覚を掴むためにボードを押してくれたり、諸々の準備、行き帰りの車の運転、そういった現実に必要なすべてを整えておいてもらって、あとは自分と海の世界とは虫が良すぎるようだが、それでもそれをやりに行ったというのは間違いないところだと思う。ただ、体力のなさからほんの束の間部分的に達成できたにすぎないし、回していてくれた映像を見返すと、ふらふらとよろめきながら立ち上がるのがやっとという有り様で、全然経験なんかないのになぜか簡単に波に乗れる、という妄想は妄想で終わった。波を感じるということさえできればいいやという安全のために講じておいた二段構えの目標のうち現実的な目標の方は、ボードの上に腹ばいになって波を感じることで達成できた。目が水面のすぐそばにある低い体勢で、こちらに向かってくる波ごしに水平線を”見る”ということが、サーフィングという初めての体験のなかでもっとも心に浸潤するものがあるアクションだった。ボードの上に乗っかるためだけに体力を使って、疲れ切ってどれだけハアハア言っていても、そのときの景色は格別だった。ボードの上に打ち上げられた海藻のようにへたばって、つぎつぎに規則正しく向かってくる波をやりすごしている途中で見た水平線には、それをこちら側に伸ばしていくところに今たまたま”ここ”があるとも感じられ、揺られている身体が水平線の一部になったような感覚さえおぼえた。
疲れていると多くを感じたり考えたりすることができないというのもある。その中で無心に、というか放心して、水平線を見るということができたのは、水平線を見るとき特有の感覚を得るためのコースとして適切なものだったような気がする。そこに一体感があったような気がするというのは、そのときの感覚を思い出そうとしてみてそういう感じだったという記憶の中にあるリーズナブルな説明にすぎないが、帰ってきてくたくたになりながら寝る準備をして、あとは寝るだけと目を瞑ったとき、ついさっき見たように、縦になった水平線が瞼の裏に浮かんだとき、その映像はより確かな実感として残った。疲れからぐっすり眠って朝起きたときにもその映像はまだあった。そしてべつにそれでいいやという感じ方をした。それとは何なのか謎だから「べつにいいや」という感覚が一番近いかもしれない。書いていても何のことなのかわからないし、夢での感じ方に近い。
いや、思い出した。たしか寝る前に、虫や小さなカニの映像が浮かんで、気色悪さが襲ってきたのだったが、それを振り切って寝ようとする直前に、水平線の映像が嫌な映像の後に続いたのだった。それで「べつにそれでいいや」と思って寝て、起きたときにその感覚と映像が残っていたという話だと思う。

20240808

流行語につらくあたってしまう


そしていまとなっては、もうぜったいに、ぜったいに言い直しができないんだわ 

ナターリア・イリーニチナ・ロストワ

『戦争と平和』 


 

街のベンチに座って、通り過ぎていく人たちを見て、なにか面白い、目を引く光景が見られないかと、なかば乞食のようなマインドで往来を眺める習慣がある。
その日は、鶏のように言葉を交わしあう幼い女の子ふたりが目を引いた。ふたりとも母親に手を引かれるのを当然として何の疑いも知らない様子だった。お互いの母親はこれから行き先を違えるため、女の子ふたりはここでバイバイしなければならなかった。すでに二組は五メートルは離れており、その距離は、町中ということもあって、小さな子どもにとっては大声を出さないかぎり相手に自分の声が届かないと承知させられる距離だった。
手前側の女の子がバイバイと叫ぶ。出だしの「バ」こそきちんと叫び声だったのだが、町中ということもあって緊張したのか、それとも、全力の大声を出して相手にそれが届かなかったらどうしようという怯えのような予感からか、語尾(もちろん「イ」のことだ)が消え入りそうになっていた。人はたった四文字を発声するだけで、こんなにも多くのことを伝えられるものかと、それだけで感動しそうになる、とても気持ちの入った「バイバイ」だった。
しかしわるい予感は的中するもので、奥側の女の子は自分の母親との新たなやりとりに集中するあまり、女の子からの感動的な別れのメッセージを聞き逃したようだった。しばらくの沈黙。われわれはこれを一番恐れていた。しかし、奥側のペアのうちひとりはさすが大人という対応で、内部のやりとりのなかでも相手側ペアの様子に気を配れていたおかげで、手前側の小人が出したメッセージを耳の端で聞き取り、おそらく自分の子にむかって合図を出したのだろう。今度は奥側の子が、何のてらいも戸惑いもない、元気いっぱいの「バイバイ」を送った。
奥側の送信したバイバイを受信した手前側の子は両足で地面を蹴り、一瞬のあいだ宙を浮いた。そしてふたたび鶏のように繰り返されるバイバイの応酬。
あのジャンプには、なにか殻を破るとき特有の音があった。心を動かすということが実際に起こるということは、その音を聞くかぎり、自明のことだ。自分にとって意味が深いと思われる音が鳴っていること、それを感じられることが嬉しかった。欣喜雀躍とはまさにこのこと。つい座ったままの姿勢で数センチ浮き上がりそうになった。バイバーイが返ってきたときのジャンプ。あの光景のことを思い出すと、今でも飛べるような気がしてしまう。

映画『リテイク』を見て思うのは、心の動きと映像の動きが連動しているということだ。
心の動きと身体の動きは連動するものだから、人の身体を映す以上、ある程度は当たり前に起こることだといえる。そしてカメラを手に持っている男にも身体があるのだから、その身体を使ってカメラを動かそうとするかぎりにおいて、映像そのものにも心の動きが表れるものだ。ここまではまだ直接的な連動だ。
さらに、撮影された映像を編集するときにもPCと身体を使うのだから、映像の流れ方にも心の動きが反映されることになる、というのはややむずかしい。編集する段になると、心の動きと身体の動きとの直接的な連動より、距離ができるからだ。
しかし、この映画を見ると、実際に心の動きとそれが連動しているように思われる。だからそれはフィクションだということができる。一応注意しておきたいのだが、このフィクションという意味は、作られたものにとって最大の賛辞となるべき意味においてのフィクションということだ。ありのままでは自然に感じられない素材を、見るものに自然に感じさせるというのは、フィクションの領域での卓越があるということを意味する。ドキュメンタリーがフィクションだというのも、そこに思惑の交差があるというのもそうだが、何よりもまず、それが編集によって見やすくなっていること・感じやすくなっていることを指す。これは言うまでもなく、見やすくさせられて、感じやすくさせられているのであって、もしその面での卓越がなければ、見る主体にとってそもそも”見えない”ということになる。すぐれた映像作品というのは、その卓越によって、それが卓越していなければ見ることができなかった事実だったということを忘れさせることができてしまうのだ。そしてそんなことよりも感動が勝つ。それはどんなときにもそうだし、つねにそうあるべきことだ。しかし、事実として、目の前に提示される事実というものは、ある種の卓越があってはじめて目の前まで運ばれてくるものであるということは疑いえない。
事実偏重の考え方ではそもそも見えない事物があり、そのうえ見えない場面を数多く発生させ視野を減退させるというのは、事実として捉えられるべきことだ。事実を見ようとするとき、不可視になる領域というのは明らかにある。もちろんその逆もあるだろうが、事実さえ見ていれば取りこぼしはないというのは、いくつかある明確な誤りのうち、比較的陥りやすい誤りだといえる。
事実かどうかということはさておいて、心の動きを「あるもの」として捉えることは、一般にあることだ。「ある」というのはなにも事実に限定して使用される語彙ではない。
たとえば心の動きがあると感じられるのは、身体の動きと連動する何物かがあると感じられるからだ。スタートはそこだ。そこから、カメラで撮られた映像のほうにもそれがあるように感じられる。登場人物がカメラを持っているからだ。そして、段々と、そのとき目にしている映像そのものにもそれがあるように感じられてくる。心の動きが外に表れるというのは当たり前のことだが、映っている身体を通してだけ表れるのではない。そのプロセスはより外的になりうる。
しかし外側へ出ていくにつれて、心の動きと身体の動きとの直接的な連動より、距離があくことになる。
その距離は事実に近いところから願望に近いところまでの距離ということにもなるのだが、それらのあいだは同じ心の動きとして一気に移動できる。一気に移動できるが、それでも距離はある。移動するには距離が必要だ。距離がある。だからこそ願望の入り込む余地がある。
何かを現実として考えるとき、事実であろうがなかろうが”ただあるもの”を現実の俎上に乗せるとき、それらは諸々の制約を受けることを余儀なくされるわけだが、なかでも時間経過による制約は、一般にそれが不可逆とされることから、目に余るほど大だ。
やり直したい、言い直したいという願望はここを起点に発生する。やり直せないから、言い直すことがもうできないから、それが願望として生じることになるのであって、もしそれが可能であるとするなら、いたずらに願ったり望んだりしていないでただそうすればいいだけのことだ。
不可能としてあることをそれが不可能であるのにもかかわらず願望すること、それらをシンパシーの対象にしてしまうのは、正しい考え方ではない。無駄が多く非合理というよりは、そもそもその意が通る望みがない以上無駄でしかないからだ。それでも、何かしらの願望を目にするとシンパシーは生じる。決してありのままでは叶えられない望みや、現実においては諦めざるを得ない願い、それらに居場所を与えようとする試み全般には励まされる。そういった儚い願望をないものとしないためには、それらに居場所が必要になる。ここ以外にもそういった場所があるのだと感じられることは、やはり慰められることだ。
それが実現するかどうかを度外視した”チャレンジ”にしか励ますことのできない領域というのはある。その幸運な達成が、奇跡として、実際に目に触れることもある。
事実に近いところから願望に近いところまで、距離はあるものの一気に移動できる心の動きを作り出すということは、それらをつなげる通路を作り出すも同然だ。もしそれが実際につながっているとすれば、事実から願望への移動、そしてその逆も可能であるということにならないだろうか。今やそういった願望がここにはある。もちろん、そこにも一方通行や速度制限といった現実的な制約はあるのだろうし、それは必要なものだ。

大学生のたしか一年生のころに、友人と話していて、彼が「w」はひどいということを言い出したことがあった。「w」というのはどういう意味の言葉なのかを説明すると、笑いの頭文字をとって w としており、それを文末に付すことで、書き手がその文章を笑って言っていますよということを示すためのマークのことだ。たとえばインタビューや対談などを書き起こした文章でも(笑)というマークを文末に付すことで、話者が笑いながら話しているというニュアンスを伝えるが、テキストのやり取りをするようになった若者がそれを流用して、(笑)を使いはじめ、()が取れて、 笑 だけになったり、 わら という変換不要の二文字になったりした挙げ句、もっとも簡便な w に落ち着いたというところだ。
大学生の一年というのは、自分に自信が持てないながらも、意固地で思い込みの激しい美意識のようなものを握りしめている時期だから、自分が意識できていないところから、既存の価値や風習になっていると感じられるものを斬る現場を目の当たりにすると、主として驚きから、その刃物の使い手のことを瞠目して見つめてしまうものだ。当時の自分も、テキストのやり取りにおいて何のこだわりもなく「w」を使っていたから、それに対しておもむろに批判めいたことを口にする友人に対して、自分ごと世間の風習のような大きなものを一刀両断にされ、思わず畏敬の念めいたものを抱いてしまうことになった。
その友人とは大学卒業後は一度も会えていないのだが、それでも彼の影響によって、今も w の使用は控えている。また、そこから派生したマークに「草」というものがあるのだが、特定の効果を狙う以外にそれを使うことはない。
友人が自分に与えた影響というのは w 単体の使用をしなくなったことにとどまらない。インターネットの言語空間において浮かんでは消えていく数々の表現に対する根本的な冷淡さを自分の”美意識”の中に埋め込んだ。もちろん、見も知らない人たちがそれらの表現を使ってコミュニケーションをとっている様子を見る分には、自分とは無関係な世界の出来事として看過できるのだが、相対している知人・友人がそれらの語彙を使っていると、具体的な相手を伴う分、どうしても侮りの感情が湧いてきてしまう。しかし、それを受けていちいち「そんな侮蔑的な考え方を相手に向けてはならない」と自己対話をしていると、相手の話の内容がそれ以上入ってこないことになるので、内心での見くびりと、相手の話をきちんと追いかけることとを天秤にかけ、仕方なく、ほんの軽微な侮りを相手に抱くことを自らに許すことにしている。一応言っておくと、これは自分の処理能力の問題なので、性格がわるいなどという話ではない。
それでも気のおけない友人に対しては、それらの流行語の使用に対して、ときには眉をひそめる以上のリアクションをとってしまうこともあるし、まだほとんど会話としたことがない知人未満の人との会話において流行語の使用を認めると、たちまちのうちに、やはりある程度は、「もういいです」という気分が―さざ波のようにではあるが―寄せてくる。
しかし、流行語かどうかの判定は、まったく恣意的なものにほかならず、中には耳心地よく感じられる新生・新登場の言葉もあったりする。だから結局、自分自身にとって以外は適用されることのない”美意識”を定規にしてそれらの計測をしているにすぎないわけで、その当落によって、その単語の使用を(内心で)受け入れたり拒んだりしているだけのことだ。こうやって書いていると、やはりだんだんと明らかになってくるが、はっきり言ってそんなものはどうでもいい。
新たな友人がほしいと思っており、いわゆる”出会い”を求めているのにもかかわらず、こんな些細な部分で自分勝手な検閲をかけていては、その希望がかなえられる望みはうすい。
しかし、いかに些細な部分であろうと、それを無視することは妥協につながる。そしてこれからの時期、妥協を経て得た友人が自分にとって重要なのかという問題は残る。
たとえば、有用な友人というものに価値を置く考え方だとしか思えない言葉に「人脈づくり」がある。これなどはべつに流行語ではないのかもしれないが、嫌いな言葉だ。
言葉にはそれを使用する文脈があらかじめ規定されている部分があり、ある文脈に乗ることはそれが所属する価値観に付き従うことになる。つまり、ある言葉の使用は、それが属する価値観を支持することの表明につながっていく。だから本当のところ、それらはどうでもいいものでは全然なく、むしろ肝心要(かんじんかなめ)の部分だ。しかし、表立って批判めいたことを口にすると、どうしても角が立つから、たんに敵対することを恐れて、表明しようとしないだけの話だ。


クールな友達といると新しい世界が見られるんだ
ジョージ・コスタンザ

『となりのサインフェルド』 


 

20240806

日記431

Lunch Line

2024/08/05 昨日
仕事は打ち合わせメイン。こなすべきタスクよりも優先度が高い打ち合わせなのだが自分にはわからないこと、わかっていても答えられないことを決めていく打ち合わせで、上空で勝手にばちばち戦っているのをぼんやり眺めているだけで終わった。こういう打ち合わせで主導的な立ち位置に立つことを考えると面倒だろうなとは思う反面、上空でやっていることを緊張して見つめるだけというよりはマシなのかもしれないと思ったりもした。しかし、わからないことがあるときに「ちょっとすいません、よくわかっていないのですが」というスキルは不可欠だ。どこのどの案件でもわからないことは絶対に出てくるのだから、あらかじめできるだけ知識を蓄えるということより、無い知識を打ち合わせで簡易に補える方法を学ぶほうが便宜だ。
そんなこんなであっという間に定時になり、疲れてしまったのですぐに帰ってご飯を食べる。友人とここのところ定例になっている通話をして近況を報告し合う。九時にはねむる。

