20231220

映画『王国(あるいはその家について)』をみた

『王国(あるいはその家について)』というタイトルのことを考えると、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』というタイトルが思い起こされる。
どちらもやや変わった映画だという特徴があるが、とりたてて共通点があるというわけでもない。もちろん、どちらも劇映画ではあるし、俳優が画面に登場するというレベルで共通点がないわけでもない。ただ、タイトルが似ているとちょっと思っただけだ。
バードマンはワンカット撮影という変わった手法で撮影されている。自然、観客は主人公の主観に付きっきりで付き合わされる。ある人物の主観というのは、主観を持つ人にとっては自明のことであるが、その人物の内側にある。その人物の目からその人物の主観が始まっている。これは自分自身の主観を持っている人からすればわかりやすく、常識的に理解されやすい約束事だ。ただし、主観といいながら自分一人だけでそれを構築せずに、他人を巻き込んで主観を構成する場合というのも考えられる。主観というのが内と外の内にあるとするとき、その内を自分一人だけではなく、たとえば仲の良い他人と共有することもできるという感覚を持つことはめずらしいことではない。先の「主観」観とは異なるものの見方ではあるが、それでもこちらの主観についても、ある人にとっては十分常識的に理解されやすい約束事だといえる。
主観を共有するとき、自分以外の他人のことが理解できてしまうということが起こる。なんとなくで理解できてしまうということ自体、じつはかなり特異なことではあるが、そういったケースは数多い。
『異邦人』という小説がある。なぜ殺人を犯したのかを人に説明することができない主人公の話だ。『王国』の主人公の立場もそれに似ている。両者が異なるのは、『王国』のほうは自分ひとりで誰にも説明できないというのではないというところだ。彼女は相手にむけた手紙の中で言う。
「わたしの話を理解できてしまうと思います。そのことで自分を責めないでください」
『王国』は理解できないはずのことがなぜか理解できてしまうということについての映画だ。その点で『異邦人』とは真逆の話だともいえる。理解のために必要なのは、話し手の工夫や微に入り細を穿つ表現などではない。受け手にとっての時間だ。話し手と向き合う十分長い時間さえあれば、何を言っているのかについて理解できないのにもかかわらず、何を言っているのかが理解できてしまう。『王国』において声が何度も反復されるのは、その時間をゆっくり受け取るためにもっとも効果的なやり方だからだ。たとえば、差異のための反復というのは映画の時間を退屈しないで過ごすための方便にすぎない。映画を面白く見るためにそういった方便は欠かせないし、面白い映画にとってはその方便こそが本質だったりもする。俳優の身体性、演技の一回性といった表現目線からも面白い映画ではある。演技の上手い下手ということに感心がある人にとっては、何度も同じ場面が演じられるのを見て示唆に富むと感じられもするだろう。しかし、声の反復はそういった周縁の事情のためにあるのではない。受け手が理解するのに必要十分な時間を持つためにある。

王国が成るために、実在しない三歳児の犠牲が本当に必要だったのかということはもっと考えられてもいいことだ。誰かがべつの誰かを理解することは、できないとは言わないまでも困難だということ。それは常識的に理解されづらい事柄なのだろうか。王国には王様がいるというのと同じ水準で、溺死する三歳児は王国にいるべきなのか。当然いるべきだからいるのだろう。そういった仕掛けがなければ、会話をただ見るだけでは緊張感を持続できない観客への罰という側面もあるようだ。そして、王国が外部に向けてそれが王国だと証そうとした瞬間、たちまち王国ではなくなるとすれば、主人公の手紙はやはり相手に理解されないだろう。誰にも理解されないということはないにせよ、相手には理解されないはずだ。だから結局、『王国』は『異邦人』とは真逆の話のようでいて同じ話の別バージョンということになる。それは支払うべき代償だといえようが、そこに注意引かれるあまり、場所において主観を共有するということの可能性に対して、しっかりその輪郭をなぞれないとすれば、それは本末転倒だという気がすこしする。

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