2024/08/06 今日
前日早くねむれたおかげで早朝から目に見えて調子がいい。NY旅行のことで調べ物をする。合法とはいえ合法扱いではないものとそのまま違法とはならないものがあるということを知る。あとはトランジットのホノルル滞在をどうするか。
『戦争と平和』を読む。ピエールがカラターエフのほうを振り向かないようにしたこと、結論を頭に浮かべないようにしたことは、正しいか間違っているかはさておき、正しいことのように自分には思われる。
「もっとも困難な、そして幸福なことは、自分の苦しみの中でこの生命を愛することだ、罪なき苦しみの中で」という教えについてわかるわけではないが、「自分の苦しみ」というのは苦しみの限界ということになるのだろうか。限界が自分を規定する位置まで追い込まれたときに、無理に自分を変えて(自分にとっての自分を壊して)限界を超えようとしないことがもっとも困難だということなのだろうか。見たくないものを見ない、聞きたくないことは聞こえてくるがそれでも見たくないものは見ない、振り返らないという行動が、たとえどれだけ消極的なものに思えても、消極的に行動したくないという内心の焦りに呼応せず、自分の苦しみの中に留まること、留まろうとすることがこの呼びかけに含まれている内容なのだろうか。生きようとすることは、結論を知ろうとしないこと、能うかぎりそこから目を背け続けることなのだと思う。それは自分が考えていることと同じでもあるから、結局は牽強付会に解釈しているだけともとれる。神を信じず、信じようともしないで、ピエールの感じ方が理解できるというのはそもそも無理があることなのかもしれないが、それでもとくにカラターエフに関わる場面での彼の心の動きは理解できる。理解できるとしか言いようがない。

20240805

日記430

上から目線歩道橋

2024/08/04 昨日

ほぼ一日中家で過ごした。ネットフリックスで連続ドラマを最後まで見終える。『地面師たち』、謎の多いドラマだったが、綾野剛演じるキャラクターがどこに向けてかっこつけているのかが一番の謎だった。

昼すぎにカレーを食べに近所の商店街まで出かける。外を歩いた時間はものの7,8分だったが、その短時間でへたばりそうになった。しかし暑いだけあってビールがうまい。

10月に初めてのNY旅行をするのでそのリサーチをした。今回のリサーチではそろそろ宿を決めたいということになった。インターネットを見ているとクイーンズやブルックリンの安宿を奨められることが多い気がするが、同じ安宿でも、ちょっと値が上がったとしても、ぜひマンハッタンにしたい。結局都心に近ければ近いほどどこにでもすぐ行けて便利に決まっているんだから。

行ったことがないのにそのイメージがあるというのは、それだけいろんなフィクションで見て知っていることがたくさんあるのだろうと思ってニューヨークが舞台の作品を列挙してみようとするも、思ったほど多くならなかった。『グレート・ギャツビー』と『ムーンパレス』は鉄板ですぐ思い浮かぶ。あと好きな映画では『脳内ニューヨーク』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』、『スパイダーマン:スパイダーバース』あたり。そこからはもう絞り出さないとでない。

最近読んだ小説では『ブリーディング・エッジ』が20数年前のニューヨークを舞台にしているので読み返してみたら、すぐに「アムステルダム・アベニュー」と「コロンブス・アベニュー」という地名(最初に読んだときにはすっ飛ばしていた)にぶつかることができた。ニューヨーク小説として読み返すことにしようと思う。

20240804

日記429

summered

2024/08/02 一昨日
在宅で仕事を終えた後、ちょっとバスケを見てから代々木公園に盆踊りを踊りに行く。予算的にはそれなりに規模感があるもののどうしようもなくしょぼい残念な盆踊りというのもある。都内で催行される盆踊りの数が多い分、ある程度は仕方のないことだ。ただそういうしょぼい盆踊りにも踊る側としてメリットがないかといえばそんなことはなく、スペースがあるので腕をピンと伸ばしたり、足運びを大胆に、広めのスタンスをとったり長めのストライドで輪の中を移動したりと、自由に踊れる領域が広がるという良さがある。十九時開始、十九時四十分終了というコンパクトなスケジュールだったのでさくっと踊り終えてあとは渋谷で歩き飲みをする。ミヤシタパークのベンチに座って飲むのも夜によっては十分可能(暑さがどこまでおさまっているかによる)で、渋谷の真ん中であるにもかかわらず、道行く人に急いでいる様子はなく、どちらかといえば歩いて回遊できるカフェにいるような感覚で悠然と歩いていて、そういう人たちがたくさん行ったり来たりしているのを見るのは面白い。
なぜかわからないが円山町のホテル街を歩きたいということになったのでそのあたりを巡回することにした。時間帯が早いこともあったのでそこまで賑わっているという感じもなかったが、客になる人たちはちらほらいたし、その数的なバランスもちょうどよかった。ラブホテルと聞いてよだれを垂らすとまではいかないが、ホテル街を歩いていろんな看板をぼんやり見ていると、雑然とした記憶がお祭りのような気分を味あわせてくれる。雑然としつつも無軌道というよりはむしろひとつの軌道があって、それを何度も、雑に重ね書きするようなひとつの印象の束がある。それを引き出しの中から取り出して机の上に出すような気分になった。
それからとくに休憩せずに続けて歩き回り、博多天神ラーメンを食べて帰る。

2024/08/03 昨日
平日一週間で疲れが溜まっているのか、前日そこまで夜更かししたわけでもないのにもかかわらず昼前まで寝こけてしまった。しかし、寝たら寝た分だけ調子は良くなるので、一日良い調子で過ごすことができた。こういう予定は何もないけど最高の一日がどれだけ増やせるか、増やしたうえで記憶のなかにきちんと存在させられるかというのが勝負になってくるということを思った。
正午すぎに昼ご飯調達のためにスーパーまで歩いて出かける。サマーウォーキングという新種のエクストリームスポーツをやるというコンセプトであえて真っ昼間に外出するというねらい。危険な暑さを堪能した。目的地のスーパーと帰ってくる家でそれぞれクーラーが稼働していることから最低限の安全性は担保されている。あらためてエアコンのありがたみを感じることになった。
ネットフリックスで『地面師たち』を見る。OPに山田孝之のナレーションを使うというアイデアは秀逸だ。電気グルーヴが活躍しているのも嬉しい。いわゆる警察頑張れない系のドラマだが、そういう細かいところについてブチブチ指摘したり、可笑しいシーンで爆笑したりと、わいわい喋りながら見るのにうってつけのドラマだ。最初の熊のCGのシーンをもう少し熊のシーンに近づけるようにできなかったのかとか、全部の部屋が薄暗いとか、映像にも口を出したくなる塩梅というのもちょうどいいと感じた。そのあたりやりすぎだと何も言いたくなくなるし、見たくなくなってくるので、バランスがとれていてよかった。
夕方から盆踊りに出かける。会場変更をして中野の盆踊りにする。規模感はもっとも大きいレベルで、まず中野の客動員がすごい。そして踊りスペースと観客スペースとを分けて設営しているのが工夫だと思った。踊りスペースは輪になって踊れる場所で、観客スペースはパフォーマーを見るための場所になっていて、盆踊りあるあるであるところの、決して踊らない踊ろうともしない観客が踊りの輪に近づきすぎ、踊りスペースを圧迫して結果的に踊りの邪魔をするということが起こりにくいようにする工夫がこらされていた。それでもあまりの動員に踊りスペースは手狭を通り越してぎゅうぎゅうに近くなっていたが、なんとかギリギリ踊ることはできた。前後左右に気を使いながら踊るというのは圧迫感があってストレスになりそうでいて、こと盆踊りでは、それさえも抑えつけられたエネルギーの解放につながっていくし、踊り疲れてきた最後の方では、同じ狭い場所で気を使いあった同士という感覚になっているので強固な「一体感」が生まれている。そして、人がやぐらのまわりを回転しながら作り出す渦が、台風のように成長し、同じ場所にいて同じ暑さを感じ、同じ音を聞いて同じ振り付けで踊るというただそれだけのことで生まれた一体感ごと、天にむかって突き上げるようなエネルギーに変換される。そのときの開放感というのはちょっと他にはないものだが、そこまで繋がれる(トランスできる)盆踊りは、年に一回参加できるかできないかぐらい稀で貴重なものだ。
満足感のなか、前日に引き続いてこの日は中野の街を歩き回る。友人がもと住んでいたエリアに行ったり、改修されてきれいになった公園で即席の徒競走をしたり(アキレス腱を切らずに済んだし、競争には勝った)、駅前で飲み終わったものの解散するのが名残惜しそうなグループを眺めたりして、面白味のない会話をする。しかし、自分はもうすでに(この頃になってようやく)気づいているが、会話に面白味が必要だというのは誤解だ。それよりは会話ができるということのほうが重要なことで、もっというと面白味のない会話をできるというのが大切なことだ。会話がスムーズに流れるという快さのほうに、会話の内容よりも重要な要素がある。そもそも、内容を求めたいのであれば本を読めばいいのだし、思ったことを過不足なく伝えたいということであれば文章を書けばいいだけのことだ。
セレンディピティについては、たしかに一部の会話にはそれが多く埋設されているようにも感じられることがある。しかし、それは会話だけに埋まっているものではない。それが起こるのは何も対人関係だけにかぎらないし、生活におけるありとあらゆる機会に見つけ出せるはずのものだ。それにもかかわらず幸運な機会をとくに会話に見出そうとするのは、会話というものに対する買い被りでしかない。そして、その買い被りというのは往々にして会話の快さを(とくに)相手方から多く奪う結果になる。たしかに、会話から相手のアイデアのエッセンスを吸収しようというのは、それ自体不当な考え方というわけではないし、有用なことも多かった。しかし、手を出せばいくらでも乗せてもらえるとばかり「要求するのが当然」という態度は間違っているし、つねに欲する立場で会話に臨むというのは、客を通り越して乞食のすることだ。いわゆる”有意義な会話”を望むのはかまわない。しかしそればかりを望むのは乞食のすること。いや、実際にはもっとひどい。えらそうにふんぞり返り、仏頂面で黙って手を出しながら、何も乗せられないと(もしくは乗せられたものが気に入らないと)こんなのはナンセンスだと怒り、相手に唾を吐くようなことを敢えてする乞食というものを想像してもらうといい。ただの会話にもそれをする意味をつねに求める人間というのはそういう輩だ。こわいですね。自分にはその傾向があるから気をつけないといけない……。

20240802

日記428

交々(こもごも)

2024/08/01 昨日
朝スタバ。出社してリモートでの打ち合わせ。とくに発言の機会はなかったが特別対応ということで神経を使う。昼休みにもスタバ。円城塔『ムーンシャイン』を読み終わる。『ローラのオリジナル』が面白かった。わたしは対象を視るものとしてあるというのはそのとおりだと思った。山崎正和『世阿弥』で義満が「わしは目玉だけになって生きていたいのだ」という場面が自分にとってはずっと印象的だが、その在り方(在ろうとする仕方)に通じるところがある。『ロリータ』のハンバート・ハンバートが持っているような対象に関与したいという欲望を脱色していった先に、視るという欲望が浮き彫りになるんだろう。『ローラのオリジナル』のわたしが義満とちがうのは、視ることで生じる罪というものに意識をおいているところだ。視ることを通して何かを作り出そうとする意識といってもいいかもしれない。何かが作り出されればそれに対する責任も生じるのだろう。社会に対する責任というよりは自分が作り出したものに対して責任を持とうとするのだろうと思うし、それは理解しやすいところだ。そもそも社会に対しては視るを禁じることは簡単だったのだろうから、存在とともに問題をだんだん押し広げていくうちに、果たしてその禁止は正しいものだろうかという疑問につきあたったかたちだと思われる。いずれにせよ文章のかたちにするというところに、すでに真面目さ=読まれることを想定する心の動きがあって、そのバージョンのわたしとわたしのローラだからそっちに引き込まれていくのだろう。視るものだったわたしが視られる側のことを考えることで、不可能な越境を必ずしも良いとは言い切れないかたちで越境したものだと見られる。一方、義満の立場では視線の交換という事自体が起こり得ないため、彼にとっては越境する意味もなければその発想もない。だから制作するということが義満の手によっては行なわれえず、義満の私小説ははじめから不可能な形式だということになる。それでもそんな人物を描くことはある形式においては可能で、そういう人物を目の当たりに見ることはたしかな楽しみとしてある。
卓越した技術が、ルール遵守のもとで実行されたりされなかったりするのは当たり前のことだと思うが、技術とルールを並べて見たとき、明らかに見劣りのする古色蒼然としたルールに、新機軸で目覚ましいものだと感じられる技術のほうが従わせられているという図を読み取ってしまい、そもそもなんでそうしたいんだっけという動機の部分までさかのぼって疑問符がつく結果になることもある。もちろん技術は技術、ルールはルール、倫理は倫理と、別のものをしっかり区別して一緒くたにしないということは、それ自体が大事なルールだと思うが、技術が前提を覆しているかのようにみえるその瞬間にもルールにはしっかり縛られているように見えることに違和感がある。これはその瞬間を見るか、瞬間よりは長いスパンでの状態を見るかによって変わってくることでもあるのだろうから、結局のところ、これも形式のちがいということなのかもしれない。
ルールのピンを外す瞬間を見るか、ルールにピン留めされている状態を見るか、意識の上にルールが登場するときにはいずれかの形をとる。
ルールにピン留めされるということが起こらない長い瞬間を延々と見させられたのが『ロリータ』だった。それはハンバート・ハンバートに前提を覆すという意識などなく、むしろつねに罰則におびえていることで、その状態が前提になる結果、だんだんルールが見えなくなっていくということが起こったからだと思う。これは例外的な局面を見ることの楽しみであるはずなのだが、同時に、どう考えても”よくないこと”である。スケールは違えど、時の権力者が楽しみとしてやることが基本的にろくでもないことであるのと同じことだ。彼らを描写したものについては、今あるルールを無視するかたちでしか見ていられない。しかし、わたしのことは一旦置いておくとして、ルールを無視して好き勝手やるというのは、それらの登場人物を眺めているかぎりはごく当たり前のことのように思われる。わたしにもそういうふうに振る舞って欲しいと思い、自分勝手に振る舞うのことのほうを当然と見做しているなか、それをしませんでしたと言いた気に聞こえるのは、書き手からしたらそれはそれで当たり前のことで、テキストがいつも弁明じみるという法則に正対しただけ、誠実な態度で、真面目、ということになるのかもしれない。
文筆というのは何よりもまず文法に忠実で、文筆業はほとんど法曹の仕事だといっていい。

仕事を定時で上がって表参道のAURALEEまで出かける。先週、欲しかった服が発売即完売の憂き目に遭ったので、後出し在庫はないですかとつい恨みがましい訪問をしてしまった。それにしても、高い洋服なのに欲しさがそれを上回るという、ちょっと自分でもよく理解できない心理状態に置かれている。システムにスイッチを押されている感覚はかろうじて残っているが、それにしても容赦のない押し方で、けたたましく鳴るブザーが目と耳をふさぎ、欲しいのだから良いものにちがいないし、良いものにちがいないのであれば欲しいという考慮ゼロのループに陥っている。
気分を変えて下北沢駅前に座って氷結を飲む。何曲か音楽を聞いてから帰宅。道中キラキラしたものを見つけ拾い上げてみると、なんとチェーンのブレスレットだった。
最近の晩ごはんは千切りキャベツ、豆腐、納豆だけで構成されており、シンプルだが、シンプルゆえの満足感がある。シンプルなことをやっていると感じるとき特有の満足感だ。

20240731

日記427

go-round

2024/07/30 昨日
朝からスタバにいく。日記を書いたり『ムーンシャイン』を読んだり。仕事は途中で外出予定があったので早めに出て中目黒経由で大坂上のDCまでいく。途中もっとゆっくりするつもりが意外とそんなに時間があるわけではなかったので普通にちょっと早めに着く。
仕事が終わったあとLUUPで直帰。家の近くのポートまで一気なので歩行による体温上昇も抑えられいい感じだ。この日はいつもとはちがう経路を選んで帰った。池尻から代沢に抜けるコース。
帰宅後、いつか見ようと思っていたアフターサンを見る。しかし、これは完全に『ロリータ』の影響から、主人公と女児との関係をどうしても疑いながら見なければならず、だいぶ後半になるまでそれが続いたせいもあって映画のエスプリ部分に集中することができなかった。時機を誤った感がある。(ただ『ロリータ』の存在感がこの先完全に無くなることはないだろうから、特定のモチーフや登場人物をトリガーにして結局再生されてしまうような気もする)
娘の人生と自分の人生がトレードオフになると感じてしまうことについては、それ自体が錯誤なのではないかと、知ったような、わかったような、”悟った”ようなことをつい思ってしまうのだが、実際に主人公には「エジンバラに縛られている」という感覚はあるのだろうし、遠くへいきたいという思いにとって娘の存在はこれ以上ない重しになるのだろうから、他人の考え方や感じ方を尊重するべきところなのだろう。娘の側からは父親の事情がわからず、表面に出てくる部分から想像しないといけないという、これ自体は当たり前にどこにでもある主客の認知ギャップに忠実な作りになっているのはこの映画の冷静な部分で、だからこそ面白いと感じるところでもあるのだろうと思う。残された記憶を手がかりに想像を埋めようとし続けることでだんだん見えてくることは多分あって、娘が映像を再生している頃というのは、おそらくもっともナーバスな時期で、記憶そのもののうちからシリアスな部分を取り出してしまうのだろうから、ああいう見え方=aftersunという映画になるのだと考えられる。ただ記憶の全体をシリアスなものにせず、どうにかヘラヘラした部分を残していてほしいと思うのだが、それは過大な要求というものだろうか。「これが俺の動きだ」というその動きを見るかぎりでは、やはりそれも含めて「残りたい」という野望が見える。娘の側でそんなことは全然関係ないと言いたい時期もあれば、関係ないとも言い切れないという時期もあるのだろうと思うと、いくら過大な要求であろうと望みうると感じる以上は望むべきだ。もし「自分の人生を選択する」ということをしているのであれば、そもそも過大な要求などではなく、それは当然の要求だということになる。そして自分ではない”他人”にもそのことがわかるためには、相手にも「自分の人生を選択する」ということをやってもらうしかない。もし要求に過大さがあるとすればそれはそこにある。あくまでも自分の側からは当然なのだが、それが相手に渡ることを予期することで過大になる、ある種の要求。同じ時間を生きられないという不可避のズレ。そういうことを突き詰めていくとシリアスな雰囲気が漂い始める。そしてここに罠があって、そういったシリアスさを排除しようとすると、そこに間違いのもとがある。たとえば、娘の前で涙を流さないという取り決めは、楽しく過ごすために有用なものだからなるべく履行されるのが適当だろう。しかしそれを絶対のルールにする意味はない。シリアスさを呼び込んでいるところがあるとすればそれはむしろこの部分で、これは端的に間違いだ。ともすれば過大にもなってしまうような要求を娘に要求するにあたって、その目的に適わないという意味で間違いだ。
自分の感情面での限界を知っていて、ほろりと涙をこぼすということでは済まないということがあらかじめわかっているとすれば、その場合、やはり入口を封鎖するしかないのだろうから、間違いであるとはいえ仕方なしに選択されたものだといえるかもしれない。
それから、娘からすれば父親でも、実際にはただの三十一歳の男に過ぎず、ただの三十一歳の男だとしても、娘からすれば父親なのだから、こういうふうになるのはある程度仕方ないことなのかもしれない。だから結局、自分にできることを「これが俺の動きだ」とうそぶきながらやっていくだけのことだ。

20240730

日記426

きょう

2024/07/29 昨日
朝タリーズに行ってムーンシャインを読む。日記を書こうと思ったがあまり時間がなかったのでやったことだけパパっと書くことになった。
仕事時間中は小忙しく仕事だけをやる。週末に睡眠時間が遅くなるので月曜日はどうしても眠気が多い。昼寝をするなどして対処する。
定時退勤後、電車の中で本を読んで下北沢のベンチに座って酒を飲む。途中友人と電話で話す。帰宅後キャベツ納豆豆腐という簡易メニューで夕飯を済ませ、翌朝のためにすぐに寝てしまう。

2024/07/30 今日
変な夢の二本立てで眠りが浅かった。というか身体をこわばらせて寝ていたのがわかるほど起きたときに身体ががちがちで、夢のせいでそうなったのか、そうなったからそれに応じた夢を見たのか、因果関係のスタート地点が不明だがとにかく緊張状態の睡眠だった。
二本目の夢は同居している彼女に意地悪なことを言われる夢で、こんな夢を見て彼女に失礼だというぐらいのことを言われた。いや、思い返してみると内容はそうでもなく、ただ自分の能力の低さをなじられただけなのだが、その言い方がよくないものだった。まず彼女がそこまで評価しているとは思えない知り合いと自分とを較べてきて、その時点で「ん?」と思ったが、その人はできているのにお前は全然できていないということを言われた。悔しさを通り越して冷静に自分の欠点にフォーカスできたから結果よかったのだが、そういうとき悪意を持つ意味はないからそこだけが解せないと感じた。どうやって夢が終わったのか覚えていないが、しばらくして次の夢に移って、それから目覚ましが鳴った感じ。
一本目の夢はあまり覚えていない。何かを失くし、それが悲しくて涙が出そうになる夢だった。実際にまぶたのなかで涙が滲んだような気がする。無くなるはずないと思っていたものが無くなったことに気がついて、その脱力感に襲われていた。何が無くなったと思ったのか思い出せないというのがどうにも夢らしく、悲しいところだ。その愚かさを詰ってほしくて二本目に彼女を登場させたのかもしれない。たしかに、二本目の夢を見る前からすでに、失くしたものの記憶がなかったような気がする。そのうえ、二本目の夢と忘れてしまった三本目の夢のぶんだけ、一本目の夢は遠くへ離れていってしまった。じつはVには兄がいたとか、そんなんだったような違うような。横になっているとき足元にあるリビングのほうで何かが起こっている気配があった。

20240729

日記425

小雨決行

2024/07/26 一昨昨日
丸の内での盆踊りでは炭坑節を踊れなかった。盆踊りにはたくさんのバリアントがあって、まだまだ知らない振り付けのパターンやその組み合わせがあることを知った。
盆踊りの興奮そのままに下北沢の飲み屋135酒場に入って飲んでから帰る。そうすると結局、ねむるのが一時過ぎになってしまった。

2024/07/27 一昨日
朝、昨日オーラリーの24AWが発売開始されていることを知る。欲しかったレザーブルゾンは秒で売り切れになったようなのだがオンラインストアではなく実店舗にはまだあるのではないかと儚い望みを持って開店時間の十二時まで過ごす。電話するも昨日時点で全てのサイズが売り切れとのこと。それはそうだろうと予期していたもののやはり残念だった。オーバーサイズのレザーブルゾンであの襟のかたちというのは他で探してもなさそうだし、皮のことは全然わからないがファブリックにこだわりを持つブランドへの信頼感もあって、はじめて手を出すレザー商品の最適解だと思っていたので気持ちだけはスタンバイしていたのだが、発売日の通知をキャッチできず、残念な結果になってしまった。まあ、ルックが良すぎたので仕方がない。この商品についてはコレクションの一枚目もそうだが、おじいさんが着ているルックで完全ノックアウトされた。
昼ご飯を食べるために出かける。あまりにもあまりにもな暑さだったので下北まで歩くのを躊躇し、電車に乗って代々木上原まで出る。駅施設内の飲食店の中からコラボという焼肉屋を選択し、焼肉定食を食べる。焼肉で腹八分目というのは従来の自分の焼肉観には合わないのだが、ランチで焼肉ということも考えるとこういうライトな考え方もありなのかもしれない。
そのまま代々木上原のカフェで過ごそうとしたのだがスタバは満席で入れず、カルディカフェはなんとなく居づらそうな気がしたので結局昼食だけで代々木上原を離れた。
その後表参道のスタバに行って『戦争と平和』を読む。アナリティクスの学習を少しすすめる。青山ブックセンターに行って『ムーンシャイン』を入手する。
大相撲は結びの一番だけ見る。隆の勝が金星で会場を盛り上げていた。勝って座布団直撃というのはなかなかできる経験ではないと思う。
夜からは吉原で開催される音楽イベントにいく。あまり大きくないスペースで観客として場に参加するとき、どこまでお客様でいてどこまで参加者でいればいいのかというバランスをとるのが難しいと感じる。しかし正確に言えば、今までゲストでかつ参加者でいれた試しなどないのだからバランスをとるのが難しいではなく、ゲストとして積極性をもって場に参加するのが難しいというのが実情だ。これは喫茶店の常連になるのが難しい問題=スタバがラクでスタバばっかり使ってしまう問題にも通じている。オープンマインドになれない人間が無理してどこかの常連になろうとするのは店の人間にも迷惑なことだろうからこの利用方法が自分に適している。ただ呼ばれていった小規模なイベントにおいて自分自身の居心地の良さを自分自身で作り上げる術はこの先にも必要なスキルにちがいないので、なんとかして構築していかなければと思う。今のところは「リラックスしている」と自分で自分に言い聞かせてじっとしているというレベル1のやり方ばっかりだ。そもそもイベントは楽しいからそれでもかまわないという考え方もある。ああいう場所ではまず間違いなくお酒を飲めるし。
この日もねむるのが遅くなってしまう。たしか一時前ごろ。

2024/07/28 昨日
一日家で過ごす。優勝決定戦までもつれこむものの、前日土を付けられた相手にしっかり勝っての、照ノ富士一〇度目の優勝を見届けたあと、表参道の盆踊り大会に出かける。善光寺の盆踊り。これまで行った盆踊りのなかでもトップクラスに楽しめる盆踊りだった。めちゃくちゃ汗をかいてかつそれが楽しいということは他にはない。
すぐに帰って寝る準備をととのえ何とか二十二時半にはねむる。

20240726

日記424

スペース・スペース

2024/07/25 昨日
仕事後にデッドプール3を見に行く。面白いんだろうと思っていたが果たして面白かった。敵味方入り乱れてのアクションシーンにはマーブル的既視感がありつつも、台詞回しやデップー的戦闘シーンについてはよくできていると思った。
それでも面白くてかつ言及すべき映画は他にある。自分にとってはこの映画という力は2のほうが大きかったように思う。それでもたった一言のセリフで観客の欲しい涙腺刺激を与えようとするラストのパーティーシーンはさすがライアン・レイノルズだと唸らされた。
デップーを虚無のなかに叩き込む映画がある。それについてはきちんと書かないといけない。リテイクという日本の映画だ。

2024/07/26 今日
朝から眠いなかタリーズに行って沖縄でのことを日記に書く。自分をよく見せようという欲を正しい方向に向けられたらもうすこし変化があるのかもしれない。しかし尻込みしたり弱気になったり、思うように思えないという部分にどうしようもなく自分の痕跡を見出してしまう。もっとシンプルに考えたら良いのに、と最近の自分はよく考えるし、中年男さながら無頓着に口に出しさえする。それは正しいことだと思うが、それでもやっぱりその方向を向いて完全に固定されるということは起こってほしくないことだ。そういう気分でメロウな雰囲気に持っていくというのは論外だとしても、そういうみっともない方向性にも可動域を保持していたい。
仕事後、丸の内盆踊りにでかける。とうとう炭坑節を踊れると思うと楽しみだ。

沖縄行(2024年7月23-24日)



沖縄に行ってきた。旅行ではなく出張で行ったのだが、仕事はほんの三時間ほど突っ立っているだけのことで、やったことのほとんどは移動だった。移動するのは好きだし、何だったらそれも旅の一部だと考えているので、ほとんど旅行といっても良いかもしれない。そのことは行く前からわかっていたので、面倒そうな顔を頑張って作りながら、内心では楽しみにしていた。
沖縄に行くのは中学校の修学旅行ぶりなのでかれこれ二十二年ぶりになる。当時は物心ついていたかどうかもあやしいほどだったが、少なくとも二十二年後にこんなかたちで沖縄を再訪することになるとは、ちらとも考えたこともなかった。物心ついていたかどうかは措くとしても将来のことは一切考えていなかった。二十代の終わりごろまで深く考えないままきて、三十代後半も終わりつつある今も深く考えているかどうかと訊かれたらあやしいものだ。
沖縄に行ったらもっと楽しいはずだと思っていたのだが、そういうことはなく、むしろ一人旅にそれほど積極的な楽しみを見出さない自分を発見した。それでも目的駅の途中で下車してイオンに入ってみたり、夜の国際通りを徘徊して適当な飲み屋を探したりといったいささか定型的なコースを辿るだけ辿って、自分なりに沖縄のローカルを見つけようとしていた。
海にも行った。ゆいレールというモノレールも敷設されていない本島の南端まで行ったのだが、そこの海をちらっとだけ見た。人が歩くためにあると思われる道を抜けて海岸に着くと多数のフナムシがぞろぞろと足元から逃げ出していき、こちらもたまらず、海岸からはすぐに退散した。
退散する前にはヤドカリの喧嘩も見た。それなりに大きな波の音にかき消されないほどの音量で足元からかさこそと音がするので何事かと思って見ると、わけのわからない虫が死にかけているのだと一瞬思ったが、そこで恐慌をきたし逃げ出さずに踏みとどまって見てみると、それははたして二匹のヤドカリだった。片方は立派な貝殻を背負っている。もう一方はどういう事情からかわからないが何も装備していない。丸腰のヤドカリが頑張って宿主を追い出してヤドを手に入れようとしている。宿主はあまり抵抗しようとしないので死んでいるか衰弱しているのかと思ったが、チャレンジャーほど積極的に動いていないだけで、調子がわるいわけではなさそうだった。結局、宿主が挑戦者を気怠そうに邪魔くさそうにあしらった後、向こうの方に歩いていってしまった。自分は小さいけれど真剣な喧嘩をいつのまにか夢中になって見ていたようで、彼らから目を離さないまま歩を移そうとしたとき、貝殻を踏みつけるようなバリッという乾いた音がして、貝殻を踏みつけたような感触を足裏に感じた。とたんに嫌な予感が襲ってきたが、残念ながらその予感は即的中した。さっきのヤドカリよりは小さいが、ウジャウジャ動く小さな子ヤドカリよりは大きい、中ぐらいのヤドカリが足元でぺしゃんこになっているのを見た。たくさんいる小ヤドカリではなく中ヤドカリを踏みつけたのはせっかくそこまで育った分だけもったいないことをしたという損得計算がはたらいた。まだ大人とはいえないまでも、中ヤドカリのサイズにまで大きくなるためには能力と運が必要だったはずで、それらの蓄積が水泡に帰したことをもったいないと感じたのだ。沖縄の海を見ることと中ヤドカリを踏み潰すことを天秤にかけたとき、我が天秤はおごそかに、海岸になど行かなければよかったという考えに傾いた。だからそれ以上海を見る気も失せて、フナムシは気持ち悪いし、そそくさと海岸から離れたのだった。
海岸を離れると休憩するためのベンチを設置しているあずま屋を見つけた。接近している台風の影響で天気は荒れ模様。海近辺に来る前にも何度か通り雨をやり過ごしたのだが、ここでも通り雨に降られそうになった。運良くそこにあったあずま屋のおかげで、ずぶ濡れになることは避けられて、多少水しぶきが袖を濡らすぐらいで済んだ。袖を濡らすと言っても言葉の綾だったり言語表現のたぐいではなく、実際に物理的に袖を濡らしたということだ。中学時代なら知らず、四十もついそこまで近づいている今、さすがにそこまでナイーブではない。
あずま屋一帯には沖縄らしいシーサー付きの民家がぽつぽつあって、ただの道にも猫が寝転がっていたり、そこらじゅうに猫がいた。どうやら猫が多く暮らしているエリアのようだった。民家の庭には形式的に用意しただけのような、ごく低い、おそらく膝までもないコンクリート柵があった。その庭に猫はいた。沖縄で見つけた最初の猫だ。体調がすぐれないのか動きはゆっくりだったが、呼びかけるとこっちに向かってよたよた歩いてくる人懐こいやつで、呼ぶと近づいてくるのが嬉しくて、しばらく呼び続けているとゆっくりした動きのままコンクリート柵のうえに乗っかった。昼間なのに瞳孔は完全に開いていたから、ほとんど視えないのだということに気がついた。ここの猫たちは飼われているのか野良なのかが都会よりずっと曖昧で、それでも餌などはもらっているのだろうから人間と暮らしている猫だということはいえる。視えない猫は、声に近づいてきたことから考えると、他の猫たちからよりも人間から良くされているのだろう。
あまりにも近づいてきてくれるので撫でようかとも思ったが、完全に飼い猫ではなく半野良という風貌につい気持ちが弱くなって、シャツの裾のにおいをちょっと嗅がせて挨拶するだけに留まった。衛生的にあまり良くないのではないかとも思ったからだ。周囲に蛇口もないし、しばらく手を洗うことができない状況で猫に触ることが躊躇われた。
綺麗好きというほどではないが、それなりに衛生観念は高く、こういうちょっと嫌だなと思うところを押してまで何かをするということはできない。そもそも無理に何かをする意味がある状況ではない。しかし、自分の声で呼び寄せた猫がコンクリート柵にまで上ってきてくれたのに、それに応えることができないというのはそれなりに情けない思いのすることだ。猫はかわいいだけで、こちらの思惑など無頓着かつ無関係だということはわかっている。たんに腹が減っていていつものように手渡しで餌をくれるやつが現れたと思っただけのことかもしれない。それでも猫と自分しか周囲にいないあの環境で、尻込みしたまま猫に指一本触れないということがありのまま自分を表しているとしか思えず、情けなかった。今回の沖縄行きではそれ以外とくに何事もなかった。中ヤドカリを踏み潰して、猫をコンクリート柵の上まで呼び寄せて、海を見ただけだ。タイミングよく屋根の下に隠れたから、土砂降りの通り雨が続くなかでも傘を持っていかずに全然濡れなかったが、そんなことはいちいち得意がるようなことでもない。
この先いつになったらまた沖縄を訪れることになるのか、まったく見当もつかない。

20240722

日記423

明暗(逆転)

2024/07/20 一昨日
夕立ちに阻まれて結局盆踊りには参加できず。仕方ないので家で過ごす。アナリティクスの学習をすすめた。プロジェクトXのなでしこ回を見ながらご飯を食べる。ご飯がうまく炊けていておいしかった。なすの丸焼きもピーマンとそぼろもおいしかった。自分にはない発想と能力なのですごいと思う。なでしこがとても良い回だったので一旦テレビを消して余韻に浸る。だけど少ししたらまたテレビをつけて27時間テレビを見始めてしまう。チョコプラと霜降りの感じが気になった。向上委員会はさんまさんの喉の調子がよくなさそうだったので見るのをやめてねむる。

2024/07/21 昨日
海に行くのを決めていた日。下北沢で朝食としてドーナツを食べてから鵠沼海岸に向かう。小一時間で海に行けるのはいい環境だとあらためて感じる。鵠沼海岸の地中海料理の店でポークカツレツを誂える。カツレツといえば”誂える”といいたくなる料理名ナンバーワンなのではないか。
ビーチではビーチスポーツがいくつか開催されており、水辺はサーファー講習会と海水浴場になっていた。水につかって波を感じたり、砂浜に大の字になって寝転んだりというだけで楽しい。十七時過ぎにははやめに切り上げて下北沢に戻る。もうひとつの目当てだった代田納涼祭りに参加する。キッズ多めの盆踊り大会だったが和太鼓の演奏がしっかりしていて盛り上がっていた。
ベランダで線香花火をしようという話だったが疲れたのでその気力がなく、結局NHKでアメリカ大統領選の行方についての特番を見てねむる。

20240720

日記422

狭き通路

2024/07/19 昨日
大手町に出勤。朝スタバをすると大手町勤務人がひっきりなしにやってきて皆テイクアウトでコーヒーを自オフィスに持っていくようだった。
作業立ち合いのためにケーブルピット室に入る。地下でもあり狭くて陰気なスペースだった。こういう場所に閉じ込められて助けが来ない状況には陥りたくないものだと思った。
定時過ぎに大手町をあとにする。大手町からだと代々木上原方面への電車は予想通り座ることができた。結び前の一番と結びの一番を見られる。照ノ富士は六日目も完勝で調子が良さそうだった。
下北で飲んでから帰宅する。彼女の会社でプロフィール写真を撮る日だったらしく、スタジオでプロのカメラマンに何百枚と写真を撮ってもらっていて羨ましいかぎり。なんでもヘアメイクも付いていたらしい。見せてもらったどの写真もよかった。
普段からすれば寝る時間大幅に遅くなった。

2024/07/20 今日
昼頃に電車に乗って下北スタバに行く。外は暑すぎて冗談かと思うぐらい。『ロリータ』を読む。一気に最後まで読みたいと思ったがぎりぎり集中力が続かない。かなり面白いし読ませるのだけど集中が持続しないのは明らかにこちらの問題だ。テニスをプレーするときの優雅さのくだりはイメージが浮かぶようでとくに素晴らしい描写だと思った。
今日はこの後大相撲を見てから中野まで盆踊りを踊りにいく予定。

20240719

日記421

ストリートビルダー

2024/07/18 昨日
朝スタバの前に洗濯機を回し、出勤後もある程度勤勉に働く。昼からは在宅勤務に切り替えて大相撲を見ながらアナリティクスの学習を進める。定時退勤後はセブンイレブンで最低限食事分だけ買い込み(酒を買わず)、食後には家サウナで汗を流し、録り貯めしている映像の世紀バタフライエフェクトのノルマンディー上陸作戦回を見る。巨悪に立ち向かうため決死の覚悟で戦場に向かう連合国軍兵士、というやや扇状的な語りが気になったが、作戦における兵士の死傷者数1万人ほどに対してフランス民間人の死者4万5000人という事実を提示し、当時の戦場経験者からのメッセージで締めくくるというところでバランスをとっていた。
翌朝も早いのでそれに備えて九時すぎにはねむる。

2024/07/19 今日
朝から大手町で仕事があるのでそれにあわせて大手町のスタバにくる。早起きのリズムに慣れたせいか寝覚めばっちりでこれだけ調子がいいのは久しぶりだというぐらい調子がいい。

20240718

日記420

駅前の街路樹

2024/07/17 昨日
朝スタバ。眠さは眠いが行きの電車のラクさ快適さはモチベーションになる。何と言っても余裕で座れるところが良い。ここ最近はスランプと言うか、自分のやっていることのいい加減さに気づくフェーズに入っている。たとえばこの日記にしても意気込まずに書くということを心がけていて、だから続いているという側面はあるのだが、同じようなスタンスで小説を書こうとするのは全然うまくいかない。もともとこれは気晴らしのために始めたようなところがあり、気晴らしで満足している状態がそれなりに続き、そろそろと小説の方に戻ろうとしたところ筋力の衰えに気づいて驚いたというところだ。問題はそろそろと書いていた小説もこの日記と同じぐらいの気軽さで書いていたので一年弱経った今でも使えると感じられるところは全然ないということだ。
一年間何をやっていたのかと思うと気が重いが、実際制作に関することはろくすっぽ何もやっていないに等しいし、ちょっとだけあった進捗にしても、それが今の自分に気に入らないというのは嫌気の差すことではあるのだが、自分の書くものについて客観視したうえで足りないものがあると判断しているわけで、前進と言って言えないことはない。
ある程度の分量の文章を書くにあたり必要な「文章を掴んでいる能力」として、重要なもののひとつに記憶力があるが、それの衰えが顕著で困ってしまう。しかし自分の能力の衰えというのは認識しづらいもので、最近突然そうなったというのではなく同じような状況はある程度続いていたのだが、そうなっていることに全然気づかなかった。ある程度の期間続いていたといってそれがどの程度なのか、今思い出そうとしてしばらくじっとしてみるも思い出せそうな端緒すらつかめない。というより、振り返ろうとして振り向いても後ろの道が暗くてほとんど何も見えないような状態になっている。昨日のこと、一昨日のことはかろうじて思い出せるのだが十日前となると絶望的で、たった十日前なのに、まるでそんな日など最初から存在していなかったかのように感じられる。考えることではなく感じることを優先することもあれば、考えることのほうを優先することもあるが、過去のことに関して言えば考えることを優先させておかないと、そもそも気分として良かった/悪かった気がするぐらいのものでしかなくなくなってしまう。それでたくさんだという”今人間”化もひとつの方針だろうが、何かを書こうとするにあたりその方針はうまく機能しないことはたしかだ。
この日記の文章についても気分が向くままに書き進めていて、それがある程度の長さに達すると、書き始めに考えていたことからズレてくる。それはまあ当然のことなのだが、問題はズレたことに気づかないこと、ズレる前の考えを保持しておけないことにある。だいたいこういう感じのことを思っているからと気分で書いているだけのことは、読み手にとって云々という見え方の問題以前に、書き手にとっても書き散らかすという癖になってあまり良くないのかもしれない。これからはもっと意識して文章を書くという当たり前のことをやらなければならない。昔、いわゆる考えすぎて書けないという時期があったのはおそらく間違いないとは思うが、今はそうではない。今は昔とはべつの問題があるのだから昔のやり方に引きずられず、それに対処するやり方を採用していかないと駄目だ。
具体的には読書の精度を上げることだ。スピードを意識して流し読みするようになり、それはそれで大づかみに把握する分にはやり方として有用だったと思うが、じっくり腰を据えて読むということをしないと落ちていく読書能力がある。読まないと一気に下がる筋力というものがあると思うが、自分の場合は読みながらぐんぐん落ちていった。なまじ読んではいるから、落ちているという感覚がなんとなくあったとしても、心情的にそれをインサイトにしづらいし、頭の中で完結する能力についてはいくらでも甘いことを考えていられるということに本質的に安んじるタイプだから、自分の中の老教師を呼び起こして、彼にも糖分がいくように回路を作らなければならない、もとい、ならんじゃろう。うむ、そうせねばなるまいて。

20240717

日記419

島々

2024/07/16 昨日
なんとか早起きしてなんとかスターバックスに行く。あまり芳しくない成果しか得られず。行けばなんとかなるというものではないのでまあ仕方ない。
定時三十分前に退勤してNTL『ザ・モーティヴ&ザ・キュー』を見にいく。芝居とシェイクスピアの面白さを実感するような演劇だった。これも仕方ないことなのかもしれないが英語で発声されるセリフの響きと翻訳日本語で発声されるセリフの響きが全然同じものにならず、前者と後者が演劇としてまったくべつの受容になってしまう。たとえば鋭利な切り口としてスパッと言い切りたいとき、英語で完璧にしっくりくる場面があるとすれば別言語では不完全な表現として立ち表れざるを得ない。芸が込んでくると微妙なかたちの違いが重要さを増してくるものだから、この差に目をつぶるのが難しくなっていく。
誰かが喋るとき他の人はそれを聞く、キューが出たらべつの人が話し始めるという演劇特有の会話について不自然だと思う感性が自分にはないのでそもそも気にならないのだが、この作品はそういった旧式の演劇を舞台に活躍する演劇人を登場人物にしている演劇だから、会話の自然さというものについて鋭敏な感性を持っている人でもそれを一時棚上げできるのではないかと思った。
あとはハムレットを演じるに足る人物(バートン)がハムレットを演じているのも面白かった。バートンを演じている役者は、演劇舞台に挑戦する人気映画俳優が演じるハムレットを演じるわけで、この華の持たされ方はなかなかのものだったとはずだが、立派に務めていてすごいと思った。それにくらべるとギールグッド役のほうはつねに同じ方向を向いていて切り替えがない分単純だといえる。しかしハムレットを演出する演出家としての説得力を持たせるのは並大抵のことではない。稽古場の演出を演じるというのは動ける範囲が少ないのに自由に動けと命令されるようなものでやってられないことだろう。
良いシーンはいくつもあったが、「最初と最後だけ譲ってあいだを全部取れ」という演出が役者に送るアドバイスではなく、役者が役者にするアドバイスが最後のメッセージになっていたのもよかった。
”自分の演じるハムレット”を演じるために、「セリフの言い方について指示を出すな」というのはまっとうな意見だと思うし、アドバイスを求めながらも自分で自分のハムレットを作り上げようとしているバートンは、つねに好感が持てる役者だった。周囲の役者たちもバートンに協調するのではなく、どちらかといえば反発したり、彼の意図を理解せず邪魔になったり、『ハムレット』のような構図のなかに彼を置いたのもよかった。
この演劇はアンチクライマックスとして作られたものではないと思うが、結果的にアンチクライマックスになっている。クライマックスに有名なセリフを配置して、観客を満足させようとしつつ、実際に重要なシーンは中頃に置いている。ポローニアスを刺し殺すシーンの稽古での、バートンが自分の解釈で演出のギールグッドを説得する場面がそれだ。過去に見た演劇についてのバートンの話は「事実とは異なる」といって恥を浴びせてきたギールグッドに対して、それはそうかもしれないと自分の恥となるミスを認めながら重要な部分は譲らないシーンで、バートンは彼のハムレットについて「彼はジェントルマンなんだ」という。だからポローニアスを殺すつもりはなかったと続く、合理性に欠く主張なのだが、その合理性の欠如こそがバートンの達成になっている。
それというのも演劇というのは合理性のなかにあるものではないからだ。これは当然のことだが、忘れられやすいことでもある。ギールグッドはバートンの話を事実誤認だと指摘することで彼の意図を挫こうとした。これだけでもそのやり口からして間違っていると指摘することができるが、さらに間違っているのは、バートンの話は舞台の上で行われたことについての話であり、それに対して「事実はこうだ」と言って攻撃しようとしたところだ。一方が彼の解釈を提示してきたときに、もう一方が事実を述べるというのでは話にならない。それはあなたの感想ですよねという現実世界において有効とみなされる言いくるめは、こと演劇の舞台上では役に立たない。それはただの事実ですよねというような相手に解釈を表現させるための言い方が有効なものなのかはわからないが、演劇において重要なのはどう思ったかということにすぎないのだ。だから演劇には価値があるのだといえる。事実がどうであるかということから免責されてしか考えられない事柄というのはあるし、人間の思考力の限界からすべてを考えに入れるということが不可能である以上、事実とは無関係の砂場を構築する必要はつねにある。その砂場で、それはお団子ではなく土塊だと事実を指摘するのは、端的にいって誤りである。
おそらくギールグッドはそれを承知の上で、稽古場の権力闘争での主導権を握るためにあえて無理な攻撃をしているのだと思われる。実際、バートンの主張に対してはじめは異を唱えるものの、最終的には彼のハムレットはそうなのかもしれないと同調している。このシーン以外も、ふたりはつねにハムレットをめぐる対立のなかにある。最終的にそれらは合意ともみえる大団円を迎えることになるが、面白いのは合意そのものではなくそれに至ろうとする対決のほうだ。この対立ないし対決は、お互いが相手の妥協をその基本軸に据えており、それがそのまま見応えにつながっている。一方が選ばれるとき、他方は選ばれないという当然の事実を隠蔽するかたちでこの作品は幕を閉じる。それも演劇には可能な形式であり、有効な手段であるといえる。

20240716

日記418

雨宿

2024/07/13 一昨昨日
午前中にスタバに行く。昼食にバビシャーでチーズナンを食べてからすこし家でゆっくりして、代々木公園まで盆踊りに出かける。MC含め商業臭のするイベントではあったが盆踊りそのものには満足した。これまで渋谷系の野宮真貴を男性だと勘違いしていたということに気づいた。盆踊りのあと渋谷を巡回してから帰る。締めのラーメンはキャッシュの持ち合わせがなく断念。ダイエットにもなるのでよかったということにする。

2024/07/14 一昨日
やはり午前中にスタバに行く。昼頃集合して自宅でボードゲームをして遊ぶ。彼女と友人の三人でテキサスホールデム、クラスクをやって遊び、もうひとりが合流してからは散歩、カタン、ワードウルフ、アズール、神経衰弱で遊ぶ。夜二十三時過ぎまでのフルコースだった。
散歩の途中で氷結を飲もうとしたところ、こちらの不注意から不快な思いをさせる一幕があった。ただしこちらが飲んでいるのは氷結無糖だったので不買運動の対象にはならないということをあとから確認した。その商品を売っている企業の商品すべてを買い控えるという主張なのであればそれでも駄目なわけだが、そういったボイコットについてどこまで付き合うようにするかというのはこちらが決めることだ。たとえば自分の場合、スターバックスが悪だと言われても、そうですかではこれから行きませんとはならない。
あと散歩から引き上げて家に帰ろうとする途中で柄本佑と安藤サクラを見た。柄本はイメージよりも背が高くシュッとしていて安藤は思っていたより小柄だった。一瞬のすれ違いでなおかつ驚いてしまったのでオーラを感じたというような曖昧な印象しか持てなかったが、思い返してみても、とくに柄本佑は何事にも動揺しなさそうで胆力を感じさせる、悠揚とした歩き方をしていたような気がする。安藤サクラのほうはそれよりも自然で、オフモードという感じに見えた。
ゲームはだいたい1位か2位になって調子が良かった。ただ神経衰弱で本当に驚くほどさっきめくったカードが思い出せず、神経が衰弱しているのを感じた。昔神経衰弱をやっているときにはカードが何かをとくに覚えていようと意識することもなく覚えていて、造作なく連続で裏返していたものだが、それからすると悲惨な状態に陥っているということが自覚された。アルコールを採っていたこと、おしゃべりしながら遊んでいたこと、普段寝る時間からすると夜遅い時間帯だったこと、これらすべてを条件に含めても、壊滅的な記憶力のなさだった。感覚的には、表になっているカードを裏返してべつの場所に目を向けた瞬間、絵柄と数字が見えなくなるという感じだった。

2024/07/15 昨日
午前中スタバに行かず。十二時に散髪を予約したのでそれにあわせて出かける。その後、芝公園で台湾屋台フェスがある、関家具にみたいソファがあるというので浜松町まで出かける。原宿で染髪トリートメントをしていた同居人と渋谷駅山手線車内合流。浜松町駅からLUUPでプリンスホテルまで乗りつける。
台湾屋台フェスは五百円の入場料を取るというところから嫌な予感がしていたが、実際オペレーションが回っておらず、イベント主催団体をチェックしておいて今後そのイベントには行かないようにしようと考えたレベルだった。屋台の行列と行列の消化速度の遅さ、売り切れ商品があるのに売切れ表示をせず長時間行列に並ばせた挙げ句売り切れですと通知するなど、杜撰な管理というしかない。スタッフも暑い中ひっきりなしに料理を提供していて大変だったと思う。明らかにスタッフの数が足りておらず、それが行列の消化速度にも出ていた。
関家具はさすがに家具屋本社だけあってディスプレイの洗練や居心地のよさなどレベルが高かった。
屋台で食べ損ねた豆乳スープ(と台湾まぜそばと豆花)を台湾カフェで食べたあと、大門から大江戸線で新宿に移動する。南口の広場で大相撲を見たあと、眠気がマックスとのことだったのでそのまま帰る。三ヶ月後に控えたNY旅行の準備として、NYについてすこしだけ学んでからねむる。

20240712

日記417

渋谷ヒカリエ

2024/07/11 昨日
午前在宅勤務だった。朝始業前にセブンのコーヒーを買いに行き、朝スタバ代わりにする。
午前中は止まっていたアナリティクスの学習を再開することにして、内容を忘れていたために再テスト再テストになりながらも5章を終わらせる。
昼から仕事のために出社。チームメンバーや関係者とコミュニケーションをとる。
帰り道に最近新規オープンしたという渋谷アクシュに立ち寄る。建物内の動線が面白いし、渋谷のなかでも外れの方に位置しているので知ってる人だけが使えるといういい感じのスペースになりそうで期待できると思った。帰宅してキャベツ豆腐納豆というわびしい食事をとる。
映像の世紀バタフライエフェクト東京裁判回を見る。被告人のなかで広田弘毅がとくに印象的だった。法廷では最後まで沈黙を貫き、最後の退廷場面で息子に視線をやってから娘二人のほうを確認してから目礼するところでは映像の雄弁さとでもいうようなものがほとばしり出ていた。二人をしっかり確認してから目礼するまでの一連の動きと”間”が覚悟の深さを感じさせる。
早起きするという習慣のためであれば夕食の消費を抑え酒も飲まないということが自然にできて都合がいい。二十一時には寝る準備を済ませていたのだが、いらない動画を見たせいでねむるのが二十二時すぎになる。

2024/07/12 今日
五時半起床。虎ノ門スタバに行く。前々日に書いた文章を直したり補足したりする。朝のこの時間には進捗と手応えがあり、これから期待できる。このペースを守って生活したい。日記を書く時間も少なくなったのであわててこれを書いてこれから出社。よくわからないレクチャーが朝から設定されているが、この金曜日を終わらせれば三連休だ。
レクチャーしてくれたのは定年後再雇用のおじさんだった。電話の声から若々しさを感じていた通り、おじいさんではなくおじさんという風情で、楽しそうに働いている組だった。当然話は合わないのだけど自分がどういう人間かというシグナリングをきちんと発しておられるので扱いやすさがあってそれはよかった。持ち手がどこにあるかわかりやすいマグカップのようなもので、道具としての有用さを感じさせる。まあ仕事なんてそのぐらいの有用さで事足りるものだからエンジニア系のサラリーマンとして立派なモデルケースなんだと思う。話が長くなってお昼時間に食い込んだのには閉口したが食い込んだ分はこっちで勝手に引き伸ばすだけだから問題あるようでいて実際には問題なし。
急ぎの仕事、急ぎではないがやっておいたほうが週明け楽になる仕事をいくつかこなして定時で退勤。ある程度勝手がわかっていれば仕事そのものは簡単なお使いみたいな内容だから、やり甲斐なんていうと心許ないものの、タスク消化ゲームの趣きがあってそれなりに楽しさは感じられる。慣れていくに従ってもっと頭を使わなくてもよくなるのだろうし、負担が少ないという意味ではちょうどいい仕事だ。
下北のスタバにきて日記の続きを書いたり『戦争と平和』を読む。人民裁判。民衆の暴動。既視感がある。

20240710

日記416

時代がくる、時代がいく

2024/07/09 昨日
早起き初日。あまり何も調べずに移動していったら7時半頃に虎ノ門HBTのスタバについた。ここの環境はわるくなかったが7時オープンなので朝がっつりという要件を満たさない。
それでも朝に活動することはどう考えても良いものだ。3,4年前の九段下出勤時代にも早起きして早めに通勤電車を終わらせて勤務地近くのスタバで過ごす習慣を身に着けていた。コロナのごたごた(おもに在宅勤務)でその習慣もすっかり廃れてしまっていたのだが、毎日出勤するようになった今こそ早寝早起き習慣復活のときだ。
慣れない睡眠リズムだったせいか昼過ぎの研修中に眠気が襲ってきた。ちょっとだけうつらうつらしたが、仕事のリモート研修なんてうつらうつらしながら聞くぐらいでちょうどいい。
30分間だけ残業になったがその後はまっすぐ帰る。キムチ入りカップ麺と千切りキャベツというつましい夕食を食べてすぐに寝る準備をしてねむってしまう。

2024/07/10 今日
昨日とは変わってすこしだけ調べてから朝スタバにくる。虎ノ門駅前のスタバが6時半オープンという気概を見せているのでそこに6時45分ごろに入る。思っていた以上に人がいるが、考えてみればこの辺で働く人が朝活をしようとすれば一帯でもっとも早くオープンするスタバに集まるというのは当然のことだし、それを思えばむしろ満席ではないのが不思議なぐらいだ。とはいえほとんど満席に近いが。
「小説の主人公は日記を書かない」というテーマですこしだけ文章を書いた。いわゆる「語り手をどうするか」問題。
『戦争と平和』を読んでいるがここ二日で読むペースが上がっている。佳境というのもあるかもしれないが、実感としてあるのは、実際に戦闘場面になるとある程度流して読んでしまう自分の性質のせいだ。発散する部分だけでなく収束する部分を書いているのはすごいと思うが、やはり自分としては発散する部分のほうに興味がある。

20240708

日記415

炎天

2024/07/07 昨日
久しぶりにミスタードーナツに入った。その後下北沢の古着屋をいくつか回ってから新宿に行く。「over the moon」と書かれたキャップを購入。わけのわからない言葉だと思っていたら英語で大喜びしている状態を表わす表現なのだという。そうなんだと思うがそれでもわけがわからないことには変わりがない。肉を食べたくなったので高円寺の肉一に予約の電話を入れたが満席とのことで肉焼きを断念。代わりに蒸籠で豚肉を蒸してもらうことにする。同居人に料理してもらっているあいだに前日考案した家サウナを楽しむ。室温の高さとミストシャワーを使った本格的な低温サウナ。ケンドリック・ラマーの音楽をかけて踊りながら楽しんだ。風呂上がり、PSBとともに頂いた蒸し野菜と蒸し豚はとてもおいしかった。二十三時半すぎにねむる。

2024/07/08 今日
トイレが溢れる嫌な夢を見て目が覚める。その前にももうすこしまともな旅行の夢を見たはずなのだがトイレがなんとか流れたのと同時に忘却の排水溝へと流れていってしまった。
仕事は忙しいがゆっくりする時間を短時間だが持てた。もしかすると再来週出張になるかもしれない。定時で上がってスタバに行く。友人と電話で話す。いろいろ話をしたが最終的によくわからない話(1円拾ったの意味について)をして終わった。

20240706

日記414

花屋の店先に並んだいろんな花

2024/07/05 昨日
暑さに対する涼しさという観点では出社した先のオフィスは天国のようなものだ。そこへ向かう道すがらがやや苦しいのと、そこにいる目的が仕事をすることというのが疵だが、それさえ忘れてしまえれば苦でもなくむしろラクだといえる。そして仕事が忙しいとそういった不都合を忘れさせる効果がある。オフィスは活気に溢れていて皆心なしか晴れ晴れとした表情をしているようにみえる。自分はそうは見えまいと、機嫌悪くないように見せる社交場の礼儀の奥に若干の苦しげな表情を忍ばせようとするのだが、これはこれでやや芝居じみたカタチだなと思う。まあ、そもそも自分のことなど誰も見ていないのだが。
昼休みにケンドリック・ラマーの『Not Like Us』のMVが上がっていたので見る。とにかくかっこいい。かっこいいということをいくら言っても言い足りない気にさせられる。ケンドリック・ラマーと思われる人物の伏し目がちの表情はとくにセクシーだし、映像がこの上なく詩的で、音楽と一体となりながらもそれとは独立して盛り上げてくる感じがある。俯瞰して要約するとTheyとUsを分けて自分方に付かせようとする全体の動きでしかないのだが、それにもかかわらず心酔させようとしてくる力がすごい。映像が意味ありげであることを否定せずむしろ意味ありげであることを突き詰めていて、詩として構築されていく様子には感動をおぼえる。快い映像と快い編集のリズム。それらをすべてありのままに目撃できるという事実に高揚する。囲い込まれたいというみっともない欲望と向き合わざるを得ない。しかし、だからこそ、ここから抜け出してやるという思いを意識できるし、引力の強さから自然と、自分の中にある反発する力に目を向けることができる。簡単に言うとかっこよすぎてムッとするということが起こった。具体的にはあの伏し目がちの表情、番号を無視した独自のステップ。見せつけられた。
定時退勤。ポーカーで遊ぶことを思い立って目黒のエムホールデムにいく。ここではいまだ負け知らず。ゲームセンターのメダルゲーム感覚の人が多いので、このレベルのリングゲームでは負けないやり方をすれば負けない。調子に乗らなければ。ただ遊びに行っておきながら調子に乗らないように自制しておもちゃのチップの枚数を増やして何が楽しいのかという考え方は見えている。ディーラーの技やチップの感触を楽しみにいくのがアミューズメントカジノの醍醐味だからそれらを意識して楽しむことにしている。
下北のニカイノサカバという初めての居酒屋にいく。料理はどれも悪くなさそうだった。この日はスタバに行かず。そのためろくすっぽ本を読まなかった。通退勤でkindleを開いたぐらい。

2024/07/06 今日
九時頃に起きる。海に行くか行かないかという話が流れて飲みに行くことになる。ヒストリエの十巻を読んで海づいていたのに残念だ。ひとりでも海に行ったろうかなと思ったが結局スタバに行くことにした。日記を書いたり本を読んだり。
その後一旦帰宅する。あえてクーラーをつけずにサウナのような環境をつくって汗をかいてから冷水のシャワーを浴びる。サウナ中にはケンドリック・ラマーのMVを見返す。これがなかなか整って良かった。その後クーラーを付けてうたた寝をしているとものすごい夕立ちになって目が覚める。豪雨の影響で飲みも中止になる。中止決定後、雨はきれいに上がって、スタバに出かける頃には、金盥をひっくり返しまくった壮大な打ち水のあと、という感じで涼しくなっていた。スタバでロリータを読む。ようやくロリータの声が聞こえるようになってきたところで第二章に突入。読む前と読んだあとの印象が全然変わってしまう文章ということを野田秀樹が正三角関係のフライヤーに書きつけていたが、ナボコフの『ロリータ』はまさにそれが起こる小説で、それを起こすための小説だとさえ言えそうだ。まだ第一章を読み終わっただけなのだが。

20240704

日記413

文殊超えもわけない

2024/07/03 昨日
スタバを出たあとベンチに座って氷結を飲む。夜も二十一時を回ると暑さが去って、動いていなければ汗をかかないで済む。ベートーベン(バレンボイム)の悲愴を聞きながら道行く人を見る。駅前広場はちょうどよい広さで行き交う人たちの方向が揃わない環境になるので流れとして見ていても楽しい。おしゃれな人は無論多い。
同居人が下北沢に帰着したので一緒に歩いて帰宅。全然飲んでない(本人談)のに顔面蒼白で具合わるそうだった。帰宅してから仕事の話を聞く。「それは言い訳」を連呼してあまり良い聞き手ではなかったと思うが明らかに言い訳じみた言い分が多かったので仕方ない。
翌日はAM在宅勤務のためゆっくり寝られることに期待してねむるのが十二時半ごろになる。

2024/07/04 今日
AM在宅勤務。先輩芸人見取り図盛山の飲み会、盛山会に参加する夢を見る。なんでかわからないが遅れていって、なんでかわからないが盛山の対面に座らさせられたのだが、ずーっと繊細な一面をなすりつけてきて鬱陶しかった。パーマ当てたてなのかロン毛のうねうねがいつもより激しかったがその鬱陶しさが気にならないほど、「俺だってなあ!」から始まる愚痴が面倒だった。もうええねん!と指摘したら本人はちょっと嬉しそうにしていたが取り巻きのひとりがすごい睨んできておそろしく、トイレに行けなくなった。
十二時前に自宅を出て虎ノ門に出社。五分弱の徒歩時間で危険を感じるほどの猛暑が始まっていた。仕事の捗りはやっぱり職場のほうが良い。捗ってばかりいてもしょうがないので一応途中で抜けて本屋にいく時間を作る。定時で上がって下北スタバに行く。道中『戦争と平和』を読む。
寝不足というわけではないが昼寝できていないからすこし眠い。
向かいの席の男の子がヘッドホンを付けたまま突っ伏して寝ている。限界なのはわかるけどスタバに来たからにはやるかそうでなければ帰るかしろよ。と思っていたらすぐ起きた。パワーナップで効率上げようとしていたのかもしれない。やるじゃん。
家に帰ってからKindleでヒストリエの1〜3巻を読む。読み返すたびに「こんなに面白かったっけ」と驚くのだが今回も驚いてしまった。

20240703

日記412

出発

2024/07/02 昨日
スタバを出たあと、FF6のサウンドトラックを聴きながら下北沢駅前のベンチに座って氷結を飲む。幼年時代を思い出しているような気分になる。なんというかそれが自分の物語ではないとは思えない。しかし実際のところそれはゲームの経験にすぎず、それが感覚的に理解できない。今このベンチに座っていることの不思議と合わせ鏡のようにも感じられた。
ダイエーで安い惣菜を買って帰って食べようと思っていたが信じられないほどの行列がレジにできていたので断念し、追加の酒を求めてドン・キホーテにいく。しかしそこのレジでも長蛇の列。氷結無糖7%500ml分のアルコールで判断力が無くなっていたので王将に行くことに決める。そこでキムチチャーハンとニンニクゼロ餃子ジャストサイズ、ウーロンハイを注文する。体型維持のことをまったく考えられていない。
帰宅してから何かの動画を見てねむる。

2024/07/03 今日
暑いなか出勤する。新支給の端末が社外でもネットワークに繋げられるので午前中はオフィスで働いて午後から在宅勤務にする。途中昼飯を食べるときにEuro2024のハイライト動画を見る。トルコ対オーストリアの一戦で、試合終了とともにピッチに倒れ込むのがオーストリア・トルコ両選手というのがこの試合の壮絶さを物語っている。4分弱のハイライトなのにちょっと感動してしまった。洗濯物を干すのにうってつけの天気だったので洗濯機をまわす。昼寝をしてからこの日の仕事をこなして定時であがる。途中で大江健三郎のNHK出演番組とサツマカワRPGのコントを見る。動く大江光を始めて見た。さすが親子だけあって物腰と雰囲気が健三郎にすごく似ている。サツマカワRPGのコントはショッピングモール出禁ネタでこれには本当に感心させられた。芸人のコントなのだが完成度とかそういう次元ではない。すごく面白かった。最近見たお笑いのなかで随一。
暑い中スタバに行く。『戦争と平和』『ロリータ』を読む。どちらもすごく面白い。すごく昔の人と昔の人なのにサツマカワに負けていない。戦争と平和は面白く読める箇所が多くてすごい。長編のなかでも長いほうなのに、感覚的にはほとんど半分ぐらいハイライトをつけている。kindleの良さは小説でも全然気にせず線を引きながら読めるところだ。『ロリータ』も夢のシャーロット殺害場面とシャーロット退場場面まで来た。語り手がうるさい作品だが読ませる箇所はめちゃくちゃ読ませる。ハンバートハンバートを応援しようとは思わないし、許せない人間だと単純なレベルでは考えるが、そういった許せないと単純に思うことのシンプルさというのはしょうもないものだという感じがある。自分の中で単純さと複雑さが戦う時にはほぼ複雑さが勝利するという、昔友人に笑われたそれこそシンプルな考え方からすれば、シンプルに許せないとすることには頼りなさがある。それはやはり『ロリータ』の記述の確かさ、細やかさとの対比からくるもので、ただ単純に許せない、面白いと言っているだけでは至ることのできない境地にむかって文句を言っている構図にさせられるからだ。油断するとすぐそういう状況に追い込まれる。とくに油断していなくてもページをめくるうちにそうなっていくとは思うのだが、結果から見たときそれはやはり油断が原因だと考えられることになる。そういう単純な因果関係から脱したいのにそうなるんだから何かしらの魔力がはたらいているのだと奇天烈なことを言ってみてただのシンプルから脱したいという願望が生まれてくる。二項対立を避けるためにもう一項をひねり出す、そういう工夫なのだが第三項に魔力を持ち出すのはなんぼなんでも、である。

20240702

日記411

RR

2024/07/01 昨日
スタバを出たあと同居人と合流して彼女が松屋で飯を食うのに付き合う。瓶ビールを飲むだけで松屋に入って何も食べないというのを始めてやった。その後氷結を買って飲みながら帰る。有吉クイズを見てから二十三時半過ぎにねむる。ラブドール回。真剣な眼差しが”彼女”の目線とすれ違うとき、そこには恋の模様が描かれる。

2024/07/02 今日
6時半過ぎに目が覚める。良い目覚めになったのは良い夢を見たからだが、そのときには夢の内容を思い出せず。ただ睡眠時間を伸ばそうと二度寝をはかる。その後職場のトイレで夢の内容を思い出した。夏目漱石フリークの新しい知り合いができるという夢だった。自分が何を求めているのかわかりやすい夢だ。
引き継いだ仕事のケツ拭いで忙しいが、それも二日目にして落ち着いてくる兆しが見えた。うっかり忘れているということが一番やばいのでしっかり管理簿を更新しながら毎日降ってくるタスクを潰していくようにしないといけない。
定時退勤してスタバにくる。電車内で『戦争と平和』を読む。スタバでは日記を書いてもう一度戦争と平和を読む。あとはロリータも。

20240701

日記410

嘘の龍虎町(現実界)

2024/06/29 一昨日
オールナイト企画に参加したおかげでサタデーモーニングは消し飛び、午後になってもだらだら過ごしたり寝たりない分を補ったりしているうちにあっという間に夜になった。夜と言っても十八時なんて甘いもんじゃない。なんと二十一時になったのだった。それでもさすがに一日フルで休んだだけあり、気力体力ともに充実していたのでメスカルを飲みに出かける。万珍酒店という店で角打ち。角打ちなのにもかかわらずローソファが設置されていてゆったりリラックスできるチルな空間だった。その後三茶に行くつもりが店を出て歩く方向を間違える。淡島通りに出たので結局池ノ上に向かって歩く。そこから東北沢をなめて下北に戻る。氷結とナッツを持って夜の散歩になった。今年最後の春になるのかもしれないがめちゃくちゃ過ごしやすい夜だった。十二時前に帰ってきて、春雨スープを飲んでから一時過ぎにねむる。

2024/06/30 昨日
TCB三人で十一時に新宿集合。新宿で買ったアイスコーヒーを卸したての白いFFⅥTシャツにこぼす愚を犯す。歌舞伎町タワーのほうを巡回してから山手線に乗り込み、行きがかり上五反田で降りることになる。目星をつけた乗客が降りた駅で降りるという山手線ルーレット企画。暑くて不快だが歩くのが不可能というほどではない気候。歩いて武蔵小山に向かう。武蔵小山に来たことはあったがアーケード商店街に来たのは始めてだった。龍の演し物をやっていて頭役のおじさんだけがノリノリで楽しそうなのが印象に残った。一番長いアーケード商店街だとかいう話だったがこの日は都合一往復半した。TCBが集まるといつも歩きづめに歩くことになる。林試の森公園をぐるっと回ったり、ジェラートを食べたりしたあと飲み屋に入る。この日は二軒飲み屋に入った。晩杯屋本店仮店舗と炙りま専科。とくに後者では目覚ましい活躍があった。サイコロを振ってハイボールが安くなる企画で、三人が二回ずつサイコロを転がして、偶数一回、ゾロ目一回という出来すぎた結果になった。サイコロを転がした順に、無料、半額、半額、半額、無料、無料。それなりに食べて三〇九〇円という破格の成績だった。一人当たりではない。三人合わせて三〇九〇円。
そこから戸越銀座商店街まで歩き、武蔵小山駅前まで引き返す。最後駅前ベンチに座って強い風に吹かれながら駄弁っているのは良い時間だった。残念に思いながらも翌日出勤なので一抜けする。二十二時に下北沢につく。同居人とミカン前で待ち合わせて一緒に帰る。風に吹かれて歩いて帰る。

2024/07/01 今日
ポツポツ雨だったので傘をもたず家を出る賭けに出た。天気予報を見て判断したのでギャンブル性はうすかったが、家から駅まで以外には降られなかったので天気予報を信じて結果よかった。
これから二ヶ月間レシートを受け取る生活が始まる。生活のデータを揃えることに喜びをおぼえるほうなので性に合っていると思う反面、突飛な行動をしないから傍から見て面白みに欠けるだろうとも思う。あまりわざとらしい出費はしないようにしようとは思うものの、かました出費をかましたいという思いもある。一日目ということで予定していた映画の日の映画鑑賞だったが『ルックバック』がなぜか一律料金とか言って一七〇〇円固定でせっかくの映画の日を無効にしてきたので腹が立ち、見に行くのを止めにする。そもそもそんなに見に行きたいと思っていない映画を見て無為に時間を潰すのを止めるべきだ。
定時で上がってスタバに行く。日記を書く。『ロリータ』を読む。ハンバートハンバートがロリータの母親と結婚した。ロリータに接近するという目的のためにはもっとも合理的な手段だ。しかしそれではあまりにも、という感覚はある。それでも、目的が手段を正当化するということではないけれど、それを九〇度回転させて、何をどうやっても目的が正当化される見込みはない以上、手段が正当化される意味がないと判断するのは理にかなっているように思われる。ルールを守る意味ごと消滅するから、すべてが可能になるというのは恐ろしいことだが、そういった自棄というのは本来そこらじゅういたるところで起こってもおかしくないはずのことだと思う。しかし実際にはそういう滅茶苦茶なことが全然起きないわけで、何がどうなっているのか、まったくわけがわからない。いわゆる文学的想像力というものが文学の世界の内側で想像力として留まっていることのプラスの影響(極端なマイナスが実在しないということ)ははかりしれないものがある。将来のことは確定していないという夢想が、文学的想像力を瓶詰めにしている当のもので、しかも両者は同じものにも受け取られる余地があるというのは、身も蓋もないようななし崩し的なトンネルが地下に通っていて、どうしても爆発するはずのガスがそれそのものは危険だが全体として見れば安全に寄与するかたちで外に漏れ出ているようなものだと思う。しかし、運悪くその場に当たる個人は致命的な影響を受けることになるのだろう。それでも自分の不運を背負っておとなしく死んでいくというのは一体どういう気持ちのすることなのだろう。
『戦争と平和』を読む。老公爵が亡くなる。マリヤは老公爵の最期を看取り、彼から優しい言葉をかけられる。それまで継続的に虐げられ、絶対の支配下に置かれていた境遇を最期の一言で帳消しにするというのは不可能なことであるはずなのだが、そういうことが奇跡的に可能になることもひょっとすると実際にある、少なくともそういう見立てができるように書かれていた。ただし最期の老公爵に救いがあるというようには書かれていない。自業自得だとは思えないほど苦しんで最期を迎えたと読めた。そういうとき、チホンがみせた実際的な聞き耳を立てる能力、死へと近づく人間の立てる「か細い声」を聞き分ける能力というのは、いつも必要なものではないが、それでもここぞという時にはもっとも必要な能力だと思った。最期の場面はどうしても決定的にならざるを得ない。そこで何が聞こえるかというのは最も「試される」場面だと言ってもいい。そこで試されるのは発信する口ではなく受信する耳だ。
アルパートゥイチとドローンの対決場面が面白かった。支配者のヒエラルキーの上部と下部で接している人物同士の対話だが、どちらもそれまでに自分の立場を築いてきただけあって如才ない。漫画『ヒストリエ』の一話分に相当する緊張感のあるやりとりだった。しかも会話だけで実際に血が出るようなシーンではないので、文字情報だけのほうがより迫力が出るのではないかと思う。
ヒストリエの十二巻はやっぱり面白かった。ついに主要人物が死に、そのことで「放たれた矢」になるエウメネス。クライマックスの戦闘場面ではいびつな時間感覚を味わえる。一瞬の出来事をスローモーションにするというのは映像でやる分にはありきたりだが、漫画のコマでそれが表現されると、読んでいる側の感情の動きと速度がシンクロすることもあって奇妙な感覚になる。時間を動かすのが自分の心の動きだから、目で見たときの動く錯覚よりも、心の芯を捉えたアニメーションになる。登場人物が被らなければならない「痛さ」について、絵から伝わるのが信じられないほど伝わってくる。

20240628

日記409

チャリで行く

2024/06/28 今日
雨が強い日。電車が遅れたせいで遅刻しそうになったが急いで歩いたらなんとか間に合った。しかし急いで歩いたせいで手足がびしょ濡れになる。
仕事が忙しくなってきた。そろそろ文句を言いたいが職場の飲み会があったので我慢する。飲み会は少人数での開催だったが楽しかった。皆が参加して飲み会を盛り上げようとする意欲を出していたおかげだと思う。
早めに始まって早めに終わる大人な飲み会だったので一回家に帰って仮眠をとってからオールナイトイベントに繰り出す。黒木さんを囲む会。普通誰かのことを囲みたいとは思わないが黒木さんだったら囲みたい。何にでも例外はある。


20240627

日記408

五叉路で集合

2024/06/26 昨日
閉館一五分前まで図書館にいて、霞が関から帰る。東北沢で降車し、氷結7%500を飲んで音楽を聞きながら歩いて帰宅。Reloadとミカンとボーナストラックを通るいつものコース。途中ドンキで4%500を追加する。家に帰ってからコンビニで買った納豆を食べる。酔っ払うとやってしまう行動のベストテンに入る就寝前の納豆喫食。できるだけはやく眠る。が、この日は三時に目が覚めてしまう。咳が止まらずそこから四時半までねむれず。咳止めの薬を飲んで無理やり眠る。もっとはやく判断したら睡眠時間を無駄にせずに済んだのに判断を誤った。

2024/06/27 今日
明らかな寝不足での目覚めだが遅滞なく出勤。『ヒロシマ・ノート』をkindkeで読む。仕事の忙しさが爆発しそうになってきた。忙しいこともあり眠くはならなかったが、そういうことじゃないんだよ。相談事をしたりメールで問い合わせたり、関係者に挨拶したり、仕事じみたコミュニケーションがどんどん増えてきた。オフィスの環境がとにかく良いから書き割りが上等な本格的コスプレみたいで演じていて面白い。残業が三〇分。吉野家で麦ごはん御膳を食べてからすこし趣向を変えて虎ノ門のスタバにいく。やることは同じ。日記を書く。
今年の春評。三月になると目に見えて寒い日が減っていき、結果的に例年よりも長く、過ごしやすく春らしい気候が続いた。当然雨が降ることもあったが、一週間降り続けという陰鬱な週はほとんどなかった。総じて良くできた春だった。だいたい五年に一度ぐらいの良い春だった。
小説を書くときにも自分の賢さを誇示したがって小癪な文章を書いてしまうことがある。賢さをアピールする場所はべつに設けておいて、小説にはそういった認められたいというかたちでのエゴが出ないようにコントロールしたい。
それにしても「賢く思われたい」というのは自分にとっては破滅的な心の動きだ。劇的に破滅するということにはならないが、遅効性の毒のようにじわじわと破滅を引き寄せる効果がある。賢く思われたいと思うこと自体が賢くないことの証になるという常識で考えてわかる顛末が待ち受けているにもかかわらず、自分の足で一歩一歩そこに近づいている。遅さに遅さを重ねていれば即アウトにはならないだろうと高をくくっている。しかし距離は着実に縮まっていくし、時間も過ぎ去っていく。たとえば、読んで頭が良くならない本は読むに値しないと真面目に考えている。しかし読んで頭が良くなる本など存在しない。あるとすれば読んでいたら頭が良さそうに思われる本だ。その観点で本を評価することはだんだん簡単になっていく。ある権威圏内の事情にどんどん詳しくなるからだ。そしてその観点で読む判断をして読んでいる本を読んでいるときには、ある部分での判断をまったく放棄してしまっている。だから映画を見ることのほうが、その良し悪しを判断する機構が曲がりなりにも働くことにはなるから、実際に頭が良くなることに寄与しているといえるかもしれない。賢さを志向するにあたって権威主義は避けられない。問題は権威主義がドグマティックになってしまいやすいことだ。賢さに連なる権威主義が陥る(権威が操る)ドグマはいかにもドグマらしくなく振る舞うことに長けている。だからある部分からは目で見て判断するのをそこそこにしておき、鼻を利かさなければならない局面に入る。現役のプレーヤーで真に知的な人物はひとりもいないと信じなければならない。ある時期に真に知的な営みをしていた人物も、そのまま知的な営みを続けるということはまずない(絶対にないと言ってもいいぐらいだが慎重を期すためにまずないに留めておく)。しかし、それでも作品を通して作者を見る場合には、その人が十分に賢いとみなすことはできる。固定化された作品は不動のものであるから、それ以降の愚かな動きに巻き込まれることはない。現役のプレーヤーはそうではない。生活者として正しいことをしようとするだとか、自分の作品からもたらされる影響力を良いと思うところに振り向けようとするだとか、それ自体としては決して批難される謂れのないことであっても、賢さという観点からは問題外になることは全然めずらしいことではない。現役でなおかつ良心的な人間であれば必ず、そんな問題など糞食らえという反応を示す。その反応はそれ自体間違っていない。しかし同時に、その反応は、パフォーマンスであるという側面を免れ得ない。行動には本人の信じる意味のほか、受け取られ方というものがついて回るからだ。そこで知らないフリをするか、無理にどうでもいいという態度をとるか、実際に気がつかなくなっていくか、厳しい三択を迫られる。問題があるのにもかかわらず、それをないものとみなすのは端的に間違いである。権威主義を避けるためには権威になる以外ない。自分の目線よりも上には何も置かないようにするという思想が権威になるためには必要不可欠だ。賢い/賢くないという判断をくだす位置について、用意、ドン。よーいドンである。

20240626

日記407

屋内テラス

2024/06/25 昨日
下北駅前で氷結を飲んだあと、王将に行って揚げそばを食べる。お腹いっぱいになりながらパンサー向井のラジオに野田クリスタルがゲストで出演している回を聞く。ダイエットは数字。知識は調べればつく。という当たり前といえば当たり前の金言が入ってきた。ダイエットに失敗するというのはごちゃごちゃ言い訳して習慣づくまでやらないだけの話というのはそのとおりだと思う。

2024/06/26 今日
今日はやらかしてしまった。久しぶりに行きの電車で座れたから霞が関まで『オリエンタリズム』を読んでいたらズボンのポケットに入れていたスマートフォンをふかふかのシートに落っことして気づかないまま下車してしまった。改札前で駅員に捜索を依頼し、そのまま改札を出してもらった。内心焦りながら焦ってもしょうがないのでそのまま出社。10時前に日比谷で見つかったとの報が入り一安心する。スマホがないと落ち着かないので昼休憩のタイミングで取りに向かう。東京の治安のよさは筋金入りだ。それにしてもスマートフォンを買い替えて一週間もしないうちに落っことすなんて幸先が良すぎる。ゼロストックTOKYOのズボンは座るとポケットから物が転げ落ちる作りになっているので、貴重品を入れるポケット使用はおすすめできない。これを履いているとき電車のシートに家の鍵を落としたことが二回ある。後ろポケットにはファスナーが付いているので鍵はそこに入れている。スマホもそうしたほうがいいかもしれない。
こんなミスをしておきながら何食わぬ顔で一日過ごした。話の種にしようかとも思ったが、端末を落下させ無くすことからイメージが落下するのはうまくないと思い直した。
定時三〇分過ぎで退勤。バルボアでナポリタンの大盛りを食べて図書館に行く。日記を書く準備をしたり日記を書いたりする。喉のいがいがはマシになっているが全然完治していない。
ハンバートハンバートという音楽ユニットがあるのを知っているが、ロリータを読むことでそれが少女を愛好する主人公の自称名だということに気づいた。どういう理由でその名前を活動名にしたのか気になるところだが、検索することはするまいと思ったので、ありえそうな理由を考えてみることにした。今のところ思いつかないがおそらく文学的な理由なのだろうという気がする。想像力にまつわる何かそれらしい理由。つまり文学的理由。
昨日見た『ホールドオーバーズ』が面白かった。見てから二十四時間経つが余韻がまだ続いている。ポール・ジアマッティの演技は素晴らしいというほかないが、アレクサンダー・ペインの演出も素晴らしい。ジアマッティの素晴らしい演技を引き出すのはやはり演出だろうと思う。とりわけこの映画を見る観客をぐっと物語世界に引き入れたのは、ホリデーシーズンの到来によって宿舎居残り組が食堂で食事を摂るシーンだ。議員の息子クーンツが寮の料理女メアリーについていかにもティーンエイジャーらしいこまっしゃくれた意見を言うやいなや、ジアマッティが驚くほど一瞬でブチ切れ、すごい剣幕でクーンツを叱り飛ばすというシーンがある。ここでのセリフは言い回しもよくて、「鶏小屋のハシゴ」というのはうまい喩えだが、それよりも何よりも、何に対して腹を立てるかというのが見えたときにその人のことがわかるというのがある。嫌われ者というのと嫌な人間というのはべつのことだし、ジアマッティは嫌われ者なだけで嫌な人間ではないというのが一発でわかるシーンだった。しかも同時に彼が難しい人間であるというのも表していて、それはジアマッティの演技からくるものなのだが、演技を最大限引き出すペインの演出がそれにピンスポットを当てていた。ふわふわとスロースタートし、その後雰囲気よく進んでいたところで急に人物の核心にズームアップするシーンだっただけに、その成否は作品全体の成功を左右するところだともいえる。ここで成功を掴んだからこの映画はその後のクライマックス近くでも突飛なことをやらずに済んだんだと思う。結果、甘いだけではなく、だからといって苦すぎもしない良いバランスで映画を締めくくることができ、一瞬の強い印象ではなく長く続く余韻を見るものにもたらした。
内容についての感想は「世代を超えた友情というのは良いものだ」というに尽きる。映画のメッセージなんていうのはそれぐらいのもので十分で、あとはそれをどうやって感じさせるかというところが勝負になるからそれで良い。それにそういうシンプルな感想を持てること自体嬉しいことだ。映画館で見ていると観客席のところどころで笑いが起きていてそれも良かった。ジアマッティが映画の観客としてめちゃくちゃマナーが悪いところなどは映画館で見るのが一番面白いシーンだったと思う。
職場に今月末で辞める人がいる。要領がいいとは言えないタイプで、どちらかといえばタスク全般があまり得意ではないんだろうなという人だが、仕事に対して真っ直ぐというか、自分の仕事をやり遂げることに人一倍思いがあるよう見受けられる。しかし同時に、その人から仕事を引き継ぐとき、その人がやるべきだったがやれていないことを「あとは頼みます」と、見ようによっては無責任、悪くとればミスの押しつけともとれないこともないやり方で引き継ぎをしようとしてくる。悪意からそうしているのではないのはやり取りをしていると明らかで、責任を回避したいというのが無意識に出てしまっているだけのようだ。実際、ミスについてはチャットでちょっと指摘するだけですぐ謝ってくるし、引き継ぎについても面倒くさそうな素振りひとつ見せず、むしろ積極的と言ってもいいぐらいの前傾姿勢だ。ただ仕事に向いていないというだけの話で、それとは関係なく仕事はきちんとこなさなければならないと思い込んでいるのがややこしいといえばややこしいところなのだが、自分にできることを精一杯やろうという姿勢には学ぶべきところがある。引き継ぎの一環で社内の登場人物に後任を紹介するという自分からは不要にみえるタスクを請け負ってくれたときのこと、以前一緒に仕事をしたときにミスをして迷惑をかけたというやや強面の人に対して、目に見えるほどはっきりと物怖じしながらそれでも、今月いっぱいで離任となります、今までありがとうございました、後任はこの人です、という必要な文章をなんとか絞り出せていて、それを横で見ながら立ち向かっているなあえらいなあと思ったのだった。その場ではとくにその人の助けになるようなことは言えなかったが、自分としても挨拶すべきといえばすべき人にとりあえずの挨拶はできたのでそのことの感謝を伝えつつ、苦手だったり嫌なことに立ち向かっていく姿勢について全面的にとは言えないまでも部分的にでも引き継ぎしようかなという気になった。多分その人はわりと年下なので感心している場合でもないし、どちらかといえば仕事の進め方を教えてあげるべきなんだろうけど、仕事に対して真っ直ぐな人に教えられることは何もない。もっといい加減にやればいいですよと仕事関係なく伝えられたらいいと思うが自分にとってのその人は、その人にとっての自分は、仕事関係の人なので難しいところがある。でもとにかく、何を伝えられても伝えられなくても、自分は今日困難に立ち向かう人を見た。今後の参考にさせてもらう。

20240625

日記406

三歩

2024/06/25 今日
よく寝たおかげで頭は好調。しかし喉のイガイガがとれずに咳がしたくてたまらない。
仕事を定時で上がって映画を見に行く。アレクサンダー・ペイン監督『ホールドオーバーズ』。予期した通り面白かった。ポール・ジアマッティの姿を目で追うことには喜びがある。ドミニクセッサの神経質も輝いていてよかった。
帰りの電車で『ヒロシマ・ノート』をKindle版で読む。読書会には間に合わないがそれでも読むべきだと思った。
間に合わないことが確定したのでじっくり読むことに切り替え、とりあえず下北沢駅前で氷結を飲むことにする。

20240624

日記405

マジで撤収5分前

2024/06/23 昨日
『戦争と平和』を読んだあと、家を出て夜の散歩に繰り出す。同居人の書いたキャラクターの話をしているあいだに茶沢通りにぶちあたり、下北沢駅前にたどり着く。その後ベンチに座って映画『MONDAY』のことが話題になる。わざわざ面白くないというほど面白くなかったわけでもないが、面白い映画だとは思わなかったのでその理由などを一方的に話してしまった。同意を得られるように話をしたつもりだが、人が面白いと思った何かについて面白くないだろうと同意を求めようとするのは無理がある。たとえ道理が通っていたとしてもそういうことじゃない。「お前さんには余裕がない」ときっぱり言われて、残念ながらそのとおりだと思った。面白くないということにも責任があると思うからその理路を指し示そうとするわけだけど、そもそもの始まりからして「そういうことじゃない」と言われればその通りだ。面白い映画の話をするか、全体として面白くないと判断した映画でもここは面白かったという話をするべきだという基本を忘れてはいけない。
というより何より、余裕がない原因ははっきりしていて、自分のやろうとしていることに何の進捗もないことだ。しかもそのフラストレーションを正当に自分に向けるのではなく、外のものに当たっているわけだからどうしようもない。
どうしようもないけどそんなナンセンスをやってしまうから言い訳が必要になって、弁解がましく多言を弄するという負の循環に陥る。自分の場合、その対象は小説や映画になるわけだが、そうする以上はきちんと権威ある作品だけに触れて、挑みかかるようにして貶したり腐したりしないといけない。それは安直にすれば自傷行為になることだが、それでもサンドバック扱いするために作品を見たり読んだりして、気持ちよくそれを叩いているよりはマシだ。
いずれにせよそういうマイナスでしかない営みに人を巻き込むべきではない。やっぱり面白いはずだと思える映画だけに絞ろう。付き合いで映画を見ても、正当ではないフラストレーション解消に費やされるだけだ。これは何重にもよくない。

2024/06/24 今日
前日うっかり飲みすぎたので寝不足になった。朝のうちはとくに不調を感じなかったが昼になるにつれだんだんキツくなってきた。そんなタイミングでリーダーに「元気?」と聞かれてつい答えあぐねてしまうことがあった。そんなのは適当に「元気です」と答えておく場面なのに、体調に対して正直に考えすぎている。そのくせ「眠いです」とは言えず、結局「・・・」とよくわからない間が空くことになった。でもそこから「元気なさそうだね」となり自然と世間話が発生した。何が良くて何が良くないのかわからんなあ。
定時間際に軽い打ち合わせが発生し三〇分間の残業になる。調子がいい日にはブチ切れる場面だが、寝不足もあるし図書館にいくのは止めておいてまっすぐ帰ろうと考えていたので、まあ良しとする。
バルボアでぼっかけ大盛りを食べ、銀座線と千代田線・小田急線で帰る。
家でだらだらしようと思ったがとりあえず日記は書いておこうとMACを開く。Vとテーブルについていろんな会話をしながら日記を書く。

20240623

日記404

視力

2024/06/22 昨日
武蔵野プレイスで『賢い血』を読み終わる。最終的に下宿屋のおかみが光を視るのは彼女の置かれた境遇によるところが大きい。ヘイゼルモーツが自らの清らかさを主張するとき、他人は蝿になる。彼は蝿に耐え忍び、蝿を救おうとするが、蝿の接近には我慢できない。その限界をどうにかして超えようとするが、ただ自らの忍耐力の問題に帰するのみで、蝿であると見做すことをやめようとはしない。彼の説く「キリストのいない教会」というのは問題のすり替えにすぎない。すくなくともキリストの有無というのは全然問題ではなく、問題はヘイゼルモーツの世界に他人が存在しないことだ。この問題は普通問題として現れないが、それを問題とする人には一生かかっても解けない問題として現れる。そして、ヘイゼルモーツのように、偽の取り組みやすい問題にすり替えてそれに対処しようとすることになる。結局のところ、どんな問題も自分の問題として考えることしかできないから、自分の問題として解けるところを探したり、部分的に解消していこうとしたり、自分がそれによって前進すると考える行動をすることしかできない。他人は障害物か補助アイテムかの二択でしかない。ヘイゼルモーツにとってもイーノックにとってもゴリラにとっても芸術家にとっても同じ、共通の二択だ。共通しているが共有してはいない。これはたしかに陰惨なコメディだが、同時に単純なコメディでもある。込み入った面白さはない。コミュニケーションがないからだ。コミュニケーションがないというのを表わすことに成功しているからコメディとして成功を納めているともいえる。あれもこれもと問題が積み重なっていくものについては、たとえどれだけそれに笑わされたとしてもコメディとは呼ばない。
武蔵境駅でお団子(のりとさつまいも)を食べてから、吉祥寺乗り換えで渋谷に移動する。渋谷では布屋に立ち寄り、良い気候だったのでそのまま区役所通りを通ってNHK前を抜け代々木公園をかすめて原宿まで散歩する。公園ではジャマイカフェスをやっていてスピーカーからレゲエのリズムが鳴り響いていた。原宿IKEAでハンガーを買って帰る。一旦帰宅して荷物を置いてからご飯を食べに出かけようという話だったのだが、疲れてしまっていて結局外出を断念した。おみやげに買ってきてくれていて食べ忘れていた花山ラーメンを食べる。気楽に見られるものを見ようということになったので『正欲』を見る。面白いところと面白くないところが混在した映画だった。総合したら全然駄目なのだが、新垣結衣はじめ見るべきところもあった。とくに稲垣吾郎の扱いはこういう話でよくあるコテコテさを微妙に回避し、バランスが取れていて良いとさえ思った。逆に佐々木のキャラクターはしっかりしていなくて駄目だった。言いたいことがまとまっていないのにモノローグをさせられているような印象で、もし意図されてのものであればこれは大したものだ。そもそもどういう理由で勾留されているのかも謎だが、よくわからないまま稲垣の良い仕事によって有罪になるところまで予感させる。その見立ては物語としては破綻していないので、ツッコミどころはありつつも全体としてバランスは取れている。当たり前のように他人を前提としているため、『賢い血』とはまったく別種の話のようでいて、一点、新垣結衣のセリフによって関係があるようにも感じられた。たとえ他全部が駄目でもそこだけは否定できない一点を持つことで、そこを起点として一気に世界観まで話が広がるということがあるが、それと同じことが起こったように思う。

2024/06/23 今日
十二時に野田地図のチケット購入のため待機していたがチケットが取れなかった。松本潤のファンの威力を知った。咳はましになったがやたら鼻水が出る。ホットケーキを食べてからスタバに出かける。ここでも鼻水がやばくてティッシュを鼻に詰めてマスクをする。日記を書く。お腹が空いてフラフラする。手が震えてきてタイプもおぼつかないのでスタバを出てご飯を買いに行くことにする。魚の定食とビールで空腹を満たし、ダイエーで酒とご飯を買って帰る。
Xperiaのカメラを持て余しているうちに、この日記に載せるための写真が縦横入れ違いになる問題が発生した。予想していたより素晴らしい体験がもたらされるということは今のところないが、カメラを使いこなせるようになったり、この日記でも何とかできたように問題を解決することで、少しずつ良くなっていけばいいと思う。今のところ落下防止のために導入した肩掛けロープのせいで、とくにシャッターを切るときや電子マネーをかざすときに取り回しが悪くなっている。
帰宅して『MONDAY』というループものの映画を見る。ループしていると気づいたときのハプニング遭遇感は良かったが、決まった物語に嵌めに行くために、そこからいろんなことをやってみようとするループハッピーのターンがなかったことが気になるといえば気になる。ループする世界にいる登場人物が「会社の仕事をする」というのはかなり先鋭的な表現だと思うが、その発想が受け入れられにくいものだという視点がないところがローカル映画丸出しで面白い(一応回避策は用意されていて、主人公が会社の後輩格のふたり組にタイムループに気付かされる(=会社組織に巻き込まれている)というところがあり、”日本人の特性”としてその状況では好き勝手やりにくいということになっている。しかし起こっていることへの対応としてはやはり弱い)。
映画制作のための道具を持ち、仕事をすすめるノウハウもあって、しかも自分たちの身の回り五メートル範囲を題材にするという、きちんと地に足のついた大学サークル映画だった。ただ、身内ノリはいいけど何もそのために鳩を殺す必要はないよなと思う。
映画にはどこかで映画から抜け出そうとするようなところがないと楽しめないということに気がついた。映画になろうとする映画はそもそも矢印の方向が逆だという気がする。逆向きであることを逆手に取って面白くするという映画もあるにはあるんだろうがパッと思いつかない。いや、逆手に取るというよりはギリギリのところで映画たり得ていないとか一瞬やばいというところがあって、それでも何とか映画としてまとまっているときに、あれだけ好き勝手やってよくやったよという感想になるんだと思う。結果的に成立させるというつまらなさを”逆手にとった”ように見える映画だ。「スッポリ収まってすごい、良かった!」というのは、テレビショッピングの番組を見ているような気にさせられる。どこかに需要はあるんだろうがはっきり言って意味はない。
夜の時間にスタバに行くつもりだったが結局家にいて『戦争と平和』を読む。Vが元気で「うれしいね」。そういえば昨日は寝る時間の直前に「ねます」と宣言していて面白かった。今週末も良かったので締めくくりに夜の散歩をして、意味あるほうのMONDAYを迎え撃つことにする。

私の都市生活についての所感(2024)
フリーライダーなので一応腰を低くしているが頭は高い。座高が高いわけではない。無礼者であるとかアンテナを張っているとかそういう意味だ。座高が高いという意味で言っているのではない。一応言っておくと身長が高いので座高も高い。あとそれとは全然関係ないが春夏秋には厚底サンダルを履いている。

20240622

日記403

雨あがる(ボーナス突入)

2024/06/21 昨日
喉痛はないのだが咳がよく出るようになっていて、職場でもわずらわしい思いをする。マスクを着用するのもそうだが、咳エチケットの遵守、そもそも咳を我慢しようとするのが億劫だ。とはいえ思うさま咳をしてみたいとも思えない。そうすると喉を痛めるだけだということをすでに学んでいるからだ。仕事のほうはそろそろ案件の重なりや催促が発生してきた。退屈しないからいいやというタイプではないので普通に面倒だ。若干の体調の悪さを押して腰を上げるのも気力がいる。それでもやるとなったらキーボードをパチパチやってメールを書いたり、わけのわからん書類を作成して申請を上げたり、とにかく定時という締め切りがあるから動けるのは間違いない。労働仕事なんていうのは締切に追われているぐらいでちょうどいい。それがないといつまでも端末の前に座って残業するということになる。そういう人もいるんだろうが帰っても何もやることのない人なんだろう。かくいう自分も読書はともかくとして、ただ日記を書いているだけだ。構想のことを考えたり考えを構想にまとめたりしていかないと。……ずっと言ってるなこれ。
定時一〇分過ぎに退勤。ユニクロでFF6Tシャツを受け取り、ダイエーでカツ丼を買ったあと即帰宅。Xperia1Ⅵが配達されてくるのを待機する。かりそめ天国を見ているうちに端末が届く。はじめてのハイエンドモデルで到着する日を指折り数えて楽しみにしていた。こういう買い物はスニーカー(wrpd runner)以来だ。カメラ性能でこの機種に決めたので自分のなかでスマートフォンの時代は終わりを告げ、スマートカメラの時代に入った。めちゃくちゃ気に入っていたPixel4aからデータコピーしてXperiaを持って下北の街に出る。
同居人と駅で待ち合わせて俺流餃子の店に行く。店員同士仲良さそうで料理提供スピード(おそらくオペレーションがよくない)に若干の難があるものの腹ペコでもないかぎり基本的に満足できる、雰囲気のいい店だ。入り口付近の席だと道を通る人を眺めながら食事ができるので、下北の通行人を見たいときにはベンチなどでの外飲みに次いでおすすめだ。
Xperiaの肝心のカメラ性能だが、夜の野外に関して言えばpixel4aに軍配が上がるかもしれない……。自分は画面をまったく見ないでただシャッターを押すという使い方をするので、その使い方ではpixelのカメラはスマートにいろいろ処理してくれていたのだなと実感することになった。カメラ起動速度やシャッター消音などでは長じているものの価格差ほどの差は実感できない。とはいえ本命は光学ズームなので、昼日中にそれを実感するまで判断は保留にしようと思い、それ以上考えるのをやめた。動作もpixelに比べてもどこかカクカクしている印象で、動きとしてはサクサク高速な分、カクつきスピードも早くなっていて結果的に気になってしまっている。ただこれは環境の変化によるものだろうから慣れで問題なくなるはずだ。
pixel4aは室内利用のポケモンスリープ専用機になった。いつものようにカビゴンたちをねむらせてからねむる。

2024/06/22 今日
六時頃に咳がしたくて目が覚める。咳が出そうで三〇分近く二度寝ができなかったので憤然としながら咳抑え薬を飲む。ただこの目覚めのいろいろで幼馴染とボウリングする夢、高校の友人たちとボウリングする夢を見る。先に見た幼馴染とのボウリングでは田舎からやってきた修学旅行生がはじめてボウリングをするという設定で、彼らに混じってボウリングをすることになったのだが、わざわざ真ん中のレーンを指定してボウリングというのはこうやるものだと見せつけて遊ぼうというアグレッシブな内容だった。ふたりともボウリングが得意でもなんでもないのになぜかやる気満々で見本となって教導しようという謎の意欲に溢れていた。もう一方の夢は実際に昔行っていたラウンドワンでの一幕という感じで夢を見たことは覚えているものの内容は覚えていない。薄かったんだろうと思う。
起き抜けに散髪に行く。ちょっと遅れそうだったのでLUUPを使い、オンタイムで到着できた。白髪ぼかしとあわせて五九〇〇円。貯まっていたポイントで支払う。
その後スタバに行って日記を書く。ちょっと前に書いた日記を読み返す。普段読み返すということをしないのであれだが、書かれてある内容はすこし前に自分で書いたものだから理解に苦しむ文章は少ない。読点とか使っていてえらい。たまに適当な場所にないこともあるが愛嬌で済ませられる範囲だと思うことにする。
昼過ぎにスタバを出て同居人と駅前で集合する。新台北という台湾料理屋で昼食をとり、ローソンでアイスを買って食べる。その後井の頭線と中央線で武蔵境駅前の武蔵野プレイスにくる。吉祥寺に住んでいるときにもっと活用すればよかった。小会議室も充実しているしサークル活動など捗りそうな場所だ。人で賑わっているのも良い。ゾーニングがきちんとされているので、勉強したい人、おしゃべりしたい人、作業したい人、本読みたい人、たんにゆっくりしたい人、これらすべてが共存できる空間になっている。こういうスポットにこそ東京の地力を見る思いがする。1Fのカフェエリアでラテを注文し『賢い血』を読む。
そういえば『蛇の道』は面白くなかった。話を知って見ると緊張感もない。話のエッセンスを強調しないで、ギミックに若干手を入れただけでほぼ元のままだった。もっと洗練されて先鋭的な悪が描かれればいいのに、暴力と無垢なものの犠牲を使っておいてコントにしか仕立てられないのは監督の力の弱さなのか意地の悪さなのか、どちらかを選択する気も起きない。
ただし、無垢なものの犠牲があるからには描くものは荘厳であるべきだとか、それに相応しいメッセージを描くべきだというのもそれはそれで了見が違う。そういう意味で、少女の死を使うということの正当性はどこにもなく、物語だからといって免除されるものでもないはずだという考え方にとっては、コントにすることで、ある犠牲に対して真実のメッセンジャーとしての崇高な役割を与えることの醜悪さをえぐり出す部分があるとはいえる。もちろんそれによってこの映画の退屈さが免責されるわけではない。リメイク元の映画同様不快で面白くなかった。リメイク元のほうがまだ笑いによって共感できる部分があり、コントとして見るところがあった。
カフェに蝿が出て席の周辺を元気に飛び回っている。それだけで同じ場所に滞在し続けられない、自分は弱い存在だ。

20240620

日記402

ひかりのほうへ

2024/06/19 昨日
図書館に閉館の二十二時までいる。霞が関から最寄り駅まで『賢い血』を読む。何かの比喩のようなものかと思っていたら、どうやら賢い(wise)ということについて真正面から取り上げているようなのでこれから先の展開にも興味がある。やっぱりイーノックが興味深い。
コンビニで請われたレモンサワーとカップヌードルを買って帰る。喉の調子がわるい自分用にはサントリーのノンアルハイボール。ウイスキーから作られたノンアル飲料らしく、風味は全くのハイボールだった。体調の悪さに対応する自分の賢明なところに感謝したい。乾杯したかったからノンアル飲料を選ぶところも含めてとても賢明な一日の締めくくりになった。いまこうして思い返しても鼻が高い。二十三時半すぎにはねむる。

2024/06/20 今日
賢い血を読みながら出勤。いつもと違う中央付近の車両に乗ってみたらいつも乗っている後方付近よりも空いていて、今度からこのあたりに乗車するようにしようと思った。
仕事はタスク積まれモードになっている。打花打火(だかだか)こなして打ち合わせ、電話での質問・依頼、メール返信とぐんぐん進めて、颯爽と定時に帰る。明日やれることは明日やるのがコツ。
銀座線で渋谷に移動して『蛇の道』を見る。動画で見た元作品は見られたものではなかったのでどれほどブラッシュアップされているか見ものである。面白かったらいいが。
あと関係ないが濱口竜介の書いた本が今夏発売になるとの報を得ている。これはやはり必読だろう。なんでも追いかけていては身体が持たないがそれでも外せないものはある。

20240619

日記401

ファクユー・ブルー

2024/06/18 昨日
スタバから図書館カウンターまで『賢い血』を受け取りに行く。ついでにユニクロにオンライン注文していたクルーネックTシャツ三枚を受け取りに行く。白XXL、赤3XL、黒4XL。二十時半頃、スタバまで同居人がやってきたので一緒に帰る。酒を飲みながら歩いて帰る。自分と相手の知識量に差があるときの説明をどうすればいいかについて話をしながら歩く。相手にどの知識があってどの知識がないのかを判断しながら話すとなると、話の内容に集中できなかったり、話が途中で折れ曲がって話し始めに予期していたのと全然別のほうへ向かったりする。面白い方へ転がっていけばそれでいいのだが、相手が知らずに自分が知っていることでその説明となると面白い方に進んでいかないことが多い。そして相手の「なるほど」とか「そうなんだ」で話が途切れがちになる。そこでもとの話に戻せればいいのだけど、そこまで話の主導権を保持できないことが多い。しかし、一旦話し始めたら最後までその話をするという気持ちを持ったほうがいい。途中で途切れても話を戻せばいいだけだ。何かの話をする以上、少なくとも最後まで話し終えないと何かを言い始めて言い終わらないというわるい癖につながってしまう。そうなるぐらいなら最初から話さなければいい。考えていることや感じたことを話すのは難しいからここに書くようにするという結論に逢着。何かについての感想など、相手の知識量を考えなくてもいいのはとにかくラクだ。
そういえば、自分は小説を書きたいと思っているが、その延長線上に小説家として有名になりたい気持ちがあるのかと質問してみた。書いたものを読まれたいと思うことはあってもそれで有名になりたいという気持ちはない。という答えが返ってきた。面白くない。
人事を尽くして、という言葉があるが、それで言うと「自分事(じぶんじ)を尽くして」というのがまずは第一だ。とにかく人のほうへ流されないことが大事だし、有名になって泰然自若を貫くのは難しいんだろうと思うから、この誰からも注目されていない今を時機だと思って自分固めをしておく必要がある。人のいうコンテンツをただ面白いと喜んでいる場合ではない。面白く見られるように工夫されているものが面白いのは当たり前。そしてそれ以上を出せないならわざわざ自分がやる意味はない。つねに面白いものを見ていればそれで満足できるのなら満足するのは簡単なことだと思う。そういうわけにはいかないから面白い動画を見ていられる時間を犠牲にしてまで面白いのかわからない本を読んだりしている。本を読むために寝不足を回避してアホみたいに規則正しい生活を送っている。
人からズレて変なことを言うようにしようというのも人のほうへ流されるのと反転しているだけでまったく同じナンセンスなので、逆張りだとか天邪鬼とかそういうことはやらない。とにかくどんなものに対しても自分基準を明確にしていくこと。どんなときにでも感じたことに注意をはらい、自分のかたちを掴まえにいくこと。文体を持つ前に自分体(じぶんたい)を持つこと。瞬間の良い悪いを決めること。少なくとも好き嫌いは決める。瞬間の判断と考慮しての判断の両方を必ずして、保留にしないこと。保留しない代わりに、さらにその先で間違っていることに気づいたらしばらく考慮してそれでも間違っているようならためらいなく判断を訂正すること。無形ではなく、有形で不定形というスタンス。たとえば「モヤモヤする」というのは何も思っていないのと同じなので無形として扱う。流行語はできるだけ使用を避ける。

2024/06/19 今日
渋谷に一〇時前出勤でよかったので朝起きてからゆっくり朝の準備をして洗濯機まで回す。三〇分弱で用事を終えたあと、案件チームメンバーの人と一緒に移動する。渋谷駅までのバスと渋谷から虎ノ門までの銀座線を無口な男同士あまり喋らずに黙々と移動する。あまり焦らず黙っていられるのは、必ずしも良いとは言い切れないところもあるがやっぱりスキルだと思った。それでも最低限の雑談はあって、出身地がお互い関西ということがわかり、それだけでなんとなくほんわかする。震災の年に就職で東京に出てきたと言っていたのでほぼ同い年だとわかった。そのことを言えばよかったのだが電車が虎ノ門に到着したので話の切れ目になってしまった。渋谷でサボるつもりだったのだが上の理由で虎ノ門まで運ばれてしまったので仕方なく虎ノ門のタリーズでサボることにする。外出させると最低一時間は余計に工数がかかるということを理解させなければならないからだ。フラナリー・オコナー『賢い血』を読む。へんてこな信念を持った男が主人公で、その信念のせいで人に対して一切物怖じしないこともあってか、他の人物と一切会話が噛み合わない。噛み合わないのに何度も同じ主張を繰り返して、結果的に人を思った通りに動かすからコミュニケーションの目的は達している。人は神の被造物という世界観をきちんと踏襲した、人形遊びのような動き方をしているが、わざとらしかったり、作為的な言動ということは感じられない。均等に距離をとって描写すると、たとえその眼鏡が度入りだったとしても読む方で勝手に調整できるし違和感は感じないのかもしれない。「賢い血」という言葉がわりとすぐそのまま出てきたことにちょっと驚いた。イーノックという無学な若い男が主人公に対して言っていたのだが、その主張もまた理にかなっているものだった。今の時代にはまったく合わない描写ではあるが、そんなことは全然関係なく、口を利く人物が描写されている通りにそうやってそこにいればそういうことを言うのはおかしくないと思わさせられる。
フラナリーのカトリックとしての不幸がこの小説を書かせたという解釈を自分はやりたくない。やりたくないが、この小説にはそういう不幸なところがあると主張する人がいたとして、その人のことを何もわかってないということはできないかもしれない。カフカが幸福だったとはあまり思えないというのと似ている。書かずにはいられなかったんだろうとわかるようなことが書かれていて、そういうことから作者の幸福といったポジティブな側面を引き出すのは難しいというだけの話かもしれないが。書いているときには幸福というところから離れていたとしても、書いていないときには幸福だった、というのもあり得る話だろう。そういう意味では書かれたものから作者の幸不幸を判断するというのがそもそも間違っているということは言えそうだ。

彼は鼻がたれるのをとめるために袖口で鼻の下をふいた。「そうか」と彼は叫んだ。「あんたが行くとこに行けばいい。だけど、いいか。」彼はポケットをたたいて駆けより、ヘイズの袖をつかまえて、皮むき器の箱をがたがた鳴らしながら彼のほうに差し出した。「あの子がよこしたんだ。あの子がおれによこしたんだから、あんたにはどうすることもできねえ。あの子は住所を教えてくれて、おれに来てくれと言った。そして、あんたも連れてくるようにね――あんたがおれを連れてくんじゃなくて、おれがあんたを連れてくんだ――あの人たちのあとをつけたのはあんただったのにな。」彼の目は涙を通して光り、顔はのびて、意地悪いゆがんだにたにた笑いがうかんだ。「あんたは、だれよりも賢い血を持っていると思いこんでいるみたいにふるまっている」と彼は言った。「でも、違う! 賢い血を持ってるのはおれだ。あんたじゃねえ。おれだ。」

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